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ugmm_
2026-02-15 21:23:05
11629文字
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カルタゴ
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風寄る岸
前231年頃、イベリア。アクラ・レウケでマゴーネから見た父と義兄、あとお兄ちゃんたち。
寝椅子から腕がだらりと落ちていた。太陽が燦々として日向では目を開いてもいられないようなこの時間、ちょうど日陰となり小さな池が掘られて風通しのよい、この館でいちばん過ごしやすい小さな庭は、姉の過ごしていた部屋のそばにある。
いま置かれているのは姉の使っていた寝椅子ではなかった。彼女はまだ寒いうちに儚くなって、その遺品は家族や彼女と親しくした者たちに分けられ、部屋にもその名残はない。
自分の部屋に戻ろうとしていたマゴーネは廊下からそれを見つけ、しばらく眺めてから足を向けた。盛夏、気温の上がる真昼には勉強も訓練も免除ということになっている。その代わりに太陽が姿を見せるより早く起きるのだけれど、そういう規則正しさのもとで暮らさない人もいた。
「お戻りになられていたんですか、義兄上」
ぐったりと身を横たえていたハスドゥルバルは、見るからに疲れ果てた顔をして目を開いた。
「やあ、マゴーネ
……
」
「二日酔い?」
「頭が割れそうだよ」
義兄は話すのも億劫だと言うようにまた目を伏せる。
彼らが話す間もそよそよと風が送られており、寝椅子のそばに膝をついた老いた女奴隷は扇ぐ手を一度も止めなかった。義兄の生家から従ってこんなところまで来てしまったという老人に、一体何をさせているのだろうと思う。
トゥデルタニ族の都市で生じている係争について、一方から仲裁を依頼されてハスドゥルバルはハミルカルの名代として招きに応じた。ここ十日ほどの不在は、当初の想定よりも滞在が伸びた結果らしい。帰ってきたと思うとこれだ。
「そんなふうになるなら飲まなければいいのに」
マゴーネは酒を舐めたこともないので、大人たちの執着がよく分からない。ハスドゥルバルだって、見ているぶんには酒を愛するというほどではないようなのに、しばしば二日酔いでぐったりとしていた。
義兄は──彼を夫とした姉が亡くなったのにまだそう呼んでいいのか判然としなかったが──その作り物めいた顔にいささか精彩を欠いた笑みを浮かべて、重たげに腕を持ち上げて幼い子供の頭を撫でた。
武人にしては節ばったところのない優しい手だった。姉も、軍人たちの手は怖いが夫の手は恐ろしくないと言っていた。
「君もお昼寝なさい、こんなに暑いのでは何もできやしないよ」
「父上たちは練兵に出ておられるのに」
「また新しく雇った者たちがいるからね
……
」
子供が教師に言われるまま休んでいるからと言って、行軍や都市の攻囲を同じように休むわけにはいかず、新しく兵士が増えたのならばどれほど暑くともその訓練とてしないわけにはいかない。しかしハスドゥルバルは休んでいていいらしい。撫でるのをさぼって頭に乗せられた手を押しのけると、その腕はまた寝椅子から落ちた。
ハスドゥルバルの額には汗ひとつなく、寛いだ長衣を着て、履き物を床に落とし裸足でいる。マゴーネは彼が軍装している姿を見慣れなかった、似合わない気がするという以上に、父や兄たちに比べて目にする頻度が低いからだ。
老人の送る風がマゴーネとは違う癖のつき方をした髪を揺らしていた。この人は一体いくつになるんだろうと思ったところで、名を呼ばれてマゴーネは左右を見やる。
「あ
……
父上」
振り返ると、マゴーネが出てきたのと同じところからハミルカルが庭に下りてくるところだった。見慣れた軍装で、日除に使ったのだろう外套を脇に抱えている。
そばに寄ると乾いた砂の匂いがした。
「休憩ですか?」
「いや
……
