三角リョヲヘイ
2026-05-03 11:47:32
30320文字
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月に鎮め/本編小説、第十六話

月の裏側の話(あるいは新月の話)

きらきらのツギハギだらけのお月様。
月が見えないと、こんなにも暗いのですね。

第十六話
月の裏側の話(あるいは新月の話)



羅乃目らのめ……紅族。第十九代統領
黒骸くろむくろ……紅族。羅乃目の許婚
羅神らじん……羅乃目に憑いている黒い狼の憑守つきかみ
雨庸うよう……黒骸に憑いている白い大蛇の憑守
鎌苅トキ時かまかりときじ……憑守が見える、食事処伊呂波しょくじどころいろは二代目店主
天河良あまかわりょう……通称「死神」。伊呂波のケツ持ちをしている彫り師
桃雄ももお……貸本屋
鹿角善平かのつのよしひら……槍術道場の師範代



 耳を塞げ、今すぐに。


     ◇


「法で裁けない悪党なんざ掃いて捨てるほどいるさね。だか、そいつらを前に泣き寝入りするのかどうかはてめえで決められるってもんだ」
 そしてもう一度ぶつかる視線。しかし怯えているのは見せかけだけだ。腹の底は決まっている。
「特別にもう一回だけ聞いてやろう……そいつ、俺が殺してやろうか」


──『血殺仕置人 上』より、一部抜粋


     ◇


 意思を固めた羅乃目のひと言は、店側に居たトキ時の耳にも届いていた。
 黒骸を迎えに行く。
 はっきりと言い切った羅乃目の声色と反比例するかのように、トキ時は弱々しく縋る思いで土間を覗き込む。
「トキさん」
 ぱっと目が合った羅乃目から反射的に名を呼ばれた。羅乃目の立ち位置からトキ時は死角になっていたが、恐らく気配や匂いで気付いていたのだろう。
「だからわっち行くね」
「あ……
 羅乃目が何処へどれだけの時間行くのかを確かめたい気持ちが喉を通り越えて舌を振るわせて声になる直前。トキ時は自分の耳にだけ聞こえる嫌な音と喉の振動を伴ってそれを飲み込んだ。
「ッ……待ってろ。わかった。でも、待て」
 トキ時は右手のひらを羅乃目へと突き出して、全身で「待ってくれ」を表現する。そして次の言葉を出すまでに、ほんの一呼吸の間が必要だった。
「お弁当、お弁当用意してやるから」
「ん」
 羅乃目は唇をきゅっと結んで、ごく短い返事をする。良が羅乃目越しにトキ時へ向かって軽く頷いて目配せした。
 早速トキ時は本日の営業の残り物と、すぐに用意が出来そうな弁当に使える献立を脳内で羅列することから始める。本当は目一杯時間を掛けて丁寧に作りたかった。これは食事に対する彼の姿勢の表れという意味もあったし、どうしてかなるべく時間を稼いで、ふたりが店を出ていくのを先延ばしにしたい気持ちの表れでもあった。でもきっとそれが許される場面ではない、わかっていたから、なるべく手早く済ませる。
……よし」
 営業の残り物を、ということもあったので、トキ時は店の対面式調理場で支度を始めた。
 こんにゃくとごぼうを炊いたもの、好評なのでここ数日用意している小ぶりなじゃがいもを甘辛い味噌で炒めたもの、それから大急ぎで木綿豆腐に焼き色をつけて、卵も焼いて、少しだけ残っていた冷えた米を丸く握ってこれも焼き色をつける。羅乃目が美味しいと言ってくれる特製のぬか漬けを切る。弁当と呼ぶには米が少ないので、何か隙間を埋められるものを……
 無言で準備を進めるトキ時を羅乃目と良は調理場に面している席に並んで座って、眺めていた。そうだ、羅乃目はこれから出掛けるというのに支度のひとつもしないで、良と並んで座っていた。
 並んで座って、互いに面している方の手指をゆるく絡めるように繋いでいた。おそらく後からふたりに何故この行動を? と尋ねても、どちらも明確な理由がわからないだろう。少なくとも、今ここで必要だったということだけが確かだった。
 皆がみな、言い表せない不安を抱えている。
 この時間帯、ソレとコレは寝床に帰っている。
 羅神はずっと何も言わず、あえて誰の視界にも入らないように土間で身を潜めている。
 羅乃目と羅神と良が出ていくと、トキ時はひとりになってしまう。
「はい、お待たせ」
「ありがとトキさん」
 お待たせというほど待たせていないのに、トキ時は定型分のようにそう添えると風呂敷に包んだ曲げわっぱを羅乃目に手渡した。
「食べ終わったら曲げわっぱはすぐに洗えよ。それから清潔な場所で乾かしとけ。結構繊細なんだからな」
「わかった。それは俺がやっとくから」
 良は弁当を受け取った羅乃目の両肩に、後ろから軽く両手を乗せる。
 まるで「大丈夫だから」とでも言うように。
 誰に、でもなく。もしかしたら自分にかもしれない。
「あのね、トキさん。失くさないように預かってて」
 弁当を右手に持ち替えた羅乃目は、左の拳をぐんと握りしめてトキ時に差し出した。羅乃目は物が何かを言わずに、こうやって「むん」と人に物を渡すことが多い。トキ時は既にそれを知っている。だから羅乃目の左手の下に自分の手を添えた。
 ころりと出たのは四人でお揃いのまん丸な根付け。「ら」と一文字記されているそれは直前まで体温の高い羅乃目が握りしめていたので、ほのかに温かい錯覚を覚えた。
「持ってて」
……わかった」
 黒骸が置いていった根付けも、羅乃目ではなくトキ時が預かっていた。今トキ時の手元に「と」「ら」「く」の三つが揃っている。
「んと、貸本屋がそろそろ来るでやんす。本は小屋に置いてあるから」
「わかった……
「ん。死神、行こ」
「はいはい。じゃあトキ時……」急かす羅乃目を軽く宥めながら良はトキ時に視線を合わせる。「行ってくる。俺は明日も明後日も、その次も来る。心配すんな」
「してない。お前がいたら大丈夫だろ。羅乃目を頼んだぞ」
「任せてよ」
 北町へ向かって背中を小さくしていくふたりと一匹を、トキ時は店の前に立って完全に見えなくなるまで眺めていた。
 羅乃目と羅神と良が出ていってしまったので、トキ時はひとりになってしまった。
 前はそれが当たり前だった。
 賑やかさが去ればいつだってひとりだった。
 最近だって、たまにあった。
 当たり前が当たり前でなくなって、あたたかさを知って、そっちが当たり前になって、もう元には戻れなくなって。
「明日ソレとコレが来た時に、俺ひとりで上手くやれるかな」
 着物の下に隠すように首から下げた鳥笛を指でなぞった。
 暗闇で、ひとりが浮き彫りになる。


「羅乃目が俺のところに居ることは、あまり知られない方がいい?」
「んと、多分、そう」
「俺はこれから羅乃目が何をするのか知らない方がいい?」
「ん……と。うん。多分知らない方がいい」
「羅乃目に描く彫り物みたいな絵は、俺のってわからない方がいい?」
「うん。できる?」
 羅乃目と良は北町へ向かいながら、ごく小さな声で囁き合っていた。
「勿論。俺を誰だと思ってんの?」
「死神でやんす」
「正解。じゃあちょっと擬装するか、念には念をってことで」
「?」
 良はぴたりと足を止め、あまりに急だったので咄嗟に止まれなかった羅乃目に二歩ほど戻って来るように手招きした。
「俺の長屋に女が居ることは何も珍しくない。でもそれが羅乃目だと知られることはあんまりよくない、んだよな。とりあえず詳細は聞かないけど……
 良はお得意の立ち方で、わざとらしく羅乃目を流し目で捉えた。少し微笑んでいる。
「『じゃあお姉さんさ、俺のとこで遊ぼ。絶対後悔させない。いっぱい気持ちいことして、全部忘れちゃお』」
 羅乃目は「ぴよ?!」の口とまん丸の目になって、一瞬羅神へ視線を逸らした。
「見知った顔の目撃者がいるかも知れないから、ここから演技を始めろということだろう。他人から一方的に認知されている可能性も考えられるからな。とにかく年頃の女の真似事をしろ、今だけは紅族の統領でなくていい」
 羅乃目が「はへ……?」という困惑と照れの混ざった表情で(内訳としてはほぼ困惑である)良へ向き直れば、良は羅乃目の頬へ左手をするりと伸ばし、空いている右手で羅乃目の結ってある髪を解いた。
「『だめ、逃がさない。あーもう抱えて行っちゃお』」
 良は左手の親指で羅乃目の唇を軽くなぞりながら顔を近付けてくる。羅乃目はただただ、ど真ん中に困惑している。
「俺が抱きかかえて長屋に入れば顔も隠せるし、背丈も体格もばれにくい、満更でもないけど恥ずかしがってるふりでいいから、して」
 近付けた顔が一瞬真剣なものに戻り、良は的確に指示を出す。
 そして近付いた勢いで羅乃目を横抱きに抱えると、「『はい捕まえた。ほらもう諦めて。履き物落とすと困るから脱いで、俺にちょうだい、こっちの手』」とわざとらしく甘い声色で羅乃目の耳元に囁いた。
 羅乃目はただ本当に心からびっくりしていた。もうあえて言うなら「びっっっっっっっくり」していた。人間にこんなことを許す羅乃目ではないが、良はとにかく隙がなく流れるように自然にやってのける。なんかもう本当にすごい、死神すごい。死神様すごい。百戦錬磨の女たらし。なんか怖い。すごい。正直逃げ方がわからない。訳がわからない。でもなんだか流されて一本下駄を素直に脱いじゃう……である。
 文体が乱れたこと、誠に申し訳なく思う。心からの謝罪を述べて、気を取り直して続きを。
「なるべく俺の方を向いて密着して顔を隠して。俺が女の子抱えて歩いてること自体はそんなに珍しくないから」
「わ、わあ……
 女の子を抱えて歩いていることがそんなに珍しくないという事実を掲示され、羅乃目の頭上から疑問符が数えきれないほど浮かんでいる。それでも同時に理解しているのだ、何も言えない伝えない自分に合わせて最大限この場を上手く見せる手立てを良が実行してくれているということに。
 羅乃目は言われた通りに桜の胸板と肩の辺りに顔を埋めるように近付けた。羅乃目は良とくっついていることに抵抗がない。ちなみにトキ時もそうだ。羅乃目にとって良とトキ時は良とトキ時なので、手を繋いでもくっついても別に大丈夫なのだ。いいのだ。
「死神」
「なに」
 良はちいさな羅乃目の声を聞き逃さないように少しだけ首を傾けてくれた。
……突き飛ばしてごめん。痛かった?」
「大丈夫、痛くなかった。俺も羅乃目の気持ちを考えないで酷いこと言ってごめん。羅乃目の方が痛かったよな……仲直りしよう。これでこの話はおしまい」
「ん」
 良の頬と羅乃目のおでこが軽く触れ合う。羅乃目は弁当を胸の上で抱え直した。
……死神」
「なあに」
「黒がいない間にあったことを書いとくやつ、伊呂波に置いて来ちゃった。明日持って来てほしいでやんす。お財布はね、トキさんが買ってくれたやついっつも持ってるでやんすけど。だからお金はちゃんと持ってるでやんす」
「ええ……? ふふ、いいよ、わかった。おひいさんてのは、このくらいわがままでないと」


