志庵
2026-02-17 17:09:19
8207文字
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月へ堕ちた男【悠紗】

なんでも許せる方向け


月へ堕ちた男

 その男は月からきたのだと名乗った。
 初めましての挨拶、次いで名乗りときて、三言目で出身が、月。普通に正気を疑った。突拍子もない自己紹介に、何を言ってるんだ、という言葉をすんでのところで飲み込む。代わりに胡乱さを隠しもしない目線で頭から爪先まで眺めてやったが、男は静かに瞬いただけだった。世間一般でいう人相が悪い部類の自覚はあり、実際に少し見つめただけでも人を怯えさせることがままあっただけに、些か拍子抜けする反応だ。男を引き合わせた同僚が見兼ねたように苦笑しながら割って入ってくる。
「あー、ちょーっとばかし変なやつだが、まあ能力は確かだから。お前も、何かわかんないことがあったらこいつに聞いて」
「わかりました」
 同僚の雑な執り成しに男はこくんと素直に頷く。月から来たというのは不思議ちゃんだの電波系だのという言葉では表しきれないぶっ飛び具合だと思うが、まあ、そのようなことはこの研究所では些細なことなのだろう。結果を出しさえすれば良い、そしてこの男は多分、その結果を出し続けている。
 次のプロジェクトのための追加要員だといって今日からこの男は自分の率いるチームに入る。終始この調子だと御しにくそうではあるが、贅沢を言っていられるほど人材も資材も足りてはいなかった。はあ、と短くため息のなりぞこないを吐いて、用意しておいたIDカードを渡す。
 どうせ、そう長い付き合いにはならないだろう。
「よろしく」
 そう言って形ばかり差し出した手に男は軽く目を丸くして、それから手を握り返すと、ほんの少し明るくなった声で「よろしくお願いします」と微笑んだ。

 
 *

 
 紹介の際に聞いた通り、男は確かに優秀だった。データを求めれば正確なものを届けてくるし、たまにこちらが言う前から何が必要かを汲んで差し出してくれることもある。律儀な性格をしているのか渡してくるものにはいつも誤りがなく、男が補佐に就いたことで仕事はいくらかやりやすくなった。
 一方のプライベートはというと、これも案外上手くやれていた。
 男はたしかに変なところが多くあったが、基本的に人懐こくて物腰も柔らかな、人当たりの良い人間だった。突拍子のなさに振り回されることもあれど、決して人が嫌がることや押し付けがましいことはしない。こちらの指示を聞く時など、ピンと立った耳と左右に勢いよく振る尻尾を幻視する時もあった。その姿は、故郷に置いてきた弟を思い起こさせて――端的に言うなら、あまり認めたくはないが、男といる時間は最初思っていたよりも居心地が悪くなかったのだ。群れることも他人に心を過度に許すことも好きではない身からすると、珍しく。
 不思議な男だった。図体も態度も程々に大きくて存在感があるのに、ふっと意識すればそこにいる。まるで魔法のように――なんて、少し馬鹿げたことを考えてしまうくらい――前触れもなく現れるかと思いきや、そっとそばに居座っている。物理的にも精神的にも男がじんわり近づいてきていることには気がついていて、けれどもどうしようもなかった。いっそずかずかと詰め寄られた方が跳ね退けやすかったくらいだ。
 そんなわけだから、気がつくと最後までラボに居残って、一緒に業務を終えるのが日々のルーチンとなっていた。
「知ってますか。月はいくつもあるんですよ」
「はあ?」
 その日も残るのは二人きりになって、いい加減自室に戻ろうと連れ立ち研究室を出た、そんな折だ。かけた研究室のロックをプロジェクトリーダーとしてチェックしていると、背後で穏やかな声が、徐ろにそんなことを呟いた。確認を終えて振り向けば、その目はガラス越しの月を見上げている。
 研究所の、中央管制室を囲うように半円の形に研究室が立ち並ぶ区画の廊下は外周に添うようにして作られた回廊のようになっていて、外と内を区切る壁にあたる部分は一面大きなガラス張りになっていた。その透明な壁に触れるでもなく、ただすぐそばにたって、じっと魅入られるように月を見上げている。その青い炎のような熱を秘めた横顔にまたか、と小さく嘆息して、閉めたばかりの扉にもたれかかった。今日は一段と、あの月が近い。
 概ね有能で気の利くある意味理想的な部下ではあったが、かといって初手の奇天烈さもその場限りの冗談とはならなかった。ただ一点。月に関することとなると、男は常識の範疇から外れるのだ。
「この世界の月は青くて綺麗ですね。一つ前は月が真っ赤だったので、夜も落ち着かなかったんです」
「はあ……
 どう反応すればいいのかわからず、中途半端な相槌を打つ。与太話と馬鹿にするにはあまりにも真剣な顔をして話すものだから、妙な説得力があった。
 暴力的な言い方をするなら、気がれている。男は当たり前のように知らぬ月の話をして、そこから来たのだと憚りもなく口にした。それを聞く人間の反応は半々で、自分のようにまた言っていると聞き流す――あるいは面白がる――か、救いようのないものを見る目で遠巻きにするかだった。
 男のことのような伝説もあったな、と、熱心な後ろ姿をぼんやりと眺めながら腕を組む。月に理性を置き去りにした騎士の話。潮の満ち干きのメカニズムも知らないような時代から、人間はあの暗闇を照らす白白とした輝きに不思議な引力を感じていたのだろう。呑み込まれるような、引きずり込まれるような、そんなただ魅力的だというだけでない不穏で、恐ろしさを孕んだ吸引力。生活のほど近くにあり、頼みにして生きているのに、何一つその真実を知らないという裏寒さもあったのかもしれない。
 科学技術が進んだ今、あの月のことについてはもうほとんどすべて解明されたといってもいい。少なくとも、今の人類に必要なことはすべて。それでも、あの光だけは何も知られていなかった時代から変わらず遠い地の上を照らしている。
 誰かから引き剥がされでもしなければ永遠にだって月を眺めていそうだった背はけれども、存外呆気なくこちらを振り向いた。青白い月を背にして、その怜悧な双眸がふっと細まる。ほんのわずかに口角を上げるだけで、随分とその印象を変える男だった。
「おやすみなさい。月のもとに、貴方の眠りに安息がありますように」
 夜の暗闇に紛れるような穏やかな声でそんな言葉を残して、男は小さな会釈と共に歩き出した。もうほとんど電気の消えた暗い廊下の奥へ溶け入るように消えていく。その高い位置で揺れる黒髪を見送る。
 変な挨拶だと思った。
 扉に預けていた背中を離し、つい先程まで男がいた場所を一瞥する。暗い宙には空々しい月が輝いている。恐ろしいほど、うつくしく。
 一人きりになった廊下で、呟いた。
……綺麗なもんかよ」
 ――あの月のことを、知らないわけでもあるまいに。

