つきりま
2026-02-04 02:14:08
20960文字
Public ジクグラ
 

竜の便り 第一話 ひとりぼっちの夜に

ジークフリートとグランが文通する話の第一話。オープニング未読の方はオープニングから読んでいただけたら嬉しいです。
朝に届く手紙はきっと心を軽くしてくれる、みたいな話。
注意:うちのグランくんはジークフリートさんを呼び捨てます。気になる方はすみません。

 暴風の夜は、嫌いだ。なんとなく心細くて、幼い気持ちにさせられる。ひとりぼっちで泣いているときの、あの息苦しさ。抜け出せない暗闇の中で、迷子になったような心許なさ。何もかも、大嫌いだ。団員の命を預かるものとして、こんなことではいけないのに、こういう夜はどうしても、誰かのあたたかさがほしくてたまらなくなる。
「ビィ……
 手を伸ばすと、穏やかに寝息を立てる親友のぬくもりが掌に伝わった。そのまま、ゆっくりと撫でてやる。落ち着く。すっと寂しさを忘れさせるように、その温度はやさしい。しばらくそうして触れていると、くすぐったそうに身じろがれた。目を覚ます様子はない。対する自分は、どうにもこのまま眠れる気がしなかった。温めたミルクか、いっそ水でもいいから、欲しくなるのは道理だろう。そっと立ち上がり、毛布を羽織って、ランタンを灯す。心許ない灯りだが、大事な相棒を起こしてしまうわけにも、他の者たちに気取られてしまうわけにもいかないので、そのまま静かに廊下へ出た。
 しんと冷える中で、ごうごうと風の音が響く。ぽっかりと口を開けた暗闇に僅かに足が竦んだが、そのまま進んで、角を折れ、もう一度まっすぐ抜けていき、開けたところで自分以外の小さな灯りを見た。
「誰――?」
 ここは、問えば答えが返る場所だ。しばらく待っていると、灯りのほうからこちらへ寄ってきて、その正体を見せてくれた。よく知った顔だ。あたりまえだ。この艇に、自分のよく知らない顔が乗っているはずもない。
……パーシヴァル」
 くっきりとした輪郭を認めて、身構えた。だって、怒られる。否、叱られる。この炎のような男は、生真面目で、正しくて、そして厳しい。こんな時間に、こんな場所に足を向けているだなんて知られたら、今すぐ部屋に戻れと言われたって言い返せない。
 彼は、ちょうどジークフリートと入れ替わるように艇に乗ってきた。今度の航路が、彼の目的と合致するからとか、なんとか、いろいろ言っていた。けれど、知っている。彼は時折こうして艇に乗って、グランや、団員のことを気にかけてくれているのである。団長として、それを気づかないわけもなく、しかし気づかないふりをしているのは、それが正解だからだった。
「こんな時間にどうしたんだ」
 存外に、優しい声がかけられて面食らって顔を上げると、パーシヴァルの顔色はほんのわずかに青白く感じられた。疲労だろうか。今回の乗船のためにそれなりに無理をしたのではないか。こちらからも駆け寄る。手を伸ばして、頬に触れる手前でやめにした。
「眠れなくて。そっちは?」
「似たようなものだ。ちょうどいい、ミルクでも温めよう」
 めずらしい、提案だった。促されるまま厨房までついていき、隣に立って様子を眺める。手際のいい手元は迷いなく、小鍋に二杯分のミルクを注ぐ。火にかけ、沸騰はさせない。白い湯気を立ち上らせながら、とぽとぽとマグに落ちる白は綺麗だった。続くように手に取られる瓶。たっぷりがいいな、とは言わなかった。言わないままで、自分の思ったよりもたっぷりの金色が加えられる様を、口角を上げて見守った。あまくて、しあわせの匂いがする。それは慈愛の匂いだ。気分よく楽しんでいたら、片方のマグにだけ追加でブランデーがひとさじ加えられた。当然、自分のほうに差し出されるのは、それでないほうで、じっと見ていたら首を振られた。残念。もう少し悪い大人なら、許してくれたかもしれないが、彼は厳格な人だった。
「どうして眠れない?」
 訊かれると難しい。難しくはないのだが、答えたくないが正解だ。自身の子どもらしいところを、誰かに、この人に、曝け出すのは嫌だった。わかっている。この艇の誰も、何より彼は特に、そういう〝子ども〟を受け入れてくれる。受け入れて、なんならそれを大切してくれる。グランが、庇護されるものである片鱗を拾って抱きしめてくれる。だから、嫌なのだ。
 自分は団長で、団員たちに対して責任があって、目指すべきものがある。そんな自分が、甘える場所は最小限でありたい。そしてそれは少なくとも、現在において彼は該当しなかった。
「なんとなく」
 ごまかしを許してくれないかもしれなかったが、詮索されても突っぱねてしまえばいいと開き直る。しばらくの沈黙はやわらかく落とされ、たっぷりとした甘みを宿したミルクを口にするにはちょうどいい具合だった。
「ごまかすな」
「いいでしょ、別に」
「よくはないだろう。お前はこれから成長期なんだからしっかりとした睡眠はきほ――
「そういうことはもっと最初に言って。もういまさら聞かないよ」
 はて、これは、子どもっぽさに含まれるのではないだろうか。首を振る。これはいい。これは弱みではないから。だから、これを見られても、これをどのように扱われても、グランは自分を自分で損なうことはない。
「言いたくないことだってあるよ」
 グランという個人としてではなく、騎空団の団長として、告げる。これは小狡いやりかただった。甘ったるい至福を、もう邪魔されたくなかったから、つい、使ってしまった。パーシヴァルもそれに気づいたのか、ため息だけでその場は収められた。
「パーシヴァルはどうして起きてたの?」
「風の音が気になってな」
「今日はちょっとすごいよね」
 会話が、上滑る。パーシヴァルは嘘はついていないだろう。だが、グランと同じで誤魔化している。ほんとうのことは何一つ、教えてくれてはいないのだ。だからどうして、うまく膨らませることも、愉快に弾ませることも難しい。眠る前の会話なのだから、もう少し頭を使わないでポンポンとおしゃべりできれば理想的なのに。どうして秘密主義はそれを許してはくれないのだ。
「そういえば……
 パーシヴァルがマグを置いた。
「あれと文通をするとか?」
「あれなんて言わないでよ。そう、ジークフリートから提案されてね、艇にいないあいだ手紙を書くから、返事が欲しいんだって」
