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ugmm_
2025-12-24 17:25:29
40662文字
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現パロ
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永遠のまなざし
現パロ。
ハミハス。ハスドゥルバルがハミルカル以外と付き合っている。暴力の描写あり。他にどこに注意書きが必要かよく分かりません。ハスドゥルバルの話を書きそうにないと言ったのは、嘘です。
肌に触れていた温もりが離れていったせいで、深く沈みかけていた意識が浮き上がる。
ベッドを抜け出して静かに部屋を出ていく気配に、時計を見ずともまだ早朝と言っていい時間だと分かった。外は暗く想像するだけで身が竦むような寒さだろうに、どうせまた走りにでも行くのだろう。大体眠りについてから三時間にもならないのにどこにそんな元気があるのか、それも若さのなせる技かと、取り留めのないことを思いながら隙間を埋めるように布団を体に巻きつけた。
玄関の開く音を、彼が出ていったのだろうと聞き流した。隅々まで均一に温められたこの部屋を出ていく理由などひとつもないとしか思えないのに
……
そんな思考が端から解けて眠りにまた指を引っ掛けたところだった。まだ部屋に人が残っている物音がすると気がついたときには。
足音がふたつだ。そこでやっと、ハスドゥルバルは目を開いた。気怠い体を起き上がらせる気にはならず、耳を澄ませていると、「うわ」だか「えっ?」だかいう素っ頓狂な声が聞こえる。会話にはならなかったのだろう、スリッパを履いた足音が寝室の前に戻ってくる。
振り返り振り返りといった様子でドアを開いた青年は自分の荷物を抱えていた。
「あの、なんか邪魔みたいだしおれ帰るね」
かわいそうに萎縮してしまって、それでも律儀にそう言いに来たのを、ハスドゥルバルはただ微笑んでその頬を撫でてやり起き上がらずに見送った。今度は玄関が閉まって、物音は途絶える。
しばらく、もう一度眠りの尻尾でも捕まえられないかと粘ってみたが、渋々起き上がることにした。あまり長いこと知らんぷりしていると臍を曲げてしまうかもしれない。
何も身につけていなかった体にガウンを羽織って寝室を出る。カーテンの開いたリビングには朝焼けの色が映り込んでいた。
「戻られるのは週明けかと」
ソファに座った後ろ姿に声をかけると、予定が変わったと振り返らずに返事がある。その手元でタブレットの光が薄暗い部屋に浮かび上がっていた。
「まっすぐお帰りになられればいいのに」
「あまりにも早い時間に帰ると嫌がられる」
「ハンニバルは喜んでくれるでしょう?」
「あの子が気付いて起きるから嫌がられるんだ」
嫌がられるのは夫人に、ということだろう。
ハミルカルにマンションの部屋の鍵を渡したのは失敗だったかと思うことがあった。ここで時間を潰してから帰ったのを知れば彼の娘たちは小言さえ言ってくれないだろうに。
ソファの背凭れに肘をついて覗き込むと、タブレットで子供の写真を見ていた。留守中に送られてきたものらしい。まだ幼い長男が宿題をこなしている様子は、姉弟の誰かが撮ったのだろう。少しぶれている。
ハンニバルがかつてのことを何も覚えておらず、八歳となったいまも思い出す兆候さえなくとも、ハミルカルはあの特別な子供を愛し続けた。相変わらず大人が唖然とするほど聡く、そのうえ仕事で家を空けがちな父親の帰りを聞きつけて玄関で待ち構えるのだから、可愛くて当然だった。
一週間あまりの海外出張、おそらく妻と七人の子供全員に土産を用意しているだろうハミルカルは、常以上に目つきが悪かった。眠いのに頭が冴えてとても眠れそうにないという横顔だ。こちらとしてもまだ眠い。あの青年と怠惰に過ごすつもりだった休日だが予定が変わってしまった。
「好みが変わったな」
出し抜けにそう言われて、身を乗り出す。目線を合わせるとハミルカルはこちらを一瞥し、その視線はハスドゥルバルの顔から首元へ動いた。そこがどんな有様かは鏡を見なくとも分かっている。
「付き合ってみると可愛いですね、年下の子も」
その点で彼がこれまでと傾向が異なるのは事実だった。気持ちの上ではともかくそれほど大きな歳の差があるわけではなかったが、瑞々しいまでの若さが見ていて楽しかった。こちらが本気でないのを分かっていて、それでも僅かな可能性に賭けているところは困るが。
「年寄りくさいことを言う」
「私たちみんなそうでしょう? でもそろそろ自由にしてあげるべきかな」
こうして成人してしまえば兎も角子供のうちは、周囲にいる同年代をとても対等とは思えず、まして恋愛の相手にすることに嫌悪さえ感じる。肉体と精神、記憶、そのすべての噛み合わなさは友人として溶け込むことさえ時に難しくした。
ハミルカルは、きっとそんな悩みを持たなかっただろう。あの時代を共に過ごした者たちの多くがその身辺にあり、彼が求めたのは新たな関係ではなく、かつてと同じ家族だけだったのだから。
「お休みになって行かれるなら、客間のシーツは綺麗ですよ」
肩に軽く触れ、そばを離れる。自分は風呂にでも入ろうかとリビングを出ていくハスドゥルバルを呼び止める声はなかった。
ハスドゥルバルはハミルカルにこの部屋の鍵を渡し、家主がいるいないに関わらず頻繁に訪れる彼のために客間を整え続けていた。マンションはオフィスにほど近く、自宅に戻るほどの余裕がないような時は大抵ここで休んでいく。
バスタブに溜まる湯をぼんやりと眺めながら、これもいつまで続くのだろうかと思う。
再び出会ってから今日まで、同衾をしたことはない。ただの一度も。より正確に言えば、夫妻の婚前契約にある通り粘膜や体液に触れる行為をしたことはない。夫妻が離婚に至っていないということは、夫人にそれを信じてもらえているということだった。
彼らの長女は既に十九歳、ハンニバルは八歳になり、末子であるマゴーネもこの秋に小学校に入学した。かつて離れ離れになった時期に差し掛かっていたが、姉弟たちは平穏に仲睦まじく暮らしている。両親が互いへの愛情で繋がらず、婚姻に関する詳細な契約を交わしており、しかし家族としての情で結びついていることを、娘たちは知っており息子たちは知らない。
ハスドゥルバルがあの家族と関わりを持って十年になろうとしているが、ハミルカルはうまくやっていると思う。狂おしい執着に端を発するにしては。
半ばまで溜まった湯に指を浸すと痺れるほど熱い。それが沁み入ってこない指先の冷たさがいつまでも消えなかった。
雪が降り積もる寒い日だった。
年末を母の実家で過ごすために飛行機での長い移動を終え、幼かったハスドゥルバルは車の後部座席でうつらうつらとしていた。両親や兄姉が楽しげに話すのを聞き流し、車窓の外に流れる街の景色がイルミネーションに彩られ華やかなのを楽しむでもなく眺めていた。
ハスドゥルバルは同じ両親のもとに、年の離れた兄姉と共に生まれた。かつての自分が彼らに残酷なことをした自覚はあったので、過剰なまでの庇護と愛情に包まれるまま包まれて、裕福な家庭で一切の不自由なく暮らしていた。
けれど、あるいはだからこそ。それは目の覚めるような鮮やかさを持って現れた。車が渋滞に嵌りのろのろと進むなかで、彼らの姿はあまりにもはっきりと視界に飛び込んできて、見間違いかもと思う余地さえなかった。
新市街、商業施設が並ぶ通りにある広場で、その足元の覚束ないほど幼い少女が、両親と手を繋いで積もった雪を踏み締めていた。少女はブーツを履いた足が雪に埋まるごとに可笑しげに笑って、母親を見、父親を見た。どちらもその視線に応えて笑ったり何か言ったりして、三人はまるで平凡な家族のように見えた。
ああ、あの子はまだ何も思い出していないのだ、そう思ったとき、窓に触れた指先がひどく冷たかった。
「ハーシィ、どうしたの?」
窓に額をくっつけて外を見つめる我が子に、隣に座っていた母は何か面白いものがあるのかとその視線を辿った。広場に設けられたスケートリンクや立ち並ぶ屋台に興味を惹かれているのかと微笑ましく思い、けれどすぐに、彼女もハスドゥルバルと同じものを目にした。
母のか弱い手がハスドゥルバルの目を覆って、強く後ろに引き倒した。
幼い子供から少年へと移り変わる頃だったけれど、ハスドゥルバルはまだ母がその腕に収めることのできる体躯でしかなかった。抱き竦める腕は次第に震え始め、どうしたのだと問う父が窓の外を見る前に、車は速度を上げた。
「お母さま」
ハスドゥルバルが母の腕を心地よく感じること、彼女を大切に思うことに偽りはなかったが、母がこの十年ほど悲痛なまでの切実さで重ねてきた努力が水泡に帰したこともはっきり理解していた。
「お母さま、心配なさらないで」
それでもまだ幼いうちは、両親のそばを離れるつもりはなかった。その意味を込めて言うのに母は何も返さなかった。
ずっと、夢現に彷徨うようにただ息をして、すべてのことに実感というものを持てずにいたハスドゥルバルが、ようやく自分はここに生きているのだと認めた、そうして浮かべた笑顔だったことを、彼女はよく分かっていたのだ。
「──降ってきましたね」
車窓の外、夜の街にちらつく白いものは、あの日のように積もるだろうか。ハスドゥルバルが振り返った相手はちょうど通話を終えた携帯電話を下ろして、寒いはずだと眉を寄せた。
「こんなに冷えるとあの方は身重の奥様が心配でお越しにならないかもしれませんね、ガイア殿」
「それでも代理人は寄越すだろうが。別にそれでも構わんのだな」
「残念ではありますけれど、私がいたことは伝わるでしょうから
……
」
ガイアは胡乱げな目つきをしてみせたが、彼には関係のないことだからだろう、理解できないままにすることにしたようだった。
父の友人が新しく雇った代理人の以前の雇用主の取引相手の知己。要するに他人であるガイアは唐突に連絡を取ってきたハスドゥルバルを一応は歓迎し、頼みまで聞いてくれた。ガイアに招待が届いていた、さる基金設立を記念したパーティに、同伴者として連れて行ってほしいというものである。
会場に向かう車中、ハスドゥルバルはガイアから渡された招待客のリストに目を通し、そこに事前の調べ通りよく知る名前があるのに目を細めた。ハミルカル・バルカ、いまだにこの名がこの時代のアルファベットで表されることには慣れないが、彼の名だ。
招待されているのはこの地域に地盤を置く企業や団体の関係者が多く、ガイアにとっては見知った面々なのだろう。ビュルサグループは創業当時からこのあたりに縁深く、マッシュリーは呆れるほど多くの土地を所有していた。彼らの間の数代前からの土地貸借契約は、それが係争の種であることによって、ガイアとハミルカルが顔を突き合わせる機会を多く生んでいる。
「本当に未成年ではないんだな?」
ひと月前にもされた問いに、ハスドゥルバルは紙面に目を落としたまま答えた。
「身分証も見せたじゃありませんか。十八歳ですよ、ちゃんと」
「親に文句を言われる程度ならいいがそれ以上の面倒は引き受けんぞ」
「ご心配なく。今日のことは父にもちゃんと伝えてありますから」
古い知り合いを見つけたから会いに行くと。それがガイアだとは伝えてパーティ云々とは言わず、場所も偽っていたが、言い訳はどうとでもなる。
ハスドゥルバルがハミルカルを見つけてしまったせいで、両親、特に母は恐怖に駆られるようにして我が子を仕舞い込もうとした。
どこかに出掛けるのには必ず家の車を使い家族ないしは使用人を付き添いにつけ、予定も会う相手も事前に報告し彼らの目の離れる場所には行かない。友人は彼らがよいと認めた相手だけ。そもそもハスドゥルバルはこことは異なる国で育ち、現在は留学生の身分だった。
家を出たことで一人で行動できるようにはなったが、住む部屋を選ぶ余地はなく、世話役がつけられている。それでもそうした保護という名の制約を受け入れ続けたおかげで、最もらしい理由をつけてのこの国への留学だけは認められた。通う大学のある地域とこの街とが、移動に丸一日かかる程度に離れているのもよかったのだろう。
