雨である。やわらかく、あたたかいように錯覚させられる穏やかな霧雨である。やんわりと差し込む光に雨粒がキラキラと反射して眩しい。これならば、すぐにでも止むことだろう。残念なような気もしたが、いつまでも降られて体温を奪われてはかなわない。今日泊まる予定の村までは、まだ随分と歩かなければならなかった。
ふと、花が目についた。小さな花だ。たった一輪、岩の隙間から顔を出し、懸命に太陽に向かって背を伸ばす濃い空色の花だった。夏の空を思わせるそれは、小さいながらに力強く、生命力に満ち満ちていて、誰かを思い出させるには十分だった。
摘み取ってしまうにはあまりにも惜しい。この光景を切り取って、記録ができたらよかったのに。願っても仕方のない望みが、ぐるぐると渦を巻く。絵心の一つでも磨いておいたらよかっただろうか。夢想したところであいにくと、そういったことは得意ではなかった。けれど次にあの艇に乗ったら、誰かに教えを乞うてみてもいいのかもしれない。あの艇であればきっとそういったことを得意とする人物が一人、二人と言わず乗っているはずだった。
未来を考えるのは、とても、楽しい。戦うことばかりだった、今日を生き抜くことばかりだった頃からは、考えられない空想の時間は、自身が穏やかな場所に身を置けるようになった証明のようで、どこかくすぐったさを覚えた。もちろん、常にそればかりではいられないのだけれど。いまだけ、いまくらい、きっと許される。
ああ、次に艇に乗れるのはいつになるだろう。どこかの街で、偶然にでも会えたらと、願ってみてもしようがない。やるべきことは、山積みなのだ。
「一度休憩するか」
雨が上がるのを待って、木陰にどっと腰を下ろす。携帯していた栄養食を食んで、あたりまえのようなその味気なさにがっかりし、水で流し込む。
鳥が鳴いていた。近くで、獣の気配も感じる。このまま天気はしばらく保つだろう。もう一口、栄養食を噛んでみる。やっぱり、味気ない。別にこれが、携帯用の栄養保存食であることだけが、理由でないことはなんとなく理解できた。
たとえばここに、誰かが、あの子がいれば、このまずい食事だって、多少色がつく。もさもさと粉っぽいだけのものが、ほんのりと甘くなる。それをすでに、彼はよく知っていた。いやというほど、自覚していた。
だって、そう、好きなのだ。あの子と囲む食卓が、あの子と一緒にいる時間が、あの子のことが、愛おしくて愛おしくて身動きがとれなくなるほどに、本当なら、一秒でも長く一緒にいたいと願うほどに、そう、呆れるほどに、好きなのだ。好きで、好きで、愛おしくて、たまらなく、もどかしい。ずっと、ずっと、いっそのこと苛立たしい。そのくらい、たまらないのだ。
深呼吸、一つ。落ち着いて、携帯食を食べ切ってしまう。もう一回、深呼吸。ここで感情を暴走させたところであの子はいないし、しばらくあの子の顔を見ることはないし、一旦すべて傍に置いたほうがいい。勝手に欲を膨らませていいことなどないのだ。期待できるのは一つだけ、昨日送った手紙の返事が届くことだ。
鳩の飛行スピードがどんなものか、艇との距離がどの程度か、あの子が返事を書くまでにどのくらい時間をかけるのか、何一つ読めない。読めないから、楽しみで仕方がない。だって、あの子は必ず返事をくれる。これは信頼であり確信であった。だから、次にあの鳩の顔を見るのが、いつになっても構わなかった。待っている時間も愛おしかった。そう、それは、きっと、幸福なことであった。すべて、安心と呼ぶにふさわしかった。
この安心を抱けることが、どれほど喜ばしいことであるかなど、きっと他の、誰にも、理解はされない。理解される必要もない。自分だけが抱いて、自分だけが大切にして、自分の中だけで完結していれば、それでいいのだ。
「さて……」
立ち上がる。土埃を払って、荷を担ぎ、太陽の位置を確認する。陽が落ちるまでには、まだたっぷりと猶予がありそうだった。これなら、明るいうちに目的の村まで辿り着けることだろう。順調である。
先ほどまでの雨で滑りやすくなっている地面を慎重に素早く踏んで先を急ぐ。ぬかるみは恐ろしくない。毒のある植物の棘も、体長一メートルを優に超えているヘビも、幻覚作用のある胞子を飛ばす魔物も、何一つ、脅威とするには穏やかだ。足を止めずと、何の問題もない。
綺麗に繋がったヘビの皮でもあれば、手紙に添えるのに面白いかもしれないと、思ったことだけひっそりと胸に秘める。
最初の手紙は、最初であるからと少し味気のないものになってしまった自覚があった。本当なら花の一つでも添えてみたかったのだが、やはり到着までの時間が難点である。到着する頃にしおれてしまっていては困る。綺麗だと思ったものは、綺麗なまま渡してやりたかった。
「押し花、か……」
おもむろに。足を止める。目的の村まではもうすぐそこだったが、止めないわけにはいかない。思いついてしまったそれを実行するために辺りを見回して、手頃な花を摘んでみた。
「確か重しをして水分を抜くんだったか」
重し、重し、か。本のようなものを使うのが一般的なのだろうが、あいにくと荷物になるので持ち歩いていなかった。暇を潰すようなものを、必要としない性格が災いした瞬間だった。摘み取ってしまった紫色の小さな命が、手の中でこの瞬間もじわじわと枯れていこうとしていることを、彼はよく理解していた。ひとまず懐紙に包んでしまい、先を急ぐ。
村に、何か重しのかわりになりそうなものはあるだろうか。本を求めることは難しいだろうから、何か代わりになるアイデアのようなものを得られるだけでも僥倖である。いささか考えなしに行動しすぎたことに後悔を滲ませながら、足取りは軽かった。
