sisimi 
2025-12-29 00:12:28
14049文字
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関係の変わる時

 
目水未満からの父水成立まで

目玉であった父をかわいいかわいいと好き勝手愛でていたところ、体を取り戻した父にこの姿でもかわいいか?と迫られる話です。


もしかするとまた後日、この後のまぐわい部分を追加するかもしれません。


 

 ゲゲ郎と鬼太郎のふたりとの日々がずっと続くのだと夢を見て、それが叶わぬことであると水木自身も分かっていた。だから鬼太郎が独り立ちする日まで一緒に居られれば十分だと言って平気な顔を張り付ける。
 あの親子は人とは違う、ずっと一緒にいたいなんて無理なことを言って困らせたくはない。水木は心の奥底に願いを沈めて無かったことにした。
 それに鬼太郎も随分と大きくなったが成長が止まってしまって暫く経つ。目玉が言うには幽霊族は長寿故、子供の姿でいる期間も随分と長いらしい。鬼太郎も良く成長したからそろそろ妖怪のことも学ばねばならない、と酒を呑みながら話していた。
 だからそのうち家を出るという話があるかもしれないのだ。その時自分は笑って見送れるだろうか、少しの不安を水木は胸に抱え、何度も想像しては心の準備をしている。
 そうして今日もまた何も起こらない普通の日常であったと感謝する日々を過ごしていた。

 その日、昼までの仕事を終わらせた水木が家に帰ると静寂に迎えられた。
「ただいま……っと、いないのか……
 昼の明るさに似つかわしく無い、しんと静まった家の中に水木の声が吸い込まれた。
 水木が家に帰ると大抵はふたりが出迎えてくれる。勿論いないこともあるがごくたまにあるくらいで、出掛ける旨の置き手紙があったりわざわざカラスが伝達に来ることもある。水木が家で一人になることは然程多くはないのであった。
 以前、平日の水木が仕事中である昼のこの時間にはいつも何をしているのか聞いたことがあったが、家で寝ていたり妖怪の住む森に行ったりと鬼太郎たちにも毎日それなりに予定があるようだった。
 今日は何も連絡が無かった。水木が昼には帰ることをあの子が知らない筈はなく、何かあったのかと心配が過る。
 不在にするなら必ず連絡をするように、と決まっていたわけではない。だから大丈夫だと自身に言い聞かせて靴を脱ぐ。
 昼間とはいえども雪のちらつく季節、冷えた廊下を進む。氷の上を歩くような、という程ではないが足裏から体温が下がっていく気がして家の中でも寒い。鬼太郎たちが帰るまでに部屋を暖めておこうと誰もいない部屋の襖を開けた。
 廊下と同じ冷えた空気がそこにあると思われた居間に、こちらを背に畳に座る後ろ姿がある。
 白い髪に縹色の衣を纏うすらりとした背、見るにどうやら男のようである。記憶にある男の姿が重なり、まさかと思う。
 部屋は暖まっていて、襖を開けたことで温ぬるい空気が外に溢れ顔に当たる。
 水木が声を出せずにその場に立ち竦み、ただじっと見ていると背を向けていた男がゆっくりと振り向いた。
 白い髪の合間から大きな目玉がぎょろりと覗いて赤い瞳を光らせる。水木を真っ直ぐと見つめるその顔は紛れもなく。
「ゲゲ郎……
 掠れた音で名を呼ぶと男がにやりと笑う。
「おかえり、水木」
 それに確信を持って水木は部屋に駆け込んだ。
「お前、ゲゲ郎!体がっ!」
「ふふっ、ははは、取り戻したぞ」
 どたどたと目の前に近寄って崩れるように膝を畳につかせ、男の肩をひっ掴む。
 驚きとどこか泣きそうな顔で「体が!」と叫ぶように言う水木をゲゲ郎は笑いながら腕に閉じ込めるときつく抱き締めた。
