夕食に誘ったのは自分だった。二人で、と言ったのは特に意味があったわけではない。有り体に言ってしまえば、いつものことのつもりだった。しかしどうしたことだろう。眼前で固まってしまった少年は、首の辺りを赤くしている。まさかと一瞬都合のいい思考が巡ったものの、即座に一旦否定して、だめだろうかと重ねて問うてみる。数秒のち、大丈夫の返事を掴み取ったが、どうにもやはり、違和感は続く。
まず、何より、目が合わない。いつもだったらしっかりと合うはずの視線が、先ほどから一向にかち合わないまま時間が過ぎている。それから会話もぎこちなく、店を知っているという彼について歩く間、こちらから会話を振ってみても一、二回のラリーで終わってしまう。何より普段は、彼のほうから会話を振ってくれるはずなのにそれがない。まったく、ない。
体調でも悪いのだろうか。訊きたかったが、そんなことないと返されるのが読めていた。実際足取りはしっかりしているし、顔色が悪いわけでもない。ただ、言動のすべてが、何かおかしい。心配するようなことはないのかもしれないが、それにしたってこれは、いやはやどうしたことだろう。
店に到着し、向かい合って座る。やはり、目が合わない。少年はすぐさまメニューで顔を隠してしまい、まるで避けるようである。はて、避けられるようなことをしただろうか。さすがにそんな覚えはなく、こうなってくると理由を問い詰めたくなった。いけない。訊くにしても穏便に。せっかくの時間を、喧嘩腰で過ごしたいわけではないのだ。
まずは注文を済ませてしまう。相談もせずにお互いに好き勝手に頼んだから、結構な量になっていた気もしたが、好都合。時間は、あればあるほどよいのである。
「グラン」
呼んでみた。ようやくおずおずと目が合わせられ、密やかな安堵が胸に広がる。その顔はどこか、申し訳なさそうに眉が歪められていた。どうやら一連の違和感については、自分に原因があるわけではないらしいと、それだけで察せられる。では、しかし、なぜ? 疑問は尽きず、心のままに唇は開かれる。
「何かあったのか?」
問いに、少年は首を振った。何もないならなぜ、今度は口に出さなかった。
「なんでもないんだ、本当に」
「なんでもなくは、ないだろう」
「それは……それは……」
どうにも歯切れが悪い。そうしているうちに、とりあえずドリンクが届いて乾杯した。暗い乾杯だった。ある意味記念になるかもしれない。実際、自分が悪いわけではないと思ったら、この瞬間も楽しめるのだから調子のいいことである。結局、いまはグランと一緒にいられたら、なんでもいいのかもしれなかった。どうにも、浮かれている。
「言いたくないなら言わなくてもいいが、避けられているようで少し悲しいな」
嘘ではなかった。ほんとうでもなかった。
「そ、んなつもりは、なかった、けど、ごめん」
素直さは美徳である。いっそ美しくすらある。きらきらと眩しくて、思わず目を細めたくなった。きつめの炭酸水で喉を焼いてごまかしておく。
「いや、俺も意地の悪い言い方をした」
そこで、最初の一品が運ばれてきた。カリカリベーコンのポテトサラダ。これは、彼が頼んだものだ。お先にどうぞと進めると、遠慮がちにフォークが伸びてくる。
「これね、おいしいんだよ」
半分こ。自身の皿に半分取り分けた少年は、そのままずいっと皿を差し出してきた。受け取って、流れるようにそのまま一口。こちらの反応を窺うような、彼の視線が愉快だった。
カリカリベーコンと銘打ってあるだけあって、しっかりと焼かれたベーコンのパンチが真っ先に訪れる。強めの塩気と黒胡椒の辛さ、最後にじゃがいものやさしい甘みが抜けていく。コントラストが絶妙だった。
「うまいな」
「でしょう。よかった、気に入ってくれて」
少しだけぎこちなさが取り払われた少年は、嬉々として自分のフォークを口に運んだ。幸せそうに綻ぶ顔がやはり愛おしくてたまらない。ああ、帰ってきたのだ、と遅い実感の訪れは、そのまま幸として昇華された。