 翌日、トキ時は二階から嫌に静かに感じる伊呂波に降りて来るまでに少々時間が必要だった。気持ちとしては臨時休業にしたいという思いが強かったが。店主としてまだそれを決めかねていた。
「たまにはいい、よなあ」
 重い頭を支えて、ぼやきながら細くて急な階段をのそのそと降りてくる。
 羅乃目と黒骸が来てから臨時休業にしたのは、確か火事があった時と、羅乃目と一緒に攫われた時と、南町へ旅行に行った時と、あと……
……もしかして、いや、しなくても意外と臨時休業してる、な?」
 ふたりが来る前よりも物理的な営業日は増えている。そして無理をしなくなったからか風邪などのささやかな体調不良を起こさなくなったので臨時休業自体は減っている、が。
「全然たまにじゃないな……あーソレとコレに相談しよう」
 まだひとりでは意思疎通が少しも取れない烏たちに今日の営業の有無を相談しようというのだから、随分とまた酔狂な話である。それだけトキ時は疲れを感じていたし、なんだか布団の中でうずくまっていたい気持ちであったし、とにかく寂しかった。そうだ、休業にすればソレとコレと一緒に居られるではないか。ソレとコレがトキ時だけの場合にどこまで言うことを聞いてくれるかは全くの未知であるが。
「あー、いや。良に相談すればいいのか」
 昨晩、羅乃目と共に北町へ消えてしまった親友が何故か真っ先に頭に浮かばなかった。それだけトキ時は混乱していた。あの時からずっと混乱して困惑して取り乱して焦って慌てて自責の念にかられて切羽詰まっている。
 この男、休んだ方がいいのだ。
 それこそ、あたたかくて美味いものを腹一杯食べて休んだ方がいいのだ。
 幸い稼ぎは悪くないし、南町で働いていた頃からの貯えもしっかりとある。
「とりあえずもう風呂行こう。長風呂、しよう、そうだな。うんうん」
 ぼそぼそと独り言をこぼしながら、一段ずつ階段を降りて来る。わかりやすく、頭を少し掻いたりして。
「あ、いや……そういえば、そろそろ貸本屋が来るんだったっけな」
 土間に着地し勝手口をがらがらと開けると、ソレとコレが既に来ていた。トキ時はしゃがみ込んでひと言。
「よう、おはよう」
 二羽は首をくるくる傾げながら、それぞれ「カア」だとか「カー」だとか言っている。一応は挨拶をしてくれていると前向きに判断して軽く鳥笛を吹いた。鳥笛の使い方としては用途を外れている様に思えるが、こういった決まり事や法則を作っておいた方がいいらしい。とにかく鳥笛の音とトキ時に慣れさせる作戦だ。実際にトキ時が単身であっても、今のようになんとなくカタチをなしている。
 たった数日でここまでそれらしく見える仕上がり。「紅族の統領とその憑守が単なる友好関係ではなく使役を目的として動物を調教することの影響力の強さは、人間の想像を遥かに超えてくる」という認識を持っていただければ相違無い。現に二羽は今ここに居ない羅乃目の言うことを聞いているに過ぎない。だがいつかこの関係性が変わるだろう、本来であればもっと気長に取り組むべき課題だ。
「なーんか俺、独り言増えてるよな」
 いつもは独り言のつもりだったとしても反応を返してくれる人がいるからな。と口の中に残して、今度はソレとコレの為に昨晩から水で戻しておいた煮干しを用意している。トキ時は残飯ではなく専用で二羽の餌を用意していた。できる限り食事に気を使うのは、トキ時なりの他者の思い方のひとつである。
「まあ、お前らはちゃんと自分たちで餌取って食べてるみたいだけど」
 やたらとお喋りになってしまっている自分に自覚を持ちながら、トキ時は今一度しゃがんで地面に煮干しを置いた。
「なあー、二羽ふたりは今日、伊呂波を臨時休業してもいいと思うか?」
 トキ時はソレとコレを「二羽ふたり」と人間のように呼称している。これは本人にも特に理由はなさそうだが、なんとなく親しみを覚えやすいかもしれない。かもしれない、程度のことは脳の端っこで思っている、かもしれない。
 煮干しを啄み瞬膜をぱちぱちさせながら、流石に何も鳴き返してくれない烏たち。やはりこういった内容は人間の親友に相談した方がいいだろう。
「だよなあ……
 自分の行動に呆れた笑みを浮かべながら、ひとり分の朝食を用意する。
 そして朝食を食べ終えた頃であった、訪問者が現れたのは。
「やあこんにちは、おはようございます。いつも皆様に最適な本を、貸本屋の桃雄でございます」
 前回店にやって来た時とは少し違う雰囲気の話し方と謎の口上を述べながら、貸本屋の桃雄が伊呂波の戸を叩く。
「お、来た来た」
 トキ時は手早く食器をまとめると、「はーい」と返事をしながら店の戸を開ける。トキ時と桃雄はこれが初対面だ。それ故に、桃雄が前回と少しばかり話し方が変わっていても気付きようがない。
「やあどうも、そして前回は見なかった顔だ……もしやここで生活しているもうひとりかな?!」
「え? あ、はい。ええと、店主の鎌苅トキ時です」
「やはり! やはり、やはり。新規顧客獲得の可能性をびんびん感じるよ」
 格好をつけているのかいないのか、桃雄は不敵な笑み(という前向きな受け取り方も出来る、なんとも形容し難い笑み)を浮かべながら伊呂波の戸をくぐって来る。
 トキ時はふたりから事前に聞かされていた桃雄という貸本屋の情報と、今目の前にいる現実の桃雄があまりにも合致しすぎていて内心笑っていた。事前に聞かされていた情報というのは桃雄の髪型のことである。
「おや、今日は羅乃目さんと黒骸さんは不在かな」
 桃雄は背負っていた本を床に下ろして腰に手を当てている。
「っと……そうなんです。でも俺が話を聞いているので大丈夫です。今返却する本を取ってくるので待っていてください」
 桃雄の禿げ上がった頭頂部と突然黒々とした長い剛毛の生えてくる耳の付け根辺りの境目を思いながら、トキ時は無遠慮に掘立て小屋へと足を踏み入れて本を四冊手に取った。
 チラリと見渡した小屋の中があまりにも整ったままであったことが逆に気がかりだったが、それを伝える相手も問う相手も隣にいないので、なるべく気にしないようにして直ぐに店へ戻った。
「お待たせしました。こちらですよね。ありがとう
ございました」
「ああ、ありがとう。確かに受け取ったよ」
 トキ時は四冊重ねてまとめて渡せばいいところを羅乃目が借りていた二冊、黒骸が借りていた二冊のふたつに分けて両手でそれぞれ手渡した。桃雄もそのまま両手でそれぞれ受け取る。
「どうだったかな。読んだ本人ではないから分かる範囲で構わないけれど、どちらの本を楽しんでいたかなど、第三者として気付いたことはあったかな」
 貸していた本の感想が気になるのは貸本屋として当然である。初回のご新規様に最適な本を渡せることの方が稀であろうから、いかに次の本を好みの物に近付けるかが今後の仕事に直接関わってくるのだ。
 その言葉に、トキ時は桃雄に返した本の表紙へすっと手を伸ばす。
「羅乃目は本当にこの本を気に入っているみたいです、何度も読み返していました。それになんてったって毎日少しだけ音読して聞かせてくれるんですよ。気に入っている部分なのか、なんとなくなのかわからないですけど。役に入り込んだみたいなわざとらしい言い方をするから、俺にはどうにも面白くて」
 血殺仕置人 上
 そんな題名が書いてある。
 羅乃目が毎日楽しそうに音読してくれていたそれ。
 初めて「そいつ、俺が殺してやろうか」と音読した時には驚いたものだ。どうやら決め台詞らしい。他にもたくさん音読していた。何度も読み返して、何度も音読して、続きが読みたいと目を輝かせていた。音読の内容から察するに、目を輝かせて次を求める類の作品ではないのだろうなと思いながら、トキ時は眉毛を緩やかに下げてそれに応えたものだ。
「そうかそうか。そんなに気に入ってもらえたなら貸本屋冥利に尽きるってものだ。黒骸さんの方はどうかな」
「黒はこっちの歌集の方をよく読んでいました。本人にも聞いたんですよ、そっちの方が好きなのかって。そしたら、『こちらの歌人は雪景色の描写が多いので好きです』って、言ってました。だから、きっと、間違いないです」
 トキ時は桃雄の手にある本の表紙を指でなぞった。伏目がちになった彼の頬にまつ毛と前髪の影がほんのり落ちる。いまはここにいないふたりをおもって。
「いやあ助かるよ。じゃあ次は血殺仕置人の中と、同じ歌人の歌集かな」桃雄はここで言葉を切ってトキ時に向き直った。「ああでも、おふたりは不在だから……
 どうしたものかな、と続きそうなところへ、トキ時が進言する。
「あの、確かにふたりは不在ですし、正直ちょっと立て込んでいて戻りが不確定なんです。少しかかりそうで。でも帰ってくるので」トキ時はここで一度言葉を切った。僅かに詰まらせたような余韻がある。「……帰ってくるので、それまでは俺だけ本を借りていてもいいですか。俺があなたから本を借りていれば、ふたりが帰って来た時にそのまま本を借りられますよね」
 桃雄のなんとも嬉しそうな表情とは反対に、トキ時は何処となく不安そうだ。何故ならば、「いやでも、こんな西町のはずれまで来て客が俺だけなんて採算が取れないですよね。昼間も安全とは言い難いですし。ふたりも次の返却日までに帰ってくるかはなんとも言えないところだから……
 だから断ってくれても構わない、という続きを最大限匂わせて、トキ時はちらりと桃雄を見下ろした。今回ばかりは眩しい頭頂部も不自然なくらいに立派な残っている髪も気にならない。
「まさか! 本を必要としている人がそこにひとりでもいるならば馳せ参じるのが貸本屋。私は既に羅乃目さんに血殺仕置人の最終項までしっかりと読んで結末を見届けてもらわなければならないし、黒骸さんには同じ歌人のもっと様々な歌と風景を届けなければならない。そこをトキ時さんが気にする必要はないよ、私は誇り高き貸本屋として義務を感じている。是非また足を運ばせてほしい」
 桃雄は返却された本を山に戻してトキ時に向き合った。
「さて、本の好みを教えてもらえるかな」
 そうしてトキ時は、とある料理人が旅をしながらその土地土地の郷土料理を味と作り方の両面から解説している『料理人万歳』という本を借りた。これは御伽話の類ではなく、いわゆる現実話である。既に何作か出ているうえに、著者である料理人はまだ旅を続けているらしい。
 自分の好みに合った本を貸してもらえたトキ時はパッと嬉しくなって、とにかく誰かに自慢したくなって、桃雄が帰った後に大急ぎで中庭に出て鳥笛を吹いた。
 ソレとコレは掘立て小屋の屋根部分で羽を休めていたが笛の音に反応……だけして、こちらを一瞥すると直ぐにそっぽを向いて降りて来てはくれなかった。
……くっ」
 分かり合えるのは、いや使役して協力してもらうにはまだ先が長そうだ。
 トキ時はギュッと眉間に皺を寄せて苦い顔をする。相談も自慢も、人間の親友にするべきであろう。深呼吸して背伸びをする。
「はあーあ」
 そして最後にため息を追加。
 こういう時こそ日常を遂行するべきだと思い立ち、ふたつ並んだ漬け物樽を混ぜることにする。大切なぬか床だ。手を動かしている方が気が紛れるという効果もあった。
…………
 丁寧に、丁寧に。
 ていねいに、ていねいに。
 ふたりが来てくれたから、負担が減ったから、手が空くようになったから、調子に乗って漬け物樽をふたつに増やしたのだ。
 混ぜ込むぬかが、どうしてか、重い。
 なるべく時間をかけようと思っても、あっという間にぬか床は美しい姿に整ってしまった。表面をならされたその下には根菜たちが食べてもらえる瞬間を待ち望んでひっそりとしている。
 食事は、誰と食べるかも大切である。
…………
 いつも通りであれば親友がそろそろ来る筈だ。本当は早く来い、早く来いと心の中で唱えている。 
「早く来い……
 心の声が思わず口からまろび出た頃、トキ時の心中を察してか否か限りなく普段通りの態度で良がやって来た。
「よ。やってる?」
「まだだ。知ってるだろ」
「知ってる。来たよ」
「おう、待ってたからな」
 今朝あったソレとコレとの交流や、貸本屋桃雄がいかにふたりの説明通りだったかの話、それから借りた本の素晴らしさについて興奮気味にトキ時は良に語った。少し、わざと、興奮気味になることでカラ元気を装っていたのかもしれない。トキ時はあえて羅乃目のことを聞かなかったし、良も聞かれなかったのであえて話題に上げなかった。
 それからトキ時と良は話の流れで、伊呂波の二階で件の梅の絵が描かれている皿を探すことにした。あえて文字で伝えるのならば、部屋の左右それぞれを担当区分として。時折り良が「これ開けて確かめていい?」などとトキ時へ許可を取りながら。
 探し始めてかれこれ四半刻くらいだろうか。それなりに時間が経過しているにも関わらず、ふたりの顔にも必死で探しているといった色は浮かんでいない。手付きはゆるやかさが目立つ。
「なあトキ時」
「んー?」
 一応は動き続けているゆるやかな手付きに合わせたかの様なゆるやかな声は、積まれたあれこれに吸い込まれてその余韻を残さない。
「本当に梅の皿なんてあるの?」
──本当に梅の皿なんてあるの?
 言葉を投げられた当のトキ時は、「ええ? なんだよ」などと独り言を呟きながらも手を止めない。つまりは探し続けている。
……
 完全に手を止めている良へ背中を向けたまま、「下に無ければここしか仕舞う場所ないからなあ」とトキ時は質問の軸を外して適当な返事をした。
……
 良は何も言わなかった。ただ手を止めて、探すことをやめないトキ時を眺めている。トキ時も気付いているのだ、部屋を物色する音がふたつからひとつになって、己の背中にぢっと視線を向けられていることを。
 元からゆるやかだった手の速度をより遅くさせながらも、トキ時はやめない。
……最初、言い出した頃合いが妙だと思った。あの時お前も言ってたよな、花ちゃんと何度もお茶してるし梅も季節じゃないのにって。それにお前が俺になんでも話してるだなんてこれっぽちも思ってないけど、だとしてもそんな皿の話は聞いたことがない。皿を思い出す機会なんて過去にいくらでもあった筈だ」
 トキ時は手を止めない。先ほどよりもまた一段と手の速度を落としながらも、探すことをやめない。
「お前、『全然違うことで頭いっぱいにしようとしてる』だろ。今考えるべきじゃないことをあれこれと無理矢理考えて、今向き合いたくない話題から目を逸らしてる。だから有りもしない梅の花の皿なんて言い出した。違う?」
 それから良は自分が担当していた区分を右手で軽く指し示しながら、「大人ふたりでこれだけ探して、皿が見つからないわけないだろ。だとしたら、初めから無かったって結論になる。もしくはあったけど既に無い」と付け足した。
 文字だけを追えば、それはトキ時を責める言葉にも見える。しかし良の語感はあくまでも平時と変わらず、むしろ「これ美味いからお前も食ってみ」くらいの軽やかさと、あたたかさすら混じっていた。
 付け足された台詞まで耳に入れて、ほぼ止まりかけていたトキ時の手がようやっと完全に止まる。振り返ってひと言。
……もう少し現実逃避に付き合ってくれてもいいだろ」
 いたずらがばれた子どものような表情で、つまり、少しバツの悪そうな笑顔になったトキ時はこう続けた。
「でも……半分当たりで、半分はずれだ」
 半分という部分に向けて、良は話の続きを促す為にトキ時へ向かって軽く顎をしゃくる。その表情は穏やかであったし、少しもトキ時を責める要素を含んでいなかった。
「全然関係ないことで頭をいっぱいにしたいってのは、そうだな、多分、当たりだ」
 トキ時は自分で確かめるようにここで言葉を途切る。そして諦めたように一度ゆったりとした姿勢に座り直した。
「俺も……俺も実はよくわかってなくてさ、その、今の俺の感情? とか、思考の感じ、とか」
「人に話せばまとまるかもよ」
 あえて目を閉じながら、良は「どうぞ」の手でトキ時を促した。今回は話させた方がいいと判断したのだろう。
……皿はさ、あるんだ。皿はある。だから、半分はずれだ」
 一度息を吐き切ってトキ時は脱力していた体に力を込めると勢いをつけて前のめりになり、積まれている物の隙間に迷いなく手を突っ込んだ。
「ほら」
 ひとつの迷いも淀みもなく取り出された平たい立派な桐の箱は、大ぶりな皿を収納する為のものに見える。蓋部分には文字が書かれている、皿の作者名だろうか。ある種記号のように崩されたそれを初見で素人が読み取ることはできなかった。つまり名高い職人が作ったかなり上等な代物であるということだ。
「でもさ」
 良に中身が見えるように少し角度をつけながら、トキ時は蓋を開いた。
「割れてるんだ」
「!」
 良の視界に入った皿は全体の三分の一が欠け、よく言えば三日月のようなやや大きめな欠片と、その時拾えるだけ拾った物と思わしき細かい欠片がいくつか同梱されていた。
「割ったんだ俺が。俺が、割った。まだガキの頃に先代の手伝いがしたくてこれを抱えて重くて落として」
 箱を抱え込むようにして背中を丸め、トキ時は言葉を絞り出した。
「おれがわった」
 良はまだトキ時に話したいことがあるように感じられ、隣に座り込んで背中を軽く叩く。
 それをわかってか無意識か、トキ時は心境の吐露を続ける。
「意味わからないだろ、俺だって自分でも意味がわからねえと思ってるよ。割れてるって知ってたし、だから今までお前との話題に出すことはなかったし、土間じゃなくてここに仕舞ってあることも知ってた。でも、でもなんか、もしかしたら割れてなかったかもしれないって急に思って。それになんかしてないと駄目で、間を埋めたいみたいな気持ちになって、あの時……
 トキ時は言葉を切って、もう一段階背中を丸めた。
「お前は北町で風呂が違うから多分知らないと思うんだけど、黒の腹には大きな傷がある。あのサラシの下、向かって右斜め上から臍を通って左斜め下に抜ける傷」
 良は突然方向転換をした話に一瞬戸惑ったが、トキ時の中では繋がっている話なのだと自分に言い聞かせて、無言のまま小さく頷いてみせた。
 トキ時は良の反応を確かめてはいなかった。ただ全部話してしまいたかった。話して、できれば離してしまいたいたかった。ひとりで抱えられなくなってしまったから。どうせはなせないのに。
「ど素人の俺にも想像がつく。多分あれは、そう、誰かに斬られた跡だ、きっと人間に斬られた傷だ。振りかぶって斬りつけられた向きの傷だ」
 良はトキ時からの言葉をひとつも逃さないように受け止めている。トキ時だけでは持てない物を一緒に持つと決めたから。取り分は自分が多くてもいいと、あの時親友に言ったから。
「俺たちは何も知らない。紅族じゃなくて、あのふたりを知ればいいと思っていたけど、でももうとにかく何も知らないんだ、ふたりのことでさえも。馬鹿だ。知ろうとしていなかったかもしれない」
 良はトキ時の背中を時折りさすりながら、「もう少し早く言ってくれてもよかったのに」と、ほんの少しだけ思っていた。トキ時はひとりで持ちきれなくなってしまったから、今回の件を自分のせいだなどと思っているのかもしれない。確信も確証も無いくせに、「絶対に違う」と思っているから。もっと早くから対処できていたならば結果は今と同じでも、親友の心を少しだけ軽くできたかもしれないから。
「俺は出会った当初から知ってた、黒の腹に傷があることを。でも聞くべきじゃないだろ? 他の風呂の客もそうだ、だってここは西町なんだから。野暮な質問も詮索も御法度だろ」
「ああ……そうだな」
 良は手のひらでトキ時が大きくため息をついたことを感じていた。ゆっくりと開いて、閉じる、背中。
「羅乃目、さあ。『いってきます』とか『ただいま』って言わないんだ。話の流れで何処に行ってくるとかは言うんだけど、そういうのは言わないんだ」
 また、話が変わる。
「羅乃目の中で、ここは帰ってくる場所じゃないのかもしれないって、ずっと思ってた。俺はずっと不安だったんだ。今回の件、どっちに転んだとしても、もうふたりがここに帰ってくることはない気がする」
 トキ時の頭の中で、お土産としてふたりに贈った根付けがころころと並んでいる。何故、贈ったはずの根付けが今自分の手元に三つも揃っているのか。
 トキ時は別離を恐れていた。過去に体験したそれと同じことを経験するのは、まっぴらごめん被ると思っている。仮に別離が訪れたとしても後悔したくなかった。それに大切にしたい人とはなるべく一緒にいた方がいいと、羅乃目も言っていたではないか。違ったのだろうか。己が間違っていたからこうなってしまったのだろうか。なんの話だっただろうか。
……トキ時、その皿ちょっと預かっていい?」
「どうするんだよ、こんな割れてる皿を」
 トキ時が言いたいことを一旦吐き切ったと推測される沈黙が訪れると、その沈黙が不快に変わる前に良が口を開いた。返すトキ時の声色は、普段の彼よりも明らかにぶっきらぼうで負の感情を纏っている。
「トキ時は金継ぎって知ってる?」
 しかし、そんなことに動じる良ではない。
……しって、る」
 既にこのトキ時の声色には、つい今し方己が放った言葉の刺々しさを自己嫌悪している様子が伺えた。
「その皿を、金継ぎで直そう」
 まだ弱々しくもハッとした顔と良の目が合った。やっとトキ時が顔を上げたのだ。
「どの職人がいいとか、店がいいとか、今は何もあてがないけど、きっとじじいに聞けば何かしら教えてくれるだろうから」
 良は皿を抱えるトキ時の肩に腕を回した。
「当然、完璧に元通りにはならない。でも、割れた皿は直せる」
 これが正しい行動だと信じて、親友を引き寄せる。肩がぶつかり合い、ふたつの頭はそれぞれ相手の方へ傾いた。
「直せる。金継ぎは継ぎ目も綺麗だよ、トキ時」
 勿論相手によるという前提はある。だがわかりやすく安心を伝える為のこういった行動は、言葉で補い切れない余白を埋めてくれる。
「なあ、『好きかも』は大事にしてもいいんだよな」
 いつか親友に言われた言葉をトキ時は思い出していた。
……そうだよ」
……じゃあ、じゃあ俺はこれを大事にしたい」
「うん」良はトキ時に悟られない程度だが声が震えていた。「俺も」
 食事処伊呂波はその日、臨時休業した。


