水樹咲夜
2026-01-24 01:56:57
17454文字
Public 笙主
 

仮面の下の深層(笙主5)

笙主。男部長固定、自分の所の部長設定。 原作にはないけど、笙主の部長のキャラエピ4、5くらいのイメージ。 笙悟への踏み込み〜キャラエピ7くらいの進行度。部長視点で恐らく暗い。



 笙悟の心の深い部分に踏み込んで、その現実の傷を知った。それはあまりにもキツく、奏から見れば笙悟自身は悪くないとしか思えない事だった。
 亡くなったその人は、笙悟がもしもその時に止めたとしても止まれなかったのだろうか。もしかしたら、止めて欲しかったのかも知れないけれど。自分はその人ではないから、そこはわからない。
 現実で死のうとした事がある奏にとっては、そういう気持ちは少しわかるような気もするけれど。その人が止まりたかったから笙悟を心中に誘ったのか、それとも、本当に一緒に死にたかったのか……一人でも死んだという事は、そうして笙悟の心に傷を遺したかったのか。そこまでは流石にわからない。

 笙悟の心の痛みに触れたからだろうか、自分の精神までぐらついている気がして、奏は軽く胸を押さえる。強くもないのに『部長』として強いフリをしているせいか、仲間の心の痛みに触れるたびに、自分の心まで揺れてしまう。
 本当に自分の心がもっと強かったらよかったのに。そうしたら、もっとみんなを支えられたかも知れないし、偽物の頼もしさではなく、本当に頼もしい人でいられたかも知れない。奏はそう思うが、それならそもそもメビウスに堕ちたりしていないだろう。

『どうする?アタシたちも、もう帰っとく?』
「うーん……そうだね、笙悟も多分帰っちゃっただろうし」
……笙悟、大丈夫だといいけど。またどっかで倒れたりしてないよね』
「心配ではあるけど、追いかけて一緒に帰る訳にもいかないもんなぁ……

 笙悟はそんな傷を抱えながら、帰るためという理由があるとはいえ人を集めて、帰宅部を結成したんだと思うとすごいと思う。笙悟本人にとってはかなりの負担だったとしても、奏には恐らく同じような事は出来ない。
 笙悟の心に強いトラウマを遺し、その記憶に傷痕を遺したその人の事を考えると、何故か、何とも言えないモヤモヤとした気持ちになった。この気持ちは何なのか、よくわからない。あまりいいものではない気がする。

……いいなぁ」

 不意に、ポロッと自分の唇から考えてもいなかった言葉が溢れた。自覚なく溢れたそれが、自分でも理解出来ない。一体、今自分は何を言ってしまったのか。理解出来ない、理解したくない。自分の無意識から零れ落ちたその言葉に、体が震えそうになる。
 それでも、吐き出してしまった言葉をなかった事には出来ない。たとえ、自分しかそれを聞いていなかったとしても。

『ん?今何か言わなかった?』
「い、いや……何でもない、と……思う、多分」

 今自分は、何を羨んだ?口を手で押さえながら、今自分が考えてしまった事を思い出して、一気に血の気が引いていくような感覚がした。笙悟があんなに傷付いていたのを見たのに、一体何を羨んだのか。

『ちょっと、YOUまで顔色悪くない!?』
……大丈夫、大丈夫だよ。少し、嫌な事を考えてしまっただけだ」

 俺は今……死んだその人を、笙悟の心に深い傷を遺したその人を……羨ましいと、そう思ったのか?

 そう自覚して吐き気が、目眩がする。そんな事を考えるなんて、あまりにもひどい。仲間の、友達だと思う人の深い傷を知った後にそんな事を考えてしまうなんて、本当にどうかしている。
 どうしてそんな事を思ってしまったのか、自分でもわからない。確かに自分は、ここに来る前に現実で死のうとしていたけれど。奏は自分の感情がよくわからず、ただひたすらに戸惑い、困惑する。

『YOUも帰って休んだ方がよさそうだよ、顔色真っ青だもん』
……そう、だね」

 自分でもよくわからないその感情を、ぎゅっと心の奥底へとしまいこみ、部長としての表情を作って何とか微笑んでみせる。

「アリア……少し用事を思い出したんだ、先に帰っててくれないか」
『え、でもそんな顔色で用事って、大丈夫?』
「大丈夫、少し休んでから行くから」

 奏の表情から、何となく一人になりたい事を察したのか、アリアは心配そうだったけれど結局頷いた。

……わかった、気を付けてね』
「うん、ありがとう、アリア」

 アリアを見送ってから、奏はデジヘッドに気を付けながらも水族館内を歩き出す。薄暗いこの場所は、僅かに自分の中の暗闇への恐怖を刺激するが、なるべく水槽の方を見るようにしてその恐怖から目をそらす。
 そうして、他の人もデジヘッドも誰もいない場所を見つけて、そこで足を止め、ぼんやりと水槽を見つめる。目立たないような小さな海の生物たちが展示されているような場所だからか、この辺りにはあまり人もいないのかも知れない。
 水槽の魚たちは映像なのか、NPC扱いなのかわからないが、形がわかるということは大半はNPCではなく本物に見える映像のようなものなのかも知れない。そんな事を考えながら。そのまま奏はぼんやりと水槽を見つめたままで、ただ自分の中の思考と感情を整理していく。