続いてきたのはきのこのアヒージョ。気になって注文したのは自分だった。バゲットは贅沢に六枚。三枚ずつ分け合って、オイルをたっぷり含ませて、したたるまえに口に入れる。鼻に抜けるニンニクの香りが空腹によく沁みた。
続くようにまとめて運ばれてきたのは、チキンのトマト煮込みと、白身魚のトマトソース添えに、ミートソーススパゲッティ、それから煉獄のたまごなるトマト料理だった。さながらトマトパーティである。二人して笑い合い、順番に食べ進める。きちんと相談しないから、こういうことになってしまうのだ。けれど、楽しいからなんでもいい。どれもこれも、トマトの酸味がどんどん食を進ませるし、結果オーライだろう。
「そういえば」
忘れていたことを、不意に思い出す。グランはパスタを啜りながら目線だけをこちらに向けた。
「手紙は、届いていただろうか」
なんとなく、答えは知っていた。届いていたのだ。だから、彼は出迎えてくれた。そう、思いたい。
ごくり、と少年の喉仏が上下する。紙ナプキンで口元を丁寧に拭い、甘めのジンジャーエールを一口。ふうと吐かれた息は短く、言葉も同じくらい手短に吐かれた。
「届いたよ。お昼に」
「昼か。思ったより早かったな」
「早くないでしょ。僕すっごいびっくりしたんだから」
「驚かせたかったんだ」
少年の眉が寄る。心臓に悪いからやめてよ、言われてつい頬が緩んでしまうものだから、余計に彼の表情が歪んでしまった。その眉間のしわを、ぐりぐりと引き伸ばしてやりたくなって、我慢。
ちょうど、デザートが運ばれてきた。ティラミスにプリンにアイスクリームに、チョコレートケーキ。またずらりとよく並ぶ。
「半分こ?」
「好きなものを食べるといい」
「いいじゃん、半分こにしよう」
溶けてしまうからアイスクリームを手始めに。続いてティラミス。ああ、ココアパウダーが膝にこぼれた。適当に払って次はチョコレートケーキ、最後に、プリン。
どれもこれも甘さがしっかりとしていて、コーヒーが欲しくなった。二人で慌てて注文したものの、届くころには全部食べ終えていた。まあ、ちょうどいい。しっかりと苦味の強いコーヒーは、少年には少々合わなかったらしく、たっぷりのミルクで色が変わっていた。さすがに砂糖は、控えたようだが。
一足先に飲み終えて、ゆっくりと彼を待つ。その一挙手一投足を眺めている時間は、永遠に思われてほしいのにあっという間で、切なさと同時に焦りを生んだ。
どちらからともなく立ち上がり、会計を済ませて店を出る。朱色だった世界は冴え冴えとした夜をたたえて藍に染まり、街灯のオレンジが煌々と輝いていた。ほんのりと肌寒い。
艇までは、何も考えずに歩いていけば十分もかからずに着いてしまう。そうなれば、あとはまもなく別れてしまって、今日はそれで終わるだろう。それはあまりに惜しかった。何より、ジークフリートは焦っていた。いらない焦りだったかもしれないが、一度抱いてしまったものを、落ち着かせるのは易くなかった。
なぜだろう、なぜ、自分はこんなにも焦っているのだろう。再会した最初、少年の態度がおかしかったからだろうか。あるいは、食事の時間があまりにも楽しかったせいだろうか。どちらも正解で、どちらも間違いであるようだった。
「グラン」
呼びかける。少し先を歩いていた少年は足を止めて振り返った。
「少し寄り道しないか」
それは提案だった。拒絶されたくないと思いつつ、断られることを期待している、誘いだった。
「いいよ。ああ、この時期ならあれが見られるかも。ついてきて」
男の心境など知らぬまま、少年は割合にあっさりと受け入れて、ついでに手招きをしてくれた。案内されるまま、脇道に入り、小道を進み、しばらくを行く。それは何かの獣道で、けれど少年が迷いなく進むから危険はないのだろうと知れた。
「ここだよ。静かにね」
到着と同時に少年がしゃがみ込むのに合わせて、こちらもしゃがむ。静かに、というのだから、きっと何かいるのだろう。少年は前方を指していた。
そこには、発光する胞子を吐く魔物がいた。さながら水辺の蛍のように、夜の闇にぽわぽわとした灯りが浮かんでいる。
