星を見ていた。キラキラと音が聞こえてきそうなほどの満天の星空を、ずっとずっと眺めていた。呼吸が止まりそうになる。いま、どうして自分は、この場に一人なのだろうか。そんなこと、考えるだけ無駄だ。
風が澄んでいる。今日は野宿だった。この辺りは獣も魔物も多いから、火を絶やさぬように注意を払う。眠れそうにはない。体は疲労を感じていなかったから、特に問題もないだろう。徹夜には慣れているし、この程度のことで支障をきたすこともない。元来の性質か、あるいは竜の血の恩恵か。どちらにせよ、こういう状況においては助かることこの上なかった。
あの子は、きちんと休めているだろうか。育ち盛りの少年が、寝不足ではいけない。余計な心配だとは理解しつつも、つい気にしてしまうのは、あの子がたまに、本当にたまに、眠れていないことを知っていたからだ。とはいえ、何をしてやれたわけでもない。あたたかいミルクを淹れてやることも、眠れるまで話を聞いてやることも、ただ傍で寄り添ってやることも、何も、かも、できないままにずっと過ごしてきた。自分には、その資格はないと思っていた。そう言い訳することで逃げていた。
ただ、ミルクを淹れてやればよかったのに。ただ、話を聞いてやればよかったのに。ただ、寄り添ってやればよかったのに。臆病だった。いっそ卑怯だった。自分の内側にある湿っぽい下心を悟られたくなかったのだ。悟らせない自信が、持てなかったのだ。あまりに、幼稚である。
「どうしたものか……」
次にあの艇に帰ったときにこそ、自分は動けるだろうか。即座に返されそうになる否を止めて、努力しようと心に決める。そのくらいできなくて、何を求められるというのか。そこはおとなとして、仲間として、庇護を与えるべきだ。たとえそれを、あの子が求めていなかったとしても、それが、務めだ。何より、自分が、そうしたいと願っている。そう、動機など、我欲で十分だ。
獣の気配を、追い払う。夜はまだ長く、星々の煌めきは永遠のようだ。
ぱちぱちと弾ける火花の音につられて焚き火に目をやり、思いついたように荷を漁る。よかった、まだ残っていた。取り出したティーバッグは、つい先日の手紙にいつものように添えられていたものだ。フレーバーはホワイトラベンダーとミント、また香りの想像がうまくつかない。
簡易のコンロを組み上げて、水を入れたマグをそのまま火にかける。遠征用にと遠い日にもらった、火にかけられるマグカップは、こういうときに重宝した。ゆったりとゆらめく火を眺めながら、湯が沸くのを待つしばらく。少し、風が冷えてきた。また荷を漁る。取り出した上掛けには、穴が空いていた。構わず羽織り、逡巡。今度、一緒に買い物に出かける口実にしてしまおう。一緒に見て回って、あの子が気に入ったものを買い求めるのは、きっと幸福だ。
滾り出したマグを引き上げて、そっとティーバッグを沈める。蒸らすための蓋になりそうなものをいい加減用意するべきか。これも、やはり次あの子と出かける口実にしてしまおう。一つずつ消化すれば、それなりの時間を共に過ごすことができるはずだ。思えばこういうことも、あの子から誘われなければしてこなかったように思う。妙に臆病になり過ぎて、身動きが取れずにいた自覚が一気に襲ってきて、苦い笑みが刻まれる。どうやら手紙のやりとりは、自分にとって大いなる第一歩だったようだ。わかりきっていた事実を再確認し、ちょうどよくティーバッグをマグから引き上げる。
花の香りが、鼻腔をくすぐった。これが、ホワイトラベンダーというやつだろうか。わからない。いつか、本物の花と比べてみたいものである。たっぷりと香りを楽しんでから一口含むと、最後に清涼感が残された。なるほどこれが、ミント。それは、知っている。よく見かけるのはデザートに添えられている姿だろうか。何も考えずに口にしていたから、こんなものだったかという疑問はついぞ抜けないが、知っているということはそれだけで価値があるはずだった。
時間をかけて、味わう。あの子が、くれたものだ。一緒に分かち合いたいと、言ってくれたものだ。大事にしなければ、バチが当たってしまう。というより、あの子に顔向けができない。もっと上手に淹れられるようになるほうが先ではないかというところは、そっと見ないふりをした。教えてもらえばいい。教えてもらいたい。ああ、やりたいことが次から次に忙しなく、嬉々として顔に出る。どうせ誰も見咎めないのでそのままにしておきたかったが、脳裏にぼんやり炎のような男の苦い顔が浮かんで自制が効いた。いいのか、悪いのか、答えはどちらでもないが正しい。
「会いたい、な……」
呟く声が夜闇に溶ける。拾う者は当然いない。そのまま天に上って、星の一つにでもしてしまうにはあまりに陳腐な願いだった。何せ別にすぐにでも、艇に帰ることができないわけではないのである。用事は前倒しで終わらせてきているし、フェードラッヘにはついこのあいだ寄っている。何を急ぐ必要もなく、思えばここ数日は穏やかに過ごすばかりだった。少しの寄り道が、何かに支障をきたすことは、到底起こり得ない。
では、どうして、合流を避けるのか。避けているつもりはなかったが、結果としてそうなっている理由に心当たりはあった。
会いたい気持ちと同じくらい、手紙を待つ時間が、手紙を読む刹那が、返事を書く長考が、楽しくて仕方がないのだ。それはもう、麻薬のように脳を支配して、理性のコントロールを忘れさせるほどに。どう比べてみても直接会って、直接話したほうが伝えられることも、伝わることも大きくて、あわよくば触れ合うこともできるはずなのに、本当にどうしたことだろう。このもどかしさが、このじれったさが、たまらなく幸福であるような錯覚すら起こしてしまう。
