それを恋と呼ぶには、あまりにも醜かった。彼の錬金術の開祖は恋なんてものは醜悪なものだと笑ってみせたが、それにしたってあんまりなほど、形を成せず、腐臭すら放つようで悲しくなった。ましてやそれが、初恋なのだ、と。言ったら、開祖は涙を浮かべながらやはり盛大に笑った。少女の姿に似つかわしくない、けれどその豪快な様は好もしい。
「綺麗な恋を期待していたのなら、そんなもの、はじめからなかったのだと悟るべきだ」
隙間で吐かれる残酷はあたたかみすらもっていた。泣いてしまおうかと思ったが、泣く情緒に持ち合わせはなく、ああこういうところがいけないのだと、すぐに理解した。
悲しむくらいはできたのに、一歩先に進めずに、ただただ生まれた感情が手からこぼれ落ちないように掬い上げる。どこか、ぬくい気がした。いっそ、熱いようであった。じりじりと掌が焼けていく。そんな熱量が、おそらく含有されていた。驚愕。いままでにないそれを、抱きしめてみたくて引き寄せる。
これが、恋か。そうか、これが、そうか。ゆるゆると反芻する。繰り返す。感慨深いような、案外面白みのないものであるような、中途半端な感じがして、それがまた幸だった。
「大切にしたい」
そう口にすれば、開祖は不意に肩をすくめた。鈍く光る双眸が、じっとこちらを射抜いてくる。見透かされている。直感的な忌避感は耐え難いものであった。
「大切に、ね」
開祖の唇はかたく音を紡ぐ。整えられた爪が薄灯の下で光った。カツン、とテーブルを叩く音は甲高く静寂を裂いて、この空間の孤独を露わにした。
昼間は何かと賑わう食堂も、こうも夜が更けてしまえば、あまりにも冷たい。そこにあるのは、月光と、ランタンと、容姿だけは可愛らしい〝少女〟と、己と、それから少しのブランデー。厨から拝借したので、あまりたくさんは減らせない。どうせ、気づかれはするのだろうけれど。
幻のように愛らしい少女は、似つかわしくない重いため息をたっぷりと吐き出してから、また独り言つ。
「簡単にできたら苦労しねえだろうな」
突き放す言葉だった。痛いところに、的確に、その一矢は刺さる。知っていた。これがあまりに醜悪に思われる時点で、理解していた。大切にしたところで、この想いとやらはおそらく、望まぬ方向へ舵を切り、その先にいる、いわゆるそう、恋の相手を踏み躙ってでも欲を遂げようとするのである。そこには、本能と呼ぶにはあまりに凶悪な獣の気配があった。言い訳はできない。許されない。それが、己であることは、自分が一番に認めなければならない。
開祖は笑った。ずっと口をつけていなかったグラスを口元へ運び、やはりそのままテーブルに戻して、口角をさらに上げる。目元にだけ哀れみのにじむやさしさを含ませて、笑った。
「やれるだけやってみな」
今度の音はひどくやさしい。やさしすぎて、けれどやはり涙は出ない。
「何かあれば俺様はお前を許さねえし、それに、あいつがお前程度にどうこうされるわけもねえから、安心してろ」
それも、事実だった。やはり人生二千年の重みは違うらしい。いや、そうではないか。そうでは、ない。単に己がわかりやすく、事実も明白であるだけで、おそらくこのくらいのことは、かつての部下であった炎のような男も言ってみせるはずだ。そういうものだ。
「では、大切にしてみようと思う」
はっきりと言ってみて、心臓が跳ねたのを感じた。初恋というものに、浮かれはしゃぐ歳でもないはずだったが、存外、浮かれているのかもしれない。それもそうである。その醜悪さに落ち込む程度には、綺麗なものを期待して、裏切られているのだから。
きつめのブランデーのアルコールは喉の奥によく沁みた。本来、こうして飲むものではないことは、厨房の番人たちの様子を見ていて知っていた。そう、以前に、くれーぷしゅぜっと、とやらを披露してくれたときのように、このアルコールは本来飛ばしてしまって、香りを楽しむ用途で準備されたものなのだろう。