「綺麗でしょ。でもすごく臆病だから気づかれると逃げちゃうんだよ」
可能な限り声を潜めて、少年がそう教えてくれる。おそらく、逃げられてしまった経験があるのだろう。二人息を殺してじっと眺める時間は、やはり永遠にはなってくれない。
ぽふん、と。大きな音を立てて大量の胞子を吐き出すと、魔物はゆるゆるとその場を去っていった。後に残されたのは、胞子のやわらかい煌めきと、自分と、少年。
「行っちゃった」
残念そうに、名残惜しそうに、静寂の中で少年が口にした。それは寂しさも内包するようで、気づくとその手を掴んでいた。
「どうかした?」
もうどこにもぎこちなさをたたえない少年は、首をかしげるだけで振り払うことも、嫌がることもない。
「――グラン」
強く、呼ぶ。驚愕に見開かれた瞳をまっすぐに覗き込む。頭の中で、ここではいけないと諭す声が聞こえていたが、もう止まれる余地はなかった。
「好きだ」
口走って、しまった。人目があるところでないとまずい、だとか、断られたあとの自分が何をしでかすかわからない、だとか。あれこれと考えていた何もかもが、意識の彼方に消えてなくなり、ただただうわごとのように繰り返す。
「好きだ、好きなんだ」
返事を、聞きたかった。同時に、聞きたくなかった。
「え、え?」
動揺している声がする。それもそうだ、主語がない。
「グランが、好きなんだ」
きちんと言った。はっきりと。間違いなく、疑いようもなく。それは明確に伝えたはずだった。
「あ、ありがとう……?」
しかしどうして、言葉というものはもどかしいくらい正しく伝わらないときがある。ああいっそ、この心のうちを丸裸にして曝け出せたら、きっとこれ以上ないほど正確に想いを伝えられるというのに。出来もしないそんなことを、思わず願ってしまうくらいジークフリートは冷静ではなかった。
「違う」
頭ごなしの否定が飛び出す。また少年が、驚いた気配があった。
「違うって、どういうこと?」
わざとだろうか。いや、きっと違う。少年は素直に困惑している。けれどジークフリートも、これ以上ないほど正面から伝えていた。これで伝わらないのなら、どれだけの言葉を重ねたらいいのか、いまの状態では判断がつかなかった。が、ここまできたら、言葉を並べなければならない。伝わるまで、いくらでも、何度でも、伝えなければ、ならない。
「好きなんだ、グランが。仲間としてだけじゃない、それ以上に大事なんだ」
わかってほしい。切実だった。
「それ以上って、え、つまり、どういうこと?」
これでもだめだというのなら、もういっそ口付けてしまおうか。いやそれはまずい。そこまでしてしまう前にまだ何か、言えることがあるはずだ。同意のない行為は何事においても暴力なのだから。
「嘘偽りない真実として、お前のことが好きなんだ」
ああどうして、何もいい言葉が出てこない。これではまるで幼子だ。愛を求めて手を伸ばすことしかできないなど、あまりにも滑稽だ。
時が止まる、錯覚。光の残滓が消え失せて、風が音を奪い去る。呼吸も忘れたように落ちた沈黙の中で、ジークフリートは掴んだ手に力を込めた。これでは、痛むかもしれない。構って、いられない。
「愛していると言うべきか……?」
問うてみた。答えは返らなかった。仕方なく、少年の顔を真正面から見据えた。月光が落ちている。しかしどうして薄暗く、うまく表情が読み取れない。
「……な……わけ……」
少年の唇が、やわらかく動く。聞き取れないほど小さい声が、何事かを紡ぐ。それは独り言のようだった。だからじれったさを堪えて、待った。
生唾を飲み込む。これ以上、手に力は込められないのに、汗で滑って抜けてしまいそうで不安に駆られる。逃げられたら、なんて、想像するだけで背筋が冷えた。
「うそ、じゃ、ない……の……?」
問われて、頷く。そう言っている。そもそもこんな笑えない冗談、絶対に言わない。本気でなければ、口にも出せない。
「いや、だって、そんな、そんなはず――」