「死神、トキさん元気だった?」
 良の長屋でいい子にお留守番をしていた羅乃目は良の姿を確認するなり、「とてて」と小走りで近付いて家主の帰宅を歓迎した。
「流石に今の状況だと、なかなか元気でいるの難しいかな」
……
「それをこれから羅乃目が大丈夫にしに行くんでしょ?」
「んん」
 わかりやすく「ショモ……」としおれた羅乃目の返事は鼻の奥で詰まって、曖昧な響きになっている。彼女はきちんとわかっている、全部自分のせいで、それをなんとかできるのも自分だけだと。
「トキさんのお弁当美味しかったって伝えてくれたでやんすか?」
「ああ……うん、ちゃんと伝えたよ。あと、はいこれ、黒がいなかった間に起きたことを書いておくやつ」
「ありがと!」
 良は嘘をついた。
 トキ時の吐露以外で羅乃目の話題が出なかったのはトキ時が『わざと出さなかった』からだと判断して、あえて言わなかった。しかし、トキ時が作った弁当が美味しいのは当たり前だ。感謝を伝えられなかったことは反省しているものの、美味しかったということは伝えなくとも確定しているのだ。問題ない。
「死神の、それなんでやんすか」
 羅乃目が目を引いたのは、良がトキ時から預かってきた梅の皿である。今は桐箱ごときちんと風呂敷に包まれている。
「ん? これは大事なやつ。触んないよ」
「わかった!」
「じゃあ朝言ってたことは決めといた?」
「うん、ちゃんと考えてたでやんすよ」
 朝言っていたこと。これは時間を少し遡って簡単に状況の説明だけしよう。しばしお付き合い願う。