きつく、きつく、喉から食道から胃の腑にいたるまでを焼かれて、数秒して無。つまらないものだという内心を拾い上げるように、開祖は自身のグラスをこちらに差し出してきた。飲まないらしい。妙な胸の乾きを覚えたが、黙ってグラスを受け取った。
もう一度、繰り返す。胃の腑が焼かれてやがて訪れる無の再来を喝采する。
「それで?」
開祖は不意に訊ねた。意図はすぐに理解できた。
たまの滞在もそう長くは続かない。会えないわけではないものの、お互い忙しい身上であり、艇で共に過ごすよりも、何か理由があって再会するということのほうが圧倒的に多かった。けれどそれでは、何も、何も変わらない。ただただ欲だけが膨らんでいく。それでは、つまらない。危険だとか、そういうことではなくて、単純に退屈だ。開祖の目も、同じことを訴えていた。どうしたものか。
接点を増やすという点において、おそらく最も簡単で効果的なのは手紙だった。どこにでも出没し、どこにでも繋がっているシェロカルテを介せば造作もないことだろう。そう、文通である。思いの丈を、日々のうつろい報告とともにしたためるのは存外、きっと、楽しめるはずだった。
そのまま伝えてみれば、開祖はわかったと言って席を立った。明日部屋に立ち寄るように付け加えて、その背はみるみる小さくなる。その所作に至るまで完璧を追求した〝少女〟の姿は、ほどなく闇に消える。
「まさか、手を貸してもらえるのだろうか」
その、まさかだった。開祖は翌日、伝書鳩を寄越してくれた。ただの鳩ではない。彼人の錬金術にて製作された特別なものだ。相手がどこにいようと、どんな状況であろうと、必ず手紙を届け、簡易な戦闘までこなしてしまう万能伝書鳩。文通相手は、お互いの血の一滴で登録ができるという。血をもらうところは自分でやれとのことだったので、その足で恋した相手の部屋へと向かう。
扉越しの室内は静かで、ペンを走らせる音だけがしていた。何かの依頼で先ほどまで出ていたから、その報告書か何かをまとめているのかもしれない。時刻はそろそろ、昼時であった。さて、声をかけるなら昼餐に誘うのが間違いないだろう。深呼吸して、ノックは三回。
「お昼ご飯? そっかもうそんな時間なんだね」
想い人は少しだけ待つように言って。もう一度机に向かっていった。キリのいいところまで進めてしまいたい気持ちは、自分にもよく理解できた。すぐ終わるよ、の言葉通り、五分も待たずに、行こっか、と。思わず頬が緩むのを感じる。やわらかくてふんわりとしたものに触れたときのような、不安の中に歓喜がある心地。
ただ一緒に廊下を歩いている、だけ。ただ一緒に食卓を囲んでいる、だけ。それ、だけ。ああ、今日のクリームシチューは絶品だった。
「ごちそうさま」
そしてその時間は、あまりにも瞬きに過ぎ去った。
用事があるのだと部屋にもう一度ついて行って、ようやく、本題。やさしい人は何も躊躇わず、文通も、血の一滴も、了承してくれた。
「カリオストロも、また面白いもの作るね」
なんてまじまじと鳩を見つめる様子は年相応にいとけない。
「じゃあそっちから最初は出してくれるの?」
問いかけに頷くとそっと鳩を渡された。
「楽しみにしてるから、忘れたら怒るよ」
言い出しておいてそんなことするはずもないと、自信を持って言ってやれない己の不甲斐なさが痛々しく、室内を柔らかく満たすばかりの陽光が変に目に沁みた。
心臓に、沁みた。
「文通かあ」
少年の声が響く。
「あなたが何を書いてくるのか、想像つかないや」
それもそうだ。自分でも、わからない。手紙なんてそんなに書いたこ、いや、手紙と呼べるものですらないような業務報告ばかり綴ってきた自覚がある。それはひどく、情緒のないものであったことだろう。しかしながら手紙とはもっと、些細な変化や、出会い、出来事を文字にして、相手を思って出すものだ。離れていても繋がりを持っていることを証明するものであるべきだ。
だからこそ、選んだのだから。通り道の野花のことでもいい、宿屋の飯のことでもいい、なんでもいいが、なんでもはよくないことを、ほとんど書いたことがないながらに理解していた。