 グランはもう一口、ミルクを飲んだ。甘い、あまい。
「あの男にそんな情緒があったとはな」
「意外でもないよ。結構ほら、道端の花とかよく摘んできてくれたし」
「それは……、傷を治すとか、熱に効くとかそういう類のものではないのか?」
「最初はそうだった気もするけど、最近は違ったよ。可愛らしかったからって摘んでくるんだ。全部押し花にしてあるから今度見せてあげるね」
 あからさまに眉根を寄せて、怪訝な様子を隠そうともしないパーシヴァルは、その顔のまま再びマグを手に取り、豪快にあおった。隣り合わせのこの距離で、喉の鳴る音がはっきりと聞こえる。
「ずいぶんと、大事にしているんだな」
「花のこと? そうだね、そうかも。なんだか枯れさせるのがやだったんだよね」
 どうしてだろう。深く考えたことがなかった。彼の摘んできた野花が、ただただ枯れていくのは何やら惜しいように思われて、ルリアと一緒に押し花にしたのだ。お洒落な団員にはドライフラワーも提案されたけれど、なんとなく押し花がしっくりきた。コレクションは全部ラミネートして、机の引き出しにしまってある。栞として実用することも、思えばしていなかったから、知っているのは必然に、ルリアとビィだけということになる。
「なんとなくか?」
「取っておいたこと? そうだね、なんとなくかな」
「そのなんとなくを、深掘りする予定は?」
「いまのところはないかな」
 どうして彼は、そんなことを訊ねるのだろう。首を傾げると頭を抱えられた。なら、いい。ぶっきらぼうに投げやりな、何かを諦めたような声の意味するところは読めなかったが、いいというのならいいのだろう。
「手紙にも、何か添えてあったら嬉しいよね。言っておけばよかったや」
 純粋にコレクションが増えるというのはそれだけで胸が躍るものだ。なんの気無しの言葉に返されたのは深めのため息と、マグの催促だった。言外に、早く飲めと言われている。
「え、急にどうしたのさ」
「どうしたもこうしたもない。眠くなったから寝るだけだ」
「でも僕もう少し――
「却下だ」
 怒りたかった。否、駄々をこねたかった。しかしどうして、有無を言わせぬ空気を纏ったパーシヴァルはそれを許してくれそうにはなかった。半分泣きたいような気持ちで残りのミルクを飲み干すと、マグをひったくられる。背は遠くなり、厨房のほうから小気味のいい音だけが静寂を小突いていた。
 まったく、なんだというのだ急に。絶対に眠くなったわけではないのであろう男の背が消えた先を恨めしく睨む。グランはもう少し起きて、彼とたわいのない話ができるのだと信じていた。裏切られた。それはひどい裏切りであった。悲しくなるには十分で、寂しさが助長されるにはいっそ過剰。この眠れぬ夜をやり過ごせるという期待は、想像以上に大きかったのだ。
 戻ってきたパーシヴァルはやはり不機嫌な顔をしていた。なぜまだいるとばかりに睨まれる。だから、睨み返す。まだ眠くないくせに、僕だってまだ眠くない。言外の言葉はこれ以上ないほど彼の元に届いていることだろう。深々とした眉間の皺が、それを物語っていた。言葉なく繰り返される、早く寝ろの指示。とはいえ、ここで引き下がるほど殊勝な性格をしていないのが、グランであった。きっとそれは、グランがまだ〝子ども〟だからではない。何年経って〝おとな〟とやらになっても、変わることは絶対にない。
 つまるところ、頑固なのだ。
「寝ろ」
「やだ」
「わがままを言うな。明日も依頼があるだろう」
「午後からだもん。朝寝すればいい」
 お互い一歩も引かない。もはや引けない。パーシヴァルもなぜそんなに意地になるのか。ここで折れるべきなのは、明らかに彼のほうだろう。だって、言動に一貫性がなさすぎる。ミルクを淹れていた頃は、きっとこの夜の長さを一緒に噛み締めてくれるという確信があったのに、何もかもが突然で、脈略もなく、不意打ちで――ああ、でも、いや?
「ジークフリートからの贈り物を大事にしてるのがそんなに嫌なの?」
 どこか的をとらえられていないことを知りながら、思うままに口にする。案の定、パーシヴァルの口からは違うの即答と、ため息が長々と吐かれた。
「無自覚が余計に事態を悪くしているな」
「何、何の話?」
「いい、お前はこれ以上気にするな。よくわかった。無自覚なのだから、仕方ない。仕方がない、が――問題はあっちだな」
「だから何が、もう! 一人で完結しないでよ!」
 思わぬ大きな声が静寂を突き破り、ハッとして口に手を当てる。もう遅い。この艇にはあらゆる類の人間が乗船している。それこそ、とても繊細な耳を持つ者も当然ながら、いるのである。
…………パーシヴァルのせいだからね」
 この後に及んでの人のせいにするのは、だいぶ格好悪かったが、引っ込みをつかなくさせたのは彼なのでそれでいい。いい、わけがない。申し訳なさと恥ずかしさで顔から火が出そうだった。涙が流せたらどれほど楽だろう。きっと起こされてしまった誰かたちは、一人たりとも怒りを向けてこないことが予想されるから余計にタチが悪かった。
「お前がそれでいいなら、そういうことにしておいてやろうか」
「うわ、うわ、ずるい。いいわけないって知ってるくせに。ずるだ、おとなのずるだ」
「ずるでもなんでもないだろう。それで、もう眠る気になったか?」
「おかげさまでぜんっぜん寝れそうにないけどね! おやすみ、パーシヴァル!」
 あくまで小声で、精一杯吐き捨てて、乱暴にランタンを取って小走りに駆け出す。一刻も早く、この場から逃げたかった。もう彼から発せられるどんな言葉も聞かないでおきたかった。いらぬ大荒れ模様の感情は、豪快にベッドに潜り込んで布団を頭から被ってもその起伏を抑えることができず、悶々と寝返りを繰り返させた。
 だから、
「まさかあいつも、無自覚ではないのだろうな」
 聞き逃したパーシヴァルの言葉が、自分にとって答えの第一歩となるものであることを、グランは知ることもなかった。知ることのないまま、気づけは遅めの朝を迎えた。朝寝というか、寝坊である。午前の予定をじわじわと繰り下げながらこなしていると、団員の何名かのいつもと違う視線がちくり、ちくりと針のように刺さっては抜けて、また刺さっては抜けていく。こんなに、起こしてしまっていたとはさすがに予想外だった。音ではなく動く気配に敏感な者もいるから、もしかしたら廊下の移動の際に起こした者も混ざっているかもしれない。
