三角リョヲヘイ
2026-02-16 22:39:26
24857文字
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月に鎮め/本編小説、第十五話

それでも日常は続くの話。

さあ続けましょう、この日々を。
そして新しく見つけたお寺さんにみんなでお祈りしましょう。
どれだけ苦しくなったとしても、我々は生きるしかないのだから。

第十五話
それでも日常は続くの話



羅乃目らのめ……紅族。第十九代統領
羅神らじん……羅乃目に憑いている黒い狼
鎌苅トキ時かまかりときじ……憑守が見える、食事処伊呂波しょくじどころいろは二代目店主
天河良あまかわりょう……通称「死神」。伊呂波のケツ持ちをしている彫り師
明夜あけよ……蜜で働く遊女。羅乃目の友だち
・たまき……蜜で働く遊女。羅乃目の友だち
はなちゃん……本名「五十嵐権左いがらしごんざ」。花屋の青年



 生き物はとかく自分勝手である。
 例えば同じ対象を別の立ち位置から観察したとしよう。ある位置からはその対象を心から愛しいと思い、慈しみ、感謝する。そしてまた別の位置からはその対象を嫌悪し、憤りを感じ、場合によっては憎むかもしれない。
 喉から手が出るほど欲していたそれは己の立場を変えた途端に己と噛み合わなくなり、どうにかして手放したくなる。
 なんの話をしているのかと言われれば。
 いわゆる日常だとか平和の話をしているのである。
 何話か前にご覧になったでしょう、日常が尊いとのたまう愉快な話を。それは確実に事実であるし、勿論こちらも事実である。

 ああ、にくい、あんなにうれしかったのに
 ああ、ひどい、あんなにほしがっていたのに

 己でなんとか保とうとしたそれに耐えられなくなることも、当然起こりうる。


     ◇


「辛い経験が人間を成長させるなんて言うんなら、俺はずうっと赤ん坊のままがよかったよ」

──『血殺仕置人 上』より、一部抜粋


     ◇


 羅乃目は、傍目には驚くほど平常通りであった。
 黒骸が行方をくらませたと判明した直後まん丸な瞳を見開いて唇をきつく閉じ、ほぼ骨髄反射で伊呂波の前の道へ走り出た。匂いを辿れば、動物たちへ聞き込みをすれば、羅乃目の勘のよさと運を持ってすれば、あるいは。しかしそうしなかった。鼻を効かせる為に神経を集中するでもなく、ただ名前を呼んで走り出すでもなく、すぐに店内へ戻ったかと思えば「……仕込みやらないと営業に間に合わないでやんすよ」と妙に元気な声色でトキ時の肩を叩いて声を掛けると、四卓に置いてあった囲碁の道具を抱えて掘立て小屋へ引っ込んでしまった。
 中庭と土間の勝手口から顔を覗かせる辺りまでの自由活動許可を得たソレとコレは、羅乃目が通り過ぎる際にカアカアと何かを伝えていたが、羅乃目は曖昧に首を振って否定を表現するとそのままあっという間に戸の中へ消えた。それが「ほそながいへびつき」「さがすか? なかまよぶ」という問いかけだった事をトキ時は知らない。
 なにも羅乃目は『書き置きが嘘である』だなんてこれっぽちも思っていない、予定されていたことでもない、しかし彼女の中で確実に芽を出していた懸念が花咲いたに過ぎない。だからこそまだ、まだ取り返せる、大丈夫な筈だと自身に言い聞かせて最悪な空気をやり過ごしただけに過ぎない。
 見た目で判断しにくいだけで、羅乃目は心底動揺していた。あの場でトキ時と一緒に慌てふためいて、それこそ泣いてしまいそうなくらいに。だがそれをしなかったのは……何故だろうか。まだ取り返せると信じたいからか。
 ともかく紅族の統領として、あくまでも冷静に対応しなければならないと半ば使命的な感情が湧いていた。瞬間的に。
 掘立て小屋の中は今日も変わらず陽が入らずに日中でも仄暗さを孕んでいた。羅乃目は抱えてきた囲碁の道具を元あった定位置に戻して、初めてため息。
「私は……何か言うべきか」
 気を遣った羅神が口を開くが、即座に小さく首を横に振られた為に続きが紡がれることはなかった。
 羅乃目は妙に冷静な脳みそとそうではなくなってしまった脳みそが半々になっていることを自覚していた。自覚できているのだから、おそらく冷静である脳みその方が優位なのだろう。無くなった物(黒骸が持って行った物)があるかどうかを視線だけで確認し、見てはいるけれど視覚情報として何ひとつ頭に入ってきていないことを自覚した。やはり冷静だった。
…………
 意味もなく口を開いた。
 唇だけで最愛を呼んだ。
 また少しだけ、冷静がより優位になる。
 もう一度部屋の表面だけを視線でさらう。ろくに視覚情報が頭に入ってきていない今の状態でも詰碁の本がないことだけがわかった。なんとなしに碁笥の蓋を開ければ、足りない黒い碁石の代わりにしていたいい感じの石が無くなっていた。意味もなく碁笥に手を突っ込んで碁石をじゃりじゃりと弄ぶ。
 あの時もこの音がなんだか楽しくて、手に碁石を握って遊んでいた。
……
 あの時という過去に突然胸が苦しくなって、羅乃目は碁笥に手を引っ掛けたままうずくまった。ひっくり返った碁笥から碁石がざらざら落ちる。
 朝までそこに居たから、ずっと一緒に居たから、当たり前のように部屋には最愛の匂いが残っていた。


