ugmm_
2026-02-01 16:14:57
44910文字
Public 現パロ
 

満ちるのは最後

現パロ。
ハンニバルとマハルバル。いつもの現パロに分岐が発生しハンニバルとスキピオが付き合っていません(※フラグが折れてるので失恋するピオ等は発生しません)。設定と分岐発生前の描写はいつもの現パロと共通しています。ややこしい。



 逃げているのだという気がしなかった。
 あれは確かに敗走であり、背にしたのは自分のすべてだったというのに、前を走る姿が目に入っている限りは進んでいる気がしていた。
 負けたと分かったときマハルバルはすべてを投げ出した。死体に溢れ、かつて見た勝利をそのまま反転させた光景が広がる戦場で、指揮官として果たすべきすべてを捨て置いて馬を駆った。たったひとりを引き摺り出して生かすために。
 ──数えるほどの騎兵とともにどれほど走ったか、周囲にあるのが見知った景色だと気が付いた途端に手綱を握る手が緩んだ。
 どうやって馬の背にしがみついていたのか分からなくなるほど呆気なく身体が傾ぎ、地面へと投げ出される。全身を強かに打ちつけたがもはやどこが痛むのか、どこもかしこも痛いので気にならなかった。伏した体を起こすことができず見届けられなかったが地面を伝う蹄の音が馬たちの遠ざかるのを教えた。その安堵に浸ろうとしたところで一騎引き返してくるのに笑いが漏れ、その拍子に血を吐いた。身体と地面の間に温かいものが広がっていき、次第に指先の感覚が失われる。
 右目が血で濁って視野が狭い。片目で見る景色とはこういうものか、慣れるまで苦労しただろうなと、あまりにも今更なことを思った。
 馬を降りて駆け寄ってくる気配に、戻ってくるなと言ったつもりだった。ハドルメトゥムに入るまで走り続けろと、捨て置けと。自分の声が聞こえず、すぐそばまで来たはずの足音もいつのまにか消え失せて、ごうごうと風の鳴るような音だけが耳の奥に繰り返された。
 硬い地面から引き起こされて、落ちた拍子に折れたらしいどこかの骨があまりにも痛くて文句を言いたかったが、それがどこなのだか分からない。浅い息をしながら見上げた顔が別の誰かならばよかったのにと思った。
 ハンニバルは、いまとなっては見慣れてしまった顔をしていた。しかし既に弟たちを喪い、もう見ずに済むかとも思っていた。自らの手足を捥がれて動かなくなったその手足を前に途方に暮れるような、怖がるような顔。
 何か言っている。唇の動きを読めればよかったが、そういう器用な芸当は他の連中に任せてきてしまった。血や土に塗れたマハルバルの顔を拭った手のひらもまた汚れていて、彼も傷を負っているはずだった。それなのに誰も先を急がせないのだから追手は来ていないということだろうか。
 殺させてなるものかと、そればかり、それだけがマハルバルをここまで連れて来た。だから動けないのはもう大丈夫だということだと、そう信じることにした。戦場に置き去りにした者たちにこれで申し訳が立つ。
 何を言っているのだか分からないが叱責を受けている気配を感じ、マハルバルは目を細めた。イベリアを離れてからというもの、その意を汲みきれずに勘気を買ってばかりだった気がして。
「なにをいってる?」
 そんな力は残っていないはずの腕が糸に引かれるように上がり、ハンニバルの顔に手が触れた。口元に触れたところで何も分からないのに、聞こえていたところで彼の考えなど分からないのに、聞いてやらねばと思ったのだ。まるで幼い頃から何一つ変わっていないかのように目の前の相手を案じていた。
 目は閉じなかった。息が吸えなくなって視界が狭まり、今度こそ指先ひとつ持ち上げられなくなっても。
 何も見えなくなってもしばらく耳鳴りがしていた。ハンニバルは何と言ったのだろうと、最後に考えたのはそんなことだった。




 何かを思い出すと、決まってここがどこだか分からなくなった。
 無遠慮に昔の話をする親に育てられたせいで、マハルバルは何も思い出さない頃から存在しない都市の名前や時代錯誤な忠誠心に馴染んでいたが、それは本当に理解してのことではなかった。御伽話を現実と信じる幼子の純真さでしかなく、だから、それらはなんの助けにもならなかった。
 地面に叩きつけられる衝撃とともに夜中に目を覚まし、痛いと叫ぶ我が子を宥めようと、母は「夢だ」と繰り返した。確かにそれは夢だったが、記憶の見せた夢だった。背を貫かれた痛みは本物で、口の中に満ちる血の味だって幻ではなかった。それらを知った時には耐えられたが三歳かそこらの幼児に痛みを耐えることなどできるはずもなく、怖いと泣く子供を両親はどこにも傷はないと教えるように撫で続けていた。
 あるいは仔馬をくれると言ったと癇癪を起こすのに、その仔馬は大きく育ってお前と戦場を駆けたのだと教えた。死んだはずの母がいることに驚いて、死んでは嫌だと怖がるのを温かな腕で抱きしめた。アルプス越えの最中と信じ込んで凍えるのを真夏だというのに毛布に包んだ。
 過去の自分と現在の自分とが重なり合わない、その混乱は決まって夜中から明け方にかけて訪れた。それはマハルバルの思い出し方が夢を通じてであったせいで、同じ年頃になったハスドゥルバルは朝目を覚ますとイベリアにいた頃のままに振る舞っていたというし、マゴーネは昼間突然、目の前の現実と過去との齟齬を見つけてはどうしてと問い続けたという。
 ハンニバルは、一度もそんな様子を見せたことがなかった。
 いつものようにバルカの邸宅に連れて行かれ、ハンニバルとふたりでパズルを組んでいるときだった。四歳児が取り組むにはピースの数が多すぎるパズルを、ハンニバルは黙々と組み上げ、マハルバルはほとんど邪魔をしているだけだった。それでもよそへ行こうとするとまだ終わっていないと引き留めるので、どこに嵌まるのだか分からないピースを手に取って弄んでは取り上げられていた。
 リビングの床で遊ぶ彼らを、その親たちがソファから見守っていた。ハンニバルの弟たちがその場にいなかったことは覚えているが、それが何故だったかは覚えていない。
 一年ほどをかけて、マハルバルは自分には過去があるのだと納得しつつあった。一生を生き終えて、それを振り返る自分は死んだ自分と地続きであり、分ける必要はないのだと。だから言葉通り生まれた時からともにいる相手が、親たちにとってどれほど大切な存在なのか理解できていた。
 彼らが疑い始めているのを感じていたし、マハルバルにとってはほとんど確信だった。
 マハルバルの握り込んだピースを見せろと手を引っ張るハンニバルが、一向に手を開かない相手に業を煮やして指をこじ開けようとする、その邪気のない振る舞いが口を開かせたのだ。
「なあ、あのとき何て言ったんだ」
「あのとき?」
「おれが死んだとき、おまえ何か言ってただろ。でも聞こえなかったんだ」
 大人たちがじっとこちらを窺っている気配を感じていたが、構わなかった。ハンニバルはその強く印象を残す目でマハルバルを見つめ、やがて幼い不安を滲ませて言った。
「マハルバル、死んだことがあるのか」
 小さな両手がマハルバルの手を握っていた。
 ああ、とすとんと胸に落ちるものがあって、マハルバルは首を横に振った。夢の話だった、本当のことじゃない。死んだことなんかない。そんな誤魔化しを素直に飲み込むはずがないのにハンニバルがそれ以上問わなかったのは、死の存在に気がついて間もなかったから、怖かったからだ。本当は泣きたい気がしたけれど、ハンニバルの不安を拭ってやりたくてマハルバルは笑みを浮かべて握っていたピースを渡した。
 ハンニバルには過去の記憶がない。そうと分かって大人たちには動揺が走ったが、結局は皆受け入れることにした。中でもハミルカルの態度が変わらなかったことにマハルバルは安堵していた。あの父親に失望や落胆があって、これはあの子ではないと打ち捨てられることがあったら、マハルバルには何もしてやれることがなかっただろう。
 失望するには、何も知らない子供はハンニバルそのままでありすぎたのだ。別の誰かではありえなかった。たとえ気まぐれに母親の膝に甘えてそうとも知らず幸せを振りまく、そんな誰も知らない振る舞いをしても。
 マハルバルは変わらずハンニバルの遊び相手であり続け、ハンニバルの弟たちが状況を理解してしばらくは軋轢が生まれないように彼らの間に挟まっていた。
 その姉たちとは、親しむというほどではなかった。令嬢にみだりに近付いていいものではない、そんな感覚がマハルバルを少女たちから遠ざけていたし、彼女たちはマハルバルを弟の飼い犬と思っていた。
「本当に仔犬みたい」
 そう言って手にしていた飴をひとつくれた長女はすでに高校生で、小学校に入ったばかりのマハルバルからすると大人のひとりだった。弟のやんちゃな遊びに付き合ってマハルバルが額にこぶを作っているのを見て気の毒に思ったらしい。
 記憶を遡っても関わりがなく、いまも貴婦人然とした彼女を前にすると口に含んだ飴が何の味か分からないほど緊張した。
「あのね、マハルバル」
 かつて生きた年数で言えばその父母よりもずっと長く、時にそれを感じさせる振る舞いをする。そのときも、少女らしくない静かな眼差しをしていた。
「あの子が何も覚えていなくて寂しいと思うけれど、あなたのことは大人が勝手にあの子にあげてしまったのだけれど、それでもハンニバルはあなたがいない世界を知らないの」
……せかい?」
「そうよ。マハルバル、あなたたちをみんな失ったあの子はそれでも生きたわ。そのご褒美だと思ってあげてほしいの、離れないでいてあげてね。いまもあの子のことが好きでしょう?」
「でも……
 自分が言おうとしたことが曖昧すぎて、幼い頭には言葉にできなかった。
 誰も彼も先に死んで、それでもお前だけ生きろと言ったのはマハルバルだった。みんなそう思っていたから代わりに言っただけ、そんなふうに突き放すこともできるが、マハルバルは生き抜く者の気持ちなどひとつも考えなかった。
 騙しているような気がする、と言おうとしたのかもしれない。


 明け方、そうっとドアを開き、隙間から中の様子を窺う。両親がまだ眠っているのを確かめて忍び込んだ寝室は、母の趣味が大いに反映されて可愛らしい調度に溢れていた。いわゆる少女趣味だ。父はよくこれで悪夢を見ないものだと思うが、耐えるのも愛情表現の一環だろう。
 かつての父は、まさか妻があれほど早く死ぬとは思っていなかったようだから。マハルバルがある程度成長したなら共にイベリアに呼び寄せるつもりでいたのに、見送りの姿を最後に会えなかったことは、思いの外大きな悔いとなっているようだった。
 そうとは語られないので推測である。足音を立てないようにまずヒミルコの枕元に小さな包みを置いた。昔ならこれで起きたはずだが、瞼の動く様子もない。
 ベッドをぐるりと回り込んで母の枕元に先ほどよりずっと大きな包みを置く。よし、とマハルバルは達成感に頷いた。
 これをハンニバルが思いついた時には、なんて面倒なと思った。大人は大人同士で何かしら贈り合ってるんだからいいじゃん、子供は貰うだけ貰って喜んでいればいいんだよ気を遣うなよ──しかし帰りの車中で、紙袋を大事に抱えている横顔を見た時にはまあいいかと思い直せた。
 任務を終えて自分の部屋に戻ろうとしたマハルバルを、ぬっと伸びてきた腕が捕まえた。
「んわっ」
 ベッドの中に引き摺り込まれ、知らぬうちに冷えていた体がじんわりと浸み込むような温もりに包まれる。母の柔らかい手が額を撫でた。
「こんな時間にどうしたの、マルちゃん」
「それやだって言ってんじゃん」
「まーくん」
「それもやだ」
 くすくす笑った母が抜け出そうと暴れるマハルバルを両腕で抱き込んで、自分と同じ色の髪に頬擦りをした。寝かしつけるつもりの手つきで頭を撫で始めてから、枕元に置かれたものに目を向けた。
「あら?」
 伸ばした手が触れて包装紙ががさりと音を立てる。
「これ……あらまあ……マルちゃん? ね、これを置きに来たの?」
 どうやらヒミルコは妻には何も言わないでいたらしい。言っておいてくれた方がよかった、とマハルバルは気恥ずかしさから布団の中に隠れた。
 体を起こした母がベッドサイドの灯りをつけ、包装を剥がしていく。ハンニバルは母上は寒がりだからと言って膝掛けを選んでいた。マハルバルの母は暑がりである。しかし他に思いつくものもなかったし……そんな言い訳を頭の中に並べていると、布団の中に手が伸びてくる。
「私のサンタさんはどこ? お礼を言わなくちゃ」
「もう帰った」
「どこかな〜?」
「帰ったって!」
 当然ながらすぐ捕まり引っ張り出された。頬だの額だのにキスをされて唸る息子の様子などお構いなしで、サンタさんありがとうと抱き締められると、この細腕から逃げ出せないのが恨めしい。
「無理して使わなくていいから」
「どうして? いままで貰ったプレゼントでいちばん嬉しい。穴が空いても使う」
 何を大袈裟なと思ったがその目に涙が浮かんでいるのを見て、抵抗するのをやめた。
 彼女はカルタゴでちょうどマハルバルがいまの齢のころ、八歳のときに死んだが、その兆候はどこにもない。出産で痛めて以来ずっと調子の戻らなかった体が、些細な風邪か何かにさえ耐えられなかった、そういう様子だったから、同じ原因で死ぬことは多分ない。
 マゴーネまでもが父方の祖父母の顔を知っていて、可愛がられた記憶を持って育っていくだろうことのように、かつてとは多くの違いがあった。それは心地よい、慈しむべき夢のようにあちこちに転がっている。
 狸寝入りを決め込んでいたヒミルコが突然妻子をまとめて腕に抱え込んだせいで、マハルバルは部屋に戻れず、夢に苦しめられていた頃ぶりに両親と眠る羽目になったのだった。


