kaisou
2026-02-11 01:54:24
4860文字
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Que votre nuit soit paisible. 安らかな夜を

おやすみダーリン、お疲れ様でしたいい夢を。

※歴史創作ですのであしからず

王妃→エリーザベト・クリスティーネ、プロイセン王妃
夫氏→フリードリヒ大王

 ――その夜、ベルリンの空気には、夏の終わりの匂いがあった。

 窓を少しだけ開けると、庭の草の熱が、まだ息をしている。シェーンハウゼン宮殿の廊下は昼の賑わいをたたみ、いつもの静けさに戻っていた。遠くで靴音が一つ、規律正しく響いて、やがて消える。
 エリーザベト・クリスティーネ、プロイセン王妃は、燭台の火に手を近づけすぎぬよう注意しながら、一本だけを残して机に向かった。火を増やせば、夜が長くなる。長くなれば、考えてしまう。思考は尽きないが、今日は――できれば、眠りに近い場所で、身体を冷やさぬことと、暖かいことだけを思い出したかった。
 机の引き出しには、束ねた手紙がある。紐で括り、年ごとに揃えて、丁寧に。公的な書類よりも、彼女はこれを大事に扱った。宛名はいつも同じ筆跡。文字は小さく、筆跡は細かい。送り主の几帳面な性格が滲み出ていた。中身は用件のみ。労いは、たまに付録のように最後にひとこと。それでも、欠かさない。それが彼のやり方だった。

《Madame(マダム)へ》

 ――その呼びかけだけで、胸が少しだけ整う。愛称でも、優しい言葉でもない。けれど、彼は妻を『公の肩書』としてではなく、誰かとして呼ぶとき、こう言った。
……おやすみを言いましょうか」
 独り言は、夜にだけ許される。王妃という職業は日中だけ。夜は、ただの女になる。彼女は紙を取り出し、羽根ペンを持った。書くべき用件はない。国事もない。慈善の報告も、明日に回せる。今夜は、彼に宛てるわけでもないのに、彼のために書く。

 《あなたがいないことに、まだ、慣れません》

 そう書きそうになって、やめた。
「慣れるべきことではありませんものね」
 そう言ってしまえるのが、彼女の強さだった。自分に嘘をつかない。そのうえで、人を責めない。
 寝台の脇には、今日届いた包みがある。封蝋は崩れていない。宮廷の印章。王家の使者が持ってきたものだ。いつもの報せ。式典。勅命。招待。
 ――そういう類の、重たくて、よくある、王妃としての日常の延長。けれど包みの重さが、いつもより少しだけ、別のものに感じられた。彼女は手を伸ばして、封を切る。紙の音が、夜の静けさを裂く。息を吸う。指先が、ほんのわずかに震えた。最初に見えたのは、日付だった。

 一七八六年 八月十七日。

 そこから先は、目が勝手に追ってしまう。読まなくても分かる言葉が、形になって並んでいる。

――国王陛下、薨去。

……そう」
 最初に目を通した時、声が出たのが自分でも驚きだった。叫びもしなかった。泣きもしなかった。それは、彼女が冷たいからではない。むしろ逆だ。冷たい仮面の下に、熱があるから、表に出すと焼けてしまう。だから、まず、受け止める。受け止めて、壊さない。壊れるのは、後でいい。彼女は手紙を机に置き、両手を重ねた。祈りの姿勢。けれど、祈りの言葉は出てこなかった。