艇に戻る折に、花を持って行っていた。その花を、あの子が大切にしてくれていることを知っていた。
最初はただの気まぐれだった。咲いていたそれがなんとなく気になって、摘み取って、渡してみたら大層喜ばれて、ついでに話のネタになった。ただそれだけのことだった。ただそれだけのことに、思わず執着した。執着して、それからは毎回花を持って帰るようになった。そのすべてを、あの子が押し花にしていることを知ったのは、つい最近のことである。綺麗にラミネートされているそれが、抽斗の中に収められているのを偶然、見てしまったのだ。あの無防備な様子から察するに、隠しているわけではないのだろう。ただ、積極的に誰かに話している様子もなかったので、当然に、今度一緒に作ってみたいなどとは言えなかった。まったく、臆病である。
仕方がない。しようがない。臆病にもなるものだ。何もかもが手探りで、何もかもが初めてで、何もかもが未知なのだ。そのくせ失敗しても、成功しても、ちょっとしたことで関係性が変わってしまうことだけはよく理解できていた。慎重に慎重を重ねて、石の橋を叩いて叩いて、いっそ叩き壊してでも、安全に進みたいと思ってしまうのが、人間らしさというものだろう。
そう、人間らしさ。生きるか死ぬかの前で停滞はあまりにも危険であると理解している己が、それでも停滞を選びたがるとは、思ってもみなかった。明日を確約できるほど、自身の生は平穏なものではないはずなのに。あの子の隣にいると、あの子を思っていると、必ず明日が来ると思わされる。むしろ、明日が来ないことをあの子は許さないだろうと理解する。あの子はどんなときでも必ず、明日を掴み取るし、それを放棄することを絶対に許しはしない。そういう子だ。そういうところに救われて、そういうところを愛したのだ。
いつ、終わってもいい、などと、思うことはこれまでだってなかったが、無茶をして投げ出そうとも、しなくなった。
大切なものは両の手では足りないほどに増えた。抱えていては進みづらいが、それが何より心地よかった。どれ一つとして取りこぼしたくはないと、願える自身は誇らしかった。こんな歳になってよくもまあ、ずいぶんなことである。とはいえ、あの艇に乗っている年嵩の者たちからしてみれば、まだまだ自分も青臭い小僧でしかないことも、彼はよく知っていた。いやむしろ、ジークフリートという男は、もしかしたら、あの艇の幼子たちより人としての感覚が鈍いときがあるかもしれなかった。
たとえば他者の心の機微を感じ取るような、相手を思いやるからこそ、本当のことを言わないでおく優しさのような、そういうものは、いまだに苦手だ。特に自分に向けられている感情を推し量ることに関しては、敵意と悪意以外はよく、わからない。わからないからといって逃げを打っているつもりはないものの、どうしたらわかるようになるのかは、一向に見えてこないままだった。
きっとあの子は、相手の気持ちなんて察したって仕方がないと言うかもしれない。だってそれが正解とは限らないのだから。きちんと話をして、きちんと相手の口から聞くことが大切だよと、笑う顔はすんなりと想像ができた。
「話、話か……」
いま、彼の手元にある手段は手紙だけだった。手紙のじれったさは許容できるが、形に残るというのが、どうにも気になってしまう。何かを訊ねれば、何か確信に踏み込めば、それが証文のように残り続ける。それはなんとも、脅迫めいてはいないだろうか。気にしすぎと言われればその通りだろう。だがどうにも、気にしてしまうことをやめられない。
あの子の重荷に、なりたくないのだ。あの子の望まないことは、したくないのだ。あの子のためにならないことも、避けたいのだ。そうなると、自身の想いはあまりにもあの子にとって害悪のように思われて、ぎりぎりと胸が軋んだ。わかっている。理解している。この想いを遂げることは、すなわちあの子の未来の可能性を摘み取ることになりかねないと。万が一にも思いの通じ合う未来を手にしたとして、あの子の未来のためにとそれを手放せる自信が、彼の中にはなかった。ないからこそ、恐ろしかった。未来のある子どもの、選択肢を狭めてしまうのが自分になることが、怖くてたまらなかった。
それは、おとなとしての正しさだった。だが、個人としては果たして正しさだけではいられない。相反し、拮抗する思考はぶつかり合っていつも決着がつかないまま当たり障りのない停滞に行き当たる。何も進まず、何も変わらず、ただ、いまを享受する。それは、きっと、間違ってはいない。けれど、正解でもない。
変化とは、痛みを伴って訪れる。現状を大きく変えることは、そう易いことではない。それくらいずっと、理解している。ずっと、思考している。そして答えは、とうに出ていた。正しさではなく望ましさを軸にしたときに、それ以外にはありえないという答えは、ずっと以前からはっきりとしていた。
はっきりしすぎているからこそ、いけないのだ。その通りに行動してしまうことは、何もかもを破壊するのと同じことだった。
正しさとは、どこにあるのだろう。世界は、人は、正しさだけでは回らないことは知っているが、どうしても探してしまう。ある〝べき〟形を、求めようとしてしまう。そんなものは結局まやかしで、何にもならないというのに。そんなものに従える段階は、とうに過ぎ去ってしまっているというのに。
あとは結局、己が決心して動くだけなのだ。すべてを壊して、すべてを喪う覚悟で持って、前に進むだけなのだ。それだけ、なのだ。