 その日の昼にはいつも通りにバルカ邸を訪ねた。遊戯室としか呼びようのない、子供が遊ぶためだけの広い部屋でその日ばかりは大人の目を気にせず好き好きにお菓子を食べごろごろと寛いで過ごすのがクリスマスの恒例なのだ。
 姉弟はいかにも物凄いプレゼントを貰っていそうでいて、家族や親しい間柄以外、要するに子供を通じて親に取り入ろうとする下心のあるプレゼントはハミルカルが排除していたから、案外常識的な範囲に収まっている。
 ハスドゥルバルが最近凝っているブロックの新しいキットを、マゴーネが小難しそうなボードゲームを見せてくれる横で、娘たちもそれぞれお互いの貰ったプレゼントを見せ合っていた。既に成人している長女にもまだプレゼントは届くらしい。
「なにそれ……
 ハンニバルがどんと並べたのは二十冊ほどの本だった。
「やっと全巻揃った」
「あの……なんか難しい……ややこしい……小説?」
 勧められたが設定が飲み込めず一冊も読み切れなかった。面白いかどうか以前に、想定されている読者の年齢に達していないような気がする。
 古いシリーズで新品では手に入らず、古本にしても状態がいいものを探すとなかなか揃わないと言っていた。一冊手に取ってみるが、日焼けもしておらず、独特の匂いもない。
「古本にしてはぜんぶ綺麗じゃん。まさか新品?」
「サンタの力だな」
「信じてないくせに」
 マハルバルは五歳の頃にハンニバルからサンタクロースは虚構だと教えられてそれなりに衝撃を受けたのだ。彼にとっては親に無茶振りをする口実である。
 冬休みはこの本を読んで過ごすつもりらしい。しかしその日は読書に没頭することなく、ハスドゥルバルもブロックは脇に置いて、皆でマゴーネのボードゲームに付き合って過ごした。
 夕食を摂った後もいつものようにずるずると遊び続け、そのまま兄弟の部屋で眠っていたマハルバルは、夜更けにヒミルコの手に揺り起こされた。寝惚けている息子をベッドから抱き上げた父が部屋を出たところで、ようやくまともに目が開く。
「帰るの?」
 答えがないので見上げた父親の顔に、どうやら一睡もしていないようだと思う。彼が向かうのがハミルカルの書斎だと気がつくとどんと嫌な予感が押し寄せてきた。
「何もこんな時間に起こさなくとも……
 書斎に入った彼らを迎え、そう言ったのはボミルカルだった。長女の交際相手である彼はいまもバルカ家の人々と親しく、マハルバルも何度か会ったことがあった。
 ソファに下ろされて、恐々と覗ったのはハミルカルのことだった。向かいの席に座る彼もどうやら眠っておらず、なんだか、その気配が怖い。しかしマハルバルと目が合うといくらか、どうやら努力して、その気配が和らぐ。
「少し教えてほしいことがある」
 昔の話だと直感したものの、その続きは予想を大きく外れた。ハスドゥルバルが──いまも子供部屋で眠っている幼子でなく、かつてその義兄であった人物が襲われたと。
 確かに、昼間ヒミルコは彼が電話に出てくれないと困っていた。
……あの時と、同じやつに?」
 そんなことが起こってしまうのか、と大人たちの顔を順繰りに見たマハルバルは、ハミルカルと目が合いそうになって慌てて手元に視線を落とした。そのそばに膝をついたボミルカルがゆっくりと、穏やかな物言いで続けた。
「おそらく、そうらしいんだ。ありうると思うかい」
「うん」
 頷いてから、また怖くなった気配にマハルバルは顎を引いた。
……会ったらまた殺そうとすると思う……あいつのこと知らないの?」
「知っているが、直接見た者からは話を聞けていないからね」
 確かに、ハスドゥルバル当人にしか話したことはない。思い出そうとすると、耳元に叫び声が響いてくるようだった。女の悲鳴と、けたたましい男の笑い。
 あの新しい都市で宮殿の庭を整えている最中で、ハスドゥルバルはふたりめの妻と共に作業を見守っていた。マケドニアを真似て動物を放そうかなどと言っていたのを、マハルバルはイベリア貴族であった夫人のそばで聞いていた。他にそばに控えていたのは侍女くらいだった。
 彼女が何かが気になると言って庭に出て、マハルバルもそれについて行ったのだ。突然耳を劈くような侍女の悲鳴が聞こえ──今更その油断、失態を責められるとまでは思わないが、視線は大人たちを避けて下がっていく。
「あの奴隷のことはハンニバルが吊るしたり焼いたり色々、したんだけど、ずっと笑ってて、復讐なんだって言ってた。誰かに言われてしたんじゃないって。たぶん、また同じようにしても笑うんじゃないかな……
 不安を抑えきれずにボミルカルの方を見ると、優しい顔を作ってくれた。
「ハンニバルのところには、来ない?」
「大丈夫だよ。もう捕まっているから」
……うん」
 戻ってもいいと言われて、マハルバルは書斎を出るなり駆け出した。
 兄弟の子供部屋に戻るとハンニバルだけがベッドの上で起きていた。元いた通りその隣に潜り込む。
「マハルバル?」
 訝しんで覗き込んでくる年齢にそぐわない理知的な眼と、幼い声、小さな手に、耐えきれなくなって腕を伸ばした。ハンニバルは押し倒されて小さく呻き声を上げたが、その頭をぎゅうと抱きしめる。
 まだ、そんなことは一度も起こっていない。かつての恨みをこの時代に持ち越した誰かがハンニバルの元にやってきたことはない。
 あの奴隷はハスドゥルバルを恨んだが、将軍の命令のもと実際に軍勢を動かし、奴隷の主人を殺したのは自分たちだった。それでも復讐はハスドゥルバルに対して為された。ならば、あの戦争で築いた夥しい死体の山とその縁者たちの恨みは、マハルバルではなくハンニバルに向かうだろう。
 ハンニバルが忘れている者たちはみな彼を覚えている。
 閉じ込めるように胸に押しつけていたから、マハルバルが震えているのがハンニバルには分かっただろう。背中に手が回って、宥めるように軽く叩いた。ぐずる弟にしてやっていたのと同じ手つきで、ハンニバルはマハルバルが眠るまでそうしていた。


 それからしばらく、バルカ邸は落ち着かなかった。正確に言えばハミルカルの様子がおかしいので家族もその煽りを受けていた。流石に子供達を前にすればどうにか取り繕っていたようだが、ハスドゥルバルが姿を見せなくなりその期間が長引くほどに疲弊していくのを見れば丸分かりである。
 それでも、妻や娘たちを含めて家族の誰も彼の不在の理由を知らなかった。
「父上はあの人と喧嘩してるんだ」
 ハンニバルはそう決めつけてぶすくれていた。せっかくの日曜日に何の予定もないというのでマハルバルの家に遊びに来ていたが、本当のところは母親の前で取りづらい態度を取るために来たらしい。
 自分のベッドに大の字になっているハンニバルを、マハルバルは窓際の長椅子から眺めていた。
「あの人は本業が忙しいんだって親父が言ってたじゃん」
「そんなの嘘だ。あの人の仕事はほとんど父上の世話だから」
 まあ、それは、その通りである。ハスドゥルバルの本業って何だよとマハルバルも思ったのだからハンニバルを誤魔化せるはずがない。
 信じ難いことにハンニバルは父親との約束をひとつすっぽかされていた。まさに今日、遠方の動物園で公開が始まった仔象を見に行くはずだったのに、当のハミルカルは数日前からどこか外国にいる。一応は詫びを入れる連絡があったらしいが、それも今朝のことで、ハンニバルがこんなふうに臍を曲げるのも無理はなかった。
 ボミルカルがハミルカルの道連れになったせいで長女もデートの約束をすっぽかされている。ヒミルコは詳しく教えてくれないが、ハスドゥルバル当人というよりはその家族と揉めているらしい。
「父上はあの人と喧嘩して逃げられてそれを追いかけていって、今頃一緒に帰ってくれって頼んでる」
 まるで見えているかのような物言いに、こいつまさか気付いているのだろうかとマハルバルは思った。実際にいま彼らがどうなっているのかは知らないが、イベリアにいた頃のハンニバルは父親と義兄の関係に諦念を抱いていた。
 ハンニバルがこちらを向き、目を細める。
「俺だって、お前がどこかに逃げたら追いかけるぞ」
「逃げないけど」
「ならいい」
……うん?」
 話についていけないマハルバルを置いてけぼりにして、ハンニバルは不貞寝の体勢に入った。
 結局ハミルカルが家に帰って来たのはさらに数日後、ハンニバルのご機嫌取りにひどく苦心したのだと、笑い話として弟たちから聞いた。


 ハンニバルから離れないでいるというのは、望む望まざるに関わらず大人たちによってマハルバルに課された仕事のようなものだった。小学校からずっと同じ学校に通い、登下校も同じ車で送迎され、不思議とクラスが分かれることもなく。しかしハンニバルに用意された「友人」はマハルバルだけではない。
 小学校に入ったあたりから数人の子供と引き合わされ、年頃のばらばらの彼らとも共に過ごすようになったことを、ハンニバルは親の都合と受け止めてさほど気にしていなかった。彼らが揃ってハミルカルの部下や友人の子女であったからだろう。
 マハルバルも共に紹介を受けたのだが、彼らとはそれほど仲良くならなかった。かつてのバルカ党に属した者の子と言ってもすべてが軍にいたわけではない。どうしてか、本国やイベリアにあって軍務以外の仕事をしていたような連中ばかりが集まった。彼らがハンニバルの取り巻きになるのは歓迎するが、よく知らなかったし、なんとなく馴染まなかったのだ。
「生まれる年がずれているか、遠くに生まれているのかもしれないね」
 どうせなら一緒に死んだ連中がいればいいのに。愚痴っぽく漏らしたマハルバルにそんなふうに言ったのはシレノスだった。
 十四歳になったマハルバルはとにかく受験勉強に追われていた。ハンニバルと同じ学校に入れると決めている両親の無茶な要求のせいで、マハルバルの余暇といえばそのハンニバルの遊びに付き合う時間くらいだった。それも幼い子供でなくなると短くなっていく。救いはこの男が家庭教師をやってくれていることだ。
 ハンニバルは学校の勉強程度では家庭教師を必要としないので、シレノスはもっぱらマハルバルを教えていた。現在は大学院生として、このよく分からない世界の歴史を学んでいるという。昔と変わらず出来の悪い生徒に教えるのが上手かった。
「遠くって? 覚えてたらハミルカル様のところに来るだろ」
「そうとも限らないよ。親がまったく違う生き方を自分や我が子に望んでいれば遠ざけられているだろう」
 子供の集中力が切れたと見て、シレノスは机に参考書を置いた。マハルバルの部屋はまったく望むところではないのに参考書の類が机や本棚に溢れている。
 彼以外のかつての教師たち、フィリノスやソシュロスも縁ができてはいるのだが、彼らにはすでにバルカと関係のない生業があり、こんなふうに頻繁に顔を合わせることはなかった。シレノスは中学生の頃にビュルサ本社の受付にやってきて「カレ・アクテのシレノスです」と名乗ったらしい。
「あいつらの性格から言って、親の考えなんかほっといて来たけりゃ来るじゃんか」
「ハンニバルに会いたくて?」
……会いたくてっていうか……それが当然じゃないのか?」
 イベリアやイタリア、果てにアフリカで共に陣中にあった同僚たちの顔を思い浮かべ、その面影がぼんやりとしていることにマハルバルは背凭れを軋ませた。
 小学生の頃まではそれほど思い出さなかったのに、近頃はやけに彼らを忘れまいとしている。ハンニバルが学校でもそれ以外でも他の友人と、あるいはひとりで行動することが増えたせいかもしれない。それで寂しいとはいかにも子供っぽいが、実際に子供なのだから仕方がないのだ。
「でもがっかりするかな、あいつが何にも覚えてないと」
「がっかりしたのかい」
……シレノスは?」
「がっかりはしなかったよ。私はハンニバルや君たちを書き残したことに満足しているから。彼が覚えていないのは、私の仕事は終わったということかもしれない」
 線の細い青年がその芯の強さを窺わせる笑みを浮かべると、老人になるまで生きたという彼の長い人生が感じられた。四十年と少し、それもほとんどを戦いに費やしたマハルバルの人生は、この平和な社会でさほどの糧にならない。
 羨ましいなと思った。ボミルカルや、シレノス、その他の者たちが教えてくれる自分が死んだ後の出来事は、笑って聞いていられる内容ではない。語る者たちにも悲哀があった。それでも彼らは、やり残したことなどないという顔をしていた。
 生き抜いたのだと信じている。マハルバルもそのはずなのに、もう何もいらないとは言えない。


