ugmm_
2026-01-03 22:16:17
4679文字
Public 現パロ
 

閑話

現パロ。
『稲妻の影に立つ』のあとのハミハス。『永遠のまなざし』にエピローグでつけようかなと思っていたけど余韻がほしくて切った場面、にいろいろ付け加えたもの。もったいない精神です。



 楽しかったかと問われて、ハスドゥルバルは笑顔を向けた。ついさっきまでローマ人に向けていたよりは心の籠った笑みだったはずだが、ハミルカルの顔はますます渋くなる。
 彼らの乗り込んだ車は出版社の社屋を離れて、ハスドゥルバルを送り届けるためにその自宅へと向かっていた。嘘のスケジュールを伝えて勝手にひとりで出かけたので、タクシーでも拾うつもりだったのだけれど。
「迎えにきてくださるとは思いませんでした」
「嘘を言え」
「だって予定を詰め込んでおいたのに……
 会議だの取材だのに追われる午後だったはずだが、早く切り上げるか予定を組み直すかしたらしい。オフィスに戻る気のなさそうなハミルカルのそばに寄って、肩に頭を預ける。
 指輪を嵌めた左手で遊んでいるとひとりで危ない真似をするなと嗜められ、先ほどまで正面から見ていた顔を思い浮かべた。温和そうな面差しの、評判通りに理性的な人物。往来でならともかく職場で、立場ある人間として後先考えず行動できるほど衝動的ではない。
「靴は踏まれませんでしたよ」
 ハスドゥルバルはその場にいなかったが、面白いものが見れたと珍しくマゴーネが教えてくれた。その場を収める役を担わされて、吹聴しなければ割に合わない気分だったのだろう。
 ハミルカルはこちらを少し睨んだが、ちっとも怖くない。
「私とは喧嘩をしてくださらなかったな。あの方、あんまり頑張って我慢しているから気の毒になりました」
「そう思うなら無駄に煽るな」
「あんなに穢らわしいものを見るような目をされたのは久しぶりで、つい……楽しくて」
 記事について礼を伝えておくべきかという判断も、ついでにせっかく彼らの憂鬱を払ってやったのだから教えてやろうという親切心も、何も悪意に根ざしてはいない。悪戯心は否定しないが。
「前任者に比べればこの子はずっとましだなと思って、ハンニバルに優しくするでしょう? 自分の方が徳高い存在だと感じさせておけば、勝手に立派な振る舞いをする連中だもの」
 高い道徳心、この時代に適応して正しく生きているという自負、そういうものの裏にある根深い価値観への自覚は、結局は子供たちを許し受け入れる方向へと導いていく。それならばあの子の居心地がいい方がいいでしょうと言ったら、理解しがたいと返ってきた。
 それはハスドゥルバルの物言いに対してのものか、そんなふうに現代を生きている者に対してのものか、なんにせよハミルカルの眉間の皺はいっそう深くなる。
 愛息子が仇敵と呼ぶべき存在を恋人にしてしまって以来、ハミルカルは調子が狂い通しだ。邸宅で鉢合わせたと聞いたときハスドゥルバルは笑ってしまったけれど、詳しく調べた結果を聞かされた後の顔を見たときは笑わないであげた。マハルバルをはじめとして誰も真剣には妨害してくれず、交際は順調である。
 すべてが嫌で嫌で仕方がないのに、息子に好かれたいのだ。だがそのために積年の憎しみを覆い隠して理解のある親のふりはできない。裏切られたような気持ちになるが、そんな気持ちにはなりたくない。
 泥酔するほど荒れたハミルカルを慰めてやりながら、ならばあの家族ごとどこか遠くにやってしまおうかと言うと、それを追いかけて行かれたら死ぬと。酔っているなりに真剣な目だった。
 自分がそんなことを言ったとは覚えていないハミルカルが、拗ねたように言う。
「お前、応援でもするつもりか」
「このあいだハンニバルがこう言ったんです、自分はあなたのことを愛人というよりは恋人のようなものだと思っていた、らしい」