いまもそう、焚き火を見守り、周囲を警戒する片隅で待っている。すっかり聞き慣れた羽音が響くことを期待している。それだけで、十分に満たされる自分が確かにいるのだ。
「どうかしているな」
もう一度、苦笑う。間違いなく、狂っている。頭のネジが二、三本行方不明になっているのではと言われても否定ができないほどに、おかしくなっている。会いたいと、話したいと、触れ合いたいと、願う裏側で、それらすべてがどうでもいいような気さえしている。身が震えた。背筋がすうっと冷えている。近づいてはいけない場所に足を踏み入れたときと同じ感覚だ。実際、そうなのだろう。決して、正常ではないのだろう。
すっかり冷めようとしているお茶に口をつける。そうこれも、手紙のやりとりを始めなければ知らないままであったかもしれない、あの子の好きなものだった。
ああ、そうか。この程度のことも知らないくらい、これまではあの子と距離があったのだ。愛しいと、確かに思うだけの繋がりはあるはずなのに、肝心なところで遠く遠くにあったのだ。だから、いま、こうしてやりとりを繰り返すことに価値を見出してしまっている。余計な快楽を受け取ってしまっている。なんとも、困ったものである。
「帰らなければな……」
で、あるならばこそ、意地でも艇に戻らなければならないことは、明白であった。このまま無為に時間を過ごしてはいけない。何せ自分はいま、あの子と過ごしたいと間違いなく思っているはずなのだから。
帰ろう。自然とあの艇を帰る場所にしている自分にそこでようやく気づいて、首の辺りに熱を感じた。それは希望だった。自分が帰るべき場所は祖国であるはずなのに、どうしてあの艇も、そうであってほしかった。欲張りだろうか。かつてどこにも居場所などなかったはずの自分に、二つも帰る場所があるというのは、いけないことだろうか。否。きっと誰も、咎めないことは、ちゃんと知っていた。むしろ、そんなことを言うなと言ってくれるはずだ。そういうやさしさの受け取り方は、もう十分理解している。
とはいえ、帰るにしても夜が明けないことには動けない。強行軍には慣れているが、無茶をするときにはそれなりの状況とタイミングの合致が必要だ。いまは、そのときではない。眠ることは難しいとはいえ少しでも体を休めて、可能な限り万全に近い状態で動いたほうが結果として早くあの艇に合流できるはずだ。
グランサイファーの概ねの航路は把握していた。追いつくのに必要な日数はざっくりと計算して三日といったところだろう。その間に、もしかしたら鳩が手紙を運んできてくれるかもしれない。そうなったら、返信と自身のどちらが先に到着するか賭けに出てみたい。鳩を追い越して合流できたら、あの子に何か、わがままを言ってみよう。どんな? すぐには思いつかない。
「あの子も、星を見上げていないだろうか」
冷めようとしている紅茶を含み、また、空を見る。一筋だけ、星が流れた。願いをかける気にはなれないまま見送って、そういえばと月を探す。見当たらない。新月だっただろうか。違う気がした。ぐるりと首を回してようやく。上弦だった。
飲み干したマグを洗うのは朝でいいだろう。目を閉じる。眠らない。視覚を閉じると、耳が冴えた。何かが草を踏み締める音がする。こちらには近づいてこないので無視をしていいだろう。どうやら、夜行性の獣が獲物を狙っているらしいことまで感知して、目を開ける。
平穏だ。おそらく何の危険も、朝まで訪れることはない。脳を休める意味でも、あれこれと考えるのはこの辺りで切り上げてしまうのがいい。ふつり、と糸を切るように思考を閉じて、ただそこにある感覚のすべてを味わう。
「おやすみ、グラン」
この場にいないあの子に向けて、そうっとこぼす。そこから朝までは本当に何もなく、途中で口に入れた携帯食が異様にまずかったこと以外は特に覚えていることすらなかった。
火の始末をし、マグを洗って支度をする。出発は夜明けすぐのことで、やたらに冷え込んだ。吐いた息は白くない。これならば、歩いているあいだに気にならなくなることだろう。
荷を抱え、森を進む。濃い緑の匂いがした。途中食べられる木の実を見つけていくつかもいでみる。ちょうどいい酸味が、移動の疲労によく沁みた。きのこには、触れないようにしておく。大抵の毒には強いので、心配する必要はないのだけれど、痛いものは痛いし、苦しいものは苦しいのである。それに、これからあの艇に帰るのだ。余計な心配をかけるような行為はしないに限る。
「心配か」
座り込まずに足を止め、水を飲んで一息つく。あの子の関心を、心配という形で引くことに興味はあった。いけない。そういう類の小狡さは、あの子の信頼を損ねてしまう。そもそもそんなことをしなくたって、あの子はいつだってこちらを心配してくれている。手紙にもいつも、いろんな言葉を介して〝体に気をつけて〟と綴るくらいだ。社交辞令、などではない。こんな、大概のことでは死なないような、およそ人間の域を逸脱しつつある人間に対しても、あの子はいつだって本気で心を砕いてくれる。
それは、愛おしさを膨らませるに十分すぎた。
「……ふむ」
足を止めた。振り返る。何もいない。いいや、何かいる。ずっとついてきていることは知っていた。こちらに危害を加えようとする気配はなかったので放っておいたが、いい加減少々鬱陶しい。