 待っていると言ったくせに、到着してみるとどこにもその姿がなかった。
 途切れず人波が出入りする主要駅、北側の出口と指定してハンニバルがマハルバルを呼び出したのは昼過ぎのことだった。この週末は特に約束もしていなかったが、彼からの呼び出しであれば勉強だの訓練だのを全て放り出せるので二つ返事に家を出た。
 ハンニバルが用件も言わずに人を呼びつけるのは今に始まった話ではなく、ただ、今日は彼にも出掛ける用事は特に何もなかったはずだ。当人から申告もないのにあの家の姉弟全員分の予定表が作成されているのも最近は気色悪く思えてきた。
 周囲を見回すが、目に留まるものはない。何もしなくとも目を引く存在を人混みだろうが見逃すはずがなかった。
 じりじりと地面を焦がすような陽射しの降り注ぐ真夏、日陰とはいえ突っ立っているだけで汗が背中を流れた。履歴のいちばん上に表示されている番号をタップするが答えたのは電源が入っていないという自動音声だった。電車を降りてすぐにかけた時にはコール音を繰り返した末に繋がらなかった。
 別の番号に掛ければすぐに応答がある。その父の声を遮って問うた声はすでに硬い。
「ハンニバルはいまどこにいる」
 姉弟には幼い頃から従者をつけていたが、ある程度成長し鬱陶しがるようになると尾行のような形をとるようになる。こんな場所に出たハンニバルにも必ずふたりはつけられているはずなのに、ヒミルコの返答は「分からない」だった。
 この駅に到着してすぐ撒かれたらしい。しばらくしてスマートフォンの電源を落とされ、見失ったと。
「クビにしろそんな役立たずども!」
 声を荒げるマハルバルを周囲にいた数名が振り返る。ヒミルコが落ち着けと言うのも気に入らなかった。
 かつてバルカ家の将軍のもとで戦ったという義理で雇われているくせに、十四歳の子供のお守りもできないのでは存在意義がない。幼いうちには生来の資質や親の立場が面倒ごとを引き寄せていたが、成長とともにかつての姿を知る人間がハンニバルを見つけるようになった。対してハンニバル自身はただの十四歳の子供だ。許される失敗ではない。
 駅構内、直結された施設にも姿はないと言われて日陰を出る。呼び出されたところから作為を感じていた。わざわざこの出口を指定したのが無意味なはずはないと当たりをつけたものの、この繁華街だ。
 誰かに声をかけられた、誰かと合流した様子はなかったと言うが、信用ならない。撒こうと思えばマハルバルにだって撒ける連中だった。
 駅前の道路を渡り、元々何の用でここにいたのかを考えるが、あちこちに興味を向ける性格のせいで見当がつかない。他の者たちにも探させているから、とヒミルコが言ったところで一方的に通話を切る。
 そこで立ち止まり振り返ったのは、そうしてからその理由を考えるような動作だった。行手を塞ぐマハルバルを不審げに横目にしながら流れていく人波、その只中にあって何か、懐かしい感覚を覚えた。周囲の気配の中に特別なものを探す、あるいは伏兵を警戒するような緊張感がうなじのあたりをざわつかせた。
 見られているのだと気付いて視線を巡らせる。こちらを向いている目、関心を向ける気配はいくつかあったがどれも違う。
 人の流れに乗ってしばらく歩くとそれが途切れる。こちらが見る側の死角に入ったのだと察してマハルバルはビル群を見上げた。
 スマートフォンが短く震え、ヒミルコかと思ったら未登録のアドレスからのメールだった。
 文面はなく画像の添付のみ、開いてみるとちょうど見上げた百貨店の建物の方から見下ろした景色が撮られている。画質を上げればマハルバルが映っているだろう。
 おちょくられている? ハンニバルにではない。しかし自分のこと、あるいはハンニバルのことを「覚えている」誰かだと思った。
 そこを絶対に動くなと返信すると、「さっさとしろウスノロ野郎」とすぐに返事があった。この性根の悪さ──マハルバルはどう宥められても収まらなかったはずの心配や焦りをちっとも感じなくなっている自分に違和感を覚えなかった。


 古い百貨店の屋上は、昔は小さな遊園地だったらしいがいまはただの庭園となっている。ぎらぎらと眩しい太陽から逃げ場のほとんどない屋上に人影は疎ら、その端にある展望デッキには三人の姿が見えた。街の様子を見下ろすハンニバルの後ろ姿を認めひとまずほっとしたのと同時に、下手人の正体が分かる。
 予想通りだった。駆け寄りながらマハルバルは知らず笑顔を浮かべていた。
「──マゴ!」
 ベンチに座る少年がこちらを見る。その小綺麗な顔は、目にしてしまえば忘れかけていたことが嘘のように懐かしかった。
 走る勢いのまま飛びかかると、思っていたような抵抗がなく二人揃ってデッキの上に転がる。馬乗りになった相手はどうやら自分たちと同世代、それにしても華奢で頼りない感触だったが、笑った顔は可愛げのひとつもない。
「犬か?」
「この……クソったれのサムニウム人! 何なんだよ!」
 襟を掴んでがくがく揺さぶるとマゴは声を立てて笑った。
「マハルバルなら絶対来るって言うから試したけど、本当に来たな」
 何の話だと思いそばに立った相手の方に顔を上げると、ハンニバルが不審げにマハルバルを見下ろしていた。その後ろに見える顔もまた懐かしいが、マハルバルの目がそちらの男に向くとハンニバルが眉を寄せる。
「本当に知り合いだったのか」
「うん。昔……の、友達!」
「昔?」
「友達ぃ?」
 下敷きにしたままのマゴが馬鹿にしたような声を上げるので髪をぐちゃぐちゃに掻き回し、その腕を引いて立ち上がる。服を払ったマゴはハンニバルとマハルバルとを見比べて猫のように目を細めた。
 駅でハンニバルの姿を見かけて声をかけたが、面白いことになっていたから──つまりは自分たちを知らない様子だったから──弟たちやマハルバルはいないのかと尋ねた。するとさらに面白いことになっているようだったから、ちょっと揶揄ってやろうと思った。
 ハンニバルには、そうふざけた説明した少年と自分のそばに控えるように立つ青年に気を許す様子がなかった。どうしてこんなのに付き合って一緒にいたのかとマハルバルが問おうとしたとき、青年が上着のポケットを探った。
 モノマコスは一見する分には人懐っこそうな笑みを浮かべて、スマートフォンをハンニバルに差し出す。
「これ返すよ。マハルバル、私には抱きついてくれないのか?」
「なんか薄汚いから嫌だ」
 自主的に電源を落としたのではなく取り上げられたらしい。それで機嫌が悪いのか。スマートフォンはハンニバルが電源を入れて少し経つなり大量の通知で震え始める。
 マハルバルはとりあえずヒミルコに場所を伝えるメールを送った。すぐに着信があったが拒否し、いいから迎えを寄越せともう一通メールを送ってスマートフォンを仕舞う。
「ハミルカル様にはお前らが誘拐したって報告するから」
「なんで? 別にひどいことしてないだろ。おやつもあげたし」
「ハンニバルが手付けないからマゴが食ってたけどね」
「甘いの嫌いだっけ?」
「お前らうるさい。ちょっとあっちいけ」
 ハンニバルの手を引いて距離を取り、改めて顔を覗き込んで様子におかしなところがないか検める。こんな場所にいるせいで汗をかいているものの、不機嫌な顔つきである他はいつも通りだ。
 近頃ぐんと背が伸びた相手の顔をマハルバルは見上げる格好になった。昔より背が高くなるかもしれないと予想していたが、当然ながら昔よりもいくぶんか線が細く、まだ子供らしさが残る。それでも睥睨するような振る舞いが似合うようになってきていた。要するにじっと睨まれると怖い。
 ともかく屋内に入れようともう一度手を引くが今度はその場を動かなかった。
「何もされてないだろ?」
 揶揄われたり、彼には意味の取れないことを言われたりはしただろうけれど。それは十分に不機嫌の理由になるかとマハルバルは首を傾げた。
「あいつらのこと嫌いになっちゃった?」
……そうだと困るのか」
「別に困らないけど。多分これから長い付き合いになるから」
「いつものように?」
 そう、いつものように。まだ幼稚園に通っていた末弟の前に突然膝をついて大泣きしはじめた不審者が、今ではマゴーネの身の回りの世話をしている、そんなことにハンニバルは慣れている。
 ハンニバルは、何やら戯け合っているふたりを振り返った。あいつらは絶対に余計なことを言ったのだろうと分かったけれど、何を言われたのかとはマハルバルは問わなかった。問い返されたとき、何も答えてやれないのも分かっていたから。


「里親のとこにいたんだけどそこの大学生の娘が布団に潜り込んできたから寝たらバレて追い出されて、別のとこでも嫁さんと同じことになってさあ、施設に戻されちゃったんだよ」
 あっけらかんと言ったマゴに、マハルバルは何と返すべきか迷った。
 相変わらずだなと思うのと、その女たちは悍ましい真似をしたと思うのが矛盾しない。やはり同い年だったマゴには昔のままの感覚しかないようだったので結局は曖昧に相槌を打った。
 ヒミルコが不甲斐ない従者たちと共に屋上にやってきて、ハンニバルとマハルバルは家に帰されることになった。ところがマゴとモノマコスが帰るあてがないなどと言い出し、ヒミルコはとりあえず彼らを自宅に引き取ることにした。事情聴取と説教は明日にすると言って。
 ハンニバルを送り届けたのち、マハルバルは彼らにあてがった客間でそれぞれの現況を聞き出したのだが、碌でもないことになっている。
「こっちに問題があるみたいになってカウンセリング受けさせられたから昔の話したら、こいつが同じ話してるっつって引き合わされて、感動の再会」
「モノマコスの方はなんでカウンセリング受けてたんだ」
「保護観察中だから」
 はたちそこそこらしいモノマコスがそう言うのにはあまり驚かなかった。マハルバルの周囲には、どうしても現代で生きるのに馴染めない者もいる。ローマ人には血に飢えたけだもの扱いされていたモノマコスがその類だとして、同情もさほど湧かなかった。
 どうしてもっと早くハミルカルを訪ねなかったのかと問えば、子供のお守りをするのは嫌だからなどと答えるのである。マゴの方は単純に遠方にいたことと環境からくる無知のせいらしかったが。
「感動の再会はいつしたんだよ」
「昨日」
「はあ?」
「これも縁だと思って抜け出して……ハミルカル様の会社に行く途中でハンニバル見つけて。それでこう」
 こう、とマハルバルの寝間着を着た自分を示したマゴがベッドに転がった。イベリアで知ったのもちょうどこの年頃の彼だったから違和感なく接していたが、やはり栄養の足りていない細い手足が裾を余らせている。
 マゴは自分の親を知らないと言うのだが、マハルバルにはひとつ心当たりがあった。
 以前と変わらぬ妻との間に数人の子供を儲けながら最初に生まれるはずの息子を得られず、いつも当惑したように暮らしている男のことは、ヒミルコから聞いただけだ。しかしかつて持て余した子供を早々に捨ててそれを周囲に隠しているということはまずない。縁が切れたということだろうかと、ハンニバルが生まれる以前のハミルカルが知ったら動転するのでは済まなさそうな話だと思っていた。
 マゴはあの人たちかと言いながら、姿形を思い浮かべてはいない顔をしていた。
「今頃親父が連絡してると思うんだけど」
「それで……里親になってくれそうなわけね」
「嫌なのか?」
「ほぼ知らない人たちだし。でもまあ、いいか、お前らと遊べるなら……
 話を続けるかと思ったのに黙り込んだので覗くと寝ていた。
「疲れてたんだろう」
 布団を被せたところでモノマコスにそう言われて、そうなのだろうかと寝顔を見下ろした。
「マハルバルは相変わらずみたいでよかったよ」
 額の、昔とそっくり同じ位置に傷のあるモノマコスが、貰えなかった酒の代わりに炭酸水のボトルを傾けた。スツールに腰掛け、開いた窓のそばで夜風を浴びる姿はいくらかこざっぱりしている。
……相変わらず」
「違うのか? 昔もハンニバルとずっと一緒にいて微笑ましかった」
 傭兵戦争が初陣という、そのせいで感覚がおかしくなったような男だった。そのままイベリアへ渡る軍勢に加わったモノマコスには、確かにまだ幼かった自分たちはそんなふうに見えただろう。
 ともにシレノスら教師に学び、戦う術を身につけ、戦闘に加わらないうちから陣営で過ごし親たちを見て学んだ。最初はハンニバルとハスドゥルバルだけだったところにマハルバルが加わり、マゴーネやマゴがやって来て、いずれのときも大人たちに見守られていたのを確かに覚えている。いまがあの頃と同じかと問われると頷けない。
「モノマコス、お前にはハンニバルはどう見えた?」
「そうだな……室内飼い?」
 いい喩えだが他で口にすると咎められそうでもある。小さく笑ったマハルバルをモノマコスが手招きし、そのそばに立つと、腕を取られた。示された肘には他より皮膚の色の薄くなった傷跡が残っている。
「縫ってあるな、骨折して手術しただろ」
「怖いんだけど……
「頭にも傷があったし、他にもあるんだろう? なんだ、そんなことなら子守りしてやるべきだったか」
「お前の齢だと学校まで着いてこられないだろ、意味ない」
「ハンニバルには傷なんかなかった。偉いな」
 不意にそんなことを言われて、マハルバルは眉を寄せる。こういう傷ができるのは必ずハンニバルやその弟たちと一緒にいる時で、そのたびに礼を言われ褒められたが、聞いたことのない響きだった。
 怪我をすることは減り、どの傷も古くなりつつある。ハンニバルは自分の身くらいは守れるように育てられていた。そばにいる、守ってやる、そんなことが実際的な意味を持たなくなってきていた。それでも今日のようなことがあると天地がひっくり返ったような気分になる。
「お前らが遅いから」
 ハンニバルはマゴと親しくなれるはずだ。人間関係や社交というものを彼に教える以上の意味を持たない、ただの取り巻きたちよりもずっと近しい存在になることができるだろう。
「いつまで経っても来ないから、俺なんかが必死にならなきゃいけなかったんだよ」
 モノマコスの黒い眼が拗ねた子供の顔を映していた。
「でもマハルバルがいなくて私がいるんじゃあんまりだろ?」
……確かに」
「他の誰だって、お前がいたと聞けばそれならよかったと言うさ」
「他には誰とも会ってない?」
「残念ながら」
 ベッドの方から、マゴが低く唸るのが聞こえた。明かりを眩しがっているのだろうかと壁のスイッチを押し、そのままドアノブに手を掛ける。ドアを開いたところで振り返ると、モノマコスは何の害もない男のような顔でおやすみと言った。何をしたのだか知らないが保護観察を受ける身で未成年二名を連れ回して、引き渡すべきところに引き渡すとこの男はどうなるのだろうと思う。
 しかし、そんなことにはなるまいとも思った、その予想は外れなかった。ハミルカルの計らいで彼らの経歴はどんな方法でか洗われて真っ白になり、マゴはやはりかつての親が引き受けることとなって、毛色の違う子供たちに混じってハンニバルの取り巻きのひとりに落ち着いた。ハンニバルがこの野良猫に慣れるのにそう時間はかからなかった。


