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ugmm_
2026-02-23 00:54:40
12710文字
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カルタゴ
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あこがれの天地
『手折れずの一輪』のちょっと後。ハミハスに遭遇し撥ね飛ばされる善良なバルカ党少年がこの他にもいるんだろうなあ。ボスタルは史料に登場するわけでもないオリキャラです。
ボスタルは純粋な少年であった。
カルタゴ市民として生まれ、物心つくかどうかの頃から続くローマとの戦争の趨勢に一喜一憂し、自ら武装し剣を持つことが叶えば、カルタゴの海で我が物顔をするあの田舎くさい連中を打ち倒してやるのだと息巻いていた。そしてそのとき、自分が指揮を仰ぐのは当然、ハミルカル・バルカその人であると信じてもいた。
彼が生まれたのは貴族の家ではなかったが、何代も前から軍港のそばに武具の製作を行う工房を構え、跳ねっ返りの三男坊にまでそれなりの教育を施す余裕を持っていた。祖父が取引の範疇を超えてバルカの先代と懇意になったことが、結果としてボスタルに軍人となる夢を抱かせたのだった。
将軍は、軍事に秀でたいくつかの家門から選ばれるのが常である。バルカもまた例に漏れず古くから多くの将軍を輩出する貴族であったが、いつからか低い階級の市民たちの声を拾い上げる道を選んだ。祖父や父がただ商いのためでなくバルカに心を寄せるのは、彼らが自分たちを守ってくれる存在だと信じたからだ。
ボスタルはただ都市に籠って守られているつもりはなかった。家業は兄たちに任せ、机に向かうよりも剣や槍、手綱を握って走り回り、バルカ家がその私兵のために設けている訓練場で軍人の父を持つ同輩たちに混ざって体を鍛え続けた。バルカから将軍が選ばれればその下で将校を務める家々の若者たちは、最初こそボスタルの場違いさを笑ったが、成人する頃にはそこにいるのが当たり前だと思われるようになった。
成人を祝う宴にハミルカルが顔を出してくれたことは、ボスタルにとって自慢の種となっている。兄たちの時だって来てくれたし、同輩にも同じ自慢をする者はあったがそんなことは構わなかった。
ハミルカルは、それこそ彼自身が成人する以前から将来を嘱望される存在であった。当時存命であったが既に戦場を離れたその父親でなく彼を仰ぐのは、若者にとっては当然のことだった。幾度も戦場に出て経験を積み、そこで多くの逸話を作って、日増しに期待は高まっていた。ボスタルのように夢をはちきれんばかりに膨らませた支持者たちの眼差しを、まるでそこに重圧など感じないかのように受け止める姿は、将軍として大権を負うに相応しいと思われた。
「絶対に従軍するのだと言って親を困らせているらしいな」
祝いの品を手渡され、ボスタルは絶対にそうするのだと言い切った。貴族の子弟のように部隊を動かす将校として働くことはできずとも、市民兵のひとりとして戦うつもりだと。
彼の家系の他には見たことのない、紫色の瞳がボスタルを見ていた。血気盛んな若者を微笑ましく思うのでも、自惚れの強い若造を面白がるのでもなく、その正体を見定めるようなどこか怖いものを感じさせる眼差しが、祝いの席に浮ついていたボスタルの酔いを醒ました。その、何かが剥ぎ取られるような感覚を覚えている。
「期待しておこう」
笑みを浮かべてのたった一言、それだけだったが、ボスタルにとっては道が拓けた瞬間だった。
両親は、もはや彼らの三男が語ることをいっときの熱病とは思わず、ボスタルに好きな道を進むことを許した。カルタゴ市民に従軍の義務はなかったが、一家から兵士を出すことでどこか胸の支えが取れたのだろう。
