水樹咲夜
2021-06-09 01:38:18
20884文字
Public 笙主
 

傷痕(笙主1)

一応、笙主です。男部長固定、自分の所の部長設定。
原作にはないけど、部長のキャラエピ1〜2くらいのイメージの話。図書館クリア後くらいの進行度。

2025.10 加筆修正


 歌姫と人間の願いで出来た虚構の楽園に閉じ込められ、現実という地獄から逃げてきたその場所も、いつしか出口のない地獄となっていた。笙悟はそこから逃げ出す為に同じようにホコロビが見える者たちを集めてはみたものの、しばらくの間は何の進展もなくどうする事も出来ないまま、ただ時間だけが過ぎていった。
 そこに劇的な変化をもたらしたのは一人の少年と、彼が偶然出逢ったという妖精のような小さな歌姫だった。入学式の祝辞を担当していたその少年は、入学式の壇上というよりによってかなり注目される場で夢から醒め、真実に驚き混乱してそのままその場から逃げ出してしまった。しかも、目の前には楽士の一人がいたのだから運が悪い。
 しかし、彼はただ運が悪いというだけではなかった。μと共にメビウスの原型を作ったというもう一人の歌姫アリアと偶然出逢っていた為、彼女の力を借りる事でカタルシスエフェクトという戦う力を得たのだから。

 紅く燃えるような花を中心に、花束のように美しくうっすら光を放つ花が胸から生えて咲き誇る。その花を散らし彼を内側から壊そうとするように、黒く鋭い棘のような杭のようなものが胸と背中から溢れ貫いた。闇のように黒く染まった両手には、片手で扱うには少し重そうにも見える二丁の拳銃。それがアリアの『調律』によって発現したという彼の戦う力だった。
 発現させた時こそ苦しそうな表情ではあったが、それでも少年はしっかりとその両手の拳銃を握り真っ直ぐに敵を見据える。笙悟は何もする事が出来ないまま、いくらここが現実世界ではないとはいえ異様でしかない、夢幻の花弁が舞う美しいその光景にただ目を奪われ立ち尽くしていた。
 少年はその力で、自分たちには対抗手段はないと思われた異形と化した敵……追っ手のデジヘッドを、人数は少なかったとはいえ一人で倒してみせた。戦う力を発現させた少年と、この世界の事情を色々と知っていそうな小さな歌姫。どちらもこれまでにない大きな変化で、逃す手はないと思い笙悟は彼らを帰宅部へと引き込む事にした。

 それが彼らと関わるようになった始まりで、笙悟のカンの通りに彼……東雲奏という名の少年と、彼が連れていた小さな歌姫アリアは、それまで停滞していた帰宅部の活動を一気に前へと進める中心的な存在となっていった。
 戦う時は冷静にデジヘッドへ向かっていき、帰宅部の皆に対しては物静かで落ち着いた雰囲気で柔らかく微笑んで対応する奏と、元気すぎるほど元気で真っ直ぐなアリア。二人は相性もいいようで、帰宅部を引っ張って行ける強さを持っている。だからこそ、部長を彼に引き継いでも殆どのメンバーが納得したのだろう。

「本当に俺が部長でいいの?」
「むしろお前以外の誰が、部長出来そうだと思うんだ?」

 部長を押し付けた後、他のメンバーがいない時控えめに声をかけられ、改めて確認するようにそう問われた。じっと、奏の銀灰色の瞳が探ろうとするように……心を見透かすように笙悟を見上げてきて、内心冷や汗をかきそうになる。彼が微笑んでいる時には感じないが、その綺麗な顔と鋭く真っ直ぐに見つめてくる目は、真顔で黙ってじっと見つめられると意外と圧があって緊張してしまう。
 実際、今の帰宅部に彼以上の適任者はいないと思うけれど、笙悟にはかなり強引に押し付けた自覚があった。その理由を聞かれたり文句などを言われても不思議はないし、突然部長の立場を押し付けられた奏にはそれを言う権利もあるだろう。けれど、彼はすぐにそっと一度目を閉じ、それ以上問う事も文句を言う事もなく、すぐに雰囲気を和らげるように微笑んだ。

……わかった。経験のない事だけど、何とかやってみるよ」
「ああ、頼んだ」
「いいよ。みんなが納得してて、笙悟の心がそれで少し楽になるなら」

 優しく安心させるような笑みを浮かべて、奏はそんな事を言う。本当に心を見透かされたようで驚いてつい笙悟が奏を見ると、彼は少し困ったような顔をして見つめ返してくる。

「何となくだけど、笙悟が無理してる気がしたんだ。声とか、表情とか」
……会ったばかりなのに、そんな事わかるのか」
「もちろんわからない事の方がいっぱいだけどね。短い時間でも、何となく伝わってくる事はあるから」
「伝わってくる事?」
「会った時や部長やってた時の笙悟、ずっと何か気を張ってるように緊張してた気がして。でも俺に任せた後は、やっと肩の荷がおりたっていうのかな。ホッとしてたみたいだったから、少しでも気が楽になってくれたのかなと思って」