 マゴが嫌だ嫌だとごねるのをどうにか説き伏せ勉強地獄に引き摺り込んだおかげで、マハルバルはひとりで受験勉強に苦しまずに済んだのだった。とはいえ、高校に入ったところで猶予は短かったのだけども。
 本当に、入学して数週間くらいしか気を抜いて過ごせなかった。入学に前後してハンニバルが行くと言った大学ときたら、国内で指折りの名門である。彼は行きたいとは言わない。ここに行くとだけ言い、その瞬間に両親の頭の中でマハルバルの進路も決まる。
 その鍵を管理室に一度も返さずに持っている「多目的室(1)」で、マハルバルは机に突っ伏していた。出しただけで広げていない教科書だのノートだの参考書だのの隣で。
 ドアを開いて誰か入ってくる物音を聞いてもそのままでいたが、向かいの椅子を引いたのが誰だか間違えようもなかったので腕に頭を乗せて覗き見た。
 寒いという理由で午前の授業に出なかったハンニバルが上着を空いた椅子に掛け、ビニール袋を机に置く。元々は生徒の自主活動のための部屋、そのひとつを占有して彼らが授業の合間の空き時間などを過ごすのを教師たちは黙認していた。学校への寄付を惜しまないハミルカルのお陰で、とにかく金が物を言うのはいつでもどこでも変わらなかった。
「昼食は」
……まだ……
 差し出されたペットボトルを受け取ったが、腕に抱き込んでまた突っ伏した。
 秋に進級してとうとう最終学年になってしまい四ヶ月、マハルバルは急激にやる気を失っている。よちよち歩きの頃から泣いて嫌がる息子に勉強を強いてきた両親がそれを察して苦言を寄越す程度には。
 ヒミルコなど若いうちにハミルカルと再会しておいて自分は同じ学校に通ったことなどないのを棚に上げ、ただでさえハミルカルに心労をかけているのだからなどと言うのだ。
 何か言おうとしたハンニバルの手元でスマートフォンが何度か立て続けに振動した。それを確認する間も与えずに着信があって、マハルバルはハンニバルが無視しようとするのに手を振った。
「スキピオだろ、出てやれよ」
 あの一年生といつ連絡先を交換したのだと思ったが、マハルバル自身も交換を持ちかけられて断っていた。マゴはその流れで持ちかけられる気配を察してスキピオの手からスマートフォンを叩き落としてハンニバルに耳を引っ張られていたし、異常な社交性の高さで全校生徒の連絡先を手に入れるつもりかもしれない。
 無邪気なものだ。これまで意図的に避けるまでもなく接点のなかったローマ人たちと学校という空間で過ごすようになると、やはりかつての記憶がないというのは異質だと分かった。よりによってあのスキピオがハンニバルと同じ状況にあるというのは、悪夢めいている。
 ハンニバルはしばらく画面を見ていたが触らずに鞄に放り込んだ。
「無視?」
「一日に何度も、しつこすぎる」
「お前のスマホ、最近充電の減り早いもんな……
 ハンニバル相手に無意味なスタンプ連打をする人間は他にいない。
 もうその話は終わったと言うようにハンニバルが食事を始めたので、マハルバルもようやく体を起こした。彼らの入学した頃から質が向上した校内の購買部では、最近は多種多様なサンドイッチが売られていた。マゴーネが好きだからだ。過保護すぎる。
 袋の中に自分では食べないだろうピーナッツバターとジャムがそれぞれ挟まったものが買ってあったので何も言わず取った。腹に溜まりそうもないが甘味で僅かに気分が和らぐ。
 どうにか息子の意欲を持ち直させようとする母の、将来のことを考えてここで頑張っておくべきだという、至極ごもっともな言葉が頭に引っかかっていた。まるで普通の子供の前途を広げようとする普通の親のような顔をしていた。それに続いたのが若様がどこに行ったとしてもいいようにというのが普通ではないが。
「お前さ、大学出たあとってビュルサに入るの」
 こういう話は、案外したことがなかった。ハンニバルもそう思ったのだろう。口の中の物を咀嚼して飲み込むだけの時間、何か考えているようだった。
「特に決めていない。何も言われていないから父上の中でも決定事項ではないだろう」
「どうだろうなあ、それは……
 関わるなと言いつけなかったのに、息子がローマ人と仲良く過ごしていると知ってハミルカルは甚く心を痛めていた。当たり前と思い込んでいることほど口に出されないものだ。
 しかしいまの彼は基本的には子供の希望を聞き届ける父親だった。他に興味があると言ったなら渋った末であっても許すだろう。事業を継がせるなら他の子供とて選択肢に入るし、ハンノもすくすく育っている。
「お前があそこに行かないんなら、俺はどうしようかな。やっぱよそで仕事するか……
 何も考えず行動もせずにいれば間違いなくビュルサに引っ張り込まれる。就職先に困らないのは有難いことかもしれないが、ハンニバルの姉でさえ自力で仕事を決めているのだから、流されるがままは格好がつかない。
 ペットボトルの蓋を捻ったところで、注がれる視線に気が付いた。
「何?」
 なぜか物凄く睨まれている。その目つきにどことなく懐かしさを覚えながらも、自分のどこにこんなふうに理解し難いものを見る目をされる要素があるのだとマハルバルは困惑した。
 少し身を引いたマハルバルにハンニバルは一度目を伏せ、その目が広げられていない教科書類を見る。
「お前はついてくるものだと思っていた」
……どこ行くんだ?」
「どこでもいい」
「何だそれ。いや、何の話? 進路? 大学は同じとこ行くけど」
 受かったならばの話で現状ぎりぎりのところである。これまでの成績はともかく、夏に受ける卒業試験で失敗すればどうしようもない。
 そのあたり何の心配もないハンニバルは、その能力によって無数にある選択肢を好きなように選んでこの先も過ごす。彼にしなくてはならないことは一つもなかった。ハンニバルが自由であるということは、その弟たちや、マハルバルらも自由という不確かさの中に放り出されているということだ。
 流石に、十七にもなればそのことを考える。
「親の言うことを聞いて過ごすのは子供のうちだけだろ。親父だってまさか……いや、怪しいけど……大学出た後まで口挟まないだろうから。そしたら自分で考えなきゃならない」
「何かしたいことがあるのか」
「何にもないんだよな……
 現代の若者らしい悩みだ。具体的にやってみたい仕事などなかったし、かといって父親の仕事を引き継ぐのも気が進まない。従者たちの管理やバルカ家の人々の警護というのは、果たしてまともな職業だろうか。
「なら俺についてくればいいだろう」
 苛立った物言いに子供っぽさとそれで済ませきれないような鋭さを感じて、手にしたままだったペットボトルを置く。
 彼がどこに行ってもついていけるように、そんな物言いが家を脱走したり屋根に登ってみたりする幼子を追いかけることを指すうちは頷いていたが、これは人生の話だった。
「もう邪魔したくないんだよ。連れて行ってくれなくていい、どこ行くんだか知らないけど」
 十八年もの間、思いやりからくるとはいえ逃げ出さないよう立てられた囲いの中を進んできて、ハンニバルはようやくその道から外れた。当人は外れたとも思っていないだろうが、最近の振る舞いをそんなふうに捉えることだってできるのだ、冷静さと理性とを総動員すれば。
「確かにお前についていったら、他じゃ絶対味わえないような楽しい思いでもさせてくれそうではあるけどさ、でも、お前は俺といたって別に楽しくないよ」
 これまでだってそうだっただろう。そう続けかけたとき予鈴が鳴った。天井に埋め込まれたスピーカーを意味もなく見上げる。
 授業に必要な分だけの荷物をまとめてマハルバルが立ち上がると、ハンニバルは一旦退くことにしたらしい。もうあれこれ言わずに自分も席を立った。


 よく知った名前をようやく聞き慣れた声が呼んでいた。二度三度、繰り返し呼んで、応えがないのに痺れを切らして軽い足音が走り寄る。
「ハンニバルってば! どうして無視するんですか!」
 その声がよく通るせいで、いつも気が付く。二階の廊下の窓から見下ろすと、光の加減で色味を変える金髪がまず目についた。図書館へ向かうところだったハンニバルが隣に並んだその頭を見下ろして、少し歩む速度を緩めた。多分、今日は昼から来たのかとか手に持った本のこととかを色々尋ねられるのに、恐ろしくそっけない物言いをしているのだろう。
 聞こえなくともおおよそのやり取りが分かるくらいにはあれを見るのに慣れてしまった。
「ああいうのが好きなの意外だな」
 マハルバルの隣で同じものを見下ろしたマゴの物言いには下衆な勘繰りが含まれていたが、当てつけのようなもので本気ではなかった。
 声が聞こえた時点、視界の端に入った時点でその存在を強く意識させられるのは、何もあれがローマ人で、マハルバルらが死んだ後にアフリカヌスなどと呼ばれたせいだけではない。過去など持たない生徒たちが漏れなくスキピオを振り返るのがその証拠で、そういう存在感はマハルバルには嫌というほど馴染みがあった。
「あーあ、楽しそうに……
 そう呟く白けた横顔に、あれを見るたびにいちいち嫌だなと思うのは当たり前だと背を叩かれたような気分になり、ようやく視線を外せた。
 いっそハンニバルが飛び級でもしてくれていれば、スキピオと同じ学校に通う可能性はほぼ失われていたのに。マハルバルの漏らしたぼやきにマゴがこちらへ顔を向けた。
「飛び級なんかしたらお前と違う学年になるじゃん」
「だからそうなったらよかったって話だろ」
……なんか可哀想になってきたな」
 何を哀れまれているのかと訝しむマハルバルにマゴはわざとらしく肩を竦める。
 この日の授業を受け終えて多目的室に向かうところだったが、あいつは置いて帰ろうかと考え始めていた。借りている本を返却してくると声をかけてきたのは待っていろという意味だろうが、これでは時間がかかりそうだ。
 ロッカー代わりにもしている部屋に入り、さっさと上着を着込む。この日は雪が降ってきそうなほど冷え込んでいた。同じようにマフラーを巻いたマゴがこちらを見て目を瞬いていたが、鍵をハンニバルの上着のポケットに突っ込んだ。
「今日お勉強会じゃなかった? 帰んの?」
「うん。お前もたまには家帰れよ」
 そもそも大学に通う気がないというマゴはまったく気楽なもので、彼が進学を勧められもしていないと知ったときマハルバルは大いに荒れたが、既に諦めの境地に達していた。
 何やらあちこち渡り歩いて、家に帰る日の方が少ない。こいつはこいつでどう生きるつもりなのかは、保護者か、ハミルカルやヒミルコが尋ねるべきことだろうと思っていた。
「お勉強サボるとハンニバル先生に怒られるんじゃないの」
…………いいだろ一日くらい……
 シレノスが大学に職を得た後にまで家庭教師を頼むのは無理があった。ハンニバルが自分が教えればいいと言い出したのをヒミルコが無条件で喜び、ハミルカルまでもが復習にもなっていいだろうと頷いたせいで、マハルバルにはまたも選択肢がなかった。
 親切心なのだ。分かっている。理に適ってもいる。
 しかしハンニバルが見ていると手が抜けない。怖い。シレノスみたいに合間合間の世間話に付き合ってくれない。問題を解きあぐねて手が止まった途端にその手に汗をかき始めるような緊張感がある。とにかく怖い。
 週に何度か、場所はこの部屋とも家とも特に決めていなかったが、そのたび疲れ果てるマハルバルをハスドゥルバルやマゴーネが同情してくれていなければ逃げ出していた。一方で彼らは彼らで優秀な頭をしているので、同じ目に遭う見込みはなかった。
 学校を出たあとどこに行くのだか知らないがマゴとは早々に道が分かれて、電車に間に合うよう早足で駅へ入った。改札を通りホームへの階段を上ると、ちょうど到着した車両のドアが開くところだった。間に合ったと思ったのに、乗り込もうとしたところでぐいと後ろへ腕を引かれる。
 うわ、と声を上げると同時に倒れかけた体を支えられ、振り返るとハンニバルだった。珍しく、わずかだが息が上がっている、と思う間にドアが閉じる。
「電車行っちゃったんだけど」
 次が来るまで十分ある、寒いのに、そう文句を言ってみると、ハンニバルの着けていたマフラーを首に巻かれた。
 確かに暖かいが。なんかこいつ変だなと思ったが、何がどう変なのかはよく分からなかった。
「スキピオは?」
「スキピオ? 帰っただろう」
 同じ電車通学でも方向が異なり、利用するホームも違う。しかしそういうことを言ってるのではないようだった。やはりよく分からない。
「あのさ、今日はろくに勉強にならないと思う、集中できないっていうか。帰っていい?」
「駄目だ」
「駄目か……
「話が終わっていない」
 マハルバルはぽかんとし、逃げようかなと思ったがいつの間にかまた腕を掴まれていた。


