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つきりま
2026-02-04 02:17:17
20333文字
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ジクグラ
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竜の便り 第三話 祭りと花
ジークフリートとグランが文通する話の第三話です。
祭りの熱に浮かされて、恋を自覚する少年の話。
注意:うちのグランくんはジークフリートさんを呼び捨てます。気になる方はすみません。
その島を訪れたのは偶然だった。ちょうど依頼の隙間に、足を休める場所に立ち寄りたくて艇を停めた。そのくらいのものだった。
賑やかな祭囃子が聞こえてくる。道ゆく人々の表情は明るく、今日を迎えられたことを喜ぶ声が口々に聞かれた。何を祝う祭りなのか、道中問うてみると、数年に一度一晩だけ咲く花の開花を祝う祭りなのだという。なんでもその花が咲く年は豊穣が約束されているらしく、島の住民にとってはとても喜ばしいことであるらしい。その蕾が、今日にも開こうとしている。そこで盛大に祭りを催して祝う。それがこの島の慣例であり、島民たちの楽しみでもあるとのことだった。ぜひ皆様も楽しんでくださいね、と言われてしまえば、断る理由もなかった。
「あっちに焼きそばと、たこ焼きと、わたあめがあるみたいですよ。カタリナと行ってきますね。グランはどれか食べたいものありますか?」
「とりあえずいいかな。ルリアの好きなもの買っておいで。あとで僕も追いつくから」
「わかりました! じゃあカタリナ、ビィさん、行きましょう」
はしゃぐルリアを見送って、ゆっくりと周囲を観察する。流れる空気は浮き足立っていて、みんな祭りを心から楽しんでいることがわかった。自然と口角が上がる。
不思議と空腹は感じておらず、祭りの雰囲気でおなかいっぱい、と言ってしまうのは大袈裟かもしれなかったが、それくらい、胸は膨れていた。あえてルリアたちに急いでついて行かなかったのも、そういう理由だった。
なんとなくいまは、この流れる空気の一部になる心地で、穏やかに漂っていたい。流されるままに歩き、止まるように止まり、また歩き、時々脇道に逸れてほっと一息つく。そうして遠くから祭りを俯瞰して、なんとなく世界と自分を切り離してから、またその場所に戻っていく。繰り返し、繰り返し。楽しいかと聞かれると、わからないというのが本音だ。ただ、幸福ではあると思う。
何に急かされることもなく、何に追い立てられることもなく、何かをしなければならないわけでも、ない。あるがままにそこにあればいいという時間は、きっと貴重だった。
しばらく振り回されて、ふと、足が止まった屋台を見上げる。大きな文字でりんご飴、と書かれておりなんとなく惹かれて一本買った。赤い飴がキラキラと、光を弾いて綺麗で、食べるのがもったいない。そもそもどう食べるのが正解なのだろう。とりあえず飴を舐めてしばらくを過ごしてみる。そういえば最近は、りんご飴を切り分けて提供してくれる専門店ができたとか、できないとか、流行り物が好きな団員たちが話しているのを聞いた気がする。確かにこれは、切ってもらったほうが食べやすいだろう。勢いつけてりんごに齧り付いてみると、想像したより硬くて少しだけ困ってしまった。頑張ってもう一口、齧る。やっぱり、食べづらい。口の周りがベタベタしてきて、思わず苦笑う。
そうしているうちにルリアと合流できた。両手いっぱい、カタリナとビィの両手もいっぱいに食べ物をたくさん抱えて、それでは何も食べられないだろうといくつか受け取ってやると、にっこりと満面の笑み。素直に可愛いと思って、つられて笑う。どこか座って落ち着ける場所を求めてしばらくさまよい、ちょうどいい階段を見つけてみんなで落ち着く。
「グランはりんご飴を買ったんですね」
「うん、でもこれ食べづらくって。持って帰って食べればよかったかも」
「確かに、食べるの難しそうです
……
。とりあえず置いておいて、食べ方はあとで一緒に考えましょう! まずは冷めちゃうので、どうぞ」
言葉とともに、たこ焼きを差し出される。ほんのりとした気恥ずかしさから目を背けながら、口を開けて受け取ると、ソースの香りと熱さが鼻に抜けていった。はふはふと熱を逃して、ゆっくりと噛んでいく。やわらかくとろっとしたたこ焼きは、こういうものにしてはめずらしく、ちゃんと大きめのタコが入っていて、ちょっと得したような気持ちになる。
「どうですか?」
飲み込むと同時に問われる。
「おいしいよ。ちょっと熱いから、気をつけて食べて」
「はい! しっかりふーふーします」
息がしやすい。張り詰めていなくていいから、長く深く呼吸ができる。時折ルリアが差し出してくるお好み焼きや焼きそば、イカ焼きに肉串に、と、次々口に運ぶのも楽しい。ああ、平穏だ。ソースの味がどれもこれも同じでも、わたあめの甘さが妙に喉の渇きを呼んでも、素直に、純粋においしくて、嬉しくて、こういうのでいいんだなと思わされる。
苦戦している様子のラムネを受け取って、栓になっているビー玉を押し込む。道中少し振っていたのか、しゅわっと溢れてきてユカタヴィラがちょっぴり濡れた。びしゃびしゃの手で差し出すのもどうかと思い、ハンカチで拭ってから渡す。ルリアはやっぱり笑っていた。グランの分もありますよ、なんて。おんなじように開けてみると、やっぱりこちらも溢れてきた。今度は気をつけていたから、ユカタヴィラは濡らさなかった。
冷たい。喉に当たる炭酸がぱちぱちと弾けて快い。でもちょっとだけ甘すぎる。喉の渇きが去っていくようでいて、後から追いかけてきている気配がする。きっとたぶん本当は、お茶か水を飲むのが一番いいのだ。けれどそれでは、せっかくの祭りの気分が下がってしまう気がした。雰囲気に任せるのなら、このラムネが正解で、この渇きは帰るときまで大事に抱えておくのが、楽しみ方と言えるのだろう。そういうものだ。そうであっていいものだ。