 らしい、というのは、形容する言葉を選ぶほど深く考えたことがなかったという意味で、考えるきっかけになったのはあの少年だろう。せっかく偏った価値観の連中で周囲を固めて育てたのに。
 幼い頃から姉たちほどはっきりとではなくとも、両親の間に情愛がないのは分かっている子供だった。家族ではない存在が父親に愛されているのを、役割分担のように受け入れていたはずだ。
「不義とは今も感じないが、妻帯者の持つ恋人とは何か……自分の恋人を納得させられる説明ができなかったので真面目に考え直しているようです。可愛い思索でしょう、耳を疑う。ついでにやたらと腕を組みたがるのはなぜかと訊かれたので、好かれているねと答えておきました」
「つまり応援だろう」
「そうなるのかな? 私はハンニバルを楽しませられるのなら、あの泥棒猫でも構わないと思うのだけれど」
……泥棒猫?」
 何を盗まれたのか、まさかハンニバルのことではあるまいと眉を寄せるハミルカルに、ハスドゥルバルは目を細めた。
「あの子が私の宮殿を我が物顔で歩いているのを想像すると虫唾が走ります」
 自分たちが築いた何もかもがそっくりそのままローマの手に落ちた、その象徴のような光景だ。だからハミルカルがよそへやってくれと言うならそうしてあげたのに。
 ふと、スマートフォンが震えるのに気付いて見るとメールが届いていた。そのままハミルカルに渡す。添付された写真を開いた彼が、久しぶりに見るのだろう次女の姿に安堵しているのが分かった。
 彼女があちこちから写真と共に発信する近況報告は一斉送信で、ハスドゥルバルにも送られてくるというよりはハミルカルにだけ送られていない。
 言語学に関心を持って大学院で研究を続けていた娘に、それもいいが結婚はとハミルカルが言い出した場に、不幸にもハスドゥルバルは居合わせた。あるいは他の家族が不在で次女とハスドゥルバルがいる、それがハミルカルにそれを思いつかせたのかもしれない。
 一応は和やかに研究の話などしてくれていたのに、その顔色が変わり、彼女はハスドゥルバルを見た。口を開かずにハスドゥルバルは何も知らないと目を伏せたが、そのやりとりに父親は何を読み取ったのか、昔と同じようにしたいならそれもいいと言ったのだった。
 彼女の前に置かれたミルクティはまだ湯気を立てていた。次に口を開くべきがハスドゥルバルであったので、それが淹れられてからの時間を思い浮かべた。火傷はせずに済むだろうと。
 ──あなたが望むのならば。掴んだティーカップごと紅茶を投げつけられたのはハスドゥルバルだった。
 その後しばらくして彼女は家を出た。大学への届出を済ませ旅券を手に入れて。
 残された家族の動揺は言うまでもないが、リビングのテーブルに残されていた置き手紙を最初に読んだのがハンニバルだったことが、ハミルカルの立場を決定的に悪くしている。
「顔つきが明るくなりましたね」
 自分の写真を撮るのも嫌がっていたのにこうして送ってくるくらいだから、開放感を得て楽しんでいるのだろう。
 そもそも内気な女性で、人付き合いも好まず毎日決まった道以外は通らないような生活をしてきたのに、たった一人で放浪するなど、誰の助けもなくできるはずがない。この頃は本当に自力で旅をしているけれども、当初はハスドゥルバルやボミルカルが手を回していた。
 応援すると言うのなら、彼女のことだ。かつてただひたすら耐え抜いたことが悪く作用しているようだったから、いい機会だったと言えなくもない。
 問題はハミルカルが何が悪かったのか本当に分かっていなかったことだった。
「お父様には難しいと思うけど、私たちはお父様の人形じゃないんだよ」
 他の姉妹に比べて父親に懐いているサランボーにそう言われて、ハミルカルは当たり前のことだろうと困惑していた。自覚がないのがもっとも始末に終えない。そんな憐憫を顔に浮かべた娘は、二度と結婚の話を子供に向かってするなというありがたい忠告をした。