ただ、それでも退役後のことや将来の結婚について案じて、家業について何も知らないでいることは許さないというのが両親の出した条件だった。それまで工房の運営は両親と兄たちの領分であったが、ボスタルも仕事をするようになり、カルタゴを出ることさえあった。それでも時間の許す限り訓練場に通い、日々は目紛しく過ぎていった。
そうしてボスタルが十八歳になった年、既に家督を継いでいたハミルカルが元老院に議席を得た。彼が将軍に選ばれて自分たちを率いる日も近い──訓練の合間に若者たちはそう語り合った。
そんな時期に、父がボスタルを商談に伴ったのに大きな意味はなかった。息子がさほど冴えない頭で今後のことを色々と考えているのを知っていて、気を利かせたのかもしれない。初夏とはいえ既に厳しい陽射しを浴びながらいくつかの取引先を周ったあと、注文されていた武具の納入について簡単な報告を行うべく彼らはバルカ邸を訪れた。
「旦那様は庭に出ておいでです」
出迎えた奴隷はそう言って親子を屋敷の奥へ導いた。より富んだ貴族たちに比べれば控えめとはいえ、高台の屋敷は広く、家人以外にも多くの者たちが出入りしている。ここで訓練場で顔見知りになった何人かと挨拶を交わしていると、ボスタルは自分もバルカ党の一員なのだという気がして嬉しかった。
先を歩いていた父がおやと声を出し、足踏みするようにヌミディア石の床の上で立ち止まった。
奴隷の言う通り、何人かが庭に出て、どうやら軽い打ち合いなどを行っている。しかし遊び半分、息抜きのためのそれと分かる打ち解けた空気が漂っていた。
そこにハミルカルの顔を見つけるより先に、それが目に入った。何よりも目を惹く存在はこの館の主人であるべきなのに、それはこちらを向いてさえいなかったのに、誰だと思うより先にその横顔をじっと見つめていた。
大人たちに囲まれるようにして、少年が剣を構えていた。貴族だと一目で分かる容貌をして、しかしそれ以上に本当に生きた人間かとボスタルは疑った。あまりにもよくできた彫像か何かが、ハミルカルのそばに立っているのではないかと。
「ハスドゥルバル様もお越しだったか
……
」
呟く父の声はどこかおずおずとしたもので、ボスタルは父親の気弱さに恥ずかしさを覚えた。そしてその名前、ハスドゥルバルと呼ばれた少年のことを思い出した。ハスドゥルバルという名の男はカルタゴに溢れ返っているが、美しいハスドゥルバルといえば今はたったひとり、さる名門の末子である、そう盛んに噂するのは男も女も同じだ。
奴隷が来客を告げると、庭に出ていた者たちがこちらを振り返る。
ハミルカルはハスドゥルバルの腕を支えてやって、その姿勢を正していたようだった。まさか後ろから抱き寄せていたわけはない。ボスタルよりもずっと頼りない体躯がハミルカルの腕の中にすっぽりと収まってしまうからそう見えただけだ。
自分も剣を手にしていたヒミルコが遊びすぎましたねと笑って、ハミルカルはハスドゥルバルから離れた。その間際に彼らは一言二言、何か言葉を交わしたが、囁き声はここまでは届かない。
父とハミルカルが屋敷の中に入るのを、ボスタルは追いかけなかった。いつもなら蚊帳の外に置かれるのが分かっていても同席するのに、自分を見ている双眸にまるで気圧されているかのように動けなかったのだ。
その目が笑った。ハスドゥルバルがヒミルコに剣を預けてこちらへ近づいてくる。微笑まれてぎくりとしたのを悟られなかったかとそればかりが気に掛かった。
ハスドゥルバルはボスタルの前に立ち、まるで相手が貴族ではないと知らないかのように折り目正しく挨拶を寄越した。
「ボスタル殿でしょう? 同い年だと伺っています」
そう、同い年のはずだ。成長するごとにその美貌が失われるどころか磨き上げられていくと噂されるハスドゥルバルは、ボスタルと同じ十八歳だった。しかしその貌をこんなにも近くで見たのはこれが初めてだ、それほどに身分がかけ離れている。
