水樹咲夜
2026-01-18 03:20:26
14575文字
Public 笙主
 

変われないもの、変わっていくもの(笙主4)

一応笙主です。男部長固定、自分の所の部長設定。 原作にはないけど、笙主の部長のキャラエピ4、5くらいのイメージ。 笙悟への踏み込み〜キャラエピ7くらいの進行度。踏み込んだ後、笙悟と話をしているだけなので、あまり動きはないです。



 いつものようについてきて見守ってくれていた奏の、どこか悲しげな、それでいて何か言いたそうな、問いかけてくるような銀灰色の瞳が、こちらを真っ直ぐに見つめてくる。本人にそのつもりはないだろうけれど、心の奥底まで深く鋭く突き刺さって、見透かそうとしているような、そんな真っ直ぐな瞳に、思わず威嚇でもするように笙悟は叫ぶ。

……何だその顔は……一から十まで説明しなきゃ納得いかねぇのかよ。面白半分で首を突っ込まれてぇ事じゃねぇんだ、それくらいわかんねぇのか?ああ!?」

 笙悟の声に、奏の体が僅かに跳ねて、怯えたように小さく息を飲むのが聞こえた。それで引き下がってほしかった、いっそ彼を怯えさせてしまってもいいから、これ以上聞かないでほしい。自分の現実の事なんて、奏に知られたくない。笙悟は心の中でそう願う。ただ純粋に慕ってくれている彼に、これ以上本当の自分の醜さなんて知られたくはなかった。
 それでも、奏は……僅かな間だけ迷うように目を伏せた後、今度は先ほどよりも強く、何かを決意したような表情で真っ直ぐにこちらを見つめ、キッパリと言う。

「面白半分なんかじゃない。知られたくないのも、わかってる。俺は……それでも俺は、笙悟の事を知って、受け止めたい」

 強く静かな声で、全てを受け止める覚悟を決めたのか、躊躇わず奏は笙悟の心へと触れて、踏み込んで来ようとしている。その強い銀灰色に射抜かれたように、笙悟はそこから逃げる事も出来ない。

……俺に聞かせてくれ、笙悟。君の事を……その心の奥底にある、君の現実という地獄の事を」

 その表情は、もしもお互いに傷付くとしてもその現実を受け止める、そう決意しているようで……恐らく、ここでこれ以上怒鳴ろうと、酷い言葉を投げかけようと、彼は引き下がってはくれないだろうというのがわかった。
 精神的に逃げ道を完全に塞がれ、話すしかなくなってしまう。けれど、奏はただ無遠慮に踏み込んでこようとしているというより、手を差し伸べ、引っ張り上げようとしているような、そんな不思議な感覚があった。

「ハッ……いいぜ、そこまで言うなら聞かせてやるよ」

 いくら部長として帰宅部の皆を支えようとしてくれている奏でも、この話を聞いたらきっと呆れてその手を離すだろう。きっと、嫌いになるだろう。そう思いながらも、笙悟はヤケになったように彼へと現実の全てを吐き出す。
 高校時代に心中から逃げた事、それ以来引きこもり、三十路になっていること。メビウスに堕ちて、そうして帰宅部を作った理由まで。

 ヤケになって話す笙悟や、その内容に驚くアリアの反応とは対照的に、奏はただ静かに笙悟が吐き出す言葉を聞いていた。聞いている間、彼がどんな表情をしていたのかまではわからない。見る余裕なんてなかったし、こちらを見ている奏がどんな表情をしているのかと思うと怖くて、あまりその表情を見ないようにもしていたから。
 ただ奏は、笙悟の吐き出す言葉と感情を受け止めようとしているかのように、話を聞いている間はずっと黙ったままだった。

「笙悟のせいじゃない」

 そうして奏は静かに……やはりどこか悲しげな声で、ただそれだけ言う。ついそちらを見れば、その表情もただ悲しそうなだけで、呆れてもいないし、本当に笙悟の事を責めてもいないようだった。

「じゃあ、誰のせいだって言うんだよ!?クソッ……!」

 ヤケになって吐き出して、怒鳴って、こんなのはただの八つ当たりだ。心のどこかでそう思ってはいても、自分にもどうにも出来ない。ただ、これ以上何か言われるのも、彼に八つ当たりしてしまうのも耐えられなくなって、奏とアリアを置いてその場から逃げ出すように立ち去る。
 そのまま帰るには感情が、精神が激しく揺らぎすぎていてこのままでは落ち着く事もなさそうだった。笙悟は水族館から出るとそのまま海の傍を少し歩き、人が少ない場所を見つけて足を止め、そこで海をただ眺める。