「墨を入れるんだったら、腕と足だけに入れるってことはまずない。少なくとも俺のやつみたいに胸辺りまで入ってるだろうし、背中にも入ってる。まあぶっちゃけると俺の墨はまだ途中なんだよ、そのうち腕と胸と背中はちゃんと埋めて繋げる。足も増やして九分くぶにするかなあ……ええとつまり、どこまで墨を入れる予定の奴を想定していて、どこまで施術が済んでいる奴になりたいかってこと」
 羅乃目はまだ少し言葉を理解するのに脳みそを使っていた。
「本物っぽさを追求するならちゃんと考えた方がいいし、全部やるなら例え着物で見えない部分まで全部しっかり描いた方がいい。適当だと見る奴が見たら即気付く。墨か絵か、じゃなくて図案として成立しているかどうかって点でな。俺は気が付く自信がある」
「はわ……
「逆に金が足りなくて途中でやめた奴っていう設定も有り。袖の延長部分を筋彫りで終わらせる、とか。もし途中なら途中でも、俺は彫り師として一回の施術でキリがいいところっていう進行具合で終わらせることができる。あともしくは途中で安い彫り師に変えた奴とかも想定できるかな、その場合は繋ぎ目から絵柄の雰囲気を少し変える」
「はわわ……
 羅乃目は決して忘れていたわけではないが忘れていた、目の前にいる死神様が『華やかな絵柄だったら北町で一番腕がいい彫り師』だということを。『誇り高き彫り師』だということを。
「絵柄は俺のってわからない方がいいんだよな、そこはどうにでもしてみせるから安心していいよ。ただ俺はやるからには半端なことは絶対にしない。いい?」
「わ、わかってるでやんす」
「羅乃目はかなり華奢だから俺が普段施術してる絵柄の大きさや感覚、間隔もか……だと上手く収められないかもしれない。羅乃目がそれを決めた後にも体に合わせて図案をまとめる時間が少し欲しい。羅乃目の想定に間に合う?」
「間に、あう。だいじょぶでやんす。まだちょっと早い。もしぎりぎりになっても、わっちが走ったらいいからだいじょぶ」
……わかった、じゃあ俺がトキ時の所に行ってる間に決めておいて」

