χχχ-medµme 秘匿破りのルセット(舐めニキの長編|冒頭部)

もったいない精神で載せます。倒叙方式のミステリーが書きたくて、舐めニキに全てを託しました。
様子のおかしいショコラティエ、舐めニキことミカエル=クロー・マクシミリアンと、盲目の神秘秘匿執行官 チェチーリア・ストロンスカヤがバディとなり、奇奇怪怪な事件を解き明かします。
※以前カクヨムに載せてましたが、続きが思いつかなかったので下げました。一旦書けてる部分まで載せます。





 チェチーリア・ストロンスカヤは、つま先をコツコツと鳴らした。
 濃いグレーの芦毛、頭から突き出た馬の耳が周囲の音を拾い──人間の耳であれば静寂そのものであったが、彼女の耳には拾い切れないような小さな音でさえ届いている。

 原種の馬と遜色ないほどの耳は、もはやソナーと同格の性能であった。潜水艦には程遠い少女のような馬子まごは、その芦毛耳で来訪者を気取る。

 教会の内部を僅かに揺らす空気の振動で、チェチーリアは推定する。其が何であるのかを。来訪者が何者であるのかを。

 降り注ぐ陽光はベールのように彼女を覆う。壁に、天井に描かれたルネサンス式の絵画に飲まれることのない強烈な気配を湛えた牝馬は、来訪者が唇を引いて笑ったことさえ、彼女には振り返らずとも十分理解できた。


「どこで油を売っていたの?」

 チェチーリアの口から刺々しい言葉が飛び出した。空気を揺らすそれは、豊艶さを備えた声で返す。

「たった二分の遅刻で油を売っていることになるのかい? 君は本当に、味わい深い、アフォガードのようなレディだ」
「あんたを数秒でも放置しとくと何をしでかすかわかったもんじゃないもの」

 チェチーリアはステンドグラスの方へ耳を向けたまま、冷たく突き放した。しかし来訪者は、

「ふふ。ずっと僕を見ていたいだなんて……なんて罪な男なんだろう、僕は」
「耳に泥水が詰まってるみたいね」


 呆れて言い返す気力も失った表情を浮かべ、来訪者──ミカエル=クロー・マクシミリアンには振り返らず言葉を返した。

 その眼はミカエルを写してはいない。ただ彼女の耳が彼の姿形を細波のように象る。

 彼女の瞳には夜だけがある。しかし常に届くしっちゃかめっちゃかな波の音、もういいと言いたくなるほどの煙るような花の香り、その喧しさときたら。
 ミカエルの気配であれば、一キロ先からでもわかる。チェチーリアは本気でそう思った。


「ところで、私は自己紹介をした覚えはないのだけど。どうして私のことを知っているのかしら」
「植物は何処にでも生えるということさ。君だって見たことがあるだろう? 石畳の隙間から芽吹く花を」
「答えになっていないわ」

 チェチーリアは耳を頭につくほど引き倒して、怒りを露わにした。
 馬子の耳と尾は、表情よりも雄弁に感情を語る。ミカエルは口元に柔らかい微笑みを浮かべた。

「せっかちだね。チョコレート作りには忍耐と繊細さ、そして度胸が必要だ」

 ミカエルは革靴の音を響かせ、チェチーリアへ一歩、また一歩と近づいてくる。
 靴音の間隔から判断して、彼は背が高いのだろう。また鷹揚に──どこか傲慢な節がある。胸を張って歩いていることが容易に想像がつく。

「何の話?」

 チェチーリアは一つ、声を発する。ミカエルは彼女の四歩手前ほどで止まった。

「美学の話さ。チェチーリア・ヴァレンタイン・ストロンスカヤ。君は蝶が羽化する瞬間の音を聞いたことがあるかい?」
「少し見直したわ。貴方、単なる愚か者ではないのね」
「愚か? それは僕に言っているのかい?」

 牝馬のヒールブーツ、そして蹄鉄が軽やかな音を立てた。ミカエルを満月の夜を宿した双眸が覗き込んでいる。水晶体が白濁しているわけではない。

 故にミカエルは気づいた。これは何かを得るために、何かを捧げた痕跡なのだということを。

「芸術家というのは、俗世を真っ当に生きている存在からすれば、愚か者に見えるのだろうね。でも真っ当に生きるだけなんて、つまらない……そう思わないかい? せっかく人の身を得たんだ、この世の全てを舐め尽くさないと、勿体無いだろう?」
「それが使徒を無闇に増やす理由かしら」
「なんだ、君もその話をするのかい? 別に僕は人類へ敵対する意志はない。ただ舐め尽くしたいだけさ」
「舐め、……って……何を」

 チェチーリアは暫し、唇を結ぶ。
 本来ならば今すぐにでも剣を抜くべきなのだろう。ヴァチカン神秘管理局──彼女が籍を置き、この世の神秘や幻想を秘匿する機関は、眼前の男を警戒していた。
 チェチーリアは人間社会に悪影響を及ぼす幻想を殺すさだめを背負っている。その役目に則れば、当然そうすべきだった。

 牝馬は暫し考える。
 眼前の男が人間社会に悪影響を及ぼしていないか?
 考えるまでも無い。大ありだ。

「君の聞きたいことを、当ててあげようか。チェーリャ」
「何でそのあだ名を」

 彼女はわかりやすい動揺を見せた。ピンと立った耳が真っ直ぐにミカエルの方を向いている。

「イタリアに来たら──まず行くべき観光地、七選だ」
「誰も興味ないわよ」
「そんな! どうしてだい!? 確かに君はとっても真っ直ぐで、そう──天へ向かって伸びゆく、サトウキビのような心の持ち主だけど、イタリアだよ? 美の発信地たる、このイタリアを舐め尽くしたくないのかい!?」
「そもそもフィレンツェ在住なんだけど」