 わかりやすく困惑しているのはトキ時の方である。
 掘立て小屋の中でひと通り(その瞬間、短い間で済ませられる範囲で)絶望してきた羅乃目は、傍目にはどうにも普段通りだからだ。
「ねえトキさん、今日のおすすめはなんでやんすか? 味知っとかないと」
 と、さり気なく味見をせがむ為に無邪気に聞いてくる姿なんて今朝までとまるで同じで。
「え? おー、そう……だな」
 混乱しながらも、甘辛い味噌で炒めた小ぶりなじゃがいもを羅乃目の口に放ってやると、現状を忘れてしまいそうなくらいにいい笑顔が返ってきた。
「じゃあおすすめ聞かれたら今日はこれでやんすね」
「旬にはまだ少し早いけど鮎もあるんだ。こっちもおすすめだな」
「ん!」
 あまりにも羅乃目が普段通りを装っている姿を見せつけられてしまい、トキ時はこの件について何ひとつ彼女を問いただすことができないままだった。だからこそ店はこのまま営業するべきだと店主は判断し、無理矢理に仕込みやら支度やらに集中する。うっかり右中指の第二関節辺りを鍋に近付けてしまい、羅乃目にばれない程度のごく軽い火傷を負いつつも、彼女を倣うように普段通りを装ってみた。羅乃目が動かないのはきっと意味があるからだろうと信じて。
 いざ伊呂波が開店すれば、そこはいつも通り過ぎるほどにいつも通りであった。常連の猥談に相槌を打ちつつも的確に注文を捌いていく。豆腐を網の上で焼いて味噌を添え、漬物を切り分けて小皿に載せる。本日のおすすめである甘辛い味噌で炒めた小ぶりなじゃがいも『たまじ』もよく注文が入り、酔いが回ってきた客の酒の注文を適宜拒否しながら痴話喧嘩の愚痴に耳を傾ける。
 忙しくしていると、ほんのひととき、全てを忘れる。
「おあ、そういや黒はどうしたよ」
 常連からのこの一言が出るまでは。
「あー……
 瞬きの回数を増やしながら、トキ時は視線だけで羅乃目を追う。するとすかさず羅乃目が答えを出す。
……なんか、両親の調子がよくないって、だから田舎に帰って、親とも色々あるから、どのくらいかかるかわからなくて……
 羅乃目は話しながらまだ使い込まれていない前掛けの端を両手でこねくり回し、視線を右斜め下へ向けた。言葉は足りずともこの態度と合わせれば完璧な回答だろう、少なくともこの店に出入りする人々に対しては。現に黒骸の不在を指摘した常連は、しおしおになった羅乃目を励ますように「そうかあ、田舎に帰ったのかあ。色々あるよなあ。でもなあ男は総じて親と色々あるもんだし、それをきっちり清算しねえといけない時がくるんだよ。な?」と顔を覗き込み、「したらば黒がいねえ間に店が潰れちゃなんねえな、よし一番いい酒持ってきな、俺が稼がせてやる」などと気前のいいことを言って笑った。
「聞いてたろ? お前らも店潰さねえようしっかりに金落としてくんだぞ!」
 と周りを煽る始末だ。それに乗っかってノリよく増える注文を慌ただしく捌きながら、トキ時は頭の片隅で黒骸の両親が既に鬼籍に入っていることをぼんやりと思っていた。生き残っている紅族は、羅乃目と黒骸のふたりだけなのだから。
 しかし、羅乃目がそう誤魔化すのならば話を合わせるべきであろうとも思っていた。「どのくらいかかるかわからない」という誤魔化し方を考えれば、二度と帰ってこないわけではない……可能性が高いと判断してもよさそうだ。トキ時は一旦、楽観的で前向きな思考に針を合わせた。一旦、一旦は。
 そしてその一旦は、営業終了後に良が現れたことで呆気なく終了する。
 昼に顔を出さなかった死神様は呑気に伊呂波の戸をくぐってきた。ひと仕事終えた達成感と清々しさをたたえたその顔は店内に羅乃目と黒骸がいないことだけは捉えたものの、それ自体はさほど珍しいことではないのでそのままにしてトキ時に近付いた。
「やートキちゃ……
「りょお〜〜〜〜!」
「なに、どしたの」
 良の呼び方が「りょう」ではなく「りょお」になっているあたりでもう既に何かあったことは明白である。
 トキ時はすっかり片付け終えた卓の上を手持ち無沙汰そうに布巾で撫でていた。拭いているのではない、撫でていた。羅乃目がいつもの五倍くらい働き者で、人数が減っているとは思えないくらい迅速に閉店後のあれこれは終了している。
「黒が」
「!」
 良の登場で何ひとつ取り繕えなくなったトキ時は、あの時をもう一度なぞり直した。
「買い出しから帰ったら」「先代が使ってた囲碁の道具が」「四卓が」「書き置きが」「羅乃目が」
 トキ時はままならない言葉をひとつひとつ繋げて一本の槍にする、穿たれたあの時を思い出しながら。この青天の霹靂にも似た一撃は食事処伊呂波を急襲し、見事に成功したと言える。
 先端まで研ぎ直されたその穂は今一度構えられ、もう一度突き穿たれた。
「黒が何処かへ居なくなった」
 何故か羅乃目が回収していかなかった書き置きを良の眼前に突き出して、トキ時ごと良に風穴を開ける。
「待てよ、どういうことだ……!」
 書き置きを奪い取る指先に何由来か判断しかねる震えを覚えながら、良はその文字列を何度も左目でなぞった。
 さようならは別れの言葉だ。
 彼の想定していた最悪が起きている。
 勝手に重ねる、あの時の──。
「羅乃目はどうした」
 その憤りと怒りの滲む声色は、本来向けるべき相手がいないが為にトキ時へと向いていた。
「閉店作業を終わらせて、とっとと掘立て小屋に引っ込んじまった」
 それを聞くが早いか良は土間へ駆け出したが、半歩踏み出すあたりで着物を強く引かれてそれは叶わなかった。
「待て! 羅乃目には何か考えがあるのかもしれない、わからねえけど。とにかく今はそっとしてあげるべきだ、羅乃目は傷付いてる」
「だったら尚更。放っておけってこと?」
「放る……じゃない、けど」トキ時は良の着物から手を離さない。「じゃあなんて言うんだよ。『こんな書き置きして、黒はどこ行っちまったんだ?』なんてお前は面と向かって羅乃目に聞けるのか?」
「それは……
 とてもじゃないが本人に面と向かって尋ねるような内容ではない。そんなことは良も百も承知である。ただ様々な可能性も検討しなければならない、黒骸は単純にここでの生活が合わなくて行方をくらませたのか、あるいは。
……悪い、少し冷静になる」良は左手で眉間を押さえつつ、右手で自身の着物からトキ時の手を離させた。「羅乃目はこれを見た時にどんな様子だった?」
「驚いてた。勢いよく通りに出て、その後直ぐに店に戻ってきたけど」
「羅乃目は本当に驚いてた? 嘘はなさそう? こうなるってわかっていた素ぶりは?」
……それ、どういう意味だよ」
 良からの確認の意味を込めた質問は、トキ時の思っていない方向へと舵を切ってきた。人のよさそうな穏やかな眉毛の間に、自然と皺が寄る。
「そのままの意味。全ては予め企てられていて、黒がなんらかの目的を持ってここを離れて、羅乃目がそれを知りながらも黒を庇っている。あるいは時間を稼いでいる可能性があるかどうかについて話してる」
 徐々にトキ時の表情が険しくなることをしっかりと感じながらも、良は話すことを止めなかった。
「お前は何を言って」
「少なくとも可能性は潰しておくべきだ。俺は今後何か起きた場合、羅乃目と黒じゃなくてお前を取る、優先順位の話だ。今はこれによってトキ時に危険が及ばないかどうかについて考えてる」
 反論を述べる前に言い切られた親友からの言葉はあまりにも真っ直ぐでありがたいものではあったが、今これを受け止められるだけの容量をトキ時は己に残せていなかった。
「待て。お前さっきから何を言ってるんだ。羅乃目が嘘吐いてるとでも言うのかよ、企てってなんだよ、本当になんなんだ急に」
「あと半月で何がある?」
「ええ? もうなんだよ、半月後ぉ……?」トキ時は顎に手を当てて目を閉じる。「……んー、なんだよ。なんかあったか?」
 思わぬ方向に切られた舵とそこからさらに急旋回する良の舵に振られながら、ふたり乗りの船からトキ時は今にも波に放り出されてしまいそうだ。良の頭の回転に追いつかない。
「城で、将軍の、大衆謁見がある。年始と、てめえの誕生日の、年に二回。あと半月で『将軍誕生日大衆謁見』がある」
 良はわざと言葉を短く切って、人差し指で三卓を叩きながらひとつひとつ力強く発音した。
 将軍大衆謁見。謁見とはいうものの、高い位置から姿を現す将軍を下々の者が見上げて歓声を上げる太都の年中行事のひとつだ。予め設けられた時間内であれば当日は身分に関係なく大衆謁見の会場に入ることができる。地位によってはその後に個別謁見が許される者もいるらしいが、これは民衆にとっては縁のない話だ、都市伝説かもしれない。過激な倒幕派の連中にとっては絶好の機会、しかしそれを恐れてこの行事をなくせば将軍の威信に関わる、だからこそ大衆謁見には影武者を使わずに将軍本人が表に出てきているとの噂だ。
「それがどうしたって言うんだよ。そんなもん西町ここに住んでると縁が無さすぎて、俺は今の今まで存在を忘れてたぞ」
 西町の住人として限りなく正しい認識と返答をするトキ時は、ここまで聞いても良の意図している内容に辿り着けないままでいた。彼の頭上にはぽこぽこと雲のように疑問符が浮かび続けている。
「羅乃目と黒は、なんで太都に来たんだと思う?」
「? 人間を見に来たって……
「それは単なる建前で、ふたりの目的が人間への復讐だったら? 将軍は復讐の標的としてこの上ない。普段は奥に引っ込んでる男が俺たちの前に出てくるこの機会を逃さない筈だ。ふたりが事を起こしたらどうなる? 成功しても失敗しても結末は最悪だ。素性が暴かれたら? ここで働いていたことや住んでいたことが知られたら? 不法滞在者と知りながら匿っていたことも含めて、お前も罪に問われる可能性がある」
「ま、待てよ、待て……
 いっそ船から振り落とされてしまった方が楽だったかもしれない。トキ時の頭上から疑問符の雲が消え失せ、暗雲が立ち込める。
「俺はあくまでも可能性の話をしている。それでいてこの可能性を潰したい。だからお前に聞いてる、羅乃目は本当に驚いている様子だったのかを」
 ここでようやくトキ時の頭は良の思考に追いついた、横に並ぶように引っ張り上げられたのだ。そして追いついたと同時に意図している内容と現実を慌てて照らし合わせる。自分がそれによりどうなるかというよりも、この場の空気を終わらせる為に記憶に間違いがあってはいけない。
……羅乃目は本当に驚いてた。俺はあれが演技だとは思えないし思わない」
 本当だ、この世の終わりみたいな顔をしていた。全部終わってばらばらに砕け散った顔をしていた。少なくともトキ時の目にはそう映っていた。
 しばしトキ時の瞳を覗き込んでいた良も、「わかった、ありがとう」と呟いて視線を逸らした。「この可能性の話はもう止めにしよう」
 暗雲の話をやめたからといって伊呂波の空が突然晴れるわけではない。ぬるりとした嫌な空気の層が天井から少しずつ降りてくるのを感じながら、逃げるようにどちらからともなく手近だった三卓の椅子に座り込む。
……お茶、飲むか?」
 沈黙が場を支配するすんでのところで、トキ時は良へ言葉を投げることに成功した。気の利いた言葉なんてとても出て来やしない。彼にはこれが精一杯であった。
「ああ……でも俺が淹れるよ。借りていい?」
「おう、場所わかるだろ。頼んだ」
 土間を指差した良を、どうぞどうぞの手で促すと、トキ時は卓に突っ伏して腕で頭を囲いひとりの時間と空間を小さくすることに努めた。
 黒骸が居なくなったのは、自分のせいではないかと思いながら。
 本当は書き置きを見た瞬間から脳裏をよぎっていた。他の誰でもない、鎌苅トキ時のせいで羅乃目を悲しませているのではないかと。
……
 やはり己は無力であった、どうしようもないくらいに。己が無力だから、みんなに迷惑をかけている。
 なんとなくトキ時の頭にソレとコレが浮かんだ。まだどっちがどっちなのかてんで判別できない二羽の烏たち。今後も判別出来るようになるのかまるで想像できない新しい仲間たち。
…………
 悲しませるのなら、呆れて離れられてしまうくらいなら、仲間は増やすべきではない。
 頼もしい友は、大好きな仲間は、増えるほどに失う時の悲しみが大きい。
 自ら悲しみを増やす必要はないのだ。
…………、トキ時」
 肩を優しく叩かれて、ひとりの囲いに戸ができた。静かに開けて、光に瞳を晒す。
「疲れてるよな、悪い。せっかく淹れたからとりあえずお茶どうぞ」
「ありがとうな。なんだよ、全然大丈夫だって」
「なに、俺に嘘が通用すると思ってる? さっきより酷い顔してるよ」
 あえて軽い調子で向かいに座り直す良は自分の頬を指でとんとんと叩いて、トキ時の暗い表情について言及してきた。
「いや、その、少し考え事をさ」
「言える範囲の話なら今して。ちゃんと聞くから」
 トキ時は肩をすくめて話をはぐらかせる計画だったが、そのような小手先の技は良には通用しない。彼は、「言えないことなら、無理に聞かないけど」と付け足して淹れたての茶に口をつけた。判断する為の時間を用意してくれている。
「黒は、なんというか……俺を守る云々の話が嫌だったんじゃないかと思って、る、俺は。俺のせいで羅乃目を悲しませているんじゃないかと思ってるんだ」
 今度はトキ時が良の思ってもいなかった方角へ舵を切ってきた。トキ時の中では用意された内容であったが、良にとっては寝耳に水のような状況に違いない。
 トキ時は茶に口をつけず、湯呑みの側面や飲み口を指でなぞって持て余している。
「俺はその……混血の可能性があるかもしれないだけで、確かめようがない、結論だけ見ればただの人間だ。ふたりは、その、人間を恨んでるだろ、絶対に。俺がもしふたりなら、きっとそうだろうからな」
 話しながらできる限り言葉を選んで、自分もなるべく傷つかないように細心の注意を払った。だから黒骸は居なくなったんだ、を口にすることがはばかられたトキ時は、言葉を茶で飲み込んで腹の底にしまい直す。こんな状況でありながらも、親友の淹れた茶が美味いと頭の片隅で感じながら。
「それはない」
 早口で言い切る反論は、咄嗟に単なる気休めを放たれただけのように感ぜられてトキ時には響かなかった。例え本心であったとしても。
「言い切れるか? 気を使うなよ。ここは区別として必要な区分だろ」
「それは絶対にない、断言する。黒は……
 良は黒骸がトキ時の心の為に郡司、いや無銘と交渉したことを知っている、黒骸の名誉の為にもそこは否定しなければならない。紛れもなくトキ時を守る行動であった。
「黒は……おひいを置いて何処行ったんだろうな」
 良にしては台詞回しもつたなくて、気の利いた言葉もまるで出てこない。無理矢理に話題を変えることが精一杯であった。まるで『らしく』ない。
 それだけ一撃が大きかったのだ。だいの大人をふたり、どうしようもなくしてしまうくらいに。
 これを狙っていたのかは不明だが多大な損害を与えるという意味で、黒骸の急襲は見事に成功したと言える。