……良かったなぁ」
 暫し、ふたりしてお互いをぎゅうぎゅうと抱き締めるだけで言葉は無かったが、鼻を啜った水木が涙声でぽつりと噛み締めるように言った。
「有難う」
 ゲゲ郎もまた静かに答える。そうして水木が落ち着くのを待って体を離すと柔らかな笑みを浮かべた。その大きな手のひらを水木の頬に添え、少し赤くなった目元に残る雫を親指で拭う。
「これでワシもお主の涙を拭ってやれる」
 泣くのはいつも目玉で、その涙を拭うのは水木だった。いつかの酒の席で「お主の涙もワシが拭ってやるからのう」と言っていたのを思い出す。その事を言っているのだと気づいた水木は笑って返した。
「俺は泣かないが、もしあるならその時は頼むよ」
「ああ、任された」
 にこにこと嬉しそうなゲゲ郎を見ていると本当に良かったと心から嬉しく思う。鬼太郎もきっと喜ぶだろう。そう考えた水木はハッとする。
「鬼太郎はどこだ?」
「ああ、大丈夫じゃよ。少し別に動いておっての。もうすぐ帰ってくるじゃろう」
「お前の体が戻ったことは知っているのか?」
「勿論。それで今夜はその事で少々家を空けるのじゃが水木に伝えておこうと思うてな、ワシが先に帰った」
「そうか……
 ひとまず水木は安心すした。すると今度は疑問が湧く。怨念に蝕まれて体は崩れ、目玉だけになってしまったゲゲ郎、それがこうして全て蘇るなど何があったのだろう。
「そういえばなんで戻れたんだ?」
「ううん、話せば長くなるのでな、また時間のある時でも良いか?」
「ああそれは構わないが……
「色々と都合の良い事があってのう」
 長くなると言いながらもゲゲ郎が話し始めようとしたその時、ガラリと玄関の横開きの戸が開く音がした。
「ただいま帰りました、父さん」
 開け放したままの襖から部屋の中へ鬼太郎が入ってくる。茶色の柔らかな色合いをした髪の毛の合間から覗く大きな目がきょろりと動いて水木を見た。
「水木さんも帰っていましたか、おかえりなさい」
「ああ、ただいま。鬼太郎もおかえり」
 挨拶もそこそこに親子ふたりは慌ただしく出掛けていった。
「今晩は遅くなるから温かくして先に寝ておれ」
 水木はゲゲ郎に頭を撫でられ、その子供扱いに思うところがあるものの擽ったい気持ちで黙って受け入れた。高い位置からの声と大きな手のひらがゲゲ郎に元の体があることをじんわりと実感させ、込み上げるものがあり手を払うことはできなかった。
「ああ、気をつけてな」
 まだまだ話したい事も聞きたい事もあったが、ふたりが帰ってきて落ち着いてからだな、そう思って見送った。





 冷える夜半、一人きりの静かな家。冷気から逃れて布団に潜り込み、眠っていた水木の意識が掬い上げられるようにして浮上した。
 ガタン、と一つの物音が耳に届く。
 暗闇の中、目を開けてじっと耳を澄ます。ガタ、ギシと床の鳴る音。近付いてくるそれに水木は音を立てずに布団から身を起こした。
 耳を澄ませながら襖の前に移動する。床の軋む音と共に微かな声がして、その聞き覚えのある声音に水木は緊張を解いた。
「ゲゲ郎?」
 襖を滑らし廊下へ出る。のっぺりとした暗闇に染められた廊下の奥にぼんやりと白い頭が見える。
 水木の呼び掛けに幽霊のようにふらふらと揺れていた体がぴたりと止まり、その顔を上げた。
「みずきぃ」
 表情が無いのに目が据わっている。様子のおかしさに水木が近寄ると、今程までしっかりと立っていたのが嘘のようにふにゃりと水木方へ倒れかかってくる。
「うわっ、ちょ」
 支えるように手を伸ばして受け止めるも咄嗟の事で、男の凭れかかる重さに耐えきれずふたりして廊下に倒れ込んでしまった。
