頭がぼうっとして視界がくらくらと揺らいでいる。足元が妙にふわふわとしていて歩きづらい。何も引っかかるものなどないのに、前につんのめりそうになって慌てて体制を整える。呼吸が荒く、少しの吐き気。
「大丈夫か?」
親友の声がする。ぼんやりと膜がかかったみたいに遠い。どうして? すぐ隣にいるのに、なんだってこんなに遠く遠く聞こえるのか。おかしい。何かがおかしい。
ぴたりと親友の手が額に触れた。ひんやりとして気持ちがいい。離れてしまうのが惜しくて、無意識に手が伸びる。
「おいおい熱があるじゃねえか。ほら、とりあえず部屋に戻るぞ」
「……でも今日の依頼が」
「そんなもんみんなに任せとけ! たまには信頼して任せるのも団長の役目だろ」
そうだろうか。それではいけない気がする。ああでも体調管理に失敗している時点で、何もかもいけないのだからいまさらだろうか。わからない、意識がはっきりしなくて、考えもうまくまとまらない。促されるまま部屋に戻り、誘われるままベッドに寝転ぶ。刹那、体がわずかに楽になる感覚があった。どうやら相当、熱が高いらしい。自覚がなかった。いや、自覚しないようにしていた。そうしないと、動けなくなってしまうから。その証拠に、自覚してしまったらもう体が泥のように重たい。
「みんなにはオイラから伝えておいてやるから、とりあえずいまは寝ておけよな」
「うん……ありがとう」
瞼が持ち上がらない。ビィが部屋を出ていくまでなんとか見送って、そのまま目を閉じた。カーテン閉めてもらえばよかった。瞼越しの光がやたらに鬱陶しい。頭から布団を被ると幾分かマシではあるが、今度は息が苦しくなった。うまくいかない。けれどもう、立ち上がる気力はない。熱いのに、やたらに寒くてぶるぶると体に震えが走った。
身を抱えるように丸まって布団をたぐり、ぎゅっと目を瞑る。眠りたいのに、うまく眠れない。頭痛がしてきた。じわじわと額に汗がにじむ。呼吸はできているはずなのに、やたらに息が苦しくて、唇から無意識のままに嗚咽がもれた。痛い、苦しい、あつい、寒い、全部がないまぜになって襲ってくる。シーツの上でもがいてみても、当然ながら逃げ場はない。
「大丈夫、なわけねえか。氷枕持ってきてやったぞ」
ビィの声がする。薄目を開けて軽く身を起こすと、大仰に心配された。ふらふらのまま、氷枕を受け取って再び横になる。ぼうっと熱の高い頭を、じんわりと冷やしてくれる温度が心地いい。けれど同時にやっぱり寒さが沁みた。
「カーテン閉めて」
「おう」
「あと毛布……」
「待ってろ。確かこの辺に――」
こういうの、久しぶりだな。昔から、熱が出ると甲斐甲斐しく世話を焼いてくれた。たぶん、親代わりみたいなものだ。小さい体では難しいこともあるだろうに、重たい毛布もこうして持ってきてくれて、きっと次は、
「なんか食べれそうか?」
こうやって、訊いてくれる。
「……いらない」
しかしあいにくと、食欲はなかった。部屋の明るさが解かれたことで、ようやく訪れた眠りの気配をこのまま迎え入れたかった。
「食えそうになったらすぐ言えよ。厨房のやつらにはもう頼んであるからな!」
察してくれたらしい親友は、それだけ言ってそっと枕元に腰掛けた。一緒に、いてくれるらしい。何かあればすぐに伝えられる距離に、ずっと安心できる気配があるだけで、何もかもが怖くなくなる。心強くて、ありがたくて、ちょっとだけ洟を啜った。
「おやすみ、ビィ……」
言葉が、返されたのかは確認しなかった。
今度は、素直に眠りがやってくる。落ちるように意識が遠のいていき、瞬く間に、闇。ぼんやりとして、ふわふわと覚束ない奇妙な感覚が、全身を取り巻いてほんのりと不愉快。熱のせいだろうか。これは、普通の眠りとはどうやら異なっている。
ああ、そうか、これ、夢を見ようとしているのか。不意の納得は、闇が薄くひらけたことで確信に変わる。確かこういうのを、明晰夢と呼ぶのだと、いつだったかカリオストロが言っていた。夢の中で、夢を自覚することで、なんでも思い通りになるという。本当だろうか。試してみたい。好奇心に任せて飛び込んでいき、後悔はまもなく。
恐ろしいものを、見たわけではない。おぞましいものを、見たわけでもない。そこにあったのは、ともすれば何でもないもので、けれどグランにとっては意味深いものだった。どうして、なぜこんなものが、こんな場所に出てくるというのか。考えたところで、わかるはずもない。一つ確かなことは、何も、思い通りにならないということだけだ。だって、消えてほしいのに、消えてくれない。
そこにあったのは、花だった。どれをとっても、見覚えがある。押し花にする前の、あの人から贈られたいくつかの花だ。どれも大切で、どれも気に入っていて、大事にしているものだから、すぐに、わかった。
顔に熱がのぼる。さっきまで乏しかった感覚が、一気に鮮明になるように、熱さがくっきりと浮かび上がる感覚に、めまいがした。現実でも熱を出しているというのに、まるで夢の中でも浮かされているようで不快がつのる。逃げ出したくなるのに、目を覚ますこともできないままに、仕方なく一歩踏み出してみる。
花は、綺麗に並んでいた。見覚えのある、本当は一つしかないはずの花瓶に、一輪ずつ丁寧に美しく活けられていた。もらってしばらくはそうやって愛でていたから再現しているのかもしれない。信じられない、やめてほしい。やめてくれない、自分の夢なのに。
手を伸ばしてみる。触れられた。花びらの柔らかい感触がやけに現実感を持って指先に伝わる。ひんやりとして心地いい。冷静になれ、落ち着けと、言われているような気がして頬がむずがゆい。