 マハルバルが訪れると、バルカ邸の使用人たちはいらっしゃいとは言わずおかえりなさいと声をかけてくる。ハンニバルも今更案内などせずさっさと自分の部屋に向かった。
「あれ、ハミルカル様だ」
 誰もいないものと思って素通りしかけたリビングを覗くと、ハミルカルがハスドゥルバルと揃ってこちらを振り返った。平日のまだ夕方と言っていい時間に姿を見るのは本当に珍しい。ソファに並んでいるふたりに近付くと何やら雑誌を数冊テーブルに広げていた。
「お久しぶりです」
「ああ、おかえり。ヒミルコも今日は遅くならないはずだ」
「え、うざ……いや、なんでですか?」
「二人とも週末まで無理やり休みを取らされたんだって」
 労働環境の改善はまずお手本を見せるところから云々、そう説明するハスドゥルバルが上機嫌に見えたので勘弁してくれと言うのはやめた。子供の行事などがない限り休暇の予定を組ませようとしても勝手に働くので、秘書たちは奇襲攻撃に出たらしい。
 見れば広げられているのは旅行雑誌で、紙面には近場の観光スポットなどが並んでいる。まだ水曜だから遠出もできるだろう、宿の確保などどうとでもなるのだし。
「学校休んで行くならハンニバルも連れてってくれよ」
「そしたらマハルバルも来るか?」
「なんでだよ。勉強サボりたいのにそれじゃ意味ないだろ」
 今も時間稼ぎの真っ最中なのだ。大真面目な顔を作るマハルバルにハスドゥルバルは「じゃあ兄上だけ置いていくよ」と薄情なことを言って雑誌のページを繰った。
「ヒミルコはがみがみ言うだろうが、あまり根を詰めるなよ」
 苦笑を浮かべたハミルカルにそう言われて、マハルバルは中途半端な笑みを作ることしかできなかった。結局両親ががみがみうるさいのは全てこの人のためなのだから。
 二階に上がり、叩くのとほとんど同時に扉を開くと、ハンニバルは衣服を改めてクローゼットから出てきたところだった。
 三兄弟の部屋は小部屋と呼んで差し支えないクローゼットを挟んで隣り合い、そこを介して行き来できるつくりだった。生まれの順番通りにハスドゥルバルの部屋を真ん中に置いていたが、関係を思うと正しい並びだ。
「旅行行くみたいだぞ」
「そうか」
 もっと興味を持てと念を送ってみるが、望み薄だった。だってこの兄は弟に父親と出かける機会を譲るだろうし、弟たちはそれを無碍にしないだろう。
 いつものように上着と荷物を置いてラグの上に座るが、リュックからは何も出さなかった。ハンニバルはいつもと違い隣にもそばのフロアソファにも来ずに、デスクの椅子に落ち着く。そうして距離を取って見下ろされていると正直居心地はよくない。
「休みなら本当に休めばいいのに、子供の相手しようとするんだから偉いよな、ハミルカル様も」
 そんなことを言ってその据わりの悪さを誤魔化していると、ハンニバルが僅かに首を傾ける。
「マハルバルお前、父上のことが好きなのか」
「はっ?」
 裏返った声が出た。体温が急に下がったような心地である。何を言うかと思えば。本当に何を? 彼の言う好きがどういう意味合いか、咄嗟に理解できなければよかった。
「いや……? どこからそういう発想が出てくる……?」
「やけに嬉しそうだ」
「ああ?」
 思わず凄んでしまった。嬉しそうに見えたならそれはお前の弟が楽しげにしていたのを思い出したからだが。
 好きか嫌いかで言えば好きだが、そんなのは当然のことだ。かつての話ならば少なくともハンニバルが子供のうちはハミルカルが主君のようなものだった。彼はいい主で、今もそれなりにマハルバルを可愛がってくれている。
 だがそれだけではないか。本当に意味が分からない。だんだんと腹が立ってきたマハルバルの様子をじっと観察していたハンニバルが「違うのか」と呟く。
「では誰だ?」
「誰ってなに」
「いつも俺を通して誰かを見ている。父上でないなら誰だ」
 体温がまた下がった。表情を取り繕えもせずに息を呑んだマハルバルを見下ろす目は揺らぎなく静かで、それが思いがけず転がり出た言葉ではないことを示している。
 これまで言わないでいてくれた、それだけのことだと。
……誰も……
 他の誰もいない。ハンニバルはここにいる。
 ハンニバルはマハルバルの顔色を、仕草を見つめ、声音に耳を傾けていた。そうして結論づけるのだ、正しく、隠し事をしていると。
「お前がヒミルコの意向で俺のそばにいること、好きでもない勉強をしてきたこと、進路を自分では決められないこと、そんなことは誰もが分かっている。だがお前が耐えてきたのには理由があるだろう。それが何かと訊いている」
「ない、そんなの」
「いつか御役御免になる日を支えにしているのでもない。それは誰かであるはずだ。お前は自分のためだけには息をすることもできないような人間だから」
 そう言われた途端に、息の仕方が分からなくなる。そばに膝を付いたハンニバルの手から逃れて後退り、その目元に不快が過るのをまともに見てしまった。何がそうも気に入らないのだと笑って茶化せば、あるいはヒミルコと同じくハミルカルのためだと言っておけばよかったのかもしれない。現実には何も言えずにどうにか座り込んでいた。
 左右揃った紫の瞳を前にして、胸に差し込んできたのは罪悪感だった。それこそ物心ついた頃からマハルバルは知っていた。ハンニバルは自分には決して明かされない何かに取り巻かれていること、彼の周囲の者たちがその何かをあらゆる事柄の前提としていることを悟っている。けれど何も問わずにずっと、この眼差しを向けていた。
 どれほど家族や縁者が彼を大切に思おうともそれは疎外だ。マハルバルも問われないのをいいことに知らぬ顔を通してきた。だからせめて、彼の友達でいようと思っていた。
 本当は分かっている。こんなもの、友達などではない。
「悪かったよ」
 どうにか笑みを浮かべ、肩の力を抜いた。
「ずっと、変だと思ってたんだろ。でもお前の言う通りもうじき御役御免だ。大学の間まで我慢せずに卒業したら終わりでもいい。言っただろ、邪魔したいわけじゃないんだ」
「マハルバル」
 もう一度伸ばされた手が襟を掴む。ぐっと引き寄せる力に抗して顔を背けていると舌打ちが聞こえた。
「お前、俺の話を聞く気があるのか?」
「聞いてる」
「ならこちらを見ろ」
 いやだ。どうしても嫌だった。
 話ならちゃんと聞いている。昼間の続きだと言うことも理解して、悪かったと思っているのだ。けれど本当のところを話して何になると言うのだろう。この世界にはカルタゴも、アフリカもシキリアもイベリアも、ローマもない。繰り返された戦争もなく、あれほどそば近くにあったはずの神々の気配は感じられない。ハンニバルの決して見ることのない夢の話をして、それが全ての理由だと明かすことは、騙すのと同じように身勝手だ。
「もっと、お前に相応しい奴がいるよ。人に押し付けられるんじゃなくて、自分で選んだ方がいい。勝手にくっついてた俺が言っても説得力ないけどさ……
 そんなもの、とハンニバルが呆れまじりに言う。
「選びたければ勝手に選ぶ。それはお前の想像の話だろう」
……選んでこられなかったのに?」
 思い浮かぶのは彼を理解できるのだろう人間の顔だった。
 いつからだろう、ハンニバルはスキピオを目で追っていた。関心を持つなら、入学初日にマゴーネが怪我をする原因になったマッシュリーの王子の方がまだ納得がいくのに、誰も話題に出さないうちにあの忌々しい名前を覚えていたのだ。
 何も知らないくせに。マハルバルやマゴが、弟たちがどうして彼らを嫌うのかには興味を持たずに、あのきらきらした少年を見ていた。
 ハンニバルと同じなのはスキピオだけだ。そういうことだったのだと、マハルバルはようやく理解できていた。あの男によってイベリア半島の拠点を喪失し、元老院の命令のもとイタリアを去るべく船に乗った時でさえ、彼らが会談の場を持ったあの日でさえ分かっていなかった。あるいは、何も負わぬ子供となってこそ、彼らにとってもそれは意味を持つようになったのかもしれない。
 マハルバルには分からないのだ。分からなかった。ハンニバルが何を見ているのかが。
 いまでさえ、彼のためにしてやれることが分からない。ハンニバルはもう守ってやる必要のある子供ではなく、手を繋いでやる理由もなかった。剣も手綱もなく、指揮官を必要とする騎兵たちもいなければ、どこに立っていればいいかさえ。
「俺はお前を邪魔だと思ったことなどない」
「これから思うよ。もう思われたくない」
「もう?」
 誰かにそう言われたのかと低く尋ねる、その声の帯びる怒気に身が竦んだ。
「だから……! 誰かなんて」
 いない、と言おうとしたが言えなかった。
 口を塞がれて、それは声にならずに飲み込まれる。マハルバルはそのまま息を止めた。瞬きも忘れた。襟を掴んでいた手が輪郭を捉えて、爪先がわずかに肌に食い込む。
 押し付けられていた唇が離れると、ようやく時間が流れ始める。
 呆然として見返すとハンニバルも目を瞠っていた。
 なに自分でもびっくりしてんだ。
 こいつ何も覚えてないくせに──これまでそんな素振りもなかったし──こいつがどうこうと言うより黙らせる方法はこれだと思われてる? ──まずい。何もかもおかしい。思い出さないようにしてきたことがどっと脳裏を走り抜け、マハルバルは衝動的に間近にいた相手を突き飛ばした。
 呼び止める声を顧みず身ひとつで部屋を飛び出す。数段飛ばしに階段を下りたところで腕を掴まれ、力任せに引っ張られて壁に押し付けられた。ほとんど叩きつけられたと言っていい、その瞬間は息ができなかったのだから。
「いっ、てえんだよ力加減知らねえのか!」
 怒鳴りつけたところで両腕を掴んだ手を振り解けず、そこに込められる力はいっそう強くなった。気まずさを覚える程度に冷静になれば、逃げてくれてよかったと思うことになるだろうに。
「痛いって言って……
 不意に、別の手が彼らを引き離した。数歩後ろへよろめいたマハルバルの視界を遮ったのは、彼らの間に割って入ってきたハミルカルの背中だった。
「どうした、一体」
 それは叱責する指揮官ではなく、困惑した父親の声だった。マハルバルを背後にしてハミルカルには息子のどんな顔が見えているのか、ハンニバルは返事をしない。
 まだ鈍い痛みを発する腕が、どうしようもない気分にさせる。目元に熱の集まるような感覚と、震えずには喉を通らなかった声が、惨めでさえあった。
「誰だ誰だってうるせえな」
 もう一歩下がるとハンニバルと目が合った。
「お前が絶対に知らない奴だよ、バカ!」
 今度こそ踵を返してその視界から逃げ出した。靴に足を突っ込んで玄関を出れば当然凍えるような風が吹いていたが、構わず前庭を通り抜け、門を出たところでようやく歩を緩める。
 ヒミルコがこんな高級住宅街に家を持っているわけはないから、いつもなら帰るのには車を使っていた。歩いてどれくらいかかるのだったか、思い浮かべかけてどうでもよくなってやめる。いずれにせよ荷物を置き去りにしてきてしまったし、おそらく両親はまだ仕事から帰っていないから行く宛がなかった。
 それにしてもバカってなんだ、子供か? 飛び出してきたのも十二分に子供っぽいが。罵倒ならもっとあるだろう。思考に没頭するふりで後ろを追いかけてくる足音は無視したのに、マハルバルを呼ぶ声には勝手に足が止まった。
「マハルバル! 風邪ひきますよ!」
 まさか他の誰でもなくマゴーネが追いかけてくるとは思わず、走り寄ってくるのを街灯の下で待ってしまった。マハルバルの上着と荷物を腕に抱えた少年が、ああ重たいとぼやきながらそれを差し出してくる。
 ぼんやりとそれを見ていると、焦ったそうに押し付けてきた。
「悪い」
「ほんとですよ、帰ってきたところだったのに」
 確かにマゴーネは制服のままだったし、上着も脱いでいなかった。
「僕以外だと逃げるだろうから追いかけろって、父上が」
……怒ってたか?」
「父上がですか、兄上が? 別にどっちも怒ってなかったです」
 そう答えてほしかったはずなのにどうしてか癇に障った。しかし、見上げてくるマゴーネと目が合うとそれも長続きしない。マハルバルは昔よりもずっとハスドゥルバルやマゴーネに弱かった。
 上着を着ろとせっつかれて袖を通していると、三つ編みをいじりながらマゴーネがそれにしてもと呟く。
「喧嘩なんて珍しい……いや、初めてじゃないですか? あの頃はよくしていた気がしますけど」
「だって、怖いだろ」
「昔ほど怖くないですよ。僕には優しいとかそういう話はいいです、お腹いっぱいなので。いまの兄上はマハルバルを怖がらせたりしないでしょう」
 そんな必要はないのだから、そんな意味合いで言うのに頷く。周囲を威圧し服従させる必要がないのだからマゴーネの言い分が正しい。
 どうして喧嘩などしたのか、躊躇なくそう尋ねたマゴーネの頬が赤く寒々しげに見えて、マハルバルは手にしていたマフラーを彼の首に巻いた。
「進路の話してたら急におかしくなった」
「先におかしなこと言ったのはマハルバルだと思いますけど。あなた最近妙に元気ないし……あの、僕は帰るだけだからこんなの巻いてくれなくても」
 そこまで言ってそのマフラーが彼にとっても見慣れたものであることにマゴーネは気付いた。上着と一緒に置いてあったから掴んできてしまったのだろう。
……兄上のですね?」
「返しといてくれ」
 あいつも旅行に連れて行ってくれとは言えずに、もう帰るように促した。あの大きな屋敷はまだ見える位置で、マゴーネが門の中に入るのを見届けてからマハルバルはその場を離れた。