 現実で自分が孤独だから、あんな事を思ってしまったんだろうか。たとえそれがトラウマだったとしても、誰かに強く思い出される事は羨ましく感じてしまう。現実での奏は、きっと誰かに思い出される事なんてないから。
 何もない自分にとっては、心についた傷になるのすら羨ましいのかも知れない。少なくとも、存在を忘れ去られたり、自分など存在してないものにされるよりはマシだ。

 自分の現実には何もない、いつも孤独だった。家族を喪い、友達もなくいじめられ、ピアノの先生からは上手く出来なければ体罰を受ける。母を知る人たちからはただ亡き母の面影を重ねられ、その後を継ぐよう強制されていた。奏自身が存在を望まれる事はなく、いつだって母のようになれと言われるか、周囲の理想の姿を押し付けられていた。
 もしあの時メビウスに来ていなくて、そのまま死んでいたとしても、そんな自分が誰かに思い出されるような事はきっとないだろう。
 もしも死んだところで、きっと誰にも思い出されず、誰の心にも傷すら遺せない。存在価値も意味もない、両親の身代わりになれず生き残ってしまった罪を抱えたもの。そういうものが現実の自分だ。

「それでも、現実から逃げ続けてもつらいだけだ。そう、だから、俺も現実に帰らなければならない」

 奏は水槽に映る自分へと向けて、言い聞かせるように呟く。現実に帰りたくないと思う自分を、また独りになりたくないと思う自分を、そうして心の奥底へと追いやって押し殺す。現実でも時々そんな風にして、鏡像の自分に語りかけて、自分の感情を心の奥底に沈めていた。
 みんなの話を聞いて、みんなの心に踏み込んで……前を向けるよう背中を押して。そうして結局、自分だけが前へと進むこともなく、変わる事も出来ずに取り残されるのかも知れない。現実に帰ったって、自分には何もなく、身代わりを強いられ、ずっと孤独な事は変わりないのだから。

……独りなんて、慣れているはずだろ。今更こわがるな。しっかりしなきゃいけない。みんなをちゃんと、現実に帰さなきゃならないんだ、俺は、帰宅部の部長なんだから」

 みんなは、帰ることを望んでいる。自分はそれをまとめる『帰宅部の部長』として、みんなの背中を押さなければならない。心の奥底にいる臆病な自分が恐怖に震えても、現実の事を考えて苦しくなっても……そうすると決めたのだから。
 帰宅部に加入し、部長を引き継ぎ、そうしてみんなの事を知っていってから、奏は彼らを現実へと帰そうと決めていた。そのためなら、自分がどうなろうが構わない。

「大丈夫、最後までやれるはずだ。相手の希望に、願望に合わせて、その通りの姿に見せるなんて、現実で慣れているはずだろう。母の仮面をずっとかぶらされていたのに比べれば、頼もしく強い部長を演じるのはまだマシなはずだ」

 水槽に映る『自分』へ向けてそう呟く。その表情が苦しげに歪んでいる事からは目を背ける。このメビウスにいても、奏の心はぐらついて、すり減って、どんどん自分というものがわからなくなっていた。ここにいるはずなのに、見失っていく。
 それでも、ただひたすら望まれた仮面をつけ、望まれたようにふるまう。現実でも、ここでも。そうするしかない、そうする事しか知らない。どれが本当の自分なのか、それともずっと装っていてもう自分なんていないのか、奏にはもうとっくの昔にわからなくなってしまった。

……俺は、誰なんだろう」

 わからない。そんなもの、メビウスに来るずっと前からもうわからなくなってしまった。本当の自分なんて、もうどこにもいないのかも知れない。奏はそう思い、目を伏せる。本当の自分というものは誰にも望まれなかったから、消えてしまってどこにもいなくなってしまっても不思議はない。
 それなら、こうして今考えて、生きている『自分』は一体誰なのか。奏にはわからなかった。

「それでもいい。本当の俺なんてきっと、現実はもちろん、ここでも、誰にも望まれないし求められる事もないのだから。必要ないだろう」

 帰宅部のみんなを見守り、前を向けるよう背中を押すのは、きっと優しさからなんかじゃない。現実で愛されず優しくもされなかった自分の中に、人を想うあたたかな優しさなんてあるとは思えない。きっと身勝手な気持ちだろう。ただ、それでも、みんなには自分のようになってほしくないと奏は強く思っていた。
 現実に絶望し、人を信じられず、自分を見失い壊れかけ、ただ息をしているだけの自分のようになってほしくない。ひとには色んな傷があるけれど、みんなはまだ、何とか間に合うはずだから。そう思う気持ちだけは、きっと本物だ。

「笙悟は……大丈夫じゃ、ないよな……

 そうするしかないと思ったから、その心の深い部分に触れてしまったけれど。本当は笙悟だって誰にも触れられたくなんてなかっただろう。苦しめてしまったかも知れない。奏は申し訳なく思いながら、そっと溜息をつく。