「大丈夫だよ」
少年は目を細めた。
「あなたが思うままに書いてくれたら、それがきっといいものになるんだよ」
なんと、いとしい言葉だろうか。くらくらして、鳩を持つ指先が軋んだ。痛いとばかりに嘴でつつかれる。本物の鳩ではないくせに、本物の鳩より痛みに敏感なのではないか。知らなくていい。
「ああでも、もうしばらくは艇にいるんでしょ。そしたらさ、次の街で一緒に便箋を買いに行こう」
提案は、魅力的で、前のめりに、了承する。
「便箋の柄は、お互いに秘密だからね」
そのほうが楽しみが増えていいでしょ。秘密、とはまた、やたらに甘美な響きを持っていた。甘い、甘い、毒のように全身を満たしてくる。眉が八の字に歪んだ。胸を掻きむしりたい衝動のままに力が入り、ああまた、手の中の鳩が抗議する。食まれた薄い皮は多少の痛みはあれど、関心を向けるほどもなく、可愛らしい戯れのようであった。
「痛くないの?」
曖昧に笑う。少年も同じ顔をした。お互い、もっと強く、命をなくすような痛みを背負ったことがあるせいかもしれない。いやはや己ならまだしも、この少年がそんな人生を歩んでいるのは、いささか悲しまれるべきなようにも思われる。きっとそんなこと、彼は望みもしなければ怒りを露わにするのだが。それどころかこちらもさして変わらないことを指摘され、返す言葉も失ってしまうだけなのだろう。それならばむしろ、少年の生きてきたこれまでは、讃えられて然るべきとして、けれど、少年にはそれを一切ひた隠すのが、最も優良な選択と言えるに違いない。
「何か失礼なこと考えてるでしょ」
また、曖昧に笑ってみせた。少年のふくれっ面を見ていると、あんまりなほどに年相応で、心なしか胸の内の狭小な罪悪感が幅を利かせて身を大きくした。そう、たぶんそれは、やはりかつての部下がよくこぼしていた常識――良識というやつだ。少年の持つ幼さは本来、庇護を受けるべきもので、無用な争いも、無用な労にも巻き込まれず、何より、無用な情欲を向けられるべきでもないはずなのである。そう、もっと相応の、年頃の相手から向けられる恋慕ならいくらでも許されて然るべきとしても、まさかまさか、ようやく人の道を歩き出したばかりのような、だのに一丁前に歳ばかり重ねてしまった人間から、など。
「考えるだけ無駄だよ。僕は僕で、あなたはあなたにしかなれないんだもの。絶対に変えられないんだから」
何を想像したのか、少年から言葉はこぼされ、それは正鵠を射るのである。なんだかどうして、面映い。それが自然に発せられたものであるからこそ、彼という人物を形作る価値観のようなものが透けて見えた。
「そうだな。――さて、次の街にはいつ頃着くんだったか」
それがまた翌日の話である。夕刻に港につき、明日の依頼は午後からだと聞かされて、では午前中に出かけようとなって、現在。ほんのりと肌寒い空気を頬に受けながら、昇る朝日のように活気を得ようとしている街を歩く。まずは朝食だった。評判のいいカフェがあるらしいと向かうと、開店前にもかかわらず、すでに三組待っていた。こちらを見ながらお待ちください。店先に立つ店員に渡されたモーニングメニューを二人で眺め、それぞれ食べたいものを半分に分けようと提案される。了承は短く、さてではどれにしたものか。存外、甘味が食べたいような気がしていた。ふれんちとーすと、ほっとけーき、ぱんぷでぃんぐと並ぶメニューを指でなぞる。
「めずらしいね、甘いのにするの?」
じゃあ僕しょっぱいのにしよう。見開きのページの反対側、サンドイッチやトーストのメニューに少年の小さな指が滑っていく。爪が伸びているのが気になったが、指摘するべきはいまではない。帰ってからで、十分間に合う。ここは平和な街で、荒くれ者は多少いるかもしれないが、きっと今日は何も起こらないはずなのだ。