大剣に手を掛け、構えを取る。これで逃げてくれたらと、期待は見事に裏切られ、おずおずと出てきたのは小さな魔物だった。ぱっと見はうさぎに似ている。だがよく知るうさぎに似た魔物とは異なった。ともかく、この場面で出てくるにしてはあまりにも小さく、拭けば飛ぶようなその姿に、気が抜けてしまいそうになったのは確かだ。
慌てて、首を振る。姿形は本質ではない。ここに来るまで延々とついてきていたからには、この魔物にも魔物なりの強い意志があるはずだ。それこそ、力の差を考慮に入れないだけの。
「何の用だ?」
言葉によるコミュニケーションに意味があるのかはわからない。しかしそれ以外の手段を、行使するのも難しい。剣に手は掛けたまま、しゃがみ込んで目線を可能な限り合わせると、魔物はゆっくりとこちらに歩み寄ってきた。そのまま、警戒心もなくしたような様子で、足元にじゃれつく。
どうしたものだろう。何がしたいのか、何を伝えたいのか、一向に見当がつかない。じゃれつく姿は可愛らしくはあった。だから、何だ。相手は魔物で、害意も敵意もなかったとしても、警戒を解くわけにはいかない。見目だけで判断して、痛い目に遭ってきた過去はいくらでも思い出せる。
魔物は、離れようとも、何かを伝えようともしないまま、しばらくをそのまま過ごしていた。あえてその目的を推察するなら、においをつけようとしているといったところだろうか。しかし、なぜ? その行為に意味があるとすればこのにおいを頼りにもっと強靭な魔物がこちらにやってくる、などだろうか。考えておいて、やはり到底意味があるとは思えなかった。とはいえ本当にただ懐いているだけとするには、理由がない。
魔物が、思い出したように顔を上げた。目が合う。魔物は小首を傾げてみせる。やはりまるで悪意のない、屈託のなさすら感じられる姿である。剣に掛けた手が緩みそうになるのをしっかりと握り直し、一呼吸。
「俺は、お前に何かしただろうか」
また、問う。答えの返るはずのないそれは、虚しく空気に溶けていく。さわさわと葉が擦れ、髪がなびいて目にかかる。
刹那だった。視界を奪われた一秒にも満たない時間の中で、魔物は突然走り出し、あっという間に姿が見えなくなった。森を抜ける穏やかな風とは対照的に、まるで嵐のような出来事だった。
剣から手を離す。もう、どこにもあの小さな命の気配はない。なんだったというのだろう。何もわからない気持ち悪さが、胸の辺りでしこりとなる。無視はできたから、気を取り直して立ち上がり、先を急ぐことにした。
はて、いまの出来事を、あの子ならなんというだろうか。覚えていないだけで何かしたのかもしれないよ、それで懐いたんじゃない? 言いそうだ。ならば、そういうことにしてしまおう。答え合わせは、艇に乗ってからいくらでもできる。
森は長く続いていた。飽き飽きするほど同じ景色の中で、迷わないコツはいつ身につけたものだったか。忘れてしまった。忘れていていいものだった。およそ、いい思い出と結びつくものではないはずだった。
踏み締める地面の感触から、人の気配を汲み取る。そろそろ、村か街が近い。記憶している地図通りなら、港があるはずだ。そこから艇に乗れば、今日中に大きい港に移動ができる。シェロカルテに会えるとしたら、その次の島だろうか。会えることを、期待したい。そうすれば、より詳細にグランサイファーの位置が把握できる。
急ごう。自然と足が速くなり、太陽が真上に来る前に街道に出た。温かい食事の恋しさを振り切るようにそのまま港に向かい、艇に乗り込む。まずい携帯食で昼を凌ぎ、乗り継ぎの港であの羽音を聞いた。
「早かったな」
くるくると旋回してから、鳩が降りてくる。丁寧に一礼。そのすぐあとに、銀をねだる。相変わらず、恭しいのにふてぶてしくて、いい性格をしている。差し出した銀の粒を勢いよく啄むと、鳩はすぐさま胸のポーチを指した。促されるまま開けて、手紙といつもの贈り物を取り出す。そう、いつもの――
「おいしいコーヒーの淹れ方」
クリップで留められたメモに書かれた文字をそのまま読み上げる。なるほど、いつものお茶ではなく、今回はコーヒーを添えてくれたらしい。メモを開くと、神経質そうな几帳面な文字が並んでいた。見慣れたあの子の字とは異なるそれは、おそらく天司長殿のもの。ほんの少しだけ、右肩上がりだ。丁寧にまとめられているそれは大変にわかりやすいが、どうにも、道具が間に合わないことは明白だった。残念だが、本当においしいコーヒーは帰ってからの楽しみにとっておこうと心に決める。
乗船時刻を告げる笛が鳴り、乗り場へ向かう。肩の上の鳩はいつかのように怪訝な顔をされたが、問題なく乗り込めた。落ち着ける場所を見つけて、荷を解く。こんなことなら個室を取っておけばよかったと、後悔してももう遅い。手紙の封を開け、ようとして手を止める。見慣れないもので封がされていた。いつからか、シーリングワックスが使われるようになっていたことにはちゃんと気づいていたが、それはいつも同じ、シンプルなデザインのものであるはずだった。
「竜、か……」
自惚れたくなる。やめておく。こういうとき、冷静さを欠いてはいけない。きっとあの子に、他意はないはずだ。たまたま見かけて、たまたまいいと思ったから買い求めて、たまたま今回の手紙に使ってみた、きっと、それだけだ。期待など、するものではない。
とはいえ、そのまま割ってしまうのは惜しかった。小刀を取り出し、蝋だけ慎重に剥がし取る。これは、大事に取っておこう。ひとまず、押し花用の本に挟める。