「ねえそれなに?」
「んと、これは笛」
 黒骸が姿を消した翌日、羅乃目は早々に出掛けたかと思えばイゴさん宅に黒骸不在の挨拶をし、その後花びらを駆け回って買い物をしていた。そして最終目的地はここ、賽の目屋。
「笛はわっちのと友だちにあげるので二個あるでやんすよ。おんなしの」
 黒骸を探さず、のんびりと戦利品を明夜に見せて寛いでいた。今日は前回一緒だった四人娘はおらず、明夜と二人きりである。各々立て込む身支度やら予定やらがあるらしい。羅乃目の話はこの後明夜がみんなに話すそうだ。仲睦まじい、たくましく、かしましい乙女たち。
 羅乃目の手には長さ二.五寸(約七.五センチメートル)、太さ〇.七寸(約二センチメートル)ほどの木の枝をくり抜いて作られた縦笛が握られている。笛といっても正面には空気の抜ける穴がひとつだけと、裏面に小さな穴が空いている単純な作りのものだ。表面は丁寧に磨かれつつも木の皮が残っており、自然そのままといった趣きだ。息を吹き込む穴の反対側に革紐が通してあり首に掛けられる。
「鳥笛っていうでやんすよ。鳥の鳴き真似ができるから鳥が寄ってくるとか言われてるやつ」
 ちなみ動物の言葉がわかる羅乃目曰く、正確に鳥の鳴き声を真似しているというよりは、人間でいうところの「あー!」だとか「わー!」のようなあまり意味のない言葉を発しているような声に聞こえるらしい。それでもとりあえず似ている、とのこと。
「へえー知らなかった。外はこんな物があるんだ。おもしろ」
 明夜は羅乃目の首に掛かったままの鳥笛を引き寄せてまじまじと眺めている。籠の中の鳥に笛は不要ということか。
 今日も今日とて明夜は気怠げな雰囲気を纏いつつ、胸元や足を頓着なさそうに露出した格好で半分寝転がっている。おしゃべりのお供は甘い落雁、しかも明夜が客から貰った高級品だ。花をかたどったそれは口のなかでほろりととろけ、わかりやすい幸せを運んで来てくれる。
 明夜は細い左の指で桃色の落雁をぽいと口に放ると自身の着物の襟元に指先をちょちょいと擦り付け、指先に最低限の清潔さを取り戻してから再び羅乃目の首元から鳥笛を引き寄せた。羅乃目はさり気なく体の重心を明夜側にずらして見やすいように配慮する。
 鳥笛を挟んで頭を寄せ合うふたり。
 隣が羅乃目ではなく良であれば完全に絵面として完成するだろう、しなやかな肌の男女。なんの、などと野暮なことを聞いてはならない。ここは西町、ここは蜜。
「明夜も欲しい? 今度買ってくるでやんすよ」
「え、いいの?」
 明夜は鳥笛が手に入ることよりも、羅乃目が「今度」また来てくれることの方に喜んでいた。しかしそこは羅乃目には伝わっていない。いや、鳥笛も嬉しいのだ。鳥笛というよりも、堀の外の友人から何か贈り物があるということはここでは奇跡に近い。
「あ、でも……いいよ、ごめん、大丈夫」
「いいの? いいのに」
 この羅乃目の「いいのに」は、お金とか全然気にしないでやんすよの意味を含んでいる。あと鳥笛自体の面白さを推す意味もだ。気持ちを詰め込んだ結果が「いいのに」だけで抽出された。
「だってここで吹いても鳥は来てくれないでしょ? だから、いいの」
 ここから呼んだとて、どうせ誰も来てはくれない。
「そうでやんすか?」
 羅乃目はまた口の中で先程と同じ意味の「いいのに」を唱えて首を傾げる。
「うん……いい。でも今度はその笛で鳥がちゃんと寄って来たかどうか教えてよ」
「ん、わかった」
 羅乃目が籠の中で歌う鳥の諦めを汲み取るには、まだ少し成長が足りない。
「ありがとね」
 笛なんて無くても呼べばいくらでも鳥が寄ってきてくれる羅乃目は、とりあえずトキ時で試して結果を報告しようと頭の中に書き留めておくことにした。トキ時ももしかしたら、他の人間よりかは動物が寄って来やすい体質である可能性があることを思いながら。
「あーよかったあ、まだ居る。混ぜて〜」
 ややしっとりとした空気を盛大に壊しながら、少しだけ大きな声で呼びかけられた。
 ばたばたと近付き輪に加わった彼女は、四人娘の中でも飛び抜けて人懐こい。名を『たまき』という。
 明夜と四人娘を足した五人娘の中で、明夜は姉御的な存在であり凛とした雰囲気を持っているが、たまきは真逆の存在だ。どこかぼんやりしていて愛嬌があり、色白の丸顔はいつも頬がほんのり赤い。
「たまきは何してたでやんすか?」
「ええとね、いい人にふみを書いてたの。恋文、えへへ。今夜来るの」
「いいひと」
 羅乃目は人生の新出単語を反芻した。伊呂波の客からもそんなような単語は耳にしていたが、自分に対して発せられている言葉ではなかった為に耳に入りながらも素通りしてきたのだ。
「やめときなよあんな男。あんたどうせまた適当に言いくるめられて終わるよ」
「えー? 今度は大丈夫だもーん。なんたって彼が今の客で、一番お金持ち」
「あたしらは男に愛想振り撒く仕事だけどね、嫌なことは嫌って言わないと、あんた変な客すぐつくんだから」
「嫌じゃないよ? この前もたまきは遊女の鏡だって、言われたよ?」
「あーもう」
「明夜は身請けされて、早くここから出たいと思わないの?」
「出たいに決まってるでしょ。でも最低限ぎりぎりどうしようもない程度には相手を選びたいよ、あたしは」
 羅乃目を置いてけぼりにして交わされる羅乃目の知らない世界は、どうやら色々と大変らしい。
「ねえ、羅乃目はいる? いい人」
 ほんのひと時知らない世界に想いを馳せていた羅乃目は、たまきからの問いかけであっという間にここへ戻って来た。
「んー、世間的には想い合っている人って言った方が正しいかも」
「おもいあってるひと……
 普段の羅乃目ならば勢いよく黒骸の話をしただろう。相思相愛、自慢の許婚、未来のお婿さん……の、筈。今でも、変わっていない筈。
「いる、けど。今はいないでやんす」
「やだ歯切れの悪い感じじゃない。もしかして別れたばっか? そしてその口ぶり、フラれたね?」
 明夜は面白がっている雰囲気を隠そうともせず、一応は気遣いと半分ずつを言葉に乗せてきた。うら若き乙女が集まれば、いっそ別れ話の方が盛り上がるという側面もあるだろう。
「んと、違くて。一緒に暮らしてたけど、今は親の具合がよくなくて、田舎に帰ってて、しばらく戻って来ないから」
「ああ、そういう意味か。なーんだ羨ましい」
 言葉通りの羨望を滲ませ、明夜は拗ねたように大の字に寝転がる。大きく開いた右腕はわざと羅乃目の肩を撫でるようにぶつかって床に到着した。
「んもう」
 ぶつかってくる悪い腕はどれでやんすか? とでも言いたげに、羅乃目は「によ」と笑いと唇の尖らせを合わせた口をしながら明夜の右腕をつついている。
「てか羅乃目は既婚者か。あたしらの年齢的には外ならもう大抵は嫁入りしてるよね」
「そうなの? それだと早すぎない? 女の子だって二十歳過ぎてからするものじゃない?」
 蜜の中にいると世間的な適齢期のあれこれが曖昧になったりずれたりするものである。明夜とたまきでも認識に大きなずれがある理由は彼女たちの出自に関係しているのだが、ここでは省略しよう。
「んと、普通はどのくらいでするのかわからないでやんすけど、わっちらはまだ祝言挙げてないでやんすよ。でも許婚だし、大好きだし、生まれた時からずっと一緒だから」
「いーな、幼馴染に嫁ぐのって気が楽そう。よくも悪くもよく知ってるだろうし。それで大好きってんなら安泰だわ」
「わっち嫁ぐんじゃなくて、向こうが嫁ぐんでやんすよ。んと、婿入りでやんす」
 羅乃目はあえて明夜からの安泰という単語に触れずに不自然ではない範囲で事実だけを返した。
「婿入りされるお家柄で、西町で便利屋ね。まあお互い色々あるか」
 明夜は「親もいないし」という言葉を口の中だけに留めて羅乃目の細い手首に視線を落とした。
 明夜と四人娘の共通認識として、「羅乃目は驚くほど発育が悪い」というものがある。同い年とは思えない細い手足に着物の上からでもわかる薄い胸、華奢を絵に描いたような姿を見て、栄養が足りていないだとか苦労しているからだとかの想像をしているのだ。
 事実、その想像はひとつも間違っていない。羅乃目が年齢のわりに発育が悪いと思われるのは人間とは異なる成長曲線を描いているからでもあるが、過去に栄養が足りない時期もあったし、間違いなくここの少女たちとは異なる苦労の道を歩んできている。重ねて言う、ひとつも間違っていない。
「じゃあ羅乃目も文を書くといいよ。文なら田舎にでも届けてもらえるでしょう? それにね、文にすると直接言葉で言えないことも、なんだかするっと書けちゃうの、不思議。文、いいよ。たまきのおすすめ」
 ここで羅乃目の瞳がきらりと輝く。
「そうだ、書けばいいんだ」
 小さく、けれど力強く、羅乃目は新しい発見を言葉にした。
「言えないことは書いて伝えたらいいんだ」
「そうだよ、たまきはうまく言えないことは文にしちゃう」
「だからか! もう、言えないからってあたしに他の人の愚痴を書き連ねた呪物みたいな紙渡してこないでよね。こっそり燃やすの大変なんだから」
 新発見の羅乃目。
 肯定するたまき。
 文句を言う明夜。
「たまきありがと! わっち今日は帰るでやんす!」
「ええ? もう少しゆっくりしてってよ、まだあたしは時間あるのに」
 勢いよく立ち上がった羅乃目の裾を文字通り引いて、明夜は名残惜しそうだ。これは彼女の素の行動だろうが、どことなく普段は演技として行っていることが体に染みついている感がある。
「書くでやんすよ! 黒に! だから今日は帰る!」
 帰る宣言をしながら羅乃目は最後にひとつ落雁を口に放り込む。ここはちゃっかりしている。
「羅乃目も恋文書くの? もし内容に悩んだらたまきに相談してね」
「いや、この子に相談するのはやめときな」
「なんで? たまきの恋文は百発百中だよ?」
「あんたのは恋文ってよりも相手との情事の感想文。生々しすぎ。やめな、羅乃目にはおすすめしない」
「えー? どこがいいとか、ここが好きとか、今度はこれして、とか。みんな喜ぶのになあ」
 ふたりの会話をなんとなく耳に入れながら、羅乃目は「また来るでやんす! 笛の効果とか!」と最後に叫び、背中に「またね!」という言葉を受けて廊下をぺたぺたと走り去った。
 そうだ書けばいいのだ。
 朔介に教えてもらった言葉が脳の中を駆け巡った時と同じ感覚が羅乃目を包む。
 言えないことは書いて伝える、これはずっと隣に居ると浮かばない発想だった。なにせ隣に居るのならば言った方が速くて確実だからだ。そして言えないことは言わなくてもいいからだ。ずっと隣に居ることを、言わない理由のひとつにしてしまっていたかもしれない。
 またぐるぐる回って大変愉快な気持ちになれそうなのに、今回は「もう手遅れかもしれない」という予感が頭にこびりついていて、羅乃目の足は次第に速度を落とした。「まだ間に合う、大丈夫」との争いは決着がつかず、誰にも言えずに仄かな頭痛を感じる。
 既に矛盾しているのだ。消えた黒骸云々の前に、羅乃目が考えうる限り今がどういう状況で、自分はどう思っていて、これからどうしようと思っているのかをトキ時と良に話せていない。話せないからだ。ならば書けばいい筈だ、それを今覚えたのだから。しかし書かない、書けない。
 たった今手に入れた宝石のような発見は、早急に輝きを失っていく。確実に輝いている筈なのに。
 羅乃目は愉快になりきれなくて、普通の足取りでまた花びらを歩き回って白紙の冊子を買い、伊呂波へと帰った。


