織音
2026-01-17 20:36:31
10358文字
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一日花

『さようならと告げる度に、一つ色彩が失われていく。そうしてまたはじめましてと告げる度に、新たな色彩が一つ増えていく。』
 記憶のタナトフォビアの続き。長期記憶を保てなくなって、毎日リーを忘れてしまう指揮官の話。まるで一日花みたいだと思ったので。『想送』と『白命』の二本立てでお送りします。
弊社指揮官の外見に関する記述あり。

想送/今日を共に在り、明日を迎える前に散る花となってしまう貴方へ。
 
 視界の中で、ふわりと夜空色の柔らかな髪が揺れた。閉じられていた瞳が開かれ、そこに在る二つの有機物の球面が光を映して滑らかに光を反射する。それはまるで硝子玉を如何なる色も持たない透明な光にかざすように緻密な虹の色彩を宿しているみたいで、不思議と惹きつけられてしまうほど奇麗に輝いた。
 起き上がる、いつもその動きが酷く億劫なように見えてそっと腰を支えた。自分以外の存在がいることは全く知らなかったようで、薄い空の灰色に似た瞳が驚いたように見開かれる。
――おはよう、ございます?」
 何度か開閉を繰り返したその口から出てきたのは普遍的な挨拶。毎朝交わしているはずの挨拶は酷く他人行儀だった。もう何度も繰り返しているから慣れてしまったが、やはり今日も同じかと僅かな希望を捨てきれない心の奥が痛むような感覚がした。
「おはようございます、指揮官。よく眠れましたか」
「おかげ、さま、で」
「それなら良かったです。ですがもう少し眠っていても構いませんよ。今日は何の予定もありませんから」
…………いえ、大丈夫、です」
「そうですか」
 随分緊張した指揮官を見て、自分でも自分の表情がふっと緩んだのがわかった。無理もない、目が覚めたら『初対面』の人が部屋の中にいるのだから。もう少し肩の力を抜いても構いませんよと言おうとしたが、今は僕が言葉を尽くすよりも自分の文字を見た方がいいだろう。
 僕はベッドサイドに手を伸ばし、放り投げられたままの手帳を手に取る。相変わらずシンプルで装飾性の欠片もない、実用性だけを重視された手帳だ。白い表紙が陽光を柔らかく受け止め、雪原のように反射する。
「貴方の手帳です。明日、起きたら渡してほしいと昨日の『貴方』に頼まれました」
「昨日……?」
 指揮官は訝しむようにそれを見つめていたが、昨日という言葉に反応してようやく手帳に手を伸ばした。
「それに全て、貴方の知りたいことが書いてあるはずです。自分が何者で、今目の前にいる僕が何者なのか。そして貴方が『覚えていない』昨日までのこと、全部」
 指揮官はこの言葉に導かれるまま、手帳のページを表紙を捲った。そこに几帳面な文字で書かれているのは他でもない指揮官自身の名前。自分が書く文字は覚えているのだろうか。覚えていなかったとしても、指揮官ならばきっとすぐにわかるはずだ。
 指揮官は記された文字の一つ一つと、そこに在り、文字として可視化された感情の足跡を辿るように一枚づつ丁寧に捲る。かさ、とページが紙特有の微かな音を立てて捲られていくのを静かに眺めていた。こうやって待つのは一体何度目になるのだろう。正確な回数は記憶領域に記録していたはずだったが、もうこんな朝が何度目か考えることなど、意味がないように思えてきた。この人が此処で呼吸を続け、生きていてくれる限り、こうやって『昨日』を辿る朝は続いていくのだから。
 不意に紙を捲る音が止まる。ぼんやりと足元を眺めていた視線を彼の方へと戻した。白い指先がたった二文字を記した場所をなぞって、動揺するように睫毛が震えた。
…………リー、?」
 小さく、掠れた声だった。
