HOME ■
NEXT
00/君と僕の終わりの物語
——あなたがたが手を伸べるとき、わたしは目をおおって、あなたがたを見ない。
たとい多くの祈をささげても、わたしは聞かない。あなたがたの手は血まみれである。
(イザヤ書第一章十五節より)
◇ ◇ ◇
子供の頃から繰り返し見る夢がある。親も兄弟もなく、物心ついたころから教会裏の孤児院で暮らしていたミヒャエルにとって、それが唯一の、自分が生まれたときから持っていると思えるものだ。
『ミヒャエル』
夢の中でそれは、いつも透き通った青い目をして自分の名前を呼んでくれていた。ミヒャエルはその目が好きだった。青色が好きだった。惹き込まれるようにして、いつも、食い入るように群青を眺めていた。教会に掛けられた絵の中でしか見たことのない、海、とかいうものと同じ色をした、その深い色を。
『ミヒャエル、好きだよ、好き、大好き』
青色はいつも優しくそう囁き、ミヒャエルを抱きしめた。抱きしめられるミヒャエルの身体は、随分と図体が大きく、青年の齢といって差し支えないかれのものより一回りも大きいようだった。
この夢をはじめて見たときのミヒャエルはまだたったの三歳だったのに。
だから然るにこれは、やはりありもしない夢幻で、くたびれた脳味噌が生み出した幻覚なのだろう。
『ずっと、お前のことが大好きだよ。
……愛してるんだ、ミヒャエル』
ミヒャエルは
青色のことを天使のようだと思っていた。
天使などこの世にいないと知っているのに。
神さまだってこの世にはいないのに。だっていたらきっと教えてくれる。なぜ自分には親も兄弟もいないのか。なぜ生まれてすぐ教会に捨てられたのか。なぜ夢に出てくる青色と巡り逢うことができないのか。その答えがどれひとつ与えられることがないのだからやはり、この世には天も救いもなく、薄暗い灰色の現実だけがどこまでも広がっている。そんなことは分かっているのに、しかしそれでもミヒャエルは、やはり手を伸ばすことを止めることが出来ない。
『
——俺も、』
ミヒャエルが手を伸ばそうとすると、夢の中の自分も同じように
青色を抱きしめ返して、その胸に顔を埋めるようにして項垂れた。それが今際の誓いを立てるための仕草だと気がついたのは十四になったあとのことだ。どうしてそんなことをしているのかはわからない。わかりようもない。ただ、縋り付くように抱き寄せて、大きくて白い羽根で
青色を覆い、囁きかける。
『俺も愛してる、お前を、永遠に、
……そのためなら世界を滅ぼしたって構わない』
祈るように。
願うように、乞うように、恋するように、呪うように。
男は謳う。呪詛を、祝福を、白い翼をはためかせていつも神と世界を憎みながら。
『お前を愛することが赦されない世界など、いくつ滅ぼしたって構うものか
——×××』
愛と憎しみを孕んだその声音で最後に呼びかけた言葉が何なのかはついぞ聞き取れたためしがない。
ただ、夢の中の自分がそう囁くたび恍惚とした表情で笑う
青色の、目尻に朱を差し、巨大な一対の角を頭から生やした悪魔のような表情だけが、夢の終わりにこびりついて、
……どうしても離れないのだ。
◇ ◇ ◇
天使なんてこの世にいると思うだろうか。悪魔とて同じだ。ミュンヘン大学福音主義神学部に所属するミヒャエルはすくなくともそう考えている。悪魔と呼び習わされるにふさわしい人間はいても悪魔そのものはこの世にいない。すべては迷信であり、まやかしであり、科学のない時代に恐怖を正当化するため使われていたおためごかしにすぎない。ただし宗教に救われる人はいる。
およそ神学部に所属している人間のいきついてよい思想ではないという自覚はある。それに自分を拾い育ててくれた教会付属孤児院のシスターたちにも失礼だ。だから口には出さない。口には出さないまま、ミヒャエルは今日も課題のレポートに向き合っている。机の上には、堅くなってパサついたパンとごく小さなチーズのカケラだけが乗っかっていた。食べ物は十分にないが単位は取らねばならない。つまるところミヒャエルは貧乏学生だった。