 押し潰されるように男の下敷きになった水木が重さにうめく。
「う、重た……大丈夫か、ゲゲ郎」
 水木の案じる声に肩口に顔を埋めるようにしていたゲゲ郎が顔を上げた。
「すまぬ、のみすぎた」
「うわ酒くさっ! 呑んできたのかお前」
「祝いじゃと言われて断れなんだ」
「それにしても呑み過ぎだ。こんなになるまでとは珍しいな」
 若干呂律が怪しいものの、様子がおかしかったのはただ酔っていただけと分かった水木はさっさと退くように言う。
「重いから早く退いてくれ」
「いやじゃ……みずきぃ……離れとうない」
……急にどうした?」
「離れとうないんじゃ……
「わかった、離れなくていいから上から退いてくれ」
「いやじゃ」
「重たいんだが」
 冷たい廊下で繰り返される問答。ひどく酔っているのか話を聞かないし肩口にぐりぐりと頭を擦り付けてくるのがぐずった子供のようである。まだ鬼太郎が小さい頃、いやいやするのを腕に抱えた時もこんなだったなぁと懐かしい記憶を思い出す。
 冷えた床板で背中はすっかり冷たくなってしまったし、大き過ぎる駄々っ子を腹に乗せている今の状況におかしさが込み上げる。こんなとこでふたりして倒れたまま何をやってんだか、と水木は笑った。
「ほら、寒いから部屋に入ろうぜ」
 ゲゲ郎の背を軽く叩いて促すと今度こそ素直に体を離した。
 しかし、上半身を起こしたゲゲ郎が水木の上から退かない。
「どうした?」
 それ以上動かずじっと見下ろしてくる男の視線か冬の冷気に冷やされたせいか、そわりと背筋が震える。
「みずき、ワシはかわいいか」
「は? なんだ突然」
 酔っ払いはまた突拍子も無い事を言う。
「水木は目玉のワシをかわいいと言うてくれたじゃろう。今のワシでもかわいいか」
 確かに言ったな、と思う。目玉が可愛かったのは事実、このでかい男が可愛いのかは正直あやしかったが否定すればまた要らぬ問答が始まってしまいそうだと思った水木は答えた。
「ああ、お前はかわいいよ。だから退いてくれるか」
 これ以上は付き合ってやれんと調子を合わせておく。
「嘘じゃな」
 一言、ゲゲ郎が発したそれに周囲の空気が一段下がった。大声を出されたわけでも叱責されたわけでもない。批判的に指摘するような声色でもない。同調のために吐いた言葉は確かに本心ではなかったかもしれないが嘘のつもりもなかった。しかし嘘だと断定されたことで図星を突かれたような心地になった水木は思わず口を噤んだ。
「目玉の時は……あれほど可愛がってくれたというのに……この体のワシはもう、可愛くないか?」
 どうやらゲゲ郎は怒っているわけではないようで、どちらかといえば悲しげな様子でぽつりぽつりと言葉を落とす。
「この手で優しく包んで、指先で撫で……口付けまでしてくれた」
 水木の手を取ると両手で包むように握り、口元へ持っていく。そうして冷えたその指先に男の唇が触れた。
「あ、れは……っ、目玉の姿だったから」
 驚いた水木が男の手を払うような勢いで自分の方へ腕を戻すと男はじとりと据わった目で水木を見下ろした。
 可愛い可愛いと目玉を愛でたのは酒の力によるものが大きかったし、子供や飼い猫にするような気持ちが多少なりともあったのだとは正直言いづらく、咄嗟に言葉を濁す。
「ほう? ではお主はその気も無いのにワシにあんなことをした、と……男の心を弄んだんじゃな……?」
「もっ、弄んだなんて……! 人聞きの悪いこと言うなよ」
 それではまるで水木から誘いをかけておいて、その気になったゲゲ郎を袖にしたような言い草ではないか。いや待て、その気に、とはなんだ。ゲゲ郎はその気になったということか?