それができないから、こうして滞ってわだかまり、くすぶって、息を詰めている。苦しくて、痛くて、たまらず嗚咽したくなるほどに、想いは膨れ上がっている。それはとても、危険なことだった。理性という手綱を、決して千切らないことは、やはり容易ではないのである。
「同じ破壊でも、不本意なそれは起こってはいけない」
呟くと同時に、視界が開けた。目的の村である。小ぢんまりとして民家以外に何もなさそうなこの村には、以前にも訪れたことがあった。一夜の宿を求めて、村長の家に赴くと、覚えていてくれたらしく、えらく歓迎される。この村を訪れた際にやったことといえば、ただ魔物を退治したくらいのものだったが、村の住民にとってみればそれは重大なことだったらしい。大袈裟な歓待を受けそうになって、慌てて断ってから、やっと腰を落ち着けた。
懐紙に包んでおいた花は、わずかに萎れていた。とりあえず活けてやって、あれこれと考えるのは後に回すことにする。
そもそもこの村はあくまで通過点だった。目的はこの先の山の奥にある。何でも最近、このあたりでは見かけないような魔物が出たとか、出ないとか。曖昧な話がまことしやかに流れており、聞けば村の住民の中にも噂として知っている者が多くいた。
その魔物は夜間に活動するらしいこと。ばったり遭遇しても襲ってくることはないらしいこと。けれどそもそも村では実物を見た者がいないこと。村を訪れた商人もやはり噂だけで姿は見ていないこと。一つ一つの情報は些細なもので、何やら魔物の実在すら疑わせる部分はあるものの、少しでも得ておくに越したことはない。
「あんたが調べてくれるなら安心だな」
村人たちは口を揃えてそう言った。その信頼に応えられる自分でありたいと、彼は素直に感じていた。
夕食は、久しぶりにあたたかさのあふれる食卓についた。素朴だが食べる人を思った心を感じられる一品、一品を大切に味わい、さらにはなんと甘味までもらってしまう。過度なもてなしは断ったから、せめて、ということらしかった。ありがたくいただいて、名残惜しく借りた部屋に戻る。集めた情報を整理した上で、就寝は早めに。というところで、放っていた花と目があった。忘れていた。押し花にしようと思っていたのに。何かいいアイデアはないか相談しようと、考えていたのに。夜はまだ更けてはいないが、わざわざこのためだけに部屋を出て村人に声をかけるのも気が引けた。
どうした、ものだろう。このまま持ち歩くわけにもいかない。いっそここに置いていってしまおうか。いやしかし、あの子のために摘み取ったものだ。できればあの子の手に渡ってほしい。
ふと、ノックが聞こえた。戸を開けると、背の低い村長が立っていた。
「これなら、旅の邪魔にもなりますまい」
そう言って手渡されたのは、厚みはあるが小さな一冊の本だった。どうして? 問いかけようとしたが、村長の笑顔の前になぜか唇は違う音を発していた。
「かたじけない」
まるで、魔法にでもかけられたようだった。ほっほっと笑う村長はそのまま背を向けて去っていく。変な御仁だと、口にはしなかった。
渡された本は子ども向けに挿絵が多く載せられた冒険譚のようで、どうせなら道中ついでに読んでみるのも悪くない。そんなことを思いながら、そっと花についた水を拭い、懐紙で包んで本に挟めた。次の手紙までに、間に合うかは、ちょっとわからない。ただ、出来上がりを楽しみに待てるのは、単純に嬉しかった。
そっと丁寧に本をしまい、少し早いが床に着く。眠りはすぐに訪れ、早朝、まだ明けきらない夜の端をなぞるように目を覚ます。誰にも気づかれないように、息を殺して支度をし、静かに出発したつもりだったが、村長が当然の顔をして見送ってくれた。
「なんだったんだろうな……」
思わずもれた呟きを、拾う者はないまま、足早に森へと分け入り、山を登る。
鳩はまだ戻らない。気にしすぎもいいところだが、気にせずにはいられなかった。これから先、未知との遭遇が待っているのだから気を引き締めなければならないというのに、鳥の羽音が聞こえるたびに、どうしたって意識が逸れる。もっとよく、あの鳩の観察をしておくべきだった。聞き間違えようがないくらい、あの翼の音を聞いておくべきだった。そうしたら、ここまでヤキモキする必要もなかった。後悔はいつだって、後から追いかけてくるから後悔だった。
山は想像よりも険しさはなく、獣道をかき分ければ登るのは容易い。それゆえに、妙な違和感があった。そもそも、獣の姿が見られない。そして同様に、魔物の気配もない。それは、噂の信憑性が高まっていることの証左だ。根も葉もなければと、願わなかったわけではないのだが、火のないところにとも、言うものである。気を引き締めるために一度足を止め、水分を摂った。
風はゆるく吹き、日差しもやわらかい。何か起こるにしてはあまりにも穏やかで心地のいい陽気だった。抜こうと思えばいくらでも気を抜いてしまって、その平穏に身を委ねたくなる。しかしどうにも、穏やかであればあるほど違和感は膨らみ、奇妙なおぞましさのようなものが腹の底から上がってくる。
この場所に、いたくない。いてはいけないと本能が告げるような気色の悪さにめまいがするようだった。
水をしまいこみ、いよいよとばかりに足を進める。この先だ。この先に何かあることは確実だ。予感はそのまま事実となり、数十メートル進んだところで、ぽっかりと洞穴が口を開けていた。中から、微かに声がする。錆鉄のにおいがして、続くように腐敗臭が鼻を刺した。なるほど手負いであるらしい。殺気立つ気配にこちらの存在を気取られたことを悟りながら、思考素早く。怪我を負った生き物など、平常なら他の生き物に襲われてすでに絶命していてもおかしくはないはずだ。だのに、いまもなお、おそらく傷を腐らせながらも生きているということは、それなりの〝何か〟があるはずだった。