 というのが朝言っていたこと、である。
「んと、腕は死神と同じでここの辺りまでにして、背中と、胸? のところを繋げて、それで、腕のここまで伸ばす途中にして、あ、彫り師は変えないでやんす。足も死神みたいに全部じゃないけど入れるでやんす」
 羅乃目は目一杯に身振り手振りを交えながら要望を伝えていく。
 つまり大体は死神様と同じ構成で、腕胸背中を繋げて完成させ、袖を五分から九分に延長している途中にしたいということらしい。
「よし、わかった。何か入れたい絵は決まってる?」
「どうしよう……お月様はほしいでやんす。あとは、んん、あんましそういうのわからないから任せるでやんす」
「おー。お任せとはお目が高い。任せな。羅乃目が羅乃目じゃなくなるくらい強い彫り物にしてやるよ」
「お願いします!」


 翌日の晩のこと。なんとか金継ぎと良のおかげで持ち直したトキ時は伊呂波をしっかり開店させていた。
 ひとりでの営業は久々であったが元はひとりでしっかり店を回していたのだ。確かに大変だ、大変だが今までやっていたことだと冷静になれば滞りなく回せている。
 愛すべきお行儀のよくない常連客たちも、どうやらひとりしかいない店員を必要以上に煩わせないようにという共通認識を持ってくれているらしい。作法を知らない常連未満の客たちには、それとなく常連がご指導ご鞭撻している。ありがたいことだ。
 そんな中ひとりの男が入店した。身長の高い、目つきの鋭い男。
 男は「いらっしゃい」と声を掛けたトキ時を視線で捉えると、迷いなく調理場と対面している座席へ着席した。
「いらっしゃい。何にしましょう」
「君が『トキさん』かな」
「え? ああ、俺が店主の鎌苅トキ時です。あなたは……羅乃目の?」
 トキ時は男の口から出た『トキさん』という呼び名を元に、自分と目の前の男との繋がりを手繰り寄せた。トキ時を『トキさん』と呼ぶのは羅乃目だけなのだ。
「そう。君が不在の間に休業中のお店に来て、お腹を鳴らして羅乃目ちゃんにおにぎりを作ってもらった、どうしようもないおじさんだよ」
 男は猛禽類のような鋭い目を目一杯優しいものにして、存外親しみやすい表情で笑った。
「僕は鹿角善平。東町で槍術道場の師範代をしているんだ、よろしくね」
「ああ、あなたが……!」
 トキ時は善平のことも勿論ふたりから聞いていた。
「君のご飯が美味しいって聞いてたからね、今日は門下生の勧誘じゃなくて食事だけしに来たんだ」
……なかなか、あれですよね。他に類のない勧誘方法と言うか」
 トキ時は事前に聞いていた善平の槍術道場の門下生の増やし方を思い出しながら言葉を濁した。売られた喧嘩を全部買って「僕に負けたら道場に体験入門してもらうからね」と言って片っ端から勝っていく……端的に言えば非常に暴力的だ。
「まあね、でも色々考えて試したうえで一番よかったのがこれだからさ。こうしてこの店との縁も結ばれたわけだし」
 善平はなんてことなさそうに笑顔でトキ時を見つめ返す。なんなら背景にゆるい画風の花でも飛んでいそうだ。
「縁、確かにそうですね。じゃあ縁が途切れないように美味しい物を出さないといけませんね。何にしましょう」
「お腹にたまる物がいいな。こう体が大きいとすぐお腹が空くんだよ」
「あはは、うちの黒もそうなんでわかります。じゃあおすすめで何品か。お燗はつけますか?」
「そうだね、一本頼むよ」
「はい!」
 束の間、トキ時は現状の羅乃目と黒骸を忘れてただ楽しい気持ちになった。そうだ、己はこうやって客と交流しながら店を回すのが好きだ、大好きだ。料理も大好きだ。今は自分のできることをするべきだ。あのふたりが帰ってきた時、何も変わらずに迎えてあげられるように。
「あ、ねえそういえば、羅乃目ちゃんと黒くんは今日いないんだね」
 だから善平からのこの問いにも、上手くするりと答えられた。
「黒は今田舎に帰っているんです、ご両親の具合がよくないとかで。俺も詳しくは知らないんですが、少々やっかいなこともあるみたいで戻りがわからないんですよ。羅乃目は仕事ですね、便利屋の。ちょっと大きめというか、ひとりなのに、なんかそういう仕事が入ったみたいで数日空けるとのことです。丁度ふたりともいなくて、なんだかすみません」
「そうなんだ。んーそれは確かに残念だけど、また来る口実ができたから僕としては問題ないかな。そして既にいい匂いがする、きっと君のご飯は美味しい」
 善平はここに入ってから笑顔を絶やさない。意識的に笑っているのかとにかくこの状況が楽しいのかトキ時にはわからなかったが、なんとなく気持ちが楽になった。
 思い詰めすぎるとささやかな「楽になる」を見落としてしまうのか、とトキ時は自戒として胸に刻んだ。落ち込み切ったら、なるべくは前を向いていた方がよさそうだ。
 料理を提供した後も善平は嬉しそうにトキ時に話しかけてきた。これが美味しい、それも美味しい、みんな美味しい、来てよかった、僕は嬉しい。だとか。
「あ、君の仕事を邪魔しちゃいけないよね。ごめんごめん。僕はつい話し過ぎちゃうところがあるんだ。黙っていた方が女の子が寄ってくるってたまに言われるくらい。もうこの年だと今更って感じがするんだけどね」
 善平はそう笑って肩をすくめるが、あまり反省はしていないらしい。
「いいえ、料理の感想が聞けて俺も嬉しいですし」トキ時は一度言葉を切って、調理台の一番右端に小鉢を乗せた。「タカノさん、ほら高野豆腐!」
 おそらくタカノさんであろう男がいそいそと料理を取りにくる。いつも高野豆腐を頼む常連のタカノさんとは彼のことである。
「うちはこういう感じなんです。俺が誰かひとりに独占されてる日も珍しくないんですよ、噂話とか痴話喧嘩の愚痴とかで。だからお客もみんな慣れっこです」
 今度はトキ時が肩をすくめて善平に笑いかける。
「ここに食べに来たくなる魅力、なんだかわかるな。ここはあったかいね。ひとりでご飯を食べたくない日にふらっと来ても、なんとなく仲間に入れてもらえる感じがする。大前提として料理が美味しい、店主の人柄もいい。その証拠に店内ぎゅうぎゅうだし」善平は目を一層細めて笑った。「次また来る口実なんてなくても、来るよ。少し遠いのが悔やまれるね」
「ありがとうございます」
 単純に、この為に伊呂波を続けていると思える瞬間だった。先代に伝えたい。そしてここにふたりもいたらきっともっと嬉しかったのに、とは考えないように心の隅に一度追いやる。
「色んな方にお礼を言って貰えるんですけど、こう、こんなに丁寧に伝えられると照れますね」
 恥ずかしがっていることを紛らわそうと、トキ時は何かを手早く用意して善平の前にずいと出した。
「俺からのお礼です、内緒ですよ。是非また来てください」
 小皿に乗ったトキ時特製のぬか漬けだ。
「うわ嬉しいな、どうもありがとう。羅乃目ちゃんと黒くんからの縁、きっちり繋がったね」
 トキ時は羅乃目と黒骸が太都に来てからの軌跡を少しだけなぞったような気持ちになった。
 ふたりは間違いなくここに存在していて、間違いなくここで生活をしていた。そして今後の生活の約束みたいなものも確実に残している。それがたまらなく愛おしく、たまらなく胸を締め付けた。
「またお待ちしてます」
 結局最後のひとりになるまで店にいた善平を店先まで出て見送り、トキ時はまたひとりになってしまった。
 と、思いきや。
「どうだ、調子は」
「羅神」
 闇に溶けて黒い狼がやって来た。人間には見えないのだから、闇に溶けるもなにもないのだが。
「今夜は死神が来られないそうだからな。私が代わりに様子を見に来た」
……良、来ないのか」
「私で残念だったな」
「いやちが! んもー違うって〜」
「別に弁解しなくていい」
「するよ〜させてくれよ〜らじん〜」
 いつの間にか、トキ時は羅神にかなり砕けた態度を取れるようになっていた。否、ここまで砕けているのは今が初めてだっただろうか。これだけ不測の事態が続いているのだ、ここにもその歪みの余波があっておかしくはない。
「そこまで言うのなら聞いてやろう」
 羅神はトキ時のこの態度自体は気にしていないらしい。
「いや、飯を一緒に食べられるかなと思ってたから少し多く準備というか、残っていると言うか」
「成る程な」
 今回の件が起きてから良が連日ほぼ決まった時間帯に顔を出すようになっていたので、今日もそうであろうとこっそり多めに営業中に仕込んでおいたのだ。別に明日の朝食べてもいい、そのくらいの日持ちはする。ただ親友と食卓を囲めるつもりでいたから落胆も大きいのだ、どうか彼を責めないでやってほしい。
「ご相伴には預かれないが、見守ってやろう。何か話したいことがあれば私が聞いて死神や羅乃目に伝える」
「羅神〜」
 抱きつけない羅神に抱きつく素振りだけして、トキ時は食事の用意を始めた。流石の羅神もこれには驚いたのか、人間にはわかりにくい(ほぼ判別不可能だ)驚きの表情をみせていた。同時に「かなり切迫詰まっている」にトキ時の状態を位置付けた。
 トキ時は慣れた手つきで羅神へ供える分の小皿を用意して床に並べていく。本日の献立は冷えた米と長芋の醤油漬け、八杯豆腐、揚げ出し大根である。少々根菜に偏りがあるが、飲み屋の残り物ご飯とは往々にして偏りが生じるものである。これが通常だ。ちなみに毎回営業終了後に食べるわけではなく合間を見て途中で食べてしまうこともある。勿論交代で、だ。要はまかない飯である。
 羅神へは米と長芋の醤油漬けを用意した。
 トキ時は羅神と雨庸を「ふたりは神様なんだろ?」と食事の際に自分たちと同じ物を小皿に分けてお供えしている。憑守は食事は必要ないのでそれこそ本当にお供えであるし、いつもであれば最終的に羅乃目と黒骸の胃袋へそれぞれ収まる。しかし今日は……
「羅神は鹿角善平って人、知ってるよな? 今日店に来てくれてさ。羅乃目におにぎり握ってもらったおじさんだよーなんて言って、面白い人だったな。羅神が来る直前まで店にいたんだ。最後まで残ってて。たくさん食べて飲んでくれて、いいお客さんだよ」
 トキ時は冷えた米に八杯豆腐のとろみのついた汁を少しかけるようにして食べていた。あまり行儀はよくないが、普段も冷えた米はみそ汁などに入れて食べてしまうので結果として見た目に大差はないだろう。
「店のこと、褒めてくれてさ。料理も美味いし、俺の人柄もいいって。照れちまうよな、そんなこと言われると」
「お前の人柄のよさは我々も今更言及しないからな。常々思ってはいるが」
「褒めてくれていいんだぞ。俺は褒められて伸びる」
「そうかそうか、覚えておこう」
「あ、ちょっと投げやりな言い方だな? 褒めてくれよ?」
……お前は本当にいい人間だ」
 軽いやり取りだった筈なのに最後の羅神の声色が、ぐっと真剣な方向へ舵を切った。
 トキ時は口に入れかけていた大根をそのまま皿へと戻した。
……羅乃目がやろうとしていること、羅神はわかっているのか?」
「ああ」
「黒骸が何処にいて……いや、何処に行こうとしているかも、何をしようとしているのかも?」
「そうだな。予想の範囲を出ないが、おおよそ間違いではないだろうところまで辿り着いている。だからこそ羅乃目が動く」
 トキ時は再び大根を箸で掴むと今度こそ口へ放った。そのまま丁寧すぎるくらいに咀嚼して、ほとんど口の中から無くなったのではと勘違いするくらい咀嚼してから、「…………」口を開かなかった。
「何も問わないお前に、感謝している。知らない方がいいという可能性も秘めているがな」
……聞いていいなら、俺だって聞くよ。教えてくれよ」
「却下だ。今し方の私の言葉を聞いていたか?」
「俺だけ仲間はずれか?」
「死神も知らない。あいつも知らぬまま協力している。これは紅族の問題だ」
 人間はお呼びではないということだ。
「俺は、紅族との混血かもしれない」
「そうだが、確かめる術がない」
「俺には紅族の何ひとつも背負わせちゃくれないのか。俺の親は、大切に思っていた猫は、紅族と憑守だったかもしれないんだぞ」
……気持ちはありがたいが、お前は背負わずともいい。人間にとって我らは害悪が形を成した物に過ぎない。お前がこちら側へ来る必要はない」
「羅乃目と黒だけに背負える問題なのか?! 人間年齢よりもまだ幼くて、ほんとに、本当にまだ子どもじゃないか……!」
「お前は何も知らないだろう。紅族が人間からどのような扱いを受け、結果としてどうやって命を落としたのか。人間はそれを『する側』だ。我らを獣だ害悪だと称する人間の方が余程獣で害悪だ。それを余すことなく体験し、見て、その上で羅乃目と黒骸は生きている。だから背負っている。お前に何がわかる? 何も知らないお前に背負える物など何ひとつ無い」
 トキ時の気持ちはまた急速にしぼみ、次のひと口など喉が通らない程であった。
 やはり自分は何も知らない、わかっていない、仲間でもないと目の前を暗くしているうちに、気が付けば羅神はいなくなっていた。ほんの一瞬目を離した隙に。
「あの黒猫と同じだな」
 食べなければ体力が持たないことを知っている。味がしなくても喉を通らなくても食べて生きて、明日も伊呂波を営業する。
……食べないと」
 生きるとはこういうことだと、トキ時は頭ではわかっていた。
 何か刺激を得ようとして、意味もなくわさびを少し擦っておかずに乗せた。