リストを頭に入れて顔を上げると、ホテルが行手に見えた。
「この方々について、気を付けるべきことは?」
「好色な輩は見れば分かるだろう、変なものを口にしないようにだけ気をつけなさい」
「はい、おじさま」
「おお、いまのは心底ぞっとしたぞ
……
」
そのように呼ばれる齢でもない、そう顔を顰めて髭を撫でるガイアはまだ三十がらみ、ハミルカルよりいくらか年長というだけだった。存命ながら事業への関心のない父親のジラルサンから土地の運用からパーティへの出席に至るまでの何もかもを丸投げされているらしい。
大地主ともなると現代の風俗に従う必要もないのか、かつてと変わらず長い髪を編み込んでいた。そのような風貌と生来のおおらかさが彼を浮世離れして見せ、どこぞの王侯貴族かその末裔と紹介されれば多くの者がそれを信じるだろうと思われた。
「では行くか。面白いものが見られることを期待しているよ」
おそらくそれだけの理由でハスドゥルバルを連れて来たのだろう彼が、そう言って先に車を降り手を差し伸べてくると、ますますそれらしい。
ハスドゥルバルはその手を取った。車寄せからロビーへ、そのわずかな距離でも冷たい風が吹きつけ、建物に入ると別世界のように明るい。
会場の大広間に入る以前から、こちらに気がついた殆ど全員がガイアに声をかけた。そこに見知った顔はなく、カルタゴの名も知らぬ人々なのだろうと思う。挨拶が交わされる間、ハスドゥルバルはただ行儀よくガイアのそばに立っていた。
歴史の古さを感じさせる建物だったが、それだけに気品がある。そんなことを考えながら大広間の天井画を眺めていると、次第に周囲の視線がハスドゥルバルのことを窺い始める。
「そちらは
……
?」
我慢しきれずそう問うた婦人の目には純粋な興味には収まらない、好奇心が浮かんでいた。
ガイアは結婚しておらず、しかし数人子供がおり、未だ待ち望む子を得られないことにじりじりとして過ごしている。このような場にはその時々にちょうどよい女性を伴っているのだろうから、成人しているかも怪しい若い男がその腕を取っていれば訝しまれて当然だった。
ハスドゥルバルは、困惑か、あるいはほんの僅かな怯えを目に浮かべて、ガイアを見上げた。世慣れない内気な青年に頼りにされている、という見え方がすることをすぐ理解して、ガイアは苦笑を浮かべる。
「知人の子でね、留学でこちらに来て間もないので面倒を見ている。勉強ばかりで引き籠っているので連れ出してきた」
およそ出鱈目だったが周囲は一応納得したらしく、しかしどこか、怪しんでいる気配もあった。
パーティが始まりしばらく、遅れて現れる者も途切れて、ハスドゥルバルはその場の者たちの顔と名に加えておおよその関係まで覚えてしまった。暇だったのだ。一時間ほどが経って挨拶だの講話だの記念動画の上映だのが終わっても待っている当人も代理人も現れていなかった。
しかし、地域の名士たちのとりとめない世間話を聞いていたとき、人の気配が動いた。悟られないよう視線だけ動かした者も挨拶へと向かう者も、場の関心がその時ばかりは一点へと向かう。ハスドゥルバルはガイアの影に隠れるようにしてそちらを見た。
ハミルカルは、自身に向かう関心や興味などそよ風にもならないという態度で、主催者と何か話していた。髪を後ろに流しているおかげでその顔がよく見える。愛想と分かる笑みを浮かべて、本当ならこんなところには来ずに家に帰りたいのだろう。なにしろ家には身重の妻と四人の娘がいるのだ。
両親によってバルカについてのあらゆる情報を遮断されていながらも、そうした近況を知ることくらいは造作もなかった。両親の周囲の人間に友情や忠義心を裏切る真似をさせたのは申し訳なく思うけれど。
この目でその姿を見るのはあの雪の日以来、二度目だ。その前は、イベリア半島からアフリカへ渡るハスドゥルバルを彼の築いたアクラ・レウケで見送った姿──ぼやけた視界を数度の瞬きで晴らすと、ハミルカルがこちらに顔を向けていた。
周囲の人間に挨拶を返しながらガイアの存在に気がつき、同時に彼が何を伴っているのかを目にした、という視線の動き方だった。
目が合う。ハスドゥルバルはふいと視線を外した。カクテルの澄んだ青を目にして自分がそっぽを向いたこと、笑っているつもりで何の表情も浮かべられていないことに驚いた。
グラスを空にして給仕に渡し、ガイアの腕を両手で掴む。ガイアがハミルカルに向けて軽く会釈するのをその体の動きだけで確かめ、彼が話し相手に「いまならその話も聞いてもらえそうだ」などと言ってハミルカルの方へ促すのを俯いて聞いた。
「確かに貴殿は会いに行きたいとは言わなかったな」
それに答えず、近くを通った給仕からグラスをひとつ受け取る。喉を通る冷たさが心地よく、ようやく腕を抱く力を緩められた。
「ずっと視線が刺さっているんだが」
「楽しいでしょう?」
「ああ。向こうひと月はこれで揶揄える。息子が生まれるというんで調子に乗っていて鬱陶しいことこの上ない」
「仲良くなられたんですね」
昔は、ナラウァスを通じて見知った程度だったはずだ。ヌミディアの多くの王族や貴族がカルタゴ軍に加わっていたように、ガイアにもその経験はあっておかしくないが、ハミルカルと同じ陣営に属したことはない。
刺さるという形容が相応しい強烈な視線をハスドゥルバルも感じていた。あるいはそれはただの気配で、実際はその瞳はこちらを向いていないのかもしれない。それを確かめられずにグラスを替えた。
「あの男の訃報を受け取った時の、貴殿の顔を覚えている」
「
……
どんな顔でした?」
「その顔だ。一体それは何杯目だ」
グラスを取り上げられて、首を傾げる。
この体で酒を口にするのは初めてだった。明らかに酔いが回り始めている感覚があり、頬が熱い。さほど酔わない質であったはずだが、ハスドゥルバルの顔を覗き込んでガイアは呆れを隠さずため息をついた。
ガイアがどこかに目配せをすると、彼の秘書が近付いてくる。
「もう部屋で休め、明日帰ると言っていただろう」
「なら一緒に行きましょう」
「勘弁してくれ」
本当に、心底その気がない嫌そうな声を出されると、かえって引き摺って行きたくなる。諦め悪く自分の腕を捕まえている手をガイアが外させると、秘書がやんわりとハスドゥルバルを促した。
大広間を出て客室階へ向かうエレベーターを待つあいだ周囲を見渡したが、姿の写るものは何もなかった。設備は古いままなのか時間をかけて到着したエレベーターに乗り込むと鏡があり、しかし自分がどんな顔をしているか確かめる前にハスドゥルバルはぱっと背後を振り返った。
閉まりかけていた扉を手で押し開いたハミルカルが、このまま殺されるのだろうかという目つきをしてハスドゥルバルを見る。
気圧されてしまっている秘書に、戻ってもよいとハスドゥルバルは首を振った。ハスドゥルバルにルームキーを渡した秘書と入れ替わりに乗り込んだハミルカルの背後で扉が閉まる。
酔いのせいか頭が回らず、言葉が何も出てこなかった。七階までを驚くほど長い時間をかけて上昇するあいだ、もしかしてここで死ぬのかなという思考がどうしても消えない。ハミルカルまでも無言でいるせいだった。
互いに何も言わないまま辿り着いた部屋はジュニアスイート、荷物がすでに運び込まれていた。ガイアに言った通り明日の朝にはここを出て帰らなければ、世話役が両親に報告を上げてしまう。けれど、そんなことはどうだっていいはずだ。このままどこにも帰らず、どこにも行かず、それでいいはずだった。
「いままでどこにいた」
部屋に入りハミルカルがようやく発した言葉はそれだった。
ハスドゥルバルは育ってきた国の名を挙げ、両親があなたをこの上なく嫌っているのだと付け加えた。いよいよ酩酊感が足元に及び始めて、ソファに腰を下ろしてそのまま身を横たえる。天井を見上げていると不快感はなく、いい気分だったが、寒いとも思った。
いままで。あるいはいまになって?
「ハンニバルがもうすぐ生まれるのでしょう、おめでとうございます」
そうと決まったわけではないけれど、きっと期待は裏切られないだろう。そう思って言ったが、ハミルカルは渋い顔のままだ。こちらに近寄ってくることもない。ハスドゥルバルはその若い姿をじっと見つめ、それがぼやけ始める前にゆっくりと目を瞬いた。
「なぜ
……
」
低く言って、ハミルカルは目を伏せた。「ガイア殿と一緒だったのは」とハスドゥルバルが呟くとその目元に剣呑さが増す。
「今日ここにあなたが来ると知っていたから。あの方を頼ったのは
……
彼の王子が王国を統一できたのは、そもそも私がヌミディア人を二王国のもとに置いたからと言えなくはないでしょう。お願いを聞いていただけそうだったから、頼った。不思議ですか?」
ヌミディア人の蜂起を鎮圧後、ハスドゥルバルがマッシュリーとマサエシュリーによる支配体制を認めたのだ。同時に人質として例の王子をカルタゴに連れて行ったが、ガイアは息子がカルタゴで教育を受けることを望んでいたのだから、恨まれる筋合いもない。
しかしそのせいで王子がギスコの孫娘と縁付き、果てには古来からの誼を捨ててローマと歩むことを選ぶことになったというのは、ハスドゥルバルにも予想し得なかった。
「直接私を訪ねてくればよかっただろう」
「これは偶然なんです。ガイア殿のご予定に同行させていただいたら、偶然あなたがいて、会ってしまった。両親は私がそう言い張れば納得してくれますから」
「何のための建前だ、それは」
「何の?」
それはもう説明しただろう、と少し眉を寄せてみてから、ハミルカルには理由のひとつにさえならないのだと思い至る。ハスドゥルバルの家族がどれほど末子に平穏な人生を送らせるべく心を砕くかなど、彼にはどうだっていい。
「
…………
」
ハスドゥルバルは体を起こし、ソファから立ち上がった。よろめきながらハミルカルのもとへ歩み寄ると腕が伸ばされるが、それに支えられずそばに立って顔を見上げた。手で触れた頬は滑らかな感触で、そばに寄ると知らない匂いがする。
両手に伝わる体温が、ハミルカルがここにいるのだと確かに教えていた。ほとんど背丈の伸び切ったハスドゥルバルはかつてと同じ位置にあるその双眸に映る姿を見て、自分もここに生きているのだと納得することができた。
彼の頭を引き寄せ背伸びをしたところで、肩に手がかかった。咄嗟に相手を突き飛ばしかけたその手に支えられ、かろうじて床に倒れずに済む。
しかし、腕を掴んで支えると同時にその場に押さえつける力に、ハスドゥルバルは抗いようがなかった。これ以上は近づけない。
「私に家族など捨ててご自分のもとに来いとおっしゃるのですね」
俯くと、磨かれた靴と絨毯の柄ばかりが目に入る。ハミルカルがどんな顔をしているのか、想像がつくから見たくなかった。
「くちづけてさえくださらない方のもとに?」
彼は、笑ってしまうことに、世間では愛妻家で通っている。ハスドゥルバルが得ることのできた情報はその程度の深度でしかなく、彼は夫人を人前に出すことも稀で、高い立場の人間にありがちな放蕩と縁遠く、早すぎる結婚は情熱的な恋愛感情によるものと解釈されていた。
実際には契約が交わされているはずだ。かつての夫人の為人を思えば、あるいはヒスパニアに渡って間もなかったころのマゴーネが語った晩年の彼女を思えば、二度目の人生で無条件にハミルカルを受け入れるはずがない。頭のいい女性だったから、口約束など信じず法的に有効な契約を結んで、自分の立場を守っているだろう。
彼らの行いはすべて子供のためだ。彼女がかつて愛することができず、同時に自分を愛さなかった男の要求を飲んだのは、彼らの間に生まれるべき七人の子供たちが、ハミルカルと他の女の間に儲けられて手の届かないところで傷つくのを厭うたからだろう。ハスドゥルバルには、自分の推測が誤っていない自信がある。彼女の娘に屈辱を与えたがためにどれほど憎まれたか覚えているのだから。
彼らの交わした契約はいかなる不義も許さないに違いなかった。
「あなたのことは
……
ずっと以前から知っていた。知った時にはあなたには娘がいて、私はあなたが最も強く望むものが何か分かった。十歳の私があなたのところに転がり込んできて、どうすると言うんです? 養子にでもしてくださいましたか。まさか。奥様が許されるはずがない」