 *

 わあわあと至る所で悲鳴が上がっている。まさに阿鼻叫喚の地獄絵図だった。パニックに陥った人々が至る所で走り回ってはぶつかり合い、互いを口汚く罵ったり、さめざめとその場で泣き崩れたりしている。
 もうすぐ世界が終わるのだという。
 その狂乱をどこか他人事のような気持ちで、冷めた目で眺めていた。
 実の所、世界なんてとっくの昔に滅んでいた。ここに居るのはその滅びを受け入れられなかった人類の、最後の惨めな悪あがきだ。増えすぎた人口と環境を一切顧みない開発の結果、ある時を境に惑星の住環境は加速度的に悪化していった。砂で築いた城が崩壊し始めたことに気がついた人類がようやく慌て始めた頃には時既に遅く、人智の範囲でできることなど何もなくなってしまっていた。
 それでもと、惑星の外、宇宙に夢を託して、限られた人類がそらへ旅立ったのが今からほんの三十年ほど前のこと。新しい惑星大地か、あるいはかつて計画が進められていた月面への移住か――どちらでもいい、人類が移り住むための別天地を求めて生まれた星を飛び立った船は決して大きくはなく、あくまでも既存の宇宙ステーションに羽が生えた程度の規模だった。もちろん自給自足をできる設備は愚か、技術すらない。惑星から定期的に打ち上げられる補給便だけが頼りの空の孤島――それがこの船、宇宙を漂う方舟だ。
 百数十人程度の学者と技術者を乗せて方舟が旅立った後も、地上の環境はみるみる悪化していった。一度起こった雪崩を止めることは誰にもできない。草木が枯れ、水が涸れ、空気は濁り、正体不明の疫病が蔓延って命は次第に蝕まれていった。人々は僅かな生存可能地帯に集まって暮らすようになり、限られたそこから漏れた人々は苦しみながら死ぬしかない、そんな救いのないアポカリプス。
 優秀な科学者たちが時折、補給便と一緒に舟へと新たに送られていたが、芳しい報告はひとつも上がらないまま時ばかりがすぎていく。十年ほど前に自分が空へ旅立った時には、もう、かつての人口に比べたらほんのひと握りの人々が身を寄せあって祈るように暮らしていた。あれ以来、新しい人員は来ていない。
 あの星の崩壊は、その後も止まらなかったのだろう。
 月に一度来ていた補給便が発射すらされなかったのが一週間前のこと。そしてとうとう、三日に一度受信していたはずの通信すら二度連続で確認されなかった――もう、誰も、地上で通信機を押す人間が居なくなったのだ。
 補給便がなければこの船の人間は生きられない。食料はもって精々一ヶ月。この先に待つのは緩やかで絶対的な死だ。
 方々で人が泣いている。叫んでいる。怒鳴っている。嗤っている。死にたくない、とあちらこちらから聞こえてくる。その惨い有様を見下ろしながら何を今更、と胸の中で独りごちた。こんな結果、最初から分かっていたことだろう。他の誰よりも、一縷の希望に縋って祈り続けていた地上の人々よりも。月が汚染されていて人が暮らせる環境にないと分かった、あの時から。誰もがその現実を受け入れられなくて、この広い宇宙のどこかにあるはずだとない希望を探していただけだ。
 地上で何も知らずに夢を見ながら死ぬか、ここで惨めに飢えて死ぬか。元からその二択しかなかった。こんな脆い泥船に乗った時点で結末は分かりきっていたのだ。
 みっともなく泣き喚く人々から踵を返して、デッキへ出る。皆通信を待ち望んで管制室に集まっていたから、それ以外のところはしんと静まり返っていた。
 管制室の狂乱から逃れるように出てきたけれど、行くあてなどある訳もない。与えられた自室――というより居住エリアに向かう気も起きず、自然と足は研究区に向いていた。ここ十年ほどで目を瞑っていたって歩けるようになった、一切代わり映えのしない殺風景な薄暗い廊下を、それよりももっと暗い宇宙を眺めながら歩く。眼下に輝く星は青い。けれどももう、あそこに命はないのだ。かつて文明の輝きがあったはずの地上は黒く闇の中に沈んでいた。
 そうしてふらりと歩いていると、ふと、行く手にある人影に気がついた。ちょうど、自分の研究室がある辺りだ。その人も、同じようにガラスの傍に立って、遠くに浮かぶ星を見下ろしていた。銀色の瞳が近づいていく足音に振り向いて、緩やかに瞬く。その表情はどこまでも凪いでいて、世界の終わりが目前にあるというのに微塵も悲嘆を浮かべていない。自分のことをまるっと棚に上げて、少し呆れた。
「残念です」
 先に口を開いたのは向こうだった。相変わらず少しも変わらない表情で、けれども言葉の響きだけは心底残念そうに。涼やかな目元が微かに下がる。その指先が撫ぜるようにガラスの上を滑って、ほんのわずかな曇りを雲のように残した。
「結構気に入ってたんですけどね」
……ここが?」
 男の言葉を冗談だろ、と鼻で笑う。こんなところ、こんな、惨めなところ。