「あらあらあらあらあら、おめめこんにちは。元気? わたしは勿論元気よ。今日はお仕事じゃないの、遊びに来ただけ。お邪魔してまーす」
「花ちゃんだ、こんにちはー!」
「あーらあらこんにちは、おひい」
 伊呂波に戻った羅乃目を迎えたのは、トキ時ではなく花ちゃんと良であった。
「あー死神、花ちゃんの真似っこでやんす」
 それぞれ別の卓に腰を下ろしているふたりを横目に、羅乃目はひとまず掘立て小屋へと帰ろうと土間に突っ込んで行く。
「おう、おかえり羅乃目」
「トキさんだ!」
 家主は土間で何やら食器を漁っていた。普段使いしているものは自然と手前を陣取る筈なので、どうやら仕舞い込んでいる何かを探しているらしい。「ここじゃなくて二階か?」と顎を撫でながら小さく呟くと、足を止めて不思議そうに眺めている羅乃目と目が合う。
「手洗っておいで。花ちゃんがお土産持ってきてくれたんだ」
「わ!」という歓喜の音を土間に残しながら、羅乃目は掘立て小屋へ一目散に走って行った。
 一足先に店内へ戻ったトキ時は、席を移動してきた良とひっそり目配せをする。トキ時は今朝も羅乃目を問いただすことなく、ただ黒骸と雨庸が不在の食卓を囲んだ。一旦は何も言わずに様子を見るという結論で昨夜のトキ時と良は着地していた。一旦は。
 お土産という単語にほくほくしながら戻って来た羅乃目は、手に白紙の冊子と筆記用具の入った小箱を抱えている。
 それが何かをトキ時が聞く前に、口を開いたのは花ちゃんだ。
「聞いたわ、おめめ。黒くんのこと」
「あ、うん。でも、たぶんだいじょぶでやんすから」
 羅乃目は花ちゃんの隣に座りながら、話半分といった様子で冊子を開いて墨の用意をしている。羅乃目がその話を早々に切り上げたい理由と、そっけなく映る羅乃目の態度に、花ちゃんが「当然そうよね、話題に出すと寂しさも倍増よね」と思ってこの話をここで終わりにしてくれる理由は少し異なる。それでも結果としては噛み合っているので、花ちゃんの優しさは正しい。
 羅乃目は元の態度に戻って話題を変えた。
「さっきトキさんなに探してたでやんすか」
「え? いやな、そういえばいい感じの皿があったなって急に思い出したから使おうかと思ったんだが……二階に仕舞い込んでたかな。少し大判で、端に梅の花が絵付けしてあるんだ。梅の季節じゃないんだけどさ、花ちゃんを見たらぽんと頭に浮かんで。先代が来客の時に使ってたんだ」
「素敵ね、わたしで思い出してくれるなんて光栄だわ」
 花ちゃんは顔の前で両手を指先だけ合わせて目を細める。
「何故かわからないけど、今使いたいって思ったんだ。変だよな。突然思い出すにしたって梅は季節でもないし、それこそ花ちゃんには何度も会ってるし、何度もお茶してるのに」
 梅の皿は見つからなかったので、花ちゃんの買って来てくれた土産は白橡しろつるばみ色によく似た素朴な色味の皿に乗っている。これは店用とは別にしてある、伊呂波の食卓で比較的よく見られる種類の皿だ。
「なんだか嬉しい。次に来るまでに見つけておいて、わたしもそのお皿が見たいわ」
「俺が探すの手伝っておくよ」
「わっちも探す〜」
 揃って伊呂波で探し物をするのは初めてではない、羅乃目と良も慣れたものだ。例えあの時よりも頭数が減っていたとしても。
「ささ、お茶が冷める前にみんなで頂きましょう。この紙に挟まれているお饅頭、みんなはもうなんだかわかっているでしょう?」
「きさき庵のさくら饅頭でやんす!」
「大正解よ。さあ、満開はあるかしら」
 花ちゃんの合図でそれぞれ饅頭を手に取り、挟み紙をそっと開いて焼印を確認する。過去、焼印を大して気にもせず口に入れて怒られていた良も最近では手慣れたものだ。「うーん一枚。ざーんねん」と羅乃目に焼印を見せてから口に運ぶ。
 他三人の饅頭も、どうやら最上級の焼印は入っていなかったようだ。
 しっかり饅頭を飲み込んで口の中を空にした羅乃目が、筆を構えながら花ちゃんへ向かってこう切り出した。
「ねえねえ花ちゃん、花ちゃんがトキさんと会った時の話、教えてほしいでやんす」
「あらあらこの前の覚えてたの? そうねえ」
 花ちゃんはトキ時へと視線を投げかけ、自分以外の登場人物の返答を待つ。
「え? ああ、いいんじゃないか? 別に変な話でもないからな」
 トキ時はまたしても羅乃目の紙と筆記用具の理由を尋ねそびれたと思いながら、快く承諾した。
「おめめには、私がトキ時ちゃんの先代さんの頃からお店の花を任されていたって説明したわよね」
「うん」
「あれね、嘘じゃないんだけど本当は少し違うの。いえ、違くはないんだけど、聞いてくれる?」
 そして花ちゃんは語り出す、何年か前の昔話を。あたたかい懐かしさを孕んだ語感と言葉尻に、この出会いに感謝していることが伺えた。