 そういえば、彼は帰宅部に入ってから口数は少なかったものの、一人一人を理解しようとするようにじっと見つめ、それぞれの言葉を静かに聞いていた。自己紹介した時だけではなく、その後一緒に行動する者を。静かにそれでいて穏やかに見守るように、相手が気にしない程度にそっと。
 そうして言動や行動などから、この短期間で既にメンバーの性格をある程度理解しているようだ。それでも、不思議と嫌悪感や不快感はない。彼の柔らかな雰囲気のせいか、それとも彼が相手を傷付けないよう静かに寄り添おうとしているからか。

「お前……よくわかるな、そんな事」
「声とか表情とかには、ふとした時に感情が出てしまったりするからね。新入りだし、なるべく帰宅部の人たちの事を理解したくて。でも、こういうの嫌だったりしたらごめん」
「いや、驚きはしたが、正直お前がすんなり部長を引き受けてくれてかなり助かった。俺みたいな奴でも出来たんだ。お前ならもっと上手く部長やれるだろ」
「今まで、こういうの任された事ないから自信はないけど、任された以上は頑張ってみるよ」

 彼ならば、部長を任せても大丈夫だろうと思った。そしてどうやら基本的に素直でお人好しな性格らしい彼は多分、任せても断らないだろうとも。正直、誰かを率いるなんて重圧にはもう耐えられそうになかったのもある。早い所、出来そうな誰かに任せてしまいたかった。そして多分、彼は自分よりこういうのが向いてそうだ。
 奏は基本的には物静かな性質なようだが、誰かと話す事は苦手そうには見えなかった。コミュ障というよりは、聞き役になっているだけだろう。彼を連れてきた笙悟と話すのはもちろん、女子メンバーや少々当たりが強い鼓太郎、元楽士で最初に奏を標的にしていたはずの鍵介とすら、物怖じする事なく穏やかに話す。戦闘時には他のメンバーの連携をしやすくするよう動き、自身がオールラウンダーなのを活かして様々なフォローする。そんな彼なら部長も適任だろう。笙悟はそう判断した。

「アリア、部長とかそういうの、俺今まで生きてきて一度もやった事ないけど、大丈夫かな」
『アタシもフォローするし、きっと笙悟や琴乃もフォローしてくれるから大丈夫だってば』
「うん、引き受けちゃった以上は、腹をくくるしかないね。でも部長って一体何をしたらいいのかな。戦う時のフォローはわかるけど、普段の仕事ってあるんだろうか……部員の悩み相談とか?」
『うんうん、仲良くもなれそうだし、それいいかも。みんなの色んな相談とかのってあげちゃって!』
「わかった、やってみるよ」

 部長を任せた後に、ひそひそアリアとそんな事を話していたのは確かに見たが。その後、奏は部長として本当に、アリアと共に帰宅部のメンバーと積極的に関わり始め、時に面白がり時に優しく見守り、時に厳しく助言し、傍で支えてくれようとするようになった。それはもちろん、笙悟に対しても例外ではない。
 いつも優しく穏やかに落ち着いて話を聞いてくれて、もし情けない姿を見せても貶しはしない。必要な時は、いつでも支えられるよう傍で見守ってくれる。そんな存在は、現実だけでなくメビウスでもそういないだろう。やがて後輩組はすっかり彼になつき、先輩組もつい頼ってしまうようになっていった。あれだけ部長交代の件でつっかかっていた鼓太郎ですら、奏にはやんわり受け止められて少しずつ頼るようになっているようだ。
 ここまで頼れる部長になったのは、押し付けてしまった笙悟としては期待以上ではあったが、少々心配にもなった。奏はいつも柔らかな微笑みを浮かべている事が多く、最初に『卒業』した時に見せたパニックしきった姿を除けば、感情的になる所を見ていない。恐らく、何らかのストレスがあってもあまり表に出さずに溜め込むタイプだろう。

「お前は、その、無理をしていたりしないか?」
「無理?」
「部長として頑張りすぎたりしてないかと思ってな。俺が急に任せちまった訳だし」
「ああ、えっとこれは、俺を心配してくれてる、って事なのかな」

 不思議そうにきょとんとして首を傾げ、そんな事を呟く。彼は時々、自分が心配なんてされるとは思ってもみなかった、というような反応をして、そうやって不思議そうに確認したりする事が多い。

「そりゃ、いくら現実への帰還っていう同じ目的の奴らの集まりってだけだとしても、仲間ではあるし無理してないか心配くらいはするだろう」
「そう、なのか。そうだね、仲間というのはそういうものだったかも知れない」