「やりようはいくらでもある」
「そんなもの必要ありません。私には心底愛しんでくれる家族がいます。私が殺されたという報せを受け取らないためなら何だってする父と母と、兄と姉が」
「だから何だ?」
「だから──」
近づくこともできなかったが、遠ざかり逃げることもできなかった。振り解こうとすると強くなる力がハスドゥルバルにここにいろと命じている。
「──私は、私を必要とする人たちのもとで生きることだってできる」
「お前が必要だ」
息が詰まった。強引に顔を上げさせられて、覗き込んでくるその眼差しの勁さがいっそうハスドゥルバルを苦しめた。
「私にはお前が必要だ、ハスドゥルバル。それでも家族が惜しいのなら、どうしてここに来た」
言い訳が尽きてしまったから。
十八歳になり、成人し、親元を離れてわずかに自由になり、両親を納得させられそうな方法が目の前にあって、それでも耐えてなどいられなかった。もう愛してもらえないと分かっていても恋しかった。
何もかも打ち捨てて走って行くことになると、あの雪の日、悟ってしまった。自分を守ろうとする腕をすり抜け、悲しみ嘆く声を背にして。この人のそばでなくては生きていることが分からない。ハミルカルがいなければ、こんな曖昧な世界に息をしていたくなどない。
抱きしめてもらうこともできないのだろうかと思ったとき、ハミルカルが初めて弱気な顔を見せた。
「どうして一度も笑わないんだ」
困り果てたその声に、ハスドゥルバルは微笑んでやらないことができなかった。
このところ思い通りに休日を過ごせた試しがない。
通話を終えたスマートフォンを置きスープマグに持ち替えて、少しぬるくなったポタージュを匙で掬う。ハウスキーパーはすぐ物を盗んだり盗撮したりし始めるので頻繁に入れ替わるが、今回は料理の腕がよかった。
とうに朝食を済ませ着替えた青年がダイニングに入ってきて、急ぐ様子のないハスドゥルバルの様子にきょとんとして動きを止めた。
「え? やっぱり行かなくてよくなった?」
「行くよ。早過ぎるとかえって時間がかかるから」
どういうことなのだか、分からなくともとりあえず受け流して詮索しないところが彼の美点だった。
日曜の午前八時、呼び出しはハミルカルの秘書からだった。緊急事態なのだというが、本来ならハスドゥルバルが出る必要のない会議である。車を回すからハミルカルを拾ってこいというのは、会議室に入れるまでに彼の機嫌をどうにか取っておけという意味だろう。
会議でのハスドゥルバルの立場は、一応は社外取締役である弁護士の補佐あるいは見習いということになる。その老弁護士のもとで修習を終えてそのまま彼女の事務所に所属している一方で、本社の法務部に籍を置いてもいたしハミルカルについて秘書のようなことをする日もあり、立場は流動的だった。複数ある名刺に記されるどの立場をとっても、ハミルカルを迎えに行く業務は含まれていない。
社員たちから一体あれは何なのだという眼差しをしばしば受けるものの、そもそもが同族経営のうえカルタゴ人による縁故採用が横行する組織で、ハスドゥルバルがハミルカルのそばにいることに公然と疑問を差し挟むことのできる者は少なかった。
いつでも出られる格好で忙しない青年が、ヘアオイルを手にハスドゥルバルの後ろに立つ。手のひらに馴染ませたオイルで勝手に髪を整えるのを好きにさせながらハスドゥルバルは欠伸を噛み殺した。顔は洗っていたがまだ眠気が取れない。
「ここで待ってちゃいけないんだよね」
「別に構わないよ、あの怖い人と会いたいなら」
それは嫌だとはっきり言われると笑ってしまう。それでも、彼と鉢合わせしただけで怖気付く連中に比べればずっといい。
できたと声をかけられたのを合図にして立ち上がる。衣類や靴を収納している一室に入って、無難と思われるものを探した。途中で何か蹴飛ばしたが放っておく。本来は広々と使えるはずなのに貰い物を整理せず放り込むせいで小箱や紙袋が溢れ返り毎日獣道を進む羽目になっていた。
床に脱ぎ落としたルームウェアを拾った青年がはあと感嘆とも呆れともつかない息をついた。
「この部屋見るたびに整理整頓したくなる」
「してくれたらお礼をするよ」
「ほんと?」
「何かいいものがあれば持って帰って、いらないから」
身に着けた方がいいものは覚えているし時々は整理もするが、いらないから足元に放っているのだ。スタンドカラーのシャツを選んで袖を通すと、そばに立った青年が小さなボタンを留めていく。
「貰えるんなら物じゃない方がいいな」
可愛げのあることを言うので頭を撫でてやれば、そういうのじゃなくてと唇を尖らせていた。
コートを羽織った頃にはちょうどよい時間だった。エントランスへ下りるエレベーターに乗り込んで、これから友人たちの集まりに入れてもらうらしい青年が首を傾げる。「会いたくはないけど」と前置きをして、
「おれがあの人と会っても構わないっていうのが不思議だ」
「私が嫌がらないのが?」
「あの人が、かな。正直思っていたのと違う。ここだって別に、買ってもらったんじゃないんだろ」
「囲われ者じゃあるまいし。君はあの人に会っても平気な顔でいればいい」
周到な両親のおかげで成人した時にはそれなりの資産があり、それを堅実に運用していれば部屋を買うくらいの余裕は生まれる。贈り物は受け取るが、自分を囲おうとするものはみな跳ね除けてきた。ハミルカルは、買ってやろうかとも言わなかったが。
「でも、そのいつも着けてるピアスはあの人からだったんだね」
ハスドゥルバルはただ薄く笑って、何も答えなかった。あの人の姿で最も印象に残る色を宿したアメトリンの耳飾りは、外しておくのに理由が必要だからいつも着けている。着けているのが当然と思い込んでいるので仕方がない。
エントランスの外ではとっくに着いていたのだろう社用車が待ち構えていた。運転手が会釈を寄越して降りるより先に、青年がドアを開く。
「埋め合わせはするよ」
乗り込む間際囁いて軽くくちづけると、素直な気性そのままに笑って見送ってくれた。
車はハスドゥルバルが座席に落ち着くのを待って走り出した。スマートフォンには秘書から何度も着信が入っていたが、任せたのはそちらなのだから放っておけと折り返さず通知を消す。邸宅までの数十分、送られてきている会議資料に目を通すには十分すぎる時間だった。
──到着してみれば、やはりと言おうか、ハスドゥルバルを迎え入れたバルカ家の使用人はいま暫く待つようにと額に汗を浮かべながら告げた。
彼女はハスドゥルバルをとりあえず応接室へ案内しようとしたがそれを断り、玄関のスツールに腰を下ろす。幼い子供が泣きじゃくりながら何か訴える声がここまで聞こえてきて、家中が右往左往している気配がしていた。最もうまく宥められる母親と長女が揃って留守とあっては無理もない。
今頃は父親がもう時間がないんだ、迎えも来てしまったし、と言い聞かせているだろう。それでも粘られると予定を繰り下げるしかないが、迷惑を被るのはおよそ一時間後の会議に出席する役員たちであり、彼らに謝るのはハミルカルの秘書の仕事なので、他人事と言ってしまえばそれまでである。
メールを確認していると、スリッパを履いた軽い足音が近付いてきて、立ち止まった。
「どうしてそんなところにいるの」
こちらを見て気遣うというより訝しんで言う少女は、最後に見た時には背中に届くほど長かったはずの髪を、ベリーショートと言っていいほど短く切っていた。
「お父さんを待ってる」
「中に入れば? ああ、でもマゴーネがあなたを見るともっと泣いちゃうか。やっぱそこにいて」
この家の次女、つまりかつてハスドゥルバルの妻だった少女は、この秋に高校生になった。それで何か心境の変化があったらしいと思ったが、髪のことには触れず、マゴーネはどうしたのかと尋ねると肩を竦める。
「だって、今日はお父様は休みのはずだったじゃない。三人とも約束を破られて怒ってるの。あなたはお父様を仕事に引っ張っていく悪の手先」
「昼には一度帰してあげられると思うのだけど。それじゃ納得しない?」
「しない。昼にはって言った日には夕飯までに帰ってくるかも怪しいことくらいみんな知ってる」
手厳しく言って去っていった彼女の言い分は正しい。ハミルカルは単純に仕事が好きで、働きすぎなのだ。それが家庭からの逃避ではないのは明らかなのだが、「まあ、これくらいは」が積み重なって末っ子に限界を迎えさせたのだろう。
ハンニバルがもっと幼かった頃には、こんな可愛らしい駄々では済まなかった。それを狙ったわけではなかったが父親を足止めしたいがために家を燃やしかけたことがある。
そんなことを思っていたせいか、また足音が近付いてきた。スリッパを履かない裸足のぺたぺたとした足音が二人分、待っているとハンニバルがマゴーネの手を引いて悪の手先のもとにやってきた。更に悪役を押し付けられたなと察し、彼らに向けて微笑むと、マゴーネが顔を顰める。
「どうしたのかな」
まだ目に涙の浮かぶマゴーネに尋ねるが、黙りこくって兄の後ろに隠れてしまった。昔からハスドゥルバルにはさほど懐かない子だったが最近は特に嫌われている気がする。弟の代わりにハンニバルが口を開いた。
「父上もどうしても行かなくちゃいけない?」
「そうだね、お父さんじゃなくちゃ決められないことがたくさんあるから」
「明日にするのは?」
「明日は朝から遠くに行く予定がある。昼には帰ってこられるように私が見張っておくよ、だから連れて行っていいかい」
「今日はずっと前から約束をしてた」
知っている。だからハミルカル自身も秘書も予定を捩じ込まれないよう死守していた休日なのだ。グループ会社でそれなりの規模の横領が発覚したうえ下手人が高飛びしたのでどうしようもない。捕らえて磔にでもできればいいのだがそうもいかなかった。
「そうだな
……
」
ハミルカルはいまどうなっているのか、次男がここにいないということは妨害を受けているのだろうか。
「分かった。じゃあ一緒に行こう」
「一緖?」
「会社に君たちもついてきて、会議室の前に座っているといい。終わる時間になったらドアをドンドン叩いてお父さんを呼びなさい。ほら支度して」
顔を見合わせた兄弟がそんなことが可能なのかと怪しんで動かないので、ハスドゥルバルはその背を押して急かす。結局靴を脱いで上がり込むことになった。
ハミルカルは二階にある兄弟の子供部屋に軟禁されていた。ドアの前に座っていた同じ名前のハスドゥルバルにも支度をと言うと目をぱちぱちさせながらもドアを開けてくれる。事の次第を聞いたハミルカルは何を勝手なことをと言いかけたものの、既に支度を始めていた息子たちの期待を裏切れずに了承した。
車に乗せた時点で、父親の職場に連れられることなど殆どない兄弟は機嫌を直していた。秘書にぶつぶつ文句を言われながら会議室の前に子供たちを座らせておけば、部屋に入る全員がその姿を目にする。役員には何しろかつてバルカ党の一員であった者が多いのでその後の会議が予定通りに終わったことは言うまでもなく、若君たちを悲しませたんだから磔にしてしまえという役員の一人による発言は議事録から抹消された。
ハミルカルが息子たちとしていた約束とは、この日封の切られた映画だった。来週でも再来週でも上映しているが、ともかく幼子には約束を守ってもらうことが重要であり、映画のあと四人で夕食をとって、共に帰らずに会社へ戻る父親のことも許してくれたのだった。
「明日が出張でなければもっとよかったのに、残念ですね」
ソファでラップトップを開きまだ仕事をしている相手にグラスを渡しながら言えば、それでも恨まれないだけいいと言って、ハミルカルは上機嫌だった。
子供たちがとっくにベッドに入って夢を見ているだろう時間にオフィスを後にし、明け方には空港に向かわなければならなかった。国内出張で明日のうちにまた戻る予定とはいえ、帰宅する余裕はない。ハスドゥルバルの部屋はこういうときに使われる。
隣に座って貰い物のワインを開けてグラスに注いでやると、ひと口飲むなりラベルを繁々と眺めている。ハスドゥルバルは結局、この時代の酒には弱いままなので、消費してもらえるのはありがたかった。