「はあ、もう……やだ……
 今日ばかりは、団長失格の不名誉な称号を自分で自分に貼り付けてやる必要がある。いっそ責めに来てほしいなどと、願うのは自分勝手だ。自省はあくまでひっそりと。予定に一つ、整頓が間に合わず使えていない倉庫の整理を追加する。一人で無心でできる作業があると、冷静になれた。荷運びの依頼をこなしたのち、誰にも気取られないように一人で倉庫に引きこもる。
 目録を作るための帳面とペンをしっかりと握り、まず一つ目の箱を開けた。グランにとっての見事なガラクタは、誰かが勝手に持ち込んだ私物のようにも見えた。保留。次の箱は、こっちの棚は、一つ、また一つと倉庫の中身が明るみになっていくうちに夢中になって、気づくと喉が渇いていた。水は持ち込んでいた。ちょっとだけクラクラしながらあおる。こまめに、なんて、わかっていたのに怠ってしまった。腰から下げるようなホルダーでも、一緒に持ってきておくべきだったかもしれない。
「これは……
 ふと、手にした箱の蓋にはデカデカと私物の文字が書かれていた。わかりやすいのは大変結構だが、勝手に私物を入れるのを許すわけにはいかない。これはあとで運び出して、誰のものか突き止めなければ。素直に名乗りあげてくれたら、少しの罰で許してあげよう。私物とわかっているのなら開けられないなと傍に避け、次の箱は随分と重い。
……何これ」
 開けるとそれは、団内で飼っている猫に与えてみたものの興味を示さなかったグッズたちの墓場だった。みんながみんなポケットマネーで好き勝手買うから、やたらめったら増えたそれが、まさかこんなところに眠らされていたとは思わず、呆れのままに息が落ちた。捨てればいいのに、言うのは簡単。捨てられない気持ちも、それなりに理解する。ただしここは厳しく考えなければならない。こうして放置していても、誰も、何も、得にはならない。
「うーん今度そういう活動してるチャリティに持っていけるかな……。一応品目作っておこう」
 手近なものから順番に取り出して、帳面に記載していく。何がいくつあって、壊れてはいないか、汚れてはいないか、明らかにそれではないものが混じってはいないか。よくよく確認することは、寄付するにしても何にしても重要なことだった。
「あーこれ、めずらしくジークフリートが買ってきてた蹴りぐるみだ。速攻でそっぽ向かれてたやつ……
 そのときのなんとも言い難い落ち込みっぷりが思い出されて、たまらず目を細める。巷で人気のエビの形。流行り物がお気に召さなかったのか、なんなのか、そういえばあの子は、ちょっと変わった形の蹴りぐるみをやたらと気に入っていたはずだった。もしかしたら、王道が嫌だったのかもしれない。なんにせよ、人のエゴと猫の気まぐれは、たまにしか合致しないから楽しくて、幸せなのだと感じる。
「えー、部屋に置いておいたらびっくりするかな。思い出してまた切なくさせちゃうかな……
 新品同様に綺麗なそれは、寄付するにはもってこいの品物だろう。だのに、手放しがたく思われてじっと見つめてはくるくると弄ぶ。蹴りぐるみとしての生は歩ませてあげられないが、ディスプレイとしての第二の生を謳歌させても、いいのではないか。いやでも物は正しく使われてこそである、か。ああ、どうしよう、どうしたものか、ぐるぐるぐるぐると思考は空回り、カラカラと音を立てる、さながら回し車だった。
「いいや」
 置いておいてやろう。彼の部屋に、こっそりと。グランももらった妙な置物の隣あたりに置いてやれば、しばらくは気づかれない。ああでも、変化に聡い人だから存外すぐに気がつくかもしれない。どちらでもいい。また艇に乗るそのときに、ほんのひとさじのスパイス程度の面白みがあったほうが、世界はきっとより輝いて見えるはずだ。何が起こるのかかわからないような世界だからこそ、些細なことを抱きしめられる余力は常にあっていいはずだった。
 そっと蹴りぐるみだけ別の場所に置いて、箱の続きを検分する。もはや壊れているようなものまで保管されているのだから、いやはや猫というものの魅力、いっそ魔力には驚かされるものがあった。
「こんなもんかな」
 呟いたときには随分と時間が経っていた。小さな小窓から入ってきていた日差しも、すっかりどこかへ行ってしまっている。いけない。やりすぎた。おかげさまで仕分けも目録も完璧に整ったが、いま一体、何時だというのだろう。ここで作業することを伝えていた誰も呼びに来ていないという状況から、夕食はまだ始まっていないか、始まっていたとて、遅すぎるということはないのだろう。推測は素早く脳内を駆け、同時に足を動かした。
 埃っぽさを落としたくて、先にお風呂といきたかったが、時計を見て諦めた。早く食事を済ませないと、厨房担当たちに面倒をかけてしまう。仕方なしまっすぐ食堂に向かい、まばらな様子を一瞥してから、今日のメニューを確認する。今日はロールキャベツらしい。トマト味とコンソメ味から選べるとのことだったが、トマトと言いかけたところで、もうコンソメ味しかないとすげなく返された。団長が遅いのが悪い。ごもっともである。
「仕方ないからこれおまけ、みんなには内緒っすよ〜」
 言葉と共に追加でトレーに乗せてもらえた小さな小鉢は、キャベツの芯のトマト煮込みだった。残ったソースで、圧力をかけて煮込んだらしい。
「ありがとう」
 素直に礼を言って、席につき、いただきます。まばらな誰かの近くに座ってもよかったが、一人で食べることにした。ちょっとだけ、会話を億劫に感じる自分に気がついていたからだった。とはいえ、声をかけられれば普通に応対できるし、引きこもって考え込まなければならないほど深刻ではない。少しだけ疲れていて、わずかにだけ心がズレている感覚が、ずっと残っているだけだ。
 そう、昨日の暴風からずっと。こればかりは、対処法があまりないから難しい。ビィに言えばどこかに連れ出してくれたり、一緒にゲームをしてくれたり、何かとにかく励ましになる楽しいことを考えてくれるだろう。ルリアに言えば、おいしいものを一緒に食べようと提案してくれて、カタリナに言えば、オイゲンに言えば、ラカム、イオ、ロゼッタ――……順番に頼りになる仲間の顔を思い浮かべてみると、それぞれがそれぞれらしいことを頭の中でやってくれる。シミュレーションはおそらく完璧だ。何の疑う余地もない。彼らは彼らなりに、グランという人がいつも通りになれるように手を尽くしてくれる、確信があった。