この祭りでは光華は上げないらしい。祭りの主役の花はあくまでも数年に一度、一晩だけ咲くというそれであるべきということか。勝手に、そういうことにしておこう。なんでもいい。なんでも、いいのだ。
いっぱいだったはずの胸に、何か風が抜けた錯覚。気づかれないように苦笑いしてラムネをあおる。甘い、甘い、甘くて、苦い。否、いたい。
思い出された顔は、もう遠いような夏の日に、彼と一緒に光華を見たあのときのものだった。
「会いたいのか、な
……
」
聞かれないように、そうっと呟く。幸い誰も気にしていなかった。なんだかずいぶん、恥ずかしいことを口にしてしまったような気がして、ごまかすようにラムネ瓶をあおる。喉をすべる炭酸の刺激が、びりびりとして頭を冷静にさせた。
ああ、ああ、これではまるで、子どもみたいじゃないか。かあっと首の後ろが熱くなる。彼に並び立てるような人でありたいというのに、これではどうして不釣り合いに思われて、いっそ呆れてしまう。恥ずかしくて火が出そうだ。こんな子どもで、どうして許されよう。会えなくて寂しい、なん、て
――
「寂しい
……
?」
違和感があった。何か違う。寂しいというには、そこに涙のにおいがしない。だのにもっと切実で、離し難いように思われる。おかしい。何かがおかしい。わからない。これは、どういう気持ちなのだろう。適切な言葉が見つけられず、ぎゅっと眉根が寄った。
「どうかしましたか?」
そこでばちりと、目があった。綺麗な蒼と、視線がかち合った。すぐさま笑う。なんでもないと嘘をつく。本当は迷子みたいな気分なのに、しっかり者のふりはとても簡単で、染み付いていて、自分の中の真実がうやむやになっていく。
見つけられなかった感情の名前が、そのまま寂しいとして胸の脇に捨てられた気配があった。そうっと拾い上げて、こっそりと抱きしめてみる。わからない、これはきっと寂しいなんかじゃないのに、本当の名前がわからない。わからないまま、大事にしてみようと、なんとなく思った。これを捨ててしまっては、あとで取り返しのつかないことになる。そんな予感めいたものすらあるようで、いっそ驚いた。驚いてもう一度取りこぼしそうになって、慌てる。大丈夫、取りこぼしてなどいない。
ほったらかしにしていたりんご飴をもう一度齧ってみる。固くて、やっぱり口の周りがべたべたした。自分が下手くそなのかとも思ったけれど、たぶんそんなことはない。誰が食べても、これはこうなってしまうものなのだ。たぶん、きっとそう。逃避するように、もう一口。
「おいしいですか?」
ルリアに問われて、首を傾げる。おいしいか、と言われると何やら味がぼんやりしている。真似するようにルリアも首を傾げるので、二人で鏡合わせのように見つめ合うこと数秒。どちらからともなく吹き出した。
「おいしくないですか?」
もう一度、ルリアに訊ねられた。今度は首を振る。おいしくないわけではない。甘くて、ほんのりと酸っぱくて、味覚としては十分に楽しめるものであることは確かなのだ。ただ、おいしい、に繋がらないだけ。
「一口食べてみる?」
言っておいて、後悔する。だってこれ、とても食べづらい。そのうえしっかりと食べかけで、こんなもの、もらって嬉しいとは思えない。けれどルリアは笑った。可愛らしく表情を輝かせて、はい、と大きな声で返された返事に思わず気圧されそうになるほどに。可愛いな、素直な感情の発露のままに、そっと飴を差し出す。
ああ、案の定、食べづらそうだ。おそらくグランが口をつけたほうから齧るのが一番食べやすくはあるのだろうけれど、それはやっぱり気が引けて、綺麗な面を差し出したのがアダとなった。小さな口で一生懸命齧ろうとする必死さに何やら妙な罪悪感を覚えてしまう。
思わずごめんと言いかけたところで、小さな小さな一口が欠片となった。
「甘いですね」
表面の飴だけがこぼれたから。きっと彼女なりに口元を汚さないようにした結果なのだろう。そういうところににじむ少女らしさはくすぐったかった。
口の端についた破片を拭ってやる。彼女は笑顔を絶やさない。本当に楽しくて、本当に幸せで、たまらないといったような姿が眩しくて、自分が抱えている濁ったような、澱んだような、冷たいような、ぬるいような、妙な感情の行き場がさらに狭くなっていく。本当に、これはなんなのだろう。なんと呼べば、しっくりくるのだろう。いま考えても仕方がなさそうなことなのに、抱えていると気になってしまうのもしようがない。
自分がもう少しおとななら、すんなりと答えを見つけられたのだろうか。おとなに訊けば、正解を教えてもらえるものなのだろうか。なんだかどちらも正しくない気がした。本当はもっと単純で、何か一つの小さなきっかけがあればするすると絡まった紐が解けるように答えにたどり着けるような、そんな予感があった。けれどそれはやはり、いまでは、ないのである。
いつかがいつ訪れるのかは定かでないが、それまでこの居心地の悪さとは同居し続けなければならない。とはいえおそらく、じきに慣れるに違いない。違和感は延々と居座れば平常と変わらないのだから。そうやってやり過ごすのは割合に得意だ。得意に、なってしまった。
ふと、今度こそまさしく寂しさというやつがが胸を抜けていった。苦笑う。すっかりぬるまったラムネで誤魔化して、一息。甘い、苦い、痛い。全部をただ受け入れて、受け流して、忘れる。一連の流れは速やかに処理がなされ、まるで平気な自分が返される。こういうところを、誰かは子どもらしくないという。自分でも、そう思う。とはいえいまさら、どうにもできない。できなくていい。
ぼんやりと、空を見上げてみる。星が近くて、月が遠い。祭りの熱に浮かされるように、キラキラと音が聞こえてきそうなほどの夜空は、祝福に満ちていた。
「グラン」
呼ばれて目をやると、ルリアが焼きそばを差し出してきていた。促されるまま口を開ける。冷たくなってもなんとなくおいしく感じられるそれが口いっぱいに押し込まれて、自然と頬が緩んだ。ゆっくりと咀嚼して、もう一度ラムネを一口。
ああ、なくなってしまった。
「向こうの祭壇で例の花が見られるらしいから、それ見たら帰ろうか」