「流石に……普通なら愛想つかすよな」

 そう思うのに、話を聞いていた時の奏の様子を思い出すと、そうならないような気もする。彼はこちらの心に踏み込むと決めたその時から、目をそらすことも、感情的になるような事もなかった。笙悟が吐き出す言葉や激しい感情すらも受け止めようとしていたようで、その表情には悪感情は微塵もなかった。そこにあったのはただ静かな悲しみだけだ。
 自分の現実の事なんて話したくはなかったけれど、それでも、こうして吐き出した事で僅かに安堵したのも事実だ。奏に今後どう思われるとしても、これでもう彼に自分の現実の事を知られてしまったらと考えて、それを恐れる必要も、必死で隠す必要もなくなったのだから。

「まぁ、どんな顔して今後会えばいいのかわからねぇけどな」

 そっと溜息をついて、その後はしばらくぼんやりと海を見つめる。都会近辺の海なんて青く綺麗な訳でもないし、メビウス内だから、空と同じくこれも偽物の海でしかない。それでも、静かな波の音を聞いていれば、荒れた心の感情の波も少しずつ落ち着いていくような気がした。

 そうしてしばらく海をただ眺めて、どれくらい時間が経ったのか。多少は心が落ち着いてきて、そろそろ帰るかと思った頃、ふと視線と気配を感じて振り向くと、奏が話しかけようかどうしようか迷っていたらしい姿勢のまま固まっていた。
 まさか、どんな顔をして会えばいいのかわからないまま、今日の間にもう一度奏に会ってしまうとは思わなかった。それは奏の方も同じだったようで、彼には珍しく、ものすごく感情が顔に出ている。目が合ったどうしよう!?と思ってるんだろうなとすぐわかるくらいに、動揺や感情がわかりやすい。

……し、笙悟」
「奏……お前、何でまだここに」
……え、えーと……す、水族館で、興味のある魚とかを、少し見ていたんだ」

 まさかまだ奏がこの場所にいると思っていなかったが、話しかけるか迷っていた様子の奏の方も、恐らく笙悟を見つけたのは偶然だったんだろう。明らかに驚いた表情のままで慌てて、咄嗟に嘘つきましたとわかりやすく、気まずそうに言った。

「アリアはどうした」
「えっと……先に帰ってもらいました。俺は何となく、その、一人で、水族館内を見てみたくなったから、ここに残っていて」

 奏はそうしようと思って心を装うのは上手いようだが、どうやら嘘をつこうと思っていない時に咄嗟に嘘をつくのは苦手らしい。何とか取り繕おうとしているようだが、どうにもしどろもどろだ。

……どうしてまだここにいたんだ」
「本当に魚を見てたんだよ……ちょっと、何となく気持ちも落ち着けたかったし、しばらく水族館にとどまって一人で水槽の魚たちを眺めてたんだ。それで、何とか落ち着いてきたから水族館の外に出て、でもまだ帰る気にもならなかったから、何となく海を見つつ周辺を歩いてたら、ここに笙悟がいるのを見つけてね」
「そうして後ろで話しかけようか悩んでた訳か」
「もしかしたら、笙悟は話しかけられたくないかも知れないし、会いたくないかも知れないし、嫌かな、どうしようかなって迷ってた。それでしばらく後ろで話しかけようか悩んでたんだけど、笙悟が急に振り向いてしまって……うっかり目が合っちゃったんだ」

 えへへ……と笑う奏に少々毒気を抜かれてしまう。その様子からは、特に今までと態度の違いは感じない。動揺はあっても、話しかけようとしていた辺り、やはり嫌悪や呆れなどもなさそうに見える。
 しばらくはそのまま、今度は二人してただその場所で静かに海を眺める。奏はどうやら笙悟を放って帰るつもりはないのか、静かに隣でぼんやりと海を眺めていた。正直、何を話せばいいのかわからなかったが、奏は元から無口な方だし、焦って無理に話す必要もないのかも知れない。
 それでも、やはり気になって、笙悟は隣でぼんやりしている奏に問いかける。

……お前は、嫌じゃないのか」
「嫌って、一体何が?」
「俺の事が嫌になったんじゃないのか。俺の、現実を知って」
「何で俺が笙悟の事を嫌になると思ってるのかはわからないけど、俺はそれを知っても嫌とかはないな。確かに驚きはしたけどね」
……話すのも嫌じゃないのか」
「現実の事を知ったからって、俺が笙悟と話したり一緒にいるのを嫌になることはないよ。……まぁ、もしかしたら、笙悟が俺の現実を知ったら、俺といるの嫌になったりするのはあるかも知れないけどね」