手紙を開く。すっかり見慣れた便箋には、びっしりと文字が刻まれていた。ずいぶんとまあ、おしゃべりな手紙である。お互い様だ。どれだけくだらなくとも、どれだけつまらなくとも、いくらでも書き連ねてしまいたくなるのだ。知ってほしいと、思ってしまうのだ。手紙とは、そういう魔力のようなものがあった。だから自然と長くなりすぎないように、自分で書く分は便箋二枚までと決めていた。あの子も、そのくらいで送ってくることがほとんどであったから、ちょうどよい文量なのは間違いない。
ところが、今日の手紙は四枚あった。あの子にしては饒舌な枚数である。それほどに、伝えたいことがあったのだとすれば、これほど嬉しいことはなかった。嬉々として目を通し、一度目を読み終える。すぐさま二度目の確認に入り、三度目はゆっくりと時間をかけて。時間が過ぎるのは瞬きのようで、気づけば艇は、港へと寄ろうとしていた。
本当に、あんまりなほどに一瞬である。もっとじっくり味わう時間を欲したが、諦めて荷を整え急いで艇を降りた。今日はこの街で一泊して、明日もう一つ大きな街に到着できれば、その次の日にはグランサイファーに追いつける算段だった。
宿を探して歩き出し、港からほど近いところに構えるこぢんまりとしたそれの戸をくぐる。一人部屋が空いているか訊ねると、ぎりぎり一部屋だけ残っていた。すぐさま取って、荷物運びは丁重に断り、部屋へと入る。
狭いが、一夜の宿にはちょうどよかった。何より、机があるのがいい。これなら、落ち着いて手紙をもう一度読み返してから、返事を書くのにも困らない。風呂は備えつけていないとのことで、借りられる場所は聞いておいた。ついでに、うまい飯屋の情報も仕入れておくべきだったかもしれない。まあそれは、探し歩くのもまた一興だ。
椅子に腰掛け、手紙を取り出す。何度読んでも味わい深い無邪気さが、愛おしくてたまらなかった。自然と頬が緩んでくる。存外緊張していた眉が開き、ようやく肩の力が抜けていくのを感じる。安堵の息。できればあまり肩肘張って、あの子への返事を書きたくなかった。だから、安心する。
「ああそうだ」
周囲を見回して、目当てのものがないことを確認すると部屋を出た。受付に回って、湯をもらえないかと、それが難しいようなら湯沸器を貸してほしいと、要求は後者が通った。小さめの湯沸器を持って部屋へと戻り、手持ちの水でさっそく湯を沸かす。
やりたいことは、もちろん決まっていた。あの子が用意し、わざわざ天司長殿にメモまで書かせて贈ってくれたコーヒーを淹れるのだ。この湯沸器では、細く細く湯をこぼすことは難しいけれど、野宿のときよりははるかにいいだろう。少しでもおいしく淹れて、感想は、直接会ったときに伝えたい。
天司長殿のメモを見返す。お湯の温度は九十度。早々に出てきた埒外の項目に、とりあえず沸騰し過ぎる前のお湯を使えば上等だろうと様子を見る。今だ、と思ったタイミングで湯沸器のスイッチを切ってから、肝心のマグも、コーヒーそのものも、まだカバンの中だと思い出した。
なんともはやな滑稽さに自分で呆れながら、マグを取り出し、コーヒーの封を切る。なるほど以前誰かが教えてくれた〝どりっぷばっぐ〟というやつだった。
「確かこれは、カップのふちに引っ掛けるんだったな」
粉をこぼさないように慎重に、マグのふちにドリップバッグを引っ掛ける。それからメモを見て、蒸らしという工程があることを知る。いやはや、コーヒーとは難しい。おそらく紅茶も普段は雑に淹れてしまっているだけで、おいしく飲むために必要なことはいくらでもあるのだろう。が、それにしたってこれは、細かい注意が多過ぎるのではなかろうか。
天司長殿はコーヒーへの思い入れもこだわりも人一倍だろうから、致し方ないのかもしれない。指示通りに少量の湯を入れ、待つこと二十秒。なるべく慎重に少しずつ湯を注いでいき、ドリップバッグが浸かったところで終わりにする。
紅茶とは違う、どっしりとした重さのある香りが、部屋をいっぱいに満たす。これはこれで、好きだった。メモに小さく、僕の好きなブレンドだよと書かれていたことも相まって、期待に胸が躍る。
ふう、と少し冷まして一口。ほんのりとした苦味の向こうに、どこか甘さがあった。なるほどこれは、あの子が好きだというのも頷ける。少々の雑味は淹れ方の問題だろうから無視をして、もう一度口にする。鼻に抜ける香ばしさが心地よく、時間をかけて息を吐いた。
どうせなら、菓子の一つでも買い求めてから、淹れてみればよかった。そうすれば、よりあの子らしいブレイクタイムになっただろう。残念だ。大変に残念だからこれも、一緒にやることリストに加えておく。
あっという間に飲み終えてしまったそれを脇によけておいて、湯沸かし器は受付に返却する。時刻はそろそろ夕刻となり、少し早いが夕食に出てもよい頃合いだ。普段ならこのまま出かけていくところである。けれど、今日は先に返事を書いてしまいたかった。例の、賭けをするために。
便箋と、ペンと、インク。よく見るとインクは残り少なかった。今回の手紙で、使い切ってしまうかもしれない。それもいい。
口元をゆるゆると綻ばせながらしっかりとペンを握り締め、しばらく書かずにいたそれを、書いてみた。親愛なる――ああ、気恥ずかしい。それなのにどうして、晴れがましい。おかしな感覚だ。感情としては、嬉しいに近く、楽しいも混じり、だのに不安を抱えている。矛盾の渦中に取り残された、奇妙なくすぐったさ。落ち着かない。思わず踵を高く鳴らしていることに気づいて、慌てて止めた。