ルリアの手元のお好み焼きが、ちょうど最後の一口なのを確認して、告げる。まだまだ祭りは続くだろう。こんなところで切り上げてしまうのは、もったいないかもしれない。それでも、そのくらいの名残惜しさのうちに終わらせたほうが、きっといい思い出になる。わずかに迷いをにじませる蒼い瞳には申し訳ない心地もあるものの、カタリナは賛成のようだった。ビィも頷いている。
「
……
わかりました」
あからさまな様子に、ちくりと胸は痛むものの、実際明日の出発が早いことは、彼女もよく知っていた。だからここが、ちょうどなのだ。
「そうと決まったら、ほら、行こう」
手を差し出すと、素直に重ねられる。はぐれないように、迷わないように。しっかりと握って歩き出す。自分の手よりも一回り小さいそれは、けれどしっかりとした存在感を持っていた。あたたかい。手放してはいけないそのぬくもりは、艇に帰るまでしっかりとグランの手の中に収められていた。
「それじゃ、おやすみルリア」
祭りの興奮が覚めやらぬ様子の少女を見送って、自分もベッドに潜り込む。ひと足先に眠りに誘われている親友はすでに柔らかな寝息を立てていて、グランもそのままつられていった。きっとこのまま朝まで、と、思ったのも束の間、まだ暗いうちに起こされる。
――
コツコツ、コツ。
飛び起きる。ビィを起こさないようにしなければいけないのも忘れて勢いよく。やってしまったと気づいたときには少々遅かったが、幸い深く眠る親友は目を覚まさなかった。ほっと胸を撫で下ろし、今度は慎重に窓を開けた。
空気を読むように音を立てずに入ってきたのは、見慣れた鳩である。夜にやってきたのは初めてだったので動揺しながら迎え入れ、とりあえずねぎらいの銀の粒を一つ。満足そうに受け取った鳩は、その翼で優雅に胸元を指した。
「ありがとう」
小さく呟いて、胸のポーチを探る。いつもの通り手紙が一通、それから、もう一つ。ああ、これは、なんてことだ。
「押し花だ
……
」
掌に触れる薄いそれをまじまじと見つめる。この短期間ですでに何度か手紙のやりとりはしてきたが、贈り物が添えられていたのは初めてだった。そういう情緒を彼に対して少しも期待していなかったから、なんだか嘘を掴まされているような心地がした。物自体が軽いから余計にそう感じられるのかもしれない。
「僕、押し花のこと話してないよね」
綺麗にラミネートされ、それはまるで栞のように整えられており、思わず抽斗を開ける。似ていた。抽斗の中に収められているそれなりの数の押し花と、それはそれはよく似ていた。これはおそらく、何かの折にこの抽斗を見られたと考えるのが妥当だろう。隠しているわけではなかったから構わないのだけれど、自分の預かり知らぬところで覗き見られていたというのは、なんだか、どうにも、ああ、首の後ろが熱い。
コレクションの一番上に、彼が作ったのであろうそれをそっと収める。そのまま抽斗を閉じてから、深呼吸一つ。ふうと長く吐いた息の向こう側で、ランプの灯りが柔らかく揺れていた。
さて、どうしたものか。すっかり目は冴えていて、このままもう一度寝るには具合が悪い。いつぞやのように食堂に? やめにした。誰かと鉢合わせることは避けたい。と、なれば、いまここで手紙の封を開けるだけだ。
見慣れた文字、見慣れた便箋。胸がそわそわと落ち着かず、改めて深呼吸。綴られている内容は相変わらず事務的なものが多いけれど、彼の身近で起こった出来事をこうして報告してもらえるのは、どうにも、嬉しくて仕方がなかった。読み進めるごとに、口元が、頬が、目元が、順番に緩んでいく。止められないから、そのままにして、喜びのままに出してしまう。ああ、いまのこの顔を誰かに見られたらと、思うだけで恥ずかしさで目が回りそうだ。けれど、きっと、大丈夫。ビィは目を覚まさないし、鳩はベッドの真ん中に陣取ってこちらのことなど見向きもしていない。ここにいるのは、それだけだから。何も、心配することはない。
押し花のことは、最後に触れられていた。花を見かけたから、贈りたくなったのだと。押し花は、以前部屋に入ったときに抽斗の中を見ていたから、そこからアイデアを拝借したのだと。本当はもう少し早く送ることができる見込みだったはずだったけれど、ラミネートするのに時間がかかったのだと。どこか言い訳するような語調で綴られる内容に笑い声が漏れた。
「そっか」
もう一度、抽斗を開ける。一番上に置いたそれを手に取る。紫色の花だ。名前は、わからない。詳しい者に聞けば答えてくれるかもしれないが、あえて知らないままでいい。彼がまた艇に乗ったときにでも、一緒に調べてみたら、きっと楽しいはずだから、だから、いまは知らなくていい。
「次、いつになるんだろうな」
言いながら、笑っていた。これは苦笑いだ。だってそう、彼が艇を降りてから、実はそう経っていない。手紙のやり取りが幾度か繰り返されているせいで錯覚しそうになるが、本当に、ほんの、ひと月も経過してはいないのだ。このくらいの不在なら、いままでだっていくらでもあった。そう、つまるところ、このくらいの不在については、グランは慣れていた。目まぐるしい日々の中の刹那の出来事として昇華できる程度の情緒でもって抱えていられるはずだった。
その、はずなのに、気を抜くとこれである。祭りのときからどうしてうまくコントロールできない。素直な発露をすればそれは会いたいという四文字になって出力され、強火の羞恥を繰り返しグランに与える。だって、子どもっぽい。親を待つ子じゃあるまいし、会いたいだなんてそんなこと、思うだけでも全身から火を噴いてしまえそうだ。
わずかに、手の中で便箋がひしゃげる気配がして、慌てて机に置く。何度目かの深呼吸。吸って、吐いて、落ち着きを取り戻す。やはり食堂に行こうか、逡巡してやめにする。水が欲しかったけれど、誰かにいまの自分を見つけられるリスクをわざわざ負いたくない。そのくらい、顔に熱が上っている。暑い、熱い、あつい。ぱたぱたと手であおいで熱を逃してみる。焼け石に水。そんな言葉が脳裏をよぎった。
「だって会いたいんだもん」
仕方なし、観念して素直に口に出してみた。なんとなく、胸が軽くなった感覚。収まらない熱は腹のあたりでとぐろを巻くが、頬のあたりからはするすると引いていくようだった。