 遠くを見るような表情で、何かを思い出して確認するようにそう言う。それはμやアリアのような作られた存在が、データを確認するのにも似ている。

「いや、何でそんな曖昧なんだ」
「えっと、何と言うか……ずっと心配とかされてなかったから、心配されていた頃の記憶が遠いんだ。現実では殆ど人と関わっていなかったし。だから、思い出すのに少し時間かかってしまった」
「どういう事だ?」

 思わずそう問いかけると、奏は困ったように微笑んで、それでも素直に隠す事なく言う。

「心配してくれる人がいたの、小学生低学年とかの頃までだったし。記憶が遠い上に、途中の記憶がちょっと……かなり曖昧になってるから」

 その表情と言葉で、何らかの彼の傷に触れてしまったと思った。けれど、奏は笙悟に怒りもせずむしろ申し訳なさそうに微笑むだけだった。それがどうしてなのか知るのは後の事で、その時はそれ以上踏み込まないよう適当に話を変えてしまったのだけれど。
 帰宅部のメンバーだけでなく恐らくメビウスにいる者は皆、大体は自分の心の傷を隠そうとする。お互いに、それに触れれば嫌な思いをしたり傷付くだろうから、踏み込まないように一定の部分で壁を作っているものだ。しかし、奏は常に無防備に、聞かれればそれを素直にさらけ出す。それによって相手がドン引きしたり嫌な気持ちになったのを感じると、謝ったり話をそっと変えたりするようだった。
 奏は気付いていないのだろうか。そうして自分の傷をさらけ出している時の彼の表情は辛そうで、顔色も悪くなっているのに。



 ある時、いつもの雑談のつもりだったのだろう。ふと鍵介が部長に、感謝したい人はいるかというような事を聞いた。その問いかけに、彼は少し考えてから言う。

「そうだな……μと笙悟かな。μは正確にはバーチャドールだから、感謝したい人にカウントしていいのかわからないけど。人の姿をしてるし、まぁいいよね」
「笙悟先輩はともかく、μもですか?」
「うん。俺、死のうと思って街を彷徨ってる時に、偶然μの歌を聴いてここに来たんだよ。それまで誰も手を差し伸べてなんてくれなかった俺に、μは純粋に手を差し伸べて助けてくれたから」

 あっさりとそんな事を言われて、思わず笙悟も鍵介も言葉を失う。その時も彼は鍵介に聞かれたから、ただ素直に答えただけだったのだろう。奏にとって死のうとしたというのはただの事実であって、メビウスに来た理由というだけで隠す事でもないかのようだ。何と言うか、どうにも彼は少々ズレている所がある気がする。
 つい黙ってしまった二人の様子に気付かず、彼はそのまま穏やかに微笑んで話している。出逢った時の記憶を思い出しているのか、普段なら周りの様子にすぐ気付くというのに、どこか楽しげな柔らかい表情を浮かべながら。

「笙悟は、パニクって入学式から逃げ出した俺をわざわざ追ってきてまで助けてくれて、帰宅部に入れてくれたし。そんな訳で、俺はμにも笙悟にも心の底から感謝してるなぁ」

 そう言って綺麗な微笑みを浮かべる奏は、本当に心底感謝しているようだった。そんな綺麗な笑みを貰えるような事ではない。ただ笙悟がメビウスから逃げ出したいから、その為に仲間を集めていただけだというのに。それでも、そうだとしても彼はそんな風に感謝してると言うのだろうか。
 無防備に自分の事を話し、純粋な感謝を向けてくる奏を見て、何とも言えないモヤモヤした気持ちになってしまう。笙悟はつい、それをぶつけるように奏へ向けて問いかけた。

……お前はどうしてそんなに無防備なんだよ」
「俺には、守るような所なんてないからね。別にいいんだ、俺の事なんてどうでも」

 ぽつりとそう言った彼の言葉につい確かめるようにその表情を見つめると、奏は自分の胸元戦う時に花が咲くその辺りを自分で確かめるように触れる。その銀灰色の瞳は戸惑うように怯えるように揺れ、先程までより少し顔色も悪くなっていた。
 彼があまりにも無防備に心を、傷をさらけ出すのはどうしてなのか。奏に自覚があるのかないのかわからないが、それは一種の自傷行為にも見えるし、自分の心を守る事を諦めているようにも見えて気になった。

「奏先輩のアレって、もしかして自覚ないんですかね。ノーガードすぎません?」

 部長が帰った後、ふと鍵介が真面目な表情でそう言った。普通なら隠そうとするような、下手すると触れられれば痛みを思い出して苦しむような心の傷だろうと、聞かれれば素直に答えようとする奏の無防備さの事だろう。