 ぐるりと巡る思考に気を取られている水木の上でゲゲ郎はひとり喋り続ける。
「いつも随分と楽しそうにしておったじゃろう……そうじゃ、今度はワシにもやらせてくれんか」
 良いことを思い付いたとばかりに嬉しそうな、そして愉しげな顔でにっこりと笑う男に見下ろされ、水木は逃げる機会を失った。
「うんと可愛がってやろうな」
「は、?」
 言うが早いか男は水木の腕を掴み引き起こすとそのまま肩に抱え上げ、水木の出てきた部屋の方へと進む。中に入ると開け放たれた襖をぴったり閉じ、襖同士の合わさった縁を人差し指で上から下へとなぞる。するとビシリと軋む音を立てて部屋の空気が変わった。
 肩の上に担がれた水木にもそれが感じられた。ゲゲ郎が何かしたのだということは分かるが何が起こっているのか分からない。状況の説明が欲しい水木は不安げな声色で「ゲゲ郎?」と男の名を呼ぶ。
 それには答えず、確認するように部屋を見回した男はこれでよしと頷き、敷かれた布団の上へ水木をそっと下ろした。
 一度男の手が離れた事で体勢を変えようと身動ぎした水木の動きを止めるように再び男が覆い被さる。布団に押し付けるように肩を上から押さえ、腰の帯に手をかけて緩めていく。
「うわ、待て待て待て!!」
「待たぬ」
 脱がそうとする男の手を慌てて掴み、止めようとするが力が強い。力で敵わぬならば口で止めるしかない水木は怒ったように声を荒げる。
「いきなり何すんだ!」
 ゲゲ郎がぴたりと動きを止めた。
「確かに少々性急であったかのう」
 水木の手を取り、背に腕を回すと抱き起こす。ゲゲ郎は掴んだままの手をぎゅうと握りながら水木と視線を合わせた。その真剣な顔に水木はひとまず話を聞くことにした。
 ふたりは向かい合うように座り、どこか緊張した面持ちのゲゲ郎が口を開く。
「水木や、ワシと添うておくれ」
 ふたりの間に沈黙が落ちる。
「添う、とは」
 戸惑いからか、水木の口から思いの外か細い声が出た。
 言葉は理解できてもゲゲ郎の意図が分からない。自分たちの仲だ、まさか惚れた腫れたではあるまい。添う、には何か別の意味か事情があるのやもしれないと考えた水木は男の言葉を待つ。
 怪訝な顔をした水木へゲゲ郎がはっきりと告げる。
「ワシの伴侶になってほしいということじゃ」
「なんで、そうなるんだ?」
 今度は間違えようのない言い方であって、聞き間違いだとか別の意味があるなどという想定も崩れ去る。
 水木の頭が疑問と混乱でいっぱいになる。今の状況が信じ難い。友から告げられた思いもよらない申し出、常には無い熱を持った視線に焼かれ、逃がさないとばかりにきつく握られた手は痛いほどであった。
「ワシらは同じ気持ちじゃと、確かめあったではないか」
「は? それはいつの話だ……いや、ちょっと待てお前、それはえーと、おかしい。酔っておかしな事を言っているぞ」
「酒は呑んだがワシは正気じゃ」
「いーや、酔って自分が何を言っているか分かってないね」
 混乱の末に水木が導き出した結論はゲゲ郎は酔っていて正気でない、ということだった。この話を先延ばしにして流してしまおう、ということでもある。
「ワシには毒物が効かぬ」
「ん?」
 しかし酔っているにしては至って冷静で、帰宅時の呂律の回らなさが嘘であったようにしっかりとした口調で男は話す。
「ワシは酒に酔いたいと思えば酔えるし、酔おうと思わねば酔わん。その気になれば体内の酒気などすぐに消せる」
「いやそんなわけあるか」
「幽霊族じゃぞ」