動揺はした。いまも恥ずかしくてしようがない。それでもわずかに、顔の熱が引いていく感覚があって深く息を吸い、吐く。しかしどうして、こんな夢を見ているのだろう。高熱のせいでどうにも人恋しくなってるせいだろうか。ビィはずっとそばにいてくれるのに、ずいぶんと贅沢なことである。でも贅沢でいいと、思わないわけじゃない。だって、好きなのだ。ずっとずっと、恋しいのだ。こういうときくらいそばにいてほしいと、願ったところでバチは当たらないだろう。
そうっと、花びらを撫でる。現実だったら、傷めてしまうのがおそろしくてできないことも、夢の中ならできてしまう。きっとそう、触れたいのだ。あの人にこうして、触れて、あわよくば触れ合って、そこにいるのだという実感が欲しくてたまらないのだ。
ああ、ああ、ほんとうに、馬鹿になる。恋する人間は馬鹿になるものなのだと、カリオストロも言っていたけれど、本当にその通りだなんて知りたくなかった。知れてよかった。
「――――」
会いたいと、吐いたつもりが音にならない。意味のない音を発してみても、やはり同じように空気だけが宙に溶ける。なぜだろう。この場所に、自分しかいないからだろうか。コミュニケーションを必要としないのであれば、言葉は、確かにいらないものだ。音、ないし聴覚という観点で言えば、できればあってほしいのだが。
地面を叩くように足を鳴らす。何も聞こえない。骨に響く感触はある。試しに、花を一輪取って、まずは香りを嗅いでみた。酸をはらんだ甘さが鼻を抜けたのを確認して、今度は、口に入れてみる。眉根が寄る。飲み込む気にはなれずに吐き出して、ごめんねと花に向けて謝る声はやはり聞こえない。
どうやらこの場所においては、聴覚だけが機能していないらしい。なぜ? 疑問は尽きず、答えを探りたくてあてもなく歩いてみた。歩いている、はずなのに、花が常にそばから離れない。歩けども歩けども、一定の距離をついてくる。おかしい。もしかすると、歩いているつもりで本当は歩けていないのではないか。足の裏の疲労感は偽物ではなさそうなのに。いや、そもそも夢の中にほんものなど、あるはずがないと気づくのが遅い。
しばらくして、答え探しは諦めて、もう一度花を見やる。一輪だめにしてしまったそれは、一番最初にあの人が持ってきてくれたものだった。とても驚いて、熱でもあるのかと、ずいぶん失礼な心配をしたことをいまでもよく覚えている。気まぐれだと、言っていたこともやはり記憶している。けれどあの人は、その気まぐれを幾度となく繰り返した。それこそ、習慣となってしまったと言って差し支えないほどに。考えてみれば、そもそもなぜ、花なのだろう。ふと目についたから? 手軽に手に入るから? しかし、けれど、だけど――。花を贈るという行為には、特別な意味があるのでは、ない、か。
首を振る。そんなはずがない。そんなこと、あっていいはずもない。はじめからこの恋は、成立しないことが前提なのだ。そしてそれを、グランはよく受け入れていた。あの人の心が欲しいなんてそんなこと、思うことすらおこがましいと、すべてを、諦めていた。
あの人の心は祖国のためにあるもので、自分のような子どものために用意されてはいないのだ。
自惚れてなどいられない。贈り物に、意味を見出す必要はない。これらの花は、ただ勝手に、自分が宝物にしているだけの、それだけのものだ。それ以上のものにしては、いけない。
座り込む。ぐるぐると肩を回し、うんと伸びて、何もない頭上を見上げてみる。どうしたら、この夢から目覚められるのか。いくら考えても、いくら祈っても、一向にそのきっかけを掴めないまま、時間ばかりが過ぎていく。感覚としては二十分。時計がないから、正確なところは何もわからない。
不意に、花瓶が一斉に音を立て始めた。先ほどまでなかったものが、突然与えられる困惑を踏み均すように立ち上がる。
揺れていた。花瓶が盛大な音を立てながらみんなして揺れていた。それは、怒っているように見えた。あるいは、悲しんでいるようにも思われた。わからない。どうしてそんなふうに感じるのか、わかりっこない。
「どうしよう」
このままでは全部落下して、全部割れてしまいそうな勢いだった。すでに一つだめにしておいて身勝手だけれど、これ以上、この花が傷つくのは見たくなかった。
「ねえ、ごめん、ごめんってば」
なぜか、謝罪の言葉が口をついていた。何に対してなのかもわからないのに、ひたすらに、謝らなければならないということだけ明白だった。しかし虚しく、花瓶は一つ落下した。
派手に割れ、飛び散り、花は傷つく。胸の辺りが重たくなった。
何が、いけないのだろう。自分は何を、謝らないといけないのだろう。考える。考える。これでもかと、考えてみる。答えは、自分の内側にしかないことは、明らかだった。だってここは、自分の夢だ。夢は、自分が作り出すものだ。ならば、すべては自分の中から生じているのである。
「あ……」
不意に、すとんと、胸にはまるものがあった。
「僕、諦めたくないんだ」
同時に、ぴたりと、揺れがおさまった。
それが、すべてだった。それが、真実だった。それはグランにとって、あまりにも残酷な、ほんとうだった。
「諦めないって、難しいんだけどな……」
呟くと同時、夢の中の意識が途切れた。途切れて全部忘れられた。
「おっ。起きたな、相棒」
目を開けると夜が来ていた。ずっとそばにいてくれたらしいビィは、ルリアが差し入れで持ってきてくれたという林檎を齧っていた。食べるか? 訊ねられて素直に頷く。ちょうど喉が渇いていたし、嬉しい提案だった。
甘いより、酸っぱい。小さめのサイズ感を見るに、製菓用に買ってあった林檎のようである。砂糖と煮詰めるから酸味の強い品種のほうが向くのだと、言っていたのは誰だっただろう。思い出せないまま、皿が空になる。