お前は昼寝の時間だろう」
赤ん坊か幼児のように言われると流石にむっとするものがあったが、父は至極真面目に言っているのであって、揶揄っている気配はない。
「今日は兄たちと休め」
きょとんとしてから父の背後を覗けば、その兄たちが廊下をやってくるのが見えた。なんだか足取りがいつもと違うように思え、庭から館の中へ入る。
長兄に付き添われた次兄はぼんやりした表情で、赤い顔をしていた。マゴーネより四つ年長の彼はまだ本格的な戦闘には参加しないまでも、陣営で過ごし訓練に参加する。この暑いのに無理をしてしまったらしい。
大丈夫かとマゴーネが手を伸ばすと少し屈んでくれて、触れた頬はやはり火照って熱かった。けれど汗をかかなくなる方が危ないとも聞くので、大事になる前におそらくハンニバルが気付いてくれたのだろう。自分からは言い出さなかったに違いなかった、同じハスドゥルバルでもちっとも似ていない。
「兄上たちの部屋より僕の部屋の方が涼しいですよ、そっちで休みましょう」
ハンニバルが頷き、後ろを付き従ってきていた奴隷たちを先に部屋へ向かわせる。
このぶんでは今日は訓練に戻れないだろうと、どこか浮ついた気分でマゴーネは考えた。カルタゴにいる時分にまともに教育されなかったせいでマゴーネの毎日はシレノスたちと過ごす勉強、それに体力を作るところからの訓練に費やされて、不在の多い兄たちと過ごせる時間はそう長くない。
もちろん、長兄が自分で付き添うくらい調子が悪いのなら喜んでいる場合ではないのだけれど──父が戻ったのはどうやらこのためだけではないらしいと、兄たちのそばからマゴーネは庭を振り返った。
息子たちが部屋へ向かうのを確かめてから、ハミルカルは寝椅子の方に近付いた。起き上がりもせずに顔だけを向けたハスドゥルバルが、生気を取り戻すようにして笑う。
椅子の背凭れに手をついて屈んだハミルカルが何かを言うと、その顔を包むように両手が伸ばされる。その手にしろ、落ちた袖から覗く腕にしろ、不思議と日に焼けずにいるのだ。招き寄せられるようにさらに深く屈んだ父の横顔に、遠くからしか見たことのない笑みが浮かんでいた。
ハンニバルの手が弟の顔を前に向かせたので、その瞬間は見えなかった。
別にただ顔を見るために戻られたのではない、とハンニバルは軍装を解きながら教えてくれた。父を庇うつもりなのか義兄を庇うつもりなのか、別にそのどちらでもないのか、首を傾げている末弟にどこから話したものかと少し思案する。
マゴーネの寝台で次兄はすでに横になって目を閉じていた。この部屋も暑い時間に日差しが入らず、窓を開いていると心地よく乾いた風が入る。この地で購った奴隷の言うとおりに塩を舐めて水をうんと飲まされ、短衣だけで休むハスドゥルバルの顔色もやや落ち着いている。その弟を邪魔しないようにか、ハンニバルは声を潜めていた。
「あの都市は我々の軍門に降ったが、支配者一族でさえそれに対する意見が一致していない。敵対するというならば周辺の都市もそれに続くかもしれない。後顧なく軍を進められるかどうか、父上も案じておられるのだろう」
古くからフェニキア人が渡来し都市を築き、その影響を残してきたイベリア半島の南部に現在のカルタゴ人の領域は広がる。領域を接する部族たちとは当然ながら緊張状態にあり、武力でもって彼らの都市を征服することで父は領域を拡大し、貢納を課し奪うことによってこの半島の富を得てきた。ローマ人にサルディニアの銀鉱を奪われたカルタゴ人には、もはやこのイベリアの鉱山が頼みの綱である。
マゴーネはこうしたことをイベリアにやって来たあとに教えられ、半島ぜんぶがうちの領土じゃないんだと言ってシレノスに頭痛を起こさせたが、この一年で自分を囲む状況は理解できるようになっていた。
海峡を渡りヘラクレスの柱を通って以来、バルカ家の軍勢は常に戦いに駆り出されている。しかし、干戈を交えるまでもなく交渉によって都市を勢力下に置くこともあった。