何がある? 何が考えられる? 中の生き物は動こうとはしない。こちらの力量を推し量っているのか、あるいは相当に深い傷を負っているのか。両方であるように思われた。
「どうしたものか」
この腐敗臭から察するに、放っておいてもいずれ命は喪われる可能性が高いと考えられる。だが、万が一にも回復した場合のことを考慮すると、ここで対処をしておいたほうが予後はいいだろう。もしあの村に被害が及ぶようなことがあっては、あまりにも寝覚めが悪かった。
できれば洞穴からおびき出したいところではあるものの、そううまくはいかないだろう。穴の中の構造は、おおむね予想がつくとはいえ、下手なことをして取り逃すことは避けたい。幸い身をかがめれば入れなくもない大きさで、戦うには不便だろうが小さな武器であれば問題なく振るえる自信はあった。
入ってくるな、入ってきた者はすべて殺すとばかりの雰囲気をのみ込んで、洞穴に足を踏み入れる。むせかえるほどの腐臭が増した。自身の息遣いが鮮明になり、なにものかの荒い呼吸もよく耳に入ってきた。じわじわと距離がつまる。短剣を構え、進んでいくと少し開けた場所に出た。
対面である。どうやら魔物ではないようだった。もちろん星の獣でもない。だがどこか、他のそれとは違う空気を纏っている。その印象は、神々しいが一番近しいようで、瀕死の体でありながら、その気品はわずかばかりも損なわれていなかった。あまりの気高さにこちらが気圧されてしまうほどに、金の両眼は真っ直ぐにこちらを見据えていた。
深傷を負い、腐敗した右前脚が、力なくだらりと垂れ下がっている。それでも獣は立ち上がり、こちらを明確に威嚇した。はっきりとした敵意と殺気があたりに満ちる。ああ、このまま殺してしまうにはあまりにも惜しいと、思わずにはいられなかった。これほどに誇り高い生き物が、果たしてここから回復したとして、むやみやたらに弱いものに襲いかかるかといえばそんなことはないだろう。
どうするべきか、答えはすぐに出た。短剣を懐にしまい、害意がないことを示すためにどっかりとその場に腰を下ろす。向こうもわざわざ敵意のないものに襲いかかるほどの余裕はないことは明白であったからこそ、できたことだった。そのまま警戒は怠らず、荷の中から薬を取り出した。
「さてどうしたものか。脚は落としてしまったほうがいいだろうが」
呟くと獣はそれを理解したように毛を逆立てた。明らかな拒絶に思わず笑ってしまう。しかしながら、奇跡でも使えないかぎり、その右脚が治ることはないことだろう。それならば、腐敗の毒が身体を侵す前に、落としてしまったほうが、命が助かる可能性は格段に跳ね上がるはずである。
薬と、もう一度取り出した短剣と、もろもろ手当ての道具を並べて見つめ合う。治療の意は、汲んでくれているように感じられる。が、いかんせんそれを受け入れる用意はない様子だ。
いいだろう。根比べは得意である。とはいえ、急いだほうがいいのは確かで、最終手段制圧することも視野に入れながら、とにかく一旦交渉の構えを取る。言葉はいらない。互いの間には建前などない、剥き出しの真実だけが必要だった。選択の権利は、現在、あちら側に委ねられている。こちらにできることは、ただ待つだけだ。
目を逸らしてはいけない。瞬き一つ気を遣い、呼吸すらも神経を尖らせる。隙を見せたらその時点で何もかもが水泡となり、悲しいかな強硬手段に出るしかなくなることだろう。可能であれば、それは避けたい。もしかするとあの子なら、もっとうまくやるのかもしれないなどと、思考に余裕がある時点で、この交渉は勝ち筋が見えていた。
そう、あの子なら、時間をかけることもなく、するりと相手の懐に入り込み、すぐにでも治療を終えているはずだ。あの子にはそれだけの力があって、底なしのやさしさがあって、素直さがある。自分にはないものを、たくさん持っている。だから、誰もがあの子には心を許してしまう。それは、きっと、獣でも同じことだった。もしかしたらそう、あの子〝たち〟というべきかもしれないが。
日の入りまでは、待ってみよう。額の汗を拭うこともせずじっと耐える。ここは静かだった。互いの息遣いだけが、明瞭に響くだけで、あとはなんの音もない。風の通りも悪いようで、澱んだ空気は徐々に酸素が薄くなるように重たく肩にのしかかった。
逃げられない。逃がさない。一分一秒が永遠のように長く思われて、気力はじりじり減っていく。先にジリ貧になるのはあちらであることはわかっていても、どうにも、負けてくれるなと思ってしまう自分もいた。そのくらい、その獣は美しく、ぼろぼろの立ち姿すら神秘を宿しているようだった。
細く長く息を吐く。顎を伝った汗が膝に落ち、鎧を流れて地面にしみを作る。暑いのか、寒いのか、感覚がにぶってくる。握った拳の中にも汗が溜まり、これ以上ないほど不快だった。だが、手を開くことも憚られた。動くことそれ一つで、何かに亀裂が入って戻れなくなってしまうと確信があった。そうなれば、あとはもう、望まぬ先の未来しかない。
もう一度、長く、長く息を吐く。獣がふらつくのが見てとれた。そう、本来なら、立っているのがやっとなのだ。それでも、決して折れない。あまりにも誇り高い生き物だった。人の施しなど、本当は不要なのだろう。自らの死すらも受け入れて、この場所に辿り着いたのだとしたら、助けたいと願う己はあまりにも身勝手で、傲慢ですらあった。それでも、と、エゴをぶつけていい相手でも、本当は、ないのだろう。