「無事に帰っているといいんだけど」

 そんな風に笙悟を心配しながら水族館を出た時には、まさかまだ笙悟が家には帰っていなくて、その近くにいるなんて思わなかった。笙悟の姿を見つけた時に、もしかしたら彼もすぐに帰らず、ここで心を落ち着けたかったのかも知れないと奏は思い至る。
 そうして、海を眺めているらしい笙悟の後ろで、しばらく話しかけようかどうしようか迷っていたら、うっかり笙悟に気付かれてしまい、双方気まずい気持ちになってしまったけれど。
 気まずさはあったものの、現実の話をした後でも笙悟が嫌がらずに話をしてくれる事に奏はホッとした。何となく、あのまま彼に嫌われてしまうんじゃないかとも思っていたから。

「俺の事が嫌になったんじゃないのか。俺の、現実を知って」

 笙悟にそう言われて、奏は言われた事がよくわからずに首を傾げる。嫌われるのはこちらの方だと思っていたのに、何故か笙悟の方が嫌われると思っていたようだ。
 彼の現実の話を聞いても、奏にとっては笙悟を嫌うような内容の話ではなかった。笙悟に心中を持ちかけ、そして結局一人で死んだというその相手に対しては、何だかモヤモヤもするし色々な感情でぐるぐるするけれど。むしろ奏から見れば、笙悟は何というか……被害者でしかなかった。

「何で俺が笙悟の事を嫌になると思ってるのかはわからないけど、俺はそれを知っても嫌とかはないな。確かに驚きはしたけどね」
……話すのも嫌じゃないのか」
「現実の事を知ったからって、俺が笙悟と話したり一緒にいるのを嫌になることはないよ。……まぁ、もしかしたら、笙悟が俺の現実を知ったら、俺といるの嫌になったりするのはあるかも知れないけどね」

 現実で死のうとしてここへ来て、そうして今もすり減って見失って壊れかけている心の奥底の自分は、きっと笙悟にも、帰宅部のみんなにも、見せられるようなものではない。知られたら、みんなは俺を嫌いになるだろう。奏はずっとそう思っていた。

 そのまま、ただ静かに笙悟としばらく話をする。あれだけ感情的になっていた笙悟が、少し落ち着いている事に奏は心の中で安堵する。もちろん、今少し落ち着いているとしても、今後も揺らぐだろうし、完全に落ち着けるのかはわからない。
 それでも、あんな風に今にも壊れてしまいそうな状態ではなく、話をしていられるくらいには、ひとまず落ち着いたのだろう。

「笙悟にとっては、最初のあの時、俺を追ってきて助けてくれたのは、自分が現実に帰るためだったのかも知れないけど……俺にとっては本当に、久しぶりに人に助けられてあたたかい心に触れられた。そういう……何というか、俺の中ですごく大きいものだったんだ」
「だから、感謝するのか」
「うん……それに、笙悟の現実の事だって、笙悟は知られたら嫌われるような事だと思ってるんだろうけど、俺にとっては嫌うような事じゃないから」
「何でだ、俺に助けられて感謝してるから、嫌いになったりしないって事か」
「それもあるけど……俺は、笙悟の事が好きなんだ。現実の事を聞いても……その傷に触れてしまっても、俺の心は変わらないよ」

 奏は正直な気持ちをそうして伝えておく。笙悟が大切なのだと、好きなんだと、嫌いになんてならないと、そう伝えておく。いつまで傍にいられるのかはわからないし、自分の心が限界を迎えて、もうすぐ壊れてしまう可能性もある。それにきっと、現実に帰ればもう会えないだろう。
 だから、ここにいるうちに、そう伝えておく。きっと伝えておくのは、親切心とか、優しい気持ちとかではなく、身勝手な事だと思うけれど。伝えておかなければ、あの時言っておけばよかったと後悔してしまうかも知れないから。

 君は嫌われるような人じゃない。ただ少しだけ、過去の色々で臆病になってしまっているだけだろう。優しくて、だからこそ身動きがとれなくなってしまった人。どうか、壊れそうなくらいに苦しまないでほしい。それを緩和出来るなら、俺は何だってするから。そう奏は心の中で思う。
 きっと重いだろうから、これは心の中にしまっておく。男が男に言われても、一般的にはきっと嬉しい事でもないだろう。普通は異性に言われないと嬉しくない事らしいから。奏にはそういう事はよくわからないけれど、世間というものはそういうものらしいと、帰宅部のメンバーの言動から学んでいた。
 もちろん、自分のような本当は弱い人間に出来る事なんて、あるのかはわからない。それでも、笙悟を支えたいとは思う。笙悟の事も、帰宅部のみんなの事も支えたい。

 俺にそんな資格なんてあるのか?