その交渉は主として義兄の仕事であり、彼はマゴーネには知り得ない手練手管を駆使して、戦うことなく支配を広げた。南部に住むトゥデルタニ族の都市にもそうして友好関係を結んだものがあったが、あくまでもカルタゴ人を上位に置くこの関係の維持には常にあれこれと気を配らなければならなかった。人質を取るようなことばかりでなく、こうして仲裁に赴くのもそうだ。東岸へと軍を進めるには、背にした者たちにころころと心変わりをされては困る。
兄の話を長椅子の上に膝を抱えて聞き、ふむとマゴーネは頷く。報告をしている感じではなかったなと思って。
「ちっとも帰ってこないから心配だったとか、そういうことじゃなくてですか?」
「
……
まあ、それもあるだろう」
短衣を替えて隣に座った兄の目はどこか遠くを見たが、すぐに目の前のマゴーネの元に戻ってきて、弟が気詰まりを感じていないのを確かめた。
奴隷が卓に焼き菓子を盛った皿を置いたので、マゴーネはそれを兄の前に動かす。見慣れない菓子だったからかハンニバルは一つ摘んでしばらく眺めていたが、口に入れて甘すぎると顔を顰めた。蜂蜜をこれでもかと使ってある。
どこで聞きつけてくるのか知らないが、バルカにまだ幼い子供がいると知った者たちからこうしたものが贈られてくることがある。小さな服だとか玩具だとか、幼児がいると勘違いしている物も混ざっているらしい。
そういった贈り物を最初に検めるのも義兄の仕事だった。彼がよいと言ったものだけが宛先に辿り着く。姉が存命の時には家政は彼女の領分であったはずだが、臥せがちであったために夫であるハスドゥルバルが代わっていたし、それはいまも変わらなかった。
しかしどうして、ふらふらしているような印象があるのだろう。
「忙しそうに見えないのは、そういう性格だろう。俺たち如きに心配などされたくないという」
「如きですか」
「如きだな、当分は」
そのうちそうではなくなる、そんな言い方だった。
昼寝はどうしたと言われてマゴーネは兄の膝に頭を乗せてみた。よそに行けと追い払われないのでそのまま目を閉じる。こうして眠ろうとするとき、船に揺られるような不安を感じなくなって久しい。
父が建設したアクラ・レウケには、こうして一族や近しい者たちのための館も設けられた。カルタゴから移り住んだ彼らは何も野営でのみ過ごしたわけではなく、ガデスをはじめとした元来カルタゴの勢力下にあった都市や、フェニキア人と縁深い都市などで、門を開く人々に迎えられて冬を越すことができた。それでも、ここはやっと落ち着くことのできた家だという気がする。
カルタゴから送られてようやく一年になろうかというマゴーネにとってもそうなのだから、兄たちにとってはより深い感慨があるはずだった。たった一年で、マゴーネの最も安心できる場所は母の腕の中ではなくなっていた。
この地の夏はさほど雨が降らないものなのに、その日は珍しく朝から曇り空が続いて、昼前には雨が降り始めた。
今日のうちに遠征から戻るはずの兄たちは大事なかろうか、そんな思いで窓の外を眺めていたマゴーネの短衣の裾を小さな手が引いた。見れば、部屋の中にいた子供たちが皆こちらを向いている。裾を掴んだ少女はおずおずとした様子で、ほとんど同じ高さにあるマゴーネの目を覗き込んだ。
「どうし
……
どう、なさったの?」
「雨だなと思って」
「すぐに、えっと
……
とまると、思います。いつもみたいに」
この子がそう言うならそうなのだろうと、マゴーネは窓辺を離れた。
マゴーネが戻ってくると子供たちは手元の書き物に取り組み始めた。
征服した部族や、交渉によって服属させた部族から、カルタゴ人は人質を取っている。王や首長の子女たちは、多くがアクラ・レウケに移されて養育されていた。マゴーネは時折、こうして館に連れてこられた彼らと顔を合わせて遊ぶことがある。
今日はカルタゴの言葉を学んでいるところで、それを選んだ世話役からは多分にマゴーネに対する阿りが見えたが、父に何をして過ごしたか伝えるだけでよいのだから簡単な仕事だった。
書き取りの進み具合にはそれぞれの育った環境の差が現れていた。隣に座った少女はトゥルデタニ族の娘、古くからフェニキア人との混淆が進んでいた地で育ち、フェニキア文字にも馴染みがあるようだった。