 ミカエルは両腕を大きく広げたまま固まった。そして目を伏せ、唇に静かな微笑みを湛える。
 ちちち、と遠くから響く鳥の囀りに気を取り直して、チェチーリアは続ける。

「私はヴァチカン神秘管理局から派遣されてきたのよ。それは知らなかったようね」
「ふうん、なるほど……つまりヴァチカンは、とっても不安なんだね。僕が、うっかりみんな人類に愛を振りまきすぎて……みんなが、僕のスウィートハートになってしまわないか」

 そう。この男の言っていることは、正しい。
 言い回しはかなり気色悪いが。
 チェチーリアは脳裏でそう思う。

 事実、ヴァチカンはミカエル=クロー・マクシミリアンという存在をかなり警戒していた。
 無秩序に己の使徒を増やせる力。人間を狂わせる甘美な囁き。そして何より厄介なのは、この美貌だった。これこそ、チェチーリアが今回彼の監視者に選ばれた理由である。

 めしいであれば、見掛け倒しの美貌に──その奥にある強烈な神秘の形に、魅入られることはない。

 それがヴァチカンの考えだった。

「でもね、チェーリャ……僕は何も、無秩序に種子をばら撒いているわけではないよ。僕は僕の美学に則って、使徒を選ぶ」
「さっきも言っていたわね。美学って」
「茨の道を歩んでなお、魂の眩い輝きが、決して曇らない者。それが、僕が使徒を選ぶ条件さ」

 その言葉には強い憧憬が滲み、彼の口調には激しい熱が篭っていた。
 特定の誰かに対して、恋慕にも似た強烈な執着を抱いているのは想像に難くない。

 神秘生命体が人間に強い執着を抱くのは、今に始まった話ではない。
 だがそれは決して良い後味を残さず、大抵人間の側に悲劇を与える。チェチーリアは、きつく唇を噛んだ。

「なら。ジェニファ・ロレンソは」
「ジェニファ? ああ、彼女はとっても、愛らしい子だね。僕が誰かに取られてしまうかもしれないからって、この胸に深々とナイフを突き立てたんだ……

 ミカエルは己の胸に左手を当てた。傷など、きっと一切ありはしないその場所に。
 神秘生命体は死なない。まず人間に完璧な擬態ができるほどの神秘を、一般人が殺すなど不可能だ。

 チェチーリアは思う──こいつは、敢えて刺されてやったのだ。
 ジェニファはきっと心の底からミカエルを欲した。そして彼はそれに応えた。

「あの子は砂糖菓子のように甘く、けれど舌に残る苦さもある。僕は逃げたりしないよ」
「そのジェニファ・ロレンソが死んだのよ」
「おや」

 ミカエルは目を丸くした。ざわりと空気の手触りが変わり、チェチーリアの世界に満ちる砂粒が蠢く。

「完全に舐めていたよ。僕はあの子を告発しなかった……する理由も、なかったしね。だというのに、まさか……
「自殺じゃないかって思われてるわ。首を吊っていたから」

 フィレンツェ郊外のアパートで、その女性は死んでいた。
 数刻前のことであった。何度呼びかけても出てこないのを不審に思った友人が、大家に頼んで鍵を開けてもらったのだ。

 彼女は振り子になっていた。
 ゆら、ゆら、と──首を天井から吊って。

 だがそこには単なる自殺ではあり得ない痕跡があった。
 花弁だ。大量の真っ赤な花弁が室内に撒き散らされており、明らかに自殺とは思い難い室内を呈していたらしい。

「自分で、自分の命を……手折るなんて。ああ、悲劇だよ!」
「あなたがそれを言うの?」

 チェチーリアの言葉には強い棘があった。ミカエルはささくれ立つ彼女をあやすような、随分ゆったりとした声音で、

……ん? チェーリャ。もしや君は、僕が彼女を殺したと、そう思っているのかい?」
「あなたが彼女の暴力を許容したのは、人間なんてどうとでもできるからでしょう」
「否定はしない。でも、そんなことは決してしないよ」
「何を根拠にそんなことを」

 チェチーリアは耳を引き倒す。
 一歩、また一歩と彼女の方に革靴の音が近づき、その度にざわざわと、植物同士の葉が擦れ合うような音が彼女の耳を叩く。
 昏い砂粒が揺らめく世界に、決して無視できない気配と甘ったるい花の匂いが立ちこめる。

「だって僕は、人間が大好きだからね。積極的に殺そうだなんて、そんなことは思わないよ」

 ミカエルは目を瞬かせて、

「君の瞳は、まるで星月夜、だね」
……

 チェチーリアは何も言わずに黙ったまま、一歩手前にいる男へ耳を向ける。

「それにね、チェーリャ。僕がジェニファを殺すのは、どう考えても無理な話なんだよ」
「一応、弁明は聞いてあげるわ」
「ああ! そうかい? ありがとうチェーリャ……

 ミカエルはそう言って、おそらく──顔に手を当てがった。そして絶妙に腹立たしく、本人的には麗しい動作をしながら、こう言った。


「僕はね、今日はとっても真面目に、一日中チョコレートとキスしていたんだよ!」


 その男は自信満々にそう言って、豊艶な微笑みを浮かべた。どうだい? 完璧な弁解だろう? と言わんばかりの空気に、チェチーリアは思わず、

「食品衛生法違反で通報しておくわ」

 と言って、ポケットからスマホを取り出した。