すぐにでも、帰ることを書きたかったが堪えて返事に努める。奇妙な魔物に出会ったこともついでに書いておく。こういったなにげないことに、あの子は逐一丁寧な返事をくれるから、なんでも報告したくなる。
自分がこんなに饒舌だったことを、手紙を書き始めるまで知らなかった。あの子に対してだけだけれど。とはいえあの子に対しても、これまであまり自分のことを話してきた覚えはない。何かを話したい、伝えたいという感情を抱くこと自体がなかったからしようがないといえばそうだろう。コミュニケーションというものに、それほどの重要性も必要性も、ましてや楽しみなど、見出せてもいなかったことも、原因の一つと言える。こんなことを言ってしまうとどこからか説教が飛んできそうである。これでも、少しはマシになったのだから、許してほしい。おそらく許していないのは自分なのだと気づきながら、ここにはいない誰かに責任転嫁して笑う。
さて、どうしようか。二枚目まで書き終えたところで一度手を止めた。書こうと思えば、ここからいくらでも書ける。ただ、自分で決めたルールを破るのがなんとなく居心地悪い。けれど、あの子のくれたものに同じだけを返したい。相反する気持ちは、当然とばかりに後者のほうが強く、割合にあっさりとルールは破られた。
三枚目の便箋を手に取る。よくよく確認すると、便箋も残り少なかった。それくらい、手紙のやりとりを重ねてきた証左だった。帰ったらまた、一緒に買いに行かなければならない。必ず、一緒に。
ペンを走らせる。ふとコーヒーを求めてマグを手にして苦笑し、文字を刻んでいく。いくらでも書けたとしても、やはりあの子に合わせて四枚に収めるのが正解だろう。調子に乗りすぎてはいけない。
途中、ペンのインクを補充する。インクはすっかりここで空になった。ふむ。次に買うものは、少し青みのあるものにしようか。くだらない悩みだった。くだらないから、尊かった。
四枚目の八割を埋めてしまったところで、再び手を止めた。この手紙は、自分とどちらが早く着くか、ある種の賭けをするものだ。なれば、こそ、少しだけ、趣向を凝らしてみてもいいのではないだろうか。ほんとうにほんとうに少しだけ、そこに、本音というやつを刻んでみても、いいのではないだろうか。
やめておけと理性が叫ぶ。やってみたらいいじゃないかと本能が囁く。手は動かない。どうするべきか、決めかねている。もし、自分が先に艇に着いたら、鳩をつかまえてなかったことにしてしまえばいい。が、もし、先に手紙が着いたら、返信のペースから考えると、特別な予定でもない限り、あの子はすぐに手紙を開くはずである。つまり、読まれてしまう。読まれてしまえば、もう後には戻れない。歯車は回り、時計の針が進むように不可逆の変化が訪れる。
背筋に、汗が伝う感触がして、身震いする。ぞくぞくした。何に? ああ、いけない。口元に浮かぶ奇怪な笑みを慌てて解いて、深呼吸。
いいか悪いかで言えば、いいわけがなかった。
「お前はもし手紙を横取りされそうになったらどうするんだ?」
思わず、鳩に話しかける。羽を繕っていた鳩はじっと視線を合わせて、ゆるゆると立ち上がった。そこに、殺気に似た気配を感じて、思わず身構える。鳩はただ、こちらを見据えていた。それだけで、十分なのだ。並の相手なら、それだけで怯んで動けなくなる。なるほど、そういう機能が備わっているとは聞いていたが、これほどまでとは、いやはやなんとも素晴らしい作りである。
「悪かった。取ったりしないから警戒を解いてくれ」
やれやれと言った様子で肩をすくめ、鳩はくるると鳴いてみせた。この鳩から手紙を奪うには、それこそ徹底的に壊す必要がありそうだった。それは、避けたい。情とまでは言わないが、これまで手紙を運んでくれた恩は何物にも変え難く、なによりきっと、あの子はこの鳩を大事にしているはずだった。
やめよう。いらぬことはするものではない。賭けは手紙が先か、己が先かのそれだけで十分だ。
書き終えた便箋を折って、封筒に入れる。自分も洒落たスタンプの一つでも持っていたらよかったが、ないものをねだっても仕方がない。いつも通り封をして、荷の中から本を取り出す。さっき挟めたものとは違う、目当てのそれは花だった。よく水分が抜けている。押し花としては十分の出来だった。これを、このあいだのように整えたら、いよいよ鳩を飛ばして賭けが始まる。
ラミネートするための機械は、このために買った。ぎりぎり持ち運べる小型のものがなかなか見つからず、相応に苦労したのは記憶に新しい。けれど、今日もらった返信はそんな苦労など忘れさせてくれた。いつの間に抽斗を見たのかとやんわり咎められてはいたけれど。あの子が気に入ってくれたのなら、なんだっていい。
ハサミで丁寧に形を整えてから、鳩を呼ぶ。出番が来たことを誇らしそうに、鳩は堂々と机に着地すると胸を張ってみせた。
「よろしく頼む」
ポーチに、手紙と押し花を詰める。窓を開けると、まもなく鳩は飛び立っていった。振り返らず、刹那も数えずに小さな姿は消えてしまう。
夜が来ていた。空も雲も藍色に染まって、月が中天で笑っている。ほんのりと風が冷えていて、なんとなく高揚していた気持ちをすっと下げていく。
思い出された空腹に従って窓を閉め、街へ出る。さすが乗り継ぎの利用者が多い港街だ、あちらこちらに飲食店が立ち並んでいる。ちょうど夕食時とあってどこも賑わっており、飲めや歌えやの騒ぎの店もちらほら。一人でも入りやすそうな店を探してしばらく歩き、広めのカウンターが設置されているそこに入る。
「いらっしゃいませー!」