 けれど、それがいまは、重たい。ずんぐりとして、息がつまる。ではどうしたらいいのか。本当に、グランは困っている。困っているのに、解決策は一向に見つからず、時間だけがすぎていく。
 今日のように一人で没頭できる作業に集中できる時間など、実は少年にはあまり用意されていないのだ。それにそもそも、そういう時間が彼のいまを救ってくれるとも思われ難い。逃避はできても、回復は見込めないことだろう。逃避をしていればいつかは今の状態も過去にできるかもしれないと考えれば、悪いことでもないのだけれど。
 いまは、何もかもが、困難だった。結局は時間の経過を待つことしかできないのだと否応なしに自覚させられる。現在は、そういう状態なのだ、と。受け入れる以外に選択肢はない。
 なんとなく、心臓のあたりに冷たさを感じて、慌てて温かい料理を口に運ぶ。ぬくもりは当然冷たいそこに運ばれることはなく、喉、食道、胃の順にあたためて、まもなく消失した。やっぱりうまくいかない。おいしいのに、間違いなくおいしいはずなのに、味もうまくつかめない。申し訳ない気持ちでいっぱいになるのは、作ってくれた人の顔がいくらでも思い浮かぶからだった。
 ああしかし、けれど、だって、重たい。重たい。とても、重たい。胃が重たい。胸が重たい。気持ちの重たさが全部全部、全身にのしかかってきて重たい。
 これは言い換えればきっと、泣きたいに近かった。泣かないけれど。泣けないけれど。泣きたいと思うのは自由で、自由だからこそ息苦しい。
「どうした?」
 頭上から声がした。そういえばすっかり手が止まってしまっていた。顔を上げる。最初に思ったのは、綺麗な顔だな、だった。次に感じたのは、炎の熱だった。
「パーシヴァル……
 また、彼なのか。否、彼だからなのか。彼はそういう人物であると、グランはよく知っていて、その評価は間違いなく正しい。
……とりあえず食べろ」
「うん……
 頷きながら、手を動かす。一口大に切り分けたロールキャベツを口に運ぶ。舌に乗る冷たさ。キャベツの歯触り。続いてコンソメの香りと、やわらかい塩味。忘れていたものを取り戻すように一口、一口噛み締める。あまり現状は変わらないから、どうにもこうにも、といった感じではあるものの、とにかく手を動かしているとあれこれ考えなくてよくなった。とりあえず、食べ切る。残さないこと。これだけでも、十分に返せるものがあるはずだった。
 最後のひとさじ。口の運んで、スプーンを置く。するりと、トレーが持ち上げられた。
「あ……
「そこにいろ」
 有無を言わせない。困ったな。ここで逃げたら部屋まで追ってきそうな空気がある。本当はそんなこと、彼はしないのだろうけれど、そう思わせるだけの威圧感が確かにあった。彼は雰囲気を作るのが上手い。そういった教育を受けてきたのだと、理解するのは容易であった。
 まもなく戻ってきたパーシヴァルは、また向かいに腰を下ろし、トンと一つ、人差し指でテーブルを叩いてみせた。彼は求めている。問いの答えを。彼が納得のいく形での回答を。
「だからね」
 言いたくないことは言わないよ――きっぱりと突っぱねた。そのくらいの権利はあるし、この程度の圧力に屈するほど弱くはないことを、彼だってよく知っているはずだった。つまり何もかも、茶番なのだ。食の進まないグランに、とりあえずの完食を促すためのお遊戯。
「あれからの手紙は来たのか?」
 ほら、緊張を張り詰めた糸は、あっさりと切られた。
「ううん、まだ。もう少しかかるんじゃない? ジークフリートああいうの苦手でしょ」
「苦手、というより習慣がないというほうが近いだろうな。まともに書いてこなかったものを、突然書けるようになるべくもない」
「うーん……最初に僕から出せばよかったかな。きっかけより、返信のほうが書きやすいでしょ」
「そうかもな。まあ己で言い出したんだ、どんな形でも何かしら書いてくるだろう」
 報告書みたいだったらどうしよう、読むたびに笑ってしまって返事を書くのが遅れてしまうかもしれない。
 ふと、頬に手をやっていた。驚愕と、驚嘆。ああそうか、ちゃんと、笑えるのか、と。だって想像だけで、簡単に頬が緩んでいる。これは自然だ。嘘ではない。偽りではない。作り物ではない。ただ素直な感情の発露だ。
 これなら、大丈夫かもしれない。意外と、回復は早いのかもしれない。すぐそばに、いつもの自分はいるのかもしれない。すべて可能性で、すべて憶測だけれど、なんとなく見えた希望が穏やかでやさしい気がして自然とやはり笑みは形作られ、やわらかく口元に浮かんだ。
 パーシヴァルのおかげ、と言ってやるのはなんとなく癪で、黙ってテーブルの下の足を蹴ると、何も言わずに蹴り返された。だから、もう一度蹴った。痛くないくらい、そっと。すると、そっとまた蹴り返される。何度か繰り返して、お互い吹き出した。
「もういいか」
……、何が?」
「本気で蹴られたいらしい」
「やだやだ、冗談だよ。――ありがとう」
 言ってから、グランは大きく伸びをした。そのまま立ち上がって、おやすみ、とパーシヴァルに告げる。彼からも同じ言葉が返された。そういえば、彼が艇を降りるのは、次の島ではなかったか。果たして見送りできるだろうか。スケジュールを確認してみないといけない。ついでに一緒に朝食でもとも思ったが、それはやめておこう。なんとなくだ。なんとなく。
 踵を返して、食堂を後にする。廊下を行き交う団員はまばらで、幼い子どもたちはもう眠りについていてもおかしくない頃なのだと自覚した。早くシャワーを浴びてしまって、自分も眠りに落ちてしまおう。今日は、よく眠れそうだった。布団に潜り込んだらすぐにでも意識を落としてしまいそうなほど、実は睡魔がすぐそこに忍び寄ってきていた。
 早く、早くこの埃っぽさと別れてしまって、快適な眠りを得る必要がある。
「予定の確認は……起きてからでいいか」
 寝る前の日課は全部投げ出してしまうと決めるとそこからは早かった。足早に自室に戻り、準備を整え走らずに風呂場へ赴く。走るのはいけない。話の長い団員にでも見咎められたら厄介なことになってしまう。くどくどとした説教を聞いている時間は、一秒でも惜しかった。