 肉の腐っていく臭いが部屋に漂っていた。高熱に苛まれてはっきりしない意識の中でも苦痛は感じられるのか、時折呻き声が部屋に低く響いては、窓を開けても澱みの晴れない部屋の空気をいっそう重たくしていた。
 マハルバルが額の汗を拭くと、ヒミルコの目が薄く開く。それがまだ正気を保って自分を見ているのを何度も確かめてきたが、もう、何も分からなくなった方がいいのではないかと思い始めていた。
「もういい」
 掠れた声はおそらくそう言って、ヒミルコの手がマハルバルの手を退ける。もう寝なさいと子供に対するように諭し、またその目を閉じた。
 彼の世話をして長い奴隷が、どうか仰る通りにとマハルバルの手から布を抜き取る。昼夜を問わずこの病人についているせいで窶れ果てた男は、父の乳母兄弟としてその影のように生きてきた。父が死んだ後こいつも死ぬのだろうなとマハルバルは思っている、ハミルカルが死んだ時に父は長生きしないだろうと思ったように。
 ヒミルコとマハルバルは、カルト・ハダシュトの宮殿の一角に住まいを与えられていた。将軍ハスドゥルバルは彼の建てた都市から北へと軍勢を差し向け、ギリシア人の建てたいくつかの都市を征服したが、その攻囲のなかでヒミルコは脚に傷を受けた。
 指揮を続けようとするのを引きずり戻され、ハスドゥルバルから療養に努めるよう厳として命令を受けた。あなたがいなくては困る、あのバルカ家の女婿にそんな風に言われて、父はどことなく居心地が悪そうにしていた。
 その傷が、治るどころかどんどん悪くなって、腐り始め身体中に毒を巡らせている。医者には患部ごと脚を切り落としてしまうことも提案されたが、どのように死を待つかの違いでしかなかった。武人の脚を切り落とし激痛を与えるのか、それですっかり痛みが失せるわけでもないのに、そんな逡巡の末に、マハルバルは耐えさせることを選んだ。
 冥府でハミルカルと再び会うことがあったとして、脚が一本では格好がつかない。そんなことを本気で考えもした。
 父の居室を出ると、小さな中庭にハンニバルが立っている。マハルバルはランプに照らされた顔をしばらくぼんやりと見つめ、ようやくあたりが暗くなっているのに気付いた。
「何してる?」
 言ってから馬鹿丸出しだなと思ったものの、頭が鈍っていた。もう何日もまともに眠っていないが、それが何日になるのかも思い出せない。
「なかなか見舞いに来られなかったから」
「ああ、……悪いけど、親父はお前に弱ってるところを見られたくないんじゃないかな」
 ハスドゥルバルの見舞いも断っている。ハンニバルはそうかと呟き、灯りの点っている部屋を見遣った。
 先ごろローマから使節が到着し、彼らの同盟者であるマッシリアを脅かすようなこれ以上の北進は止めるようハスドゥルバルに求めていた。条約についての話し合いにハンニバルも同席して、彼は彼なりに忙しいはずだ。
 歩み寄ってきたハンニバルの指先がマハルバルの目元を柔く擦った。
「それに、お前の顔をしばらく見ていないと思った」
 ヒミルコが伏せってしばらくは医者と奴隷たちに任せていたものを、この数日はつきっきりなのだから、状況は分かっているのだろう。
 ハンニバルとて父親を喪って三年にもならない。ハミルカルの命と引き換えに弟と共に逃がされてアクラ・レウケに戻った彼を、留守を預かっていたヒミルコはよく戻ってくれたと迎えた。誰もが将軍の死を彼に相応しいものだと称えて、ハンニバルにはそのようにして残される価値があると信じていた。彼はそれに応え続けている。
「親父は俺たちがいるから仕方なく後追いしなかったけど、いい口実を貰ったと思ってるかも」
 最初から、真剣に傷を癒そうという姿勢を感じなかった。ハンニバルは否定せず、「俺では父の代わりになってやれなかった」と、まるでヒミルコに聞こえないよう慮るような小さな声で言う。
「一人くらい、そういう者がいてもいい。父も喜ぶだろう」
 言葉を失って、次いでマハルバルは頷いた。そう言ってほしかったのだと分かって、息がしやすくなっていた。
 ハンニバルの手を引いて食堂の方へ促す。彼もまだ何も食べていないと見て分かっていた。控えていた奴隷に声をかけると、今日も何も食べないつもりかと諦めていたのだろう、慌てた様子で支度を始める。食堂に灯りが灯されて、椅子に落ち着くと、ようやく一日の区切りがついた気がした。
「なあ、俺も親父と同じようになる気がする。それでいい?」
 縁起でもないことを言っていると分かっていても、あちこち緩んだ頭が言わずにいられなかった。ハンニバルはランプを卓に置き、その夜で一度きりの笑みを浮かべた。
 お前を誰にも遺してやるつもりはない、彼はそんなことを言ったはずだ。
 ──目を覚ますとヒミルコに覗き込まれていた。
「うわっ、生きてる」
 さっき死んだのに。未だに夢を見ると境のあやふやになる息子の暴言にヒミルコは眉を上げただけで、父の広げた毛布がマハルバルの上に被せられた。
 もう起きたのにと思ったが、どうやら空調もつけずにリビングのソファで寝こけていたらしく四肢が冷えていた。マゴーネと別れとぼとぼ歩いて帰ってきて、着替えたあとここに寝転んだ記憶もないのにすでに二十時を過ぎている。
 ヒミルコはまだ仕事着で、母が食事の支度をする音が聞こえた。と言っても母は壊滅的に家事ができないので家事代行の作り置きを温めるだけで、大抵は彼らより帰りの早いマハルバルの仕事なのだが。父は毛布に包まって蓑虫のようになっているマハルバルをしばらく見下ろしていたが、ソファのそばに胡座をかいた。
 ハンニバルと揉めたのバレてんだろうな、めんどくさいなとその横顔を眺めていると、言いにくそうに口元をもごつかせる。
「何。早く言えよ」
「ちょっと手を見せてみなさい」
「手? 手が何……あっ待てやっぱやだ」
 一度出した右手を引っ込めようとしたが遅かった。手と言っておいて袖を捲られると、手首の下あたりが赤く変色して痣になろうとしていた。こうしてほぼ手形が残っているのを見ると流石にぞっとするが、親に似て力の強い相手に加減なく掴まれるとこうなるらしい。
 ヒミルコも似たような感想を抱いた顔をした。毛布の中に右手を戻してマハルバルはその顔を睨む。
「仲直りしろって言うんだろ」
「いいや。これを謝ってもらえるまでは仲直りなんかしなくていい」
……? 何? 頭打った?」
「何を理由に喧嘩をしたのかは知らないが、手を上げたことはなかったのにな……
「おーい、聞いてる?」
 何やら気落ちした空気を出し始めた父親に、ハミルカルがおかしな説明をしたのだろうかとマハルバルは怪しんだ。あの諍いは、彼の目にはどう見えたのだろう。
 弟相手にこれをやったならともかくいまは同い年で、傷が残るでもなし。気にする理由が分からずにいるマハルバルの頭をヒミルコががしがしと撫でる。やめろと言うのにしばらくそうしたあと、親指が目元をなぞった。
 それが夢の中で同じ場所に触れた手とよく似た仕草だったので、触れる理由が知りたくなった。
「何だよ」
「泣くような夢だったのか?」
「いや、別に……親父が死にかけてた頃の……泣いてた?」
 涙の跡があると言って、ヒミルコは薄く笑みを浮かべた。
 もしも、と思う。もしも、再び出会ったハミルカルが何も覚えていなかったら、あるいはもうついてくるなと拒絶したなら、ヒミルコには別の生き方があっただろうか。あの都市で父を看取ったときマハルバルは泣かなかった、それが悲しいばかりのものではないと思ったから。
 尋ねようとしたとき、電子レンジの中で何かが破裂した音がして、慌てふためいた母がマハルバルを呼んだ。