「おはようございます、カイザー」
控えめなノックの音に続いて、安普請の下宿のドアが開いたのはそんな時分のときだった。窓の外から覗く景色はいつの間にか早朝のそれに入れ替わってしまっており、机の上に置いていた蝋燭はとうに明かりを落としている。
「差し入れです。食べますよね?」
その事実にいささか目を丸くしてまぶたを擦っていると、訪問者
——くりくりした赤毛をもふりと膨らませたやや童顔の青年は、小さなバスケットに入った真新しいサンドイッチを差し出し、ぱたんと扉を閉めた。
「ハムが手に入ったので、挟み込んでおきました。あと収穫できたのでトマトも。牛乳は入ってないから安心して。でもキミ、確かチーズは大丈夫でしたよね? 差し支えなければ添えてあるのも食べて」
ぱたぱたと歩み寄ってきた青年が、どかりと文机にバスケットを乗せる。胃を刺激するいい匂いに久しく忘れていた原始的な欲求を呼び起こされ、ミヒャエルはペンを置くとバスケットの中に手を伸ばす。
「サンキュー、ネス。チーズは食う」
言うが早いかとっととカケラを口の中に放り投げて礼を言うと、ネスと呼ばれた青年は嬉しそうにぱっとはにかんだ。
「良かった! も〜、カイザーってばこの時期本当に寝食捨てて打ち込んじゃいがちですからね! 今回のレポートは何? ラテン語?」
「と古代ギリシャ語」
「わぁ、頭が真っ白になりそう。全然わかんないや」
そんなアレクシスの屈託のない笑顔に釣られるように微笑して、ミヒャエルはふっとごくわずかにだけ頬を緩めた。
ミヒャエル・カイザーはミュンヘン大学福音主義神学部に所属する二年生である。育った教会に通っていた人間のうち、物好きな老人がたまたまミヒャエルの才覚に興味を抱き、段取りをつけてくれて、奨学金で通っている。貧乏だ。もの凄く。老人は息子夫婦に実権の殆どを譲り渡してしまっており、コネクションはあるが自由に使える金はなかった。精々、自宅で埃を被って埋もれていた屋根裏部屋を、安下宿として使えるようにはからってもらえたぐらいで
……大学の授業料は成績トップを維持して奨学金資格を満たし続けなければ途端に立ちゆかなくなるし、食い扶持は自分で稼がなければならない。
しかしそれでも都市部に出てきて学べるチャンスなぞそうそう訪れるものではないから、ミヒャエルは二つ返事でミュンヘンにやって来た。そしてその下宿で出逢ったいちばん小さな子供
——つまり老人の末孫こそが、ミヒャエルにたびたび内緒の食糧援助をしてくれているアレクシス・ネスなのである。
「そろそろ学期末ですよね。分かっていてもこの時期は試験があるから憂鬱。カイザーは? どうです?」
「クソ余裕、レポートも朝方やってたやつが完了すればクソ終わり」
「さっすが、二学年最優秀首席候補生!」
「お前も頑張れよネスぅ、ケアレスミスで点数落としてんじゃねーよ」
「あいたっ!?」
大学に向かう道をとてとてと歩きながら、アレクシスがぼやいたり騒いだりする。ひとつ年下で同じ大学の化学部に通っているアレクシスは、なんでだか分からないがミヒャエルに心酔しきっており、尻尾をふる犬よろしくミヒャエルのあとを付いて回って褒めたたえるきらいがあった。ふつうに駄犬だ。それでもアレクシスを懐柔しておいたほうが何かと今の生活には役立つのでほどほどに相手して放置している。
ミヒャエルは性格が悪かった。その自覚はあった。大学内で知り合いはいても友達はいない。それはミヒャエルが深入りを好まない性格だからであり、排他的で人付き合いを嫌悪しているからであり、また、人間が嫌いだからだった。寄ってくる人間の大体は、利用出来るところだけ利用してそれ以上の価値を求められる前に遠ざけるのがミヒャエルの流儀である。
「それにしても、世の中物騒な話が多くて嫌ですねー
……」
その点アレクシスはミヒャエルのそういう性質をどこか見抜いており、同時に弁えていた。付き合い易かったのだ。だからこそ今日もアレクシスが勝手についてくるのを放置して大学に向かっている。「物騒?」ミヒャエルはふるりと後ろに振り返った。アレクシスはとても真剣な顔をして頷いている。