「もっと食べられそうか?」
無言で頷くと、ビィは少し待ってろと告げて部屋を後にした。途端、がらんとした空気に押し潰されそうになる。ただ、食事を取りにいっただけだ、心配しなくともすぐに戻ってきてくれる。
ああ、しかし、なんとも。こうしているだけで、ずいぶんと幼い気持ちになる。でもビィの前だから、一向に構わない。他の誰かの前だったら、絶対に許せるはずもないけれど、大事な親友の前でなら、いくらだって幼くなれる。第一今日は、具合が悪いのだ、し。甘えるくらい、いい、はずだ。
こんな言い訳をしないといけない自分が、何だか情けなくて、恥ずかしくて、ばたりと再び横になる。汗をかいた服の感触が気持ち悪くて、すぐに起き上がった。このままでは、また体温を奪われてよくない。慎重に立ち上がり、手早く着替えを済ませると、体がずいぶんと軽いことに安堵した。これならば、明日は問題なく動けるはずだ。
明日の依頼は、なんだっただろう。立ち上がったついでに机についたところで、大きな声がした。
「こぉら! いま作業しようとしてただろ!」
ちょうど、食事を持ってきたビィが扉を開けたところだったらしい。やってしまった。もう少し時間がかかると思ったから、油断していた。叱られるまま、されるがまま、素直に従ってベッドに戻る。机で食べたほうが食べやすい、なんて意見は当然のごとく却下された。
「ったくよぉ、目を離すとすぐこれだ。今日は一日何もすんじゃねえぞ」
ベッド脇のチェストに膳を置きながら、ビィはびしりと念を押した。これはもう、逆らうことはできない。
「おかゆ?」
「消化にいいものを頼んできたからな! 熱いから気をつけて食べるんだぞ」
スプーンを握り、先に水を飲む。湯気の立つ器は一面の白で埋め尽くされていて、味の想像がつきづらい。おかゆはいいけれど、白がゆは嫌だな、言わなかった。たぶん、気づかれた。ビィの呆れたようなため息が、その証拠だった。でも、だって、味気ないものは食べた気がしないのだ。そのほうが体にやさしいとはわかっていても、そんなことより食べた実感のほうが欲しい。いくら体調を崩していても、食を楽しむ自由くらい残しておいてくれていいはずだ。
「ちゃんと味つけてもらってるぞ」
言われて、顔が綻んだ。一口すくって、何度か息を吹きかける。ぱくり、と、口に入れた瞬間鼻を抜けたのは出汁の香りだった。なんというか、やわらかい味だ。塩気は少なく、けれどしっかりと食べ応えがある。よく見ると、トレイには味を変えるための塩昆布も添えられていた。なるほど気が利いている。しばらくこのままの味を楽しんだら、入れてみて変化を楽しもう。
「おいひい」
呟きながら、もう一口、さらに続けてスプーンを動かす。半分くらいになったところで、予定通り塩昆布を加える。塩気が増して、けれど最後に甘みが残るところがとても小気味よかった。完食はまもなく。薬は飲むかと訊ねられて首を振った。気分的にはもうすっかり完治している。ああでも、一度薬の在庫は確認しておいてもいいかもしれない。医療に強い団員たちが、しっかりと管理はしておいてくれているだろうけれど、自分の目で見ておくのはやはり重要だ。
「また仕事のこと考えてるだろ」
怪訝そうな目つきで、ビィが指摘する。笑ってごまかして一息。今日は我慢だ。明日、明日なら、きっと何をしても許される。
「氷枕はもういらないか?」
「うん、大丈夫そう」
すっかり中の氷も溶けてしまって、ぬるまったそれをビィに預ける。早く横になれと言われて、渋々枕に頭を預ける。確かにまだ少しだるかった。とはいえ眠れそうにはなかった。まったく、全然、これっぽっちも眠たくない。困った。何もできることがないのに、これほど睡魔が遠いとは、やっていられない。
どうしたものだろう。ビィはきっと、膳を戻して、氷枕も返してきたらまた見張りにくるだろうし、そうなると目を盗んで作業というわけにもいかない。ごろごろと寝返りを繰り返し、ため息を一つ。そこでビィが戻ってきた。呆れたような様子で灯りを消してくれる。それから、よく眠れると、いつかもらったアロマキャンドルをつけてくれた。いい香りが部屋に満ちる。すっきりとしているのにどこか甘くて、確かに眠りを誘ってくれそうな感じはあった。けれど、現状においてはそもそも体が眠りを必要としていない感じがあって、やっぱりうまく眠れなかった。
キャンドルの下で、ビィは何かをめくっている。なんだろう、めずらしいな。見つめていたら、このあいだ遊んだゲームのルールブックだと教えてくれた。そんなものまで作ってあるのか。何が書いてあるのだろう。読み込んでおいたら、今度は自分も混ざれるだろうか。貸してほしい。いまは却下される願いは、口には出さない。
ぼうっと天井を見上げる。隅っこのほうに蜘蛛の巣が張っていた。掃除をしているつもりでも、天井まで意識が回っていなかった。綺麗にしたいな、気になるな、思うばかりで動きはしない。精々、次の掃除のときに忘れていなければいいなと願うだけだ。
とりあえず目は閉じようか。瞼を落としてみる。こうしていればいつの間にか、眠れているかもしれない。期待して、また寝返り。体を小さく丸め込んで、毛布をたぐる。もう寒くないけれど、この重さは安心できた。瞼越しにキャンドルの火が揺れ、ページをめくる音が静かに広がる。風の音はしない。ほっとした。
「ねえ、ビィ」
「んー?」
呼びかけに対する、やわらかい返事。
「なんでもない」
そこにいてくれて、いつでも応えてくれる安心感を確かめたかっただけだ。
「なんかあったらすぐ言えよな」
「うん」