「会いたいんだよ、そうだよ、別にそれ自体は悪いことじゃない、ないじゃん
……
」
誰に、何に、言い訳をしているのだか。ここには寝息を立てる親友と、ふてぶてしい鳩しかいない。誰も、何も、グランを咎めるものはない。つまりこれは、自分への言い訳だった。自分のうちから生じて止まらない羞恥への反抗だった。
けれど、どうして? はたとそこで疑問に至る。繰り返すが、彼のこのくらいの不在は別にめずらしいことでもなんでもないのだ。これまでだって何度もあったことなのだ。そしてこれまでそれを、グランはそれほど大きく気にしたことはなかったのだ。その、はずなのだ。
「なんでこんなに会いたいんだろう」
答えは、見当たらなかった。否、なんとなく、答えになりそうなものをすでにグランは抱えていた。ただそれが、何であるのかがわからないだけだ。何と形容し、呼んだらいいのか定かでないだけだ。それが寂しいでないことは確かで、そういう幼さからくるものではないことに少しの安堵を覚えながら、首を傾げる。
知りたい、知りたくない。気づきたい、気づきたくない。相反する感情が、ないまぜになって押し寄せて、引いていく。知ってしまったら、気づいてしまったら、おそらく後戻りできないのだろう。そんな確信があった。
「寂しくは、ないんだ」
確認するように声にする。寂しくは、ない。紛うことなき事実だ。自然と手が伸びた先にあるのは彼からの手紙だった。
もう一度、軽く目を通していく。どれほど些細な内容でも、どれほどくだらなくとも、その文字は、形作られる文章は、グランを寂寞から遠ざける。差出人である彼の気配を身近に感じさせる。
これは、そういうものだ。
「ああ、だから
――
」
不意に、胸が軋んだ。気配があるのに、掴めない。それはどうして、もどかしいものだった。そのもどかしさは、消化のしようのないものだ。降り積もっていくばかりのものだ。だから、求めてしまう。だから、会いたくなる。そうだ、そうか、そういうことだ。
また、頬が熱くなる。知ってしまったら、気づいてしまったら、後戻りができなくなることを確かに理解していたはずなのに。追求をやめられなかった己を恨んでもしようがない。
そう、この感情の正体は、
「
……
恋しい」
まるで陳腐な恋愛小説だ。でないならB級メロドラマだろうか。どちらにせよ、あまりにも出来が悪い。
心臓が、鼓膜を突き破らんばかりに激しく脈打っている。続いて頭痛が閃いた。視界がくらくらして、焦点が定まらない。思考が空回ってまとまらない。浅くなった呼吸を深めようとしてうまくいかない。何もかも、あたりまえにできない。
大事にしたかったはずの手紙が、手の中でくしゃりと音を立てていた。
落ち着こう、落ち着けない、どうしたらいい、どうしようもない。だって、こんなの、先ほどまで抱いていたちっぽけな羞恥心の比じゃない。恥ずかしいなんてものをゆうに飛び越えて、彼方まで飛んでいってしまいそうなほど。全身大炎上だ。
「助けて
……
」
思わずこぼれたそれを、拾う者は当然にいない。それを避けたのは間違いなくグラン自身であった。食堂に向かっていれば、あるいは誰かが、拾ってくれたかもしれないのに。たらればは、あまりにも無意味だった。
衝動的にベッドに飛び込みたくなって、ぐるりと首を動かすと鳩と目が合った。首を傾げられる。グランは勢いよく首を振った。と、鳩は一度ビィのほうに視線を向けた。つられてグランも、穏やかなビィの寝顔を見つめた。数秒。うるさかった心臓がほんのわずかだけ穏やかになり、呼吸の浅さが解消される。
くるる、と鳩が小さく鳴いた。落ち着いたか? そう問われているような気がした。頷くと、鳩はやれやれとばかりにベッドの端に寄る。
開けられたスペースに、静かに倒れ込む。手には便箋を握りしめたままだった。かまわない。もうとにかく一度、考えるのをやめてしまいたかった。眠ってしまいたかった。どっと襲ってきた疲れは全身に覆い被さって重たい。
「
……
おやすみ」
呟くと、鳩の返事が聞こえてきた。次に目を開けたときには隣で眠っていたはずのビィも、それから鳩も、どちらもいなくなっていた。寝坊であった。慌てて顔を洗い、朝食の席につく。
今日の卵焼きは甘い。ちゃんと味覚が機能していることに安堵しながら、箸を進める。味噌汁の具はキャベツの芯。焼き魚はしっかり塩が効いていてご飯がよく進む味だ。麦茶で一息。漬物のきゅうりもいい塩梅で、これはご飯が足りないな、と思ったところで影が落ちた。
見上げる。そこに立つ美少女は、何やら怪訝な顔をしていた。それでも可愛いのだから、本当に、よく作り込まれている。いや、そんなことはどうでもいい。
「おはよう、カリオストロ」
ひとまず挨拶を交わしてみる。返事は短くあった。そのまま沈黙が流れ、しばらく。グランは止めていた箸を改めて動かした。やっぱり、ご飯のおかわりが欲しい。
「俺様に何か言うことは?」
「んー
……
。今日も可愛いね?」
「そういう当然のことじゃねえよ」
箸を置く。麦茶を一口。ふうと吐いた息はほんのりと湿っぽい。
「何でそんなこと言うの」
問いながら、何となく察しはついていた。たぶん、おそらく、鳩だ。鳩のせいだ。カリオストロが唇を開こうとしないのが何よりの証左だった。
「
……
どうしても?」
「助けて、欲しいんだろ?」
「そうだけどそうじゃないんだよ」
「はっ。知ってる」
意地が悪い。本当に、意地が悪い。地団駄を踏みたくなりながら、一旦食事に専念する。カリオストロは、わざわざ隣に腰掛けてきた。ここで待つという意思表示らしい。あるいは、絶対に逃さないというメッセージかもしれない。何にせよ、まずは食事を終えなければ。
空になった茶碗を持って立ち上がり、おかわりを求めに行く。すぐにてんこ盛りで返された。さすがにこんなには、と目だけで伝えてみるもにっこり笑顔で無視される。食べ盛りはしっかり食べろ。たぶん、そう言われていた。そのまま席に戻って、焼き魚一口にご飯を三口のバランスで食べ進める。こんなに食べたら、眠くなってしまいそうだ。嘘。隣のカリオストロのおかげでそんなのんきな気分には到底なれるはずもなかった。
