ガチャという金具が動く音と同時に扉が開く気配がする。何気なく薄目を開けると、そこには予想よりも一回りか二回りほど小さな人影がいる。男はこれまた予想と違うせわしない動作で隣のベッドに寄り、音もたてずに布団に入る。違和感しかない。頭の後ろを逆撫でするような感覚がじわりと広がる。ここは、俺の家ではない。
それにしても毎回不思議だが、あの忍者みたいな仕草はいったいどうなっているんやろう。教えてもらったら、俺にもできるんかな。
「起こしちゃった?」
「だいじょうぶ」
「『大丈夫』じゃ、起こしたのと一緒じゃん。ごめん」
ごめん、なんて聞きなれない謝罪に不思議な気持ちになった。「大丈夫」のアクセントだって俺らとは違う。今まで地元で聞いてた謝罪は、ほとんどが「すまん」だ。「ごめん」ってなんだか新鮮だ。まあ、あいつやったら「ごめん」も「すまん」もない。「あほ」って投げかけて終わりだ。そう思うと、今、寺門と真夜中に話していることが、すごく不思議になった。
「桐島、寝なくていいの?」
俺のことを「秋斗」ではなく、「桐島」と呼んでくることに、まだ慣れない。後ろに別の「桐島」がいるんじゃないかと振り返りたくなる。でも、半径五十メートルまで範囲を広げても、桐島はたぶん俺一人だ。ずっと二人だったのに、ここでは俺だけ。
「別に、すぐに寝ると思う」
「怒ってんの?」
寺門は煽るような言い方はしない。素直な気持ちをそのまま聞いてきただけだ。実家で繰り返される直情直結コミュニケーションは喧嘩なんじゃないかと心配されるくらいだったが、こいつは違う。素直で柔らかいけど面白い。大阪だったらおもんないって言う奴がおるかもしれんけど、俺は悪くないと感じていた。色んなやつがおった方が世界は楽しいやろ。
「怒ってるって言ったら、明日のおかず一個譲ってくれる?」
めんどくさい彼女みたいなことを言っても寺門は愉快そうにくすくすと笑うだけだった。俺が思っているより大きく笑っているのか、闇の中で前歯が光る。やっぱり良いやつだ。歯は多いけど。
「コーチに見つかったら怒られるじゃん」
「そんな理由でくれないの?」
「ふはっ、ばれた?コーチは関係なくて、おかず減らしたくないだけ」
そりゃそうやろ。俺たちは揃って小さく笑う。ほかの部屋に気づかれないように、というよりも、今の緩やかか空気を壊したくないから、静かに笑う。東京に来て二週間。こいつと居心地のいい部屋を作れていることに気がついた。正直うれしい。東京もんと仲間になるには、もっと時間がかかると覚悟していたから。
「寺門ってなんで夜中にトイレに行くん?寝れへんの?それとも丑三つ時にオナっておかないといけない呪いでもあんの?」
「馬鹿じゃん。呪いなんてねえよ」
「じゃあ、隣に俺がいるとシコれないから?」
「それはそうじゃない?桐島はどうしてんの?てか、皆どうしてんの?すげえ不思議なんだよな」
「俺は清いんで」
ばーか。俺らの学年でお前が一番エロそうな顔してんじゃん。寺門が謎の実感を込めて言う。そうか、俺ってエロい顔してんのか。それやったらモテモテやん。
「あのね、俺がシコりに起きてるみたいな話になってっけど、違うかんね」
「ほな、夜間徘徊?」
「もう、それでいいよ」
呆れた風を装っているけど、ちょっと笑ってしまっているのが滲み出ている。おまえ、本当にええ奴やな。
「緊張してんの?俺と同室やから」
「馬鹿。そんなわけねえだろ」
お前と一緒で良かったよ。小さいけどはっきりした声で寺門は言う。「そんな簡単に俺を信用しちゃってええんか?胡散臭い関西人やぞ」と笑ってもいい場面だったが、唾と一緒に飲み込んだ。だって、声に芯があった。硬球みたいな硬いやつが。きっとこいつは、俺を見捨てたりしないんだろう。コーチに怒られても、先輩にしごかれても、同級生にいやがらせをされても、こいつなら、裏切らない。きっとそう。それは、俺が、東京に来て、最初に手に入れた実感だった。深夜の暗い部屋で、寺門がくれた、確かな信頼。
「ま、普通に、緊張するやんな。まだ四月やし」
寺門がゆっくりと頷く気配がする。弱みを見せているはずなのに、こちらへの共感が伝わってくる。そう、俺らはまだみんな、希望と野望と不安で、胸と頭がいっぱいだ。
「ほんなら、俺と一緒に寝る?」
「は?」
「同じ布団で寝たら、あったかいやん」
「馬鹿じゃない。なんで、わざわざ狭い布団を更に狭くする必要があんだよ」
「つれないわあ。俺ら友達やん」
友達って初めていった気がする。でも、寺門はそんなことに気づかず楽しそう笑う。
「じゃあ、桐島が俺の方に来る?」
そう言って、掛布団を持ち上げる音がする。暗くてよく見えないけど、本当に「おいで」という姿で待ち構えているんだろう。友達に「おいで」と言われる安心感が、こんなにすぐに手に入るとは思っていなかった。こいつ、本当にええ奴やな。野球、早く、一緒にしたい。まだ、走り込みとキャッチボールしかできていない。
「いくいく」
浮かれた気持ちのまま起き上がると、寺門は慌ててうずくまった。けらけらと小さく笑う声と、ばさばさと布の擦れる音が混ざる。
「本当にくるのかよ。そんなことしてないで、ちゃんと寝ろよ」
「なんや。一緒に寝る気一〇〇パーセントやったのに」
「勇気一〇〇パーセントみたいに言うなって」
「ヤる気一〇〇パーセントやったのに」
「いいから、もう寝ろ」
笑いながら二人で布団をかぶる。今、同時だったな、と思うだけで笑えてくる。
俺は、俺のことを「桐島」と呼ぶ標準語の男と、三年間仲間として野球をやるんだと思うと嬉しくて、結局その日はあまりよく眠れなかった。
退寮の話に続きます。
〆
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