決して内気な方でも、初対面の相手にまごつく性格でもないのに、ボスタルは曖昧に返事をして視線を彷徨わせた。長衣の裾を結んで膝から下が露わになっているのが目に入り、思わず目を逸らしてからその必要はないと気付いた。
「従軍するのだと何年も前から決めておられるそうですね」
「
……
そうだ、いや、そうです」
「どうかそんなふうに畏まらないでください、私たちはいわば同輩ではありませんか」
だがお前は貴族ではないか、そんな考えが顔に出ていたのだろう。訳もなく意味ありげに見える、灰色の瞳がボスタルを覗き込んだ。
女のように艶やかな波打つ黒髪を揺らして、奴隷に日傘を差し掛けられているのが似合う白い頬に汗が一筋流れていた。ハスドゥルバルの背後で、ヒミルコたちが首を振っているのが見える。哀れむような仕草だった。
「近いうちに、同じ陣営で過ごすことになるでしょう。ですからどうぞお見知りおきください」
──気がつくと、ボスタルは父と共に帰路についていた。街路を左右に蛇行するボスタルを従者がどうにか他の通行人とぶつからないようにしてくれていたが、はっとした途端にボスタルは父の肩に自分の肩をぶつけた。
よろめいた父が何なのだと言いたげに見上げてくるのに、ボスタルはわなわなと腕が震えてくるのを隠さなかった。
「父さん、あれ
……
あれは何」
「あれ?」
「バルカ様のお屋敷にいたあいつ!」
「ハスドゥルバル様のことか? あれとかあいつとか言うんじゃないよ」
呆れた物言いに震えは酷くなる一方だった。
噂は聞いていた。あの顔のことではない、ハスドゥルバルがハミルカルに懐いているという噂だ。だがそれは、世間知らずの貴族が暇つぶしにする気まぐれな遊びのようなもので、ハミルカルはさして相手にしていないと
……
聞いたのはいつだったか。ボスタルは、この数ヶ月をリビュアの鉱山で兄の行う取引に付き添って過ごしていた。
その間に何があったのだ。
あの場にいたのは、ハミルカルの側近と言っていい人々だった。それが揃ってハスドゥルバルの存在を受け入れていた。ヒミルコは、彼だって下級とはいえ貴族なのに、侍従にするように剣を預けられ受け取っていた。ハミルカルまでもが──頭を振ってその考えを追い払い、ボスタルはどうにか納得できる理屈を見つけようとした。
「あいつの親がハミルカル様を支持してくれそうだから無碍にできないとか、そういうこと?」
「いや、全然違うらしいな。ハスドゥルバル様があそこに通えば通うほど険悪になる一方だそうだ」
「じゃああいつがハミルカル様に付き纏ってるのかよ? 親を盾にして?」
「ボスタル。妹に良い縁談が来てほしいなら滅多なことを言うんじゃない」
なぜ妹の話になると訝しむ息子に、父は胃の辺りを摩った。
「あのな、ハスドゥルバル様のお祖父様は儀典長を務めておいでだったんだぞ。お父上も上の兄君も元老院議員で、そのうえハスドゥルバル様は王と親しいんだ。もしお前のせいでうちに悪い評判がついてみろ、縁談どころじゃない。工房が潰れるかもしれん」
貴族の不興を買うとはそういうことだ。父の言う通り、ハスドゥルバルの生家はバルカよりもなお格上の家柄だった。だが、スフェスや高位の神官がその系図に名を連ね、将軍を出したことはない。一族の誰も従軍などしてないだろう。
傷ひとつない手足をしていた。手足が日に焼けず、指先まで歪みなく真っ直ぐに伸びてるのは、自らの荷物を運ぶことさえなく育った証左だった。どこを取っても、場違いだ。
「あんななよっちい奴が遊び半分に
……
」
「そう言うな、あの方だって本気のようだぞ。お前と同じじゃないか」
ぴしりと、何かに罅が入る音を聞いた。