「ごちそうさま」
最後に味噌汁を啜ってから、手を合わせる。これ以上はいらないと諸手を挙げて降参するほど満腹だ。どう考えても、おかわりご飯が効いていた。
膳を下げ、カリオストロに目配せする。彼は立ち上がるとついてこいと顎で指した。言われるままについていき、到着したのは当然のように彼の部屋。雑然としたテーブルの上で、鳩がくつろいでいた。一仕事終えたとばかりに、悠然と寝息を立てている。そうだった、この鳩、眠るのだった。いつもあまり間を置かず次の手紙を運ばせているせいで忘れていた。まあ、そんなことはどうでもいい。本題はそう、なぜ、カリオストロに夜更けの件が漏れているのか、だ。
「SOSに対応できるように作っておいたんだよ」
ちょっとポンコツだけどな、と言いながらカリオストロは椅子にどっかりと腰掛けた。まるで美少女を自称する者の所作とは思えないが、この場にはグランと彼しかいないので問題がなかった。グランは、彼がこういう粗雑なところを見せてくれるのが、好きだった。
「SOSに対応
……
」
「手紙を届けた先で万が一何かがあった場合に備えてのことだ。まあ、昨夜のはそういうのじゃねえんだろうけど?」
グランも椅子に座る。お茶とお菓子でも持ってきておけばよかったと、悔いたところで今更遅い。長い話にするつもりはないから、手早く済ませて、とっとと逃げてしまえばいい。お茶は、それからゆっくり自分を慰めるために飲んだっていいはずだ。
「何に気づいた?」
カリオストロは問う。優雅に頬杖をついて、答えを待つ。グランは息を吸った。
「その
……
」
言い出しづらい。自分の恥ずかしいところを曝け出さなければならないのだからあたりまえだ。そんなことも織り込み済みなのか、眼前の彼はこちらを急かすことはしなかった。鳩の寝息が、沈黙の間で静かに揺れる。ああこんなときに「ししょー!」なんて可愛らしい声が高らかに響いてくれたらどれほど助かるだろうか。願いは虚しく、いくら待っても奇跡は起きない。
「
……
えっと」
早く、早く言ってしまえばいいのに。もごもごと口の中で言葉が絡まって音にならない。これではいつまでも逃げられないではないか。
「ま、大方あいつに会いたくでもなったとか、そんなところか?」
ここにきて、助け舟。すがるように口を開く。
「そう、なんだけど、そうじゃないというか」
「ふーん?」
カリオストロが、意味深に笑う。けれど目だけは鋭く光っていた。
「恋でもしたか?」
「こっ
――
!?[#「!?」は縦中横]」
どん、と心臓が大きな音を立てた。口から飛び出してくるんじゃないかというくらい、激しく脈打って大変にうるさい。血液が沸騰するように熱くて、全身が真っ赤に染まり上がる。どうしてずっと、こんなことばっかりだ。熱くて、あつくて、涙が出そう。頭から湯気くらいは出せているかもしれない。
「恋なんて、そんな、そういうんじゃ、ない、ないはずだよ、たぶん、きっと
――
」
「そう言ってる時点でほぼ認めてるようなもんじゃねえか。諦めろ諦めろ。初恋か?」
「諦めろって何をどう諦めろっていうのさ。だってそんな、あの人は別にそういうのじゃなくて」
「じゃなくないからそうなってる。それ以外に何もねえだろうが。認めて、素直になって、ついでに手紙に愛の言葉の一つでもしたためてみろ」
めちゃくちゃだ。しちゃかちゃだ。グランは思わず立ち上がって、そのまま部屋を出ようかと逡巡して、やめにした。おとなしく座り、息を吐き、吸って、もう一度吐く。冷静であれと願う頭はやっぱり沸騰しているように熱い。
「別に、悪い感情じゃねえよ。まあ相手の趣味は俺様からしてみりゃ最悪だがな」
「どうして、みんな憧れるでしょ」
「どうだか。見目で騒がれたとして、中身を知ったら普通は離れていくもんだぜ。ああいう類の人間は」
「そんなこと
――
」
「なくねえよ。誰も彼もが人の本質を見られるわけじゃないことは、お前もよくわかってるだろ」
押し黙る。それは、理解できた。ただ、納得が追いついてこない。カリオストロはそれを察した様子で肩をすくめ、ゆるゆると鳩を撫でてから口を開いた。
「そういうときはな、あの人の良さがわかる僕ってすごい、とでも思っとけばいいんだよ」
「やだよ何それ、バカみたいじゃん」
「実際馬鹿だろうが。あんなやつに懸想する時点で大馬鹿だよ」
「そ、んな言い方しなくても
……
」
グランは俯いた。そのつむじに、ため息が吐きかけられた気配があった。
「いいんだよ、馬鹿で。恋するやつってのは総じて馬鹿なんだから。んで? お前はどうしたい」
「どうって?」
顔を上げる。目を合わせる。カリオストロの形のいい眉が、困ったように下がった。
「好きなら色々あるだろ。あれをしてみたいとか、こうなりたいとか
――
ほらたとえば、手を繋いで出掛けてみたいとか」
「別にそういうのは、考えてない」
「欲がないな。いや、まだそこまで考えが至らないだけか。悪かった悪かった。自覚したばっかりだもんな」
「なんかバカにされてる気がするんだけど」
これには否定が返された。
「大事にしてみろ。そうすりゃ、おのずといろんな願いが出てくるもんだ」
「そういうもの?」
「人間ってのは欲深いからな」
なんとなくそこには、二千年分の重みが乗せられているように思われた。その重さは、グランには決して測れない。圧倒的に自分が幼いことを突きつけられる。
「なんか、ずるい」
だから素直に子どもっぽく、吐いてみる。カリオストロは、また肩をすくめた。
「おとなってのはずるいんだよ」
――
お前が好いたあいつもな。続けられたそれの意味は、正しく理解できた気がしなかった。
グランは今度こそ立ち上がる。大きく伸びをして、肩を回し、そっと眠る鳩を抱え上げた。全然起きる気配のないその鳥は、ただ健やかに眠り続けている。
「戻るね」
「ああ。とっとと手紙の返事を書いてやるといい」
頷いて、くるりと踵を返す。振り返らない背中に、最後にかけられた言葉はあまりにもやさしかった。
「あいつに泣かされたら俺様が仕返ししてやるよ」