眠ろう。なんとかして、今度こそ夢も見ないくらい深く深く――そういえば、さっきは何の夢を見たのだったか。夢を見たという感触だけが鮮明で、他の何もかもが透明だった。思い出そうとして、やっぱりやめる。忘れてしまった夢は、忘れたままにしておいて問題ないはずだ。なんとなく、そんな気がした。
鼻歌が聞こえる。ビィの子守唄を聴くのはいつ以来だろう。やさしくて、気持ちが穏やかになってくる。なるほど少し、興奮していたらしい。落ち着いてきたら不思議なほどに、眠たくなった。嘘みたいな魔法。あくびが一つ漏れて、そのまますとんと意識が落ちる。
「眠ったか?」
確認するようなビィの声も、当然に聞こえなかった。
がたん、と大きな音がして目を開けたときにはちょうど夜明けが訪れていた。艇が港に着いたらしい。予定通りの航路だった。自分が熱を出したこと以外、何もかもが順調である。ああそうか、この艇も、否、この騎空団も、自分が少し崩れた程度では揺らがなくなったのだなと、思うと少し寂しいような、感慨深いような、不思議な心地がした。
静かに身を起こし、ビィに毛布を掛け直してやる。当然にキャンドルは消されていて、かすかな残り香だけが部屋に漂っていた。快い目覚めだ。体はすっきりとしていて軽く、倦怠感は少しも残らない。夢も見なかったおかげだろう。もう十分本調子と言って差し支えないことに気分がよくなる。
机に向かい、今日の予定を確認する。まずはこの島で依頼をこなす必要があった。それから昼に出発して、夕方には次の島に到着する。うん、何の懸念もない。大丈夫だと確信すると、今度はシャワーを浴びたくなった。
支度をして、移動する折にすれ違った団員はおそらく今日の朝食当番。大丈夫かと訊ねられ、満面の笑みで返す。心配いらない。むしろ昨日一日動かなかったおかげで体力が有り余って仕方がない。ああ、こういうときこそ張り切りすぎないように気をつけなければ。変に空回りして妙な失敗をしかねない。
風呂場は少々肌寒かったが、頭を冴えさせるにはちょうどよかった。熱めのシャワーを頭から浴びて汗を流してしまう。一日ぶりの熱い湯は、ベタついた体に心地いい。野宿で何日も入れないことだってないわけではないから、別段慣れていないわけではないけれど、そういう事情でもない限り毎日入りたいと思うのは、たぶん健康な証拠だった。
すっかり体を洗ってしまって、空っぽの湯船を一瞥する。どうせならと思ったけれど、一人のために沸かすのはもったいないので却下する。水は大切に。旅の鉄則である。
食堂のほうからは朝食のいい匂いがし始めていた。今日はなんだろう。できればパンがいいな、などと考えながら部屋へと戻る。甲板に寄りたい気もしたが、湯冷めしそうなので諦めた。ビィはまだ眠っていて、机の上には昨夜読んでいたルールブックが放り出されていた。ぺらぺらとめくって、目を見張る。てっきり簡易的なものだと思っていたら、丁寧に作り込まれていた。挿絵や解説が丁寧に挟まれ、読み物として面白い。夢中になって読み進め、ついでにゲームを理解する。なるほど、面白そうだった。やっぱり絶対、今度は一緒に、参加させてもらおう。
ある程度読んだところでビィが起きてきた。もう大丈夫そうだな、顔色を見てにかっと笑みを作られると、つられるようにグランも笑っていた。明るい朝だ。一緒に朝食に向かい、今日のメニューがロールパンなことに喜んで、二人並んでいただきます。コーンスープはもったりとしたクリームの感じられる濃厚な味わいで、心の底からほっとした。サラダのドレッシングにはバルサミコ酢の気配がする。以前味見させてもらったから間違いない。ベーコンはカリカリに。目玉焼きは半熟でお願いした。何をかけるか、悩ましいけれど、今日はソースの気分である。かけておいて、一旦スープを挟み、一口。とろっと溢れる黄身がソースの酸味と混ざり合って大変に気分がいい。
上機嫌で食べ進め、あっという間に空になる。ビィより先にごちそうさま。デザートにといちごを一粒分けてもらう。酸っぱくって、甘い。
依頼には、ビィとルリア、それからカタリナにイオを伴って少人数であたった。内容自体はそんなに難しくはなく、何事もなければ安全に終えられるものだった。実際すぐに終わった。謝礼を受け取り、艇へと戻る。出発にはまだ少々時間があった。
散策してみる? ルリアに提案すると、ふるふると首を横に振られてしまって、思わず固まった。断られるとは想定していなかった。ルリアは言う、病み上がりなんだからおとなしくしていろと。本当なら、今日の依頼も誰かに任せてほしかったと。純粋な心配は、どこかくすぐったくていけない。
「わかった、わかったから!」
ぐいぐいと押されて部屋に戻る。安静にしててくださいね! 言い含められてしまえば従うしかなかった。こういうときのルリアには、誰も敵わない。ビィだって今日はもう出歩いていいと判断していたのに、扉が閉まる直前に見たその姿は首を振るばかりだった。
仕方なく、本を手に取る。コルワがすすめてくれた恋愛小説だ。彼女の好みらしくハッピーエンドなのだろうそれは、普段あまり読まないジャンルなこともあってなかなか手をつけられずにいたものだった。
もしかしたら永遠に読むことなどなかったかもしれない、それ。あえて今日手に取ったのは、きっと偶然ではなかった。ペラペラとめくっては読まずに閉じ、まためくり、やはり読まずを繰り返しながら、数分。
「恋って何なんだろうね……」
真っ直ぐな疑問に、応えてくれる誰かはいない。
ルリアを好ましく思う気持ちと、あの人を想う気持ちが違うことは、わかる。あの人に抱くような、切ないほどの恋しさを、ルリアに対して抱いたことはない。格好つけたくは、なるけれど、それは別に格好つかなかったからと言ってどうということもない。笑って誤魔化せるし、ルリアもきっと笑うだけだ。けれど、あの人の前で格好つかないのは、逃げ出したくなるほど恥ずかしくてたまらない。嫌だ、嫌なのだ。できるだけ格好つけたいし、格好いいと思ってほしいし、あわよくば、いや、これはいい。