――ひどい人。いつも、勝手。
――最後まで、私の前に現れないのね。

 そういう言葉ならいくらでも出る。しかし言葉を、彼女はもう彼に投げない。とうの昔に決めていた。
……一月に会ったのが、最後でしたね」
 今年の一月十八日。彼の弟の誕生日で建国の記念日。宮廷は『祝い』の装いをして、エリーザベトもまた、王妃の衣装を纏った。そして、彼は――彼らしく、祝いの席でさえ、どこか戦場の司令官のような顔をしていた。あの日の彼は痩せていた。昔から細い肩は、いっそう骨ばって見えた。それを見て、彼女は笑った。笑ってしまった。笑うしかなかった。心配を顔に出したら、彼は狼狽える。狼狽えて、怒って、逃げる。逃げる先は、机と地図と、無数の書類と、彼の犬たちのところへ。だから彼女は、王妃として、妻として、あの男の扱い方を身につけていた。
「お寒くないですか、陛下」
「寒くない」
「では、せめて手袋を」
「要らん」
「では、私が持っておきます。……後で必要になったら、私のせいにしてくださいませ」
 彼は、それで少しだけ口角を上げた。笑いではない。合図のような微笑。それが、彼女には『最上の贈り物』になった。それから彼は、いつもの調子で言ったのだ。
「Madame(マダム)は――また少し、お太りになったのかな」
 聞きようによっては公然の侮辱。周囲の空気が、見事に凍った。親族や家臣たちが、息を止めたのが分かった。誰もが、王妃の反応を待った。怒るか、泣くか、黙るか。王妃が揺れれば、宮廷が揺れる。宮廷が揺れれば、国が揺れる――そんな誇張が、あの場所では本当になる。エリーザベトは、揺れなかった。彼女は少し首を傾げて、にこりと笑った。
「それは良いことです。お痩せになった方の分まで、私が食べておりますから」
……余計なことを」
「余計なことを言ったのは、陛下でございますよ」
 その返しに、周囲がようやく息を吸い、笑いが少しだけ戻った。彼は一瞬、目を逸らし、次の瞬間にはまた冷たい顔に戻った。

――狼狽えた。

 彼女は、その『ほんの一瞬』を見逃さなかった。見逃さずに、責めずに、胸の内にしまった。彼は、自分が人を傷つけたと理解するとき、いつも困る。にもかかわらず、人の心を試すような言葉を、つい口にしてしまう。それは、彼が残酷だからではない。むしろ逆だ。相手の反応を理解できてしまうからこそ、その重さを引き受ける前に、距離を測ろうとする。困って、逃げて、短い手紙で誤魔化す。その後に届いた彼の手紙は、いつもよりさらに短かった。

《Madame(マダム)へ
 健康には気をつけててください。祝賀の件は滞りなく進めるように。
 最大の敬意をあなたへ》

 ただ、それだけ。署名。司令書みたい、と侍女が怒りかけて、彼女は首を振った。違う。司令書ではない。彼が持てる『やさしさ』の、最大限だ。彼女は返事を書いた。

《陛下、私は元気です。ですが、手袋は必ずお持ちくださいませ。困るのは陛下でございますよ》

 その返事を出した翌日、彼からもう一通届いた。本当に短い、短すぎる追伸。

《ご懸念の点については、すでに配慮しています》

 彼女は思わず笑ってしまった。笑って、胸が少しだけ温かくなった。

――彼は、手袋を持った。自分の言葉が届いたから。

 エリーザベトは、机の上の訃報に視線を戻した。届く言葉が、もう届かない。手袋を持て、と言っても、彼はもう持たない。痩せるな、と言っても、彼はもう痩せない。眠れ、と言っても、彼はもう眠らない。
……あなた」
 呼ぶと、涙がこぼれ落ちそうだった。彼女は呼ばない。代わりに、手紙の束に触れた。紐の感触が、指に現実を教える。

――あなたは、ここにいる。ここにしか、いない。でも、ここにいる。

 エリーザベトは立ち上がり、窓辺へ歩いた。夜風が頬を優しく撫でる。庭の闇の向こうに、彼の宮殿があるわけではない。彼はポツダムにいた。サンスーシにいた。そこで息を引き取った。そして彼女はベルリンにいる。シェーンハウゼンにいる。彼の死に際にいなかったし、冬にあったきりだった。それが、彼らの結婚の形だった。新婚の頃だけは、違った。あの頃だけは、彼はまだ『若い男』で、彼女も『若い女』だった。互いの手を取る未来を、どこかで信じてもいた。けれど王位が彼を連れていき、戦争が彼を削っていき、宮廷が彼を恐れ、彼が宮廷を嫌った。

 人嫌いの王。誰からも好かれる王妃。その釣り合わなさは、世間の物語を作った。

――かわいそうな王妃。
――冷たい王。
――不幸な結婚。

 けれど、彼女はそれを否定しなかった。否定する必要がなかった。愛は、人に証明するものではない。愛は、自分が生き方で示すものだ。だから彼女は、送り続けた。彼の好物。保存の利く菓子。酒。薬草。温めるための毛布。戦場に行く男のために、妻ができる唯一のこと。そして、彼女は手紙を書き続けた。