 さて、こちらは変わって死神様の住む華鉄長屋の一番奥の部屋。早々に戻ってきた羅神を迎えたかと思えば、「トキ時を突き放してきた。今後の展開いかんではこの方が正しいだろう」という報告。
 羅乃目は予定になかったその展開に、ほんの刹那唇に力を入れたが、確かに羅神の言う通りかと思い直してそのまま死神へと報告した。
「ごめん死神。羅神がこの後どう転ぶかわからないからトキさんのこと結構突き放してきたって」
「なに、自分たちとは関係ないって主張する為?」
……死神はわっちらに何かあっても、絶対にトキさん側につくでやんしょ?」
 羅乃目は質問に答えなかった。
……そうだよ」
「ん。じゃあそうなったら、そうして」
「わかった。でも」良は羅乃目と目線を合わせる。「そうならないって約束して」
 返答に困っている羅乃目の腕には、もう綺麗な桜吹雪の絵が描いてあった。ある程度は普遍的で大衆的な絵柄を用いることで彫り師側の個性を消す作戦らしい。
……わかんない」
 羅乃目の口から溢れたのは、不安に染まった言葉だった。
「わかんないでやんすよ、わっちも。絶対できる、けど、わかんないし、大丈夫だけど、じゃないかもしれな、い、から……
「ごめん」
 羅乃目の中でずっと張り詰めていた物を、この瞬間に切ってしまったかもしれない。話しながらみるみる曇っていく表情と、小さく震える声に良はハッとした。
「ごめん、羅乃目」
 また咄嗟にその細い肩を引き寄せて、抱き寄せた。今できることなど、たかが知れている。
「ごめん……今日はもう終わりにして寝よう」
……んん」
「羅乃目が一番不安で、一番怖いよな」とは言えなかった。少し眠って、また心を整えられるように尽くしてやるしかない。現状を打開できるのは、今頼りなのは、羅乃目ひとりであることに変わりはないのだから。
 代わりに良は羅乃目を抱き寄せたまま何もない空間へ右腕を伸ばした。
「羅神、何処にいる?」
 ここへ来てほしいという意味だと受け取った羅神は、するりと近付く。良の腕の高さは羅神の体高に合っておらず、胴体を突き抜ける形となっているが問題ない。
「羅神、ごめん、羅乃目に……
 良が言い切る前に羅神は突き抜けた腕をもっと突き抜けて、鼻先を良の顔へグッと近付けた。
「わかっている。謝るな。お前は、本当にいい人間だな」
「二回もこんな顔させて、ごめん……
 人間の良には、憑守である羅神の声が聞こえない。見えない、わからない。
 良は良で、トキ時とは異なる疎外感のような物を抱いていないわけではなかった。自分だけ憑守がわからないのだ。
 みな、少しずつ、ひとり。

──さてさて、もうひとつ場所を変えて見ておかねばならない場所がある。これで最後だ、ここまで来たのならお付き合い願おう。
「オメエ本当にやるのか」
「今更だな。何の為に準備してきたの」
「今からでも遅くねえだろ」
「ただいまーって、何食わぬ顔で伊呂波に帰る? 俺にその選択肢はないかな。雨庸ひとりで帰ってもいいよ。俺はどれだけ離れていても大丈夫だからね」
「オレァそういう話をしてるんじゃねえよ」
「じゃあ羅乃目のこと?」
「他に何があるってんだ。あいつをひとりにしてどうする。というかオメエがひとりになってどうする。どう転んでも死ぬぞ」
……何にせよ、いつか決着をつけなくちゃいけなかった。人間とも、俺自身とも。それが今だっただけだよ」
 蛇が二匹、細い月に照らされていた。