「好き、なだけじゃないんだよなあ」
たとえば会いたいだとか、たとえばそばにいたいだとか、たとえば触れ合いたいだとか。そういうものが混ざり合って、好きを形作っている。それはずんぐりと重たくて、かと思えばふわっと軽く、湿っぽくて、乾いていて、熱くて、冷えている。矛盾に矛盾を重ねて、矛盾で包んだみたいな、そんな心地だ。これが恋ならずいぶんと、想像していたものからはかけ離れている。そんなに具体的に想像ができていたわけでもないけれど。そもそも恋愛というものに、興味もなければ縁もないと思っていた節すらあるくらいだ。遅いのかもしれない初恋の到来に、ただ動揺しているだけと言えばそうだろう。それも相手が、あまりにも釣り合いの取れない相手なのだから、むしろこれで、落ち着き払っているほうがいっそ恐ろしい。
しかしながら、好きになってしまったものは仕方がなかった。こういうのが、自分でコントロールできるようなものでないことは、グランも理解していた。
「どうしたらいいのかなあ」
伝えたいわけ、ではない。想いを遂げたいとも、当然考えていない。けれど身のうちに確かにある欲のようなものを、どうしても持て余す。これの吐き出し方を、考えなければならない。まさかまさか、当人にぶつけるわけにはいかないから、うまく、慎重に、爆発してしまわないように、これは、制御してしかるべきだ。
いまはまだ、大きく膨れていないからきっとなんとかできるはずだった。けれどこれが、もしも成長して、膨れ上がって、肥大化して、抑えが効かなくなったとしたら? 恐ろしくて震えが走る。思わず我が身を抱きしめて、肺にたっぷり酸素を取り込もうと口を開く。深呼吸に失敗してむせて咳き込み、目尻に涙。
「大丈夫、大丈夫……」
うわ言のように呟く。自分を落ち着かせるために、何度も何度も繰り返す。しばらくすると、呼吸がしっかり深くなった。
「あの人に、迷惑をかけるのは嫌だ……」
重荷になりたくなかった。嫌悪されるは何より避けたかった。できる限り、いまのまま、穏やかな関係を続けていたかった。
そのためにはあまりにも、この感情は邪魔だった。だのに、蓋をするのは難しかった。
「なんでだろうね……」
これまで、いろんな感情に蓋をして、やり過ごしてきたはずなのに。簡単なことなのだ。見なかったふりをして、何もなかったと諦める。難しいことなど、一つもない。そのはずだ。そのはず、なのだ。
初恋は、特別だ。誰のでもない声が聞こえる。そんな馬鹿なと笑ってみる。けれどどうして、笑っていられない。目頭が急に熱を持って、慌てて突っ伏した。
洟を啜る。大丈夫。泣いてなどいない。少し、少しだけ、視界が揺らいでいるだけだ。
「好きって難しいや」
本当は、難しくなどない。ひどく単純で、ひどく滑稽で、ひどく、うつくしいだけだ。
抽斗を開けた。たっぷりと収められた花々を取り出して、机に広げてみる。なんとなく、既視感。気のせいだと誤魔化して、手に取ったのは最初の花。茜色の、五枚の花びらを、ラミネートの上からなぞってみる。奇数枚だから、花占いなら勝利は約束されている。すき、きらい、すき、きらい、すき――子どもたちが以前、原っぱに出て楽しそうに占っていたのを、グランはよく、見ていた。
「本当にそうならいいのに」
そんなこと、あるはずないのに。願わずにはいられない自分自身に気づいて、また鼻の奥がツンとする。どうしたらいいのだろう。どうすることもできないのか。ああ、ああ、逃げ出したい。逃げ場がない。いっそ走り出したくなって、ルリアに怒られてしまうと立ち上がれないまま、本に手を伸ばす。
読めそうには、やっぱりなかった。だってこれ、幸せな結末が約束されているのだし。自分とは大違いで、読む前から胸が痛い。
いっそ眠ってしまおうか。ベッドを振り返って悩んでから、ひとまず押し花をしまった。
足音が聞こえてきたのは、ちょうどそのときだった。
「グラン、お土産買ってきましたよ!」
明るいルリアの声とともに、部屋の扉が開かれる。その手には、小さな包みが握られていた。
「クッキーです。あとでお茶にしましょうね」
頷くと、少女は満足そうに去っていった。あとに残されたのは、開け放たれたままの扉と親友だった。
「おかえり、ビィ」
「おう、ただいま」
立ち上がり、時計を見やる。昼時だった。気づいてしまうと腹が鳴った。
「お昼なんだった?」
「ハンバーグ」
「本当? やった」
ビィと一緒に、食堂へ向かう。朝と同様、一緒に食べる。自然と顔が綻んで、胸のあたりが緩んだ。とりあえずいまだけは、何もかも忘れてしまって、食事に集中しようと決めると、よく箸は進み、やっぱりビィより早く終わる。
同時に、艇が港を離れた。予定通りの出発である。このまま順調に航路を進めば、夕方には次の島。明日はその島での依頼がある。何度か訪れたことのある島で、勝手もわかっているし、おいしい店も知っているから、可能なら夜は出かけたいものだ。果たして、心配性のお嬢さんのお許しは出るだろうか。何としても掴み取りたい気持ちで、気づくと足は甲板に向いていた。
風が冷たい。けれど不快に体温を奪うことはなく、余分な熱だけをさらっていってくれるのは心地いい。上空を見回すと、並走している天司がいた。目が合う。手を振ると、控えめに振り返されて、それがなんだかおかしかった。
「サンダルフォン、前方に魔物とかいないー?」
声を張って、訊いてみる。いないことは、わかっていた。ただ、コミュニケーションを取りたいだけだ。だのに彼から返されたのは、首を振る仕草だけだった。残念である。しようがない。諦めて船内に戻って、自室に直行、せずに厨房に寄る。紅茶を四杯分とカップを三つ用意して、向かう先はルリアの部屋。