信じられないものを前にしたときのように、少年はふらふらと地面に尻餅をついた。どうやら腰が抜けたらしい。合わせるように座り込み、そっと手を離す。逃げられないという確信からか、ほんのわずかだけ、頭が冷えてきていた。
「信じられないなら、何度でも繰り返そう」
結局、それしかできないから。それだけなら、いくらでもできるから。首を振られた。やめてほしいと、明確に拒絶された。
「心臓がもたない」
少年は、両手で顔を覆うと盛大にため息をついてみせた。それの意味するところは、ジークフリートには理解ができなかった。だから、やっぱり、待っていた。
「どうしていま言うの」
「いましかないと」
「いま以外にあったでしょ、絶対あったよ」
ぐうの音も出ない。自分だってまさか、こんなひとけのない場所で告白することになるだなんて、想像もしていなかった。
だって、恐れていたのだ。自分が何をしでかすかわからないから、人目のあるところでの告白が無難だろうと思っていたのだ。それなのに、蓋を開けてみればこれである。まったく、救えない。救いようがないほどの愚か者である。
「あのね」
グランが、そっと手を重ねてきた。
「僕、今日ちょっとおかしかったでしょ」
言われて頷く。その話は結局、うやむやになってそのままだった。
「その理由、教えてあげる」
だからまずは、艇に帰ろう。それが彼の提案だった。
帰路は無言だった。到着と同時に彼の親友が出迎えてくれた。夕食は何を食べたのか、から始まり何やら会話が弾んでいる。それもそうだ、彼らはそういう関係性なのだ。しかしどうして、このままではまたうやむやなままになってしまうのではないか。刹那の不安を見透かすように、振り返った彼は告げる。
「あとでちゃんと部屋に行くから。お風呂でも済ませて待ってて」
言われてしまえば、大人しく従うしかない。言われたままに風呂を済ませ、部屋に戻って一息吐く。わずかばかりの違和感は、ぬいぐるみが一つ増えたことに起因していた。見覚えがある。確か猫に買ってきてやって、気に入ってもらえずにどこかにいってしまったものだ。どうしてここに、とは、考える必要はない。どこかで見つけてきたグランが、持ってきたのだろう。
待つ時間というのは、どうして長く感じられるものである。踵を高く踏み鳴らし、焦燥を抑え込む。呼吸が浅くなっている自覚をもって意識して深呼吸。意味もなく立ち上がってみて部屋をうろつき、また座る。
ふと、足音が聞こえてきた。聞きなれた音だった。立ち上がって、ノックの前に出迎える。
見下ろす位置に、つむじがある。その両手にはカップが握られていて、ゆらゆらと湯気が立っていた。ほんのりと甘い、落ち着く香りがする。
「そんなに待たせた?」
「いや、そんなことはない」
――自分の気持ちが逸ってしまっただけだ。冷静になると妙に恥ずかしくて、思わず頬を掻いていた。グランが、笑ってくれたから、恥なんて、すぐにどうでもよくなる。
部屋に招き入れ、椅子をすすめる。うっすらとした埃を認めて、払っておけばよかったと後悔を一つ。少年は気にする様子はなかった。そのまま腰掛け、カップを差し出してくる。見慣れないカップだった。まじまじと見つめていたら、最近買ったのだと教えてくれた。
「このお茶ね、飲むとよく眠れるんだよ」
カップに口をつけながら、彼が言う。
「ちょうどいいでしょ」
言葉の意図は、正直読めなかった。頷くでもなく、首を振るでもなく、反応を返さないままゆっくりと自分も啜ってみる。まず舌に甘さが乗った。続くように花の香りが抜けていき、最後にほんのわずかに苦味が残る。
「それでさ」
グランは一度カップを置いて、真正面からこちらを見据えてきた。
「さっきの、本当に冗談でも嘘でもないんだよね?」
それは、疑いから出た言葉ではなかった。ただの確認であった。だから穏やかに頷いてみせた。
「そっ、か」
一度、目が伏せられる。視線が合わなくなったことに妙な不安を覚えたが、ぐっと堪えてお茶を口に含む。やはりほんの少しだけ苦かった。