 真面目な表情で、また真っ直ぐにこちらを見上げて、彼は自虐なのか冗談のつもりなのか、そんな事を言う。冗談にしてもかなり自虐的だが。

「前にも言ったかも知れないけど、俺は笙悟にすごく感謝しているし、好ましくも思ってる。それは、現実の事を聞いても変わらないよ」
「どうしてだよ感謝してるからって、嫌にならないのか?」
「笙悟は俺に嫌ってほしいの?俺は嫌じゃないのに嫌いになったりしないよ」
「嫌ってほしい訳じゃねぇんだが……普通は嫌なんじゃないのか、三十代のひきこもりニートなんて」
「いいじゃないか、年上の人。俺好きだよ」
「なるほど、お前は年上趣味だったか」
「そうだね、年下よりは年上の人の方がいいかな」
「何の話になってんだよこれは」
「笙悟がそう話をふってきたんじゃないか」

 ノリがいいのか、本音なのかわからなくてつい苦笑してしまう。それが本当だったとしても、そうして言ったのは、きっとこちらを励まそうとしたからだろう。現実の事を知った後でも、本当に奏の反応は変わらない。それが何となく嬉しいしホッとする。
 そうして、彼はしばらくして真面目な表情と声に戻ると、静かに……こちらの心まで落ち着かせてくれるように話す。

「笙悟にとっては、最初のあの時、俺を追ってきて助けてくれたのは、自分が現実に帰るためだったのかも知れないけど……俺にとっては本当に、久しぶりに人に助けられてあたたかい心に触れられた。そういう……何というか、俺の中ですごく大きいものだったんだ」
「だから、感謝するのか」
「うん……それに、笙悟の現実の事だって、笙悟は知られたら嫌われるような事だと思ってるんだろうけど、俺にとっては嫌うような事じゃないから」
「何でだ、俺に助けられて感謝してるから、嫌いになったりしないって事か」
「それもあるけど……俺は、笙悟の事が好きなんだ。現実の事を聞いても……その傷に触れてしまっても、俺の心は変わらないよ」

 ただ静かに、それでいて強くはっきりと、奏はそう言う。真っ直ぐに見つめてくる瞳には、先程のような悲しそうな色はない。ただひたすら、ひたむきにこちらを見つめていた。告白とかそういう雰囲気でもなく、ただ事実を伝えているだけ、という感じだったから、彼にとってそれは事実でしかなく、伝えておかないと後悔するというものだったのかも知れない。
 その好意が、友愛や親愛……恋愛、どういう方向のものかというのは、今は考えるのをやめておく。ただでさえ色々いっぱいいっぱいなのに、考えてしまうと笙悟自身の感情まで決めなくてはならなくなるし、奏からの想いを変に邪推などもしたくはない。何にしろ、彼から向けられる好意はただ温かく……どこか心地がいいものだった。

……相変わらず、何というか、照れくさくなるような事でもサラッと言うやつだな」
「サラッと言ってる訳じゃないけど、言葉にしなきゃ、きっと伝わらない事だろうから」
「まぁ、そうかも知れねぇが」
「嫌かな」
「嫌とは言ってねぇよ、照れはするが……安心するというか。まぁ、何というか……嬉しいとは思う」
「そっか、嫌じゃないならよかった」
「俺はそんな慕われるような奴じゃねぇんだけどな」
「俺が勝手に想ってるだけだから」

 多少は気持ちが落ち着いてきた所だったとはいえ、現実の話をした後に、こんな風に人と落ち着いて話していられるとは思っていなかった。奏の態度が前と変わらず、こちらを気にしながらもただ静かに落ち着いていて、そっと笙悟に寄り添うように傍にいてくれるからだろうか。
 正直、ホッとしてしまった。呆れられ、嫌悪されても不思議はない事だと思っていたのに、彼の態度や表情が変わらない事に。奏がただ話を聞いて、それを拒絶する事もなかった事に、つい安心した。

……あの時屋上で、そういう心の傷があったから、俺が落ちてしまいそうで取り乱してたんだなともわかったし。知らなかったとはいえ、ごめん」
「いや、まぁ……あの時はそんなのわからねぇだろうし、謝られるような事でもねぇんだけど」
「話を聞いて、その、申し訳なく思って」
「お前は妙な所、律儀な奴だな」