お待たせしました、と店員の案内で通された二人席の少しの窮屈さが存外に心地よく、水が運ばれたところですぐさま注文を済ませてしまう。塩気のあるメニューからBLTサンドと、甘味はぱんぷでぃんぐ。曰く、パンを使ったプリンのような食べ物らしい。少年が教えてくれた。プリンは、好きだと思う。ただ胃を満たし、栄養を得るためだけならそれである必要がないものに、好みなど、思ってもみなかったことに出会えるようになったのはやはりここ数年の話であった。
「前にさ、ヘクトアイズでプリン作ったよね」
料理を待つ間の雑談は、やはり、といってしまっていいものか、料理のことになった。少年が口にした、あの楽しい祭りの出来事は、よく覚えている。みんなで、一緒に、協力して、何かを達成するというのは、いつだって武力がつきものだった気がする世界で、あそこには戦いはあったが、武器はなかった。みんなが熱を持って挑んで、試行錯誤し、勝利を掴む。あの経験は、得ようとして得られるような、簡単なものではないように思われる。少なくとも、自分のような人間には。だからこそよく、本当によく、心に刻んでいる。
「またいつか一緒に作ろうよ」
首肯の前に店員が来た。二人で半分に分けたいという要望を汲んで、綺麗にカットされたサンドイッチは、静かにテーブルの中央に置かれる。合わせて、コーヒーも運ばれてきた。ミルクと砂糖も受け取って、少年が自身のカップにたっぷりと入れるのを見つめていると、彼はほんのり頬に朱を散らせていた。別に、子どもっぽいと思って見ていたわけではなかったが、複雑な年頃であるとも、重々理解できた。わざとらしく、目を逸らしてやる。テーブルの下で、脛のあたりを豪快に蹴られた気配があったような、なかったような。残念ながら痛くも痒くもなかった。いやほんの少し、くすぐったかった。
「サンダルフォンにもね、言われるんだ。そんなに入れるなら最初からカフェオレにしろって」
それは、彼の天司長殿が正しいように思う。まあ今回の場合は、セットとしてつけられるのがコーヒーに、紅茶と、オレンジジュースだったので、致し方ないようにも思われるが、少年の心情としてはそれでは腑に落とせないらしい。ああ、困る。また怒らせてしまうというのに、顔が綻びそうになり、中途半端に眉根が寄った。めざとい彼はすぐにそれを認めて、また一つ、テーブルの下で的確に脛を蹴った。今度は少々痛かった。そういえば彼の靴、爪先に金具が当てられていたはずだった。最初のはしっかり手加減されていたらしい。やさしいのやら、なんなのやら。三度目は相当のものが飛んできそうだと気を引き締める。
「怒ってないよ」
表情や態度とは反対のことを言いながら、彼はサンドイッチを頬張った。途端に、見開いた目がキラキラと輝くのだから飽きない。よほど気に入ったのか、頬袋を膨らませながら指だけで早く食えと言う。ああ、なんともいとけない。湧き上がるものに、これは庇護欲であるべきだ、と念じながらサンドイッチを手に取る。
よく焼かれた食パンに、みずみずしいトマト、シャキシャキのレタス、こんがりとしたベーコン。おそらく決めてはソースなのだろう。確かそう、おーろらそーすとかいったような、あれをベースにほんのりとしたスパイスが効いている。料理の腕前ならプロに引けを取らない元部下や艇の厨房担当たちなら、もっと詳しく分析もできるはずだったが、あいにくと、自身は食に頓着の薄い困ったいきものでしかなかった。
「おいしいね、これ。評判になるのもわかるなあ」
一緒に、と注文しておいたぱんぷでぃんぐが、ここで運ばれてきた。香ばしいカラメルが湯気と一緒に鼻腔をくすぐる。ぐつぐつじゅわじゅわとその熱は鼓膜を叩く音ではっきりと伝わった。
少年の瞳が、これまた綺麗に光るものだから、胸の端がちりちりと焼けてしまう。
お先にどうぞ、促され、スプーンを手に取る。ざくざくとスプーンを入れ、飾られているレーズンとともに一口。しまった、冷ますのを忘れた。味覚より先に痛覚が刺激され、熱さを逃すように細かく息を吐く。眼前の少年は呆気に取られたように目を瞬かせた後、口を開けて笑った。