――今日は庭の薔薇が咲きました。
――あなたが嫌う音楽を、私はあえて聴きませんでした。
――あなたの犬たちが元気なら、それでよいです。
――あなたが元気なら、それでよいです。

 返事は、短かった。用件だけ。時々、刺す。でも、欠かさない。
 欠かさないという事実だけが、彼の愛情だった。そして、愛情は、事実で十分だった。彼女はゆっくりと息を吐き、窓を閉めた。戻って、机の上の訃報をもう一度読み返す。文字は変わらない。けれど、読むたびに意味が増える。増えて、胸が重くなる。
……お疲れさまでした」
 言葉が、今度は自然に出た。不思議と、涙はまだ来ない。涙は、夜更けに遅れてやってくるものだ。昼間の王妃には遠慮して、夜の女のところにだけ来る。彼女は訃報の紙を丁寧に折り、大切に箱にしまった。それから、彼の手紙の束を一つ選び、ほどいた。いちばん古い束ではない。いちばん新しい束でもない。7年にわたる長い戦争の頃――彼がもっとも危険で、もっとも頑固で、もっとも彼らしかった頃。束の中の一通を抜き出す。紙の端が、少し擦れている。何度も、何度も、読んだから。

《Madame(マダム)へ
 天の御意向はいまだ定まらぬようで、今しばらくはこの場に留まることになりそうです。当面のところ、案ずるには及びません》

 たったそれだけ。それでも、彼女はそれを『優しい』と思った。なぜなら彼は、心配されることを嫌う。心配されると、弱いところを見られた気がして、苛立つ。その男が、わざわざ「心配するな」と書いた。それは、「お前が心配していることを知っている」ということだ。知っていて、なお生きて帰ろうとしているということだ。彼女は紙を胸に当てた。紙は薄いのに、心に重い。
……あなたは、ほんとうに」

 ほんとうに、変な人。
 ほんとうに、優しい人。
 ほんとうに、どうしようもなく、私の人。

 エリーザベトは椅子に戻り、白い紙を引き寄せた。今度は、彼に宛てて書く。届かないと分かっていても、宛てる。

《陛下。
 手袋は、今もお持ちですか。風邪をひいていませんか。無理をしていませんか。
 私は――私は、あなたがいなくても、王妃の仕事をします。それが、あなたが私に残した役目ですから。でも、今夜だけは、妻でいさせてください》

 書いて、息を吸う。涙が、ようやく一滴、紙に落ちた。それは文章を滲ませない。王妃の筆跡は揺れない。揺れないまま、涙だけが落ちる。彼女はそのまま書き足した。いちばん最後に、やさしい言葉を置く。夫が嫌う甘さを、あえて置く。これは、彼のためではない。自分のためだ。 

《おやすみなさいませ、Monsieur(ムッシュー)》 

 書き終えると、胸が少しだけ軽くなった。夜はまだ続く。明日も続く。王妃という職業は、彼がいなくても続く。けれど、たった今、彼女は確かに『妻』をした。誰にも見られず、誰にも褒められず、誰にも証明できない場所で。
 彼女は手紙を折り、箱にしまった。宛名は書かない。届かないからではない。宛名がなくても、これは彼に届くと、彼女は信じていた。信じることは、王妃の仕事でもある。祈りの延長でもある。最後に、燭台の火を見つめる。火は揺れる。揺れながら消えない。
……あなたも、そうでしたね」
 揺れて、刺して、逃げて、戻ってくる。短い手紙で、戻ってくる。
 手袋を持って、戻ってくる。

 エリーザベトは立ち上がり、寝台へ向かった。夜着の袖口を整える仕草が、いつもと同じであることに、少しだけ安心する。同じでいることが、明日を作る。横になり、目を閉じる。暗闇はやさしい。やさしくない現実も、いったん包んでくれる。彼女は心の中で、もう一度言った。声にすると崩れるから、心の中で、丁寧に。

「おやすみなさいませ、Monsieur(ムッシュー)。良い夢を」

 そして彼女は、ほんの少しだけ、眠った。