ハミルカルがようやくラップトップを閉じる。こんなふうに寛ぐ時には昔のようにゆったりとした長衣で過ごす習慣だった。帯も締めず裸足でいるのがやはり楽で、性に合う。ハミルカルは自宅では現代風らしいが、ここではハスドゥルバルのその趣向に合わせていて、ぼんやり眺めていると今昔の区別がつかなくなりそうだった。
「映画、寝てしまいませんでした?」
「中盤の記憶がない」
「そういうお父さん、多いんでしょうね」
何しろ子供向けのアニメーション映画で、ハミルカルに映画鑑賞の趣味があっても相当な余裕なしには耐えられないだろう。ハンニバルに一緒に観るかと言われたのを断ってオフィスに残ってよかった。
ふふ、と思い出し笑いをしたハスドゥルバルにハミルカルは何も言わずに首を傾げた。
「ハンニバルがね、別れ際に私にお願い事をしたんです」
言いながら笑いが漏れて、何をと問われるのになかなか返事ができなかった。だってあんまり可愛いから、あの場でも笑わないでいるのが大変だった。
「言ってしまうと怒られるけれど、言わないとご両親のお許しが出ないので
……
あのね、大人にはサンタさんが来ないでしょう? それが気の毒らしくって」
父上と母上にもプレゼントをあげたい。そんなことを言って、けれど子供だけで買い物には行かせてもらえないからついてきて、何を選べばいいか助言がほしいとハスドゥルバルを頼った。
ああ可愛い! まるきり、愛されて育つただの子供だ。そんな長男の思いに胸を熱くしているらしいハミルカルもただの父親だった。
「マハルバルも連れて行って、一緒に買い物をしてほしいんですって。いかがです、お父さま。お許しいただけるよう奥様を説き伏せてくださる?」
「説き伏せるまでもないだろう。お前が煩わしくないなら付き合ってやってくれ」
「煩わしいだなんて。あの子たちのお願いなら聞きますとも、私が中途半端なところで死んで苦労をさせてしまったのだから
……
」
ハンニバルはともかくその弟たちはこんなことを言われても迷惑がるだろうが、それは本心だった。あの二人が無邪気にハスドゥルバルを頼る日など来そうにもないが。
ハミルカルは目を細めて、グラスをテーブルに置いた。
「私もお前に苦労をさせたが。何か願い事は?」
「
……
酔ってらっしゃいますね」
「まさか。だがお前がそういう発想を持つなら何か聞き届けるべきだろう」
「お願いすればなんでもしてくださるんですか?」
例えば、と言いかけてハスドゥルバルは膝を抱いた。意味もなく裾を払い、何もいらないと答えようとしたとき、手が伸ばされる。
髪を梳くように撫でた指が耳の形をなぞって、手のひらが頬に触れた。擽ったさを感じてその手を避けようとするのに離れていかず、いつの間にか俯けていた顔を上げると、思っていたよりもずっと間近に紫の瞳があった。
「え、──っ!」
手でその口を塞ぐと、ハミルカルは眉を寄せた。いかにも訝る目をして。ハスドゥルバルの手を下ろさせた彼と、テーブルに置かれたボトルとを見比べる。中身は半分も減っていない。
それ以上は下がれないところまで、ソファの上を後退る。距離を詰めてこないことに確かに安堵していた。
「酔って、らっしゃるんですね。お疲れなんでしょう、もう休まれたら」
「素面だ」
「ほら、そんな酔っ払いの言いそうなことを」
「何か言いかけていた。違ったか?」
違う。違わない。相反する答えは喉を通り抜けてこず、ハスドゥルバルは「契約が」とだけ言った。
「それは七人目が生まれるまでとあっただろう」
そんなことは分かっている。マゴーネが生まれて義務から解放された夫人はようやく、自分の体をその手に取り戻した。
しかしマゴーネはもう六歳になった。この六年、ハミルカルは一度もこんな振る舞いをしなかった。誰も信じないだろうが文字通り抱き合ったこともない。その意味だって分からないはずはない。
裸足の足首を掴まれてひっと喉が鳴る。
「冷たいな」
そう言ったハミルカルの手は確かに温かかったが、それに温められる心地はしない。
「ハミルカルさま、浮気相手になるのなんてお嫌でしょう
……
」
裾の中に入り込む手を抑えてどうにかそう言うと、何のことか分からないという顔で記憶を探ったハミルカルが、ああと呟く。ここで出会した青年の存在を思い出したようだった。
「あの男か。もう捨てるんだろう」
「捨てるなんて言っていません、まだ捨てていないし」
これまでに相手はほとんど途切れなかったが、長く続いたことはない。そのなかで彼とはもう半年になろうとしていた。これと言って切る理由がなく、都合のいい男を演じるのに疲弊するのを待つような状態になっている。とにかくあれはきちんとした交際相手であって、人に紹介するときには恋人と呼ぶのだ。
ただ他よりは苦ではないというだけでも。抱きしめてくれて、いっとき、何もかも忘れさせてくれる。
「お気遣いいただかなくても、私にはお願い事なんてありません」
そう口にしたときひどく惨めだった。
強張ったハスドゥルバルの態度に、ハミルカルはしばらく思案するように口を噤んでいたが、どういう結論を出したのか呆れまじりに言った。
「何を拗ねている」
「拗ね
……
」
拗ねている?
ぐいと足首を引かれてソファに倒れると、呆気に取られている間に組み敷かれていた。
押し返そうとした腕を掴まれれば跳ね除けることはできなかった。ハスドゥルバルの側がかつてと比べて貧弱になったとはいえなぜこんなに力が強いのだ。簡単に組み伏せてしまえるせいで、ハミルカルはおそらくハスドゥルバルが本気で抗っているとさえ認識していない。
「いや
……
ッ」
よく知っているはずの何もかもが得体の知れないものに思える。顔を背け身を捩って、逃れようとするのにすぐ引き戻される。
愚図る子供を宥めるような手つきだったが、それが長衣の中の肌に触れたとき、突き落とされたようにぞっとした。
「触らないで!」
ハミルカルはぴたりと動きを止めた。
恐る恐る窺えば、彼が浮かべているのは大きな音に驚いた子供のような、ただただ純粋な驚きだった。ハスドゥルバルはその顔を見るなりやってしまったと思い、そう思う自分が本当に嫌になる。
力の緩んだ腕から抜け出して、床にへたり込んでからどうにか立ち上がる。足が震えてままならなかったが、寝室に逃げ込んで扉を閉めた。その扉に背を預けて座り込んでしまうともう立つことができなかった。
どうして逃げてきたのだろう、身を任せてしまえばよかったのに。ずっとそうしたかったのだろうに。そうしてくれる理由など些細なことではないか。かつてよりもずっと簡単に有能な人材が手に入るこの時代でハミルカルがハスドゥルバルの何を必要としているのだか、釈然としないままそばで働くのと何も変わらない。
かつてハスドゥルバルがハミルカルの後を継いだのは、あの時点では他に誰もいなかったからだった。十代のハンニバルにはまだ務まらず、他の部下たちも器ではなかった。
いまは何もかもがただ応えて与えられるばかりだ。ハスドゥルバルが彼に必要とされたがっているから、そばにいたがっているから、あるいは触れられたがっているから。それが彼の愛し子を曲がりなりにも守り導いてやった礼なのだとしたら、ハスドゥルバルはここでしか生きていけないのに、本当は生きていく理由などひとつも残っていないということだった。
「それは誰から? 嬉しそうだね」
横から覗き込まれてカードを伏せると、本当に大事なんだなと青年は目を丸くした。
シーツの上に積み上げられたメッセージカードのうちで、ハスドゥルバルがきちんと目を通したのはその一枚だけだった。先ほどから開いただけで横へ放られていくカードをいちいち拾っていた青年に、知り合いの子供からとだけ答える。
クリスマスツリーのイラストがあしらわれたカードは、ハンニバルが律儀に礼として送ってきたものだった。プレゼント選びの引率をした際、ハスドゥルバルがカードを添えるといいと助言したのを容れて家族全員分のカードを選んでいたが、一枚余分に買っていたとは知らなかった。それだけは放り捨てずにそばに置いて、次のカードを開き、床に捨てた。
クリスマス当日とあって朝からどさどさと荷物が届いていたが、このカード類を含め受け取りをすべて甲斐甲斐しい恋人に任せて、ハスドゥルバルはもう昼になるというのにベッドから出ていなかった。
会社でなく事務所に合わせて年末の長い休暇に入ってから毎日この調子である。方々から声のかかるパーティにもそっぽを向いていた。独寝など考えさせない広いベッドにいくつも置いた枕に埋もれて、晴れているか雨が降っているかどうかも知らないでいる。
そんなふうにクリスマスを過ごすと言ったら青年は大きなぬいぐるみを抱えてやってきた。晩には実家に帰らなくてはいけないから、それと過ごすようにということらしい。
一度リビングに行って戻ってきた青年はハスドゥルバルのスマートフォンを手にしていた。
「電話が鳴ってるけど」
「いいの、置いておいて」
「でも名前が
……
」
そう言いながら差し出されるスマートフォンの画面には、今頃プレゼントを喜ぶ子供たちに囲まれているだろう人の名前が表示されていた。
ふんと鼻を鳴らしてそれも放り投げた。マットレスの上を跳ねて床に落ちかけたスマートフォンを慌てて受け止めた青年の、何とも物言いたげな顔を軽く睨む。
上機嫌な声など聞きたくない。ハンニバルが選んだハンドメイドのキーケースは無論父親を喜ばせ、向こう十年は使い込まれるであろうし、毛織の膝掛けはすでに母親の体を温めているだろう。その礼ならばすでにカードで受け取っている。ついでにマハルバルからの贈り物にはしゃぐヒミルコからの礼も聞きたくなかった。
床に散らかしたカードを拾い集めた青年が、分厚い束をどこにあったのか輪ゴムで縛った。一枚一枚に施された繊細な装飾も薄くつけられた香りもまるで形無しである。
「これ全部いらないの」
「みんなカードは送ってある人たちだから」
クリスマスカードもプレゼントも、必要と思われる相手には先月のうちに手配を済ませている。ハミルカルやその家族にも、同僚たちにも手配した通り贈り物が届いているだろう。幅広い意味での友人たちにも。だからこうして引き籠るのがさほどの損にならないのだが、本当なら去年までのようにパーティを渡り歩いているべきだった。
ハスドゥルバルにとってクリスマスは人脈を広げる機会でしかない。実家に帰ることもないし、暖かな家庭のクリスマスディナーに加わったこともなかった。一年の最後にどっと疲れて、ひとりで眠るのがクリスマスだ。
「こんなに暖かい部屋でずっと寒そうにしてるのもバルカのせい?」
隣に寝そべった青年は体温が高く、この部屋は暑いくらいなのだろう。ハスドゥルバルを抱き寄せる腕は肘まで袖を捲り上げている。
ハスドゥルバルは、その彫りの深い、いかにも溌剌と生命力に溢れた横顔を見つめた。彼に呼び止められて足を止めたのは、単にこの褐色の肌と琥珀色の瞳が好ましかったからだ。
この青年は何も知らないわけではない、そう感じることは時折あった。名を残すほどの何を成さずとも、過去を持つ者たちはそうでない者とは佇まいが違うのだからそうとわかる。だがはっきりとした違和感は初めてだった。
「でも、思い出せる顔がない
……
」
そう言ったのを聞いて、青年が目を見開く。彼は長いことハスドゥルバルを見返し、逡巡しているようだった。何と何を天秤にかけ、そのどちらへ傾いたのか、寂しそうな顔をした。
「おれの名前を知ってる?」
「タグス」
それが愛称であり本名があるのは知っていたが、愛称の方が深く彼に結びついている。しかし笑んだ彼が口にしたのは懐かしい響きの、イベリアで耳にした音を持つ名だった。
ハスドゥルバルが殺した貴族の名前だった。
それだけならば数える意味がないほどいるが──その名を叫ぶ声が耳に蘇って、ハスドゥルバルは身を起こした。見下ろした顔にはやはり覚えがない。会ったことはないはずだ、遠目に見たのも、容貌の変わり果てた死体だった。
この時代に生まれたとき新しい名前を付けられたのは、かつて彼を葬った母親の、過去と同じ道を歩まず新しく生まれ直してほしいという願いによるのだという。けれど結局古い由来の愛称が馴染んでいるのだと、そんなことを語る相手の顔に企み事の気配はない。