しかしここで、気持ちで負けてはいけない。救いたいと願ったのなら、最後までそれを貫くくらいのことはしたい。それがもはやこの場における最大の敬意であると信じるしかない。信じ抜いた先に、何が待ち受けていても、それを受け入れるしかない。覚悟は、とっくにできているのだ。
どれほど時が過ぎただろうか。おそらく体感ほどの経過はしていないことは理解する。先に動いたのは獣のほうだった。こちらを見据えていた目を伏せて、ゆっくりと身体を伏せる。右前脚は投げ出され、暗に好きにしろというメッセージを受け取る。
やっと、こちらもしっかりと息が吸えた。瞬きを数回して汗を拭う。さて、手早く処置を始めなければ。短剣を手に取り、右前脚に触れた。すでに感覚は喪われているようで、不快そうな顔で一瞥されるにとどまる。どこまでが腐っていて、どこまでが正常な状態なのか慎重に確認し、一度獣と目を合わせ、一息に落とす。麻酔薬などという上等なものはなかったが、獣は悲鳴の一つも上げなかった。ただ、変わらずこちらを見つめていた。
手早く縫い、消毒を施して包帯は巻かない。その他大小いくつかの傷に同じように消毒を施して最後に丸薬を飲ませる。大概に拒否されたがそこは無理やり口に押し込めた。
「終わりだ」
告げると、獣は一瞬しかめ面をして立ち上がった。その姿は、先ほどまでと違ってしっかりと力強く地面を踏み締め、命の輝きを放っていた。もう、死にかけている弱々しさの中で最後の炎を燃やすような苛烈さは抜けている。予断を許す状況ではないことに変わりはないのだが、もう大丈夫だと思わせるに相応しい様子にほっと安堵する。
治療道具を片付け、短剣は丁寧に拭き上げて、そのまま彼は獣に背を向けた。
きっと、どこへなりと自由に旅立つだろう。そうすれば、この山にも平穏が戻るはずだ。何の懸念もない。
声がした。獣が鳴いたらしいと気づき振り返る。数秒の静寂。誇りを忘れぬ生き物は、うやうやしく礼をすると、まもなく憮然とした態度に戻って早く出ていけとばかりに鼻を鳴らした。
「またどこかで」
もう二度と、会うことはない予感があった。それでも願うように口にしていた。言葉にすることで叶う願いもあるかもしれない。願いは自由であるからこそ、口に出すことには価値があった。
洞穴を出る。太陽の眩しさが懐かしく思われたが、その位置から見るに、やはり思った以上に時間は過ぎていなかった。体感時間との差が大き過ぎて、脳の処理に若干の違和感があったが、すぐにでも取り戻せるので問題はない。
さて、これからどうしたことだろう。目的は、果たした。ここでの急ぎの用件は、いまのところ他に抱えていない。一度、城に顔を出しておいておくのが得策か。そこで、鳩が来てくれたら落ち着いて返事を書けるので大変喜ばしい。
そうと決まれば歩みは早かった。港に向けて感覚を頼りに進んでいく。ああそうだ、あの村をもう一度通る道を選んで、噂の元はもう問題ないことだけは報告しておこう。いつまでも不安を抱えて生活するのは、負担が大きいはずだ。自分が安心を与えられるのなら、それに越したことはない。
急ぎ足で村に到着すると、やはり過度な歓待を受けそうになるので今日はすぐにでも出発することを伝え、村長と少しだけ話をする。獣のことを、どうやら彼は詳細に知っている様子だったが、深くは訊ねなかった。訊ねることを、やんわりと拒絶されていた。理由は、なんとなく理解できた。
少しだけ食料のお土産を分けてもらい、先を急ぐ。うまくいけば、今日中に艇に乗れる可能性があった。酸味のある果実を齧りながら、半分走るように先を急ぎ、陽が西に傾ぎ始めたあたりで一度しっかりとした休息。急ぎたいことこの上なかったが、無理をすることは得策ではない。疲労は怪我の元だ。いらない負傷は可能な限り避けるべきである。
「間に合わなかったか」
朱い、朱い夕暮れがほとんど西に消えかかる頃、ちょうど最後の便が空に飛び立つのを見送って、港に到着した。仕様がない。
近くの宿屋に入ると雑魚寝であれば空いているとのことだったので了承し、食事処を探す。宿の近くは混んでいた。少し通りから外れると、一見するとただの民家にしか見えない扉に、商い中の札が下げられており、ニンニクの強い香りが漂ってきていた。異様に食欲をそそられるそれにつられて扉を開けると、常連と思しき壮年の男性がカウンターに一人腰をかけているだけで、他に客はいない様子だった。
カウンターの内で、忙しく動き回っているハーヴィンの女性が店主だろう。突っ立っていると、好きなところ座って、と声をかけられた。
「何にする? 今日はラタトゥイユを仕込んであるけど大体何でも、言ってくれれば作れるよ」
店主は手際よくフライパンを振りながら、にっこりと微笑みかけてきた。
「おすすめは?」
思わず、聞いてみたくなってそのまま口にする。店主は数秒悩んでみせたあと、フライパンのパスタを盛り付けながら答えてくれた。
「さっき言ったラタトゥイユだろ? あとは今日だったらそれに合わせてほらこれ、ペペロンチーノ。もっとがつんとしたものが食べたいってんなら、すぐ出せるのはハンバーグかねえ」
「ではそれを全部」
「おやおや、よく食べるねえ。待ってな」
店主の小さい体が、ちょこまかとカウンター内を動き回る。それは本能に刻み込まれたであろう、計算された動きだった。何がどこにあるのか正確に把握しているからこそできるそれは、見ていてあまりに気持ちがいい。
「じゃあとりあえずこれ、お通しね」
渡された小鉢には牛のしぐれ煮が盛られていた。文字通り、こんもりと。お通しというにはいささか量を間違えていないだろうかと思いながら、一口。甘辛い味付けで、醤油の香りが鼻に抜けていく。飲み込むと同時、うまい、と素直に口からこぼれ、店主はそれをすぐさま拾い礼の一言。隣の常連も、そうだろうそうだろうと酒の回った赤ら顔でパスタを啜りながら頷いていた。