 当時の五十嵐権左は花屋としてまだ駆け出しであった。彼が熱心に探求していた花の道は家元とそりが合わずに道半ばで断念せざるを得なくなり、それでもなんとか花に関わる仕事ができないものかと苦心した結果にようやく辿り着いたひとつの答えであった。しかも東町での商いがどうも軌道に乗らず、諦めを多分に含んだ重い足取りで西町での営業許可を大黒組に取ったばかりの頃。
 己の中にある花への執念と、それに関連した事柄に対する行動力に呆れを感じながら、五十嵐権左は西町での花屋稼業を始めたのだ。
 営業許可だなんて大仰なものをわざわざ取ったが(しかもやくざな組織相手に)、天秤担いで道端で稼ぐ程度ならば本来は必要ない……場合が殆どだ。これは『許可』というよりも、『保険』というよりも、『お守り』に近い感覚である。いわゆる無いよりはマシ、という程度のやつだ。
 場所を変えたとて初めから上手くいくものではないと理解しつつも、明らかな焦りを抱いて彼は西町に立っていた。
 そんな時にふと現れた老人がいた。
「花を二輪、あまり香りが強くないものを」
 そう手短に、切り花をたった二輪。花屋に言うには少し変わった注文をつけるではないか。
……
 短い注文の後に黙りこくってしまった気難しそうな老人へ権左は慌てて花を用意したが、この時なんの花を渡したのかを彼は覚えていない。ただ不思議な感覚とお代だけが手のひらに残った。
 これが五十嵐権左と食事処伊呂波の先代、鎌苅貴一との出会いである。