「失踪事件ですよ。それも連続で起こってる。スラムの人間が消えてるだけなら、日常茶飯事ですし警察も誰も気にしないと思いますけど」
「けど?」
「けど今回消えてるのは、みんな信心深い良家のご子息たちばかりらしくて。だから大事件になってるんです。
……本当に知らないの?」
「あぁ、興味が無い」
ミヒャエルが心底どうでもいいというふうに首を横へ振ると、アレクシスはハァと溜息を吐き、「キミの人嫌いは筋金入りですねぇ」とだけぼやいた。
「キミ以外のミュンヘン市民はみんな知ってる話です。毎夜神に祈りを捧げるような敬虔なご子息・ご息女が
——それも大抵が喜捨を欠かさず行う善良で高潔な貴族の人々が
——ある夜突然、不規則に、どこからもいなくなってしまうんです。まるで蒸発したみたいに、証拠もなく。あまりに不可解なので、〝切り裂きジャック〟の再来じゃないかって話すら出てますよ。ほらロンドンで十年ぐらい前に起こった」
「物心つく前の話なんざ知るかよ」
「まぁ他国の話ですしね。でも創作物のモチーフになって、幻想怪奇小説とかによく出てくるんです。もっともジャックに襲われた被害者達と、今回失踪しているご子息たちには殆ど共通点がないんですけど」
切り裂きジャックに殺された娼婦の殆どはきっと神なんて信じていなかったし、ばかりか神というものすらよく理解していなかったでしょう、と、アレクシスの言葉は続いた。だいたい切り裂きジャック事件から経過した年月を考えれば、よくて模倣犯の仕業というあたりだろう。ミヒャエルにとってはどうでもいいにもほどがある推論をぺらぺらと述べ立て、アレクシスがそこでようやく口を噤み、そこで一度悩むように視線を泳がせる。
「どうした?」
その奇妙な様子が妙に引っかかって、ミヒャエルはらしくもなくアレクシスにそう問いかけた。するとアレクシスは躊躇いがちに目を泳がせ、喉を鳴らし、こう結ぶ。
「コトがコトですから、当局も動き出してて。
……噂では、この件、〝ホワイトチャペルの天使事件〟とか呼ばれてるらしいですよ」
「ばかばかしい」
その言葉にミヒャエルはすぐさま首を横へ振ったが、アレクシスの方は、どれほどにべもなく一蹴されたところで、食い下がる気にはなれないようだった。
「そうだよね。ばかばかしい、キミならもちろんそう言うと思ってた。でも、僕は、決して無関係だとは思わない。
……カイザー、被害者たちの共通点はもうひとつあるんです。それは誰もが、どこか、ここに生きている実感がない人たちだったということ」
最初の被害者は、貴族の四男坊。跡目争いとも無縁で穏やかな代わりにいつもやるせなさそうだった。次の被害者は、商家のご息女。親は娘を勢力拡大の道具ぐらいにしか思っておらず、望まない縁談を前に日毎無気力になっていっていた。三人目の被害者は、地主の五男坊。分け与えられる財産のあてもなく、神にばかり祈っていたが、救いが現世にないことも薄々感じていた。四人目の被害者は
……。
アレクシスの言葉は流暢に続いていく。その口ぶりには隠し切れない焦燥と動揺が滲んで、最後に、それこそ彼自身祈るようにして、アレクシスは大きな紫色の瞳を不安でいっぱいに揺らがせてこう呟く。
「僕はカイザーのコトが心配です
……」
アレクシスがうつむいた。
「キミが
——その、お世辞にも信心深いとは言えないコト、僕は知っていますけど。けれどそれでもふたつめの共通点の噂を聞いたとき、僕の脳裏に過ったのはキミの顔でした。だってキミって、なんとなく浮き足立っているというか、いつだって、誰と話していたって、心ここにあらず、といった雰囲気で
——」
「
…………」
「
——ここにいないみたい、いつかいなくなってしまいそうだなって、どうしても思ってしまって」
そうしてうつむき、しどろもどろになりながらも零された台詞に、ミヒャエルは返す言葉を持っていなかった。