 自分の心の内側で、そんな言葉が自分を突き刺してくる。わからない、わからないけれど……それでも、笙悟が、帰宅部のみんなが、大切だと思うこの気持ちも、きっと本物だと思いたい。

……部長は、あんな所に登って見る程、空を見るのが好きなのか」

 彼のトラウマを知らなかったとはいえ、その心の傷に触れてしまっただろう屋上での事を奏が謝った後、ふと笙悟にそんな事を聞かれた。

「現実では空を見てる余裕もなかったけど……この世界の空は好きだよ」
「言っちゃ悪いが、偽物の空なのにか?」
「偽物の空だから……かな」
「偽物だから?」
「現実の空と違って、基本的には変わる事のない、虚構の空……変わらない空だから。多分、変わらない事に、俺は何となく安心するんだ」

 現実では、両親を喪った後、自分の周囲の人たちの態度がガラリと変わってしまった。人間というものは、何かがあれば急に態度を変えてくるものなのだと、奏はその時に知った。そうして両親がいない悲しさと、周りからの圧力と攻撃で、自分すらも変わっていった。
 変わってしまったものは戻る事もない、他人も、自分も。急激に変わらないとしても、時間の流れと共に変わっていく。成長し、年を取り、街では店が変わり、少しずつ変わる。人も、街も、世界も、自分自身すら、変わってしまう。
 だから、変わらないものなんてないと理解しながらも、殆ど変わる事のないものを見ると奏は何となく安心出来た。

「色々変わっていくとしても、メビウスの空は願われない限りはいつも大体変わらない……変わらないものを見ると安心するから、俺はここの空と、それがよく見えるあの屋上が好きなんだと思う」
「変わっていくものが怖いって気持ちは、まぁ……俺にもわからなくもないけどな」
「人は変わるもの……わかってるんだ。成長もするし、急に色々変わってしまう事もある。帰宅部のメンバーだって、少しずつ変わっていくし、時が流れていくようにその変化は止まらず、進んでいくものだろう」
「そう、だろうな」

 変わってしまうのがこわかった。あたたかい場所がうしなわれて、冷たい場所ばかりになってしまうのもこわかった。変わらないものなんてないと、知っていた。それでも、奏にとっては変わっていくものがこわくて仕方がなかった。
 色んなものが、きっと、変わっていく。他人も、世界も。帰宅部のみんなだって、どんどん変わっていく。それはきっと、いい事なんだろう。奏はそう理解はしている。そうしてきっとそのまま、自分だけ取り残される。

 俺は置いていかれる側だろうけどね。

 そう言ってしまった気がする。笙悟と話しているのに、時々、自分の存在が曖昧になるような感覚がある。メビウスに来た時のように、自分の心の何かが限界に近いのかも知れない。
 それでもいい、変わっていく、成長していく帰宅部のみんなを見送る事が出来れば、それでいいはずだ。そう、それでいい、はずなのに。……どうしてそれが寂しく感じるんだろう。

 メビウスでの事はきっと、幸せな夢のようなもので、現実へ帰れば覚めてしまう。現実で前を向いて進み始めた帰宅部のみんなに、こんな部長がいたと、ほんの少しでも思い出してもらえればそれでいいと思っていたはずなのに。
 奏にはどうして寂しくなってしまうのか、よくわからなかった。現実ではこんな気持ちになった事がなかったし、そもそも仲良くしてくれた人間なんていなかったから、どうしてこんな気持ちになるのか、この寂しさが何なのか、理解出来ない。

「ねぇ、笙悟。変ついでに、変な事をお願いしてもいい?」
「お前がお願いとは珍しいな、どうした」
「部長じゃなくて……名前で呼んでほしい」

 自分の何かがすり減って、どんどん見失っていく。現実でも……ここでも。いつか自分の名前すら失ってしまいそうで、奏は怖くなって笙悟にそう願う。
 いつか、自分が本当にいなくなってしまったとしても、もしも……誰の傷にもなれずに死んでしまったとしても。それでも、名前くらいは僅かに記憶のどこかに残るかも知れない。
 帰宅部の部長は、現実に帰るまでは必要だろうけれど。現実で、前を向いて歩き出した彼らには必要ないだろうから。せめて、誰かが……笙悟が、名前を覚えていてくれたらいい。

 自分の中のどこかで、何かがどんどん壊れていくような音がした。



 帰宅部のみんなと過ごすのも、笙悟の傍にいるのも、あたたかくて幸せなのに、何故か心がどんどん苦しくなっていく。
 心の深層に押し込めた、臆病で弱くて情けないものが……自分の、見たくない部分が、壊れかけているんだろうか。それとも、何かが変わっていこうとしているのか。奏はそこに目を向けないようにしてきたから、わからない。
 ただ、それでも出来ればここにいる間は、一緒にいたいと思う。現実に帰った時に、更に寂しくなってしまうとしても。

「俺を構い倒すっていうコレも続けてくれるんだ?」
「ああ、まぁ、もしもお前が嫌ならやめるけど」
「嫌じゃないよ、むしろ俺は嬉しいくらいだけど……その、笙悟はいいの?」
「いいからこうしてるんだよ」
「そっか……何か笙悟とアリアにお礼考えないとなぁ」
「これは俺も人に慣れる為にしてる事だから、礼とかいらねぇだろ」
「そうかなぁ」
「そうだよ、奏には言っただろ、俺は現実では引きこもりなんだ。そもそも本当は他人と交流する所から既にハードルが高いんだよ」