続いて運ばれてきたラタトゥイユは想定していたものと少し違った。ラタトゥイユといえばトマト、となんとなく過去に食した記憶から思っていたところに出されたそれには、トマトが入っていなかった。驚きのままに口に運ぶ。味付けはシンプルに塩のみのようで、野菜の甘さが舌にやさしい。気づけばあっという間に皿は空になり、おかわりを求めていた。
店主が笑う。こんもりと盛られたおかわりにこちらも思わず頬が緩んだ。なぜ、この店にこんなに客がいないのか不思議になったが、それを聞くのは野暮である。何に邪魔されることもなく、店主の動き回る音がはっきりと聞こえてくるこの空間はとても居心地がよかった。ならば、この平穏をわざわざこちらから崩してやる必要はない。
「はい、お先にペペロンチーノ。ハンバーグはもう少し待ってね」
外にいるときに感じていたニンニクの香りが目の前にくる。肺いっぱいに取り込むように、一度大きく息を吸い込んで、ゆっくりと吐いて、手に取ったフォークに丁寧に麺を巻きつけてから、大きめに頬張る。熱い。口の中を火傷しそうなほどの熱に襲われながら、はふはふと鼻に抜ける香りを改めて堪能し、塩と唐辛子のやはりシンプルな味を舌の上に転がす。噛み締めるほどに甘みが滲んで、それはそれは大層に気分がいい。
ああ、幸せだ。これだけでも十分満足できそうだったが、このあとにはハンバーグまで待っている。今日、艇に乗れなくてよかった。もしも艇に乗れていたら、どうせ寂しく携帯食を食べる羽目になっていたのだ。この場所に出会うこともなく、そして、この場所をあの子に教えることもできないままであったなどと、想像するとあまりにも寂しい。
「はい、お待ちどお」
言葉と同時に、お待ちかねのハンバーグがテーブルに置かれた。あつあつのじゅわじゅわ。鉄板から響く音はそれだけで耳を楽しませた。さっそく一口、の前に付け合わせのマッシュポテトを口に運ぶ。チーズが隠し味なのか、程よい塩味と吸い上げたソースのバランスが絶妙である。続けざま本命のハンバーグ。あふれた肉汁が鉄板の上でばちばちと跳ねる。食欲をそそるたっぷりの脂をはらんだ湯気が気持ちよく、最初の一口への期待で胸が躍る。逸る気持ちを抑えながら、息を吹きかけしっかりと冷ます。頬張る。じゅわり、と口いっぱいに広がる肉汁と黒胡椒のガツンとした味わいがまず最初にやってきた。
ソースは醤油ベースらしい。焦げたそれの香ばしさが鼻に抜けるたびに次の一口を求めてしまう。全て平らげるまでの時間は、そういらない。
店主はあまり無駄話をしなかった。常連とも話を振られない限り特に会話をする様子もない。それが、とても居心地をよくしていた。常連と楽しそうな店も悪くはないが、やはりどうしても場違い感を覚えずにはいられないし、あれこれ話しかけられるのも得意ではないし、こうして静かに黙々と料理と向き合える時間を楽しめるのは素直に嬉しいと感じた。
「ごちそうさま」
いつの頃からの習慣だろう。これはたぶん、ヨゼフ王に拾われてしばらく、グンターたちと食事を囲むようになってから、身につけたものだった。短いながら率直に感謝を伝えるいい言葉だと思う。こうして落ち着いて食事ができるからこそ、口にできるのだと思うと余計に感慨深くもある。
「ありがとうね」
席から立ち上がり、会計を済ませる。またどうぞの言葉は優しく、夜に溶けて胸に沁みた。
また、というのは願いだ。明日への期待だ。それを当然のように吐くためには、平穏無事であることが欠かせない。戦禍の中では、明日の命も定かでない日々の中では、それはあまりに切実なものとなり、幸福を欠いてしまう。そうならないためにも、自分には役目があった。
「さて、明日も早いのだし休むか」
呟いて間もなく宿に戻り、簡単に寝支度を済ませて横になる。周囲の気配が鬱陶しくてうまく眠れはしないものの、身体を休めるだけなら十分だ。早朝、一番の便に乗るつもりであるし、ちょうどいい。夜が明けるまで目を閉じて、じっと身体を丸めていれば、それなりに疲労は抜けてしまう。あとは白んだ空を拝んで、少し散歩でもしようじゃないか。
体感としてはあっという間に。東の空に紫の雲が引かれ、眩しい朝の日差しがカーテンも何もない窓から煌々と差し込む。この中でも眠っていられる者のいびきが高らかに響く世界で目を開ける。目覚めというには眠れていないが、新しい朝を迎える瞬間の高揚は確かに身のうちに宿っていた。
身支度をして、宿を出る。夜に冷やされた空気と朝靄が肺にやわらかく染み込んでいくような、しっとりとした朝の中を歩いてみる。物珍しい何があるわけでもない田舎の港町。静謐にこもっていまだ眠りから醒めない様子の街路を歩いているだけでも心は平坦に均された。朝というのは、とりわけ夜明けすぐの早朝は、人の気配もほとんどなく、世界に一人だけのように錯覚できて好もしい。こういうことを言うと、決まってあの子は少し遠くを見て、頷くのだ。その同意は、あの子の過ごしてきた世界の孤独を、進んできた決断の重さを、その年齢に似合わない強さを、ただただ象徴するようでどこかかなしくもあり、いとおしかった。
あの子が持っているはずの弱さを、慰められるのが自分であればいいのに。願わずにはいられないそんな傲慢を、抱いては振り払う。けれどあの子がそうしてくれたように、寄り添うくらいはさせてほしいと、やはり不遜にも想ってしまう。彼の開祖が聞いたら、鼻で笑うだろうか。あるいは怒るだろうか。怒るのは、きっと別の誰かだった。