 いつもの順で埃と汗を洗い流して、髪はざっくり乾かしてしまう。明日の寝癖は、明日の自分がなんとかするのだから、どうなったところで大した問題になるはずもない。
 ばたばたと再び自室に戻ってくると、ちょうど戻ってきていたらしい相棒が、驚いてなんだなんだと聞いてきたが、なんでもないよとベッドに潜る。
「寝る前のルーティンってやつはいいのか?」
「今日はいいの!」
 おやすみ、と元気よく。相棒から返された同じ音を聴き終えてから瞼を落とす。ほら、すぐに眠りが来た。そうして、まもなく、朝が来た。やさしい朝だ。穏やかに晴れていて、東側の窓からやわらかく太陽の光が入ってくる。冷たい気持ちを拭い去って、あたためてくれる穏やかな光が心地よくて、しばらく窓の外を眺める。
 ゆったりと流れる雲が薄紫に光っていて、ああ、朝というより夜明けなのかと気づかされた。少々、目覚めには早すぎたかもしれない。けれどちょうどいいようにも思われた。
 ビィを起こさないように慎重にベッドから抜け、少しだけ肌寒い廊下に出てから、まずは洗面所。続いて、厨房のほうに足を向ける。
「お茶……
 今日の朝食当番は、まだ来ていなかった。ちょうどいい。そんなに好き勝手するつもりはないが、モーニングティーを時間をかけて淹れるとなると、仕事をしている誰かの邪魔になってしまう。とはいえ悠長に構えているいとまもないだろうから、急いで道具と茶葉を並べた。
 ここのお茶は、実は自由に楽しんでいいということになっているのだが、どうにもうまく団員たちに浸透していないように思う。おかげで減りがイマイチだ。減ってくれないと買い足しできないので、本当ならどんどん消費されていって欲しいのだけれど。何か上手い広報を考えるか、いっそティーパーティーでも開催してみてもいいかもしれない。あれこれ考えながら、しっかりと湯を沸かし、まずはポットとカップを温める。茶葉の量は二人分くらいを入れて、勢いよくお湯を注ぐ。ここで躊躇してはいけない。勢いが大切だ。蒸らす時間は、この茶葉なら三から四分といったところだろうから、それに合わせた砂時計を返し、手近な椅子に腰掛けた。
 落ちる砂をじっと眺める時間が、何となく好きだ。さらさらと流れる空色。時をはかるために閉じ込められた粒子は細かく、光をそっと吸収している。
「あ、ティーコジー……
 忘れていた。以前、ルリアと一緒に縫ったものを、ちゃんと置いていたのに。慌てて取って、ポットに被せてやる。可愛らしい花柄は、ルリアが作ったほうだった。
 砂はとめどなく落ちる。ただそれを眺める。風の音がしていた。蛇口からポツリと落ちた雫が跳ねていた。朝露の匂いが、紅茶の香りと混ざり合う。小さく身震いをしてやり過ごす肌寒さはどこか心地よい。そういえばこのあいだ、あの人が見ていた砂時計が綺麗だったことを思い出して、買っておいてもよかったかもしれない、などと。またあの島に立ち寄る機会はあるだろうか。モーニングを食べたあの店で、今度はランチでもどうだろうか。そうしてまた、あの雑貨店に足を運ぶのだ。どうだろう、きっと楽しい予感がする。必然のように隣にいるのが彼であることに、ほんのわずかな驚きをにじませつつも、それはやはり必然であってほしかった。
 だって、あの日の続きなのだし――。本当はもっと別の理由があるような気がしたが、それに至る前に砂が落ち切った。
 二杯分に対してカップは一つ。後半の一杯はミルクティーにするのがいいだろう。まずはそのまま、ゆったりと味わってみる。鼻に抜ける強めの香りが、気分を上向かせて舌にほのりと乗る苦味に口元は緩む。はて、茶菓子になりそうなもの、何かなかっただろうか。冷蔵庫にはジャムがあった。戸棚にはビスケットがあった。少しだけ拝借。大丈夫、名前、書いていない。しれっと別のものを入れ足しておけば、誰も怒りはしないだろう。三枚皿に取って、ジャムもひとすくい。ビスケットに真っ赤なジャムをちょこんとつけて一口で頬張ると、幸福な甘さが味覚に嬉しかった。すかさず紅茶を含む。楽しい時間だ。終わらないでほしい。
 ――コツコツ、コツ。
 二枚目のビスケットに手が伸びたとき、窓のほうから音がした。顔を上げる。じっと見つめると、光の向こうに見慣れない、けれど知らないわけではない鳩がいた。
 鳩、そう、鳩である。カリオストロが製作した大変に優秀な伝書鳩。きっとあの人から託されたであろう手紙を入れるためのポーチを重そうに首から下げ、元気に窓を叩いている。そのマスコット然とした愛らしい見た目とは裏腹に結構な戦力を有するというのだから、本当に侮れないものだ。
 立ち上がり、窓を開けてやると鳩は憮然とした顔でてちてちと入ってきた。開けるのが遅いのだと言わんばかりのふてぶてしさである。嫌いになれない。
「いらっしゃい」
 おかえりと迷ったが、なんとなく客を迎えるような気分だった。鳩は右の翼を器用に操り、恭しく一礼をすると、早く開けろとやはり翼でポーチを指してみせた。
 グランは丁重にポーチから中身を取り出す。封筒はシンプルなもので、表にグランの名前、裏に彼の名前が刻まれている以外は生成りの白が優しいだけだった。
「そういえば君の燃料って何だっけ」
 普通の鳩ならば、何かしら餌を与えてやればよいだろうが、いかんせんこの鳩は開祖たる錬金術師が丹精込めて作ってくれた特別なものだ。となれば当然ながら、与える餌――燃料も特別である可能性が高い。手紙を読む前に、ここまでの長旅を労ってやりたい気持ちから、さてカリオストロは起きているかと逡巡。半々だな、と苦笑。起きているとすれば、徹夜明けだろうことが予想された。起きていないとすれば、訊ねることで起こしてしまう。どちらにせよ、いまは部屋に向かうべきでないことは明白だった。
 ふと見やると、鳩が何かを伝えるように器用に両の翼を操っていた。さすがである。言葉は話さないが、言葉を解すことはできるらしい。しかし、けれど、どうしたものだろう。
「ごめん、わかんないや」
 翼の動きは滑らかで、ジェスチャーとしてはきっと申し分のないものなのかもしれない。が、グランには理解ができなかった。鳩は、不服だとばかりにその場で地団駄を踏んだ。そういう感情表現は非常に分かりやすいのに、どうしたものだろう。自分の理解力の限界が、悔しいような、そうでもないような、中途半端な宙ぶらりんの気持ちでじっと鳩を見つめる。