沈黙の間を、抜ける音はない。聞こうと思えばいくらでも音にあふれる艇内ではあるものの、あえてそれらは遮断する。お互いの呼吸の音に耳を澄ませ、集中力を研ぎ澄ませる。無意識に、生唾を飲み込んでいた。
「あのね」
歯切れの悪さはどんな理由からなのだろう。察することも、推しはかることもできないまま、ただ待つというのは妙に心臓が痛かった。けれどこれは、耐えるしかない。耐え抜いた先に待ち受ける結果がどんなものだとしても、受け入れるしかない。
ここは艇内で、いくらでも人がいる。先ほどまでとは状況が違うのだ。万が一にも〝何か〟を起こしてしまうようなことがあっても大丈夫だという安心が、逆に理性を強固にした。
待つ。ひたすらに、待つ。グランの視線は、これ以上ないほど泳いでいた。あまり、見つめすぎないほうがいいだろうか。
視線を外そうとしたそのタイミングで、音が出そうなほどはっきりと目が合った。
「僕もね、その、えっと、――あなたが好きだよ」
緊張した様子で、硬い声が告げる。耳を疑った。頬でも抓ろうかと思ってやめにした。息を吐く。お茶を含んで飲み下し、その苦味を強く強く拾う。息を吸う。今度は自分の目が泳いでいることを、ジークフリートが自覚したのは、例のぬいぐるみをとらえたときだった。
何を、言われた。何と、言われた。それは何よりも欲しかった言葉で、けれどどこかで、心の片隅ではもらえるはずもないと諦めていた言葉だった。
だって、どうして、ありえないだろう。未来ある少年の、特別な感情を、得られるなんて、そんなはず、あるはずがなくて、あっていいはずがなくて、いっそすべて夢だと言われたほうが納得がいく。しかし現在が紛れもなく現実であることは、彼だって理解していた。
「ねえちょっと、何か言ってよ!」
顔を真っ赤にして、少年が叫ぶ。ああ、可愛らしいななどと言ったら怒られそうである。
「それは、冗談ではなく……?」
そして、悲しいかな、ジークフリートはグランと同じことを聞き返すしか、できなかった。
「こんな冗談、絶対言わない」
それもそうだ。この子は、そういう子だ。素直で、真面目で、芯が通っていて、悪辣嫌い、善行を為す。どこまでもまっすぐで、どこまでも気高い。そう、そういうところに、自分は、惹かれたのだから。
「これは、喜んでもいいんだろうか」
頓狂な問いに、グランは呆れたようにため息を吐いてみせた。そのままの流れで、彼はカップをあおると一息に中身を飲み干してしまい、少々乱暴に吐いた。
「僕に聞かないで!」
これは、怒らせている。それもそうだ。いいおとなが何を言っているのだろう。とはいえ、許して欲しいと思う。誰かを愛しいと思ったことも、それが望むように返されたことも、これまで一度も、なかったのだ。生まれたての感情を持て余して愚かになるのも、仕方がないのだ。しようがないのだ。
全部ただの、開き直りだった。
「僕だって混乱してるんだよ! それなのにほんと、なんなのさ」
「すまない」
「謝ってほしいんじゃないの!」
ではどうするのが正解だろうか。問いたかったが火に油なのは目に見えていた。
考える。思考する。答えなど見つからない。見つからないまま、口を開く。
「抱きしめても、いいだろうか」
それは欲だった。もっと何か他にないのかと、いくらでもありそうなものなのに、こぼれたのはそんなものしかなかった。
「だ――っ、……い、いいけど」
勢いつけて立ち上がる。座ったままのグランを半ば抱え上げるように抱きしめてみる。あたたかい。心臓の音が薄い布越しに伝わるようで、涙の一つでも流せてしまえそうだった。
「ずっと、こうしてみたかった」
本音である。もうずっと、ほんとうしか吐けないままになってしまっている。困ったことだが、全部どうでもよかった。
腕の中に、ずっと求めたぬくもりがある。それがどれほど幸福か、噛み締めるにはまだ時間が足りない。
「ちょ、くるし……」
「我慢してくれ」
実際これでも足りないほどなのだ。もっともっと、境界線などなくなるくらい、強く強く抱きしめてしまいたいのだ。それでもきっと、心から満たされることはないのだと、頭のどこかで理解している。これは飢えで、渇きで、途方もない欲望だった。