 笙悟に、頭を撫でられるのが好きだった。あたたかなその手は、何故か妙に安心出来る。まだ両親がいた頃、褒められて頭を撫でられていた……そんな頃を思い出す。数少ない優しい記憶を思い出させてくれる。
 優しくてあたたかな人だから、きっと現実へ戻っても、ひとに好かれるだろう。奏はそう思い、何故か不思議と痛む自分の胸を、気付かれないようにそっと押さえる。

「笙悟はきっと……ひとに好かれるタイプだよ」
「それはないだろ」
「人間不信な野良猫に懐かれてるんだから、もっと自信を持ってくれ」
「そりゃ奏の事か?お前は人間不信ではないだろ、確かにこう、ちょっと、割と、浮世離れした感じの部分というか、多少天然っぽいが」
……どうかな、俺は、みんなに言えてない部分がいっぱいあるから」

 現実に帰れば、この手に触れてもらえる事もなくなるんだ。そう考えては、奏は余計に苦しくなって、またその感情を深層に押し込めた。帰宅部のみんなを現実に帰すための、『帰宅部の部長』には必要ない部分だと思っていた。
 見ないフリをして、心の奥底に閉じ込めた所で、それがなくなる事はないとしても。



 笙悟に関わっていた、自殺未遂しようとする少女を止める事が出来た。トラウマのあまりに、目を背けて逃げようとする笙悟を引っ張って、背中を押して、そうして震えながらも必死に前を向くのを見守った。きっと笙悟はこれで、前へと一歩前進する事が出来たんだろう。
 ……こうして、自分以外の帰宅部のメンバーみんなが、きっと前を向く事が出来たはずだった。彼らの少し明るくなった表情を見てると、よかった、そう思うのに、同時によくわからない感情で心の内側がぐちゃぐちゃになっていく。
 これで、現実へ帰ればきっと、みんなは立ち直る事だって出来るかも知れない。そう、もうあとは『部長』として、みんなを帰せるように頑張ればいいだけだ。

 ……もうすぐ、『帰宅部の部長』は必要なくなる。俺という存在は、必要なくなる。

 どうして、自分がこんなにモヤモヤしているのかわからない。心がぐちゃぐちゃになっているのもわからない。こんな経験は初めてで、奏にはどうしたら治るのかもわからなかった。
 現実ですら、こんなにも心がよくわからない状態になった事はなかった。現実では、色々な事を諦めていたからだろうか。それなら、今の自分は何かを諦めきれないのか。……みんなと一緒にいたいという気持ちを、諦められないからなのか。

 そんな風に、ぐちゃぐちゃになってしまったからだろうか。奏は久しぶりに夢を見た。思い出したくもない、見たくもなかった地獄……現実の夢を。



 ……両親がいた頃は、幸せでした。お母さんから習うピアノも楽しかったし、頑張ると両親とも褒めてくれました。その頃の事はもう、あたたかくて優しい思い出すぎて、つらくてよく思い出せないけれど、確かに幸せでした。ずっとそんな風に、穏やかに幸せな時が変わらずこれからも続いていくと、何の疑問も持たずにそう思っていました。

 そう、目の前で瓦礫に潰された両親を見るまでは。

 そこからは、全てが変わってしまった。親戚の人たちも、学校の人たちも、お母さんのお仕事の関係者も、みんな……変わってしまった。
 その変化についていけなかった自分が悪いのか、変わらないものなんてないと知らなかったのがいけないのか、わからない。
 何にしろ、変わってしまったものは戻らない、周りも、自分も。そうして、自分が変わるのも、周りが変わっていくのを見るのも、こわくなっていった。
 逃げたかったけれど、逃げることさえ出来ずに、その変化を受け入れるしかなかった。やがて、周りにはあたたかなものも優しいものもなくなって、色んな事を諦めた。

「お前のお母さんは立派な人だったのに、こんな事も出来ないのか、この出来損ないが!」
「言う事を聞きなさい!ちゃんとやれば才能はあるはずなんだから」

 ごめんなさい、先生。そう何度謝っても、ピアノの先生たちにぶたれるようになった。上手くいかない自分が悪いんだろう。お母さんと違って才能がないから悪いんだろう。わかってる、それでも、こわかった。
 痛くてこわくてもう嫌で、そこに通わせていた叔母さんに行きたくないと行っても、こちらを見ることもなく、サボらず行きなさいと言われるだけだった。
 そんな風に厳しくしつけられなければならないくらい、きっと俺には才能なんてなかったし、悪い子だったんだと思う。

「傷があって何かこわい」
「あの子普通に動けないの?変なの」
「気持ち悪い」
「近寄るなよ、傷からビョーキがうつるだろ」

 異端な者は、ひとから存在を受け入れてもらえないのだと、退院して学校へ行った時に知った。ひそひそと、周りから色んな嫌な言葉が聴こえる。直接言われる方がマシなのか、それとも遠巻きにされてるだけまだマシなのか、わからない。
 生き残った時に出来てしまった傷痕は、他人にとってはこわくて気持ち悪くて、見たくもないものなのだと思い知らされた。
 治る事のない傷を隠しても、どうにもならない。異端な者は異端でいるしかなかった。