元気な店員の元気な案内についていくままカウンターの端に腰掛けてメニューを広げる。びっしりと大量の料理名が並ぶそれは、眺めているだけで愉快だった。愉快な反面、感心もした。これだけの料理を提供するとなれば、それ相応の食材の用意が必要になる。下ごしらえから食材の管理、廃棄の削減などあれこれ考えることも多いだろう。それらのコストをかけて、店を回すというのは少ない労力ではないはずだ。けれど、店員の誰も、その労を感じさせずに明るい顔をしている。だから、食事を楽しむ客の表情も同じように明るい。
いい店だ。料理を頼む前から期待に胸が膨らむ。きちんと、覚えておこう。いつか、あの子と来られるかもしれないから。
つい、思考の中心があの子になる。ずっとそうだ。今更だった。今更すぎて、もはや自制も何も意味をなさない。それでよしとしたのは己であった。
「お決まりですかー?」
どこか間延びした調子が誰かを彷彿とさせるエルーンの店員が、メモを片手に尋ねてきた。まだ待ってほしいと伝えると、小気味よく頷かれる。
せっかくなら、あの子の好きそうなものを選んでみよう。これだけのメニューがあるのだから、それもできるはずだ。いくつか目星をつけて、店員を呼んだ。先ほどのエルーンの女性がやってきて、手早く注文を取ってくれる。あとは待つだけ。この待つ時間も、こういう店であれば心地がいい。
サービスだと運ばれてきたサラダに手をつけると、なるほどドレッシングが絶品だった。にんじんをベースにしているらしい柔らかい甘さと、後を引く酸味のバランスが心地よくするすると入っていく。
「はい、まずはオムレツね」
よく、卵料理を食べている気がしたから、頼んでみたオムレツは想像していたものと少し違っていた。楕円形にまあるく成形されたそれではなく、四角くカットされている。断面を見るに、じゃがいもがたっぷり入っているらしい。なるほど、食べ応えがありそうだ。
フォークで一口。しっかりとした塩気と、ケチャップの甘酸っぱさ、最後にほんのり甘みが残る。気づくと次の一口が欲しくなる味だ。シンプルな味付けだが、そのおかげで飽きがこない。あっという間に完食して次へ。
「ほうれん草のキッシュ、お待ちどう」
キッシュは、以前一緒に食べた。立ち寄った街で、ルリアやビィ、他の仲間たちも一緒に食事に行き、そこで出てきたのだ。あの日の席の配置はちょうど向かい合う形で、幸せそうに頬を綻ばせて食べていたのを、よく覚えている。
あのときのものは確か細かく刻まれたきのこが食感のアクセントになっていたが、こちらはシンプルにほうれん草にブロックベーコンとたまねぎのようだ。サクサクのパイ生地になめらかなフィリングがよく合っている。
「クリームシチューとバゲット、それからこっちは牛肉のトマト煮込みですー」
好き勝手、頼みすぎた気がした。あの子のことを考えていたら、どんどん楽しくなってしまったのだ。困ったものだ。偽り。困ってなどいない。
クリームシチューから立ち上る湯気はやさしい。まずはそのまま一口。続けざまにバゲットをたっぷり浸してもう一口。今度はにんじんも一緒に。ほっと心がほぐれる味だ。もしかしたら、郷愁のようなものを与えてくるものであるのかもしれない。はて、難しくて、よくわからない。ただこれが、慈愛のようであることは理解できる。まるであの子の、いや、それはいけない。そういうものを、あの子に求めるのはあまりに冷酷だ。
てっきりワインが使われていると思ったトマト煮込みはもっとシンプルな味付けだった。ニンニクがガツンと効いていて、しっかりとした食べ応えがある。こちらもバゲットによく合った。米とも合うように思われる。つやつやに炊けた白いご飯。ああ、ほしい。けれどここでは、ないものねだりだ。
そう考えるとグランサイファーはさまざまなルーツを持つ者に合わせて、それこそ多種多様な食材を用意していた。何度か厨房に足を運んだが、一体何に使うのかもわからない調味料から、野菜とも果物ともつかない果実まで、本当によく揃っていた。そして何より、それらを使っていつだって絶品の料理が提供されていた。当然にあれは、簡単なことではないはずだ。厨房を任されている者たちの優秀さと、あの子の優しさに裏打ちされた努力が、あの奇跡を起こしている。なんとも尊くて、やはり込み上げるのは愛おしさだった。
そうしてすっかり皿は空になる。満足だった。が、ここでは終われない。改めてメニューを手に取り、最後のほうに記載されているものをよく確認してから、店員を呼んだ。
「これを」
「はーい、すぐにお持ちしますね」
すぐに、という言葉通り望みのものはまもなく運ばれてきた。れもんしゃーべっと、レモンシャーベット。まあるく盛り付けられ、ミントの葉がちょこんと飾られている。可愛らしい見た目に反して、口に入れるとやたらに酸っぱい。強い強い酸味の向こう側に、ほんのりとした甘さがある。想像と違った。思えばこの店は、ずっと想像を裏切ってくれている。とても、愉快だ。
「それ、酸っぱいでしょ。でもその酸っぱさがクセになるの」
通りがかりに店員が笑う。確かにその通りだった。口に入れた瞬間は酸っぱくて仕方がないのに、飲み込むころには次が欲しくなる。口の中は唾液でいっぱいで、それをごくりと飲み込むとほのかに甘いのだからいっそ恐ろしい。麻薬のようだ。さすがに、言いすぎた。
もう一つ何かと思ったが、最後に紅茶だけもらってやめにした。爽やかなストレートティー。えぐみがなく飲みやすい。このお茶は、あの子は好きだろうか。きっと好きだと確信して席を立つ。