 そういう意味では、ハンニバルが予想だにしない方向へ歩いていってしまったのはこの家族にとって良いことだった。子供は自分と同じ存在ではない、ということが否応なしに理解できただろう。よりによってハスドゥルバルが無責任にそう考えていることが知られれば袋叩きに遭うだろうけれど。
 スマートフォンが返ってきて、それを仕舞う。目的地が近づいていた。
「今日はご自宅に帰られるんでしょう?」
 まだ夕方なのだからと問うと意味ありげな沈黙が落ち、ハミルカルの膝に手を置いて顔を覗き込む。
……もっとお叱りくださるんですか?」
 当然だろうと言われ哀れみを誘うような顔をしてみて、我慢しきれずに笑ってしまった。
 あの一件以来、ハミルカルは子供たちにするようにハスドゥルバルにも人をつけようとするのだが、いかんせん彼らはハスドゥルバルの嘘を見抜くほど気が利かない。ハスドゥルバルも人の注目を集めないということができるようになって、しばしば彼らの目をすり抜けた。
 ハスドゥルバルが勝手なことをしていると気付いてハミルカルがどれくらい慌てたのか、よく教えてくれるというなら、家族のもとに帰るよう諭す気にならない。こんな風だから嫌われている。
「でも、起きられなくなると困ります。明日は朝からアビーの健康診断がありますから」
「あの化け猫に健康診断が必要なのか」
「化け猫になってほしいですね、あと二十年生きてもらう予定なので」
…………そうか」
 猫の存在を心底鬱陶しがっているが、ハスドゥルバルの機嫌を損ねるのを学んで邪険にしきれない。この可愛げを自分以外が理解するのはいつになるのだろう。
 アビバアルが寝床にしつつ取っ組み合いの相手ともしている大きなぬいぐるみの由来も、時々新しいものが送られてきて入れ替わっているのも気に入らないのだろうが、送り主について彼は友達だと言われると我慢していた。
 車が停まり、運転手がドアを開く。先に降りたハミルカルの手を取ったところで、ハスドゥルバルは思いついたままに口を開いた。
「どうせなら泥棒猫ちゃんと仲良くなってみましょうか」
「何がどうせなんだ。頼むから余計なことをするな」
「だってハンニバルだけ取られるんじゃ割に合わないでしょう?」
 取られていないし取られないし仮定でも聞きたくない、そんな顔をして手を離して背を向けたハミルカルは自分で解錠しエントランスへ入っていく。それを追って腕を取るのは振り解かれなかった。
 あの少年は父親そっくりなようでいて母親にも似ている、そんなふうに気付いたのは、同じものを見つめる顔が並んでいたからだ。嫌悪と葛藤に揺れる父親に対して、息子は得体の知れないものへの忌避感を漂わせつつも、興味を色濃く浮かべた目をしていた。
 知らないものは知りたい、そんな子供だ。だからハンニバルと気が合う。そこに付け入る隙があり、仲良くなって損はないだろう。あの父親の嫌がる顔も見られる。
 ハンニバルがハスドゥルバルの存在に疑念を抱いているくせにわざわざ話しかけてきたのは、幼い頃に買い物に連れて行ってほしいと頼んできたのと同じだ。不可思議に、としか彼には思えないほど強く交際に反発する家族、とりわけ父親をうまく宥めてほしいのだろう。その思惑にだって反しない思いつきだった。
「ハミルカルさま、可愛いおねだりをしてもらいたくて知らん顔をなさってるんですか? いいじゃありませんか、恋人と旅行くらい」
 玄関扉を開いたところで動きを止めたハミルカルは何か言おうとしたが、猫の鳴き声に遮られた。
 アビバアルを抱き上げて部屋に入るハスドゥルバルの背に「お前は誰の味方なんだ」と弱った声が投げつけられたけれど、そんな分かりきった問いには答えなかった。