 どうやら笙悟の現実の事を聞いて、奏が屋上の高い所にいただけで何故あんな風に取り乱したのかにも思い至ったらしい。とはいえ、奏にとってはあの時は当然知らない事だったし、それを話してもいなかったのだから、謝る必要はない。お互いたまたま出くわしてしまっただけの事故のようなものだった。

……部長は、あんな所に登って見る程、空を見るのが好きなのか」
「現実では空を見てる余裕もなかったけど……この世界の空は好きだよ」
「言っちゃ悪いが、偽物の空なのにか?」
「偽物の空だから……かな」
「偽物だから?」
「現実の空と違って、基本的には変わる事のない、虚構の空……変わらない空だから。多分、変わらない事に、俺は何となく安心するんだ」

 そう言って、海を眺めていた目を空へと向ける奏につられるようにして、笙悟も空を見上げる。メビウスの空は今日も変わらず穏やかに晴れた青い空だ。朝から夜への時間の流れと共に空の色が変わっていく以外は、誰かに望まれたり、あとは季節感を出す時くらいしか、ここの空は変わらない。
 現実のように雷や嵐、台風や大雪なんていう、人に被害が出たり災害になりかねない天気は当然のようにない。この世界はなるべくは危険がないように作られているからだろう。デジヘッドや楽士ですらも、現実を思い出していない者にとっては、基本的には害はないはずだ。まぁ、楽士の場合は本人たちの考え方や凶暴性にもよるだろうが。

 ここに来た者たちは、この世界の色々な事を普通だと思わされている。しかし、現実の事を思い出してしまった後では、ここの空はただの作り物、偽物の空でしかないはずだ。
 それでも、奏はそんな空だからこそ安心するという。正直、よくわからない感覚だ。変わらない事に安心する、という部分なら、笙悟にも少しわかるような気もしたが。

「よくわかんない、って顔してるね」
「まぁ、正直よくわからねぇな。変わらない事に安心するってのは少しわかる気もするけど」
……人も街も、関係も……変わらないものなんて、きっとあんまりない。それは現実でもこの世界でも同じ。いい方に変わる事もあれば、悪い方に変わる事もある……多分、俺はそれが怖いんだ」

 その言葉に奏の方を見てみるが、彼はただ空を見上げていて、ぼんやりと空を見るその横顔からは、どんな表情をしているのかよくわからない。しかし、彼が変化に恐れを抱いているのは意外でもあった。奏は、帰宅部のメンバーに手を差し伸べ見守り、前を向けるよう背中を押して……ある意味、変化させ、その成長や前進を喜んでいるように見えていたから。
 それは、奏が望んでいる事というより、『帰宅部の部長』として皆に求められているから、そうしているという事なのか。

「色々変わっていくとしても、メビウスの空は願われない限りはいつも大体変わらない……変わらないものを見ると安心するから、俺はここの空と、それがよく見えるあの屋上が好きなんだと思う」
「変わっていくものが怖いって気持ちは、まぁ……俺にもわからなくもないけどな」
「人は変わるもの……わかってるんだ。成長もするし、急に色々変わってしまう事もある。帰宅部のメンバーだって、少しずつ変わっていくし、時が流れていくようにその変化は止まらず、進んでいくものだろう」
「そう、だろうな」

 俺はきっと、変われないけど。そう思った笙悟の心を映したように、奏がぽつりと呟いた小さな声が聞こえた。

「俺は置いていかれる側だろうけどね」

 つい奏の方を見ても、彼は先程までと同じようにただぼんやりと空を見つめていた。けれど、今度は笙悟の視線に気付いたのか、こちらを見る。

「ん、笙悟、どうかしたのか?」
「いや……何でもねぇよ」

 誤魔化されたようには見えない、けれど、先程の小さな呟きは聞き間違いとかでもないはずだ。彼がただ思っていた事を呟いたか、あるいは……完全に無意識だったのか。何にしろ、奏は自分と同じように、変わる事が難しい側なのかも知れないと笙悟は思う。自分たちは多分、心に隠した臆病な部分も似ている。
 それでも、もしそうだとしても、彼は笙悟の現実を知って受け止めたいと、こちらに踏み込んでくる覚悟を決めた。目をそらして見ないふりをしていれば、他人に踏み込む事もなく、変わる事を恐れずに済むだろうに、彼はそこからは逃げなかった。