「どうせなら親の方が生きててくれればねぇ」
「子供に才能があるかわからんしなぁ」

 ごめんなさい。才能ある母が生き残れなくて。才能のない俺なんかが生き残ってしまって。悲しいけれど、きっと俺には才能なんてないんだろう。両親が生き残ればよかったのに、出来損ないの自分が生き残ってしまった。
 そうして、周囲の大人たちは、母の面影を見て、俺に母のようになれと強制するようになった。才能がなくても、母のようにならなくては。周りの理想の姿にならなくては。だって、そうじゃないと、ただ嫌われていくだけなんだ。

「どうしてアンタが生き残ったのよ!アンタじゃなく姉さんが生きててくれればよかったのに!!」

 両親のお葬式を終えた後、一度だけ叔母さんが病院に来た事があった。その時に、きっと悲しかったんだろう、泣きながらそう言われた。その後ハッとして、言い過ぎたと言われたけれど、きっとその言葉が本心だったんだと思う。
 ごめんなさい、叔母さん。あなたの姉を奪ってしまって、俺なんかが生き残ってしまった。俺もそう思うんだ、お母さんが生きていた方がきっとよかったんだって。
 俺の事を嫌いだろうに、引き取ってくれただけ、感謝するべきなんだと思う。

……あなただけでも……生きて」

 あの時、崩れていく家で両親に突き飛ばされて、自分だけが瓦礫に押し潰されずに、独り取り残されて、生き残ってしまった。
 最期に耳に残った言葉は、死の間際だったのかとても苦しそうな、か細い母のそんな言葉だった。俺に生きてと願ってくれたのは、多分両親だけだった。
 俺は入院していて、体が動かなくて、両親のお葬式にすら出られなかった。退院した頃には、いつの間にか両親はお墓に入っていて、崩れた家もなくなっていた。

 ごめんなさい、お母さん……お父さん……俺を庇って助けてくれたのに、生きてと言ってくれたのに。でも俺はもう、消えてしまいたいんだ。



……ちょ、ちょっと、YOU、大丈夫?起きたばっかりなのに、顔色すっごい真っ青だけど』
……アリア」

 悪夢から目を覚ますと、心配そうな顔をした妖精のように小さなバーチャドールの姿が見えた。自分ではわからないが、どうやらそんな顔色をしているらしい。つい奏は自分の頬に触れてみたものの、もちろんそんな事をしてみた所で顔色がわかる訳はない。
 苦笑しつつ、何とか心配かけないよう部長としての表情を貼り付けて頷く。

「大丈夫……ではないかも知れないけど。ただ悪い夢を見ただけだよ」
『学校休む?無理しない方がいいんじゃない?』
……いや、夢を見たくらいでそうする訳にもなぁ。少し休んでから学校に行くよ。アリアは、もし一人でも大丈夫そうなら、先に行っててくれないか」
『それはいいけど……本当に大丈夫?顔色ひどいことになってるし、そんな無理しなくていいのに』
「うん、大丈夫だよ、きっとそのうち治るから」

 心配そうにしながらも先に向かうアリアを見送ってから、奏はそっと溜息をつく。気分は最悪ではあるが、授業は無理でも一応部長として、せめて帰宅部には顔を出すくらいしないとだろう。
 食事は食べられそうにない。スープだけでも何とか飲んで、いつでも出られるよう身支度を整えておいてから、椅子に座って少し休む。

「メビウスに来た時みたいになってる気がする……俺の精神の限界が近いのか?でも、せめてみんなを現実に帰すまでは」

 まだ、倒れる訳にはいかない。壊れるならせめて、みんなを現実に帰してからじゃなければ、死ぬ事も壊れる事も出来ない。
 こんな状態になっているのは、現実の夢を見たからだろうか。それとも他に原因があるのか。奏は自分がよくわからずに考え込む。

「どうして、こんなに心がぐちゃぐちゃになっているんだろう」

 千佳という少女が自殺未遂しそうになってるのを見た時から……いや、そもそも、笙悟の現実の話を聞いてから、だろうか。どんどん、自分の何かがおかしくなっているような気がする。元から壊れているのに、まだ壊れるような部分があったんだろうか。

「俺が、現実で同じように、死のうとしていたから?」

 それもあるかも知れないけれど、それだけではない気がする。普段は向き合わないようにしている自分の奥底へと意識を向けて、ぐちゃぐちゃになっている自分の感情や心と向き合う。
 普段は目をそらして逃げている自分の深層部分と向き合うなんて、こんなのは自滅行為だろう、わかっている。それでも、知りたくはないけど、このままでは帰宅部のみんなを現実に帰すまでに、どこかで壊れてしまう気がした。だから、知らないといけない。その感情の正体を。

「羨ましいと思ったのは何でだ、心がモヤモヤしている、この気持ちは何なんだ」

 現実の自分には何もないからだと、その時は思っていた。けれど、それならどうして他の人ではなく、笙悟に関わる彼女たちを羨み、モヤモヤしてしまうのか。何故……自分にもしも何かあったら、僅かでもいいから笙悟に思い出してほしいと、そう思ってしまったのか。
 帰宅部の他のメンバーではなく、どうして笙悟だけに、そう思ってしまったのか。笙悟じゃないといけないのは何故だ。彼が既に傷付いているから?いや、それではないのはわかる。