 数百億の希望を背負ってソラまで来て、何一つ叶えることもできなかった。ノアの方舟になり損ねた、こんな自分たちのことなんて。
 投げやりな態度をとる自分に気を悪くした様子もなく、男はゆるりと首を縦に振った。
「ここもですが。――あの月が。白くて、とても、似ていたので」
 そう言った男が自分からまた窓の外へ視線を移す。青い星ではなくその隣へ――いくらかほど近いところに輝く、青白い月面へ。
「似ているって、何に」
 ――はて、この男はいつからここにいたのだったか。
 ふとそんなことが気になって、一度気になると、それ・・は一気に整合性を失った。
 この舟にやって来て十年。新しい人材は誰一人訪れていない。自分が最後の、追加でやってきた研究者だ。高々十年、さりとて十年。百数十人しかいない職員を、しかも大きさにも限りがある閉鎖空間で暮らす中、全員把握するには十分すぎる時間だ。実際別の研究チームの人間も、食堂の管理人も、セキュリティスタッフすら名前と顔が一致している。
 なのにこの男のことは知らなかった。ほんのひと月前まで、名前すら聞いたことがなかった。そんなのはおかしい。自己紹介・・・・なんて、起こるはずがないのだ。
 そんな当然のことに今まで誰も疑問を抱かなかった。自分も、自分のチームメンバーも、この男を自分のチームに紹介してきた同僚も。優秀だと言われた男の、チームに所属するより前の成果を自分は何一つ知らない。生きるために、人類が存続するために、どんな些細な発見だって共有されるべきこの研究所で。
 男が、この数ヶ月の間でずいぶんと近くを許していた男が急に知らぬ人間に見えた。実際、何も、知らないのだ。この男のことは、なにも。得体の知れないものを見る目で見つめると、男はそんな敵愾心に近い眼差しを静かに受け止める。当たり前のよう、というのも少し違う、まるでそんな眼差しに慣れてしまったか、あるいは気づきもしていないかのような平然とした様だった。
「故郷の月です。――俺が生まれた場所も、月は青白くて、ひとつしかなかった」
 まるで青白くてひとつだけ以外の月を知っているかのような口ぶりだ。遠く、けれども地上よりかは近い、自分たちの月。見かけだけはどこまでも美しく、けれどその表面は致死性の毒ガスが充満している穢された月。だからこそ、月から来たという男の言葉はこれまでずっと、荒唐無稽な笑い話だった。あんな環境の中で人が生きていけるわけもない。着陸を試みた研究員たちが何人も、ごく微量のガスを吸い込んで死んでしまったのに。
 けれど、――もし、あの月以外の「月」があるのだとしたら。
『一つ前の世界は月が真っ赤だったので、夜も落ち着かなかったんです』
 そんな男の言葉を思い出す。与太話として聞き流していたそれが、急にひとつのパズルのように繋がっていく。
 そうだ、男は最初から言っていたではないか。今のように、偽りのない眼差しで。
「俺はそろそろ行こうと思います」
……どこへ」
「次の、月へ」
 そんな突拍子の無い言葉を、今は素直に言葉通りに受け止められた。
 この男は、月から来たのだ。しかもここではない、どこか別の世界の月から。
 そして今から、また違う月へと旅立つ。終わりゆく世界を――自分たちを置いて。
 そう飲み込んだ途端、瞬きの合間に映る男の姿がぶれた。映像が乱れるように霞んで、重なる。そのノイズに瞬きをした、次の瞬間には男の服は変わっていた。それとも元々この服装だったのだろうか。自分の認識が、当たり前に着ているべきスタッフの制服へと書き換えられていただけで。
 重たい、白いローブのようなその服には表情に影を落とすフードが付いていて、長く地面を引きずる裾の上には銀河が揺れている。ベルトや帯に絡みついた細い鎖はその指先まで伸びて絡みつき、鉱石をそのまま切り出したようなピンク色の水晶が右の手の内でゆらりと振れていた。
 男がその手を持ち上げて、塗られた爪先で裂け目を描くように宙をなぞる。するとそこに扉が現れて、まるで昔からそこにあったかのように廊下の真ん中に居座った。重厚そうな、それでいてなんの変哲も無さそうな、シンプルな扉だ。宝石が飾られているようにも、扉そのものが鉱物の輝きを持っているようにも見える。家のドアのように片開きで、宮殿の門のように神秘的だった。男が扉のノブに手をかける。
 あの向こうに、知らぬ月があるという。
 何一つ未練など無さそうな横顔を眺めて、呆然と立ち尽くしていた。骨ばって少しかさついたあの手は今からドアノブを捻って、後ろ髪引かれることなくその向こうへ消えていくのだろう――そう思っていたのに、男は徐ろにこちらを振り返った。まさか、挨拶でもしようというのだろうか。目を瞬くと、男はさらに思わぬ行動に出た――まっさらな手が、差し伸べられる。
 