「熱いのわかってたでしょ」
震える声が、指摘する。あんまり大きな声は周囲の迷惑になると思ったのか、口を閉じ、肩を振るわせながらしばらく。目尻に浮かんだ涙が、橙色の照明を反射していた。
「ほら、お水。氷も口にれちゃいな」
何もかも、言われるままだ。カラコロと口の中で氷を遊ばせていると、遅れて甘さが訪れた。ほろ苦いカラメルの向こうで、シナモンがわずかに香る。サンドイッチに負けず劣らず、こだわりを感じる。いい材料を使っているのだとすぐにわかる程度には、鼻腔を抜けるすべてが楽しい。舌に残る余韻が心地いい。
「大丈夫そう?」
頷いて、そのまま食べるように促した。自身ももう一口急ぎたかったが、こういうものは共有することが肝要なのだ。共有して、分け合って、はじめて増えるものがある。それは、好意だとか幸福だとかそういう明るい名前がついていて、増えれば増えるほど、世界とやらを明るくしてくれる力があった。
丹念に息を吹きかけ、よくよく冷まし、少年がスプーンを口に持っていく。ぱくり、もぐもぐ、ごくん。柔らかいから、飲み込むまでが早い。すかさず運ばれようとするもう一口は、口に収まる前にやはり念入りに冷まされた。まだまだ、熱はしっかりと蓄えられている。それにしても、よほど気に入ったらしいことが、それだけですぐにわかるのだから、素直なのはよいことだと感心しつつ、自分も注意深く次を口に運んだ。
「想像してたより甘くなくて、それがいいね。レーズンがよく合ってる。リンゴとかも合いそう」
確かに甘すぎないこれならば、甘くしたコーヒーともよく合うことだろう。あるいは、紅茶にしてもよかったかもしれない。
「食べ終わるのがもったいなくなっちゃうね」
名残惜しそうな言葉とは裏腹に、テーブルはみるみる片付いて、すぐにお会計となった。またお越しくださいませ、の店員の言葉に二人で頷く。
「さて、教えてもらった雑貨店が確かこっちのはずなんだよね」
大満足の朝食は幸福のうちにしめられ、並んで歩く時間に延伸される。やや入り組んだ路地の先、小ぢんまりとした佇まいのその店には、所狭しと雑貨が並べられていた。図体ばかり大きい人間には少しばかり窮屈で歩きづらい。ともすれば、何かにぶつかって商品を落としてしまいそう。割れ物もそれなりに見受けられるので、最新の注意を払って、目的のものを探す。いやしかし、この店の狭さでは、お互いの便箋を〝秘密〟にするのは難しいのではないか。同じことを思ったのか、少年は目的のものを二種類手にして、提案した。
「選び終わるまであっち向いてて。お会計終わったら声かけるから」
まあ、妥当である。慎重に振り返り、そこに並べられた砂時計に目をやる。赤や青、黄色といった色とりどりの砂の中で、なぜか目についたのは眩しいくらい真っ白い砂のそれだった。
「それはね、星の砂と呼ばれておるんですよ」
手にとって、顔を上げると目を埋めるようにしわを深めて笑む老婆がいた。どうやら店主らしい。星の砂とはまた、大層なものなのではないかと怪訝にすれば、どうやらそうではないようで。この近くの山の上の砂で、光に透かすとキラキラと反射することから、いつしかそう呼ばれるようになったのだという。それを集めて、この砂時計はちょうど三分を刻み落とすそうだ。あいにく使う機会もなければうっかり落として壊してしまいそうなので、そっと棚に戻すと、老婆もいつしか去っていた。
「終わったよ」
声をかけられ、振り返る。少年の手には綺麗に包装された包みが握られていた。では、次はこちらの番である。
便箋はさまざまあった。ひだまりの春のたんぽぽ、真夏のアウギュステを思わせる砂浜、秋の紅葉あるいは秋桜、冬の雪とクリスマス――だが、そういった季節性の強いものは、結局使いにくいように思われた。それでは猫か、もしくは犬か。確かに定番だが思っているものではない。花という気分でもないし、となれば、と。手にとったそれはおよそ満足のいく図柄だった。