イベリア人やケルト人、彼らの混ざったケルティベリア、さまざまな出自の子供がこの場にいたが、親元に帰る頃にはカルタゴ風の暮らしに慣れているだろう。
「昨日、君の伯父さまがいらしていたんだよ」
少女が黒の瞳をこちらに向ける。
先だってハスドゥルバルが仲裁したのは、父親の死による兄弟同士の相続争いだった。本拠地である都市と周辺の集落、それに鉱山の持分について、等分するような決着の仕方をしたらしい。この少女は、まだ彼女の祖父が存命のうちに、子のない兄に代わって弟が差し出してきた人質だった。
「お父さまは
……
?」
「一緒じゃなかったみたい」
姪とはいえ会いに来てもいいだろうに、立ち寄らずに帰ってしまった。そうなの、と呟いて少女の手が止まる。
「でも色々と贈り物があったみたいだから、何か欲しいものがあれば貰ってくるよ。懐かしい食べものとか」
「ううん、いいんです」
マゴーネがここに来るより前から人質として暮らすからか、少女はいつも物分かりがいい。しかし他の子供の書き取りを見ようかと席を立ちかけたところで、先ほどと同じように裾を引かれた。
「マゴーネさま」
呼んでから、何を言おうか決めていなかったかのように少女が口籠った。それが言葉の選択に迷うのと同じ戸惑いに見えて待っているとぽそぽそとした声で言う。
「もし、おくりものにお菓子があったら
……
いちじくのお菓子は、大人の食べもの」
「お菓子なのに?」
「甘いけど、こどもは食べないです。だから、あの、マゴーネさまも食べないで」
そういう風習があるのだろうと、マゴーネは頷いた。
共に昼食をとって、子供たちはそれぞれの過ごす家に帰って行った。マゴーネが昨日シレノスに出された宿題を片付けた頃になっても、やはり雨のせいだろうか、兄たちは戻らなかった。
暇を持て余して館の中をぶらついていると、何やら荷物を抱えた奴隷たちが連れ立って歩いているのに出会した。彼らが義兄の執務室に入っていくのに着いて行って、部屋を覗いたマゴーネはあっと声を上げる。
「またひとりで先に美味しいもの食べてる!」
苦笑する大人たちの間を通り抜けてくる子供を、ハスドゥルバルは長椅子から鷹揚に迎えた。広い卓や床の敷物の上には、例の贈り物だろう、金銀の細工物や武具とともに、加工された食品が並んでいた。ちょうどハスドゥルバルの前で封を切られた壺を覗くと魚が塩漬けにされている。
マゴーネを隣に座らせて、義兄は短剣をその手に渡した。やけに重いのは剣身よりも鞘にごてごてと装飾が施されているせいで、その細工の出来はこの地で作られたものとは見えない。
「こんなの好きじゃありません」
「そう? ハンニバルたちもいらないと言うだろうね。マゴあたりにあげようか、褒めるようなことをしたときに」
「じゃあいつまでも仕舞っておくんですね」
ハスドゥルバルは笑うだけで何も言わず、マゴーネが短剣を戻すのも咎めなかった。
様々な意図の見え隠れする贈り物は、貢納とは別にしばしば届けられる。トゥルデタニの首長はお礼の意味でこれらを運んできたのだろうと、王を名乗らない者にしては豊かさを伺わせる品々を眺めた。あの土地は肥沃で、様々な産物に恵まれている。
「財産は半分こなのに喜んでいるんですか?」
部下や奴隷たちに品々の処理を指図していたハスドゥルバルが、好き勝手に卓の上のものを触る子供を振り向いた。
「父上にお願いするくらいだから、ぜんぶ自分のものにしたかったんでしょう?」
「そうだね。けれど私たちがそれを許さないのも分かっていただろう」
「えっと
……
これをくれた兄の方が、最初から僕たちと仲良くしたがってたんです、よね?」
「いや、逆だよ。弟の方がずっと我々に協力的なんだ。兄の方は父親に抗戦を訴えた話が広まっているから、仲裁を頼んでもうその気はないと示したのだろうね
……
」
なるほどと頷いてみたものの、もう一度頭の中で整理する必要があった。