「おれもあなたの顔を見たことがなかった」
伸ばされた手が頬に触れても、嫌だとは思わなかった。
「研究室に教授を訪ねてきたあなたを見て好きになってしまってから、あなたがあのハスドゥルバルだと知ったんだ」
タグスは、ハスドゥルバルがずっとそう呼んできた青年は、いわば後輩だった。ともに学んだことはないが同じ人物の指導を受けて、それを縁に出会ったのだ。学生など子供と同じではないかと相手にしなかったのに、卒業した、就職したとわざわざ報告に来るのが可笑しくて、笑わせてくれたからいいかと思った。
彼の名を何度も叫び、喉が裂けんばかりに笑い、溺れるように泣いて、ご覧あれと天に吠えた、その声の主がハスドゥルバルを殺した。あのケルト人の奴隷は死ぬまで喜悦に浸っていたという。
誰の敵としてでもない、ただ彼の仇として殺されたのだ。
「顔か」
ぽつりと呟くと、若者は途端にぎゅっと顰めた顔を両手で覆った。
「こんなに美しい人だとは知らなかったんだ!」
「それは仕方がないけれど、私が憎くはないの」
目元だけ出してこちらを見たタグスは思い出を手繰るように視線を動かし、憎かったと悲愴さのない声で言った。
「死ぬときまでは確かにあなたやカルタゴ人を憎んでいたよ。全ヒスパニアの支配者だなんて、今でもちゃんちゃらおかしいって感じる」
イベリア半島の住民は、古くから外から来た者たちに彼らの世界をかき乱されてきた。外来者は時に友人となり時に収奪者となった。カルタゴ人、その中でもバルカ家はヒスパニアの支配者を標榜し、彼らの上に立つ君主として振舞った。
ハスドゥルバルは常に交渉を最初の手段とし、歩み寄り籠絡してヒスパニアの諸部族を足下に組み入れたが、戦う必要があればそうした。タグスは、決してカルタゴ人に従う道を選ばなかった者たちのひとりだ。
「おれは戦い、敗れて、そうして死んだ。それは終わったことだ。こんな再びの人生があるとは知らなかったからあれがおれのすべてだった」
素直な、濁りのない眼がハスドゥルバルを見る。
「確かなのは、あなたはおれを打ち負かしたということだ。そのあなたに敬意を払うのはおかしいか?」
勇士と称えられた男だと思った。このような男だから殺さなくてはならなかった、このような男だから、ハスドゥルバルを死に追いやることができた。
あれがすべてだった。だからもういい。そう言い切って執着と縁遠く生きる者は珍しい。感情はいくら遠くなっても、その意味を失っても、簡単に息を吹き返し、奥底から這いずり上がって衝動となって人を突き動かす。尊ぶべき愛情であれ、無惨なまでに傷を負った憎しみであれ。
「それに、正直言えば、あなたがおれを殺したせいで死んだと聞いてちょっと、嬉しくなっちゃったし」
「ちょっと?」
「すごく
……
」
タグスは打ち明けて清々したという顔で目を閉じた。この若者の倒錯が自分のせいらしいことに、いつものことであるからハスドゥルバルはただ憐れみを感じた。
彼の一族が治める都市を征服するのにハンニバルを派遣したのだったかどうか、すぐには思い出せなかったのでそばに置いてあったカードを遠ざけた。
「怒るかと思ったけど、怒らないんだね」
「誰かに私のことを話した?」
「いいや。吹聴してあなたを侮辱することは誓ってしない」
「そう」
これまでタグスに許してきたことを知れば嘲って喜ぶ者は大勢いるだろうに、それは彼自身の矜持の問題なのだろう。
ならばいいと思った。出し抜かれたのは気に入らないけれど、ハスドゥルバルにとって許せないことは何も起こっていないということなのだから。
体に回された腕に招かれるままその胸に頭を乗せると、薄いニット越しに心臓の鼓動が伝わってくる。一度は止めたその音がこうして繰り返されている不条理を思わせる力強さで。
きゅるる、と別の場所から音がしたのは、知らず微睡かけた時だった。顔を向けると、タグスはまるでただの若者のように悪戯っぽい目をする。
「お腹空いた」
もう昼だよと言われてハスドゥルバルは気のない返事をする。起きてから何も食べていなかったが食欲もないし、どこかに出かけようなどというのはまったく魅力のない提案だった。
雪がちらつくほど寒くて、強い風が吹いて、そのくせ街中浮かれている。神に祈る人々の群れは好ましいけれど、そこにハスドゥルバルが祈るべき神々はいない。目の眩むようなイルミネーション、色とりどりに飾り立てられた景色、すべてが気分ではなかった。
しばらくそう言い張ったハスドゥルバルを、タグスは結局外へ連れ出した。本当に雪が降っていたのに彼は車など使わず歩こうとまで言い出したのだった。
タグスがどこかは席が空いているだろうと店を次々覗いて、席があるのに入らないでぶらぶらと歩くのにただついていく。こんなに歩かされるのも寒い思いをするのも初めてだと言えば何を勘違いしてか嬉しそうにしていた。
オフィスや商業施設の並ぶエリアに暮らしているのに、さほど周辺に興味を持ってこなかったせいでむしろハスドゥルバルの方が案内されながら歩くうち、広場に出た。屋台が並び、臨時のスケートリンクが設けられて、これも即席のステージで素人が歌っている。曇り空であることを忘れさせるイルミネーションの光を受けながら、下手な歌を聞かされて誰も彼も文句も言わず笑っていた。雑踏など好きではないのに手を引かれてそこへ紛れ込んだ。
屋台は雑貨などの他は食べ歩きに向いた軽食を売るところが多かった。様々な香辛料の匂いや肉を焼く匂い、あるいは甘ったるい香りが混ざり合って吸い込む空気が重たく感じる。
「食べたいものある?」
「食べない」
「本当にお腹空かないの?」
「寒い。もう凍えてしまったよ、どこかに入るって言うから我慢したのにあんなもの食べるの」
「だって明日には連絡つかなくなってそうじゃないか、思い出作りだよ。ほらホットワインがある、買ってくるからあそこで待ってて」
別にそんなつもりはなかったが、言うが早いが屋台に並んだタグスが指差した方へ足を向けた。ステージの前にテーブルと椅子の並べられた一角があって、人々は買ったばかりの軽食をそこで楽しんでいた。
相席も当たり前で席を埋めている雑多な様子に、陣営で生活した日々が思い起こされた。最初落ち着いていないと食事ができないので苦労して、ハスドゥルバルが立ったまま何か摘んでいると周囲にやたらと気の毒がるふりをして揶揄われた。
見回していれば何人かがこちらを見、不躾な視線が張り付く。もう放って帰ってしまおうかと、一応はタグスの様子を確かめたが列はそれなりに長いようだった。
「どうしてここにいる」
振り返る。確かに声がしたと思われた方には、声の主ではあり得ない中高生の少女が数人いるだけだった。そのひとりと目が合い、笑い返すと呆けた顔になった。
そのとき屋台のひとつから怒鳴り声がして、それが聞こえた誰もが声のした方を見た。店主らしい女が何かを指差しているので食い逃げかとその先を探し、それらしい姿を見つけられない人々の視線がばらついていく。ハスドゥルバルは無意識に先ほど目の合った少女と同じ方向、タグスのいる方へ目を向け、彼が顔色を変えるのを見た。
知らない男がハスドゥルバルの前に立っていた。
「どうしてお前が生きているんだ」
その手元で光ったものに、頭が答えを出すより先に確かに体は動いた。だが突き出された男の腕を掴んだ手は、それを押し留めるには非力になりすぎていた。
誰かが包丁を盗ったと女は叫んでいるのだった。
少女たちが悲鳴を上げ、それが伝播していく中で、ハスドゥルバルは確かにこうだったと思った。この一瞬の冷たさ、あの時もそうだった、はっきりした痛みはすぐにはやってこず、大きな衝撃が時間を引き延ばす感覚。
腹に突き刺した包丁を引き抜こうとする腕を一層強く掴む。
顔を覚えていないのはタグスだけではなかった。ハスドゥルバルは、あのケルト人、あの奴隷と言われるたび、それがどんな姿をしていたのか思い出さなかった。
「あのとき殺した」
だが確かにこんな目をしていた。特徴を見出せない顔の中で目ばかりが爛々と昏く輝いていた。
「殺したのに! 確かに殺せたのに!」
感覚の朧げになっていく手を振り解いて、男は刃を振り翳した。口元に温かいものを感じ、血だと思うと同時に視界が揺れる。傾いだ身体をすんでのところで受け止め支えた腕があった。
目の前に現れた者の姿を認めた男が包丁の柄から手を離す。包丁が石畳に落ちる音が凍りついていた人々を我に返らせ、人垣から数人が飛び出してきて男を取り押さえるが、おそらくそんな必要はなかった。
「ご主人さま」
地面に押さえつけられた男にそう呼ばれたタグスは蒼白の顔をして、笑みを浮かべる顔を見返す。吐く息も傷口を抑えようとする手も、呻くように言った声も震えていた。
「どうして
……
」
ハスドゥルバルでさえ、何を言うのかと思った。
男が笑みを引き攣らせ、それをゆっくりと顔から消していく間、その全身に怒りが駆け巡るのが聞こえるようだった。男は、かつて一度ならず刃を振るい目的を達したのち、考えうる限りのあらゆる拷問に掛けられながら笑っていた、そう教えてくれたのはマハルバルだった。
それが私怨によるなどとは信じきれず現地の貴族、ローマ人、果ては本国の者たちをも疑った彼らを嘲笑い勝ち誇って死んでいった。
「あなたのためだ、あなたの、あなたを殺した、何もかもを奪ったこの者への復讐ではないか! あなたのためだ!」
「こんなことはもう望んでいない!」
叫ぶ声はあるいは泣いていたのかもしれない。
彼の腕の中にあってもひどく寒かった。目を開けていられず、一方で感覚が痛みに追いつきつつあり、喘ぐように息をする。あの時はすぐに死ねたからそれほど痛くなかったのにと、何も考えていられないはずの頭の隅にいやに冷ややかな眼差しがあった。
「お前には感謝している、だから
……
だからいまはただ、自由に、心のままに生きていてくれればと──私に会うことなどないまま、どこかで
……
」
いっそ何もかも忘れてくれたらと願っていた。
それは、タグスの本心だっただろう。ハスドゥルバルは刺されたその瞬間確かに彼を疑ったのに、タグスには疑われるという発想さえなかったに違いない。
あまりに清しい心根の人間にはきっと分からないのだ。
男が泣きながら笑い声を上げる。それは何もかもを手に入れたはずの人間が、そのすべてを奪われた嘆きだった。
「忘れる?」そう男は繰り返した。「忘れれば、それは俺じゃない。俺は、あなたの仇を殺してやっと、やっと意味のあるものになれたんだ、あなたとともに」
「どうして来なかったんだ」
扉を潜るなりの言葉に、ハスドゥルバルは窓の下に落としていた視線を上げた。大股に近づいてくる妻は明らかに怒っているのだが、彼女の夫が笑みを浮かべて手を差し伸べてくると出鼻を挫かれて、握った手に導かれるままハスドゥルバルの隣に座った。
柔らかな座り心地の寝椅子は窓からの風を受けながら昼寝をするのに良いと言って、妻のお気に入りだった。彼女のお気に入りは、カルタゴから、ヒスパニアの各地から運ばれ、あるいはそれ以前にずっと遠くから旅をしてきた瀟洒な品々で占められている。
カルト・ハダシュト、祖国と同じ名を付けた都市の宮殿において、最も贅を凝らした部屋に彼らは暮らしていた。ハスドゥルバルが手を払う仕草をすると、女主人に付き従っていた者たちが部屋を出て、扉が閉まる。
「昨日みたいにあなたが来るものと思って両親は待ち構えてたんだぞ、帰すのが大変だった」
この都市の近郊に銀山を有する大貴族の娘は、口振りの割には楚々とした仕草で頭に載せていた冠を外した。
フェニキア語の教師の言葉遣いがそのまま移ったということらしいが、イミルケが苦笑していたので怪しいものだ。けれどハスドゥルバルは不愉快ではなかったので、教え直そうとする侍女たちを制してそのままにしていた。
「ご両親とは何の話を?」
「子供はまだかと」
この直截な物言いは何も慣れない言葉のせいではあるまい。編み上げた赤みの強い茶髪を器用に解いていく手を手伝ってやると、冠も髪飾りも重くて首が痛かったと漏らす。故郷から訪ねてきた両親を喜ばせるためにカルタゴ風に盛装して、普段からこうだという振りをしていた。