おやつには少々早すぎる気もしたが、お土産を早く開けたいのだろう彼女の気持ちは、先ほどの勢いから察せられた。コンコンコン、とノック三回。すぐさま出てくれた彼女の顔は、とても明るい。
「いらっしゃい、グラン」
「うん。ビィもいる?」
「はい! さっそくお茶にしましょう」
招かれるまま部屋に入り、小さなテーブルを囲む。紅茶を注ぎ、クッキーは包みのまま、華やかではないがそれもいい。三人で手始めにクッキーに手を伸ばし、同時に一口。あ、失敗した。二人の顔が綻ぶ傍らで、グランは刹那にそう思った。
このクッキー甘くない。どちらかといえば塩気が強くて、なんならチーズの香りがした。てっきり甘いものだと思い込んでいたから、持ってきた紅茶は当然に、甘いお菓子に合わせたそれであった。先に味を聞いておけばよかった。後悔してももちろん遅すぎる。淹れ直しに行くにしたって、このたっぷりの四杯分がもったいない。
「めずらしいと思ってしょっぱいクッキーを買ってみたんです。もしかして、口に合わなかったですか?」
神妙な顔をしていたせいだろうか、心配そうに覗き込まれて首を振る。確かに少し、思わぬ出会いではあったけれど、口に合わないなんてことはない。ただどうしても、考えてしまうのだ。この味だったら、あのお茶のほうがよかった、と。
「先に聞いておいたら、もっと違うお茶持ってきたのになって思って」
「でもこのお茶もおいしいですよ。いつもグランが淹れてくれるお茶は絶品です!」
ルリアが、そう言ってくれるのなら、この話はここでやめにしよう。実際相性が悪いわけではないのだ。これ以上のマッチングがあるだけの話で、何も問題はないのである。だのにぐじぐじと引きずるほうが、よろしくないことは明白だった。
「もう体調はいいんですか?」
「うん、すっかり。疲れが出ちゃっただけみたい」
「だめですよ、日頃からちゃんと休んでおかないと。大事なときに倒れでもしたら大変です」
「大事なときって、たとえば?」
思わず、訊き返していた。ルリアはきょとんと目を丸くして考え込んでみせた。しばしの沈黙の中で、ビィが二枚目のクッキーに手を伸ばしていた。つられてグランもクッキーを掴む。やっぱり、しょっぱい。
「たとえば、たとえばそう、どうしても欲しいものが手に入るのは今しかない! みたいなときとか」
「なるほど確かにそれは、休んでる場合じゃないね」
「でしょう! ビィさんは何かありますか?」
「そうだなー、特別とびきりうまいりんごが食えるってなったら寝てる場合じゃねえかもな!」
それはもしかしたらビィだけかもしれないけれど、二人とも言いたいことは同じだった。要は、大事なチャンスを逃すなということだ。
紅茶を含む。鼻に抜ける香りは爽やかなオレンジをまとって口の中をさっぱりさせる。そういえばこれは、あの人に贈ったのだったか。贈っていないはずだった。避けたわけではなくて、単純にいろいろなフレーバーがありすぎて、順番がまだ回ってきていないのだ。次は、これを贈ってみてもいいかもしれない。甘ったるいのより割合に爽やかなものを好んでいるようだから、ちょうどいいはずだった。
「グラン、最近よくその顔してますね」
不意に、そんなことを言われてクッキーに伸ばしかけていた手が止まる。そのまま引っ込めて居住いを正してから、グランは口を開いた。
「その顔って、どんな顔?」
十中八九それは、あの人のことを考えているときの顔だった。しかしそんなに、わかりやすく表情に出しているつもりはなかった。だから、一体どんな顔なのか、聞いておかなければいけなかった。聞いておけば、対策が取れるはずだから。
「んー、そうですね。なんていうか、ほわっとして、ほんのりあたたかくて、やわらかい顔です」
対策が、取れる、はず、も、なかった。あまりにも抽象的な返答に笑うことしかできやしない。
「つまりその、そう、幸せだなって顔です!」
「幸せ……」
幸せ、しあわせか。そう言われると、首の辺りが熱くなる。実際否定はできやしない。あの人のことを想うとき、いつだって必ず、どこかに幸せがある。それは、まごうことなき事実で、グランも確かに自覚するところであった。
「私はグランのその顔、好きですよ」
ルリアが、クッキーを差し出してきた。口を開けると放り込まれる。しょっぱい。これは、涙の味かもしれない。そんな冗談めいたことを、つい、考える。
「グランが幸せだなあって思えていると、私も幸せだなあと思えるんです」
なんてことを言うんだろう。けれどそれは、確かにグランも持っている思いだった。ルリアが、ビィが、団のみんなが、少しでも幸せであってくれたら、何よりも嬉しい。その中には当然あの人も入っていた。少しだけ違うところがあるとすれば、あの人のことだけは、ふとしたときにもつい、気にしていることくらいだろうか。
たとえば朝靄の向こうに陽光を感じたときだとか、たとえば夜の端っこにいつの間にか積もった埃を見つけたときだとか。そういう、なんでもない瞬きの隙間に、あの人を想っている。いま、彼は、何を想って過ごしているだろうか、と。
「ねえ、グラン。グランには、大切にしたいものがあるんですね」
「ルリアのこと?」
彼女の言いたいこととは、明らかに異なっていることはわかっていた。わかっていたから、あえて言った。
ほら、笑みをこぼしてくれている。
「ふふ、嬉しいです。でもそうじゃなくて――」
ルリアはゆっくりと紅茶を飲んでから、クッキーを口に入れてやっぱりゆっくりと咀嚼する。長い時間をかけてしっかりと味わうように、彼女がそれを飲み込むまでじりじりと待たされる感覚は、割合に嫌いじゃない。