 どんな理由であれ、笙悟は親を喪ってから初めて奏の事を助けてくれた人間だった。孵化して初めて見たものに懐く雛鳥のように、ごく自然に彼を慕った。彼が部長をしているのが辛いなら、いくらでも自分が頑張ろうと思って、彼から部長を引き継いだ。それが恩返しだと思ったし、安堵してくれて嬉しいと思う。
 笙悟はとても優しい人だった。その弱い部分を支えたい、そう願うようになっていった。笙悟と話すのが楽しくて、一緒にいるのが嬉しい。頭を撫でる手が温かく優しくて、泣けもしないのに不思議と泣きそうになった。
 そうして、いつの間にか惹かれてしまった。好ましく思っていた。そんな事は許されるはずもないのに、傍にいてほしいと、傍にいる事を許してほしいと……その隣で、生きて、いたいと。そう願ってしまった。そんなの、叶うはずもないのに。

 そんな事が、俺に許されるはずがないのに。

 誰かに愛される事もない。誰かに思い出される事もない。母の身代わりにされるか、誰かの理想を押し付けられるしかないような自分が、もしも死んだとしても、誰かの心に残る傷にすらなれない。
 それでも、せめて、僅かな間でもいい……傷になって、記憶になって、思い出してほしい。ここにいた事を。けれど、それもきっと叶わない。傷になる事も出来ず、思い出される事もなく、現実に帰れば一緒にもいられないだろう。

「そうか、俺は……

 そうして奏は、自分が笙悟の事が好きなんだと気付いてしまった。これは、親愛ではなく、多分恋愛感情というものなんじゃないかと、そう理解した。
 笙悟のトラウマになっている少女の話を聞いた時も、自殺未遂をしようとした少女が彼の傷になろうとしていた時にも感じた、あのモヤモヤしたよくわからない何かを……自分の感情を理解してしまった。
 俺だって、死んで心に遺る傷になりたかった。その記憶に僅かでも残れるなら、思い出してもらえるならそうなりたいと、そんな風に思ってしまった事を、奏は嫌でも自覚した。

 けれど、自分にはそうする事は出来なかった。自制心なのか、『帰宅部の部長』としてはそう出来ないからなのか、それとも、笙悟に申し訳ないからか。現実では死のうとしていたけれど、ここでは死ぬ事なんて考えたりしなかった。むしろ、みんなを帰すまでは、何があろうと死ねないし、そうする事は許されないと思っている。
 だからそれを実行した人と、そうしようとした人にモヤモヤしたのかも知れない。

「俺は、なんてことを……

 笙悟の事が好きだけど、それでもきっとその想いは叶わないだろうから、そんな方法で少しでも笙悟の心や記憶に残りたいと少しでも思ってしまったなんて、そんな事を自覚なんてしたくなかった。
 あまりの自己嫌悪で意識が揺れて吐き気がして、奏は何とかそれを堪えて、目を閉じる。どうしたらいいのかわからない、こんな事を考えてしまった自分が、笙悟といていいのか、帰宅部にいていいのか。

 こんな最低な自分なんて知りたくなかった。もう既に笙悟の心が深く傷付いているのがわかっているのに、彼の心の傷になりたいなんて。傷になった人を羨むなんて、そんな事を僅かでも考えてしまったなんて本当に最低だ。
 ひどすぎる、置いていかれる悲しみを、死を目の前にして立ち尽くす絶望を、自分は知っているのに。大切だと、好きだと想う相手の心の傷になりたいだなんて思ってしまった自分が、自分で許せない。

「ごめん……ごめんなさい、笙悟」

 こんな俺なんて、嫌われてしまった方がいいんだ。俺なんかを助けてくれて、信頼してくれた笙悟に、こんなの申し訳なさすぎる。

 そう思い、どうしたらいいのかわからなくなって、奏は家を飛び出して、何かから逃げるように、ただひたすらどこかへと走り出す。
 あんな夢を見たからかも知れない、自分の足が、『実家』の方へと向かっているのがわかった。現実ではもうとっくに存在しないもの。なくなったはずの家と、もう顔もわからなくなってしまったNPCの両親。今はそれでも、虚しくても、会いたかった。

 そうして走って、あと少しで家が見えてくると思った所で、奏はふと違和感に気付いて足を止める。ない、自分の家だったはずの場所がなくなって、その辺りは見知らぬ場所になっている。方角や道は合っているはずなのに、こんな場所は知らない。
 そのまま違和感を抱えつつも歩いて、やがて奏は家があったはずの場所へと着く。けれどそこには既に別の、見知らぬ建物が建っていた。

「ああ……そうか、そうだよね」

 そこに立ち尽くして見知らぬ建物を見上げて、つい奏は笑ってしまう。そんな事も忘れてしまっていたのかと。あるいは、無意識に見ないフリをしていたのだろうか。
 そう、わかっていたはずだ。いつかはそうなると知っていたはずなのに。メビウスだとしても、永遠なんてものはないと。ここのリソースは有限で、必要がないとされたNPCや建物なんて、いつまでもそこに存在している訳がないのだと、自分は知っていたのに。