「もう一年になるのに遅い、待ちきれないと言ってた」
「焦れるには早いだろうに」
「私がもう十九だから余計に遅く感じるんだ。それに両親は私が子供を産めばその子があなたの後を継ぐのだと思っている」
ハスドゥルバルは下ろしても癖の残る髪を指で梳いた。
じっと注がれる視線は、そうはならないだろうと察する賢さがあってなお返答を強請っていた。
「あなたにはこの先も気苦労をかける」
ハスドゥルバルは彼女と彼女の家族が先走らず最も多くの利を得るために言葉を選んだ。
「だから私も率直になろう。たとえ私たちの間に子が生まれても、その子は長ずればハンニバルの下で働くことになる。私がそのように育てるから」
「ハンニバルと弟たちを殺してしまえば?」
そういうことは言ってはいけない。嗜められまったく得心のいかない顔の妻にハスドゥルバルは眉を下げた。彼女の父母が同じことを考えていると周囲が思うだけでどれほどの実害があるか、よく分からないのだろう。それは彼女の持つ考え方の問題で、愚かだからではなかった。
ここではその必要から君主のように振る舞ってはいるし、カルタゴ本国はハスドゥルバルがローマと結んだ条約を追認したが、ハスドゥルバルが兵士たちと本国の承認を受けて将軍という仕事をしているのには変わりない。ここで王を称して己の地を支配する人々とは何もかもが違った。
本国は絶えずハスドゥルバルの動向に目を光らせ、イベリア半島の軍勢が制御不能となることを警戒している。
「ただでさえ私は本国と折り合いが悪い。私がここにいるのは、先代が私をこの地位につき得る存在としていたこと、兵士たちがそれを認めたことのおかげで、私自身が選ばれたとは言えない」
口を開くのを制して、指折るようにして続けた。
「ここへ渡ってきた者たちも、本国から支援してくれる者たちも、バルカに寄り集まって意を共にしている。私が彼らと共に力を尽くす限りは変わりなく扱うが、先代の血筋を排して取って代わろうとすれば他の者にも口実を与え、争いになる。その混乱は多くの敵を利することになるだろう。私の仕事はヒスパニアを支配すること、そうして得た資源を本国に送ること、バルカの若者たちがその役目を果たせるまで育てること」
目を眇めて話に耳を傾けていた妻が、ため息をついて寝椅子に身を横たえた。ハスドゥルバルの膝に頭を乗せて見上げてくる銅色の瞳には憐憫の気配がある。
「何のために?」
「
……
私たちがここに来た理由は教えただろう?」
「そうじゃなくて、ローマのことでも、この宮殿のことでもない。それはあなたの上っ面の欲でしかないんだ。ハスドゥルバル、何もかもの理由になってくれた人はもういないのに、何のために苦しんでいる」
これは夢だといつの間にか気がついていた。
この会話は確かにしたことがあるが、彼女はそんなことは問わなかった。じっと答えを待つ妻は本当にこんな顔をしていただろうか。最初の妻とは似たところがひとつもなかったはずなのに、注がれる眼差しは彼女たちのどちらのものかはっきりしない。
どうしてこの人なのだろう、とハスドゥルバルは少女らしさを失いつつある女の顔に触れた。最期に触れてくれたからだろうか。悲鳴を上げて、死ぬなと言ってくれたから。
「生きていくために。
……
私にはあの子たちを殺せない」
「役に立つから?」
「あの子たちが生きていないと、あの方が本当に死んでしまうから
……
」
その天稟を示して父親の望みそのものとなり、深い失望から、あるいは泥沼のような怒りと憎悪から救い出した子供。獅子の子たちは、彼らがいる限り自分が本当に死ぬことはないのだと父親に信じさせた。だから、彼は我が子を生かすために死んだのだ。
「あの方が死んで、自分も死にたいとは思わなかった」
後継者の最初の仕事としてオリッシー人への復讐を果たしたあと、すべきことはいくらでもあった。少年に過ぎなかった遺児たちはまだ教師を必要とし、多くの者たちは頭上から指針を示す者なしに動けなかった。待ち構えていたかのようだと言われるほどに突き進まなければ、付け入る隙などないと示さなければ、何も守れなかっただろう。
死んでも構わないと思ったことはない。まだ、何もかも十分ではなかった。ハスドゥルバルは結局はまた敗れた二度目の戦争の顛末を聞くにつけ、意味もなくもしもと思うのだ。
「もし
……
もし、あんなふうに私が死ぬことがなければ、ヒスパニアを私が預かってハンニバルは弟たち二人と共にイタリアへ向かうことができたかもしれない。あの完璧な勝利をどのように活かすべきか、共に考えてやることができたかもしれない。本国を動かすことが、ヌミディアの王たちを繋ぎ止めることが
……
想像するだけなら、いくらでも傲慢になれる」
「運命を恨んでいる?」
「
……
運命というなら、あの日私を失うのがあの子の運命だった。あの方があの子に重い運命を背負わせたのではない、あの方も私も、あの子の運命の中にあったに過ぎない」
それも、もう終わった。ハンニバルひとりが何もかも忘れ、過去を持たぬ子供として生きていくために、誰もがおのれの道を探り当てねばならない。新しい望みを見つけ、新しい幸福を手に取り、何もかもに意味を求めずに。
ハスドゥルバルにはそれができなかった。
あの人がいなければ、どれほど空しくとも叶っただろう。けれど見つけてしまった。見ないふりなどできなかった。水も光もないのに枯れて朽ち果てることのない望みが、新しく生きていくことを拒み、ハスドゥルバルを繋ぎ止めている。
「私はタグスにした方がいいと思うが」
夢がそんなことを言ったので、ハスドゥルバルは声を上げて笑った。まともに取り合われず不服げにする妻の似姿に分かっているくせにと囁く。ハスドゥルバルが愛することのできるのはたったひとり、そのように彼は生まれついていて、その席はとうに埋められているのだと。
ちりちりと小さな鈴が鳴っていた。その音は隣の部屋を駆け回っていたが、何かに気がついて一目散に寝台のある部屋に飛び込む。寝台の柱に括り付けられた天蓋をよじ登り、薄い毛布の中に潜り込んで、眠る人間の胸元に辿り着いた。
ざらついた小さな舌に鼻先を舐められてハスドゥルバルは目を開いた。
仔猫は、真っ青な瞳でその薄く開いた目元を覗き込み、しきりに鳴き声を出した。小さな頭をぶつけるように顔に擦り付けてくるのを遠ざけてもめげずに同じことを繰り返すので、重たい目蓋をどうにか持ち上げる。
「なに
……
? なにが怖いの?」
縞の入った薄茶の毛並みを撫でてやっても仔猫は落ち着かなかった。空腹なら使用人のところに行くはずだと、くたくたと柔らかい体を抱いて起き上がり、きょとんとした。
開いたままの扉のそばによく知っている人が立っているのを、夢の続きのような現実味のない光景だと思って眺めていると、その人が微笑む。ハスドゥルバルも、それに応えて笑った。
「ボミルカル殿。
……
いらっしゃるならあなただと思っていた」
猫がまた高く鳴いた。何か変なものが来たぞと知らせてくれていたのだった。
先程まで猫が遊んでいた居室でボミルカルの応対を使用人に任せ、身支度を整えて戻ると、仔猫は短い間にすっかり客に懐いてしまっていた。椅子ではなく床に敷かれた絨毯の上に胡座をかいたボミルカルが振る紐にじゃれついている。
ハスドゥルバルはそのそばに座った。長衣に上着を羽織って過ごすのがよく似合う調度で部屋は埋め尽くされている。
「ここはいいところだね」
彼が慎重に言葉を選び切り出そうとしているのが分かったので、ハスドゥルバルはただ頷いた。
「小さい頃、両親に私が築いた宮殿の話をしたら、次の誕生日に贈ってくれたんです」
別荘地の外れ、岬に建つ館は小さなものだったけれど、かつてを思い出させる趣を備えていた。子供の頃は足繁く通い、あくまでもここの主人は自分だからと家族を招いて遊んだものだ。長いこと訪れずにいたのに、経年によって少し古びている他は昔のままだった。
家族がしばらくここにいなさいと言ってハスドゥルバルを館に放り込んで、ひと月になろうとしている。
「体はもういいのかい」
「ええ、痕は残るようですけれど。見ます?」
「泣いてしまいそうだから見ないよ」
そんな繊細な感性の持ち主だったろうかと見つめた相手には疲労が見えた。長時間のフライトのうえに車に数時間揺られて辿り着いたところなのだ、当然だろう。
「ここまでおひとりで?」
「いや
……
空港まで君のお兄さんが迎えに来てくれてね。遠かった」
本当に疲れているらしい、その目は遠いところを見ていた。
ハミルカルのそばに居場所を求めたからといって、家族とは縁を切ったわけではなかった。父はそんな極端な考え方はよせとだけ言ったし、ハスドゥルバルがあまり連絡をしないので疎遠ではありつつ、時折は彼らと会ってもいた。緊急時の連絡先は当然家族のものになっている。
息子が刺されたと連絡を受けた翌日にはひとり駆けつけた母は、ハスドゥルバルの意識のない間も目を覚ました後も、家族以外の誰の面会も認めなかった。ハスドゥルバルは流石にそれに異を唱えなかったけれども、退院して病院を後にした車がまっすぐ空港に向かい、ここに連れてこられたのには驚かされた。拉致と言っていい状況だったが、見方を変えればただの帰郷である。
何もかも放り出して無責任と言われても仕方がないが、連絡手段がないのだ。敷地の外に出られず電子機器の類は隠され、使用人たちは決してハスドゥルバルの甘言に耳を貸さない。これは無理だなと思ったから大人しく何もしないで療養に努めていた。
ボミルカルのジャケットに長い毛をなすりつけている仔猫だけが無聊の慰めである。
「可愛いでしょう、退屈で仕方がないと言ったら姉が送ってきました」
「名前は?」
「ハミルカル」
「
…………
」
「嘘。アビーです、アビバアル」
女の子かと呟いて、ボミルカルは猫を腕に抱いた。ごろごろと喉を鳴らすのがここまで聞こえてくる。それをしばらく見守ったあと、ハスドゥルバルは小さく言った。
「クリスマスに嫌な知らせを聞かせてごめんなさい」
彼は長女の婚約者も同然で、バルカ家の人々に大いに好かれている。共に過ごしていたのではないだろうか。そこに信仰が伴わなくとも多くの者にとって楽しい日であるのは間違いない。
謝らないでおくれとボミルカルは優しい声で言った。
「知らせが来たのは遅くてね、夜になってからだった。君が病院に運び込まれた、らしい。そんな風に曖昧な報告を寄越した者がまずハミルカル殿に殺されかけ
……
」
「
……
?」
「ようやく搬送先が分かり、駆けつけてみると血塗れの青年がいて
……
」
「タグスは無事?」
「君がそう尋ねたことを知られれば無事でいられないだろう。病院でハミルカル殿と睨み合っていたから逃がしておいたよ」
「
……
よかった」
もう死んでしまったかもと思っていた、何しろ状況が彼に与える印象が悪すぎる。胸を撫で下ろすハスドゥルバルにボミルカルは物言いたげな顔をしたが、淡々と続けた。
「君に会わせてもらえないまま年が明け、月が変わって、気がつくと退院して行方知らず、どこに行ったか分かりませんと報告した者がまた殺されかけた」
「本当に殺された者はいないでしょう?」
「いるよ。あの奴隷は死んだ」
もう奴隷ではないかと言い直すこともなく、後始末が大変だったのだとボミルカルは嘆き、癒しを求めるように仔猫を撫でる。
「ハミルカル殿にしてはやり口が杜撰でね
……
君の恋人の素性を知って、私が逃した後だったのでひどく立腹なさっていた。一族郎党も殺してやるという勢いだったのはどうにか思い止まっていただけたが、マハルバルが拷問は無意味だと教えてくれていなければ何をしていたか」
「子供たちに知らせてはいませんよね」
「ああ、このところ姿を見ないのは本業で忙しいということにしているよ。マハルバルにだけは、まあ気の毒なことなんだが、あの奴隷のことを一番よく知っているから仕方がない」
タグスは悲しんでいるだろう、とまず思い、どんな手を使ったにしろ自分がやったほうがよかっただろうとも思った。ハミルカルのためならなんでも、本当になんでもする者たち、彼の言葉に耳を澄ませる者たちは、ハスドゥルバルがその手綱を握っていて、ハミルカル自身には好きに動かせないようにしていた。