 その言いようがあまりに自信たっぷりな顔をして自慢気なものであったから、そんな男を前に水木は一瞬それもそうだなと納得しかけた。
……いや、まさか」
 酒には酔うだろ、と続けようとした水木の言葉の前にゲゲ郎が再び話し出す。ずいとその顔を吐息がかかりそうな程の間近へ寄せられたその勢いに水木は口をつぐんだ。
「ずっとな、思っておったよ」
 男は訥々と話す。
「目玉だけになっても、ワシはなんとかなる。大抵のことはできるからのう。お主に可愛がってもらうのも悪くなかった」
「じゃが、度々たびたび考えるようになったんじゃ……昔のような体があれば、と。お主をこうして、組み敷いて、体を暴いて、可愛がって、全てワシのものにしてやりたいとな」
 男の手が水木の胸元に添えられ、体の形を確かめるようにゆっくりと腹の下まで大きな手のひらで撫で下ろされる。
「お主は……ほんに無防備にワシを煽りよって、目玉であれば良いと思うたか?」
 大きな目玉が水木の青い瞳を覗き込む。
「どうせ目玉には何も出来ぬと」
 吐き出される男の欲に染まった言葉。唖然として聞いていた水木は腰を掴まれて再び布団へ倒されそうになったことで我に返り、慌てて話を遮った。
「いや、まって、まってくれ!」
 次いで腰を掴む手を外そうとするがまたこれが固く動かないので、仕方なく手を突っ張るようにして男の体を向こうへ押しやる。倒されきってはいないが後ろに倒れて肘で体を支えている、その上にゲゲ郎が覆い被さるように迫る今の状態は非常に不味い。
「俺はお前のことは友で、その……烏滸がましいかもしれないが家族だと思っていてだな、それだから好きだと……
 しどろもどろになりつつ自身の言い分を話しながら水木は頭が痛いような気がしてきた。友に求婚されて押し倒されている状況が飲み込めなさすぎる。
……ふふ、そうとも。お主はそうなのじゃろうと思っておった」
 違うと分かっていて何故、と目を見開く水木を男は大きな丸い目を弓なりに細めて見下ろす。その口元にはうっすらとした笑みが浮かんでいる。
「じゃがもう遅い、ワシは以前『同じ気持ちか』と聞いたぞ」
 水木は記憶の箱をひっくり返すが全く覚えが無い。
「お主はそれに答えたな『そうだ』と。忘れたか」
「お、覚えて、ない……
「ああ、お主はだいぶ酔うておったものなぁ。それでな、『ワシとずぅっと一緒にいてくれるか』とも聞いたがこれは?」
 ゲゲ郎は嘘を嫌う。そして以前、妖怪との約束は決してたがえられぬのだと話していたことを思い出す。思い出したいことは思い出せないのに、都合の悪いことを思い出してしまった。
 水木が思い出せないだけでそれは本当にあった会話なのであろう。強気でしらを切り通せば、何か不味いことになりそうなこの場を切り抜けられるだろうか。
「覚えてない……
「くくくっ、お主は『お前が望む限りは』と答えよった」
「う、ぐ」
「嘘ではないぞ、覚えておらんようじゃがのう? 水木や、お主はワシにこれも約束してくれた」
 まだ何かあるのか。自分は一体何を言ったんだと恐ろしくなる。
「なに、を」
「『お前の欲しいもの、したいことは全部してやりたいんだ。俺があげられるものは何でもやる』と」
 言ったかもしれない。ゲゲ郎に何かしてやりたい、この親子がこの先も健やかでいて多くの幸せがある日々を送れるようにというのが水木の願いであったから。
「嬉しかったぞ……ほんに、ワシは嬉しかった」