羽音が聞こえた。見上げると、見慣れない、待ち望んだ鳩がいた。ここで、返ってくるのか。思ったよりも早かったような、それでもたっぷり待たされたような、複雑な心持ち。
手を伸ばすと、しばらくその場を旋回し、鳩は降りてきた。餌にと渡されていた銀の粒をさっそくやる。それからポーチの中に無遠慮に手を突っ込んだ。目的のものはすぐに指先に触れ、そっと掴んで取り出す。封筒には少々硬さのある字で自分と、あの子の名前。いますぐにでも開けて読みたかったが、あいにくと外である。可能であるなら、どこかで腰を落ち着けて開封したい。こんな早朝からやっている店などあるまいに、まだまだ夢見心地の街を抜け、港まで歩いてしまって、待合のベンチに腰を下ろした。
誰もいない。早朝便の準備をする声が遠く聞こえるくらいで、やはり静かなものである。ここでなら、落ち着いて手紙を開封できる。安心して読み進められる。邪魔も入らずに、どう返事を書こうかと思いを巡らせることができる。そんなことを考えていたら、鳩がやたらにつついてきた。しきりに翼でポーチを指している。どうやら、ポーチの中に忘れ物があるらしい。開けろと指示する仕草がやたらにうるさい。
「……これは」
ポーチを探り、指先に触れたそれを取り出す。小さなそれはティーバッグだった。ふれーばーどてぃーというものらしく、りんごの香りが付けられているようであるとパッケージから読み取る。ずいぶんとまあ、洒落たものをよこしてくれた。袋越しでも微かに香りがして、自然と顔が綻ぶのを感じながら、一度荷の中にしまう。
「さて……」
鳩が満足げな顔で肩の上で落ち着くのを横目に、手紙の封を切った。便箋は二枚。これは、あのとき買ったものであるはずだった。内緒、秘密という、甘美な響きを纏っていたそれとついにまみえることになるのだと思うと、妙に胸のあたりが騒がしくなってくる。わずかに指先がふるえるような錯覚のままに開いてみせて、そこに現れた模様はなんとなく抱いていた想像とは異なっていた。いや、もともとそんなに考えてはいなかったのだから、予想外も何も、ないのかもしれない。けれど、何やらいい意味で期待を裏切られたような気がして、さらに頬が緩む。
鳩が、やれやれとばかりにくるると鳴いた。
文字に、目を通していく。やはりどこか、やさしい文字だ。内容は基本的にはこちらが送ったものに対する丁寧な返事と、近況の報告がまとめられていた。その飾り気のなさと、リズム感のある文章が心地よくて、意味もなく三度読み返す。きっと意味はあった。見つけられないだけだった。
返事は、やはり落ち着いてから書きたい。ここではいけない。城についてからにしよう。王に近況や周辺の状況を報告して、ひよっこたちに稽古をつけてやって、ランスロットやヴェインを労って、それから城下の様子を確認して――やることがすべて済むまでは、何を返すか考えるだけにとどめておく。おざなりなものは、返せない。否、返したくない。可能な限り丁寧に、想いや真心が伝わるように。あの子がそうしてくれたから、自分がそうしたいから、一文字、一文字、大事にしたい。
できることならいっそ、愛の言葉の一つでも添えてみたかった。あるいは親愛の意とも取ることができるものであれば、許容されるだろうか。試しに、添えてみようか。まだ、押し花は添えられそうにないから、せめてもの気持ちを綴ってみようか。
ああ、もしかしたら――この鳩のスピードであれば生花を送っても問題ないような気もしていた。けれど、荷の中で少しずつ完成されていっている押し花を、せっかくなら渡したかった。そうしたら少しだけ、あの子が驚いてくれる気がした。
気づけば早朝便への乗り入れが始まっていた。そっと手紙をしまってから、いつの間にか集まっていた人の流れに沿って歩く。鳩を連れて入ることができるのか一瞬心配したものの、そもそも動くだけで生き物ではないので排泄の心配もないから杞憂であった。
艇が出るまであと十数分。船内の適当な場所に腰を下ろして、あらためて手紙を開くか悩み、やっぱりやめておいた。朝食にする。昨日分けてもらった酸っぱい果物の残りと、味の悪い携帯食の組み合わせは、存外にそのちぐはぐさが愉快だった。
否、いまはなんでも愉快なだけだ。
あの子も、いま頃起き出しているくらいだろうか。あの艇の朝食はいつだって絶品だ。朝食だけではない。グランサイファーではいつだって、おやつに至るまで完璧に整えられていた。団長であるあの子曰く、食はすべての基本なのだ、と。それはとても、真理だ。
「恋しいな」
次はいつ、艇に寄らせてもらおうか。つい考えてしまう。しばらくはそんな余裕もないというのに、別に食事が恋しいわけではなく、あの子がいるからというだけでもなく、あの艇はとても、居心地がよくていけない。同じ艇に乗っていても、皆が皆、同じものを見据えているわけではないのにまとまりがある。気にしはするが、過度な干渉はしない。各々が好きなことばかりしているようで、いざというときはきちんと優先順位を持って行動できる。その統率は、きっと団長であるあの子の人柄がそうさせていた。
だから、好きなのだ。あの子も、あの艇も。さみしくて、恋しくてたまらなくなるほどに、あの場所で過ごす時間はかけがえのないものだ。
鳩がくるくると喉を鳴らす。撫でてやると、嬉しそうに擦り寄ってくるからなんとなく可愛くなってくる。そうあるように作られているのだろうと、開祖殿の意図を推し量ることは簡単だが、それはあえて無視をした。たとえ制作者がそうとして作っていても、本当にそう受け取るかは使うもの次第なのだから、抱いた感情には素直であっていい。可愛らしくて好もしく思うことに、偽りはないのだから。