「とりあえず後でちゃんとカリオストロに聞いてみるから、ご飯はまた後でね」
 鳩はやれやれといった様子で、人間が肩をすくめるような動作をしてからその場に座り込んだ。そのつぶらな瞳が、早く読めとばかりにグランの目を見つめる。部屋に戻って読みたい気持ちを、果たして許してくれないだろう様子の鳩に従って、そっと封を開けると、微かに土埃のにおいが立った。
「へえ……?」
 封筒の素朴さとは裏腹に、収まっていた便箋は想像と違うものだった。なるほど彼は、こういうものを選んだのか。面白くなって、中身を読む前に何度もその図柄を確認してしまう。派手か、と言われると違っていて、とはいえ決してシンプルとは言い難い。季節を問わないその柄は、確かにいつでも使いやすく、また嫌味もなくていいチョイスだと素直に思われた。そうか、彼は、あの店でこれを選び取ったのか。なんとなくそれは、喜ばしいことであるように感じられた。
「そっか。そっかあ」
 なんとなく、宙に掲げてみる。鳩が首を傾げたが、グランの表情は満足げであった。きらきらと輝いていたあの日あの山の上の砂を見つめていたときのように目を細め、ゆっくりと腕を下ろす。紅茶を一口。ビスケットも一つ。たっぷりのジャムを塗って頬張った。
 文字に、目を通していく。内容は割と何でもない、予想通り何処か報告書じみているようで、ところどころに感情の波のようなものが見られて、妙に面白かった。読ませる文章であるかといえば、きっとそんなことはないだろうに、ぐいぐいと読み進め、行き着く先は二枚目の便箋。その前に紅茶をもう一口。空になったカップに冷めて渋くなった二杯目を注ぐ。手紙は手に持ったまま立ち上がり、冷蔵庫からミルクを拝借。カップのふちまで注いでしまう。大変、飲みづらい。こぼしてしまってはいけないのでそうっと口をつけ、甘くないミルクティーからほんのりとしたミルクの甘味を拾う。
 手紙の二枚目も、飾らないものだった。綺麗なものがあった、どういう形をしていて、色はこうで、匂いはなくて、触ると冷たくて――めいっぱい五感を使って、伝えるために懸命に重ねられた言葉はきらきらとして眩しい気がする。きっとどこかの現騎士団長は納得して頷いて、どこかの元副団長は怪訝な顔をするであろうその感覚は、けれどグランただ一人だけのものだ。だってこの手紙は、グランに宛てられたグランのための言葉が紡がれたものなのである。当然誰にも、見せてやるつもりはない。
「おはよう、団長。今朝は早いな」
 だから、不意に聞こえた団員の声に慌てて、くしゃくしゃと懐にしまい込んだことを、ほんのちょっぴり後悔している。いくら伸ばしても戻らないシワが、少しだけ切なく胸をささくれさせるのだ。
 やっぱり。部屋に戻ってから、開けばよかった。いつ誰がきてもおかしくないような場所で、読むものではなかった。急かしたのは鳩であっても、それ以上に気持ちが逸っていたのは事実だ。一秒でも早く、目を通したいと思ったのは、間違いなくグランの意思で、感情で、それは、紅茶を飲み干して片付けをし、部屋に戻る時間すら惜しいと思うほどのものであった。
 待って、いたのだ。彼から文通を提案されて、それからまもなく彼が艇を降りて、何となく過ごす一人の時間の中でずっと、ずっと、最初のそれが届くのを、心待ちにしていたのだ。はたからは、たかが手紙の一通と言われてしまうかもしれないとしても、それでも、そんなたかが一通を、待ち切れないような気持ちで待っていたのだ。わだかまる悔いの言い訳はつらつらと整列し、なんとか刻まれたシワを伸ばそうとする指先に力を込めさせる。しかしこれ以上は、むしろ紙を破きかねない。諦めることを覚えるべきだ。
 そっと、息を吐く。手紙は決して、損なわれてはいないと自分を納得させ、そっと机の脇に置く。やっぱり一旦封筒に便箋を収め、抽斗の中にしまう。返事を書くのなら、早いほうがいいように思われたが、自分が待たされた分、あちらにも待ってほしいような意地の悪い気持ちが首をもたげていた。
「とりあえずカリオストロに鳩の餌聞いてこないと」
 鳩はグランのベッドの中央で、すやすやと寝息を立てていた。まるでほんとうの生き物のような振る舞いである。きっと長旅で疲れているのだな、と、こちらを納得させるだけの説得力でもって、その優雅な寝姿は形作られていた。
 そっと、鳩を起こさないように部屋を出る。起こしたところでとは思わない。きっと怒る。だって、開祖殿が作った鳩だ。間違いなく怒る。怒って何をしてくるかすら読めない。とても危険だ。警戒するに越したことはないはずだ。
「カリオストロ、いるー?」
 ノックして、問いかける。数秒して、鍵の回る音がした。入っていい合図だった。遠慮なくドアを開ける。つん、と、鼻を刺すにおいは薬品だろうか。室内をたっぷりと満たしている。部屋の主はその真ん中で、においの元となっていそうなビーカーを見つめていた。
「何の用だ?」
 目を上げず、問われる。グランは手近な椅子に勝手に腰掛けてから、しっかりと〝美少女〟たるその人を見つめながら口を開いた。
「鳩の餌って何?」
 カリオストロの目が上がった。ぱちり、と、音を立てて目が合う。沈黙はきっかり三秒。ビーカーの中で揺れていた液体の色が変化して、ぽふん、なんて気の抜けるような音を立てるまでの間だけ。少女の姿をしたその人は笑み、つられるようにグランも笑ってみる。
「戻ってきたのか」
「そう。ついさっき」
「さぞや面白い手紙が添えられてたんだろうな」
「面白いかどうかは人によるかもしれないけど、少なくとも僕は嬉しかったよ」
 それは僥倖。開祖は机の抽斗から小さな袋を取り出しながらやっぱり笑う。
「ほら、これ食わせとけ。一粒で十分片道分のエネルギーになるから、ねだられたってやりすぎんなよ」
 放られた袋には、銀色の粒がたっぷりと収められていた。まんまるの小さなそれは、ちょうどお菓子に使うアラザンに似ていた。これは、本物の銀だろうか。問うてみたかったがやめにした。この小さな粒一つ、正体が何であれあまり気にしても意味はない。
「ねえあの鳩、何だか横柄じゃない?」
「そう感じるんなら、あいつの育て方の問題だろ。俺様はそこまで調整してないからな」