「そうじゃなくてもっと別の、そうですね、それは人ですか? 物ですか?」
問われて、心臓が跳ねた。
「答えなきゃだめ?」
「だめじゃないです。グランの中で、大切にしたいそれをちゃんと大事にできていれば、それで十分です」
「やさしいね、ルリアは」
「そうですか? きっとグランだって同じように言ったでしょう?」
そうかも、しれない。そう、だろうか。これはどうにも、頷けなかった。ルリアは笑う。ずっとずっと、このお茶会が始まったときから、彼女の表情は明るくて、まるで太陽みたいだった。
「大事にしてくださいね」
「……、――うん、頑張るよ」
気づくとビィは寝息を立てていた。ああ、もしかしたら無理をさせてしまっていたのかもしれない。一晩看病してくれた親友への気遣いを、忘れたつもりはなかったが、ちょっとだけ反省。
そのまま寝かせておきたくて、ルリアに任せて部屋を出る。厨房で洗い物を済ませてから部屋に戻ると、なんと鳩が待っていた。どこから? 誰に? 疑問はあれどとりあえず銀の粒を渡す。
「どうやって入ったの」
鳩は答えない。かわりにいつも通りポーチを指す。はいはいとポーチを開けると、手紙と、また、押し花。取り出して、机に並べる。
今日の花も、綺麗だった。黄色い花だ。確か以前にも似たような黄色をもらった覚えがある。抽斗を開け、目当てのそれはすぐに見つかった。確かこの花は傷薬に使えるとか、なんとか、そんなことを言っていたように記憶している。さて今回の黄色い花は、そんなことはあるのだろうか、ないのだろうか。花の種類は、やっぱりまだ、知らなくていい。
手紙を開く前に、返信用の便箋の枚数を確認する。ずいぶんと減っていた。そろそろ、買い足さなければならない。せっかくあの人と一緒に買ったのだから、どうせならまた、一緒に買いに行きたかったけれど、それは叶わぬ願いだろう。次はどんな柄のものがいいか、いっそ花柄にしてみようか、考えながら封を切る。
「あ……」
思わず、声が出ていた。いつもより、枚数が多い。自分が調子に乗ってたくさん書いたから、きっと合わせてくれたのだろう。嬉しいような、恥ずかしいような、変な気分で頬を掻く。なんにせよ、あの人からの言葉をたくさん受け取ることができるのは、幸せだった。
読み進める。ゆっくり一文字一文字を噛み締めるみたいに。時計の音がしていた。風の音はそんなに響かずに航路は穏やかだった。変な魔物、自分も会ってみたいなんて、どんなものかと想像していたら、次の、瞬間。
「え?」
椅子をひっくり返して立ち上がる。そのまま艇内を駆け抜けて、目的の部屋をノックもせずにノブを回す。あたりまえに鍵がかかっていて、がちゃがちゃとむなしさだけが廊下に響いた。数秒して、鍵が回る。勢いつけて開け放って、叫ぶ。
「どうしよう!」
うるさい。部屋主は声には出さなかったが、はっきりと顔に出していた。美少女が台無し、なんてことはもちろんないけれど、その柳眉にしわはあまり刻まれてほしくないものである。
「どうしようカリオストロ、どうしよう」
「落ち着け。まずドアを閉めろ。それから深呼吸。そうしたら座れ」
命じられるまま、まずドアを閉める。深く息を吸って吐いてを三度繰り返し、心拍を落ち着ける。それから静かに椅子をひいた。座る。もう一度深呼吸しておいて損はなさそうだったので、ついでの一回を重ねておく。向き合ったその人は、手元の書籍にそっと栞を挟めてからどっかりと頬杖をついた。
「で? 何がどうしようなんだ」
頭が冷えてくると、なんて行動をしてしまったのかと反省が押し寄せる。とはいえ、ここまできて反省して終わりとはいかず、そのまま口を開いた。
「戻ってくるんだって」
何が? 否、この場合、誰が? 当然、右手に握り締めた手紙の主である。ああ、また手紙をくしゃくしゃにしてしまった。いや、そんなことはどうでもいい。
眼前の人は、グランの右手を一瞥し、大あくびを一つこぼしてみせた。なんだ、つまらない。まだ何も言われていないのに、なんとなく、そう言われていた。
「よかったじゃねえか」
それから吐かれた言葉は、ひどく、やさしい響きで聞かれた。何も、何もいいわけがないのに、彼にそう言われてしまうと、何やら反論の余地が奪われる。
「いいんだよ、どんな顔してとか、そういうことは考えねえで。そのまま、ありのままで出迎えてやりゃいい」
「そういうわけには、いかないでしょ」
「いくんだよ。いいか、何を信じられなくても、俺様の言うことは信じてみろ。そうすりゃ全部うまくいく」
「何それ。なんでそんなに自信満々なの」
カリオストロは、一度目を伏せた。長い睫毛が、やわらかく頬に影を落とす。数秒の沈黙。ふたたび開かれた瞳がまっすぐにこちらを射抜いてきて、まるで目が逸らせない。囚われる感覚は不思議と不快ではなく、わずかな緊張の元に待つことを選ばせた。
「俺様は、お前が知らないことを知ってるってだけさ」
では、何を、知っているというか。訊きたかった。問い質したかった。できっこなかった。だって眼前の開祖は、それを許してなどいなかった。彼は時折、そういう仕草をする。人生二千年分の重積のなせる技なのか、元来そういう性質なのか、そんなことはわからない。ただ彼が許さないのであれば、誰も踏み込めないことだけは明確で、それに、抗う術をたかだか十五年ばかりを生きただけの〝こども〟が持つわけもなかった。
「たまには〝らしく〟素直になってみろ」
「らしくって何さ」
食い気味に問い返すと、カリオストロは口元に手を添えてあからさまな作り笑顔を見せた。
「そうやってツンケンしてると、可愛くないぞっ」