「西町で初めてのお客さんだったのに、わたし驚いちゃって何を売ったのか覚えていないの。勿体無いことしたわ。それからもね、不定期でやって来ては同じ注文をするのよ。『花を二輪、あまり香りの強くないものを』って」
 花ちゃんは話しながら頬に右手を添えて、懐かしさと己のささやかな失態の恥ずかしさが自分の外へ出過ぎないように調整しているようだ。
「何回も来てくれるから、わたし気になっちゃったのよ、あの二輪を何処に飾っているのか、はたまた誰に贈っているのか。本当はあんまりお客さんを詮索するようなことは聞いちゃいけないのよ、西町では特にね。でもある日、ついね、ついなのよ、『奥様への贈り物ですか』なんて聞いてしまったの。渡した花を前にあまりにも愛おしそうなお顔をするものだから」
 トキ時は、ここを聞くと少しくすぐったい気持ちになった。花を愛おしそうに眺める先代は彼の中の思い出には刻まれていないからだ。それでも草木を愛で季節の移ろいを感じ、料理を追求し、過不足なく他者と触れ合い、親戚中をたらい回しにされていた哀れな子どもを養子として迎え入れ、立派に育て上げる度量があることを知っている。
「そしたらね『いや……でも、そうだな。似たような存在に』って、さっきよりももっと優しいお顔で言うの。この言い方だと妾に渡すだけかもしれないって思うでしょう? 違うのよ、ここでわたしの勘が光ったの。絶対違うってわかっていたんだから」
 花ちゃんは幸せそうに眉毛を八の字に下げて三人を見渡すと、柔らかく瞳を閉じて話を続ける。
「過ぎた詮索をしてしまったかもと後から不安に思ったんだけど、変わらずその後も花を買いに来てくれて……この関係は年単位で続いたわ、やり取りは短くても本当にあたたかい時間だったの。これを続けられるくらいに、わたしがちゃんと花屋として成功できたことも誇りに思ってる」
 誇らしげに少しだけ澄ました顔で笑う彼は、それこそ花のように柔らかく可愛らしく、性別がどうだとか野暮なことを言う気にもなれないくらいに美しかった。誇り高い生き物はみな総じて美しいのだ。
「でもある日からぷつんと来てくれなくなったの。不安で不安で悲しくて……ご病気かしらとか、嫌われてしまったかしらだとか、もうとにかく色々なことを考えたわ。でも名前すら知らないのだから、調べることも人に問うことも出来なかった……何ヶ月も重い気持ちを抱えて西町で働いていたそんなある日よ、トキ時ちゃんが現れてこう言うの『花を二輪、あまり香りの強くないものを』って! 奇跡だと思ったわ!」
 話しながら喜びの感情が昂った花ちゃんは、椅子から腰を浮かせて向かいに座っているトキ時の肩を掴んで楽しそうに揺する。
 しばし「ね! そうでしょトキ時ちゃん!」「おう、おおう、そうだけど、酔う、さっきの饅頭が出ちまう」「やだもう、このくらいじゃ出ないわよ大袈裟ね」と手を緩めることなく戯れていた。こういう時、下手に手や口を挟まないのが羅乃目と良である。巻き添えをくって饅頭が口から出てしまってはかなわない、なんとなく微笑んで眺めるに限る。
 ようやく解放されたトキ時は乱れた着物と前髪を軽く整えつつ茶を口に含み、自身があの注文の文言と花ちゃんに辿り着いた経緯を簡単に説明した。
「ちょっと訳があってな、先代が取り引きしていた仕入れ先を全部調べ直したんだ。その時、事務的に書き留められた一覧表の中で『花 少し似ている
紅柄より唐茶寄り 少し柔らかい毛先 二輪、あまり香りが強くないものを』って書いてあったのを見て……その時はなんのことだかさっぱりわからなかったんだけど、町で花ちゃんを見かけて直感したんだ。先代はこの人から花を買っていたんだって」
「ね、奇跡でしょう。それで思わず声を掛けたの、事情を話して無理を言って伊呂波ここまで着いて来させてもらって、壁の控えめな一輪挿しを見て……それで全部が繋がったわ。あの人はこのお店を心から大切に思っていたから、花を買う時にあんなに愛おしそうな顔をしてくれていたんだって。ここを飾れるお手伝いがわたしに出来ていたことを知って、本当に嬉しかったの」
「花ちゃん、ちょっと泣いてたもんな」
「やだ、トキ時ちゃんたら意地悪だわ」
 再び椅子から腰を浮かせて向かいのトキ時をバシバシと叩く花ちゃんは、「おいおい、痛いってば」と笑うトキ時を確認すると満足そうに着席した。
「ね、おめめ。結果として先代さんの頃からお店のお花をお手伝いしていたけれど、気が付いたのは後からなのよ」
「今では二階にも大きな生け花を飾ってもらってるからなあ。先代の頃は本当に店の二輪だけだったみたいだから、なんだか申し訳ないよ」
 トキ時が「あそこの」という意味で天井を指差している。彼が言っているのは二階に上がってすぐにある、板張りの廊下が一段上がって床の間のようになっている場所だ。そこには実に雅な花がいけてあるのだ。流石に店内を花の香りで満たすわけにはいかないが、トキ時は花ちゃんのいける花が好きだ。正直なところ生け花のことは何もわからないけれど。
「死神はこの話知ってたでやんすか?」
「知ってたよ。この話が現在進行形の時にトキ時の隣にいたのは俺だから」
 羅乃目はふむふむと言い出しそうな唇になりながら、頭の中を整理していく。
「少し似ているって書いてあったってことは、トキさんと花ちゃんが似てるから、先代は花ちゃんからお花買ってたってことでやんすか」
……そう、かな。だな、多分」
 羅乃目からの言葉に胸を詰まらせたのはトキ時だ。
「俺が全然帰らなかったから、きっと寂しい思いをさせてたんだろうな。俺と花ちゃんは年も近いし髪色が少し似ているから、先代は花ちゃんに俺を重ねていたんじゃないかと思ってる」
 あまりにも己の不在が長かったことへの後悔。
 返せなかった恩。儀三郎の言う『砦』は守ることができたらしいが、それで満足してもらえているのかを確認できる日は、もうどれだけ願っても来ない。残されるとは、こういうことだ。
「確かに先代さんはわたしにトキ時ちゃんを重ねていたと思うわ。寂しい思いをしていただろうことは想像に難くない。でもだからこそこうしてわたしたちは出会えたでしょう、そしてお店を飾れるお手伝いを今も続けていられる。これをわたしは心から嬉しく思っているの。きっと何も間違いじゃなかった筈よ」
 花ちゃんはトキ時を励ますつもりで話しているのではなく、事実と自身の思いを述べているに過ぎない。だからこそいいのだ、だからこそトキ時は少しだけ救われるのだ。綺麗事が必要な時とそうでない時の見極めは、大人になるとどんどん上手くなっていく。己はどうだろうか。
「うまくできてる、って思うか?」
「『うまくできてる』? そうね、その通りだわ」
 確認するように微笑み合えば、どことなく似た角度で下がる茶色い二対の眉毛たち。
「ふたりって、笑った顔の系統が似てるかも」
 まじまじとふたりの顔を眺めながら、良は率直に感想を口にした。
「そうか? 花ちゃんの方が可愛いだろ」
「似てるよ。な、おひい」
「うん、わっちもそれわかるー! 眉毛と目のところが似てるでやんす。でも花ちゃんは笑うと口がこうなるから、ここはトキさんは違う」
 そう言って羅乃目は筆を置いて空いた両手を使って『猪目』を作った。さて、ここで猪目を作ったなどと文字で連ねたところでどうにも伝わりにくいだろう、僭越ながらここで解説を。これはつまり『ハート型』である。花ちゃんは笑うと口がハート型になるのだ。大変可愛らしい。
「あらあらそうなの? 自分だと気付かなかったわ。ふふふ、なんだかとってもご利益がありそう。わたしってお寺さんだったのかも」
 冗談を言いながら、花ちゃんも羅乃目を真似して手で形を作った。猪目が縦に二個並んでいると、確かに神社仏閣の柱に施された彫刻を思わせる。
 冗談に乗って、良が花ちゃんに向かって雑に二礼二拍手一礼をした。
「あら、ふふふ。死神さんは何をお願いしたのかしら」
「れんあいじょーじゅ」
 わざと間延びさせた恋愛成就は何か別の意味を持つ言葉のようで、ハナからまるで叶いそうもない。
「神頼みなんてこれ一択っしょ」
「お賽銭がないから残念だけど叶えられないわ。死神さんでも神頼みしたくなる恋があるのね」
 あくまでも神社仏閣(神ではなく、建物側である)としての態度でふざけている花ちゃん。
「えー? そりゃあもう、大人の恋は難しいから」
 どこまでが本気でどこまでが冗談か判断しかねる声色と、小首を傾げてわざと振りまかれる色気。今日も死神様は大盤振る舞いだ。
「そうね、それはわたしも同感だわ」
「じゃあ俺はみんなの無病息災でも願っておこうかな」
 大人の会話を環境音にしながら、羅乃目は無地だった冊子に文字を書き連ねている。途中、思い出したように紙の右上にさくら饅頭の花びらの数を絵で描き留めた。
「おめめ、さっきからそれは何を書いているの?」
「黒がいない間にその日あったこととか、今まで黒に言いたかったこととかを全部書いてるでやんす。それで、帰ってきたら全部読んであげるの。今の花ちゃんとトキさんの話と、これはさっき食べたさくら饅頭の花びらでやんす。黒がいない時に満開が出たら自慢しなきゃ」
「あらそうなの、素敵だわ。今日のこと、黒くんにもちゃんと教えてあげてね」
 よく見れば、余白に猪目も描いてある。
 花ちゃんはまるで先生のように、羅乃目が上手く話を書き留められるように時折り横で言葉を補足してくれた。ひと通り書き留めたことを確認すると満足そうにいつもの早口で締めくくり、満面の笑みで伊呂波を後にする。
 花ちゃんが帰った後、トキ時は羅乃目と鳥笛の練習を少しだけして、良が一旦帰って、仕込みをして、伊呂波の営業をこなして、途中で良が飯をたかりに来て、一日が終わって。
 この日も、日常であった。
 日常であれと努めているからこそ、圧倒的に日常であった。