「いい加減に、して!」
ぐっと押し返される。抵抗するために力を込める。しばらくの押し合いは、ジークフリートが折れる形で決着した。
「あーもう、苦しかった」
「すまない、浮かれた」
「浮かれて命の危険に晒されたくない!」
もっともである。反省の意図を込めて、一歩身を引くと、すぐさまその距離分詰められた。
「嫌だとは言ってないでしょ」
手を取られる。ぬくい。もしかしたら眠いのかもしれないなと、くだらぬことに意識を逸らせる。
「ぼ、僕だって、好きな人には触れてみたいし、いろいろその、してみたいことだってあるんだから」
ぎゅう、と握り込まれて熱が移ってくる。あたたかいを通り越していっそ熱さすら感じるそれは、まるで彼の心のうちを表すようであった。
胸のあたりがじんわりと熱を持ち始める。心拍が上がり、鼓膜にやかましく響いてくる。ただ、手を握られているだけだというのに。たったそれだけのことで、感情があふれて止まらない。
それは愛おしさだった。ただただひたすらにまっすぐに彼を想う気持ちだった。もう一度衝動的に抱きしめたくなるのを堪えて、口を開く。
「してみたいこととは、たとえば?」
ずるいことを、言ったかもしれない。少年の顔が一息に真っ赤になる。
「俺はいま、お前に口付けたくて仕方ない」
だからきっと、畳み掛けるならいまなのだ。
「なっ――!?」
「だめだろうか」
小首を傾げて、じっと瞳を覗き込んで、問う。
「許しがないなら、もちろ――」
「い、いいよ」
もはや耳から首筋まで真っ赤にしながら、涙でも浮かべていそうなほど瞳を潤ませて、少年は言い切った。それは間違いなく、ジークフリートが望む答えだった。
「ありがとう」
果たして、ここで礼を言うことが、正しいのかはわからない。わからないまま、ゆっくりと距離を詰め、それはそれは軽い口付けは、一秒にも満たない時間の中に置き去られた。
「……満足?」
どうしたものか。満足なはずもない。しかし彼の様子を見るに、これ以上を求めるのは酷である。頷いてやると、ほっとした様子の息が吐かれて、ああ間違っていなかったとこちらも安堵する。
ゆっくりでいい。焦る必要はない。そう悠長なことを言っていられない気もしたが、ひとまずはこれでよしとしよう。これからいくらでも、重ねていける。一つ一つ段階を踏んでいくことは、きっと焦って事を進めるよりずっと楽しい。
まずはそう、触れ合うことそのものに慣れてもらうのが肝要だろう。改めて抱きしめて、今度はやさしく腕の中に包めてしまう。やっぱり、あたたかい。太陽の匂いがして、それは何よりの幸福となった。
「僕いいって言ってない」
「悪いとも言われていないからな」
「へりくつ!」
「嫌なら突き飛ばせばいい。俺は抵抗しないぞ」
突き飛ばされないことは、なんとなく知っていた。かわりとばかりに背中に手が回される。
「今日は一緒に寝るか?」
「それはやだ」
冗談のつもりだったが、拒絶されると切なくなる。
「ではまたいつかにとっておこう」
そっとどちらからともなく離れていく。名残惜しさはあるものの、同じくらい満たされていて大変に気分がよかった。ふわふわとして夢見心地で、ぽかぽかと気分が高揚し、自然と口角が上がる。もしかすると、酩酊とはこういう感じなのかもしれない。だとすれば、皆が好んで酒を飲むのも頷けた。楽しいとも嬉しいとも異なっているのに、そのどちらも内包するようであまりにも浮かれてしまう。
「グラン」
改めて、呼んでみた。愛しい音だ。ずっとずっと、愛しいままの名前だ。
「好きだ」
何度言っても言い足りない。どれだけ重ねても伝わらない。言葉とは時に重いのに、今度ばかりはあまりにも軽かった。
「僕も好きだよ」
少年は、やわらかい笑みを頬のあたりにたたえながら繰り返した。
「ジークフリート、あなたが好き」
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