「ありがとうございましたー」
会計は手短に。夜に包まれた街道をゆったり歩き、宿へと戻る。鳩もいなくなってしまったそこは、がらんと寂しかった。まるで空っぽである。ベッドも、机も、椅子もあるのに。何もかもが無機質で、何もかもが色を忘れている。手紙を書いていたあの瞬間は、もっと輝いて見えていたはずなのに、どうして? 答えは簡単だ。
自分が結局、空っぽなのだ。
「明後日、か……」
そう、順調にいけば、あと二日の辛抱である。空っぽの自分を、たっぷり満たせるだけの時間を、きっとあの艇でなら過ごせるはずだ。それは期待であり、疑いようのない確信だった。さて、炎のようなかつての部下はタイミングよく乗っているだろうか。ああその前に、開祖殿とよく話をしなければ。それから天司長殿にきちんと礼を言って、ついでにあのブレンドをおいしく淹れてもらおう。そして、それから――
「やりたいことが山積みだな」
一体どれほど、滞在できるかもわからない。すべてをやり尽くすにはきっと時間が足りない。けれど、それでいい。いっぺんにすべてを終わらせてしまっては、あとの楽しみがなくなってしまう。少しずつでいいのだ。少しずつ消化して、少しずつ、そう、ほんのわずかでいいから何か変化を得られれば、それで、それだけで、多少は楽になる。
果たして自分は、楽になりたかったのだろうか。己のうちから返された答えは間違いなく否で、ぎゅっときつく眉が寄った。ああ、こういうときに酒に溺れられる情緒と弱さがあればと、願わずにはいられない。願ったところで得られやしない。人と人ならざるものの境界にある己には、それこそ毒となるものは効かないのだ。
持っておかなければならないのは、覚悟だ。これからあの子と、どうありたいのか。どうなりたいのか。あと二日で、たった二日で、自分の中のけじめをつけておかなければならない。そう思うと、あんまりな時間の足りなさに怯えが走った。どうすれば、どうしたら、まるでらしくない臆病さを前に、背筋が凍る。
きっと開祖殿は、こんな己を笑うだろう。それはもう高らかに、冷ややかに、笑いに笑ったあと、一蹴するのだ。いいんだぜ、ずっとそこで足踏みしてても、と。幻聴は耳の奥で閃いて、こだまして、やがて消える。
「グラン……」
呼んでみた。あの子の名前を。部屋の寂しさがとっぷりと重さを増した。まるで存在を主張するように、全身にのしかかってくる。まだ風呂屋に行けていないというのに、このままベッドになだれ込んで、眠りに落ちてしまいたい衝動。いけない。野宿続きでまともに湯浴みができていなかったのだ。今日こそは、まとわりつく何もかもを小綺麗にしなければならない。
だ、のに、足が一向に動かない。床に縫い止められてしまったみたいに、微動だにしてくれない。耳の奥でまた幻聴が聞かれた。今度は、炎も見えた。いい加減にしろ、情けない、そう、言われている。いやはや、あの男は、そんなことをこちらに向けて言うだろうか。言わないのではないだろうか。わからなくなってくる。だが幻聴だけははっきりと、繰り返し己をなじってきた。
これはそう、おそらく、自分が、なじられたいだけなのだ。本物の彼はむしろ自分を止める可能性だってあるのに、聞こえる声はまるで背中を押している。それはあまりに、都合がよすぎる。
唇から、乾いた息が漏れた。それは嘲笑だった。己に向けた、精一杯の嘲りだった。
ようやく、足が動く。荷を整理してから風呂屋へと向かい、一息。久方ぶりにゆっくり湯に浸かる感覚は心地いいはずなのにどこか空虚だ。ほんの少し前、それこそ食事をしているあたりまでは、あれほど浮かれていたはずなのに。間違いなく、帰ることを純粋に楽しみにしていたはずなのに。どうして、こうなるのか。全部自分のせいだ。わかっている。わかっているから、息苦しい。
意識して呼吸を深めるようにして、夜道を遠回り。すぐに宿に戻らなかったのは、考えを整理したかったのもあるが、単純な逃避だった。
最終の艇も行ってしまって、静けさに支配された港のベンチに腰掛ける。湯冷めするよ、あの子の声が聞こえた。どうせ、風邪は引けない。
見上げた星空は昨夜ほどの煌めきはなかった。街が明るいからだろう。活気のある証左を肌で感じるのは好きだ。ただ、いまはそこから離れていたい。孤独を噛み締める瞬間に、果たしてどれほどの価値があるのかはさておき。世界に一人だけになってしまったかのような錯覚はいつでも、脳を冴えさせる。
風が吹くたびに、せっかくの熱が奪われる。濡れた髪からしたたる雫が、やたらに冷たく背筋を這った。何度となく、きちんと乾かすように言い含められても直らない。直す気がない。だって直してしまったら、あの子は満足するだろうけれど、それで、終わってしまう。それを、望まないだけの我欲はある。むしろ、我欲だらけなのだ本当は。知っている、ずっと、繰り返している。
体ばかり大きくなって、情緒はいつまで経っても育たない。けれどそれなりに膨らんだ欲は持て余す。愚かしくて、おかしい。
星が、瞬いていた。流れでもしてくれたら、何か、願いをかけてみたかった。残念ながら、一向にその気配はなく、ただキラキラと音が降る。空に向けて吐き出した息は、まだ白くはならなかった。
覚悟、覚悟である。必要なのは、それだけなのだ。ただそれだけで、世界は変わる。あっけなく、変わってしまう。そういうものだ。だからずっと怖くて、ずっと息苦しい。覚悟は決まらず、だのに衝動だけは一丁前に行動を促し、考えなしに帰ろうとする。