 それはかつてのように滑らかに、鈴を転がすような滔々とした響きを持って紡がれるものではなく、まるで初対面の人物の名前を覚えようとするように辿々しく辿る、そんな響き。
 弾かれたように指揮官が顔を上げる。手帳に貼られた一枚の写真と僕の姿を交互に見比べて唇を震わせた。
 ――そこに在ったのは、僕と同じ姿をした一人の構造体の写真。青い目と淡い金髪の、無表情の青年。
……君が、リー?」
 ただの、事実確認。
 『昨日』と同じように僕がリーであるかどうかだけを確認するだけの、今まで何十回と交わしてきた会話。それが、どうしてか嬉しくなる。かつて彼の中に存在し、抜け落ちてしまった僕という名の青い色彩が蘇ったような感覚がしてしまうからだろうか。
 その瞳に浮かぶのは僅かな恐れと期待、昨日を覚えていない自分を知っているかもしれない存在への興味、そして自分を傷付けるような存在ではないという安堵。複雑な感情が綯い交ぜになった眼差しを、僕は微笑んで受け入れる。
「ええ、今日の貴方にとってははじめましてですね。僕はグレイレイヴン隊のリーです」
 かつて、指揮官だった貴方が率いた小隊の一員でもあります。そう告げてようやく、指揮官は初めて安堵したような表情を見せ緩やかに口角を持ち上げた。
 
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 指揮官は、長期記憶を維持できなくなった。
 原因は任務中、戦闘で受けた頭部外傷。それが脳に不可逆的な損傷をもたらしたせいで、指揮官は数日前の出来事や関わりのあった人を忘れてしまうようになったのは勿論のこと、昨日の出来事や毎日会っているはずの人のことや、僕のことすら記憶に留めていられなくなってしまった。
 本来、記憶というものは定着して、緩やかに忘却という滅びへと向かっていくものだ。永遠にこの世界に存在するものがないように、記憶もまた時間と共に緩やかに死んでいく。それが人間の体に生まれついた瞬間から定められた人の理だ。
 ――しかし今の指揮官を例えるとするならば、まるで一日花のようだった。
 一日花とは名の通り、一日という時間のうちに花びらを咲かせ、その日のうちに花びらが滅ぶ。茎が枯れ落ちて存在できなくなってしまうまで、それを永遠に繰り返し続ける花だ。
 朝、陽の光の中で生まれ、昼にその花を咲かせては徐々に萎れ、夕暮れや夜の月明かりの下で散る。それと同じように朝に初めて出会い、昼を共に過ごして、夜に別れを告げる。『今日』を覚えていられない指揮官は眠りにつく夜の中で儚く散って、また『明日』の朝の中で生まれ、『はじめまして』を告げてまた出会う。そうやって何度も出会いを繰り返し、咲き誇り、花を散らして消えて、忘れていく。これから先もきっと永遠に、それを繰り返し続けていくのだろう。
「いつもごめんね。覚えていられなくて」
 光度が絞られた照明の下、ベッドに腰掛けた指揮官は静かにそう言った。朝、白い光に染まっていたはずのカーテンはいつの間にか夜の紺と僅かな月明かりに染まる。もう指揮官休憩室ではない場所に住む彼の部屋はどこにでもある、ありふれたシンプルな部屋だった。
 毎夜訪れる別れの間際。指揮官が眠るまで傍にいる、過去幾つ交わしたか分からない約束のうちの一つ。
「昨日の『僕』がさ、君のことを覚えていられないのがすごく悔しかったんだって書いてたんだ。朝見た時はどうしてかわからなかったけど、今なら僕もその気持ちがわかる」
 指揮官はそっと縋るように、指先に触れる。
「叶わないのに、ずっと君のそばにいたいって願ってしまう。明日になったら君のことも全部忘れてしまうのに」
 記憶を保てた頃の僕なら、それも叶えられたのかな。そう言いながら指揮官は目を伏せる。
「大丈夫です。たとえ今日の貴方がいなくなって僕のことを忘れても僕は必ず、また此処に来ます。次に出会う貴方がどんな貴方でも」