「きっとよい結末を迎えられますように」
会計をしながら、老婆はそう唱えていた。意味を訊ねるとやはりしわくちゃに笑うだけで、何も答えてはくれなかった。どうやら、答えは自分で見つけるしかないらしい。まるで魔女のようだと言ってしまったら、あまりに無礼が過ぎるだろうか。しかしおとぎ話において、意味深いことを告げるのは魔女や賢者と相場が決まっている。あくまでここは、現実ではあるものの。
「またおいで」
老婆は店先まで出て見送ってくれた。そろそろ一番高い位置に、日が昇ろうとしている。それはそのまま、この時間の終わりが近づこうとしていることを意味していた。妙に、名残惜しい。けれど、いたずらに困らせてはいけない。
足はまっすぐに同じ方向、グランサイファーのほうへと進んでいた。迷いはない。ためらいはない。自分にも午後から、血の気の多い団員たちとの手合わせの約束がある。だから、早めに昼食を摂って、準備を整えておかなければならない、の、だ。
「本当はお昼ご飯も一緒にって思ってたんだけど、時間的に依頼メンバーは現地でお弁当ってことになったんだよね」
ごめんね、と必要のない謝罪が妙に喜ばしいのは何故か、考えるまでもなく、では夕食はどうだろうかと持ちかけると、色良い返事はすぐに返された。この街に滞在する数日間、さてどれほどの時間を共有できることだろう。可能な限りと願うものの、そうも言っていられないのが、団長という役割のもどかしいところだった。書類仕事から、団員のちょっとした相談事まで、彼は丁寧に拾い上げて、丁重に取り扱う。決して雑に処理するような真似はしないのだ。だからこその信頼であり、だからこその団長だった。
「それじゃまた夜に」
別れは手短に、はた、と気づけば夜の訪れは早い。そうなるように午後から詰められるだけ手伝いごとを詰め込んで、それでもだめならとたっぷり睡眠をとっていたのだから当然だった。せっかくなら出かけてみるのもよかったなと、思い出したのはまさに夕食の誘いを受けたそのときだったので、あまりにも後悔は先に立たない。
「それでさ、向かった先でね」
とはいえ話題には事欠くわけでもなく。少年の口から語られる依頼の様子は大変興味深かったし、途中に立ち寄ったという例の星の砂が採れる山にも、関心は尽きなかった。一面真っ白に煌めいている光景が、とても綺麗だったのだと。その場で語っていたのは、少年だけではなかった。少し離れた席で談笑する彼と魂を分け合う少女の声も聞かれた。興奮気味で、熱っぽく語るその高い声は、非常に、よく通る。なるほど、そこまでともなれば、自分の一度目にしておきたい。
「一緒に行く?」
それは、意外な誘いだったかもしれない。そんなに顔に出ていただろうかと思わず頬を撫でると、少年は目尻を緩めた。
「僕ももう一回行きたいんだ。朝日がね、昇る時間に行くと絶景なんだって。早起きしていこうよ。ただ明日は難しいから……そうだな、この街を経つ直前に行こう」
それは、二人で、か? 聞きそびれた。どちらでもよかった。嘘。二人であったらと願っていた。存外、聞いてしまうことで誰かを誘う話になりかねないような予感があった。本当かどうかは、わからない。
「いい? 早起きだよ。約束だからね」
ああ、それから、と少年は続ける。彼にしろ、自分にしろ、せっかくの夕食の肉じゃがはまだ半分も進んでいなかった。このままでは、すっかり冷めてしまう。厨房担当には悪いが、いまばかりはそれを許してほしい。本当は肉じゃがだって、白米だって、味噌汁だって、温かく湯気が立っている頃が一等うまいことは知っているから。いまだけ、いまこのときだけ、どうか。無意味な懇願は、胸の内だけでほどけていく。
「一緒に料理もしたいんだった。うんと早起きしてお弁当にしよう」
それからの数日は、お互いどうしてうまく噛み合わなかった。艇ですれ違うことはあったものの、あの日のように長く時間を共にすることは叶わないまま、過ぎた日々はあっけなく、かなしむことも、惜しむこともままならない。