……お前は、どうして……その、覚悟を決めたんだ。俺に怒鳴られて怯えてただろ。部長だからとか、それとも助けられた恩があるからか」
「確かに、そういうのもなくはないだろうけど何と言うか、怖いからってそこから逃げたら……目をそらしたら、何かが終わってしまう気がした」
「終わってしまう?」
「きっと、目をそらして逃げて、聞かなかった事にして放置したままでいたら、後悔すると思ったから。ここで手を離しちゃダメだと思った。俺と話してくれなくなる以上に……何かが、壊れてしまうような気がしたんだ」

 彼の言葉は感覚的だったが、確かにそうかも知れない。もしもあの時に奏に拒絶されたり責めたりされていたら、または現実の事を受け止めたいと心に踏み込まれていなかったら、きっと目をそらして、上辺だけで……帰宅部としてしか関わらなくなっていた気がする。耐えられず、最低限の関わりになっていただろう。
 現実の事を話すのは心の傷を抉るような事ではあったけれど、それでも、吐き出した事で僅かに安堵したのも確かだったから。

「何か、焦燥感みたいな、そういうのがあったんだ。このままでは取り返しがつかなくなるような。俺はもう……ひとに何も聞けず、何も伝えられなくなるのは嫌だ」
「お前はそういう時、行動出来るんだな」
「行動出来るというより……衝動のようなものだと思う。考えて行動してる感じではないから」

 衝動だとしても、それでも相手に手を差し伸べられるなら立派なものではないかと思う。少なくとも、そういう時に動けないだろう俺よりはずっと。そう自嘲気味に笙悟は心の中で呟く。

「動けるならずっといいだろ。俺は……きっと動けねぇよ」
……笙悟も、きっと、恐れてしまうんだね」

 笙悟も、と言うって事は、奏も本当は恐れているのかも知れない。自分が動けば、何かが変わっていく。他人が、関係が、あるいは自分が。目をそらして逃げていれば、停滞だとしても……変わる事はない。

「部長はどうして動けるんだ。変わっていくものが怖いのに、それでも動けるのか」
……怖いよ、いつだって。上手くいくかなんてわからないし、色々なものが変わってしまうかも知れない。でも、何かをうしなってしまうくらいなら、怖くても、相手を傷付けてしまうとしても、俺が傷付いたとしても、動いた方がずっとマシなんだ」

 奏が強いのか、それとも無理しているのかはわからない。それでも、彼は失う事が何よりも怖いからこそ、傷付いても傷付けても、必死で動こうとするのかも知れない。奏の言葉と表情から、笙悟はそう考える。

「それに、俺は『帰宅部の部長』だから。帰宅部のみんなを現実に帰してあげないとだし、その手助けをした方がいいだろうからね」
「それは……そうかも知れねぇが」
「笙悟の、帰宅部のみんなの助けに少しでもなりたい。その為なら、俺は動けるから」

 彼にとって、『部長』というのはどういう存在なんだろうか。奏と出逢った時には笙悟が部長だったとはいえ、笙悟自身は帰る為に仲間を集めていただけで、別に部員のケアなどしていなかった。奏を助けたのも彼が誰よりも目立つ場所でわかりやすく『卒業』したからだ。しかも、結局カタルシスエフェクトを発動させて追っ手を倒したのは、アリアの調律と、奏本人だったのに。
 それを何度か言っても、奏は今も……笙悟の現実を知った後の今ですらも、笙悟を慕い感謝しているようだし、帰宅部の皆を支える為に部長をやっているのも変わらないらしい。

「部長だからって、そんなに気を張って頑張らなくてもいいと思うんだけどな」
「そうかも知れない。でも、『俺』のままだときっとみんなにとって頼りないだろうから。頼りない弱い人間に、笙悟だってみんなだって、色々と任せられないだろ」
「それはまぁ、否定出来ないけどな。でも前部長が俺だぞ?」
「うん、すごいと思う」
「何でだよ、前部長の俺だって頼りなかっただろって言おうとしてるのに」
「帰宅部のみんなを集めたのは笙悟だし、俺の事も助けてくれたし」
……理由はさっき話しただろ」
「うん。それでも、それを聞いた上でも、俺はそれをすごいと思うから」

 彼は笙悟の方を見て淡い微笑みを浮かべ、変わらない感謝と親愛を向けてくる。その真っ直ぐな瞳と想いが心に突き刺さるようで、どういう表情をしたらいいのかわからないでいると、笙悟の想いを汲み取ったように、彼はまた空へと目を向ける。
 奏に見つめられるのが嫌な訳じゃない。そんな風に、純粋な想いで慕ってくれるのは、本当は嬉しくもある。でも、自分はそんな風に、温かく優しい想いを向けてもらえるような人間じゃないという気持ちがどうしてもある。
 そんな綺麗な感情を向けられるような、綺麗な人間ではないんだと言いたくなる。きっと笙悟がもしそう言ったとしても、自分が勝手にそう思っているだけだと奏は言うのだろうけれど。