その様子を微笑ましげに見守る大人たちの視線は努めて知らぬふりをし、ふと、小さな籠が目につく。引き寄せてかけられた布を開いてみると、焼き菓子が詰められていた。
「これ、大人の食べるものなんですって」
ひとつ手渡しながら少女の教えてくれたことを伝えると、ハスドゥルバルは人差し指ほどの大きさの菓子を眺める。干した無花果を生地に練り込んで硬く焼いたものらしく、香ばしい匂いがして、いかにも家庭で作られていそうな素朴な見た目だった。
「理由は聞いた?」
「いいえ、そこまでは」
いくらかのあいだ何か考えていたハスドゥルバルは、菓子を半分ほど口に含んだ。さくさくと心地良い音がする。「あまり甘くない」と言って流し込むように杯を傾けたあたり、さほど美味ではないらしい。
他にお菓子の類はないようである。敷物の上の大きな壺には、塩田で作られたのだろう塩がたっぷりと詰められていた。作る土地によって味が違うという葡萄酒に、蜂蜜もある。何もこの館で消費するばかりでなく、部下たちや兵士たちへの褒賞に使うこともできた。
それらが運び出されていき、気の惹かれるもののなかったマゴーネはまた籠を開いてみた。あの少女は甘いのだと言っていたし、話していたのはもしかすると別のお菓子のことで、摘んでみても構わないのではと思って。
こっそりと取り出したところで、隣からぱしんとその手を叩かれ、菓子が床に落ちる。
「いいじゃないですか、ちょっとくらい
……
」
床で砕けてしまったのを勿体なく思って顔を上げる。それなりの強さで叩かれた手の甲がひりひりと痛むのもマゴーネに不満を露わにさせたが、寄せていた眉はすぐに開いた。
「義兄上?」
両手で口元を抑えたハスドゥルバルの灰色の瞳がこちらを見て、青褪めた顔で彼は何か言おうとした。しかし出たのは言葉ではなく咳だった。喉に何か絡んだような嫌な音の咳。
それを受け止めた手から腕へ、血が伝い落ちた。
「──義兄上!」
部屋中の視線がこちらへ集まり、医者をと言うまでもなく数人が部屋を飛び出して行った。誰かがマゴーネを引き離そうとする手を振り解き、傾ぐ体に腕を伸ばす。
咳き込むたびに血が吐き出されて手のひらを真っ赤にしていた。長衣のあちこちに赤い染みが広がっていく。血が息をしようとするのを阻んで、離れろと言うようにマゴーネを押す腕には力が入っていなかった。
何度も呼びながら視界がぼやけた。こんなとき何をすればいいかなど教わっていない。
慌ただしい何人かの足音が近付き、誰かが今度こそマゴーネを長椅子から引き離した。体に回された腕から抜け出そうと暴れるのにその腕がいっそう強く小さな体を抱き寄せる。
「マゴーネ!」
はっとして見れば、自分を両腕に抱き抱えているのはハンニバルだった。
奴隷や医者の声に混ざって聞こえた父の声に、マゴーネはまた長椅子の方を見た。ハンニバルがおとなしくなったマゴーネを抱えたまま数歩下がる。
音が遠く重なり合うようで、周囲が何を言っているかまでは分からなかった。ただ義兄を支えた父はその名を繰り返して、遠のいているのだろう意識を引き戻そうとしていた。他の誰の手が触れるのも拒むその気配に誰もが近付けないでいるなかで、医者だけがそのそばに膝をつく。
その指図に従ってハミルカルは血で濡れた口の奥へ指を押し込んだ。ハスドゥルバルが首を振り嫌がるのを宥め、汚れるのも構わずに胃の中のものを吐き出させる。さほどのものが入っていなかったのかすぐに何も出てこなくなり、同時に意識の途切れた体がハミルカルの腕に投げ出された。
それを抱えた父と医者、数人の奴隷たちが隣の寝室へ入っていく。
──部屋がしんとして、マゴーネはようやく瞬きができた。
その拍子に落ちた涙を拭おうとし、手についた血にぎくりとすると、ハンニバルの手が代わりに涙を払う。兄は向き合ったマゴーネの様子を手で触れながら確かめて、震えているのも恐怖のためだけだと分かるとまた頬を撫でた。
「お前は何も口にしていないんだな」
頷いた弟に彼はようやくといった息をついたが、険しいままの顔つきで隣室の方を見た。