「えー……あれは絶対生来のものだと思うんだけど」
 カリオストロは鼻で笑ってみせる。そうしてきゅるんと目を輝かせ、口元に右の手を添えて上目遣いに言うのである。
「団長さんは、カリオストロがそんなふうに調整すると思うのぉ?」
 頷くべきか、そんなつもりではないと言うべきか、判断に迷って頷いた。めいっぱいに詰め込まれていたはずの〝可愛い〟が一瞬にして瓦解し、元の〝開祖〟に戻る刹那はどこか冷たい空気が流れた。別段、カリオストロという人は怒っているわけではない。グランはそれをよく知っていたから、冷えた空気も気にならなかった。彼という人をよく知らない人からしてみれば、きっとこの空気は耐え難いほど恐ろしいものとなるのかもしれないなどという勝手な想像力は脇に置く。
「はっ、だとしたら気に入らない手紙は持ってこないように調整してるぜ」
「そうかな。しないでしょ。自分で作るって決めたんだから」
 じっと磨かれた鉱石のように作り込まれた瞳が、こちらを覗き込む。何もかも見透かしてくるような、何も映そうとはしていないような、きらきらとした紫水晶。見つめ返すと、さらに深く覗かれた。
「お前はそういうやつだよな」
 どういう意味だろう。首を傾げたら真似をされた。むくれると、笑われる。ああこれは、答えてくれないやつだなとすぐに納得して、絞り忘れていた銀の粒が入った巾着を締める。
 もう少し、話したい。それはそれとして、早く返事も書きたい。困った。動けない。口を開くでもなく、立ち上がるでもなくぶらつかせた足が何かを蹴ってしまわないように足元に注意を払いながら、経過する時間は決して長くはなかった。
「朝食は?」
「まだ」
「ならちょうどいいから一緒に行くぞ。いつまでもこんなところでぼうっとしてられるほど暇じゃないだろ」
 おたがいさまだ。誘われるまま立ち上がり、小袋はポケットにそっとしまう。あの鳩はまだ眠っているだろうか。そうだと嬉しい。そうでなければ、きっといつまで飯を持ってこないんだと怒られてしまうことだろう。ああでも、カリオストロと朝ごはんを食べたと言えば、許してくれる可能性もあるかもしれない。たかが鳩、されど鳩。考えているだけで面白いのだから、やっぱりカリオストロの性格調整は上出来だった。
「あの鳩、面白いよ」
「お笑いの機能はつけてねえぞ」
「そうじゃなくって、性格が。やっぱりね、作った人に似ていい性格してるってあれは」
「えぇ〜。団長さん、カリオストロのことそんなふうに思ってたんだ」
 今更驚くことじゃないでしょ。冷静に返すと、シラけたふうに肩をすくめた開祖は、朝食に焼き魚定食を選んでいた。グランはスクランブルエッグとソーセージを選ぶ。先着十名さま限定、トーストをパンケーキに変更できますよ、なんて言われたら釣られずにはいられない。
「メープルシロップたっぷりね!」
 子どもじみたお願いも、快活に受け入れられると気持ちがいい。カリオストロと向かい合って座って、同時にいただきます。和食の味噌汁が立てる湯気を少しだけ羨ましく思いながら、真っ先に頬張るパンケーキ。じゅわじゅわとしみ出すメープルシロップの甘さと香りが一息に舌と鼻を刺激して気分がよかった。もちろんパンケーキ自体もしっかり目の食感が心地よく、一口で十分な満足を得られる。
 カリオストロはまず味噌汁を啜ってから、丁寧に焼き魚をほぐしていった。箸で骨を取り除き、口に運ぶ。さすが二千年の年の功――というとニコニコ笑顔が向けられそうだが、言いたくなるくらい、箸の使い方が綺美しかった。持ち方も、料理をつかむさまも、そこから口元に運んでいくほんの二秒に至るまで。見惚れるほどに丁寧で、美という言葉があまりにも似合ってしまう。本人は、可愛いを望むだろうけれど、さすがにそのまるっこい表現はこの場においては似合わなかった。
「今度箸の使い方教えてよ」
「別にそこまでひどくなかっただろ。教えることなんてねえよ」
「そうかなあ」
「練習しろ練習。何事も鍛錬だ」
 鍛錬だ、というのなら改めてじっとカリオストロを観察する。ため息が聞こえた気がしたが、気にしないで見つめてやる。その所作の美しさの根源はどこか。みているだけで理解できたら苦労しない。ただ、こういう苦労は好きだ。盗めるものを自力で盗んでいくときの集中は心地がいいのだ。
「いまやんな、さっさと食え。むず痒い」
「えー。だって目の前にすごいお手本がいるんだよ。いまがチャンスじゃん」
「何がチャンスだ。はあ……ほら、冷めてるぞ」
 言われてつついたコンソメスープは確かに冷めようとしていた。角切りになったにんじんの柔らかい歯触りに気分が上向く。玉ねぎが甘い。どれもこれも柔らかく煮込まれていて、出汁としてすっかり味の抜けた薄っぺらいベーコンの食感だけがなんとなく歯に残る。対するソーセージの味の濃さにびっくりしながら、塩気を堪能してパンケーキを一口。幸せの形を一つずつ掴み取りながら、時間は穏やかに流れていく。
「そういえば……
 カリオストロが箸を置いた。口元を拭い、一度居住まいを正してから頬杖で崩す。
「手紙にはなんて書いてあったんだ?」
 至極、当然といえば当然に訊かれるはずの問いに、一瞬時が止まる。答えに詰まって、ついでに盛大に水で咽せて、何度か咳き込んでから目尻の涙を拭う。心配そうに差し出されたハンカチは断った。
 ああそうか、不意に思い至る。カリオストロの所作が綺麗なのは、一つ一つが急いでいないからだ。止めるべきところで止まり、ゆったりとして落ち着きがある。だから、美しく見えるのだ。
 いらない思考だった。なぜいまなのかと笑けてしまうが、笑わない。とりあえず脇の避けて、深呼吸。心臓がバクバクと鼓膜を揺らすほどにうるさくて、口から飛び出しそうだった。
「そんなに恥ずかしいことが書いてあったのか?」
「ち、違う違う。普通のことしか書いてなかった」
「なぁんだ。愛の言葉の一つでも書かれてるのかと思ったのに」
 随分なことを言う。そんなこと、あるはずないじゃないか。
「そんなことあるはずないでしょ」
 思ったまま口にすると、にっこりとした笑顔がより一層深められて、若干の背筋の冷えを感じる。怖い。本能に訴えるような恐怖が、背中から首筋を這っていて、今度は別の意味で心臓がうるさくなる。冷や汗に震え、飲み込んだ生唾はどうにも苦い。