知らぬうちに手のひらで傷跡に触れていたハスドゥルバルを、ボミルカルは痛ましげに見ていた。それは父母の、あるいは兄姉の眼差しと同じで、ただひたすら目の前の相手から痛みが消え去ってほしいと願う真心が籠められている。
「また、遠くから知らせを聞いて、何もできずに嘆くことにならなくてよかった
……
」
それも母と同じ言葉だった。
ハスドゥルバルは彼がここにいる意味を考えている。家族はボミルカルをバルカ家の者とは見做さずここに入れたが、彼はハミルカルからハスドゥルバルを連れ戻すよう頼まれているだろう。彼はそれが当然と考えるに違いないから、彼のものを元あった場所に置き直そうとするはずだ。
あくびをしたアビバアルが、ボミルカルの腕を下りてハスドゥルバルの足に体を擦り付けた。甘えられるまま抱き上げる。
「会社では君がいないとハミルカル殿が怖すぎるというのでみんな泣いているよ」
やはり、ボミルカルはそう言った。それにハスドゥルバルが返したのは「情けないひとたち
……
」という、真実侮蔑の籠った呟きだけだった。
会社の連中が泣いていようが耐えきれず逃げ出していようが知ったことではない。ハミルカルが気を許す身内に対してほど機嫌の良し悪しをあからさまに示すのは昔からで、ハスドゥルバルが彼のもとで働くようになってほんの数年にしかならないのに、あてにする方が間違っている。
ましてや過去を持たぬただの従業員たちが不穏を嗅ぎ取って右往左往しているのをどうして憐れんでやらなければならないのか。
「
……
ヒミルコが言っていたのは本当なのかい、喧嘩をしたという」
「いいえ。あの人は鈍いおじさんなのでよく勘違いをします」
「そうか。では何を怒っているんだ」
「あそこでの私のあだ名、ご存知ありませんか」
「知らない」
そうだろう、ボミルカルは部外者だから。
「単純明快に愛人と」
後ろから指さされることなど昔からよくあった。もっとあけすけな、下品な言葉、嘲弄する声はカルタゴでもヒスパニアでも絶えなかったが、何も感じなかった。事実だったからだ。
くだらない。ハスドゥルバルの目にはあの奴隷と同じようにぼんやりとした人影でしかない連中がどんな憶測を巡らせ囁こうが、どんな目を向けようが、ハスドゥルバルの何も損なわれない。
だから、もっといい条件で買ってやろうと近づいてくる下卑た連中も、ハミルカルの価値を損なわせるなと忠言を寄越すお節介な連中も、ハスドゥルバルは許してやらなくてはならない。だが自分に屈辱を与えた人間を野放しにして生かすような真似は、慣れないのだ。
「ハミルカル殿はご存知なのか?」
「耳に入っているでしょう、敏い方ですから」
「放っておいているのだね。だからあの方が怒ったと聞いても喜ばないのか」
喜ぶと思っていたのか、とわざと顔に出すとボミルカルは苦笑した。
「それは、ハミルカル殿が悪いな。
……
知っていればいまの話はしなかった、許しておくれ」
「ボミルカル殿を許しても仕方がありません」
「我が弟はどうしてそうよそよそしいんだい、ずっと寂しいよ、私は」
遠縁の子供を可愛がって弟のように扱ってくれた年長者を、慕わしく思うが故に兄と呼んでいた。もしかすると実の兄よりも好きだったかもしれない。いまは、彼との間には何の縁もない。
「愛人と仲良くするとお嬢様と結婚できなくなりますよ」
「ハスドゥルバル」
「
……
いえ、いまのは八つ当たりです。あなたの愛する方を侮辱したかったわけではありません」
「ハスドゥルバル。私と帰らないか」
「帰りません、結婚するので」
庭のどこかで鳥が囀っていた。池でちゃぷんと水面を揺らした音は、亀だろうか。アビバアルのほんの小さな寝息までもが聞こえる静寂。
「誰と」
影の位置が僅かに動いた頃、ようやくボミルカルはそう言った。
「お金持ちで優しくて穏やかで両親と仲良くできて私が家にいておかえりなさいとさえ言えば満足な人と」
「ハミルカル殿か?」
「お金持ち以外どこが当て嵌まるんですか? 両親が勝手にそういう人物を探し始めて、何人か候補が上がってきています」
両親は完全に気が動転し、混乱した思考のままあらぬ方向に全速力で進んでいた。今回のことはそもそもがハスドゥルバル自身の行いが招いたのでありハミルカルは関わりがない、そんなハスドゥルバルの言葉も届かない。
「世の中には私が家にいるだけで嬉しい人がそれなりにいるんです、そういう御仁のために観葉植物のように暮らしていれば、少なくとも死にかけはしないでしょう?」
「それは、無理だろうね」
「私に不向きなのは分かっていますけれど」
「そういうことじゃなく
……
これ以上死人を出さないでおくれ」
頭が痛いと言うように額を押さえたボミルカルは気の毒だが、冗談を言う余裕はあるらしい。
無論結婚などするつもりはない。両親もそのうち冷静さを取り戻して、彼らの末子を籠に入れておける人物は探して見つかるものではないと悟るだろう。いつまでもここに閉じ込めておくつもりでもあるまい、結局は常識的であることが彼らの弱みだった。
ここで過ごすようになってから最も長い会話をして、疲れ始めていた。退院から体力を戻す努力をせずに眠ってばかり、猫と同じ生活をしている。
ボミルカルはその倦んだ様子をしばらく見守っていたが、今度は誤らぬよう静かな声を出した。
「ハスドゥルバル、君が死んだかもしれないと言われてハミルカル殿はどうしたか分かるかい」
「
……
怒ったとおっしゃったでしょう、さっき」
「それはどうなったか分からないと言った部下に対してだ。君は死んだだろうと私たちは言われた」
情報は不確かなまま次々に持ち込まれ、襲われて病院に搬送されたという確かな報告より前には推測が飛び交った。刺された、あの時の奴隷だ、また死んだかもしれない。ハミルカルの秘書がそんな言い方をしたということは、死んでも構わないと思っていたということだった。
ボミルカルはその秘書を面罵するのをどうにか耐えてその役をハミルカルに譲ったのに、彼は黙っていた。
「何もできなかったのだよ」
顔ばかりでなくその両手からも血の気が引き、浅い呼吸をぎこちなく繰り返しながら、目の前の現実から遠ざかろうとする意識をどうにか踏みとどまらせていた。ボミルカルの呼ぶ声も聞こえておらず、「かもしれない」という部分を聞き落としたのかと思わされた。
「冷静になるのにあんまり時間がかかるので私が平手で打った」
ハスドゥルバルが言葉の意味を理解しようとしていると、俄かに庭の方が騒がしくなる。聞こえてくるのが兄や使用人たちの声だけでないことに気が付いたハスドゥルバルの腕の中で、目を覚ますなりアビバアルが毛を逆立てて唸った。
ボミルカルが立ち上がり、庭に面した窓から顔を出した。何を見たのか愉快そうに肩を揺らして笑う。
「彼はずっと怒っていてね、仕事はいいのかと尋ねた私にくだらないことを聞くなと凄んでおいて謝罪もない。無礼だと思わないかい、私がいないとここに辿り着けもしないというのに」
「兄さま」
上着の内ポケットを探って、ボミルカルがスマートフォンの画面をこちらに示した。通話中となっている。──誰との通話かなど目を凝らして確かめるまでもない。
騒ぎ声が大きくなり、鈍い物音がした。人が殴られた音だ。
「ああ、また後始末をしなくちゃならなくなった
……
」
通話を切り、ボミルカルは部屋を出て行く。取り残されたハスドゥルバルはアビバアルを抱き直してゆっくりと立ち上がった。
硬い足音が回廊を進んでくるのが聞こえる。足が前に進もうとするのを押し留めているのか、後ろへ下がろうとするのを堪えているのか、どうしたいのかも分からずに居室と回廊を繋ぐ扉を見つめていたが、その姿が目に入った途端に身を翻していた。
寝室の両開きの扉を閉め閂をかけたのと同時に、ドンと大きな音を立てて扉が叩かれる。殴られたのかもしれない。
「ハスドゥルバル!」
怖い。
怯えたアビバアルが弾丸のような勢いで腕を飛び出し、寝台の下へ姿を消した。
孔雀緑に塗られた扉が外から激しく揺らされ、ガタガタと音を立てた。飾りのような閂は手で抑えたところでまったく心許ない。押し返される感触に気付いたハミルカルが唸るような声を出した。
「ここを開けろ、なぜ逃げる」
「
…………
怒ってらっしゃるから
……
」
揺れが収まり、静かになる。蹴破るのを思い止まり、苛立ちを鎮めようとするように深々と息を吐くのが扉越しに聞こえた。数秒を置いて、開けてくれと繰り返す、それは乞うように響いた。
あの時そう言ったならば簡単に開けてあげた。そんなことを思い浮かべさせたのは同じように彼から逃げて扉を閉ざしたあの夜、彼が追いもせず扉を叩きもしなかった、あの惨めな夜のことだった。
「開けたら褒めてくださるのですか」
一歩引き、床との隙間から伸びる影を見つめた。
「言うことを聞いて偉いと、また言うことを聞くようにと褒めてくださるの?」
ハミルカルが何も言わないことが、ハスドゥルバルを心地のよい選択から遠ざけていく。
どうしてここにいるのと、答えの分かりきった問いかけをして、思った通りの言葉を貰う。彼が思い描く通りに笑い、何もかもを笑い話にして、死んだと思ったと冗談を言って叱られる。
──あの男は、最初にタグスを見つけるべきだった。彼に名を呼ばれ、友人として迎え入れられれば、彼がいま望むものを知れば、ハスドゥルバルの存在がすべてを壊してしまうとは思わなかったはずだ。死のほかにおのれに意味を見出して生きていくことが叶っただろう。それがかつての彼らを過去として葬り、色褪せさせるものであっても。
ハスドゥルバルはハミルカルを見つけた。
「私は何もいらない、何も求めてはこなかった、それはただ、あなたが
……
」
彼は一度もハスドゥルバルを探さなかったくせに、幼かったあの日に車を降りて駆け寄らなかったことをハスドゥルバルの犯した誤りだと思っている。寂しがっているのを知っていて詫びもしないくせに、当たり前のような顔で鍵を使った。興味を持ちもしないくせに、こうして迎えに来る。
それが嬉しい。だからそれだけでいい。けれど、他の誰もと同じようにひとしなみに扱われ、餌を与えるように応えられるのには耐えられない。
「
……
あなただけが、私を惨めにさせる
……
」
引き攣るように違和感を訴える傷を手で押さえた。ずっと分かっていてそれでも飲み込んできたものが、この傷のせいで溢れていくようだった。
扉が小さく揺れる。名を呼んだ声は静かで、戸惑いが見え隠れした。
「顔を見せてくれ。
……
顔も見せずに返事をさせるな」
彼がいまどんな顔をしているのか想像しようとした。何も思い浮かばず、見たいと思ったから閂に手をかけた。
金具を外しただけで、扉を引き開くことも踏み出すこともしなかった。古い蝶番が軋んで、扉が動く。
ハミルカルは、草臥れて見えた。シャツはよれて使用人と掴み合いになったと一目で分かる有様だった。まさか兄と取っ組み合いをしたとは思いたくない。
ハスドゥルバルが逃げ出さないのを確かめるように、ゆっくりと部屋に足を踏み込む。
伸ばされた腕に思わず後ろに下がった足が、ぐんにゃりとしたものを踏んだ。出しっぱなしにして転がしていたアビバアルの玩具。サンダルを履いた足が滑り、あっと思う間もなく体勢を崩して、大きく揺れた視界に目を見開くハミルカルが見えた。
──苦しい。
覚悟した痛みや衝撃ではなく息苦しさを感じ、目を開く。
背中と腰とを支える腕が後ろへ傾いた体を引き起こした。その腕はまったく危なげなくかけられる重みを支えるのに、抱かれて伝わってくる鼓動は早鐘を打つようだった。衣服についた香りでも整えられた香りでもなく、うっすらと汗の匂いがする。
「ハミルカルさま」
いっそう強く抱き竦められて小さく呻き声が出た。それを聞くなりはっとして体を離したハミルカルが、ハスドゥルバルを寝台に座らせた。体のあちこちを検め、傷に障りがないのを確かめると、ハスドゥルバルの目元にかかる髪を掻き上げて顔を覗き込んでくる。
「すまない、痛むか」
それに答えずに見上げた顔を、実際よりも長く見ていなかった気がした。思えば彼が身近な者たちに労いとして毎年用意するクリスマスの贈り物も受け取っていなかった。