……お前は、何と言うか、変な奴だな。俺に部長押し付けられて、余計な荷物を背負う事になったのに」
「変な奴って言うのは、まぁ、否定はしないけど。余計な荷物だとは思ってないよ」
「それにお人好しだ、俺は……お前を利用したようなものなんだぞ」
「俺は利用されたとは思ってないからね」
……助けられた恩を返す為ってのもあるかも知れねぇけど、どうしてそこまで」
「大切だからだよ、笙悟も……帰宅部のみんなも。俺に出来る事なんて、何もないのかも知れない。それでも、もし少しでも俺に出来る事があるなら、どんな事でもしたいと思うんだ」

 多分、奏は本当にそう思っているんだろう。普通なら綺麗事をと思うかも知れない、けれど、彼は実際にそうしたいと思って帰宅部のメンバー全員の話を聞き、手を差し伸べている。怒鳴られようと何だろうと、笙悟の現実を知って受け止めようとしたように。

……それに、利用したいなら利用したっていいんだよ、俺の事なんて。でも、笙悟は気にしてるんだね」
「別に……気にしてる訳じゃねぇよ」
「本当に他人を虐げ、利用するだけの者は、そんな風に気に病まないよ。そういう人にとっては、それが当然の事だから」

 そう言った一瞬だけ、珍しく僅かに奏の表情が険しくなり、嫌悪感の入り混じった瞳で空を見つめたまま、どこか遠くを睨みつける。しかしそれは一瞬の事で、険しい表情はすぐに消え、また穏やかな表情に戻る。

……俺は、笙悟の事を、優しい人だと思ってる。これは俺が勝手に思ってる事であって、笙悟に押し付けるつもりはない。ただ、俺にとってはそうだと思うってだけだよ」
……部長はやっぱり、変な奴だな」
「変でもいいよ」

 変というか、不思議な奴だとは思う。笙悟の現実の事を聞こうが奏の態度は全く変わらず、感謝と親愛と好意を最初と変わらず向けてくる。それに安心してしまうのは悪い事だろうか。その心地よさに浸ってしまうのはダメなのかも知れないけれど。

「ねぇ、笙悟。変ついでに、変な事をお願いしてもいい?」
「お前がお願いとは珍しいな、どうした」
「部長じゃなくて……名前で呼んでほしい」
「それは別にいいけど、部長と言われるのは嫌なのか?」
……嫌な訳じゃないよ、ただほんの少しだけ、寂しいなと思ってしまうんだ」
「寂しい?」
「みんなに必要なのは、『帰宅部の部長』なんだなって思って」

 それはどういう意味なのか。確かに帰宅部の部長である奏が必要とされているだろうし、恐らく皆はただ呼びやすいとか、単に部長だから部長と呼んでいるだけな気もするが。
 けれど、彼の表情は寂しげなだけでなくどこか虚ろで、また何かを諦めて押し殺してしまいそうな感じがした。どうしてそんな表情をしているのかわからない。しかし、それをそのままにしておくのは何となく嫌な気がした。

「まぁ、でも、部長のがきっとみんな呼びやすいよね、やっぱり。変な事言ってごめ」
「奏」
「は、はい?」
「何というか……俺の場合はだが、部長と呼んでいたのは、ただ、線引きをしていただけだ。でも、お前には知られちまったしな」

 他の帰宅部メンバーはどうなのかわからないが、笙悟の場合は、部長と呼んでいたのはわざとだった。彼が出逢った時から感謝して、慕ってくれていたから、うっかり踏み込まれないように……踏み込まないように、親しくなりすぎないようあえて部長と呼んでいた。とはいえ、つい名前を呼んでしまう時もあったけれど。

「線引き……それ以上踏み込まれないように?」
「ああ、一応俺は前部長だったし……お前とは特に、関わる事になりそうだったからな。しかし、もう線引きも必要なさそうだし」
「もう、線引きしなくていいの?」
「俺の現実の事を知ってる奏に、線引きはもういらねぇだろ。まぁ、帰宅部で関わる時とか、他の奴がいる時は基本的に部長って呼んでおくが」
「呼び方を変える意味って、何かあるの?」
「何となく帰宅部のメンバーに、変にツッコまれそうで面倒くせぇ気がする」