同じ? ボスタルには祖父の代からのバルカとの繋がりがあり、自らも努力してきたという自負がある。あのハスドゥルバルの家門は百人会の老人たちと同じ臭いを纏っていた。余裕があるなどという言葉では表せない富を蓄え、バルカを執拗に攻撃する者たちとも距離を置いてはいるものの、父の話をそのまま受け入れるならハスドゥルバルの行いはハミルカルに利するどころかその逆ではないか。
ボスタルは自分の手のひらを見下ろした。剣を振るううち皮膚が破けては治りを繰り返し硬くなって、胼胝の消えない手は彼という少年を表すすべてだった。ハミルカルが期待すると言ってくれたのはこの手が出来上がるまでを知っていたからだ。
それを、あの顔だけで。
何かが入り込んできた。あるいは、取られた。激しい焦燥感と苛立ちをどうにか納めた言葉は、そんな稚拙なものだった。
「ハスドゥルバルだろ、ここにも顔を出すよ」
数ヶ月ぶりに顔を出すことのできた訓練場で、久しぶりだとボスタルを迎えてくれた者たちはそう言った。
年頃は様々だが未だ戦場を知らない青年や少年たちは、ボスタルの浮かべた表情を前に目を見合わせる。いずれも軍に属したのちはボスタルより上位に立って命令を下す立場だったが、ここでは対等な仲間のように過ごしていた。
運動場を囲む回廊、その隅の木製のベンチが置かれた狭い空間が若者たちがより集まる休憩場所だった。いまは基礎的な運動を終えて、大人たちが運動場を使い終えるのをベンチに座り待っている。昼前までの涼しい時間は彼らに譲り、眩暈のするような暑い時間にようやく場所が空くのだった。
年長の青年は、一応はというように訓練場を見回した。ハスドゥルバル当人や、ハミルカル、あるいはその側近たちがいないのを確認しなおも声を潜めた。
「ハミルカル様が元老院に入られた頃からかな。それまでは俺たちが姿を見るような場所にはいなかったのに、ここにも来るし、広場でもいろんな奴と話してる」
「ここに何しにきてるんだ。まさか訓練?」
「そうだよ。しかも真面目にやるんだぜ、親父たちは怪我しないか冷や汗かいてるけどな」
それは、邪魔ではないのか。そうはっきり尋ねていいものか迷い、ボスタルはその場の面々を順繰りに窺った。嫌そうな顔をしている者、戸惑うような顔つきの者、あるいはにやにやと笑っている者。
いいじゃないか、と身を乗り出したのは笑っていた青年だった。
「目の保養だよ。ここじゃ恋人に応援してもらうこともできないんだからな」
何人かが同調するように笑ったが、どの部分への同調かはそれぞれだった。ここに女を、それも遊び女を連れ込むなど、試みるだけでどんな罰を受けるか。年長者からの容赦ない指導を受けながら、女性たちの黄色い声援を浴び汗を拭いてもらいたいと夢想するのだけは自由だった。
「不思議と女には見えないが、むさくるしい中で見るとぎょっとする」
「うちの兄貴があの坊ちゃん相手にモジモジしてんのが情けないったら
……
」
「ボスタル、いくら気安くされても変な気を起こすなよ」
「起こすわけないだろ
……
」
父の戒めを思い出してそう返事をしたものの、忠告の理由はまた別にあるらしかった。
目をきょろきょろさせながら、成人したばかりの少年があれは本当なのかと声をまた一段小さくする。
「こないだの奴は、あいつに何かあるとハミルカル様がお怒りになるから見せしめにされたんだって
……
」
「
……
見せしめ?」
そうだよと少年たちはこともなげにそれぞれ頷いた。
「だってあのバカは尻触ったんだろ」
「普通、貴族の体触るか? 訓練では遠慮なしって言うけどさ」
「ギスコ殿に鼻の骨折ってもらったのに感謝するべきだよな、それ以上はお咎めなしなんだから」
「なあ、見せしめって?」
「だから変な気起こすとハミルカル様が
……
あ、そうか。ボスタルはあの二人が一緒にいるところは見たことないのか」
「いや
……
こないだ見た」
「じゃあ分かるだろ?」