 『今日』の中に置いていかれる貴方のことを覚えている。誰の記憶になくても今日、確かに『貴方』が存在していたこと。『貴方』がいなくなって、それが嘘になってしまわないように。
「貴方が忘れていくのは止められませんが、代わりに全て覚えていますから。今日の貴方も、明日会うはずの貴方も。記憶領域の中で永遠に」
……そっか。それは次に君に会う僕が……少し羨ましいな」
 指揮官は眦をふっと緩めるように笑って目を閉じる。
「こんな……一日花みたいな僕を、愛してくれてありがとう」
 指揮官の左手に重ねられた、僕の右の手。その薬指、綺麗にはめられた銀色が月明かりを弾き返して静かに恒星たらん輝きを放つ。その恒星の煌めきは指揮官の右手にも在り、僕たちの関係の証明だった。
 ――忘れてしまうから、思い出せるようにしたいんだ。確かに愛していたひとがいるって。
 まだ一日花となる前の指揮官の望みだった。何度忘れても、何度見失っても互いを見つけられるための印。そして貴方が迷わないためにつけた、わずかな傷でもあった。
『永遠を誓ってくれたひとを忘れてしまう罰にするから。こんなに僕のこと全部愛してくれたひとがいるのに、忘れるなんて酷すぎるって』
 言葉の割に穏やかな顔でそんなことを言ういつかの指揮官が頭を過ぎる。
……ねぇ、リー。少し君の温度を借りても?』
 指揮官は愛情表現の全てが拙かった。子どもでさえも言えるような抱きしめてほしいというささやかな望みすら素直に口にできず、与えられるのを密かに待ち侘びる。ようやく伝えられたとしても、口に出す言葉すら遠回しで。だからこそ傍で伝え続ける必要があった。甘えて良い。二人でいる時くらい理性的な指揮官でいなくとも良いのだと。彼が言葉にできないままの望みのように甘やかしたのだって一度や二度ではない。
 抱きしめて、髪を梳いて、表面の体温が一緒になるまで。そうやって指揮官を抱きしめたのも既に過去になってしまった。傍らの人間が覚えていない、それだけで酷く遠い昔のように感じてしまう。
「僕が言うことじゃないかもしれないけれど、君も一途だね。こんな……記憶も大切なひとのことも、何もかも全部忘れてしまう人の傍に居続けるなんて」
 そんなことを考えている隙間、指揮官は互いの指の同じ場所にはまる指輪を眺めながら言う。この恒星の煌めきに刻まれ続けた毎夜の別れは形にすら残れない。ただそこに約束した、という形だけが残っている。
「過去に僕とどんな約束をしたのか、もう知ることすらできないけどね。僕のところなんて来なくたっていいんだよ」
……貴方一人に罰を背負わせるわけにはいきませんから」
「罰?」
「ええ、以前の貴方が自ら望んで、貴方自身に課した罰です。望んだのが貴方だとしても、全て背負わせるわけにはいかないでしょう?それに先ほども言いましたが、僕は明日も必ず此処にいます。たとえ約束を交わしたのが過去の貴方でも、此処にいるのが貴方である限りそれは変わりませんよ」
 うん、と頷いて指揮官は穏やかに笑う。
 ――ただ覚えていてくれることを喜ぶように。そこにはもう別れを惜しむような温度も、何かを怖がって縋るような表情もなくて。
……もう、怖くはありませんか」
 不意に、いつか貴方が怖いと泣いた朝を思い出した。白い朝の光に染まったレースカーテンが今でも鮮明に脳裏に過ぎる。
 全部怖いのだと。確固たる自分がいなくなることも。何もかも思い出せなくなって、僕のことさえ忘れてしまうことも。忘れたくないと泣きながら願ったことすら忘れてしまうことも、全て。
「どうして、いつもそんなに穏やかなんですか」
 怖くないはずがない。忘れていく恐怖など薄れていくはずがない。毎日忘れてしまうが故に鮮明に焼き付けられる『初めて』の忘却の恐怖は。それなのに、いつも夜の中で見る『指揮官』は酷く満たされたような顔をして、穏やかに僕を置いていく。
「本当はね、ずっと怖いよ」