近づいてきた女奴隷が濡らした布であちこちについた血を拭ってくれ、綺麗になった子供の手を労るように握る。その手の感触に顔を見てみると、ハスドゥルバルをずっと世話してきた老女だった。彼女は何も言わずに隣室へ姿を消し、マゴーネは兄の体に腕を回した。
決して軽くはないだろうに抱き上げてくれたハンニバルにしがみついて、震えがおさまるまでそうしていた。
目を開いたとき最初に覚えたのは喉の渇きだった。次いで胃の痛みを覚えて、体の重さに熱が高いのだと気がつく。見慣れた天蓋にここが自室だと分かると浅く、長い息を吐いた。
ハスドゥルバルは誰か控えていないかと顔を傾けて、意外なものを見つけて目を瞬いた。寝台のそばに置いた椅子で、マゴーネがうつらうつらと船を漕いでいる。その膝に置かれた書物は幼い手にかろうじて引っかかっていたが、今にも落ちそうになっていた。
「
……
、
…………
」
喉が閉じてしまったかのように声が出ず、咳払いをすると鋭い痛みが走る。どうにか腕をついて起き上がり、節々の固まったような感覚に丸一日は寝ていたらしいと思った。部屋は静かで、外からも騒々しさは伝わってこない。
手を伸ばし、マゴーネの肩に触れる。子供らしく短衣を帯で締めた、薄く小さな肩を少し揺らすと、子供は浅い眠りからすぐに覚めた。
こちらを見るなりいつも重たげな目をまんまるにして、その体躯には高すぎる椅子から飛び降りて部屋の外に駆け出して行ってしまった。
投げ出された書物がころころと軽い音を立てて床に伸びていくのを眺めていると、またすぐに誰かを連れて駆け戻ってくる。袖を引っ張られてきた医者はハスドゥルバルと目が合うなり、たったいま彼自身が命拾いをしたという顔をした。
「三日目ですよ」
一通りの診察を終え薬湯を飲まされ、ひと心地ついたところでマゴーネはそう言った。
また椅子に座って、広がってしまった書物を軸に巻き直す。寝台のうえに身を起こしたハスドゥルバルに、あの女奴隷は甲斐甲斐しく顔を拭いてやり上着を着せかけて、何も言葉を交わさないで下がっていった。
それを見送り、マゴーネは目を伏せる。医者の見立てでは胃や喉を傷めてしばらくは食事も難儀するだろうし、熱も何日かは下がらないだろうということだった。義兄の窶れた顔をじっと見ているのは落ち着かなかった。
「父上と兄上は昨日からいらっしゃいません」
声の出ない相手が何を聞きたがっているかは分かるのに、何から話すべきかはうまく思いつかない。
「あの贈り物をした連中は全員磔にするっておっしゃっていました。義兄上が起きないから
……
」
死ぬことはあるまいとも、あとは回復を待つしかないとも言った医者は脅しかけられて泣いていたし、ハスドゥルバルが口にしたのが常ならば子供たちに与えられる菓子であったこともハミルカルの怒りを煽った。
あのときハスドゥルバルが与えていた指示通りに毒味をした奴隷のうち、葡萄酒を飲んだ者が死んだので、要するにバルカの人間をできるだけ多く殺したかったらしい。仲裁への礼という名目ならば、容易く口に入れると思ったのかもしれない。
いずれにせよ、誰にとってもハスドゥルバルはただの部将のひとりではなかった。仲裁に骨を折ってやった恩も忘れて、何が目的であるにせよ彼を害したのだから、その責任をあのトゥルデタニの都市は負わねばならない。遠征から戻ったばかりだった軍勢は休暇も得られずにまたアクラ・レウケを発ち、ハミルカルは今回はハンニバルだけ連れて行ったので、マゴーネはひとりきりで待つ羽目にだけはならないで済んだ。
マゴーネはじっと自分の言葉に耳を傾けられている落ち着かなさ、これは尋ねない方がよいというはっきりとした判断を押し除けて、巻き終えた書物を握った。
「
……
分かっていて食べたんですか?」
これの答えを聞くまではと、あの少女に言われたことについてマゴーネは誰にも言っていなかった。殺されるか奴隷に売られるか、処遇が決まらずにいる人質ではなく、義兄は知っていて毒を食らったのだと解釈されるのが心配だったのだ。