分からない。当惑する間に少年たちはボスタルから関心を移してしまった。彼がどんな顔をしているかなどもう誰も気にかけず、彼らにとってのいま最も面白い話にのめり込んでいく。
「でもさ、そっちの趣味がおありだったか?」
「聞いたことないな。女遊びさえなさらない方でも、あの顔には負けてしまわれたんだろ」
「顔だけか? やっぱ男娼なんかとは具合も違うんだろうなあ」
「あいつにいくら贈り物をしても見向きもされない貴族連中が嫉妬で狂いそうだって
……
」
話はどんどん下衆な方向へ転がっていく。ここには傭兵なども出入りするのだ。彼らが交わす会話はこれの比ではないはずだった。ボスタルはどこか知らない場所に迷い込んだような感覚に陥っていた。
ここでもハスドゥルバルは、それがどんなものであれ居場所を作ってしまっている。そのうえ、このように語られるべきではない人物まで共に俎上に上げられて、調子の良さだけが取り柄の少年たちは悪意もなく主君の名を汚していた。
彼らはどこか、嬉しげでもある。ハミルカルは後継者の男児を持たない他は何ら瑕のない、少年たちにとっては声をかけるのさえ躊躇われる存在だった。そのハミルカルが美貌の少年に絆されて、こうして自分たちのくだらない与太話に登場することが、まるで身近なところにいるように感じられて嬉しい。だからこうも口が軽くなるのだ。
「このあいだ
……
」
小さな呟きだったが、彼らの声の途切れた一瞬に割り込んで、その場の者たちはボスタルを見た。
「あいつ、従軍する気だって言ってたけど」
数秒の沈黙、数回の瞬き、中身のない目配せ。そのすぐ後に、どっと笑い声が上がった。
「──まさか!」
「絶対にない」
「揶揄われたんだろ」
彼らの笑いがおさまったときちょうど運動場が空いて、少年たちは不敬を働いたなどとは微塵も感じさせない真面目な顔で立ち上がった。ボスタルは数歩遅れて、彼らを追った。
訓練場では、その門のあたりで主人たちを待つ従者や奴隷が何人か控えているのが常だった。ボスタルも自分の従者を一旦家に帰すこともあれば待たせることもあり、主人の不在の間に彼らが顔馴染みになっているのも知っている。
だから、所在なく壁に寄り添うように立つ者たちは目についた。三人の男は、ふたりは傭兵であろう屈強な体つきをしており、ガリア人らしい風貌をしていた。ひとりはひょろりとして小柄だったが身なりが良かった。おそらく三人ともが自由人だろう。
ボスタルなどの従者と違い、貴族たちの従者は門に付設する建物の中で待機する。三人は居心地が悪そうで、本来ならこんな扱いは受けない存在に見えた。それが誰に連れてこられて放っておかれているのかは、中に入るとすぐに分かった。
ハミルカルが来ている、と挨拶もそこそこに友人に耳打ちされて、ボスタルはこっそり指し示された方を見た。建物から回廊に出てすぐの場所に部下たちの様子を眺める姿があったが、誰もそのそばにおらずひとりで立っている。
「今日は虫の居所が悪いらしいよ」
彼は以前よりずっとここに来る頻度が減った。家督を継いだ上に元老院に席を得て、更には将軍職を得るべく多忙なのだと言う。元老院の決定のもとで実務をこなす委員会で、何やら納得のいかないことがあったらしい。
こういう時はそっとしておくのが一番、というのが大人たちの定石となっている。ヒミルコあたりがいれば別だがどうやら今日はいないようだし──そこまで考えたボスタルの視界の端でハミルカルを振り返った者があった。
投げ槍の訓練を行う一団から抜け出して回廊に入り、軽い足取りでハミルカルの方へ近付いていく。すれ違う者たちの視線が張り付いても気にかけず、ボスタルらの前を通り過ぎ、人を寄り付かせない見えない柵をあっさりと越えた。
「ハミルカルさま、ご覧になって」
ハスドゥルバルはそう言って、両の手のひらをハミルカルの眼前に掲げた。煩わしげに目を向けたハミルカルが、視線を相手の顔から手へと動かす。
「
……
子供のような手だな」