 指揮官は、まるでなんでもない世間話をするようにそう告げた。しかしすっと伏せた瞳に滲む透明だけが、確かに彼が感じている恐怖の証明だった。
「忘れるのは怖い。きっと今まで君が見てきた前の『僕』だってそうだったと思う。大切なことも、忘れたくないことも……忘れたくないって願ったことも、全部。明日には忘れてしまうの、酷い体だよね」
 言葉の端に滲んでしまった悲しさを隠そうともしないまま、指揮官は笑う。誤魔化す理由も必要も、もうどこにもなくなってしまったのだろう。彼は感情のありのまま、そっと心の内に秘めていたものを吐き出すように息を吐いた。
「でも、リー。忘れてしまうのは怖いけど……僕は、幸せだよ」
 重ねたままの手に微かに力を込めて指揮官は続ける。
「朝、教えてくれたでしょう?僕は昔、君たちレイヴン隊と戦場に立っていたんだって。今の『僕』には戦場に立つ苦難もわからないし、もう君と戦場に立ってその苦難を分かち合うことはできないけれど……君に出会えて君と過ごして、一日って短い時間の中でたくさんの幸福に満ちて、最後は君に見送られながら散ることのできる花として生きられることができて、僕は幸せなんだ」
 ――それが、本当は間違っている幸せだったとしても。
 もう、指揮官には分かっていた。と言うよりも、過去の自分が残した文字の中で理解せざるを得なかったのだ。
 二度と戦場に立てなくなったと知った時の嘆きを見た。守りたいと願った存在すら守る力を失った時の涙の跡を見た。血の滲んだ足跡に二度と触れられないと知って、同時に気が付いた。指揮官が享受しているこの幸福は、彼らが少しづつ犠牲を払いながら守った日々の中で得る箱庭の幸せでしかないのだと。戦場という場所に二度と立てない指揮官がいるこの場所が、安全なぬるま湯の中でしかないこと。
「君にたくさんの負担を強いてしまっているけれど、もう少し、わがままを言ってもいい?」
 はい、と返事を返す前にそっと形をなぞるような柔らかさをもって、唇が触れ合う。わざとらしい音も、熱を灯すような甘さも激しさもない。ただ、此処にいたのだと。刻むように、互いの心にささやかな傷をつけるように。触れ合うだけのそれを交わしながら僕たちを隔ててしまう隙間がなくなるように抱きしめた。縋るように回された腕の強さが、彼が忘れたくないと切に願う証明だった。
……さようなら、リー。次の花をよろしくね」
「ええ、さようなら。指揮官……■■」
 指揮官は寂しそうに微笑んだ。そこに在る二つの有機物の球面に光度の絞られた照明が滑るように反射して、光る。それははじめましてと告げた朝の煌めきとは違う。まるで消えゆく篝火のように弱々しく、遥か遠くに輝く繊月の光のように儚い。もうすぐ潰えるこの煌めきを、きっと忘れなどしないだろう。他の誰の目にも触れない、他の誰も知ることのないこの輝きを永遠に、僕だけが覚えている。『今日』の貴方が全て嘘になってしまわないように。
 ――やがて閉じられた瞳と穏やかな静息の中に、今日の貴方は柔らかく滅んでいく。
 白い肌をなぞる。かつては過酷な戦場を共に立ち、傷を負い血を流した貴方の肌には相も変わらず傷跡がその表面に沿うように走っている。しかし、もう指揮官はこの傷跡たちのことを忘れてしまったのだろう。覚えているのは、きっと僕だけだ。
…………さようなら。今日の貴方のことを、愛していました」
 もうこうやって別れを告げて、心にささやかな傷をつけるのももう何度目かわからない。それでも僕はきっと、これからもこの人と同じ夜と朝を繰り返し続けるのだろう。疾うに傷だらけの心で、まだ昨日の中でつけた傷が痛むまま。全ては同じ夜と朝の中でしか生きられない誰よりも大切で愛しい、目の前で呼吸をするこの人との約束の為に。

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