だってそんなの当たり前のことじゃないか。
自分がどうして今ここに生きているのかに、理由を付けられるような人間じゃない。繰り返し見る夢の相手に出逢えることすら信じていない。世の中は乱れており、軍靴の足音が近づいてきている。世の中全部お先真っ暗だ。
つまりミヒャエル・カイザーは生まれてからずっと、十九年あまりものあいだ、ただ生きているから死んでいないというだけで
——そこに何の理由も抱いたことがないのである。
「でも僕はキミにそんな調子のままいなくなって欲しくない」
だというのにアレクシスは願う。
「キミに何か、生まれてきて良かったと思えるだけの喜びを見つけてほしい
……」
自分勝手だと知りながら、それでも抑えきれなかった祈りを、言葉にかえて。
ミヒャエルはその祈りに何も応えられなかった。ただそれを魚の小骨のように喉につっかえさせたまま、「そうかよ」とちいさく呟き、それからアレクシスと別れて自分の学科棟に足を運んだ。
◇ ◇ ◇
「
……それで今日の講義ではどうも上の空だったというわけか。らしくもなく質疑内容も精細を欠いているとは思ったが」
「うるせえな、したり顔で頷いてんじゃねぇよクソ
教授」
「これでも心配してはいる、俺はお前の担当だからな」
「だからそれが余計なお世話だって言ってるんだよ」
心底から不愉快だという顔でミヒャエルが目つきを悪くすると、「そうすると犯罪者に見えるからやめておけ」と男が鉄面皮のまま言い放った。その日最後の講義が終わったあと、ふたりきりしかいない、黄昏色の教室の片隅である。男はぬーんとした真顔のままビタイチ表情を変えやしないので、本当にそう思っているのか疑わしい。
こういう、何を考えているんだか表情からよく読み取れないところが、ノエル・ノアの非常にムカつくところであった。ミヒャエルはノエルのことがかなり嫌いなのだ。
「アンタが神学部教授じゃなければ、生涯口を利くことはなかっただろうな
……」
それでミヒャエルがかなりあてつけがましく喉を鳴らすと、ノエルは静かに首を振った。
「それならそれで俺は構わん。だが今日のところは口を利いて貰わんと困る、繰り返すが俺はお前の担当だ。お前の成績がふるわないと俺の評価点にも差し障る」
「あいあい、出世頭様は大変ねぇ」
感情の機微がビタイチ感じられない正論に、ミヒャエルはまだ精一杯の皮肉を投げつけてみる。けれどそれでもノエルにはさりとて響いた気配がなかった。手応えのないやつに悪意をぶつけてもつまらない。ミヒャエルは何もかもがどーでもよくなり、最後に馬鹿でかい溜息を零すとすべてを諦めた。
「クソ、しくった。俺としたことが何故こんな鉄面皮クソ
教授にらしくもなく口を滑らせてしまったんだ。徹夜でレポート書いてイカれてたとしか思えねぇ」
「徹夜でレポートやってんじゃねーよ仮にも学年首席が。日中は何してる」
「バイト」
「合法なやつか?」
「最近はパン屋の配達手伝ってる」
「そうか。気に入っているのか」
「そこそこな」
正直給金はさほど良くないが、女将が余ったパンの耳でラスクを作ってくれるのが気に入っている。しばらくは続けるだろう。だが、シフトは少々減らした方がいいかもしれない。
「ハァ
……クソねみぃ、アンタのツラ見てたら余計に気が滅入って眠気が増した。帰ったら絶対寝てやる
……」
そもそも徹夜でレポートを書くなんてのが、ミヒャエルとしては有り得ない事態なのだ。ミヒャエルは夕食を終えてすぐレポートに取りかかり始めた。日が昇ってまだ終わってないなんてどこかで寝落ちして時間が飛んだからとしか思えない。ノエルの言うことに同意するのは癪だが、仮にも首席がやっていいザマではあるまい。何とか対策を講じねば。
「
…………」
そんなことをぐだぐだと考えていると、何故か、ノエルが何か言いたげな視線をじっとこちらへ向けてくる。
「
……なんだよ?」
ミヒャエルはどうにも形容しがたい居心地の悪さを感じてふっとノエルの方を振り向いた。