「もう、ちゃんと見てください。ほらここ、胼胝ができてるんです」
「そのせいで乳母が泣いたという話か?」
「どうしてご存知なの?」
きょとんとして目を丸くしたハスドゥルバルに、ハミルカルが息をつくように笑った。
差し出された手を取って、ハスドゥルバルの言う胼胝を指先でなぞる。ここに出入りする前には幼子のような柔らかく薄い皮膚が覆っていた手のひらに、武器を握る者に特有の癖がつき始めているのを確かめるように。
彼らは周囲の注目に気がついていたが、貴族らしく、自分たち以外など存在しないかのように振る舞っていた。ハスドゥルバルが背伸びをしてハミルカルに何か耳打ちし、あっさりとそのそばを離れると、入れ替わりに話しかける機会を窺っていたのだろう者がハミルカルに近づく。柵はもはや取り払われていた。
また前を通り過ぎかけたハスドゥルバルが、不意に足を止めこちらを見た。
「ボスタル殿」
にこりと笑った相手を、ボスタルは意地を張ってまっすぐに見据えた。陽射しの下にいたせいかハスドゥルバルは頬や額を赤くしていたが、浮かべる表情は涼しげだった。
「今日は
……
剣の訓練ですか?」
ボスタルの手にある木剣を見下ろし、首を傾げる。
「そうです」
「ボスタル殿は訓練を始めて長いんですよね」
「ここに来るようになったのは
……
六年くらい前からで
……
」
「じゃあご友人同士で試合なんかもなさるんでしょう?」
もちろんそうだ。ハスドゥルバルは目線を上げないまま「いいな」と小さく呟いた。
「ヒミルコ殿がおられない日は誰も相手をしてくださらないんです」
せっかく来ているのにひとりで剣を振るだけなんて、そんなことを言って拗ねたような顔をする。ヒミルコくらいの手練れでなければ、ハスドゥルバルに怪我をさせるのが怖くてまともに相手など出来ないのだろう。
あの庭で見た光景が思い浮かんで、ボスタルは深く考えるより先に口を開いていた。
「じゃあ俺とやりますか」
隣で小さくなっていた友人がぎょっとこちらを見るが、ハスドゥルバルが返事をするまでのほんの僅かな、言葉を撤回する猶予ごとボスタルはそれを無視した。
「本当に?」
ハスドゥルバルがそう尋ね返したのも、明らかにやはりやめると言ってもよいという意図だった。しかしそう言わないと分かると、その瞳が明るく輝く。
「ちょうどあそこが空いたようですから、行きましょう。それをお借りしても?」
急に話しかけられて大袈裟に飛び上がった友人が、自分の木剣を指されていると気付いて助けを求めるように周囲を見回した。しかし誰もが見て見ぬふりを決め込んでおり、彼を救う声はかからなかった。
「
……
ど、どうぞ」
笑みを返すだけで礼もなくそれを受け取り、ハスドゥルバルは運動場へ下りて行った。彼が空いたと言ったせいで誰も割り込めなかった空間からボスタルを振り返る。汚れるのが前提の短衣でさえ見るからに仕立てがよく、何もかもが彼をその場に際立たせていた。
それに向かい合ったボスタルは、どうにか表情を取り繕おうと頬に力を込める。苛立たしい気分であることも、胸がむかむかしてしょうがないことも隠そうとした。
「では、胸を借りる気持ちで」
ハスドゥルバルそう微笑んで、木剣を構えた。その重さに腕が震えるなどということはなく、しっかりと姿勢を保っている。
互いの隙を探るなどというやり取りは起こらなかった。ボスタルはすぐに踏み込み、剣を振り下す。受けられる前提の一振り、木のぶつかる高い音は軽く響いた。
ここではボスタルより年少の者の相手をすることだってある。もちろん手加減をして、相手に体の動きを覚えさせるために様々な手を試させる、そういう打ち合いのやり方を知っていた。これは訓練だ、殺し合いではない。競争でさえない。
ハスドゥルバルは見た目の通りに膂力がなかった。打ち込まれても片腕の力だけでいなせてしまう。
しかし、眼が。