 その時の事を思い出しているのかゲゲ郎は目を閉じてほぅと熱っぽい吐息を零した。そして薄く目を開けると悪戯っ子のように口端を吊り上げ、その鋭い歯を剥き出し笑う。
「それじゃあ水木が欲しいと言うたら、『もうお前のもんだよ』と笑って応えてくれてのう! あの時のお主はなぁ、それはもう愛らしゅうてたまらんかった」
「それ、はこういう意味じゃ……、ない」
「こういう意味じゃ、ワシが言うたのは」
 否定をバッサリと切られ、水木は息をつめる。ゲゲ郎の大きな両の手が水木の顔を包むように両頬に添えられる。焦点が合わず、相手の顔がぼやけるほど近くへとゲゲ郎は水木に顔を寄せた。
「水木はワシが嫌いか?」
「嫌いじゃ、ない。そんなわけない。でも」
「ワシと添うのは嫌か」
「嫌とかいう問題じゃないだろこれは」
「ワシが相手で嫌でないならば、お主を抱きたい」
 ふたりの鼻先が触れ合い、こすれる。額同士が合わさり、頭髪が混じり会う。
 男の声と水木へ向けられた情欲が触れ合う部分を通して直接体に染み込んでくるような気がして、頭の中がぐらりと揺らいだ。
「この先を共に生きたい。ワシと共に在りたいと、お主もそう思ってくれているのだと、思っておったのじゃが」
「それはそうだが、なぁ、もう止めよう……
 大きな手のひらに固定されて頭が動かせない水木は目の前の男から逃げるように目をぎゅうと閉じた。
 当然のことながら目を閉じたくらいで逃げられるはずもなく、瞼に柔らかなものが押し付けられて微かに濡れた音が聞こえる。それが男の唇であるのが水木にも分かった。
 そのまま唇を瞼に触れさせたまま、ゲゲ郎が獣の唸りのように低く囁く。
めぬ。今更もうめられぬよ」
 水木はここに来て漸く実感した。最早この状況を止める術は無いということを。
 そもそもだいぶ以前に、既に水木の全てはこの男に明け渡してしまっている。思い出せてはいないが目玉のゲゲ郎とした約束もきっと水木が本心から良いと思って結んだのだ。その時の自身はひどく酔っていたのかもしれないが、考えてみれば今の水木であっても同じように返したに違いない。
 目の前のこの男が望むなら、俺にできることはなんでも。その気持ちは決して嘘じゃない。
 恐る恐る開いた目に映るのは水木を喰らおうとする恐ろしい形相をした男ではなく、縋るような目をして泣きそうに顔を歪めているゲゲ郎だった。
 目玉であった頃と同じ、表情豊かでその顔を見ればゲゲ郎の感情がよく分かった。水木への好意と拒絶されることへの恐れ、失う悲しみと寂しさ。ずっと笑っていて欲しいと願う相手が目の前で泣いている。そしてそいつを泣かせているのは俺か、と気付いてしまえば何をすべきなのかは明白だった。
「お前はまた泣いて……、次は俺の涙を拭ってくれるんじゃなかったのか」
 水木はゲゲ郎の頬を伝う涙を親指で拭った。
「分かった。このまま抱いても、いい。俺はもうお前のもんなんだろ?」
 次から次へと溢れる涙を指先で拭うには追い付かず、水木の顔にも滴り落ちてくる。
 水木が体の力を抜くと今度こそ布団に仰向けになる。ゲゲ郎も水木の顔から手を離すとそのまま被さるように水木の顔の両側に腕をついた。
 雨のようにぽたぽた落ちてくる雫を受けながら水木は大事な友を見上げる。
「好きじゃ……水木が好きなんじゃ」
「俺も、好きだよ」
 水木は少し身を起こして友の涙を舌先で舐め取り、少し赤くなった目元に唇を寄せた。早く泣き止んでくれるよう願いを込めて。
 ゲゲ郎と同じ『好き』であるかは分からない。おそらく少し違うのだろう。でも今はそれで良いと思った。