 翌日の夜、良は荷物を抱えて伊呂波へやって来た。
「うお、どうしたその荷物たちは」
「羅乃目の着物とか、下駄とか」
…………
 トキ時は、何故そんな物を良が持っているかを聞いていいのか考えあぐねている。
「黒を迎えに行くって。俺の適当なお古を着せて草履履いて、一応顔隠して走ってった」
「お前は」
「羅乃目は」
 良はトキ時の言葉を遮る。不安げなトキ時の声を、強く、遮る。
「羅乃目は、黒と一緒に帰ってくるから伊呂波で待っててほしいって、言ってた。トキ時によろしくって。大丈夫だからって、言ってた」
……信じるよ」
 目一杯時間をかけて、希望を込めた言葉を口にする。トキ時に今できることは、他に無い。
……結局俺の読み通りだったかも。将軍大衆謁見まであと三日。羅乃目の足なら山の中通っても南町まで余裕で辿り着ける。羅乃目は第一印象で自分が自分だとわからないようにする為に俺に全身に彫り物みたいな絵を描いてくれって頼んでた。黒が何処に行くかはわかるってことは、黒の目的がわかってる」
 お互いに、どう言葉を繋げるべきかを探り合っている。
 大人はふたり、立ち尽くしたまま探り合っている。続きを話していいのか、話すのか、聞いていいのか、聞くのか。
「羅乃目は将軍の元へ行く黒を止めて、連れ帰って来るつもりなんだと思う。ひと言も教えてくれなかったけど、多分、他に無い」
 沈黙を破ったのは良だ。トキ時は眉間にぎゅっと皺を寄せ唇を真一文字にして、何も言えないままでいた。
「俺たちは無関係ってことにする為に何も言わなかったんだとは思う。羅乃目に描いた絵も俺のだってわからないようにしてくれって頼まれたし、羅乃目が俺の長屋に居たことも知られない方がいいとも言っていたから、トキ時しか知らない」良は言葉を切って、体重をかけている足を入れ替えた。「羅乃目は、失敗する可能性を考えて動いてる。羅神というか、羅乃目に聞いたんだけど、お前羅神に結構突き放されたらしいな。愛想尽かして欲しかったのかも。お前は優しいから」
「俺は!」
 そこまで聞いたトキ時がやっと口を開く、しかし予想に反して力強い発音と語気である。
 良へ向かってトキ時なりに最速で距離を詰め、その両腕で、正面で向かい合うように良の肩を掴んだ。
「俺はそんなんで愛想尽かしたりしない! 俺は俺の『好きかも』を大事にする! 確かにあの時はすげえ悲しかったけど、どうせそんなこったろうと思った! 俺の読みは正しかった! 待つ! 俺はふたりがちゃんと帰ってこられるように、今までと同じように過ごす!」
「なに、そんなの当然だろ……待とう。待っててくれって言われたんだから」
 良は肩に乗せられたトキ時の手を上から包むように自身の手を添えた。
「じゃ、ふたりでただ待ってるってのも芸がないし、せっかくだから一体感を得る為に一発いっとく? 俺ちょっと溜まってるんだよね。やってたら楽しくて待ちの時間なんてあっという間だから」
「やらねえよ?! 馬鹿か?! 流れで許可すると思ったか?! 俺は騙されないからな!」
 良の手を振り払い、どたどたと後ずさる。
「やだあ〜トキちゃんてば。どう考えても今こそでしょ。開発する時間も含めたら丁度いいってば」
「か、かっ?! 馬鹿だろ?! 絶対言いたくないし嫌だけど言うぞ! 言うからな! 一回死んでくれ!」
「ざーんねん。死神は死神のお迎えには来ないんだよ。諦めて?」
「俺は絶対に諦めない!!」
 伊呂波の中でふざけた鬼ごっこをする大人と大人。良も一応は本気ではないのだが、今回は少ししつこさが目立つような……
 だが少なくとも、ここは大丈夫そうだ。
 ふたりで待っていてもらおう。


