天知り師知る花の中

MHRウ教×ハ♀。
相思相愛。

ある風が強い日の里、狩猟を終えて里に戻った彼女のしたこと。

火と花の里カムラの中を、強く強く吹き抜けた花嵐はなあらし

碧天へきてんの下で煙突の煙が揺らめき、花びらが舞い散る、清々しい快晴。

気まぐれな飄風ひょうふうが起こる中、昼時ひるどきのそんな天気にも関わらず里の八百屋とその周辺、おにぎり屋に米屋に雑貨屋、そして魚屋も、昼食等による一時的な影響か無人。
更には加工屋さえも『たたら場にて作業中』の木札がカウンターに出され、無人だった。

いつも賑やかな場所はたまたま、人の声も気配もなく、桜の花びらを乗せた東風こち、が時に勢い良く吹き抜けるのみ。

よりによってそんな時、誰の目に留まることもなく、不意に──八百屋の青果台の浅い丸籠の中から、ころころころと転がり落ちる数多あまたの林檎。

蹴られたり踏まれたりしてしまう危険に陥った林檎に駆け寄る存在は無いかと思われたが、ただ一つだけ、駆け寄る人影があった。

「ああ、あー……ばらけちゃうよ……!」

人影の正体は、夜通しの過酷な狩猟から戻ってきたばかりと容易に推測できる顔つき、得物を背負ったままの里の英雄『猛き炎』たる娘。

彼女は疲労を感じさせない機敏な動きで健気に、転がり落ちた林檎を両手で次々に拾い上げていった。
拾っては、優しく青果台の上の籠の中に戻すことを、人気ひとけのない静けさの中で繰り返す。

……ふう。よいしょ、と」

ことん、ことんと娘が林檎を戻している最中、その微かな振動の影響だろうか。
同じ青果台上の、すっかり元通りになった林檎の籠の隣、丸籠の中に積まれた大きく立派なじゃがいもが、ころんと一つだけ、上から転がり落ちた。

「──っと!?」

しゃがみながら素早く差し出された娘の片手が、落下したじゃがいもを受け止める形で救出する。幸い、それは地面に叩きつけられずに済んだ。

「あ、危な……! 林檎戻してる時に、動かしちゃったかな……

独りごちながら、しゃがんだ姿勢のままじゃがいもを籠に積み戻した娘が、ゆっくりと慎重に立ち上がる。

律儀に八百屋の全体に視線を配り、律他の商品は大丈夫かを確認した後、彼女はほっと息を吐いた。
安心してから、視線を自身が住み暮らしている水車小屋の方に戻す。

道中も周辺も、驚くほど人気がない。

通行人さえ、今はいない。

誰の気配も感じず、誰からも声をかけられないことを不思議と妙に寂しく思えてしまい、異世界にでも迷い込んでしまったような気さえして、娘は肩を揺らしながら深く息を吐いた。

……ちょっとだけ、疲れちゃったかもな。早く帰って休も……

歩き慣れているはずだが妙に新鮮に感じる道へ、娘は少々重たくなった歩を進める。

通り抜けようとした加工屋前、水車小屋はもうすぐだと認識した刹那、カウンター上に立っていた『たたら場にて作業中。急用時はたたら場へ』の木札が、風の影響か、ぱたん、と前に倒れた。これでは、文字が読めない。

……

音を聞き、歩く速度を緩めた娘。

彼女は体の向きこそ水車小屋に向いたままだが、ゆっくりと加工屋のカウンターに歩み寄り、歩きながら木札を元に戻した。

(よし、と。最近は里の外から来る人も増えてるからね。ハモンさんたちが長時間ここを空っぽにしておくはずないけど、一応ね……)

共に生きる里の家族たちの人柄や仕事への情熱、責任感を、娘は熟知している。

だからこそ、内心で先ほどの自身の行動にどことなく虚しさを感じて、思わず片方の口角を微かに吊り上げて苦笑しつつ、歩みは止めずにそのまま水車小屋へと向かった。

刹那、再び里の中に、身をぐような花嵐が、強く吹き抜ける。

「──あ……ッ!」

桜の花びらを散らしながら勢い良く吹き抜けた、風。

まるで目を撃つような風に、防衛本能で顔先に軽く片腕を掲げた娘の、その腕に結ばれていた花結。

風に煽られた瞬間、ぷちん、と音を立てて切れたそれは、娘が気付いた時には風の中。

さらわれるように、大きく舞い上がって飛んでいく。

「う、そっ……!」

反射的に悲鳴をこぼした娘の心臓が、どくん、と大きく緊張を帯びて脈打った。あの花結は彼女にとって、とても大切なもの。

(あれは、ウツシ教官がっ……!)

