2026-01-10 14:37:42
2285文字
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引き留める

デキているが、ロマンチックは無い日のガラハイ。しょんぼり祈るハイド氏。

 コーヒートークに寄って、俺たちは揃って帰途に就いた。冬は終わりかけだが、それでも深夜は冷える。意味なく吐いた溜め息は顔の前でぱっと白く丸まり、すぐにどこかへ消えていった。耳殻がきんとする。店でのことを、ハイドと二人で話していた。わざわざ並べるようなことでもない、普通の、ありふれた会話だったはずだ。俺たちは交差点に差し掛かり、うるさい車が近づいてきていたので立ち止まった。そのときだった。
 ハイドが突然、当たり前みたいな素振りで、俺の上着のポケットに手を差し入れてきた。正確には、俺がポケットに突っ込んでいた右手に、あいつが自分の手をぐい、と差し込んできたのだ。なんてことない普通の交差点で、なんてことない普通の日で、なんてことない普通の会話だった。ロマンチックには程遠い.。わけが分からずハイドを見ると、あいつは俺を見ていなかった。俺を見ていないにしては、ずいぶん切実に、ハイドは俺の手を握ってきた。
「ハイド? どうした?」
……
 ハイドの冷たい、さらさらの指が、俺の指を一本ずつ確かめるように、なぞっては握る。ベッドサイドで俺をからかうときのエロさはなかった。それが不思議だった。こう言うと語弊がありそうだが、そちらのほうがまだ、対処のしようがある。呆れ顔をして「よせ」と突っぱねればいいからだ。ところがこのときのハイドときたら、とにかく神妙だった。力加減をたとえるなら、そう、珍しく俺に懐いてくれた小さな患者が、仕事に戻ろうとする俺を引き留めるときのような。
「ハイドさん?」俺が努めてふざけた声で呼びかけると、ハイドはようやく俺を見た。が、表情はやけに深刻そうなままだった。「どうした、いきなり? 強盗を待つのはごめんだぞ」
 ハイドは答えない。うるさい車が、エンジンとカーステレオのどちらをも地鳴りみたいに響かせながら近づいてきて、すぐに過ぎ去っていった。するとちょうどパトカーが現れた。そいつを追いかけていくらしい。パトランプの青がけばけばしく、サイレンがいやに唸る。うるせえぶっ飛ばすぞ! 酔っ払いがパトカーに怒鳴っている。遠い、飛行機のエンジンか、重い風の音。
 ハイドはまだ答えない。代わりにようやく俺を見た。お得意の顔だ。悲しそうとか、怒っているとか、そういった感情は特に表さないくせに、何事かを言いたげな目だ。俺はハイドの指を絡め返した。あいつの睫毛が震えたが、それはあいつが目を伏せかけたからか、それとも冬の風のせいか、分からなかった。
「ガラ……
「うん?」
「行くなよ」と、ハイドは、呟いた。どこへ? 続きを待ったが、それは与えられなかった。どちらかというとおまえのほうが、どこかへ行っちまいそうだよ。センチメンタルで、それこそ変にロマンチックな感想が、危うく口を突いて出そうだった。俺は鈍感で呑気な奴になることにした。ポケットの中、俺の指のあいだをうろつくハイドの手を、しっかと捕まえて握る。
「どこに行けってんだ。寒いし、真夜中だぞ。おまけに今、どこぞの吸血鬼に捕まってる」
 ハイドがようやく笑った。ただし呼気だけの、簡潔な、単純な微笑みだった。
……おまえなら、今のパトカーに加勢しに行くくらいのことは、しそうだと思ってな」
 ハイドはそう言ったが、これは嘘だった。少なくとも俺はそう感じた。俺は正義漢でも熱血漢でもない。パトカーに加勢なんてしたことがないし、するつもりもない。ハイドもそれを知っているはずだ。だからこいつは何かを言おうとして、やはり中止して、代わりに手近な出来事を、それらしく提出したに過ぎない。だが本来の「何か」が何だったのかについては、俺は残念ながら当てがないし、ハイドからの回答も見込めないのだった。
「しないさ」と言うのが俺の精一杯だった。「どこかの吸血鬼に捕まってるおかげで、横断歩道さえ渡れないのが実際だ。ここを一歩も離れられないでいる」
 ハイドが顔を伏せた。それから小さく笑った。「今、捕まってるのは私のほうだが」こいつはとにかく睫毛が長くて、少しのまばたきでも、しゃらしゃらと音が鳴りそうだった。「……まあ、おまえがどこへ行くのも自由だし、他の誰も、それを止められやしない。……良くないな。私の感傷だ。忘れてくれ」
 そう言うくせに手は離れていかない。ハイドの溜め息が白く浮かび上がった。俺は今夜、鈍感で呑気な奴だから、見なかったことにした。
「分かった。忘れてやるから、もう行こう」俺はハイドの手を握り直した。こいつの手は細いくせに長いから、まるごとくるもうとすると一苦労だ。「帰ろう。ハイド。俺はもう一刻も早く布団を被って寝ちまいたいよ」
 慎重に彼の手を引いて、俺はハイドを促した。「帰ろう」と念押ししてようやく、ハイドは歩き始めた。車が来ないことを確かめて足早に横断する。
「なんだ。しないのか?」ハイドが半笑いで言った。
「なんだ。したいのか?」俺も半笑いで返す。
……したいさ」交差点を渡りきると、ハイドがぐい、と身体を押しつけてきた。「特別ひどくしてくれ」
「そらきた。お断りだ」
「ああ、眠いんだったな。寝ていてもいいぞ。私が乗るから」
「ハイドさん。デリカシーってものについて、少し勉強してくれ」
 ハイドが笑った。その肩の震えが伝わってきた。手をほどいて肩か腰を抱き寄せるかどうかで迷った。が、初めに俺の手を掴んだ、こいつの指の慎重さを思い出して、今夜はやめておいた。また別の車の爆音が遠くで響いた。ハイドがそちらを振り向こうとするので、キスして止めた。