ハスドゥルバルはただ微笑んで、縦にも横にも首を振らなかった。
都市の攻囲ならば短くともひと月はかかるだろうと思っていたのに、父たちはそれから十日も経たずに帰ってきた。先触れに出されて一足早く戻ったマゴが言うには、問題の部族は軍勢がその領域に入った時点で身内の不始末に片をつけていたらしい。
兄とその側近、家族を縛り上げ一室に閉じ込めて、弟は如何様にもと差し出した。鉱山の採掘について取り分を改めたいとも言い、同盟の継続のためならば何でもするという勢いだったと。
ハミルカルは差し出された首長の目をくり抜いて磔にし、他の男たちも同様に殺したのち、女たちについては奴隷として求める兵士に買い取らせた。トゥルデタニの他の部族、あるいはバルカがこの地に渡ってすぐに戦ったケルト人らに対する改めての示威として。
報告を聞いたハスドゥルバルはそうなると思ったとだけ言った。磔の十字架を並べても将軍が怒りを収めないのでものすごく怖かったのだと文句を言ったマゴは、あの短剣を貰って首を傾げていた。
夕刻、軍勢が戻ったと聞いてマゴーネは次兄とともに館の門にまで出てきていた。城門からアクラ・レウケの東の丘にある館まで父たちが戻ってくるのを、いつもは従者だけ連れてひとりで首を長くするのだが、この日ばかりは兄が手を繋いでくれていた。
夕陽が沈むのを、日が短くなってきたと言ってハスドゥルバルは見つめていた。この数日、勉強も訓練もずっと一緒にできたので楽しかったのだとマゴーネがこっそり言うと、片眉を上げて笑う。
「俺も楽しかったよ、何をするにしても兄弟揃っている方がいいな」
たった一年前までは揃ったことなどなかったのに、本心から言っているのが分かってマゴーネは繋いだ手を揺らした。
ハスドゥルバル様、と慌てた声が聞こえたのは、夕陽がその姿を隠して薄闇が広がり始めた頃だった。自分が呼ばれたのかと思って振り返った兄は目を丸くした。休んでいるものと思っていた義兄が玄関広間の方から出てきたせいだ。
「まだ戻られないの」
そう小さく尋ねられて子供らは頷いたが、まさかここで待つのだろうかと目を見合わせる。
胃が痛いと言って食事を厭うせいで窶れた風情が残って、声だってまだ掠れているし、父がそんな姿を見るとまた怒り出しそうだから寝ていてほしい。そんなマゴーネらの気持ちも知らずに、義兄は陽が傾くと共にひんやりとする風に吹かれていた。
街路を蹄が蹴る音が聞こえた頃には、門番が彼らのために松明を掲げていた。坂を上がってきたのは数騎、馬を降りた彼らに厩番の奴隷たちが駆け寄って手綱を受け取る。マゴーネが門と街路の間の短い階段を降りたところで、父がこちらを振り向く。
彼は息子たちにまず目を向けたが、すぐにその後ろに気が付いて僅かに顔色を変えた。大股に近づいてきて、ハスドゥルバルの肩を叩きマゴーネの頭をひと撫でしてその間を通り抜けてしまう。
「こんなところで何をしている?」
まさかずっと待っていたのかと、それは叱りつける調子だったが、出立の前のように恐ろしくはなかった。義兄は父を見上げて微笑い、すこし躊躇する素振りを見せてから何か言った。小さく掠れた声なのでここまでは届かなかったが、ハミルカルに何らかの感情を催させるにはじゅうぶんだったらしい。
父が義兄の腕を引いて館の中に入って行ったのを見送り、マゴーネは兄たちを見た。
「ねえ、お出迎えしたのに置いて行かれちゃいましたよ」
「しょうがないだろう、今回ばかりは」
ハスドゥルバルはそう言うが、頭を撫でるのだってあまりあることではないのに通り過ぎ様に、おざなりではないかと思う。ハンニバルが夕食は同席するはずだと弟たちの背を門の中へと押した。
それもあの人がちっとも食べないのを知ったら怪しいものなのだ。そう訴えれば兄をますます疲れさせるだけだろうかと思ったけれど、マゴーネは結局口を開いた。同じことに呆れて困り果てるのも、兄たちとならば楽しいものだともう知っていた。
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