 ──お前は勝利を得る方法は知っていても、勝利を利用する方法は知らない。
 そう言い捨てたのを最後に記憶が途切れている、ということであれば、こんな思いはせずに済んだ。そもそも二度も生まれることもなくて済んだかもしれない。
 実際には越権行為をしようが過ぎた物言いをしようが仕事は尽きず、次第に霧中に迷い込んでいるような気配に忍び寄られながら戦争を続けた。何にしろ目の前にすべきことがあるというのは、幸せなことだ。おそらくいまは暇すぎるのだろう。
 取っておいて手をつける気分になれない昼食を横に置いて、カフェテリアの端の席で窓の外を眺めている、こんな意味のない時間がいくらでも過ごせるのが悪い。
「おひとりですか?」
 頭上からかけられた声に、マハルバルは顔を上げなかった。勝手にトレーを置いて向かいの椅子を引いたスキピオにも連れはおらず、高校生には少なすぎるように見える食事を始める。数ヶ月前に調べた情報の中にこいつの時間割があるせいで、スキピオはサボりではないと分かってしまった。
 マハルバルの方は自分で組んだ時間割に従うなら授業を受けているべき時間だ。昼休みにしか注文できないメニューがあるとはいえカフェテリアはいつでも開いていた。
 やたらと美味そうにスープを飲んでいたスキピオが、そうだと声を上げる。ずいと近付けられたスマートフォンの画面には猫の写真が表示されていた。見覚えのある柄の猫だ。
「この子、元気みたいですよ。新しいお家にも慣れて」
「そういうのはハンニバルに言ってやれ。動物好きだから喜ぶだろ」
「ふふふ」
「何」
「先にハンニバルに写真見せたら同じこと言ってました。喜ぶからって」
 ああそう、別に猫がぬくぬくと過ごしていても嬉しくないが。
 まだ秋のことだったか、講堂のそばでハンニバルが仔猫を見つけた。痩せて毛並みも悪い仔猫が温もりを求めてかまとわりついてくるのをハンニバルは追い払わず、マハルバルがまさか連れて帰るのかと思っていたところにスキピオがやってきたのだ。
 その時点で彼らは話したことがある様子だった。あの未だにマハルバルにはとっつきにくい小説が共通の話題らしく、よく分からないことで盛り上がり始めたのでスキピオにしがみついていた猫を剥がした。
 ヒミルコの目を離すなと言う声が頭の中に響くのを無視して、マハルバルはハンニバルが飼うと言い出す前に猫を保護活動サークルに届けようとその場を離れかけた。どういう理由かは知らないがハミルカルは猫が嫌いだ。
 勝手に行くなと後ろから襟首を掴まれたマハルバルを、スキピオが例のひとりでに発光しているかのような目で見ていた。視線が合うと、左右対称のきれいな笑みを浮かべて小さく首を傾げた。
 先輩もいかがですか。
 何のことかと尋ねたせいで、まともに読んでもいない小説の理解できないコンセプトの展覧会に行く羽目になったのだった。
 あれは、本当に面白くなかった。滑らかに喋り続ける技能を持つ人間がふたりして解説を垂れ流すのを聞くのは、それに興味がなければないほど苦痛だった。もう一人くらい誰か連れて来るよう言ったのにスキピオはひとりでやって来て、マハルバルはその日のことを誰にも報告しなかった。
 スキピオが入学してきてから、ハンニバルが饒舌になるのをよく見る。それくらい喋らないとスキピオのおしゃべりを延々聞く羽目になるとか言っていた。
 十分もかからず食べ終わりそうな量なのに、スキピオはいつまで経っても食事を続けていた。それを横目にするのをやめ、背凭れに体重を預けた。
「変なこと聞くけど」
「はい!」
 妙に嬉しそうな返事に口が閉じかける。
……お前のラエリウスが死にそうだとするだろ」
「僕の。良い響きですね」
…………。とにかく死にかけてて虫の息だ。お前はラエリウスに何て言う」
 きょとんと、幼なげに見える表情を浮かべて、スキピオはしばらく考えていた。嫌な例え話を不快がるでもなく。口元に手を寄せてしばらく、答えは短かった。
「うそつき?」
 マハルバルの浮かべた表情に、ガイウスはこう言うと折れるんですよと酷いことを言う。
「折れるって……生き返らせようとしてる?」
「大人しく死なせてあげられるとは思えませんね。ずうっと一緒にいるって言ったのに約束を破るなんて、酷すぎますから」
 そんな約束をしたのか、豪胆だなとスキピオに振り回されている様子の元副官の顔を思い浮かべた。マゴーネと打ち解けているようだから個人として悪い印象はないが、スキピオの麾下で騎兵を率いたのはあの男だったはずだ。
 ようやく食事を終えてもスキピオは席を立たなかった。こいつがそばにいるとハンニバルのそばにいる時以上に周囲からの視線を感じる。
「なんだかご期待に添えなかったみたいですね」
 スキピオの明るい色をした目がトレーの上で冷え切ったパスタを見ていた。死体を見るような目だと思い、こいつは死体など見たことがないだろうと思い直して、全てが馬鹿らしくなる。そういえばマハルバルは死んだあとどう葬られたのだろう、尋ねる相手がいない。
 昼休みに入るのを知らせるチャイムが鳴り、校舎から生徒が出てくるのが窓の向こうに見えた。
「何か期待して聞いたんじゃない。悪かったな」
「先輩はなんて言われたいですか?」
「別に、何も」
 言葉ひとつ、眼差しひとつ、それだけで相手が何のために生きてきたか決めてしまえる人間がいる。ヒミルコはハミルカルに理想を見出して彼のため力を尽くすことを人生そのものとした。未だにそういう連中を抱え込むハミルカルの度量をいうものを、決められる側でしかないマハルバルは底なしに感じた。
 何も知らない彼らがいまもそんなふうに求められ縋られるのを理不尽だと思うのに、マハルバルはずっと考え続けている。何か、確かに何か言っていたのだ。
「これって、またカルタゴの話ですか? それともローマ?」
 怖い顔、と呟いたスキピオは笑っていなかった。空いていた席が埋まり騒がしくなり始めたカフェテリアでその囁くような声はまっすぐ耳に届く。
「だって、みんな真剣に隠す気が全然ないでしょう。よく聞こえる単語は覚えますよ」
「ハンニバルとそういう話をするのか」
「いえ、答え合わせになりそうなので」
 答え合わせはしてほしくないんでしょう、そう尋ねる優しい声、思いやり深い人間らしい微笑みに、タチが悪いとマハルバルは思った。この少年は厚情を施すようにして、すぐに組み上げてしまえるパズルをばらばらのままにしてくれているだけなのだ。
 ハンニバルがそうしているのは、やはり憐れみなのだろうか。それも知っているのかと目の前の相手に問いたくなるおのれの卑小さに嫌気が差して、マハルバルは手をつけないままのトレーの上からパックジュースをスキピオのトレーに移した。
 遠慮せず礼を言ってすぐにストローを刺す、そういうところが相手の気を解すのだろう。別にマハルバルはそれが嫌ではなく、ハンニバルが同じように思っているのならもう好きにしろという気分だった。ただそれを見ていたくはない。
 ジュースを飲んでストローを指先で弄りながら、それにしてもとスキピオが話題を変えた。
「先輩がキスされたくらいで怒るとは思わなかったな」
 目が合うとスキピオは小首を傾げ、どういう理由か不満げな物言いをした。
「ハンニバルのこと大好きだからなんでもしてあげるんだと思ってました。突然ってところが駄目だったんですか?」
…………
「あ……すみません、たぶんみんな知ってます」
……なん…………
「マゴ先輩が大きな声で話してたので」
 席を立ちそのままテーブルを離れる。出入り口の近くで大人しく死なせてもらえない予定のローマ人とマッシュリーの王子とすれ違うが見向きもしなかった。やっぱ怒ってんだな、などと言っていたのも気のせいということにする。
 扉を蹴破る勢いで多目的室に入り、手の届く距離に入ると同時に頭を力いっぱい殴った。寝ていたマゴの額が机にぶつかる鈍い音がする。
「は? 何!?」
「何が何だよボケ、もう一回死ね」
「なんで怒ってんの?」
「お前が、…………
 どう言っても揶揄いの餌になるとマハルバルは気付き、同時にマゴが殴り返そうと腰を浮かせた姿勢から椅子に戻った。
 多目的室にはマゴしかいない。ハスドゥルバルとマゴーネはやはり今日から旅行に出かけた。姉たちと同じく旅行に着いて行かなかったハンニバルがここにいない理由は知らないが、よかった。ここにいたら勢いであの頭も殴っていた。
 まだ痛むらしい後頭部をさすりながら、マゴは笑うかと思ったがただただ心外そうな顔をする。
「びっくりしたんだから大声も出るだろ、言いふらしてない。廊下で俺に喋ったハンニバルが十割悪い」
 それは──確かにそうだ。
 マハルバルはハンニバルと朝一番の授業で顔を合わせて、努めていつも通りの挨拶をしたが、隣に座らなかった。限界を感じて昼前の授業をサボりもした。そうするとマゴが不思議に思い尋ねる。ハンニバルがありのまま答える。答える? 何故?
 今回は忘れずに掴んでいた荷物を放って、椅子に座る。
「まあキスくらいでそんなに怒るなよ」
「別にそれで怒ってない。あんなの別に初めてでもないし」
「嘘つけ、お前にいつ遊ぶ時間が……
 マゴの言葉が途切れ、その目が無表情になったマハルバルを、次いで虚空を見た。
……いまのって頭にハンニバルとの、がつく?」
「やっぱもう一回死んでくれ」
「死ぬ時は一緒だろ。いや、待てよ。いつの話?」
「もう俺だけ死ぬから黙れ」
「ガキの頃にしたことあるとかなら、ハンニバルがあんなやらかした感出さないよな」
「死ぬ」
「あいつにとっては初めてだけどお前にとってはそうじゃないってこと? あんなのって言い方はもっとすごいことしてたのか。いつ何してたんだお前ら」
「こういう話題の時だけ名探偵になるな」
 顔色の悪くなっていくマハルバルをなぜか感心したように眺めていたマゴが、突然ハッとしてこちらへ身を乗り出す。
「イミルケ様に隠れて?」
「するわけないだろその頃にはやめてたよ! 覚えたてのガキの遊びの延長っていうか、とにかく、ああもう」
 マゴ相手に照れもないが、居た堪れない。相手が忘れ去っているせいで自分の狂った妄想のような気がしていたのだから尚更。思い起こさせる出来事が起こるでもなく、真実なかったことになろうとしていた。
 遊びという表現は嘘ではなかった。良い言い方をすれば無邪気な、正確に言えば頭の軽い子供であったから、何か特別なものを求めてしたことでもない。落ち着きを身につけるとともに自然とそんな戯れをしなくなり、引き摺るものは何ひとつなかったのに、今更、本当に今更になって、思い出すのに困難を覚えるようになるとは。それも何ひとつ覚えていない奴のせいで!
「ていうかさあ、呼べよ!!」
 机に突っ伏すマハルバルの肩をマゴが両手で揺さぶる。それを払い除けて、心底うんざりした気分で覗き込んでくる顔を見返した。
「気色悪いこと言うな」
「なんで俺に隠れてそんな面白いことすんの? 見たかったぁ……
 見るって何だ。十六かそこらで既に下女に手を出し現地の女と懇ろになり好き放題していた奴を誘うわけがない。マハルバルが日頃からハンニバルにまとわりついていたおかげで、隠れて何をしていたかなどマゴに限らず、誰も知らないはずだった。
 ハンニバルがどういうつもりでその遊びに付き合っていたかは、あの頃の自分には重要ではなかった。何もかも単純で、楽しかったなと思う。
 ひとしきり嘆いて満足したマゴが、それ原因でないなら何を怒っているのだと仕方なくといった風情で尋ねた。この場に端を発したやりとりを思い出すと、髪を引っ張ってくる手を押し除ける気力が失せる。
「俺は怒ってない。ただ大学出た後どうするか決めてないって話をして、俺は別にどこまでも付き纏う気はないって言った、邪魔したりしないって。そしたらなんか……あいつの積年の鬱憤が……いてっ」
 引っこ抜けそうな強さで髪を引っ張ったマゴは、切れ長の目を見開いていた。驚いているのか、引いているのか、自分を見るマハルバルに嘘や冗談を言っている気配がないのを確かめて顔を顰める。
「信じられねえこいつ」
「は?」
「普通そんな急に梯子外すか? 俺の友達に何をしてくれてんの?」
 何もしていない。むしろしてきたのをやめようという話だった。
「お前さ、あいつがまたその遊びをやりたがったら断らなかったろ」
「まあ、たぶん……?」
 ありえない仮定すぎて曖昧だが、よそで危ないことをするよりはいいと思うはずだ。
 マゴは深々と、肺から空気を押し出すようなため息をついた。付き合っていられないと呟き頬杖をついた彼の目に浮かぶ哀れみがここにいない相手に向かうことは、今度はきちんと分かった。
「転校してきた時、俺はしばらくハンニバルに嫌われてた」
……すぐ仲良くなってただろ?」
「打ち解けるのと嫌われるのは別だよ。お前が俺にべったりであいつを構わないせいで嫌われて、お前がみんなで仲良くしたいって雰囲気出し始めたら許された。最初、モノマコスも俺もいまのあいつがああいう感じなのはハミルカル様のせいだと思ってたけど」
 髪を触っていた指が頭に古い傷を見つけてなぞる。
「自分が何してきたか分かってないんだな、マハルバル」
 どういう意味か、問おうとしたのにマゴの手は離れた。ハンニバルがマゴの言うような態度を取ったかどうか、思い出そうとするうちに軽い通知音が響き、マゴが荷物の中からスマートフォンを探し出した。
「ランチボックス売り切れだって」
……ランチボックス?」
「代わりにまたサンドイッチ。まあここのは美味しいけど……時間かかったなあ、今日購買混んでんのかな」
 よりによってハンニバルを使い走りにするな、と言う余裕もなく立ち上がる。椅子が倒れたがそのままにして窓を開け足をかけた。
 まだとにかく逃げたい。何の整理も、ますます、つかなくなっていた。そのまま中庭に出ようとしてハンニバルと目が合った。
「は?」
 スマートフォン片手にハンニバルも目を丸くして足を止めた。
 なんでここに。購買部のある建物からここまでは、渡り廊下を通ってくるより中庭を横切ってくるのが早いからだ。それにしてもまさかちょうどそこを通っているとは、誰も──窓の桟に踏み止まろうとしたがもう前のめりになっていた。
「うわ、俺の昼飯が」
 中身の入ったビニール袋が投げ出される音を追って、暢気な声が降ってくる。
 目を開くと、地面に突っ込むはずの頬が柔らかいものに触れていた。身を起こそうとするのを背中に回された腕が邪魔をする。いま自分がどうなっているのか理解する前に、衝撃を逃すように軽く咳をするのが聞こえた。
 下敷きにしている。つまり思い切りハンニバルを巻き込んで転んだ。血の気が引いて跳ね起きると、仰向けに倒れたハンニバルは重いと苦笑まじりに呟いた。
 その頭を両手で掴んで、揺らさないように髪の下を探った。
「怪我は!? どっかぶつけたか!? 頭打ってないか、うわっ擦りむいてる」
 土の上とはいえ受け身も何もあったものではない。頭にとりあえず傷がないのを確かめて首や腕、とにかくあちこちに触れ、手に擦り傷を見つけてマハルバルは眉を寄せた。地味に痛いやつだ。
 上体を起こしたハンニバルに目を回しているような様子はない。平気だと言うのに念を押して同じことを尋ねると、じっとマハルバルを見上げた。
「お前に心配されたのは久しぶりだ」
「何言ってんだよ、生まれてこの方お前の心配だけして生きてんのに」
……そうか?」
 どうしてかハンニバルは笑っていた。やっぱり頭を打ったのだろうかと彼の髪や肩から土を払っていると、ハンニバルがマハルバルの腕を取ってほんの少しも力を入れずに自分の掴んだ場所に触れた。
「悪かった」
 そんなのは別にいいのだと首を振った。意図して殴られでもしたなら謝罪が軽すぎると絡んだかもしれないが、ヒミルコが気にするほどにはマハルバルは拘っていなかった。とにかく保健室に連れて行かなければと立ち上がろうとすると、腰に手が回って引き止められる。
「何? 早くそれ消毒しなきゃ……
「俺はな、マハルバル。お前に心配されているのが好きだ」
「え、ああ……そうなんだ……?」
 初耳だった。好きなものを表明されること自体が珍しい、幼い頃に象が好きだと言っていたのは覚えているしいまも好きらしいとか、それくらいで。ハンニバルが気に入っているものは見ていれば分かるから教えられたことがないだけかもしれない。
 昼間とはいえ風が冷たいが寒いとは感じなかった。触れられている場所が落ち着かず、手を下ろさせようとするのに少し押したくらいではずれ落ちもしない。
 見上げてくる顔を直視できなくなって、後ろへ下がろうとすると引き寄せられる。どうにか距離を保とうとハンニバルの肩に手をついたが触れる場所が増えてますます落ち着かなくなってしまった。
「それで、お前は目の届く場所から離れて、もう心配もしないつもりか」
「しない、っていうか、もうしなくていいんじゃないかって」
「嫌だ」
「いや?」
「お前が俺を心配していないのは、嫌だ」
 そんなことを言っても、もうほとんど大人で心配するようなこともなくなりそうだし、そんな軽口がまったく言えない。ついさっき自分は何を口走ったのか、思い返してもそれがまったく大袈裟でないと感じるのだからマハルバルはらしくもなく口籠った。
 出口を求めて視線を泳がせるうちにまともに顔を見てしまった。完全に見慣れたとはいえ均整の取れた顔がはっきりと不満を示して、それが幼い頃にマハルバルが真剣に遊びに付き合わなかった時に見せたのと同じ顔なのだ。
 くそっ可愛いなこいつ。
「かわいい!?」
 悲鳴だった。かわいい? 何が? かわいいって何? まさか目の前のこいつか? マハルバルにとってこいつが可愛かったことなどただの一度もなかったのに?
 助けてくれと思った途端に頭上でぴしゃりと窓が閉まった。見捨てられた。
 突然百面相を始めたマハルバルに驚いていたハンニバルが、なるほどといった目の細め方をする。
 頬に触れた手のひらを、火照りのせいでひんやりとして感じた。頭の中で激しく警鐘が鳴っていたが、マハルバルはこの手から逃げ出す術を知らなかった。いつの間にか柔らかさを失った手のひら、その感触さえまるで違うのに、違いばかりが目について仕方がないのに、お前は違うと決めつけて背を向けることがどうしてもできない。そうしてしまったが最後、何もかも失うのを恐れている。
 顔を背けようとするとその手に向き直らされて、先程と同じ顔に見上げられる。
 この顔は分かっててやっている、わざとだ、つまり罠だ、分かりきっていることさえ利用した卑劣なやつ。可愛いと言われて矜持が揺らぐような可愛げの一切ないやつがどうして可愛いのか、積み重ねた十七年分の思い出が出す答えがそれなのか。
「確かに俺から頼むということはしてこなかったな」
……頼む? 俺に、お前が?」
「そうだ。マハルバル、俺を見ていてくれ」
 いまにも破裂しそうになっていた思考が、その言葉ひとつで静かになった。肩を押していた手から力が抜けて、マハルバルはまじまじとハンニバルを見つめた。
 何も覚えていないのに、何も知らないくせに。
 岸に打ち上がる波の音を共に聞いた、数え切れぬ光として空に満ちた星々を数えた、遥か遠くからやってきた傭兵たちの教えてくれた意味も知らぬ歌を口ずさんだ。世界を丸ごと変えてしまうような喪失に耐え、誰も知らない場所へと恐れを知らずに踏み出した。すべてどこかに置いてきたのはお前なのに。
 夕日に紫に染め上げられた空と海とを背にして、あのときハンニバルがどんな顔をしていたのか、マハルバルだって思い出せないのだ。
「そうだった」
 呟いたマハルバルの目元に指先が触れた。涙の跡をなぞるのでなく零れ落ちた雫を受け止める。
 うそつき、そう言われたのかもしれない。何を言われたのかとそればかり想像して、何を言わせたかなどとは一度も考えなかった。
「そうか、だから怒ってたんだ」
……マハルバル?」
 そう呼んだ声が慎重に呼び戻そうとしているように聞こえて、マハルバルは腕を伸ばした。抱き寄せたハンニバルの、昔同じようにした頃よりは硬くなった髪に頬を寄せて、分かったと小さく囁く。
「見てるよ、お前がもうついてくるなって言うまで」
「まだそれを言うのか……
 その呆れに、どこか気の抜けた気配があった。ぎゅうと抱き締められたハンニバルはしばらくされるがままでいたが、苦しいとくぐもった声がしてマハルバルはようやく腕を解いた。
 ぼさぼさになった髪を手で梳いてやりながらマハルバルが笑うと、両手が耳のあたりに触れた。そのまま引き寄せられ──何をしようとしているか気づいてその口を両手で塞ぐ。不満げに眉を寄せられて大きく首を横に振った。
「ここ学校! 中庭!」
 そして昼休みが終わろうとしている。マハルバルもいま思い出したが。
 手を振り解き立ち上がって、放り出されていたビニール袋の方へ逃げた。
「もう手遅れだろう」
「そっ、うだけど、手遅れなのはお前のせいだろ……!」
 なんだってマゴに喋ったのだと文句を言ってから、まさかと振り返るとハンニバルは澄まし顔でスマートフォンを拾っていた。
「外堀を埋める方が早いと思ったが、別に要らなかったな」
…………
「画面が割れた」
「えっうそ」
 のこのこと歩み寄り覗き込むと、最新機種の画面はつるりとして無傷だ。割れてないじゃんと言いかけたところで顎をすくわれる。
 そんな必要はないと知っているのに息が止まった。柔く触れるだけで一度離れた唇が押し付けられて、袋を取り落としそうになる。目を閉じろと思い、それはそれで耐え難いとも思い、押し返そうとする前にハンニバルが身を引いた。
 面白いくらいに顔が赤くなっているのが自分でも分かった。こんな挨拶程度のキスごときで。ふっと笑う気配に歯軋りしたくなる。
「なんでこういうことすんの」
 負け惜しみのように問うと、それは俺も考えていた、などと言う。
「お前が可愛いからだろうな」
 照れとか戸惑いとか、そういうもののないあっさりした口振りに、マハルバルの方は絶句した。誰かの入れ知恵だと直感したもののハンニバルが完全に納得しているのだから同じことだった。
 ハンニバルが多目的室の窓を振り返るとそこは無人で、ちょうど予鈴が鳴る。授業はもういいかという顔で校舎の中庭に面した扉へ向かうのを置いて行こうかとも思った。けれど結局、放っておけば手の傷の手当てをしないでいるだろうことが無視できずに、マハルバルはその手を取った。