 気にしない者が大半だとは思うが、もしもツッコまれたりネタにされたりしたら面倒だ。何せ、奏の事は帰宅部のメンバー全員、大なり小なり気にしているだろうから。

「そういうものなのか……そういうのはよくわからないけど、ありがとう」
「礼を言うような事じゃねぇだろ」
「礼を言うような事なんだよ、俺にとっては」

 彼にとって、名前で呼ばれるという事には何か特別な事があるのか。嬉しそうに微笑む奏は、その理由を言う事はなかった。



 その後も笙悟は多分、奏の優しさと好意に甘えていたんだろう。現実の事を知っても離れる事はなく、慕ってただ静かに寄り添ってくれる存在というのが、こんなにも心地よく安心出来るのだと知った。
 一方的にではないと思いたいが、奏は甘えるのが上手くはなかったから、わからない。戦闘の時ですら、彼を助けられていたのかどうか。

「俺は奏の助けになってるのか?」
「笙悟はいつだって、いてくれるだけで俺の支えになってくれてるよ」
「いや、そういう意味じゃねぇんだけどな」
「うーん、どういう意味なのかよくわからないけど。俺にとっては、こうして話をしてくれるだけで嬉しいし、戦闘の時も頼もしいよ?」
「俺ばっかりお前を頼って、助けられてる気がするんだよなぁ」
「そんな事はないよ、本当に。俺は最初から、笙悟に助けられているからね」
「俺がびっくりするくらい、奏はそれを大事に抱え込んでるな」
「重いかな、重いかも?ごめんね」
「いや、別にいいんだけどよ、むしろこっちが申し訳ないというか」
「笙悟が自分の目的の為に助けてくれたのはわかってる。でも、それでも俺にとっては、笙悟が恩人なんだよ」

 奏はそう言って、普段よりもどこか弱さを感じる淡い微笑みを浮かべていた。そんなにも、助けられた事を大事に抱え込む程に、彼は現実で誰にも助けられていなかったのだろうか。彼の事を少しずつでも知れば知る程に、奏の現実の事が気になってしまう。
 知った所で、恐らく自分は何もしてやれないのに。好奇心で触れるような事ではない。あの時、奏が覚悟して笙悟の現実を知ろうとしたように、覚悟を決めて踏み込むならいいかも知れないが、そうじゃなければただ相手を傷付けるだけで終わるだろう。
 こんな自分ではきっと無理だ。笙悟はそう思って、諦めていた。ずっと逃げ続けてきた自分が、そんな覚悟なんて出来る訳がない。だから傍にいる心地よさと安心感に甘えて、奏の現実の事は聞かず、見ないフリをしていた。勇気なんてなかった、そんなものがあるなら、そもそもこんな風にはなっていない。

「俺を構い倒すっていうコレも続けてくれるんだ?」
「ああ、まぁ、もしもお前が嫌ならやめるけど」
「嫌じゃないよ、むしろ俺は嬉しいくらいだけど……その、笙悟はいいの?」
「いいからこうしてるんだよ」
「そっか……何か笙悟とアリアにお礼考えないとなぁ」
「これは俺も人に慣れる為にしてる事だから、礼とかいらねぇだろ」
「そうかなぁ」
「そうだよ、奏には言っただろ、俺は現実では引きこもりなんだ。そもそも本当は他人と交流する所から既にハードルが高いんだよ」

 そっと奏の頭を撫でると、どこか幼い子供のように嬉しそうに笑う。普段の部長としての頼もしく優しい微笑みとは少し違う、そんな彼の表情が胸を突く。男に頭を撫でられてこんな風に嬉しそうにするのが、最初は少し不思議だった。男子メンバーとの食事会の時もそうだった。
 けれど、多分……性別とか年齢とか、そういうものは彼には関係ないんだろう。奏は、現実では亡くした親以外には、そんな風に優しく触れられる事も、親しい者とマトモな交流をする事もなかったのかも知れない。そう気付いてしまった。
 深くまで聞く事も出来ずただ寄り添いながら、奏の色々な事が気になりつつも、聞く勇気も踏み込む覚悟も持てなかった。迷い、躊躇い、結局動けず、日々は過ぎていった。

 そうして、やがて千佳が自殺未遂をしそうになった時も、またも逃げかけた笙悟を引っ張るようにして、奏は笙悟が逃げずに前を向けるよう背中を押してくれた。
 彼はただ、笙悟が逃げずに必死になって前へと進み始めたのを、いつものように見守ってくれていた。その表情は頼もしく優しく微笑んでいて、頼れる部長の姿をしていた。