どうして、泣かされるというのだろう。わからないけれど、わからないままでいいような気がした。音を立てないように扉を閉めて、その足で厨房に向かう。お茶とお菓子が必要だった。自分を慰めるため? 違う、気持ちをより一層明るくするためだ。
あんなに恥ずかしくて、あんなに気が沈んでいたはずなのに、終わってみれば妙に晴れがましい気分なのだから不思議だ。
「起きた?」
もぞもぞと、腕の中で鳩が動く気配があった。パチリと目が合う。合ったのに、再びその目は伏せられた。まだ眠るつもりらしい。
朝食の後片付けで慌ただしい厨房の隅っこを少しだけ借りて、せっせと紅茶を淹れてしまう。お菓子は、メレンゲクッキーを分けてもらえた。どうやら、子どもたちの今日のおやつの余りらしい。得した気分だ。
鳩に何とか起きてもらって、肩の上に移動させる。淹れ終えた紅茶とお菓子を盆に乗せ、部屋へ戻った。大事な親友殿は、不在である。確かルリアとマキラの作った新作のゲームをする約束があると言っていたような、違う誰かとだったような。少なくとも心配する必要はないはずだ。
机に向かい、彼からの手紙を抽斗から取り出す。便箋とペンはもう並べてあった。インクもたっぷりと瓶を満たしている。憂うことは、何もない。準備は万端整ったと思っていいだろう。紅茶を注いで、ひとまず含んでみる。うん、上出来だ。メレンゲクッキーも、上品な甘さと口溶けが幸を運んでくれる。
ゆっくりとペンを手に取った。さて何から書いたものだろう。ひとまずは彼の名前から。親愛なる
――
以前も入れようか迷ってやめにしたそれは、今回も入れないことにした。気取っているみたいで妙にむず痒いし、自覚した後だと余計に意味深に感じられていけない。だからいつも通りでいい。いつも通り、当たり障りなく、何も変えなくていい。変化を、急ぐ必要はどこにもないのだから。とはいえカリオストロは、もっと変化を望んでいるのかもしれない。けれど、グランにはこのペースで十分だった。
だって、多くを、望むべくもない。いまの願いはそれこそ〝会いたい〟くらいのもので、それ以上も、それ以外も、まだ何も見つけられてはいないのだ。いや、だから、それを書いてしまえと、幻聴が聞こえた。無視を決め込むことにした。
書くべきことは決まっている。祭りのことだ。押し花のことだ。りんご飴って食べづらいんだよ、と、書いてみたらおかしくて笑ってしまった。彼は、食べたことがあるだろうか。流行り物には疎いし、きっと知ってはいる、程度であるような気がする。またいつか、一緒にお祭りに行けたらいいね、なんて、これはきっと自然な流れだ。何も、意味深いことはない。だって以前一緒に見た光華は本当に綺麗だったのだ。思えばあのときからすでに、彼との時間は特別であったような気がする。少なくとも二人だけで過ごす時間というものに、価値を見出していたのは間違いなかった。
「うわ、うわー
……
うわ
……
」
思わず声が漏れた。生まれようとする熱を逃すために何度も何度も声を出し、首を振り、頭を抱える。
ペン先から、インクが滴って机を汚していた。便箋に跳ねなかったのは幸いだった。丁寧に拭って、一度ペンを置く。
「そう、そっか、そっか
――
」
確認するように、さまざまを思い返してみる。あれもこれも、どれもそれも
――
たとえばこの手紙のやり取りが始まる直前のあの日の朝食や、あの日の山登りだってそう。別にルリアたちを誘ってみてもよかったのに、二人で過ごしたいと自然に〝他の誰か〟を選択肢から外していた。けれどそこに意味なんてないと思っていた。蓋を開けてみればなんてことはない、意味しかなかった。
「恥ずかしい」
もう何度目ともしれない羞恥を素直に唇から吐き出して机に突っ伏す。恋しさの自覚が、どんどんと波紋を広げている。現在だけではなく、過去に至るまで侵食していっている。由々しき事態だ。だが、すべてが事実である以上、現実である以上、逃げることも避けることもできやしない。だから余計に、タチが悪い。
もう一度カリオストロに話を聞いてもらいたいような気持ちになりながら、クッキーに手を伸ばす。やさしい甘さがいまは残酷で、歯応えのない淡い口溶けがあまりにも切ない。もう一つ手に取って今度はすぐに口に入れずしばらく指で遊ばせる。人差し指と親指の間で、じわじわと崩れる感覚があった。なんという儚さだろう。
ふと、思い出して抽斗を開ける。そこに収められたたくさんの押し花も、なんとなく大切にしていた。なんとなくのつもりだった。そんなわけがなかった。彼から贈られたものだから、大事に丁寧に扱っていたのだ。
「だからパーシヴァルあのとき
……
」
炎のような男の、あんまりなほどの苦い顔が脳裏に浮かぶ。あの眠れなかった夜に、突然放り出された原因はこれだったのだ。グランが無自覚に、無邪気に自分の特別を発露するのだから、パーシヴァルからしてみればそれはそれはたまったものではなかったことだろう。今度会ったら謝りを入れるべきか。刹那だけ思考して、やめておこうと脇に置く。
押し花の束を手に取る。どうせなら、何かもっと綺麗にまとめておけないだろうか。ここまでくるとより一層大切にしたい気持ちが湧いてきた。団員の誰かなら、いいアイデアの一つ二つ三つ、いくらでもよこしてくれるに違いない。相談する候補の顔を何名か並べながら、抽斗を閉じてしまう。
改めてペンを取り、一度天井を見上げてから、花のことに触れる。まずは昨日の祭りの花について。どういう形で、どういう色で、どういう匂いで、それを見ている人々の表情がどんなものであったか。詳細に、けれど曖昧に、多分な主観を交えて伝える。例えるならあの花はそう、師のような、友のような、そういう類のあたたかさと厳しさを合わせ持っていた。もしかしたら、より近しいのは親、なのかもしれない。けれど、グランにはよくわからなかった。わからないことは別段、悲しくはなかった。寂しくもなかった。誤魔化すように緩んだ頬だけが、妙に痛かった。
湿っぽい気持ちを吹き飛ばすように紅茶をあおる。空になったカップにおかわりを注ぐ。渋くなる二杯目のために、ミルクだって忘れていない。注いで、今度は小さく一口。ミルクの自然な甘さが、舌にやさしい。続けざまクッキーを口に放り込めば、何もかもがやさしさの底に溶けてしまう。