そして、わかりやすい可愛らしさで、それまでの緊張が精算される。どうにも全部、はぐらかされている。けれど、敵わないのでどうすることもできない。ぶらぶらと足をばたつかせると、やめるように咎められた。確かにこの部屋は、蹴飛ばしたら何が起こるかわからないものが、そこかしこに散らかりすぎていた。
仕方なしぐずぐずとテーブルに突っ伏すと、先ほどまで彼が手にしていた本のタイトルと目が合う。何やら小難しそうなこと以外、何もわからないタイトルだった。
「そのままでいいんだよ」
つむじを無遠慮に押し込まれながら、重ねられる。そのまま、そのままとは、つまりどういうことだ。理解していた。だからこそ、納得を拒んでいた。
格好つけたいのだ。よく、見られたいのだ。埋められないものがあるかわりに少しでも、あの人の心に引っかかる自分を演出してみたいのだ。けれど〝そのまま〟となればそうもいかない。それこそいまの自分はあまりにも滑稽で、愚かで、――幼い。これでは、もともと背伸びしたって届かないのに、より遠くなってしまう。そんなのは、嫌なのだ。
ぐりぐりぐり。つむじがへこんでしまう勢いでさらに押し込まれる。ちょっとだけ痛い。言わない。好きにしてもらって構わないから、もっと違う言葉をかけてほしい。そんなこと、いくら願っても叶わないことは知っていた。
「俺様が信じられねえか?」
「誰もそんなこと言ってない」
「じゃあいいじゃねえか。何を憂う必要もない」
「憂いてないよ。わかってるでしょ」
今度は、あやすように撫でられた。髪を梳かす手つきのやさしさがあんまりなほど沁みてきて、思わずもれたのは唸り声。
「まあ俺様としちゃ」
ふつり、と。言葉が切られ、顔を上げる。美少女は美少女然として完璧な笑みを浮かべていた。ルリアに向ける可愛いとはまったく別種の可愛いが脳裏に浮かぶ。そういうものだ。そのように作られているのだ。
「うまくいかなくて大いに結構だが?」
眉が寄った。なんとなく、意味を掴みそこねた感覚があった。けれど、それを訊ねることはやはり許されていなかった。自分で考えろ、そう言われている。
そのまま、読書の邪魔だと追い出された。とぼとぼと部屋に戻る足取りは重たい。すれ違う何名かにまだ具合が悪いのかと心配されて、慌てて表情を取り繕おうとしたものの、どうにも、うまくいかない。
机の上に手紙を置いて、伸ばせる範囲しわを伸ばしてから、もう一度、読み返してみる。何度確認しても、次の島、いま向かっている島で合流すると書いてある。
つまり夕方には、彼と、会える。
「そりゃ会いたかったけど、さあ……」
物事には、心の準備というやつが必要なのだ。いくらなんでも、手紙が届いて、はいこのあとすぐです、は急展開もいいところでついていけない。と、いうより何より、そもそもこんなにぎりぎりに手紙が届いたということは、もしかしたら何の予告もなしの再会になっていたかもしれなかったのではないか。いやはや、とんでもないことこの上ない。けれど、現状を思えばいっそそのほうがよかったかもしれないなどと、思ってしまう自分もいた。
「でもそっか、会えるんだ」
会える。ずっと恋しがっていた相手に、ようやく、会える。それは、宝物のような願いが叶う瞬間だった。どうしようもなく幸福な瞬間であろうことは、理解も納得も飛び越えて実感していた。想像するだけで、胸のあたりに熱がこもる。会って、話して、食卓を囲んで、できれば、眠る前の挨拶をしたい。それ以上は、望まないから、せめて、それくらいは許されたい。
本当は、触れて、みたい。触れ合って、みたい。そんな願いを、どうにかこうにか押し込める。過ぎた望みはいけない。身の程は、ちゃんとわかっている。そもそも一方的な欲の押し付けは、迷惑なだけだ。
ちゃんと気持ちを、伝える気もないのだから。
「気持ち、か……」
いっそ、当たって砕けてみたほうが、楽になれるのだろうか。しかし自分が楽になるために想いを伝えるというのはそれこそ押し付けである。それは、あまり、望ましくなかった。ならばやはり、伝えないでおいたほうがきっといい。
捨てたくはないから、抱えておこう。苦しいかもしれないけれど、耐えがたいかもしれないけれど、この気持ちは自分もので、自分だけのものなのだ。大切に、大切に抱え込んで、そうしていたらきっといつか、思い出にできるはずだ。そうなるまでには、きっと苦しさにも慣れている。そう、そのはずだ。
「大丈夫、大丈夫」
自分を安心させるため、空っぽの音を吐く。言葉の形は成していても、それはあまりに空虚で冷たく響いてみせた。
それからしばらく、艇は相変わらず順調に航路をなぞり、やがて赤々とした夕暮れに港に寄せた。
艇を降りる。行き交う人は決して少なくないはずなのに、その姿は一際目立っていて、目を引いて、目が離せなくて、泣きそうになった。もちろん、涙が溢れることなどない。ただ少しばかり、胸が痛くて、軋んで、息が詰まる感触があっただけだ。
まっすぐに、迷いなく、彼はこちらへ歩いてくる。その姿は、最後に別れたときの続きのように変わっていない。変わったのは、自分の中の感情だけ。名前がついて膨らんで、幅をとって、まったく困る。
大丈夫、大丈夫。こっそりと、深呼吸。一度足元に視線をやって、顔を上げると眼前にその人。思ったより近くにいて、びっくりして後ずさる。けれど距離は変わらなかった。どうして? まあ、そんなことは、きっとどうでもいい。
はく、口を開いた最初、うまく音が出なかった。一度唇を閉じ、唾を飲む。すっかり、乾いてしまっていたらしい。今度こそ、本当に、大丈夫。
「おかえりなさい、ジークフリート」
「ただいま、グラン」
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