 海原から、夜に冷たさを引き込むように風が吹いていた。西からの傾き始めた日差しが影を長く伸ばし、夕闇を深く濃くしようとする頃、丘に建つ館の門を潜った影があった。
 主人の帰還に慣れない若い奴隷が慌ててやってきて、馬の手綱を受け取る。ひと月ほど前に初めてその顔を見た相手を労りのない厳格な人間と信じてその奴隷が足早に去って行くのを、こちらは老いの深く刻まれた館の管理人が詫びた。
「戻ってから怖がられてばかりいるようだ」
「あなたさまの噂を聞いて、想像を豊かにしていたのでしょう。ハンニバル様」
 あなたのお世話をした者ももう少なくなった、そう懐かしむ男は実際の年齢よりもずっと老け込んでいた。まだ髪も髭も黒々としていた頃には悪さをしては逃げ回る子供を追いかけていたものだが、もう走ることさえ難しいだろう。
 自分で馬を厩へ連れて行った供の者たちを部屋に通すようにだけ言い、ハンニバルは館に入った。玄関広間で足を清めようと進み出てくる女奴隷を下がらせて、人の暮らしの気配の薄い館をその奥へと進む。彼の足が持ち込んだ砂が磨かれた床でざりざりと音を立てるのが、彼はこの瀟洒な館に場違いだと言っているようだった。
 ひと月前、元老院の命令を受け取ったハンニバルは彼に従うことを選んだ兵士たちと共にイタリアを離れ、このアフリカの地に戻った。ローマ軍の駐留するウティカを避けてレプティス・ミノルに上陸し、軍勢はここより北のハドルメトゥムで冬を越そうとしている。
 ここは、レプティス・ミノル近郊のバルカ家の領地だった。イベリアに渡る以前のハンニバルが母や弟たちと共に暮らした場所。あの管理人は頻りに懐かしむが、イベリアでの日々のさらに向こう、靄のかかった朧げな記憶だった。
 中庭を囲む回廊を通るハンニバルを、奴隷たちが恐々と見送っていた。ここでの居室としているのはかつては父の使っていた部屋で、辿り着くのにどこまでも歩かねばならない気がした。使う者もなく閉ざされていた部屋のいくつかは、将校たちがここに滞在する際に使われていた。
 扉の開かれた部屋の前を通り過ぎかけて、ハンニバルは足を戻した。客人でなく家族の過ごした部屋は誰にでも使わせているわけではない。
 夕陽が眩しいほどに部屋を明るく照らしていた。部屋から迫り出して造られている海を見渡せる露台に、カルタゴ人にしては身軽すぎる格好をして男が一人佇んでいた。手摺に腰掛け海の方を見ていたが、こちらに気がついて振り返る。
「おかえり」
 そう言いながら、マハルバルは帰ってくるとは思っていなかったという顔をしていた。露台に立つとこの丘からの景色が一望できる。冬に土を休める穏やかな田園、その向こうに海が広がっていた。
「戻るのは明日になるかと思っていた。ハンノには会えたのか?」
「ああ」
「テュカイオスは騎兵を出すと言ってくれたよ」
 お前の伝言が効いたようだと笑った顔には疲れが見える。
 シュファクスの盟友にカルタゴ軍への参陣を求める使者として、数日前マハルバルはハドルメトゥムを発った。約束を取り付けてすぐに戻ったのだろう、ハンニバルがちょうどここに戻るのに間に合うように。
「ハンノは元気だったか?」
 将軍のひとりを親戚の子供のように言って、疲れていたと返されて苦笑する。
 ハドルメトゥムでは、ハスドゥルバル・ギスコの失脚により将軍に任命されていたハンノから与えられた兵士たちを加えて、イタリアを発つ際に数を減らした軍勢は一応の形を整えつつある。ハンノはいまも兵士を集めるため動いており、忙しなく行き来しては叔父に本国の状況を知らせた。
「テュカイオスが来るまで何日かかかる、オリーブを植えてる連中のところに行っていいか?」
「気に入っているんだな」
「楽しいよ。農夫らしくなってきた?」
「お前のような農夫がいれば武装させて一隊を預けるところだが」
 マハルバルは喉を鳴らして笑い、そんな奴がいれば俺だって部下に欲しいよと冗談半分に返した。
 ローマの輸送船団を襲うに始まり、ハンニバルが戻って以来市民は調子づいている。和平条約のためにローマに送られた使節はまだ戻らないが、果たして彼らの携えて戻る条件を飲むかどうか。
 将校たちをあちこちに派遣し、自らも奔走していたが、戦いを切望するから兵士を集めるのではない。ハンニバルはあくまでも市民と兵士たちに任命された将軍であり、カルタゴが戦えと言うならば戦うだろう。どこかで、既に終わったと感じているとしても。
 ますます冷たくなった風が露台から部屋へ吹き込み、調度がかたかたと音を立てて揺れた。上着を着るか中に入るかしろと言いかけたハンニバルに、部屋を振り返っていたマハルバルが尋ねる。
「ここって子供部屋だろ?」
 いつも貸してくれるけど、と呟きながら、その目は部屋の中に何かを追いかけるように動いた。
 彼の言う通り、主人たちの寝室に隣り合うこの部屋でハンニバルは弟たちと寝起きしていた。しかし小さな寝台も木馬や玩具の類もなく、既に子供が過ごした名残はない。
……どうして分かる?」
「ここには来たことがある。この部屋にも」
 思いがけない言葉だった。少なくとも、ハンニバルはここでマハルバルと会ったことはない。イベリアで初対面の相手として紹介を受けたのだから。
 お前とハスドゥルバルがここを離れた後だとマハルバルは言った。
「母親に連れられて……ここでマゴーネに会ったんだ。あいつはずっと奥様の腕に抱かれて喋らなくて、最初女の子だと思った。誘っても怖がって一緒に遊んでくれなかったな」
 母親が子との別離を、彼らを待つ危難を嘆き、恐れ続けていたせいで、その腕の外には怖いものが溢れていると信じてしまったような幼子だった。
 ハドルメトゥムにはマゴーネの麾下であった兵士たちもいる。船に乗る以前に受けた傷のせいで祖国へ戻れなかった指揮官を惜しんで、逃げ出さずにハンニバルのもとへ辿り着いた。それを見れば、あの幼子が母親だけの子供ではなかったと分かる。
「奥様は俺にも行ってはいけないと仰ったよ。俺の母親が困るくらい、何度も」
 行かないで、そう繰り返して泣く女の声がどこかから聞こえた。
 どうして連れて行くのと夫を詰る母親の腕の中で、物心つくかどうかの末弟だけが守られていた。あの頃のハンニバルは母親のことを、いずれにせよ幼すぎて連れては行けなかっただろうマゴーネを、それでも自分と共にいなくてはいけない弟を自分から引き離す、嫌な存在だと思っていた。
 怖がって見送りに出られず寝台のうえで小さくなっている幼子に、ハスドゥルバルとともに言葉をかけた。何と言ったのか、ハンニバルの目もまた影を追ったが、その声は聞こえてはこない。
「この部屋を見てやっと帰ってきたと思った」
 同じ影を見るのは、そう言ってハンニバルを見上げたこの男だけになった。
 燃えるように赤かった夕陽が、次第に海に溶けてその色を変え始めていた。フェニキアの紫に似た帯が水平線の上に揺らいでいる。
「戦争が……終わったら、本当に農夫にでもなろうかな。うちの土地は親戚にほとんど取られたも同然らしいんだけど」
「やることならばいくらでもある、お前に農夫は向かん」
 何のことかと首を傾げるマハルバルは、本当にどこまでも兵士としてしか育てられていなかった。それでも構わない、農夫になどしておける筈がなかった。
「和平が成るか否か、いずれにしても、この国は変わらなければ」
 ハンニバルがこうして戻るまで、本国におけるバルカ家の代表は姉とその夫ボミルカルであり、この領地も、家長の不在のあいだずっと長姉が管理してきた。父の代から現在に至るまで、かの王は変わらぬ支持を示し続けている。
 それでも、彼は義弟から求められる通りの援助を行うことはできなかった。それほどまでに頑迷な反対があり、貴族たちの思惑は蜘蛛の巣のように元老院に張り巡らされている。
 百人会に籠る貴族たちに対して、父や義兄でさえイベリア半島の富を送り懐柔することで距離を置いた。シキリアやサルディニアの喪失を埋め合わせたイベリア半島の銀山は失われた。財政はみるみる間に逼迫し、現状の制度と貴族たちの政治はバルカ家がその支持を負う民衆を苦しめるだろう。
 マハルバルは黙って耳を傾け、また海の方へと目を向けた。わずかに、痛みを堪えるように眉を寄せたが、それは瞬きのうちに消えた。いつからか、彼はこのような何へ向かうでもない眼差しを落とすことがあった。何かを諦めたように口を噤み、その理由を問われるより先に分かったと頷く。
 やはりマハルバルは頷いて、そうだなと笑った。
「俺そういうの全然向いていないからな。まあ、お前が暗殺されるようなことはないように守ってやるよ」
 暗殺は常に付き纏う不安で、義兄の死を目の当たりにした彼らには戦いの中での死と同じくらいにその可能性を意識させられるものになっている。しかしハンニバルはその他人事のような物言いに眉を寄せた。
「向いていないで済ませるな」
「俺はカルタゴがどうなろうと別にいい。お前がまだ諦めないならついていくさ」
 手摺から立ち上がって、マハルバルは灯りを点しにやって来たものの戸口でまごついていた奴隷からランプを受け取った。揺れる小さな火が、同じ色をした瞳を薄闇に浮かび上がらせる。
「俺には、お前と同じものは見れない。だからお前を見ている」
 こんな笑い方をする男だっただろうかと、そう思いながらもハンニバルは頷いた。本当なら誓いを立てろと言いたかったのを飲み込んだ。
 この土地には、女王の建てたあの都市には、もはやハンニバルがそこを帰る場所と思うよすががわずかにしか残されていない。懐かしい土地は海の向こうに、二度と踏み入ることのできない場所として失われた。
 マハルバルはハンニバルが失ったものを知っていた。それは彼自身の喪失として抱えられ、同じ影が彼らの前を行き交う。この目が見ているのならば、おのれの在処を見失うこともないだろうと、そう思えた。