「本当にそう思うか?」
 いやに真剣な問いかけに、瞬きなく頷く。まさかそんな、あの騎士が、誰に? 自分に? 愛の言葉? あり得るはずがない。
「親愛の情でも、あり得ないと?」
「それならあるかもしれないけど……わざわざそういうこと書くような人じゃないよ」
 ない、ないと思う。少なくとも自分に対してはそんなことを書いてくるような人ではないはずだ。実際書いてはいなかった。言ってしまえば当たり障りのないことが書かれていて、それが逆に彼自身の端っこをつかまえたたようで嬉しかったのだ。そこに、そんな、愛だなんてご大層なものが乗せられていたら、なんだ、えっと、そう、困る。困ってしまう。どう反応していいものかかわからないし、頭が沸騰して返事どころではなくなってしまうし、冗談かと笑ってしまっていいのかすらも、不明瞭だ。
「ないない、ないよ」
 必死に否定する。カリオストロは笑っている。まるでその否定を上から否定するように、笑ったまま、どこか怒っている。
「ある、と思うの……?」
 恐る恐る問えば、ため息が返された。重さはない。軽くもない。中途半端に肩にまとわりつく。
「お前は、どっちがお望みだ?」
 返された言葉に、もう一度唾を飲む。目が泳いで、心臓はずっとうるさくて、手の中にじわじわ汗が溜まっていく。落ち着きたくて水に手を伸ばし、手の震えに思わず漏れた笑いは穏やかでなかった。
 数秒の沈黙ののち、カリオストロは興味も失せたように箸を取った。焼き魚の続きを食み、米を口にして、味噌汁を啜る。やっぱり綺麗な様を見ていると、次第に落ち着いてくるような気がしたが、残念ながら気のせいであった。だって、ずっと、鼓膜の奥で心臓が脈打っているのを感じている。
 ありえないことを、想像するのは得意だ。空想や妄想の世界を旅するのは好きだ。だから、想起してみるだけならできないこともない。彼からの手紙に、そういう類の言葉が刻まれていて、それを読む自分くらい、思い浮かべられないことはない。
 ただ、それを、自分が望んでいるかどうかなんて、グランにはカリオストロの問いの意図すら理解できていなかった。
「頭パンクさせる暇があったら手を動かして、ちゃんと食べろ」
「パンクさせたの、カリオストロでしょ」
「俺様はただ訊いただけだぜ? 勝手にパンクしたのはお前が何にも気づいてないからだな」
「気づいてないって何に――
 自分で考えろ、カリオストロは言うとトレーを持って立ち上がった。いつの間にか、置いていかれてしまっていた。それもそうだ。彼は食事の手を止めていなかったのだから。
「考えてるのに……
 冷たくなったパンケーキは、じっくりとメープルシロップを吸って大層甘かった。急いで手を動かして、食べ終える。ごちそうさまは厨房のみんなに向けて大きめの声で言ってから、急いで自室に戻った。
 とりあえず、さまざまなことは後に回して返事を書こう。目を覚ましていた鳩に銀の粒を一つ渡す。もっととねだられたが、だめだと強く言えば割と聞き分けた。だめなことは、そもそもよく理解しているのだろう。賢い鳩だ。少し、可愛くなってくる。撫でてやると不遜な態度でじゃれてくるから余計に親しみが湧いてしまう。このあと送り出さないといけないというのに。
 名残惜しく鳩を撫でて、机に向かう。そういえばいつの間にかビィがいない。ルリアあたりと一緒にどこかに出かけているのかもしれない。静かだが、ほんのりと寂しい。だが、返事を書くのにはちょうどいい孤独感だろう。ペンを手に取って、ひとまず彼の名前を一行目に刻む。親愛なる――は、やめておいた。
 まずは手紙をくれたことへの感謝。それからもらった内容に関して触れて、最後に自身の近況報告。書くことはだらだらといくらでも浮かんでくる。とはいえ長すぎては彼の負担になりかねない。それは、いやだ。どうせなら、気分よく読んで、読み終えて、気分よく返事を書いてもらいたい。
 これは、まぎれもない欲だった。可能であれば自分の関わることにおいて、彼を煩わせたくない。もっと言えば、それは明るい感情で迎えられてほしい。身勝手で独りよがりな幼い願いは、誰に告げられることもなく、当然本人に伝えられることもなく、グランの内側で熱っぽく渦を巻く。
 あつい。暑い? 否、熱い。息を細く長く吐き、内の熱を逃がしていく。
「あとは……
 くるりと、鳩を振り返る。羽をつくろう様子を数秒見つめてから、声をかけた。
「ねえ、軽いものなら添えてもいい?」
 鳩と目が合う。表情はほとんど動いていないが、おそらく、笑った気がした。そのまま、鳩はゆっくりと頷いて、右の翼で胸を叩いてみせた。任せろ、ということらしい。
「よかった。じゃあ、ちょっと待っててね」
 立ち上がり、本日三度目の食堂に向かい、件のお茶コーナーから、ティーバッグを一つ選ぶ。人を選ばない香りのものだから、きっと彼も気にいるはずだ。もし何かしら感想が添えられていたら、次は少しクセのあるものでもいいかもしれない。どちらかというと彼は、食べられるものならなんでも問題ないという困った面も持ち合わせているわけだし、多少強めの香りくらい、きっとどうってことないだろう。
「お待たせ」
 声をかけると、鳩はいそいそと支度を始めた。本当に賢い。便箋を折り、封筒に入れ、ティーバッグも一緒に入れる。宛名は事前に書いておいたから、あとは封をするだけだ。そのまま糊でというのも味気ないのでひと工夫。ルリアからもらった可愛いシールを貼ってみた。
「じゃあ、よろしくね」
 鳩の首から下がった小さいポーチに、吸い込まれるように手紙が消える。どういう仕組みなのかは、わからない。わからないから、好奇心をくすぐられる。のぞいてみたい衝動を抑えながら、ぱちり、とポーチの蓋をとめてやり、窓を開けた。
 よく、晴れている。雲が薄く引かれた青空は柔らかい陽射しに包まれて、気持ちを緩やかに均していくような穏やかさがあった。干したての布団のような上等のぬくもりがあくびを誘う。
「またね」
 いってらっしゃいはやっぱり違う気がした。鳩はうやうやしく礼をして飛び立った。その姿はあっという間に小さくなって、雲の間に消えていく。
 鳩の向かった先に彼がいる。そう思うとなんだか背筋がしゃんとした。しばらくそちらを見つめてから、大きく伸び。
「さあ、今日もがんばろ」