明らかにこちらの動きを読んでいる。切先が次にどこに向かうのか分かっているように眼は動くが、彼の体はそれについていかない。こちらが踏み込めば辛うじて避け、息つく間のない追撃は避けられずにまともに受けて、しかしハスドゥルバルはすぐに正しい立ち位置を捉えた。
やりづらいと思い、困惑がボスタルの額に汗を滲ませた。
「意外と」と上がり始めた息の合間にハスドゥルバルが言う。「考え事が多いんだね」
そうして可笑げに目を細めた、それがなぜかボスタルの頭に血を上らせたのだ。
鈍い音を立てて木剣が互いを削った。手から腕へ伝わった重さに驚いた顔をしてハスドゥルバルがよろめく。
こいつの調子に合わせていると埒が明かない。剣を落とさせて、それで終わらせるつもりだった。だが手元近くを狙い木剣を振り上げると同時、思いがけない嫌な感触があった。剣がその手を抜けると同時に、ハスドゥルバルの足元が崩れる。
あっ、と誰かが声を出した。気がつくと彼らの周りでは皆が手を止めてこちらを見ていた。強かに転ぶ音、木剣が地面に落ちる音がやけに大きく耳に届く。
尻餅をついたハスドゥルバルの、切先が掠めた腕に赤く一筋、血が滲んでいた。それを見るなりボスタルは妹の顔を思い出した。
しかし目の前の平民が青褪めて許しを乞い始めるより先に、ハスドゥルバルは髪を乱して肩で息をしながら、笑顔を浮かべてボスタルを見た。
「すごい、まだ手が痺れてる」
「あの
……
」
「六年続けたら、私もあれくらい重く剣を振れる?」
どうだろう、ちょっと難しいかもしれない、そんな正直なことは言えずにボスタルは口籠った。立ち尽くした彼のかわりに、数人が寄ってきてハスドゥルバルを助け起こす。立ち上がる拍子に腕を血が伝い落ちて、ハスドゥルバルは痛がるでもなく不思議そうに自分の血を見ていた。
ボスタルや他の者たちは、恐る恐る、ハミルカルの方へ顔を向けた。
ハミルカルはこちらを見ていたが、慌てる様子も気色ばむ様子もなかった。
「手当てをして来い」
それだけ言って、視線を元あった方へ戻す。それでその場の緊張は途切れ、誰かがボスタルの肩を叩いた。よかったなという慰めだった。
ひとりで大丈夫だと言って集まった者たちを訓練に戻るよう促し、建物へ向かおうとしたハスドゥルバルが、不自然に立ち止まる。吹っ飛んだ木剣を拾ったボスタルははっと振り向き、彼の右の足首が赤く腫れ始めているのに気付いた。
ハスドゥルバルは痛みを堪えて眉を寄せていた。その整わない生々しい表情は、ボスタルと目が合うといまのは見間違いだったかと思うほど跡形もなく消えた。微笑んだ時には顔色まで落ち着いて、ハスドゥルバルは足を引き摺ることもなく回廊へ入った。建物の中に消えた姿を何人かが目で追っていたが、誰も足首を捻ったのには気付かなかったようだった。
皆が気にしていないという顔をしていたので、ボスタルも同じように振る舞った。何か込み上げてきそうな嫌な動悸はいつまでも続いていたがそれだけに常以上に没頭し、ふと気付くと、ハミルカルの姿が見当たらなくなっていた。
台に乗せた包帯の巻かれた足首を眺めながら、これは予定外だなとハスドゥルバルは思った。
腕の傷は浅くすでに血が止まり、見た目にもさほど痛々しくない。しかしこちらは、手当をした奴隷が痛むうちは歩かない方がいいなどと言うし、家族に隠しようがなかった。
椅子に座ったまま動かしてみると痛みが走って眉を寄せた。これまでに感じたことのない種類の痛みだ。そもそもハスドゥルバルは指先に棘が刺さっただけで不憫がって泣く乳母に育てられ、どんな痛みにも馴染みがないのだけれど。応急処置の設備の揃った部屋にはハスドゥルバルひとり、奴隷も下がっていたから、思う存分に痛がることができる。
外からは掛け声や笑い声、時々怒声が聞こえた。武芸の鍛錬に明け暮れると声まで太くなるらしい。ハスドゥルバルはここに紛れ込むようになって最初に、誰も彼も声が大きいのに驚いたものだ。