 そこからさらに数日。
 羅乃目によって努めて整えられた日常は、大人たちの心をやきもきさせるものであった。特に良の。
 日を追うごとにそこはかとなく羅乃目の落ち着きも失われていくように思われ、その点も良の心をざわつかせる要因になっている。潰して話題に上げることを止めた可能性、将軍誕生日大衆謁見の日取りが着々と近付いてきているからだ。
 羅乃目は毎日ひとつずつ、きさき庵でさくら饅頭を買って冊子に花びらの絵を描き込んでいる、まるで儀式のように。満開が出たら、黒骸が帰ってくるかもしれないと期待を込めている儀式のように。
 痺れを切らしたのは良であった。
 営業中に対面式調理場の内側で適当に突っ立って食事をとった死神様は、そのまま店内で適当に時間を潰し、閉店作業の全てを終えて早急に掘立て小屋へと引っ込もうとする羅乃目を捕まえた。
「羅乃目、羅乃目こっち見て」
「むー」
 良は羅乃目の両肩を掴んで自身と向き合わせようとするも、羅乃目はまるで首の座りきらない赤子のようにふにゃりと首を傾けて良の視線から逃れている。羅乃目も気付いているのだ、良はもう見逃してくれないのだと。
「羅乃目」
 ささやかな攻防の末に、良は羅乃目の肩ではなく頬を両手で包み込んで引き寄せた。が、顔が固定されていようが視線だけ逸らすことは可能だ。わかりやすく逸らした羅乃目の視線は意味もなく中を漂っている。
「羅乃目、俺を見て」
……ん」
 遂に観念したのか、申し訳程度に重なる視線。良はようやっと羅乃目を捕まえることに成功した。
「羅乃目、駄目。ちゃんと俺を見て」
 それでもすぐさま逸らされてしまう視線を、名前呼んで都度戻させる。
「羅乃目、何があったの?」
 羅乃目は瞬きだけをして、居心地が悪そうに口をへの字に曲げた。それでもこの手を容易に振り解くことができる彼女がされるがままになっている、良からの言葉を一応は受け止める意思があるらしい。
「羅乃目、じゃあ、これから何が起きるの?」
 返事がないので質問を重ねる。どれかひとつくらい答えが帰ってくることを願って。
「これからどうなるの?」「正解じゃなかったとしても、羅乃目がわかってる範囲のことを俺に教えて」
「羅乃目はなにか知ってるの?」「なあ、お願い。羅乃目」
 逸れる視線を戻させる作業を繰り返しながら、同じ質問の言葉を変えたり角度を変え、良は根気よく何度も羅乃目の名前を呼んだ。他の誰でもない、羅乃目に話しているんだという意味も込めて。
「羅乃目は信用してもいいの?」
 この質問でも彼女は動かなかった。これまでのどの質問も特筆するような反応は得られず、事態は並行線だ。それでも良は何も見逃さないように神経を研ぎ澄ませている。
「黒を信用してもいいの?」
 この質問で、羅乃目の瞳孔が揺れた。
 このまま崩せると踏んだ良は、少しだけ声色を強くする。
「羅乃目、お願い教えて、言わなきゃわからない」
 ──言わなきゃわからない。
「じゃあ……
「!」
 ようやっと開かれた小さな口に期待して、良は体に力が入る。
「じゃあ死神は全部ちゃんと言えるでやんすか」
 羅乃目は静かに言い放ち恨めしそうな顔で良の手を振り解くと、完璧な力加減で良を横へ突き飛ばして道を開け、土間を駆け抜けて行った。
 突き飛ばされた良は無造作に並んでいた予備の椅子たちに背中から突っ込んで、思いの外大きな音がした。尻もちをついて呆然としているその顔には「やらかした」と後悔が書いてある。
「怒らせちゃった……
「今のはお前が悪いぞ」
 あえて口を出さずに見守っていたトキ時は複雑そうな表情で対面式調理場から出てくると、ひっくり返った椅子の間に座り込んだままの良の前に立った。
「はあ……わかってる……わかってる、ごめん」
 苦虫を噛んだような顔で眉間を押さえながら、良は自分を責めた。北町の死神様の情けない姿などトキ時は見慣れたものであるが、やはりらしくない。
「俺じゃなくて羅乃目にな」トキ時は良を立たせる為に手を差し伸べ、「謝るなら早めが一番」と立ち上がらせた勢いで土間の方へと良を引っ張った。
 無言で頷いて中庭に広がる夜の闇に消えた良は、驚くほど早々に店内へ戻って来た。暗い表情のまま。
「謝らせてもらえなかった。今は俺のこと嫌いだってさ、今は駄目って」と申し訳なさそうに報告し、「俺、全然冷静になれてないな、とんでもない馬鹿だ……悪い。明日また出直す」と告げて北町へと帰って行った。
 やはり、らしくない。
 食事処伊呂波は急襲の余波に苦しめられていた。