「一緒に行きませんか、一紗さん」
 
 長い袖の中から覗く指先は白く、硬い。その手が綺麗に開いて、確かに重なる手を待ち望んでいた。金縛りが溶けたような気持ちでまた瞬きをして、指先から腕へ、腕から顔へと視線を上げていく。その瞳と視線が絡み合う。
……俺は魔法なんて使えねえけど?」
「知ってますよ」
…………月へ行くんだろ」
 一紗の知らない、別の世界の月へ。
 それはどのような形をしているのだろう。同じように丸いのだろうか。色も、数も、在り方も、世界が変われば月だって変わるのかもしれない。
 研究者として、学術的好奇心が淡く疼く。けれどそんなものだけで本当にこの手を取ってもいいのだろうか。
 自分だけ、本当にこの世界から。
「はい」
 思わず振り返りかけた一紗を引き止めたのは、短くもはっきりとした答えだった。銀色の瞳が一紗を見つめている。昔図鑑で見た狼のような、鋭くもどこか温かみのある青の滲む虹彩が。
「いつか、俺が帰るべき場所を見つけるために」
 一紗にとってはそれは、この世界だった。――けれど、もう、帰れない。文明の消えた青い星。あそこには、故郷には二度と、降り立てない。ここにいたって、ただ無為に怯えながら、来たる飢えの苦しみまでを指折り数えるだけだ。
 ならば。そんなふうに、ただ死ぬくらいなら。
 ぴく、と指先がおこりのように震える。空気がまとわりつくようで、まるで世界が引き留めようとするかのようなその錯覚を振り払うように手を持ち上げる。触れた手は、自分と同じだけの温かさをしていた。じっと待っていた銀灰がそっと、初めて手を握りあった日のように綻ぶ。
「改めて、これからよろしくお願いします、一紗さん」
……よろしく、悠人」
 呼んだ名に握り返された手のひらの強さを、きっとこの先忘れないだろう。
 
 その日、一紗は月へと堕ちた。
 月のような目をした、魔法使いに誘われるまま。