気を取り直してペンを握り込む。押し花の話に触れるのは少しだけ緊張した。けれど同じくらい、嬉しいことであるように感じられた。自分の大事にしているものを彼が知っていてくれていることは、きっと喜ばしいことなのだ。さらにそれに合わせた贈り物だなんて、こんなに素晴らしいものはない。
どうしたら、この胸の内を正しく伝えられるのだろうか。どれほどの言葉を並べても、どうにもうわべだけを取り繕ったような、陳腐な感触に苛まれる。これだから文字というのは難しい。直接会って話すのとはわけが違う。伝えられる情報の量がそもそも大きく異なるのだからしようのないことだけれど。
何とか精一杯、伝えたいことを並べて、そのまとまりのなさに苦笑い。手直しは、必要ない。このまま送ってしまうほうが、いっそそれらしいはずだった。
「あとは
――
」
ぐるりと部屋を見回して、鳩が目につく。この鳩、眠るんだねなんてくだらないことを添えて便箋を丁寧に畳んだ。封筒に入れ、蝋を垂らす。シーリングワックスはここ最近使い始めた。スタンプはいつもと同じシンプルなもの。
――
にしようとして別のものに変えた。
「これ
……
」
それは、便箋を買ったあの日に一緒に買っておいて使えずにいたものだった。竜のモチーフが彫られた、洒落たスタンプ。濃紺のワックスの上に、くっきりと浮かび上がる。仕上がりは、上々だ。
「少しね、少しくらいはね」
気づくだろうか。気づいてほしい。でも、触れないでほしい。わがままな気持ちに振り回されながら、立ち上がる。鳩が出番かと身じろいだ。まだだよと小さく告げる。まだ、添える贈り物の準備ができていない。
「毎回お茶ってのも芸がないよねえ
……
」
お菓子は? いつ向こうに届くかわからないことを考えると少々リスキーだ。最近味を改良したという携帯保存食、は、いくらなんでも情緒がない。小さくて軽くて嵩張らなくて、彼の旅の邪魔にならないようなもの、となるとなかなかどうしてやはりティーバッグは便利なのだと思い知らされる。実際彼も、毎回違うフレーバーが届くことを喜んでくれているようではあるし、悪くはない選択肢なのは間違いなかった。
「あ、そうだ」
思いついて、部屋を出る。そのまま向かった先は、サンダルフォンのところだった。
「ドリップバッグ?」
「そう、手軽に一杯分だけ淹れられるやつ。それに君のブレンドを入れられないかなって」
「ああいうものはあまり
……
だが確かに贈り物には便利だろう。少し待っていろ」
言われるままに席に座って待つことにする。馥郁としたコーヒーの香りに満たされた空間は、その場にいるだけで穏やかに気持ち均してくれる。ついでに一杯、頼んでもよかったか。十分に紅茶で満たされているはずなのに、そんな欲が首をもたげる。ただなんとなく予感めいたものもあって、黙って足をぶらつかせた。
ああ、ほら
――
待つこと十分程度だろうか。サンダルフォンはトレイの上に注文したドリップバッグとともにマグカップを乗せて戻ってきた。やわこい湯気がゆらゆらと揺れている。おそらく淹れてくれたブレンドはグランにとっての〝いつもの〟だった。砂糖もミルクも入れなくとも、どこか奥行きのある甘さを感じられる一杯。
「待たせたな」
「ううん、ありがとう」
マグカップを口元に運び、香りをめいっぱい堪能してから一口。やっぱりそう、いつものやつだ。ほんのり甘くて、酸味は少ない。だからと言って苦味が強いわけでもないちょうどいいバランス感。たまに違うブレンドも飲ませてもらっているが、結局これに戻ってきてしまう程度にはお気に入りだった。
「こちらにも同じものを入れている。とはいえ、淹れ方で味も変わるものだから同じ味は保証しないが」
「そうだよねえ。これを渡す相手、あんまり上手じゃないかもしれないんだけど
……
ねえ、なんか淹れるときのコツとかメモしてくれたりしない?」
顔の前で手を合わせて首を傾げてねだってみると、なぜかため息を返された。
「ドリップバッグでの淹れ方は慣れていないから、普通のコツを書くだけだぞ」
「うん、それで十分。ありがとう」
言うとサンダルフォンは再び奥に引っ込んだ。耳を澄ますと、微かにペンの走る音が聞こえる。心地のいい時間だ。たっぷりのコーヒーの香りに包まれた静けさの空気が、優しく肌に触れている。誰に急かされることもなく、何に焦る必要もない穏やかな休息。呼吸がしやすくて、肩の力が自然と抜ける。自分以外に客がいないことも相まって、まるで特別な時間を過ごしているような贅沢な気持ちにもさせられた。
ちょうどマグが空っぽになると同時、サンダルフォンが戻ってきた。そっと、紙を差し出される。びっしりと刻まれた文字は丁寧にコーヒーの淹れ方を一から解説していて、いっそ自分が欲しくなった。せっかくだし、複写しておこう。そうしたら、自分でも、自分を、誰かを納得させられる一杯を淹れられるかもしれない。
「十分か?」
「十分すぎるよ。ありがとう、助かった」
準備はできた。あとは、鳩に手紙とこれを預けるだけだ。サンダルフォンにはまたね、と言い置いて小走りに自室に戻る。出迎えた鳩はいよいよ出番かと翼を広げてみせた。
手紙の封は閉じてしまっていたので、サンダルフォンのメモの裏に〝コーヒーのおいしい淹れ方〟と書き添えてドリップバッグにクリップで留める。ふと、果たしてドリップバッグの使い方を知らないなんてことはないだろうかと不安になる。
「いやさすがに
……
?」
念のため、使い方のイラストでもルナールあたりからもらってきたほうがいいだろうか。体感三分悩んだ末にやめにした。きっと大丈夫、いくらなんでも、大丈夫。
鳩の胸元のポーチを開け、先にドリップバッグ、続いて手紙を押し込む。異次元と繋がっているんじゃないかと思わされる容量のポーチには毎回驚かされるが、カリオストロの作ったものだと思うと何も不思議に感じないのだからいっそ恐ろしい。
「それじゃ、いってらっしゃい」
見送りの言葉を渡して、窓を開けると、鳩は一つ礼をして飛び立っていった。あっという間に小さくなって雲間に消えるその姿を完全に見失ってから、窓を閉める刹那に胸に寂寥が引かれた気がした。気のせいだと誤魔化してベッドに飛び込む。