「言いたいことがあるならハッキリ言いやがれクソきもい」
そしておよそ担当教授に向けるものではない暴言をハッキリ唇にのせて罵ると、ノエルは、しかし暴言の方にはさほど動じた様子もなく少し躊躇ってからこれだけを口にする。
「カイザー。悪魔には気をつけろ」
告げるあいだ、ノエルの表情は眉根のひとつすら動かなかった。
クソつまらねぇジョークの類だと思いたかったが、それにしては、ノエルの表情は
——度を超しすぎているほどに真面目だった。
「
……ご冗談を、クソ
教授」
「冗談などではない。カイザー、俺の職業は知っているだろう」
「ミュンヘン大学福音主義神学部教授。ついでに牧師。とてもじゃないがそうは見えない」
「だが事実だ。そんな俺が人をたぶらかし欲望の道へ唆す悪魔についての忠告を行ったところで、何もおかしなところはない。いいか、二度目だ。
悪魔には気をつけろ、お前はどうも悪魔に好かれやすいきらいがある」
「
……根拠は?」
「俺の勘だ」
何度問い詰めようとノエルはてこでも主張を譲らない。そのくせ論拠を求めると勘とか言い出す教授職にあるまじき態度だったが、しかしながらこの男は数学部でも化学部でもないので、これ以上の問答は無駄であろうことも確かだ。
しかし、悪魔か。笑える。よりによって悪魔ときたか。
悪魔なんてこの世にいないのに。
もしいるなら、あの
夢に出てくる青色が、自分の前に現れないはずがない。
或いは草の根掻き分けてでも探しに出ただろう
——しかし現実は残酷だ。
「素敵な
ご忠告どーも。レポートも提出はしているし、もう用はないだろ。俺は帰る」
一気に鬱屈とした気分になって、チッとあからさまな舌打ちを漏らすと踵を返した。振り向きもせず後ろ手に手を振る。ノエルはそれを咎めない。その代わり三度目の正直とばかり、「悪魔には
——」とご高説を繰り返そうとしやがったので、ミヒャエルはバンと勢いよく教室の部屋の戸を閉めて話を無理矢理遮ってやった。
「悪魔、悪魔、悪魔
……てめぇはエクソシストかっつーんだ、いんちきオカルト信者めが
……」
ノエルの戯言など頭に留める価値もない。なるべくとっとと忘れようと、朝はアレクシスと共に歩いた道をひとりドスドスと踏みしめる。神様なんてどこにもいない、天使も悪魔もいない、いればとっくに自分は救われている! この世界だって。むろんミヒャエルはこの
19世紀ヨーロッパにおいて
ツイてる方の人間であるという自覚はあるが、しかしそれでもやはり自分の人生に意味があるかと問われるとそんなものは生まれた時からなかったという結論に辿り着く。
アレクシスの言は的を射ている。ミヒャエルの心はここにない。生まれてきて良かったと思えることなどひとつもない。明日にも自分が消滅したとして何も想わないし何も残らない。なんて空虚な生き物だろう。だから今朝、アレクシスに何も言い返せなったし、その事実がどこまでも脳の片隅にこびりついて、離れていこうとしない。
「くそっ
……!」
下宿部屋へと続く裏手階段を隠れるように走ってギシギシ言う扉のかんぬきを引いた。音を立てないように静かに歩を進め、今度は内鍵を掛ける。生きる意味とはなんだろう。生まれてきて良かったと思えるほどの幸せとはなんだ? そんなもの、いくら考えたって見つかりっこない気がしていた。
だってミヒャエルの人生にそれがあるとしたら、そんなものはあの
青色以外きっと有り得なくて、
『よう』
——そのとき、埃っぽい屋根裏部屋にぞっとするような風が吹き抜けた。
煤けたカーテンが風に揺らぐ音に加えて、聞いたことのない声がミヒャエルの耳朶を打つ。この声はノエルでもアレクシスでもなく、ミヒャエルを連れだした老人のものでもない。この世で一度も聞いたことのない声、だけど懐かしい、どうしようもなく、ミヒャエル・カイザーはこの声を知っている。どうしてだかそうとしか思えなくて、ミヒャエルは一瞬で跳ね上がった心臓を抑えながら、ゆっくり、ゆっくりと
……声のしたほうへ振り返る。
「誰だ
……」
