つきりま
2019-04-11 11:27:40
2473文字
Public ジクグラ
 

溺れる淵

昼下がりの惰眠の話。パー様を添えて。

 持ってきておいた飲み物が空になり、書物は最後のページがめくられる。恋愛小説なんてなじみが薄かったけれど、読んでみたら案外面白いもので、気づいたら一気に読み進めてしまっていた。あとで、お礼を言わなければ。感心の遠い分野に触れる機会を与えてもらえるというのは、とても贅沢だ。
 傍らに本を置き、ベッドに身を横たえる。洗い立てのシーツに皺が入る瞬間、少しだけパリッとした感触が背中に伝わるのが、なんとなく好きだ。陽だまりのにおい。風の感触。たっぷりとはらんだうららかなぬくもりが、ふっと逃げていく瞬間の心地よさ。ぼうっと眠たくなってくる。
「いまいいか?」
 ふと、戸を叩く音がした。耳慣れた声、パーシヴァル。慌てて身を起こし、開いていると告げる。どうせならおやつでも持参してくれていればと期待したが、彼は左手に紙束を持っているだけだった。
「ジークフリー、ト、はこ、こに――
 首を傾げる。おかしなパーシヴァル。何か変なものを目撃してしまって動揺が隠せない、といった感じだ。はて? そんなもの、ここにあっただろうか。イベントごとの折に団員がくれた贈り物の中には、造形が少々独特なものも多いといえば、多いかもしれない。とはいえそんなものは、彼だって見慣れているはずだった。
 パーシヴァルの手の中で、紙束が僅かにひしゃげる。
「なんだ、それは」
 数秒あって顎で指された先、自分の膝の上。
 ああ、そうだ、忘れていた。
「ジークフリートさん」
 事も無げに、言い放つ。実際もはや、グランにとっては特に何でもないことだった。
 腰に腕をまわし、膝に顔を埋める男。すやすや規則正しく息をして、同じリズムで脈を刻んで、穏やかに眠る、竜殺し、あるいは熊殺しの騎士。確かにこれは、少々、だいぶ、奇妙であるかもしれない。慣れというのは恐ろしいなとぼんやりと笑う。
 飛んできたパーシヴァルのため息が、なんとなく不快な心地の部分、たぶんそう、罪悪感のようなところに触れてくれた。
「そんなものは見ればわかる。俺が訊きたいのは」
「たまにあるんだよ。こういうの」
「答えになっていないぞ」
「だって僕にも何が何だかさっぱりなんだもん」
 嘘は言っていない。何一つ。きっかけらしいきっかけも、たぶんなかった。いや、あったのかもしれないけれどとうに記憶の彼方だ。気がついたら昼下がりの休日における習慣と化していて、あたりまえになっていて、そもそも初めから特に不快でもなくて。動きが制限されることについては不便だと感じるものの、些末事だと笑ってしまえて。
 あえて無粋を吐くとすれば、不快ではない、のではなくて、グランはこの時間を心から楽しんでいて、この時間が好き、なのだ。幸福なのだ。――ただそれだけが、確かなこと、なのだ。
「あーでもちょうどよかったや。ごめんパーシヴァル、剥がすの手伝って。僕トイレ行きたくなっちゃった」
 言えば、パーシヴァルは眉間の皺を深くした。
「普段はどうしているんだ」
「大体一緒になって寝ちゃってるかな」
「わけがわからん。それでいいのか」
「僕にもわかんないけど、まあ、それでいいんだよ」
 また、ため息。そんなに呆れなくてもいいじゃないかとグランはほんのりとした不満の上に、やっぱりどうしようもない幸をのせた。
「わっ! ちょっと起きちゃうじゃん。もっとやさしく!」
「どうせ起きるなら俺が入って来た時点で起きている。気にする必要はない」
 豪快に、強引に、パーシヴァルはジークフリートを引き剥がすと、乱暴に放り投げる。普通なら起きる。間違いなく起きる。だのにその無反応ぶりといったら、いっそ人形のようでもあって、面白いような恐ろしいような、複雑な気分にさせられた。
「寝、たふり……?」
「知らん」
 試しに頬をつついてみる。先ほどと変わらぬペースの寝息が、ふと、聴かれた。そこにきて、グランは「ジークフリートはよっぽど疲れているらしい」と結論付けることにした。刹那、腰のあたりの拘束感と、膝の上の重量感に対する喪失を、強く意識する。
 立とうとするのに、妙にうまくいかない。まるで、ベッドに縫いとめられてしまったかのように。
「行かないのか?」
「え、あ、ああ、行くよ、うん」
 促される。一度、深呼吸。肩を緊張させてから、すとんと力を抜いて、立つ。そのまま駆け出してもよかったが、念のためと少し屈伸をしてみて、惜しむようにベッドに転がされた男を見やる。うん、寝ている、と思う。あれだけのことをされて、本当に目が覚めていないのか、怪しいところではある、けれど。
「すぐ戻るから」
「ああ」
 まあ、いい。とりあえず、いい。トイレに行こう。ついでに飲み物と菓子も、調達して来よう。


「で?」
 グランが出ていってまもなく、パーシヴァルはベッドに腰かけて一音発した。投げかけられた男はしばらく無言の狸寝入りを貫いたが、パーシヴァルがあまりに睨むので降参するように目を開けた。
「で、とは?」
「決まっている。貴様何がしたいんだ」
 ベッドに寝ころんだまま、にこにこと。不気味なくらい楽しそうに笑う男と、対をなすように不愉快を全面に押し出すパーシヴァル。ふたりがくだらぬ問答に呆けていられる時間は、割合に少なかった。
「何、とは?」
「いい加減にしろ」
「ははっ、そう怒ってくれるな。別に意味はない」
「下心を隠そうともしていないというのに、意味がないわけがないだろう」
「いや、まあ、そうなんだが……。本当に、意味はないんだよ。パーシヴァル」
 ジークフリートは目を閉じる。その裏側に描かれるのは、彼の記憶か、それとも、それ、とも――
「ただ、あの子の隣はよく眠れる。ただそれだけ、それだけだ」
 そういうことにしておいてくれ。懇願のように言い置かれた言葉を、パーシヴァルはやはりため息で受け止めて、拳で軽く、男の額を打った。
「子どもだぞ」
「わかっているさ」
 ぱたぱたと調子のいい足音が聞こえてくるまで、あと、五秒。