あの子と同じ、若さが欲しいわけではない。これまで重ねてきたものがなければきっと、あの子に惹かれることなどなかったのだから。この感情は、いまの自分だから抱えることのできたものだ。貴重なものだ。得難いものだ。大切に、したいものだ。
そう、ずっと、大切にしたいのだ。自分の想いも、あの子自身のことも。ただそれだけのことが、あまりにも難しい。それは恐怖と名付けられた。恐れなど、滅多なことで抱いたこともなかったのに、じわじわと腹の底から冷たいものが上がってくるような感覚は、そう呼ぶ以外に相応しい名前がなかった。
「ああ……、醜いな」
改めて、己が何より恐れていることがなんなのか、その正体が暴かれる。あの子の未来を奪ってしまうことなんかじゃない。あの子に拒絶されることが、想いを、遂げられないことが、何よりも怖いのだ。そうなったときに自分が理性的でいられる自信が、ないのだ。あんまりである。あまりにも、愚かしく醜悪で、驚きを通り越して呆れてしまう。誰かを想うということに慣れていないせいだろうか。それとも、恋をすると馬鹿になるというように、みんな誰しも、こんなものなのだろうか。こんな、あんまりなほど凶暴な獣を身のうちに飼っているというのだろうか。何か、違う気がした。自分のそれはあまりにも本能的で、衝動的で、まるで相手を食い殺さんばかりである。
それは、とても、危険なものだ。
「グラン……」
無意識に、呼んでいた。応える者のいない名前を、縋るように口にしていた。
会いたかった。会いたくてたまらなかった。会いたくて、声が聞きたくて、あわよくば触れたくて、――この胸のうちを受け入れてほしかった。もう覚悟などどうでもいいと、言えたらどれほどよかったことだろう。しかしどうにもそうはいかないままに、ため息が落ちた。
あの子は、弱くない。訂正。あの子は強い。肉体的にも、精神的にも、自分よりよっぽど強く、しっかりしている。たとえこちらが衝動に任せて〝何か〟をしたとて躊躇うことはあっても、屈することは決してない。断言できる。
そうでなければ、あの子はあの子ではないのだ。
ああ、そうか。そうだ。彼の開祖も言っていたではないか。理解していたつもりで、納得を忘れていたそれはすとんと胸に落ちて、収まって、やがてやわらかな熱となった。
自分が何をしたとて、あの子は揺らがない。誰も、何も、もちろん己も、あの子の根幹を揺るがすことなどできやしない。だから、惹かれたのだ。だから、恋したのだ。だから、愛したのだ。
立ち上がる。そうだ、そうだった、と。笑いがこぼれた。場所も、時間も、人の気配も、何もかも埒外において声は高くなる。耳の奥で、開祖の笑う声もした。
そう、己が、己如きが、あの子を揺るがせるわけもないことは、明白なのだ。目尻ににじむ涙は、当然に悲しいから浮かぶのではない。いや、多少はかなしいかもしれない。だって、自分は愛しい人を揺るがす存在になれないなんて、これほどかなしいことはないだろう。
もし許されるのなら、髪の毛一本分くらいのは、影響を与えられると信じてみたかった。
「戻るか」
ひとしきり笑い終えて、すっかり腹のあたりを痛めながら歩き出す。
夜風は相変わらず冷たかったが、気分はうなされそうなほど熱を持っていた。それは覚悟の熱さだった。もうどうにでもなってしまえ、の投げやりな気持ちがないわけではなかっが、ある意味それで十分なのだと気づかされる。それは、強い少年に対する甘えでもあった。
当たって、砕けてしまえばいい。帰ったら、きちんと場所を整えて、伝えてしまおう。できれば、艇から離れたほうがいい。耳のいい者に聞かれかねない。一応自分にも、それなりの羞恥はあるのだ。それに何より、受け入れてもらえなかったときの保険が必要だ。何もしないための、確かな保険が。さすがの自分でも、人目があれば人としての分別を持って行動できる。間違いを犯すことは、ない。
宿に戻るとすぐに、何も考えずにベッドに倒れる。本当は、明日の出発に備えて荷を整理したり、押し花の様子を確認したり、やることはあったのだ。けれど、全部忘れて瞼を落とす。
「おやすみ」
誰もいない空白に向けて、明日を祈る挨拶を一つ。次に目を開けたときは、出発時刻ぎりぎりだった。めずらしい失態である。大慌てで身支度を整えて、飛び込むように艇に乗る。
マグカップを、忘れた。とはいえどうせ茶渋で汚れていたし、惜しくはなかった。新しいものをあの子に選んでもらって、今度は絶対失くさない理由を得てしまえばいい。すっかり戻った調子を笑い、残り少なくなった携帯食を齧る。
艇は順調に航路を進み、日が沈む前に港に着いた。活気に誘われるまま、宿を取るのも忘れて商人街のほうへと進み、シェロカルテを探す。あいにくと、この街にはいなかった。万が一の保険だったから、まあいないこと自体は問題ではない。
明日、この港から出ている艇に乗って向かう島が、グランサイファーの航路とかち合う。朝の便に乗り遅れなければこちらは昼に、あちらは予定通りなら夕刻に、それぞれ島に到着するはずだ。そうであってほしい。いろいろとイレギュラーが起こりやすいのが、あの艇の少し困ったところだが、きっと、合流できると信じたい。これは、切実な願いだ。
「なるようにしか、ならない、か」
遅れて取った宿はあいにくと雑魚寝部屋しか残っていなかった。手紙を書くわけではないから、体を休められれば十分である。
「手紙は、もう届いただろうか」
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