「ねむたい」
紅茶もコーヒーも飲んだのに、どうして額のあたりに睡魔がどっかり腰掛けている。時計を見やると、時刻はそろそろ昼を回ろうとしていた。昼食の時間だ。今日のランチはなんだろう。気になるのに、徐々に目蓋が落ちてくる。だめだと思えば思うほど、抗いがたい睡眠の誘惑が全身にまとわりついて体を重たくした。
「少しだけ、少しだけ
――
」
誰も聞かない言い訳を、うわごとみたいに繰り返しながら、眠りに落ちる瞬間は多幸。昨夜、まともに眠れなかったツケを、ここで払ってしまおう。誰かが、起こしに来てくれたら嬉しい。昼食だぞ、とそれこそ帰ってきた親友の顔を、目覚めの最初に見られたら嬉しくてたまらない。
願いは虚しく、目を開けると二時を過ぎていた。どうやらビィはみんなとで昼食を済ませてしまったと思われる。残念だ。ゆるゆると起き出して食堂に行くと、もうランチは終わったとすげなく告げられた。仕方なしとぼとぼと、厨房に向かう。後片付けも終わったらしい様子で談笑する団員に断りを入れて冷蔵庫を開ける。
卵があった。トマトもあった。ハムに、チーズに、それからバター。使っていいか確認してから、エプロンを掛ける。ボウルに卵を割り入れてよく溶きほぐし、牛乳を少々。塩と胡椒で味を整えてから、トマトをどうするか。小さく切って、ボウルに入れた。ハムも、チーズも全部入れてしまう。パンはあるかと訊ねると、冷凍しているものが残っていると教えてくれた。
フライパンを熱し、バターをひとかけ。溶けたら卵液を流し入れ大きな気泡を潰す。形を整えるのは面倒なのでそのまま適当に巻いてしまい、皿に盛り付ける。多めのケチャップで落書きして、そのままのフライパンにもう一度バター。冷凍パンもそこで焼いてしまう。
「あげないよ?」
途中、談笑していた者たちが何度も覗きにくるものだから落ち着かなかったが無事完成したオムレツとトーストを、その場で立って食べてしまう。いただきます、声は小さく、最初の一口は大きめに。
とろとろの卵に溶けたチーズとトマトの酸味が心地いい。すかさずトーストを齧って、そう言えばミルクを忘れていたと慌ててマグに注ぐ。スープもあれば完璧に思われたが、今日はこのくらいがちょうどいい。するするとスプーンを動かしてあっという間に完食し、ごちそうさままでその間いっそ五分。
使ったものを綺麗に洗い、ついでに忘れていたティーポットとカップも洗ってから、厨房を後にする。思い通りにはいかなかったが、満たされる昼食だった。
「今度あの人が帰ってきたときも、また一緒に何か作ろうかな」
うん、それがいい。そうしよう。彼と一緒に何かをするとなると稽古だなんだとあまりゆっくりできないことも多いから、料理をするくらいのゆるやかな時間は先に計画しておくに限る。ああ、他には何をしようか。何ができるだろうか。依頼もある、彼には彼なりの用事もあるだろう、お互い、同じ艇に乗っていても暇しているばかりではないのだ。時間は常に、限られている。
これまでは、それほど気にしなくてもよかった。時間が合えば、程度で十分だった。けれどいまは、せっかくならと欲が出る。できる限り一緒に過ごしたいし、できる限り彼との思い出を積み上げてみたい。ああ、これも欲だ。どんどん自分が欲張りになっていくような不安と焦燥が足元から駆け上がってきて、思わず身震いした。
大丈夫、だろうか。これは、許されるのだろうか。いまのいままで持つことのなかった感情はいっそ怖くていけなかった。カリオストロに相談したら、やっぱり鼻で笑われるだろう。彼はきっと言う、もっと欲張れと。けれどグランは、欲張り方が、いまいち、ピンとこない。
妙に息が苦しくなる。
「諦めるのは、得意なんだけどな」
そう、願っても届かないものを、手放すことには慣れていた。届くと信じたものは意地でも掴み取りにいけるのに、どうして、一度もう手にできないと思ってしまうと諦めが瞬きにやってくる。これはきっと、誰にも知られていない秘密だった。
「本当に、欲張りになっていいのかな」
気づくと、彼の部屋の前だった。自室に向かっていたはずなのに、無意識というやつはずいぶんなことをしてくれる。部屋主のいないそこに、鍵は掛けられていないことを、グランはよく知っていた。このあいだも、蹴りぐるみを置きに入らせてもらったばかりである。たまの風通しも、いつも、グランがやっている。掃除は、行き届いていないかもしれないが。
「でも流石に用もないのに入るのはだめだよね」
ドアノブに手が伸び掛けて、一旦引っ込める。用はないのだから、立ち去るのが筋だ。だのに足は地面に縫い止められたみたいに動かない。このままでは、団員に見咎められてしまうというのに。動け、動けといくら念じても足は動かないまま、時間ばかりが過ぎていく。
体感十五分。実際はおそらく三分。何かに向けて観念して、その扉に手をかける。開けた部屋は、蹴りぐるみを置きにきたときから何も変わらず、窓から差し込む光に埃がきらきらと反射していた。
「なんにもないね」
無遠慮に、ベッドに腰掛ける。自室のものと変わらない、少し硬くて、冷たい感触。パリッとしたシーツは部屋主が艇を降りてすぐに取り替えてから、きっと誰も横になっていなかった。
「もっと私物置いてくれてたらいいのに」
この部屋は、彼のものなのだから。ないわけではない細々とした私物の一つ一つを指折り数えて、けれどその儚さにふたたびの不安と焦燥。いつでも、彼の痕跡はこの艇から消えてしまうのだと、まざまざと突きつけられるようで、何やら泣きたくなった。
「大事なものの一つでも、残してくれないかな」
なんとなく、それはできないことを理解していた。彼の大事なものは〝物〟ではないから。
「ここを、帰る場所にしてくれたらいいのに」
胸の内が濁る気配がした。これはいけない。こういう願いは、気持ちが悪い。わがままを通り越して、あまりにも傲慢だ。忘れよう。なかったことにしよう。幸いにもこの場所には、誰も、いないから。
「会いたいな」
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