艇の旅は短い。調査していた島が、フェードラッヘからそう離れていなかったことに加え、この艇は高速艇である。ぐんぐんと変わる景色を眺めていてもあまり面白くはなかった。めまぐるしくていっそ疲れる。
窓の外に意識を向けるのはやめにして、目を閉じた。
「おやすみ」
眠るわけではなかったが、休むつもりで呟くと、くるると小さく声が返った。なるほど、こういう旅も悪くない。
次に目を開けたときにはフェードラッヘの港に寄っていた。居住まいを整えて艇を降り、まっすぐに城へ向かう。謁見は手短に、二、三日滞在する旨を伝えると王は穏やかに歓迎してくれた。
そのままその足で騎士団のほうに顔を出す。稽古をつけてやるのは明日として、とりあえず現状把握のために気にするなと言い置いて訓練の様子を眺めた。集中を欠いている様子はあったものの、ある程度知りたいことは把握できたので問題なかった。
ランスロットやヴェインを含む、騎士たちの残念そうな表情に若干後ろ髪を引かれながらその場を後にし、街を一回り。何度か声をかけられて、都度都度対応していたらいつの間にやら夕暮れが訪れていた。西の空に沈もうとする太陽を認めて慌てて帰路に着く。
夕食は城でいただいて、ようやく落ち着いた頃には夜もなかなか深くなっていた。ずっと放置されていた鳩が不満げな顔をして出迎えてくれる。
厨からもらってきた湯を机に置いて、あの子から贈られたティーバッグを取り出す。本当は沸きたての湯を注いだほうがいいことは、以前、あの艇の誰かから聞いていた。もしかしたら、あの子だったかもしれない。そんなことを思いつつ、若干の乱暴さのままに、紅茶を淹れる。蒸らすための蓋すら、ここにはなかった。
「悪いことをしただろうか」
鳩に問いかければ、首を傾げるだけで答えは当然もらえなかった。
そっと腰掛ける。明かりを手元に持ってきて、あの子からの手紙を改めて広げた。何度読んでも、新鮮な心地で嬉しくなる。綴られた一言一句が愛おしくて、思わず文字を指先で撫でていた。そこから何か、ぬくもりでも拾えたらよかったのに、指紋に引っかかる紙の感触はっほんのりと冷たい。
「さてなんと書いたものか」
返事を書くのは、簡単なようでやはり難しかった。書いてきてくれたことに対する言葉をそのまま返してやればいいだけといえばそうなのだろうが、それだけでは気が済まないのだから仕方がない。便箋を無駄にはできないので、なかなか手を動かせないのも、余計に思考をまとめられない要因になっていた。
ひとまずあの子の名前を書く。親愛なる――書いてみた。それは打算をはらんでいた。とはいえそんなに重たくもないはずだから、きっと大丈夫だ。愛しているとはさすがに書きはしないから、許してほしい。誰に乞うているのか、数人の顔をはっきりと思い浮かべながら、思わず笑う。
あの子はこれに、どんな反応をするだろうか。あたりまえに受け入れて、そこに特別なものは見出さないというのが妥当な線だろう。だがもし、もし少しでもこちらが期待する何かをあの子の中に抱かせることができたなら、などと、願わずにはいられない。
欲を見せるのを怖がりながら、やはり小さく発露することをやめられない。この手紙だって、そもそもの始まりは小さな欲なのだから、しようのないことだった。むしろ小さく小さく表に出していくことで、不意の爆発を避けたいという願いもあった。
「さて……」
一向に手が動かない。書きたいことが何もまとまらない。何を書いて、何を書かないでおくべきか。頭の中で整理しているつもりで、どんどん散らかしているような気さえする。
いっそ一度しっかりと眠ってから、明日の朝に回すべきだろうか。ひとまず一文目に返事をありがとうとだけ綴ってみた。するとどうだろう、なんとなく頭がすっきりするような感覚があった。流れるように、紅茶のことに触れる。それから内容の返事を書いてみて、しっくりこないままとにかく手を動かす。
あとはそう、書くべきことといえば、昨日出会ったあの獣のことだ。その異様な雰囲気をまるごと伝える表現は持ち合わせないが、それでも精一杯言葉を選んで、綴る。
気づけば枚数が増えていた。あまり多くても負担をかけてしまうから、この辺りでやめにしておかなければならない。最後にもしあの獣に会うことがあったら、などというたらればを書いてみて、気恥ずかしい気持ちになりながらそこで筆を置いた。まだ、封はしない。
「明日朝一でどうだろうか」
鳩は肯定も否定もしなかった。手紙をいつ出すのかといった選択権は、絶対的にこちらに委ねられているらしい。鳩はただ、与えられた役目を果たすだけ。雨が降ろうが、魔物が襲ってこようが、何が起きても預けられた手紙を確実に相手の元に届ける。そのためだけに作られて、そのためだけに存在している。おそらくきっと、そういうものなのだ。
忘れていた紅茶を飲み、若干の渋さに苦笑う。どうして手紙は大事にするのに、せっかくあの子がくれたものは、大事にできないのだと自分のうちから叫ばれて、ぐうの音も出ずにもう一度苦笑い。一息にカップをあおって、洗い物は明日にすることにした。
椅子から立ち、少し体をほぐしてから、寝台に横になる。ゆっくり休めるのは久々だったから、今日はよく眠れそうだった。朝一番に手紙を読み返して問題なければ鳩を放って、それから、それから。明日の予定を一通り頭に浮かべてから、意識を手放す直前、鳩に向かって小さく呟く。
「明日には、お別れだな」
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