そこには、一匹の、悪魔が浮かんでいた。
そうとしか形容できなかった。全身真っ黒ないかにも怪しい
外套に身を包んだ青年が、屋根裏部屋に取り付けられた小さな窓の縁に窮屈そうに腰掛けてぷらぷらと行儀悪く足を揺らしている。だが彼の周りにはひとつも影が落ちていない。真後ろから夕陽を浴びているというのに影法師のひとつも落ちない。そんな生物はこの世にいないはずだ、
——質量を持っている限りは。
ごくり、と、生唾を飲み込んだ。悪魔の歳の頃は見た感じ十代半ばすぎといったところだろうか。頭部にはフードに隠れて一対の巨大な角が生えており、目尻には派手な朱を差し、くちびるは紫色に染めあげられていた。爪は長く、十指すべてが黒く塗り潰されている。そしていっとう目を引くのが、
外套の下からぴろんと伸びてふわふわと好き勝手蠢いている、奇妙ななりをした尻尾だ。トランプのスペードをくくりつけたような形状をしていて、黒革張りのような質感を持ちながらも、てらてらとぬめって艶めかしく夕暮れの光を照り返している。
『誰だ、って? 俺が? そんなの、コッチの方が知りたいぐらいなんだけど』
青年は耳を舐め回すような甘ったるい声でそう囁くと、ふわり、と縁から飛び上がり、ふよふよと漂ってはミヒャエルの元へと距離を詰めてきた。
『目が醒めたらココにいたうえ、自分が何者かも、何をすべきだったのかもわからないときた。分かっていることは三つ。ひとつ、俺は普通の人間には見えない超常の存在
——悪魔だってコト。ふたつ、俺は記憶喪失だ。名前を除いて何も覚えてないから、とっとと記憶を取り戻さなきゃならない
——というコト。そして、みっつ
——』
悪魔の顔が、ミヒャエルの眼前、そのほどちかくに浮かび上がる。鼻と鼻がくっついてしまいそうなほどすぐそばに、まるで繰り返し見る夢の光景と同じようにすぐそばへやって来て、ヤツは不敵ににたりと笑い、口が裂けんばかりに口角を上げて嗤う。
『俺はお前に逢いに来たんだ、ってコト。俺の名前はヨイチ。さぁ
——お前の名は?』
青色と同じ顔をして。同じ海の色をその両眼にたたえ、悪魔は人間を誘惑し、人間は愚かにもその手の中に堕ちる。
「お、れ
……は、」
くちびるがもたつく。朱の入っていない目尻が何度もまばたきのために上下して、乱雑に切りそろえられたプラチナブロンドは悪魔を通り過ぎて入り込んでくる夕暮れの光を照り返し、この世のものならざる来訪者の存在とはうらはらに煌めいて、現実味を失わせ、そしてふたたび生唾を飲み込む生々しい音と共に、ミヒャエルの最後の引鉄を引かせてしまう。
「俺は
……ミヒャエル。ミヒャエル・カイザー。ヨイチ
……俺も、きっと、ずっとお前に逢いたかった
…………」
ミヒャエルは囁いた。認めたくはないが、頬には紅が差し、小娘のように紅潮しているであろうことがいやでもわかった。ミヒャエルのうわごとを聞いて、ヨイチが満足そうに頷き指先を伸ばしてくる。そしてヤツは『俺に名前を言ったな? もう後戻りはできないケド、いーよな?』なんて蠱惑的に微笑み、最後にひとさし指でミヒャエルの額に陣を描く。
『ん、いい子。これで契約完了
——だな』
そして、すべてが始まった。
或いはそこからすべてが終わってしまったのかもしれない。答えは今となってはもう分からない。ただひとつ確かなのは
——この日を境に、19世紀末のミュンヘンに暮らすミヒャエル青年の運命は、大きく動き出してしまったのだ、ということだけ。
『もうお前は俺と離れられない。死ぬまで俺の記憶探しの奴隷ってコトだ。これからよろしくな〜、ミヒャエル♡』
ヨイチは
——悪魔は、ただただ、愉しそうに笑っているばかりだった。
そしてミヒャエルはその姿をただ愛おしいと思い、目を閉じた。
宗教画に描かれる天使のように美しく、卑俗な流行画に描かれる裸婦像のように堕落したその恍惚顔を、何より愛おしく守りたいものだと、生まれてはじめてそう思ったところで
——彼の意識は一度途切れた。
HOME ■
NEXT