「みんなまだ寝てるから、静かにね」
だからこうして、二人っきりで、まだ夜も明けない頃に厨房に並ぶのは、何やらそうではないのに〝わるいこと〟をしているような、魅惑的な空気があった。
食材は好きに使っていいと事前に許可をもらっているから、と。少年は迷うことなくトマトとレタスとそれからベーコンを取り出して、さらにケチャップとマヨネーズ、追加で粒マスタードにナツメグを選び取った。
トマトは5ミリ幅に切って、レタスは適当な大きさにちぎって、ベーコンはカリカリに焼いてね。そんな指示を受けながら動く横で、彼はソースに真剣だった。勝手だが、食パンをトーストしておこう。あの店は耳付きでそうしていた。
「よし。いい感じだと思う」
味見用のスプーンを差し出され、受け取らずに口にする。行儀悪いと笑う少年は、きっとなんにも気づくことなく、無垢なままであるのだ。
「じゃああとはこれを塗って、それぞれ挟んだら完成だね。日の出まで時間もないし急がないと」
駆け足で仕上げをし、後片付けはそこそこに艇を飛び出す。帰ってきたら怒られるだろうが、二人一緒ならそれほど怖くはない。仲良く怒られるのもまた、いい思い出になる。分け合うものは何も、幸福ばかりでなくていい。それもよく、知っていた。
登山道が整備され、登りやすい山を二人でぐんぐん進んでいく。東の空が白み始め、藍の空にうすらと紫が引かれ始める。じんわり額に汗を浮か、もう一息。鳥の声が聞こえた。じわじわと迫り来る朝は、決して追い立ててくるわけではないのに、逸る気持ちを抑えられそうにはなかった。
「あと、少し!」
上がった息の隙間で、少年が告げる。途端、視界が開けた。
一面の白に、金銀の光が瞬いている。東からの陽光をたっぷり受けて、ああそうか、この山は東側に遮るものがないから、差し込む光を一心に受けられるのか。まるで祝福でもされるような、その眩しさに目が眩んだ。瓶に詰められているそれではわからない、これは、ここにあって初めて真なる価値を表することができるものなのだろう。
「この砂、なんでこんなに光るのか誰にもわからないんだって」
少年は一度言葉を切って、口元に指先を押し当てた。
「ああでも、もしかしたらわかってて、わかってないふりをしてるのかもしれないね」
だってわからないほうが、きっと素敵な思い出になるもの。少年は両の掌で砂を掬い上げ、勢いよく撒く。何度も、何度も、同じことを繰り返す。
ここには、自分たちの他には誰もいない。だからこそやってしまえる。何度も砂を撒くうちに、すっかり少年が輝き始めたことに気づいて、まるでそう、それは、そう、
――望んだ恋の形をしていた。
美しくて、かなしくて、どこよりも近いのに、どこまでも遠い。手を伸ばしてもきっと得られない宝石のような、そんな素晴らしいものが具現となっていた。
「あはは、砂まみれだ。気づかれないようにシャワー浴びれると思う?」
返事を期待せず、言いながら少年はその場にどっかりと腰掛けると、にこにこと手招きをした。さあ、朝食をということだろう。上出来のBLTサンドを持って、隣に座る。砂の感触は独特の柔らかさで沈み込み、一定のところで止まった。
二人合わせて、いただきます。二人合わせて、かぶりつく。どうやらあの店の味とは少し違っていたが、それでも間違いなく絶品であることに偽りはない。コーヒーを、持ってくればよかったなという後悔はお互いの間でやんわりと流れ、代わりの白湯がほんのりと苦かった。
「今日、行っちゃうんでしょ」
少年はこちらを見ない。その横顔はやはりキラキラと嘘みたいに輝いていて、綺麗だった。
「見送りできそうにないからさ。ここで言っておくね」
視線がぶつかる。
「いってらっしゃい、ジークフリート」
「ああ。いってきます、グラン」
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