風の中に飛んだ花結。

それを受け取った日のことを、娘は昨日のことのように思い出せた。

生まれ育った里を初めて離れ、王国域の観測拠点エルガドへ──出発直前、船に乗り込もうとした時、彼女にとって最愛の人であり師、ウツシが駆け寄って来てくれた。

彼の差し出した大きな片手には、花結。


──これ、お守りだよ。俺が作ったんだ、持って行ってくれるかい?

──キミなら絶対に大丈夫。安心して頑張っておいで。そして必ず、無事に帰っておいで。


あの時のウツシの温かな言葉も、春陽も顔負けの眩い笑顔も、そして花結を渡してくれた時にふれあった、熱く、厚い手の感触も何もかも、その全ては娘の心の深くまで焼きついていた。

初めて里を離れるという現実がもたらす期待と不安、そして、まだ離れてもいなかったのに、鉄蟲糸できつく締めつけられているような望郷の念すら入り混じって痛み揺れる心、その全ては、これまで娘が感じたことのなかったもの。

ウツシは不安定に揺れ動き、あらゆる想いが複雑に入り乱れる彼女の心の全てを温かく、優しく包み込み、激励しながら手を振って見送った。

それからずっと、彼のくれた花結は、娘の腕から片時も離れることはなかった──と言うのに。

「い……やっ……!」

まるで片腕を失うような、心に大きな穴が空きそうな恐怖に駆られ、娘は花嵐に巻き上げられた花結に向けて無意識に手を伸ばす。

こんなことをしても手は届かない、無駄なことと、頭では分かっていた。

けれど娘は風の中、誰よりも愛する大切な人がくれた花結に向けて、悪あがきのように背伸びをしたり、限界まで手を伸ばし続けずにいられなかった──が、やはり届くことはなく。

(風が少し弱まったタイミングで、翔蟲を……!)

狩猟時のように、娘が懸命に風を感じようと意識を周囲に向ける。
強風の中で翔蟲を放ち、体勢を保ちながら自在に動くことは決して容易なことではないのだ。

彼女が風を読まんとした直後、残酷にも、再び花嵐が起きる。

その風は里の桜はおろか、煙突から吹き昇る炎や煙をも容赦なく吹き飛ばさんとするような勢いだ。

風が弱まることはなかったが、それでも──と、翔蟲を放って花結を追いたかった娘だが、渦を巻きそうなほどの勢いで吹いた風。

その勢いにほんの一瞬気を取られたのと、やはり風に煽られわずかに体勢を崩してしまった。

(やだっ! 待って、花結っ!)

内心で叫ぶ娘が、息苦しさを覚えるほど心臓が引き絞られているような心地の中、またしても、無情に吹き抜けた風。

花結はますます、娘から引き離されるように勢い良く空に舞い上がる。

運悪く、この辺りにはまだ相変わらず人の気配がない。視線もない。風の中には桜の花びらが多いので視界が不明瞭であることも最悪だった。

そんな目撃者が少ない状況下で花結が飛んで行ってしまえば、見つけることは困難を極めるだろう。

他のものは諦めても、あの花結だけは──と、娘の心は次第に奮い立った。

すぐには追いかけられなかったとしても、せめてそれが飛んで行く方向だけは目に焼きつけ、後で捜索しようと。

その一心で、土埃が、花屑が、何より凄まじい風が目も体も心も打つ花嵐の中、負けずに改めて目を開いた、刹那。

嵐のような風さえ味方につけるように、風の流れを読みきった鮮緑せんりょくの鉄蟲糸が、一筋の流れ星のように娘の視界に映った。

@acadine