「山での潜伏なんて久々でやんすね」
「前も潜伏していたわけではないだろう。生活、だ」
「山、やっぱり一番いいなあ」
 深呼吸をする羅乃目は、羅神と共に既に南町に面した山中へ身を潜めていた。
 時の将軍漁倉頼朋あさくらよりともが座する太都城は、背後を山という天然の要塞に任せた梯郭式を用いた城造りがされている。これは城を城郭の片隅に配置し、その周りを二の丸三の丸で囲む配置方法だ。
 将軍大衆謁見が行われるのは城の三の丸前にある開けた場所。羅乃目の今いる場所からよく見える。
「将軍も三の丸前の広場に来るでやんすかね」
「いや、場内から顔を出す程度らしい。つまり大衆は見下ろされるかたちになる。しかも御簾越しにな。本来であれば将軍が三の丸なんぞに現れることはないし、民衆も立ち入れない領域の筈だ。確かに年に二回とはいえなかなか大胆な催し事だな」
 羅神は人間の地位と権力を見せびらかす方向性のおかしさに顔を顰めた。
「それで何かまつりごとが上手くいくとでも言うのか」
「人間の考えてることなんて、わかんないでやんすよ」
 羅乃目は岩肌に座り込んで膝を抱えた。その足には鯉が泳ぎ、額彫りを見立てた絵も入っている。腕もそうだ、五分袖の桜吹雪とそれを延長しようと九分袖部分まで筋彫りを見立てた絵が入っている。流石は腕利き彫り師の仕事、細い羅乃目の体に合わせて絵柄を調整し、収まりをよくしている。見えていない肩と胸部分には阿吽で狼が入り、背中には月と蛇を主とした図案が入っていた。
「うまくいくかな」
「いくだろう」
 不安で羅乃目は膝の間に顔を埋めた。
 羅神がすかさず寄り添い鼓舞する。
「大丈夫だ、私がついている」
 来てほしいような、ずっと来ないでいてほしいような、羅乃目にとって今日はそんな日であった。
 全部が今日片付いて、また伊呂波での生活に戻れる。またみんなできさき庵のさくら饅頭を食べて笑える。
……はず」
「どうした」
「ううん。そろそろ行こう」
 山から降りる。三の丸を、将軍大衆謁見の会場へ向かう。
「上からで御簾越しなんて、本当にそいつが本物の将軍かどうかわからないでやんすよ」
「そうだな。だがこの催しは過激な倒幕派連中の恰好の的らしい、これはある程度の信憑性が確保されていると判断してもいいだろう。故に警備も厳しい」
「持ち物を確認されるけど、明確な身分の証明は必要なかった筈でやんすよね」
「そうだ、一応は身分を問わず太都の民衆が謁見できる場だからな。しかし普通の人間ならば持ち物を確認されるだけで十分だろう。将軍がいる高さまで登れるわけでもない、遠距離狙いだとしても鉄砲を隠して持ち込むのは不可能だ」
 人間相手の警備が紅族に通用するか、という話である。つまりは無意味だ。ある程度の高さなど紅族の運動能力を持ってすれば容易に登れるであろうし、素手で人間をどうこうするなども特に問題なく、である。少なくとも羅乃目には。黒骸も、おそらくは。
「黒に、気が付けるかな」
「あの身長と髪色だからな、本人も対策しているだろうが……お前が黒骸を見つけられない筈がない」
「黒が仕掛ける前に捕まえたい」
 羅乃目はするすると山を降りて行く。
 良のお古を男着物の着こなしで、尻端折りをして足を出す。この道中でわざと汚した手足で貧困層というよりはその道の下っ端を装う。髪はきつく結んで一本にまとめ、ほっかむりをして髪と顔を隠す。いつだったか、猫をいじめていた人間を山でいじめ返した時と少し似ている。
「人間て……
「どうした」
 聞きたくもないくらい低俗な理由で猫をなぶり殺してばらばらにしていた人間の女。人間はあんなのだから、十二年前のあんなことが起きた。
 筈なのに。
「人間て一種類じゃないんだって、ここに来ないと知らないままだったかも。知らないこと、たくさんあった。きっとまだある」
……そうだな」
「最初に会ったのがトキさんでよかったな」
「そうだな」
「わっち、トキさんと死神は好きでやんすよ。最近はそうかもって人間、ちょっと増えてきたかもしれない。全部は全然好きじゃないけど」
 羅乃目は考えながら話している。山を降りながら、考えながら。
「黒は、わっちとおんなじ気持ちじゃなかったでやんすね」
 だからこんなことになっているのだと、わかっていながらも口に出さずにはいられない。
「黒骸にも確かにその兆候はあった。お前と黒骸が同じ気持ちだったとしても、今この状況に辿り着く可能性はある」
「そんなことあるでやんすか?」
 羅乃目と並走している羅神は、視線を前方から逸らさずに告げた。
「男には、決めねばならない時があるということだ」
「全然わかんないでやんす」
……わかっていても、半端なままにしてはおけないということだ」
 羅乃目がまだ何か言いたげであったが、羅神がそれを制した。
「そろそろ人里だ、私は口を閉ざそう。羅乃目、集中していけ」
……
 突然山から人が降りて来れば不審がられる、時を見計らってひとまずは素早く雑踏に紛れた。
 大変ありがたいことに将軍大衆謁見の為にかなり多くの人間が集まっているようだ。ここは羅乃目の想像の域を超えないが、普段は南町にいないような輩の姿も見受けられる。これは確かに過激な倒幕派連中がこぞって狙ってくるだけはある、紛れるのにも打ってつけだろう。
 実は少しだけ考えていた、その辺の知らない倒幕派が将軍を倒してくれたなら、黒骸は何も成せず、成さず、この場を収めることができるのに、と。
…………
 そう上手くはいかないし、できているのならとっくに果たされているだろう。
 将軍が討たれた場合どのような事態に陥るのか実は羅乃目はよくわかっていなかった。下手人は処刑だろう、市中引き回しのうえ打首獄門。それはわかる。幕府としてはどうなるのだろうか。太都は太都のままなのだろうか、トキ時や良は困るだろうか。人間のことなどどうでもいいと思っていたから、考えたことも調べたこともなかった。
 きっと放っておいたら、黒骸はやり遂げてしまう。
 思っている以上に責任重大かもしれないと脳裏をよぎる頃、大衆謁見の会場までやって来た。普段は庶民が足を踏み入れることのない城門が開いている。人の流れに乗ってそのまま辿り着けるくらいに、みな将軍を仰見たいと思っているのだ。
「?!」
 突如として、会場側が騒がしくなった。
 もしや黒骸が既に? と慌てた羅乃目は、人を掻き分けて会場へ急いだ。しかし周りもこぞって中へ入ろうとしている、『非日常こういったことを見たい』という理由を含めて大衆謁見へ足を運んでいる層がそれなりの割合で存在していそうだ。人間は、やはり……
 騒動と人の流れのおかげで、ほとんど確認されていないような手荷物の確認を経て会場へ流れ込む。次々と後ろからも押し寄せてくるので流石の羅乃目も体勢を整える暇は無く、一旦前方へ進む。
 何が起きているのかと騒ぎ立てる人間たちの声が声を呼び、もはや現在地から事の全容を把握することは不可能であった。
 このままでは押し流されてあっという間に会場の外へ出てしまう。本来であれば見上げる筈の将軍の位置も掴めない人混みだ。
「私が見てくる」
 羅乃目が頷く間もなく、羅神が飛び出して行った。憑守の存在はこういった時に便利と言えば便利である。憑守は憑いている紅族の居場所を常に把握していることが出来るので、このまま流されようが何処かで留まろうが羅神はなんの問題もなく羅乃目の元へ帰ってくるし、他の人間の影響を一切受けない。
 ひとまずは流れを抜け出して会場の隅に行きたいと思い行動をしつつ、「こうやって仲間が先に騒ぎを起こせば、本命の人間が杜撰な手荷物確認を潜り抜けて武器を持ち込める可能性がある」と羅乃目は考えていた。倒幕派とは人間の集まりだ。人間が集まれば集まったなりの作戦が立てられる。
 体感として阿鼻叫喚混迷の極み、という訳ではないので、羅乃目は頭の隅でこの騒動の原因が黒骸ではないと結論つけていた。黒骸ならば、やり遂げてしまう。やり遂げれば騒ぎはこの比ではないだろう。
「ん、しょっ」
 脳内での極めて冷静な思考とは裏腹に、押し寄せる人間の間をすり抜けて少しだけ空気が濃い場所に出た羅乃目の掛け声は可愛らしいものであった。
 出た先は、三の丸を囲む城壁のすぐ横。
 大衆謁見の会場として設けられている場所はそれほど広くはないが、それでも将軍からは少し遠くなった。
 あまりに人間ともみくちゃになったので、それとなく腕や足の絵を確認する。
「ほ」
 良が施した彫り物風の絵は綺麗なまま羅乃目を飾っている。
 ここまで確認した後、自分は一応男のふりをしているつもりだったと思い出して慌てて咳払いをした。誰も聞いていないだろうけれど。
 羅神が戻ってくるまではここで凌ごうと考え、ほっかむりを深く被り直そうとした瞬間。
「ッあ!」
 視界の端から、何かが飛び出した。人間たちの頭を優に超える高さに飛び上がったそれは。
「黒……!」
 こんなに近くにいたのに気が付かなかった。
 黒骸も羅乃目と似たような変装をしている。手足を泥で汚し、ほっかむりの隙間から見える白い髪も土で汚したのか茶色くゴワつき、よく見れば汚れた前腕には入墨刑の罪人が入れるような二本線が入っている。太都の入墨刑とは異なる位置だ、わざと地方から出て来た男を装っているのだろう。
 黒骸は体勢を低くしたまま、なんと人間の頭や肩を踏みつけて駆けているではないか。黒骸の体重は三十二貫(およそ百二十キログラム)それが不意に頭上に落ちてくる衝撃の悍ましさは想像に難くない。
 羅乃目は焦った。自分の重さを知っているからこそ、黒骸と同じ選択はできないと。
 考えなければ、早く、早く。
 直線距離でいえば羅乃目と黒骸の距離はまだ十尺(約三メートル)程度、まだ間に合う、まだ届く。
 前進しなければならないのに、つい足が後ろへ下がった。ずりりと草履が地面を撫でて、城壁に当たる。
「!」
 羅乃目は咄嗟に壁を使うことを思いついた。
 壁に対して高く飛び上がり、最高到達地点で壁を蹴る、黒骸へ向かって飛び、黒骸を捕まえる。
 やるしかない。
 距離が離れて行く。
「っおらぁ!」
 羅乃目は掛け声と共に地面を力強く蹴る、突如として高く飛び上がった誰かに、周囲の人間はまた騒ぎ出した。
 あっちでこっちで、今回の将軍大衆謁見はいい見物ができたなどと思っているかもしれない。
 羅乃目が最高到達地点で壁を蹴る頃、黒骸の瞳にもそれが映った。まだ羅乃目だという確信はない、護衛で大衆に紛れていた御庭番集の可能性もある。
 それはもの凄い速さで飛んできて、黒骸の左腕をへし折って勢いを殺し、そのまま両腕で黒骸の体を抱え込んだかと思えば、一緒に地面へと落ちていく。
 空から降ってくるふたりを避けようと、また人間が慌てふためいて右往左往していた。それでも落下地点の人間は避難した後だったらしく、ふたりと地面を隔てるものは何もなかった。
 あまりの早技に黒骸が「これは羅乃目だ」とようやく理解した頃、羅乃目は地面に転がした黒骸の右足を手早く踏みつけて骨を折り自身の両肩に担いで全速力で駆け出した。
「退け!」
 羅乃目は精一杯の低い声を出して、自分が男のふりをしていることを忘れていない冷静さに内心驚いている。
 なにが何だかわからないがとにかく巻き込まれたくない人間たちは、また大騒ぎで道を開けていく。誰かが避ければ、その分誰かの場所が狭くなる。悲鳴を上げながらぶつかり合う人間たちの間を縫って、羅乃目はとにかく一刹那でも早く会場を抜けることだけを考えた。警備の人間も事態の把握と収拾にまだ手こずっている。時間との勝負だ。
 羅乃目は走って走って走って走って走って、羅神に名前を呼ばれて初めて歩を緩めた。
「はあっ……はあ……
 限界まで上がった息、肩に黒骸を背負って何処まで走り続けて来たのだろう。
「羅乃目、落ち着け」
 耳では羅神の声を聞き、視界いっぱいに緑を捉えた。
「もう東町沿いの山中だ……追手はいない。少し落ち着いても問題ない」
 まだ上がる息で上手く話せない羅乃目は、少しずつ走る速度を落としていく。こういう時に急に止まると全身の疲れ方が尋常ではないことを羅乃目は知っていた。
……そろそろ降ろしてもらえるかな。頭に血が昇ってくらくらするよ」
「だめ」
「腕も足も痛いし」
「降ろしても黒は歩けない。このまま連れて帰る」
「全速力で何刻走り続けたと思う? 限界だよ。降ろして」
 そう言いながら、黒骸は起き上がる体勢で勢いをつけて羅乃目から滑り降りて左足で着地した。
「綺麗に折ってくれたね。これは困ったな」
 時間が経って患部が赤黒く変色し始めている。黒骸は手近な枝を拾って手拭いを裂き、ひとりで応急処置をしている。
 羅乃目は、手伝わずに、ただ見ていた。
 山特有の静かな騒がしさに包まれながら、獣たちは口を閉ざしていた。
 気がつけば雨庸も少し離れた場所にいる。黒骸の憑守なのだから一緒にいて当然の筈ではあるが、いつから並走していたのか羅乃目は全く気が付かなかった。
……自分が何をやったか、わかってるでやんすか」
 腕の次に足を固定している黒骸に向かって、羅乃目は重い口を開く。
「わかっているよ。羅乃目こそ邪魔してなんのつもりかな、俺たちはこの為に太都に来た筈だよね」
「違う! こうするべきかどうかを見極める為に来た!」
「それで羅乃目が出した結論はそっち、と言うことだね」
 感情をあらわにする羅乃目と反比例するように、黒骸は酷く冷静そうであった。
 目線は処置をしている足に落としたまま、黒骸は続ける。
「でも俺は違うよ。この為に生きてきたんだから」
 冷たい言葉だった。
「人間に復讐する為に生きてきた。今までずっと」
 わざと汚していたであろう手足や着物をはたきながら、まだ黒骸は続ける。
「どんどんぬるくなっていく羅乃目を見ているのはつらかったな、人間なんかに絆されて。人間が俺たちに何をしたのか忘れたの?」
「忘れてない、忘れない。でもあれをやった人間とトキさんたちは別の人間だ! 人間を全部丸ごと恨まなくてもいい! 関係ない人間も、優しい人間も、いっぱいいる!」
「だったら全部許すの?」
「それは……
「俺は許せない。人間を、許さない」
「でももうあれを言い出した人間は死んでる! 今の将軍がやったんじゃない」
「将軍としての罪だよ。討たれるべきだ」
 そう、十二年前に『紅族討伐』の発端となった将軍は既に亡くなった先代の将軍である。
 羅乃目と黒骸が真っ直ぐに人間への復讐に走らず、一度「人間を見る」を挟んだのもこの為だ。
 一番殺してやりたいほど憎んでいる相手は、もういない。
 ふたりの体がある程度大きくなる前に、先代の将軍は脆く儚く、病で亡くなっていた。
「統領が復讐をしないと明言する前に、動く必要があると思ったんだよ。意見が異なるということは、あってはならないからね」
「わ、わっちと意見が違くても」
「駄目でしょう、統領。あなたが我々の絶対なのだから。俺の、俺たちの統領。紅族の異端分子となった今、俺はあなたと一緒にはいられない」
「嫌だ! そんなのだったらわっちは」
「羅乃目」
 黒骸は最後に羅乃目の名前を呼んだ。いつもと同じ柔らかくあたたかい声で。精一杯慈しむ声で。

「この世でただひとり、愛してるよ。だからさよなら、羅乃目」

 黒骸は雨庸と共に、足を引き摺りながら山の奥へと消えて行った。
 気がつけば夜だ。
 羅乃目は追いかけられなかった。
 羅神は少しだけ黒骸たちを追いかけて、何か言いたげにして、羅乃目の元へ戻って来た。
 夜なのに星が見えない。
 羅乃目はもう動けなかった。
 夜なのに月が見えない。
 羅乃目は……


     *


 全てが壊れる音がした。