再会したバッキーはサムを番にしたことを幸いにして覚えていないようであった。
…何が幸いだ。
しかしあんまりではないかという反面、ホッとした自分がいるのは
…スティーブの右腕として生きているからだろうか。
あの日サムの頸に噛みちぎる勢いで歯を立てたバッキーはやがて頭を抑え、何か言葉を喚いていた。今思うとロシア語と英語を往復していたから洗脳の後遺症だったのかもしれない。αという新たな人格で脳がキャパオーバーを起こしていたのだろう。じゃないと納得したくない。
バッキーは唸るようにして窓に歩み寄るとそのまま落ちてしまった。ままならない身体を引きずるように床を這って見下ろした先には人ひとりいない。
助かった。サムは胸を撫で下ろす。ああなったαがΩをレイプするのはバース性で一番よく聞くトラブルだ。
…しかしそれからも散々だった。
まず番を欲して発情した身体が言うことを聞かず、誰もいない散らかった部屋で自慰をした。
熱は極限まで昂まっているのに達せなくて、バッキーの匂いがほんの少しついたシーツを手繰り寄せて勢いよく鼻で息を吸った。しかし目を閉じて思い出す彼との思い出はヘリキャリアから蹴落とされた時と、さっき。ろくな目にあってない。
でもジンジンと熱くなる頸から頭がぼうっとしてきて今しがた目に焼き付けたバッキーの前髪から覗く青の瞳に欲が昂る。精神は疲弊しているのに身体はここにいない何かを求めて、サムは夢中になって濡れそぼった孔に指を
……。
「
…昔のバッキーだ」
「
…だから仲良くしましょうって?」
お気楽なスティーブの発言に現実に引き戻されたサムは苛立ちを隠せていただろうか。とにかく目の前の義手男は何も覚えていないらしい。スティーブが靴に新聞紙詰めてることは覚えてる事を思うと腹が立ってきた。
あのあと何度も自慰をして何とか熱がおさまった隙に走ってドラッグストアに駆け込んで抑制剤を買って、あまりの様子に店員が急いで会計を終わらせてくれたことまでサムは覚えているのに。
それからプロテクターを買って、こっそり裏から手回しして検査すると、Ω+と認定された。このプラスマークというのは番がいるΩだ。
逃げられない現実がサムを襲った。それももう一年も前のことだから、Ωとしての生活も慣れたものだが。
◆
「なんだよこの車、芳香剤やけに甘くないか」
「そうか?何も匂わないけど。サムは?気になる?」
「
…いいや?」
シャロンから武器を受け取りに行くあいだ、拾った車の中でそう溢すバッキーにどきりとした。甘いどころか少し汗臭い車だ。ああだから頸を向ける助手席は警戒したのに。
サムは手汗に気付かぬふりをしながら「俺も匂わない、鼻がバグってるんだろ」と付け足した。なんで俺にきついんだと顔に書いていたが自分がヘリキャリアから蹴落としたことを思い出したのか、黙ってシートに背をつけた。
もっと酷いことしたんだぞお前は。
けれどこのやりとりが『バッキーが居ても自分が普通に過ごせる』という裏付けになったことはありがたかった。
いずれ番は解消してもらうつもりだが、そのタイミングは今じゃなくとも良い。というかスティーブの目を盗んで出来ることではない。そう。焦らずともいい。
サムはバッキーに会ってから仄かに痺れている頸を抑えるとゆっくり、しかし大きくため息をつくのだった。
◆
「
……」
「なんだよハムスターになった気分か?運んでなんかやらないぞ」
「よく口が回るなお前は」
「サムだ」
空港にてレッドウィングにジェットを探してもらっている最中、やたらと鼻をひくひくさせて落ち着かないバッキーをハムスター呼ばわりした。スティーブの願いだから共にいるが一線を引いてますという声色だったにも関わらず「バッキーだ」と右手を差し出してきた。
意地悪な人間になりたいわけじゃないので今更の握手に応じる
……も、瞬時に後悔する。
整った顔立ち、温かい手、耳をくすぐる声、そのまま瞳に閉じ込められてしまいそうな錯覚。バッキーも何かを感じたのか緊張していた目元が緩んでいる。
じく、とプロテクターの下が熱を帯びてきて、まずいなと感じたそのとき、レッドウィングからの信号が灯る。
「!スティーブ
…クインジェットは第五格納庫の中だ」
そのあとすぐスパイダーマンとかいう新種の蜘蛛と戦って、二人揃って青天キメる散々な結果だった。その際、大丈夫かと伸ばされた手を躊躇する。ほんの少し二人になっただけなのに、押し込んでいるΩが出てきそうで怖かった。
◆
スティーブがワカンダ製のジェットに乗ってきてラフトに捕まっていた全員を解放した。この男は信じたぶん応えてくれる、サムにとって最高の相棒でキャプテンだ。
それぞれの生活に戻れるようみんなを家族に送り届けて、二人で今後について話すことにした。
「
……」
ようやく巡ってきたチャンスにサムは意味もなく時計を見る。透明化したジェットは夜空に溶け込んでいる時間だ。
サムはスティーブが端末に目を落としたと同時に話しかけた。
「
…あー、スティーブ
…バッキーのことだけど」
スティーブの目が遠くを見つめて、口元が薄く笑む。
「あぁ、彼はワカンダにいることになった。洗脳のこともあるから」
「それなら安全だ
……その、少し奴と話したい」
虚空を見つめていた目は丸くなりサムを見る。どこまでも透き通ってる青い瞳が揺らいだ。
意外な発言だったのだろう。そりゃそうだ。仲良いそぶりなんて一つも見せていないし実際、とくに仲がいいわけではない。不誠実な関係だ。
「ご、めん
……彼、また眠ったよ」
「は?」
バッキーの選択をスティーブから聞いて、サムは表情を取り繕うことができなくなる。結局ふりだしに戻ってしまった。
「
……マジか」
「何か話したいことあったのか?仲良くなれた?」
「
……まあ、起きたときに言うよ」
次、次に目覚めたら。プロテクターがあるから大丈夫、スティーブにはバレない。
結局それも叶わず六年後、スティーブを失ったバッキーに声をかけることは愚か、連絡がつかなくなるとも知らずにサムはスティーブと逃亡生活を始めるのだった。
100年前の君とハッピーエンドを
第四話 etc
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