 翌朝の掘立て小屋の中は、以前と同様に整っていた。黒骸が居なくなって幾分広さが増したように感じる箱の中は、羅乃目の力だけで保たれていた。
 それぞれの縄張りとでもいうのだろうか、ここには誰のものを仕舞うだとかここは半分ずつ使うだとか、そういった決め事に則って回っていた空間は、ひとりになっても相手の領地を侵すことなく静かなままであった。
 その秩序の中に、今は壁に沿って布団が敷かれたままになっている。
 既に起き上がっているにも関わらず、羅乃目は布団から出ることを渋っている様子であると見受けられた。腰から下を安心感とぬくもりで包んで、もうここから出たくない。
 勿論ここにくるまでも時間を要した。頭まで被ったそれを自身の首元でぎゅっと掴んで起き上がりたくないと丸まり直し、壁に額を当ててうんと小さくなって、少し唸って。それでも上半身は這い出てきたのだ、彼女を寝汚いなどと言う輩は申し訳ないが即刻お引き取り願う。
「ねえ羅神」
……どうした」
……いなくっても、今までと全然おんなじで過ぎていくんでやんすね」
 羅乃目は何が、誰がを明言しなかった。それでもここに当て嵌まる者はひとりだけである。言葉にするのはあまりに酷だ。
「それが生活だろう。それこそ十二年前もそうだったではないか。お前はここに居てここで生きている、お前の状況は変わっていない。それに変わらないように細心の注意を払っているのはお前自身だろう」
 羅神の言葉は装飾がなく、時に羅乃目にとっては冷たく聞こえるものであった。しかしもう羅乃目はとっくに知っているのだ、羅神が意地悪でこのような言葉選びをしているのではないということを。生きている者は変わらずに生きていかなければならないのだと。あくまでも、主軸は己に置いて。
「羅神」
「どうした」
「かなしい」
……
 あまりにも真っ直ぐな吐露に、羅神は自身が獣の形であることを初めて悔やんだ。十二年前には考えもしなかったことだ。
「さみしい」
……そうだな」
 羅乃目は羅神の首元へ顔を突っ込んで、目一杯息を吸って、それから吐いた。
「くるしい」
……そうだな。悲しくて、寂しくて、苦しいな」
 この黒い毛皮は、雨庸の鱗肌よりは羅乃目を温めることができるだろうか。無い手足よりは前脚がある方が人型の真似事として通用するだろうか。
 羅神も無意識のうちに甘えていたのかも知れない、羅乃目を一番に思い、抱き締めてくれる黒骸という存在に。いや、「かもしれない」ではない。間違いなく甘えていたのだ。だからこそ十二年前は獣型である己を悔やんだりしなかった。人型で両腕があれば、羅乃目を抱き締めてやることができるなどと思う必要がなかったのだから。
 羅神としては最大限優しい声色の同意に包まれた羅乃目の吐息が小さく震え、湿り気を帯びて毛皮の隙間に入り込む。
 本来ならば、人間ならば、無が広がっているそこに全てを委ねて。
「そろそろ起きなければ、トキ時が心配して様子を観に来るぞ」
 紅族が信じて全てを捧げるそれを、人間は見ることも聞くこともできない。それはなんだか酷く、頼りない姿に思えた。
「ん……わかってる。今日も、大丈夫」
 黒骸が居ない生活に、誤魔化しが効かなくなってきている。
 その日、良はこの頃では珍しく日中に店へ顔を出さなかった。黒骸が行方をくらませてからは必ず日に二回、伊呂波へと足を運んでいたのだ。本当に友だち思いで律儀な男である。
 流石に思うところがあるのだろう、己の大人げなさだとか、不甲斐なさだとか、そう、もう全部だ。
 冷静になろうと努めているのか、逆に頭を空っぽにする為に狂ったように女遊びに興じているかのどちらかだろうか。
 彼は伊呂波の営業が終わる少し前にやって来て、二階に上がる細くて急な階段に腰掛け、店の全てが終わるのを待っていた。あまりにひっそりとしているものだから、トキ時がうっかり良が来ていることを忘れてしまうくらいに。
…………
 土間に居れば羅乃目を逃さないと判断しての陣取りであったが、これは徒労に終わった。否、羅乃目が捕まらなかったわけではない。羅乃目から良の元へ来たのだ。
 暗い階段の途中で腰掛ける良を、少し見下ろす高さの羅乃目の視線。
「羅乃目、昨日はごめん。昨日のは、全部俺の都合だった」
 きちんと立ち上がって謝罪をするべきかと思ったが、良が立ち上がれば羅乃目よりも当たり前に大きくなる。上からの謝罪もあまり印象がよくないだろうと一度座ったまま伝え、続きを立ち上がって話すことにした。
「偉そうなこと言ってさ……俺も全然言えないよ、言えない。自分ができないのに人にだけ求めるのは違うよな。ごめん」
 羅乃目はきゅっと唇を閉じて謝罪に対する返事はしないまま、まるで迷子のような表情で良を見ていた。
 良としても、しっかり謝罪はしたいが「この件についてこれ以上言及しない」わけではないので次の言葉に迷っていた。冷静になろうと一日中ひとりで考えていた言葉は、口から出なければなんの意味も成さない。
 ああ、言えないのだ。言葉は口にしなければ意味がないというのに。
 唇を開いて、閉じて、心細そうに立っている羅乃目を見つめて、良は胸が苦しくなって……
 良は羅乃目を抱き寄せた。
 ほとんど無意識のうちに。
 羅乃目は嫌がることなくその桜吹雪の腕と顎の下に収まった。腕を回し返すようなことはしなかったが、なんとなく頭の重さを肩に預ける。良からは良の匂いしかしなかったので、かえって羅乃目は胸がぎゅっとした。眼前に広がる鮮やかな桜吹雪は、良の呼吸に合わせてゆっくりと舞う。
 良は色々な感情を乗せて、できるだけ強く羅乃目を抱き締めた。あまりに衝動的な行動だった。自分でも不思議に思っていた、むしろ一種の違和感にも近かったかもしれない。こんなに下心がまるでない異性との抱擁は、親族と幼少期に交わした遠い記憶の彼方にあるのみだ。
……ねえ死神」
「なに」
「わっちも死神みたいに腕と足に桜をばーんてしたら、わっちってあんまりわからなくなる?」
 謝罪に対する返答ではないが、大人しく腕に収まってくれていることを思えば、それは一度横に置いておいても問題ないだろう。良は羅乃目から来た新しい問いに集中する。彼女の中だけで用意されて整えられていた突飛で尚且つ脈絡のない問いは、良でなければきっと拾いきれなかった。
……なるよ。羅乃目が思った俺の第一印象がその答え」
「じゃあ腕と足に目一杯模様がほしいでやんす。彫るんじゃなくて描くだけど、死神できる?」
「なに、俺を誰だと思ってんの? 必ず羅乃目が納得いくものにできるよ……でもそんなことしてどうすんの」
 ここで良は羅乃目の肩を両手で掴んだまま体を離して視線を合わせる。彼女はもう、先程までの迷子のような心細さを微塵も感じさせない姿に戻っていた。
 意思を固めた、気高い獣。
 羅乃目は目を逸らさず、真っ直ぐ見据えてこう放つ。力強く。
「黒骸を迎えに行く」
……居場所、ちゃんと掴んでる?」
「今どこに居るのかは、だけど、どこに行くのかはわかる」
 良は、羅乃目を信じる他なかった。
「黒骸を迎えに行く」


     *


 さて、この日常をどうしたものか。
 いや、この先は日常として続いているだろうか。
 仮に日常ではないとして、ハレとは限らない。ケの可能性もある。
 ケケケ、なにかが笑う。
 今はただ、その先が乗り越えられるものだと信じている。


次話

第十六話、月の裏側の話(あるいは新月の話)