……あの子は、止まれたんだね。よかった……止まれるなら、きっとその方がいい」

 自殺未遂を止められた後、奏がぽつりとそう言いながらも、一瞬虚ろな目でどこか遠くを見つめていたのが、僅かに違和感はあったけれど。その時はとにかく止められてよかったという気持ちでいっぱいで、その違和感にも気付く事は出来なかった。



 笙悟も、アリアも、帰宅部のメンバーも皆、いつの間にか忘れていた。笙悟は、僅かながらも彼の現実の事を聞いていた。それでも、彼が微笑んでいたから、つい、大丈夫なのだろうと思っていた。
 皆が、いつの間にか意識のどこかに置き忘れていた。『帰宅部の部長』である奏もまた、このメビウスに堕ちてきた人間の一人であるという事を。

「部長と連絡がつかなくなった?」

 登校時間辺りから、妙に帰宅部のWIREの通知が騒がしいとは思ってはいたが、一応午前とはいえ昼近くに学校へ来た笙悟は、アリアからそんな事を聞かされて驚く。
 どうやら、笙悟以外の男性陣は既に部長を探しに学校以外の場所へと出ていて、アリアと女性陣は笙悟をここで待っていたようだ。待ちきれずこれから部長を探しに行こうとしていた所で笙悟が来たらしい。
 何でこんな日に限ってWIRE見てないのか、早く来ないのかと言われてしまったが、そういう事情だったなら何も言えない。というか、笙悟自身も今更後悔している。

『朝、部長の顔色がすっごく悪くて。でもアタシに、大丈夫、少しゆっくりしてから行くから、アリアは先に行ってて、なんて送り出してくれちゃってね。その後、心配で一応WIREから何度か、アタシからもみんなからもメッセージ色々送ってみたんだけど、何も返事がなくて』
「具合悪そうだったなら、寝てるだけとかじゃねぇのか?」
『アタシもそう思って、一度戻ってみたんだけど、家にはもう誰もいなくて!』
……確か、部長には一応、メビウスにNPCがいる実家もあったはずだよな、そっちは」
『それは……その、多分、もうないと思う』
「ない?」
『現実を思い出してから、部長、ずっと実家の方には帰ってなかったんだよね。だから……もう、不要なものとして……NPCも家も消されちゃってる頃だと思う』
「ここでは、そうなるのか」

 それを、奏は知っているのだろうか。自分に用意された家と、現実では亡くしている両親のNPCが、もう消されているかも知れないと。知らないならいいが、もしも知っている、または知ってしまったとしたら。彼はどんな気持ちになるのか、笙悟には予想出来なかった。

『学校はもう探したけど、いそうな所にも全然いなくて……これから、みんなと他の場所にアタシも行ってみるから。笙悟は一応、ここに残りつつ、もう一度この学校探してみてくれる?』
「ああ、そうだな、すれ違いになる可能性もあるし。わかった」
『部長の事だから、楽士やデジヘッドに捕まったとかは多分ないとは思うんだけど……
……体調悪そうだったというのは気がかりではあるけど、部長は逃げ足も早いし、そんなヘマをするタイプでもないから、多分そこは大丈夫だろう」
『そうだよね……うん、とにかく、もしも部長を見つけたらWIREで知らせて!』
「わかった」

 そう言って、アリアたちは帰宅部の部室から部長を探しに出ていく。それを見送って、笙悟は一応個人の方で、奏にWIREにメッセージを送ってみたものの、待ってみても返信はない。

……奏、何で急にこんな……

 わからない。笙悟は他のメンバーよりは多少、奏の事を知っているのかも知れないが、笙悟も帰宅部の皆も、基本的に『帰宅部の部長』である奏の事しか知らない。そう、気付かされた。

「とにかく、俺も探してみるか」

 少しの間待ってみたが、やはり返信は来ないし、ここに来る様子もない。笙悟もまた帰宅部の部室を出て、奏を探しに校内へと向かう。
 奏は一人だったとしても強いから、デジヘッドに追われたとしても大丈夫なはずだ。そうは思うが、不安は増していく。ただ、体調が悪くてどこかで休んでいるのかも知れない。そう考えて不安を打ち消すものの、真面目な彼がこんな風に誰にも何も言わず、連絡すら出来なくなるのは初めての事で、どうしたらいいのかわからなかった。