ハミルカルの手が額を撫でて、輪郭の形をなぞった。見飽きるほど見てきたはずの顔を、そのつくりのひとつひとつを確かめるように指先が触れていく。それが耳元に至ったとき、そこが寂しいのに気がついて耳朶を摘んだ。耳飾りはいつの間にか外されてどこに行ったのだか、姉が捨てたと言ったのは嘘だとしても探し出すのは容易ではないだろう。
肩へ落ちた手のひらがその頼りなくなった感触に僅かに力を込め、何か言おうとする唇が形を定められずにいた。絡まった糸を解きほぐすようなもどかしさに紫の目を伏せる。
「あんなことが
……
お前の誇りを傷つけるとは思わなかった」
何のことを言われたのか、正しく思い至ってそう言ったハミルカルをハスドゥルバルは見上げていた。その眼差しに何の感情も乗せられないのに慣れないハミルカルは居心地が悪そうだった。
「だが、私を引き継いだお前のしたこと、お前が残したものがどれほど私にとって意味があるか、それをお前も分かっていないだろう」
「軽い気持ちのお礼ではないということ?」
「違う。そうでは
……
」
眉を寄せたとき、ハミルカルはあることに気がついた。彼らはなんら言葉を尽くさず、話をするということがなかったということだった。
ハスドゥルバルがそうと知らず首を傾げるのを見下ろして、ひとりでに美しい靄に覆われていく記憶よりもなお、比べようもなく鮮やかな存在としてそこにあることに、打ちのめされる気分だった。
「
……
私はお前が先に死んだ後のことなど考えられない」
味わってみれば分かる、とはハスドゥルバルも口には出さなかった。彼がすでに味わったという顔をしていたから。
「あの連中
……
いや、お前の家族の頑迷さのせいで、お前が生きているという確信さえ持てなかった。もし、最悪の結果になったとして、私にそれを教えるとも思えなかった」
「お葬式には呼ばないでしょうね
……
」
「ボミルカル殿がようやくここについて聞き出したのが昨日だぞ、何のつもりなんだ」
「
……
昨日?」
ここまで来るのには、休みなく移動したとしてほとんど丸一日になるはずだ。
少なくとも調整をつけて出てきたものと思っていた。ボミルカルにしても、彼らは時間の有り余る身分ではない。お仕事はと、ボミルカルがしたのと同じ質問をしたハスドゥルバルに、ハミルカルは怖い顔をした。
「組織というものは私ひとりが抜けた程度で動かなくなるようにはできていない」
ならば普段からもっと手を抜いて家族と過ごせばいいのに、それとこれとは別だと言いたげだった。
「ここに来るよりも重要なことは何もない」
「お子様方のお誕生日とか? 今月はサランボー嬢の
……
」
「そうやって混ぜっ返すのは止せ」
いつも流しているハミルカルの髪が額に落ちるのを、使用人相手に暴れたせいだと思っていた。少し違うのかもしれない。
「他の誰かが自分の意思で戻らないとしたら、惜しむだけで済む。私の招きに応じなかった者とている。だがお前は駄目だ。ハスドゥルバル、あのふざけた話を本気で進めるならお前は一度ならず葬儀に出ることになるぞ」
「結婚は
……
しても、別に何も変わらないと思いますけれど
……
鍵を返していただくくらいで」
「それが嫌だと言うんだ」
「
……
恋人がいるのはいいんでしょう? タグスのことだって気になさらなかったもの」
名前を出した途端にますます怖い顔になる。彼の葬儀に出るのは嫌だなと思ったので「何もしないでくださいね」と念を押しておくと、舌打ちをした。
「あれらがお前を楽しませるだけのうちはいい。お前から私の手を遮るようなものをどう許せと」
「触れてくださったこと、ないのに」
「
……
それは、いつでもそうできると思うと必要が、いやそうじゃない、何も言うな。ただ
……
満足していたんだ、お前がいるということだけで」
「それは、もうお気持ちがないのとどう違うの」
「気持ちがない?」
「なにもかも終わっているものと思っていた」
どちらも、相手が何を言っているのか分からないという疑わしげな目をして見つめ合った。
「私は何人も恋人を持ったり相手構わず引っ張り込んだりしないんです」
「
……
ああ」
「私の恋人は、いまはタグスであなたじゃない」
「言いたいことは分かった、ならもう別れろ」
なんて我儘なんだろう。みんなして甘やかすからこんなふうになってしまった。こういうところが近いうちにしっぺ返しを喰らうという予感があったが、それも見てみたい。
ハスドゥルバルは、ようやく薄く笑みを浮かべた。
「どうしようかな
……
」
おい、と声を大きくしたハミルカルが、伸ばされた手に口を閉じる。
その頬に両手で触れた。こちらへ引き寄せ、目を伏せて顔を少し傾けて、突き飛ばされないのを確かめる一瞬を置き、重ねた唇はかさついていた。
ただじっと熱を融け合わせるだけの十秒足らず、それを永遠のように感じた。
髪を掻き分けるように頭を支えた手が、焦点を合わせるのも難しい距離よりも遠くに行かせてくれず、ぼんやりとした紫の虹彩を見つめる。
「帰って来るんだな?」
「
……
あなたと二人旅をさせられるボミルカル殿がかわいそうですものね」
あれだけ疲れ果てている理由が分かると、そう言っておいてあげたくなる。
ハミルカルは言い方は何でもいいらしい。いつも通りの性急さで出立を促そうとして、長い道のりと相手の状態との釣り合いを測りかねてハスドゥルバルの腹の辺りを見た。
「本当にもう平気なのか」
「聞いてらしたんでしょう?」
「こういう時お前は信用ならない」
「嘘なんて言いません、ご覧になりたいなら
……
」
長衣の裾をたくし上げようとすると、さっさとしろと言わんばかりにハミルカルがそれを引き上げ、ハスドゥルバルは固まった。下着をつけていなかったらどうしてくれるのだと思い、気に留めないだろうなと諦める。
ハミルカルの手が、傷には触れないようそのそばの肌に触れる。縫合の跡はまだ硬い感触と赤みがあって、医者によればこのくらいの時期が最も痛々しく見えるのだという。おとなしすぎるほどおとなしく過ごしてきたおかげで、あまり醜い傷跡にはならないと思われたが。
いまはともかくかつてはもっと酷い傷も見て、自らも傷ついたのに、ハミルカルは目を逸らさないでいるのに苦労しているようだった。
彼が手を引くと裾が落ち、なんとなくハスドゥルバルは上着の前を掻き合せる。
「ね、嘘じゃないでしょう」
明るく言っても、眼光だけで人を殺せそうな顔つきのまま押し黙っている。
「
……
どうしてまだ怒ってらっしゃるの?」
「やはり楽に死なせてやるべきではなかった」
「そんな、意味のないこと」
「意味だと?」
おのれの耳を疑う、といった声音だった。
「あれはお前を二度も殺そうとした。一度殺し遂せておいて満足せずに。もっと早く見つけ出せていればこんなことにはならなかった。何もかもに腹が立つ。意味などどうでもいい」
吐き捨てたハミルカルの纏う怒気は生々しく、つい今し方報せを受けたかのようだった。すでにほとぼりが冷め、誰もが終わったものとして忘れようとする頃なのに。
頭を撫でてやろうと手を上げ、それが誰によくやってきた仕草か思い出したのでハスドゥルバルはハミルカルの手を取った。立ち上がらせてくれる手がそのまま寝室の外へ引いていくのに、ここが気に入らないらしいと思う。
兄は持ち物を返してくれるだろうかと思い、ふと忘れ物に気がついた。
「猫
……
」
「猫?」
「アビバアルを連れて行かなきゃ、どこかに隠れてるんです」
寝室へ戻ろうとしたハスドゥルバルを引き止めて、ハミルカルは猫など本当にいるのかと言いたげだった。
「お前、猫は我儘で言うことを聞かないから嫌いだと散々
……
」
「どうしてそんなことおっしゃるの?」
振り向くとハミルカルがぎょっとしてたじろいだ。ハスドゥルバルの目に浮かんだ涙はあっという間に頬を伝って、彼を責める声も弱々しく震えた。
「アビバアルは傷が痛んで眠れないときずっと寄り添ってくれたんです、熱が出たときも魘される私を慰めてくれた。アビーしかそばにいてくれなかったのに置いていけだなんて」
「分かった、分かったから泣くな。猫だな」
「アビバアルです」
名前なんぞどうでもいい、とは言えずに、ハミルカルはまた分かったと繰り返した。
猫のいそうな場所など知らないだろうハミルカルが部屋を探し始めるのを、ハスドゥルバルは突っ立ったまま見守った。時間がかかりそうだと見て庭に出ると、ボミルカルと兄がテーブルを出してお茶をしている。
この国で飲まれるうんと熱くて甘い紅茶だろう。何か話し合っていた彼らはこちらに気がつくと、一方は笑い一方は顔を顰めた。
「おい、どうして泣いているんだ」
「嘘泣きでしょう、これは」
「そうなのか?」
そばに立ってにこりと笑ったハスドゥルバルに、長兄はどっちにしろ泣いてるじゃないかと忌々しげである。ハンカチを出してまだ止まっていない涙を拭ってくれる。
昔も今も成人してからできた弟だからか、彼はいつもこの調子だった。下の兄と姉が愛玩じみて可愛がるのとは違いふたりめの父親のようなのだ。
「兄上、ハミルカルさまに殴られていませんよね」
「それくらいの分別はあるらしいな」
使用人は殴られたので治療費と慰謝料は請求すると言うのにもちろんそうしてくださいと頷く。ハスドゥルバルの椅子を運んできた使用人は無事なようだったので、誰彼構わず殴り倒したわけではないらしい。
文字にしがたい子猫の激怒した鳴き声が聞こえ、三人は寝室の方を振り返り、それぞれ紅茶を飲んだり焼き菓子を摘んだりした。
「
……
私のパスポート、ここにあるんですか?」
「ないよ、実家だ。まあそう急ぐな、ボミルカル殿にも話していたところだが
……
」
頷くボミルカルは老爺のようなゆるゆるとした空気を醸し出している。
「アビバアルを連れて行くならしばらく滞在するしかないだろう、検疫にどれくらいかかるか知らないが」
「行っても構わないの?」
「どうせ止められやしないからね。悪いと思うなら、もう少し僕らに優しくしてくれ」
それは子供の頃にし終えたつもりでいた。こちらのそんな考えくらいはお見通しの兄が、これだから困るのだと硝子のカップを置く。
「母上の気持ちをお前はよく分かっていないだろう。うんと可愛がったのに遠くに行って帰って来なかった末っ子が、もう一度その幼い姿を可愛がらせてくれたら、思い入れは深まる。気が済む日は来ない」
「もう三十近いんですよ、私も」
「僕らにとってはいくつになろうが五歳の頃と変わらない。
……
ああ、これだから! 親心ってものが分からないんだな」
「そうなんでしょうね」
ハンニバルたちにそんなふうに思うことがないし、我が子を持つことはこの先もない。
ともかくここか、空港に近い方がよければホテルか、どこでもよいから手続きが済むまでは落ち着いていろと長兄は言った。そのあいだ家族が自分たちを放っておいてくれるはずもないけれど、ボミルカルはもうそのつもりらしい。
「でもあの方が納得しそうに
……
」
言いさして、ハスドゥルバルが振り返ると、子猫の首根っこを掴んだハミルカルが庭に出てくる。そのますます草臥れた有り様を兄たちが笑うのを背に駆け寄って、興奮してしまっているアビバアルを受け取った。
上着の中に潜り込みしがみつく仔猫は酷い目にあったとわんわん鳴いていたが、撫でられるうちに気を鎮めてますます深く潜り込んでいく。
「ありがとうございます、ハミルカルさま」
「本気で連れて帰る気か」
「はい。それで
……
」
今しがたの話を聞くうちにハミルカルはげんなりとした顔になっていったが、ハスドゥルバルが先に帰ってもいいと言うと「残る」と言い切った。
「姿が見えていないとどうにかなりそうだ」
ハスドゥルバルがぽかんとしても大真面目な顔のまま、ここは嫌だとまた我儘を言う。その頬に引っ掻き傷を見つけて触れかけた指をハミルカルの手が捕まえ、引き寄せる。頬や額、目蓋や首筋、あちこちに繰り返されるくちづけに、ハスドゥルバルは笑い声を上げた。
勘弁してくれよと後ろから嘆く声は、ふたりとも聞こえないふりをした。
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