どう動くと痛むのか確かめるうち、なんだか痛みに慣れてきた。慣れてしまえば先ほどのように誤魔化して歩けるのではないかと足を揺らしていると、背後から呆れた声がかかる。
「動かすなと言われなかったか?」
首を反らせてハスドゥルバルは笑みを浮かべた。部屋に入ってきたハミルカルは他に誰もいないのかと訝しんだが、ハスドゥルバルが追い出したのだと言うとまた呆れた。
ぷらぷらと揺れ続ける爪先をハミルカルの手が押さえた。その屈んだ姿勢のまま顔を覗き込まれて、手を伸ばしてみると避けられる。もう足を動かそうとしないのを確かめたハミルカルが座面と足だけの粗末な椅子に腰を下ろした。
右腕を取られ、ちょうど良い塩梅でついた傷のそばをハミルカルの指が触れた。ちょうど良いと思っているのに気付いているのかもしれない。
「お前、ボスタルを挑発しただろう」
「ハミルカルさまが罪作りなせいです」
「何の話だ
……
」
「みんなあなたのことが好きすぎて私を仲間に入れてくれないんですもの」
若ければ若いほどに、いつまで経っても話しかけてさえこない。地位の高い順番に話しかける暗黙の了解があるのかと疑うほどだ。好奇心を隠せず、軽々しく噂話をして、そのくせ怖がって遠巻きにこちらを睨んでいる。
ハスドゥルバルにとっては雑草のような若者たちだがハミルカルのいわば身内、いまもハミルカルはハスドゥルバルよりもボスタルの心配をしていた。当然だろう、貴族でさえない少年はハスドゥルバルが父に告げ口をしたら戦場に出ることのできない体になるだろうから。
ボスタルは、体を動かすしか能がなく頭を使うということをなぜか軽蔑している若者たちのなかでは、やり手の商人である両親の教育のおかげで他の道も知っている少年だ。先々を思えば少しハスドゥルバルへの見方を変えてほしかった、その取っ掛かりくらいにはなっただろう。
「私にちょっと怪我をさせたくらいで一家が離散するようなことはないと分かってもらえればよかった。でもこれはちょっと
……
痛そうですよね?」
時間が経つごとに痛々しさを増すというのも困ってしまう。従者に支えられたり抱えられたりなど御免だから、輿に乗って帰るしかないだろうか。もう帰らなくてはいけないというのも残念だった、ハミルカルがここにいるのは珍しいのに。
聞くべきことを聞いて、ハミルカルは訓練場へ戻るだろうと思った。けれど彼は未練がましく椅子に座り込んでいるハスドゥルバルの足首に、包帯の上から手のひらを乗せた。伝わってくる体温に強張りが解けるようで、また手を伸ばしたくなる。
「そう見えるだけでなく本当に痛むんだろう」
「
……
口付けてくださったら、痛くなくなるかも
……
」
本気で言っているのにハミルカルは冗談を聞いたように笑った。むっとしてそっぽを向いたハスドゥルバルの顎にその指が触れ、簡単に彼の方へ顔を向けさせてしまう。
日当たりのいい暑い部屋にいてなお、触れる肌は熱く感じた。うなじから後ろ頭を撫でた手よりも、あるいは唇よりも、濡れた舌はその体温を直に伝える。
戸口の方から注がれる視線を感じたのにハスドゥルバルは彼から離れなかった。昂らせる一方で和ませる、曖昧な心地よさが本当に痛みなど忘れさせるようだったから。とうに息継ぎの仕方を覚えて、いつまででもこうしていられる気がする。
背中に汗が伝うのを感じたころ、頭を支える手の力が緩んで、ハスドゥルバルは目を開いた。名残惜しさを訴えるように擦り寄るハスドゥルバルの背を撫でた手はなんだかいつもより優しい。
足音が遠ざかっていくのを聞きながら、無駄になってしまったかもと思った。けれど結局、こうしているよりも大切なこととはどうしても思えなかったのだ。
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