「現実でも、ここでも……いらないものは、消えていくんだ。現実でのあの家と同じように、跡形もなくなっちゃったな……

 泣きたいような気持ちになっても、涙すら出ない。現実からずっと、両親を喪ってからずっと、涙は出なくなってしまった。きっと、自分が冷たいから、涙がいらなくなってしまったんだろう、奏はそう思っていた。

「また俺は、家と両親を……違う、今度は自分が、NPCの両親を見ていられなくて……消してしまったんだ。俺が、ここでの両親を殺したんだ」

 現実の事を思い出してから、何だかわからないものになってしまった両親を見るのが辛くて……もう現実では存在しないものだとわかってしまったのも苦しくて、奏は完全に『実家』へ帰るのをやめてしまっていた。だから、メビウスのシステムに、これは不要なものだと判断されたんだろう。
 やろうと思えば、たとえ帰宅部だろうが、NPCだろうが、現実に帰るまではここでの両親を存在させ続ける事だって出来たはずだ。そう出来なかったのは、NPCの両親を、偽物の両親だと奏が思ってしまったからだろう。

 俺も本当は、消えるべきなのかも知れない。

 そう思いかけて、何とか踏みとどまる。ここでもしも消えたら、帰宅部のみんなが気にするだろう。彼らは優しい人たちだから。それに、まだ彼らを現実に帰せていない。まだ、消える訳にはいかない。
 そのままふらりと彷徨うように歩く。意識の片隅で、一応デジヘッドには気を付けていたものの、何度か回避しきれず、一人で何とかそれを倒すはめになった。今は、デジヘッドからの攻撃の痛みすら気にならないが、単独行動している時に高レベルの者に捕まる訳にいかない。

「はぁ……流石に、こんな状態だと、デジヘッドの多そうな場所へ行くのはやめておいた方がいいよね」

 自分がやられるだけならまだいいが、捕まって洗脳されたり、楽士の所に連れて行かれたり、うっかり楽士と鉢合わせでもしたら困る。
 まだマシな場所は、学校だろうか。安全って訳でもないし、帰宅部のメンバーに見つかってしまう可能性はあるけれど。どこかに隠れていれば、何とかなるだろうか。そう考えて、とりあえず奏は目的もなく彷徨うのをやめて、学校の方へと向かう。

 ……学校へ向かうと、笙悟に会いたいと思ってしまう。そんな風に思う資格なんて自分にはなかったのに。彼の心を傷付けてしまいかねないような事を考えてしまった自分に、そんな資格はない。
 心がぐちゃぐちゃになって、ひたすら混乱したまま、どうにもならない感情を抱えて、奏はそれでも逃げるように学校に着くと屋上へと向かう。この状態では、誰かと会うなんて無理だろう。

 今は授業中だからか、周囲には誰もいない。階段を上り、屋上へ出てそこにある高い所まで上り、そっと身を隠す。どうしたらいいのか、わからない。この荒れ狂うような感情も、笙悟を好きだと気付いてしまった気持ちも。

「とにかく、少しでも落ち着かないと……

 屋上にもしも誰か来ても、下からは見えないように、隠れるためにも落ち着く為にも、そこに身を横たえ小さくなって寝転ぶようにする。何だかひどく体も心も疲れていた。メビウスに来る前のあの頃のような、自分の中の何かが壊れかけている感覚がする。
 ふと、目を向けた空は、やはりいつものように穏やかな青い空だった。

「俺も……何かが変わってしまうのかな。現実で変わってしまったように、ここでも変わっていくのか。何にしろ置いていかれてしまうのに」

 変わらないこの空と違って、人は変わっていく。他人も、帰宅部のみんなも……自分さえも。こわいと思っても、それはどうにもならない事だろう。こわくてこわくて、悲しくて、全てから心を閉ざすように目を閉じる。
 多分、心が疲弊していたせいなのか、それとも朝夢見が悪かったからなのか、そのままいつの間にか意識を失って、ほんの少し眠ってしまっていたようだった。

「おい、奏!?……生きてるよな、聞いてたけど本当に顔色悪いな」

 聞き覚えのありすぎる声に呼びかけられ、軽く肩を叩かれて、奏は目を開ける。

「お前なぁ……こんな所で寝てるとか何考えてんだよ」

 眠っていたせいで、起きた時にはそこから逃れられない状況になってしまっていた。どうして寝てしまっていたんだろうという気持ちと、何で探しに来てくれてしまったんだという苦しさと嬉しさで、内心かなり動揺してしまう。
 今、誰よりも会いたくて、会えて嬉しくて、それでいて気まずすぎて顔を合わせたくない人が目の前に現れてしまった。

……笙悟」

 呆れたようなホッとしたような、それでいて心配そうな顔をした笙悟がそこにいた。

 壊れていく音がするのは、自分の心か。それとも……見失いわからなくなった、自我が生まれ変わるための卵の殻が、ひび割れていく音だろうか。