「アレは自覚がないか、無自覚な自傷行為か。または隠す事を諦めているかなんじゃねぇかなと思ってるんだが」
「確かに、守るような所がないとか言ってましたね。先輩って妙に諦めがいい所があるというか。何か色んな事に期待をしすぎないようにしてる感じがしますし」

 自分の心の傷を隠す事だけじゃなく、何となく奏は自分自身の色んな事を諦めているような雰囲気がある。死のうなんて考えたくらいに、現実での彼は追い詰められていたんだろうから、そのせいなのかも知れないが。
 助けてくれたμに感謝し恩を感じていると言うし、きっと奏の現実も彼にとっての地獄だろう。それなのに、どうして帰りたいと思い、帰宅部に入ったのかはわからない。奏の場合、自分が帰りたいというよりは、笙悟に助けられたし皆が帰りたがってるから協力する、とかでも不思議はない。それはどうやら鍵介も思っていたようで、難しい顔をして首を傾げる。

「先輩って、本当に現実に帰りたいんでしょうか。何と言うか……他の帰宅部のメンバー程には、帰りたいって印象を受けないんですよね。そこまで必死さがないというか、迷ってる感じというか。帰る理由を探している感じというか。まぁ、だからこそ気になって僕も帰宅部入っちゃった訳ですけど」
「部長が何を思って帰宅部に入ってくれてるのかはわからんが。何にしろ帰宅部に協力してくれてるのは、正直俺たちとしてはかなり助かってるけどな。というかお前は単純に部長を気に入ったんだろ」

 元は楽士として、目の前で逃げ出した奏を捕まえて洗脳する為に追っていたようだが。しかし鍵介が楽士をやめて帰宅部に入ったのは多分、楽士だった鍵介を否定する事はなかった奏が気になったんだろう。帰る事にはどこか消極的ながら、それでも現実へ帰ろうとする彼に興味を持ったから。

「まぁ……今ここに本人いませんから、別にそれを否定はしませんけど。というか、帰宅部のメンバーで部長に悪い感情持ってる人なんて多分いないんじゃないですか?鼓太郎先輩ですら、つっかかりながらも部長に甘えたり頼ってる所あるでしょ」
「確かにな。俺も正直頼っちまってるし」
「アリアがグイグイ押してきて、先輩がそれをフォローしつつ優しく受け止めながらいつの間にかスッと懐に入り込んでる感じだし。あの世話焼き見守りコンビ、強すぎるんですよね
「普通についてくるし、面白がってるかと思えば真面目に心配してくるしな。しかもアレ、軽く聞いた感じだと帰宅部全員にやってるらしいし、何なら帰宅部外の他の生徒からも相談されてるみたいだしな」
「部長って、保護者兼カウンセラーか何かですかね?」

 そんなツッコミをしたくなる気持ちはわかる。部長と歌姫はよく行動を共にし、帰宅部のメンバーに対しては子供の買い物を影から見守る親のように、こっそり心配して後ろからついてくる事も多い。
 人間を癒したくてメビウスを作ったという歌姫の片割れであるアリアはまだわかる。しかし奏もここにいる以上は心に深い傷があり、本来なら他人を構う余裕なんてないだろうに、どうしてあんな風に頑張れるのか。笙悟にはわからなかったし、誰にも踏み込まず踏み込ませないように一線引いてるはずだというのに、どうしてなのか奏の事は気になった。
 部長も帰った事だし今日は活動もない。ここで何故か鍵介と二人して部長の話をしてても仕方ないと、その後さっさと帰る事にした。
 その帰り道、アリアと合流したらしい奏の姿を遠目に見かけ、笙悟は一瞬話しかけようか悩んで結局やめておく。妖精のような小人のような姿をした歌姫の少女と、強さと儚さを併せ持つ綺麗な少年が穏やかに話す姿を見て、何となくその光景を自分が穢したくはない。そう思ってしまったから。



 μやアリアと違って人間である奏は、ただ純粋無垢に誰かを助けようとしている訳ではないとは思う。意識的なのか無意識なのかの違いはあるにしても、完全に何の見返りも欲もなく純粋な善意だけで誰かに手を差し伸べる人間なんて、多分ほぼいないだろう。奏が何か見返りを求めた事はないし、見守ってくれているだけなのにそんな風にしか考えられないのもどうかと思うものの、人間なんてそういうものだ。
 そっと溜息をついて、今日はどこかでサボろうと思い、静かに校内を歩く。部室にでもいようかと思ったが、もしも誰かがいたら少々煩わしい気分だ。そうして何となく人の気配のない場所へ向かっているうちに、屋上まで来てしまった。一瞬どうしようか迷ったものの、他の場所を探すのも面倒になって結局そこでサボる事にする。
 嵐など来ないメビウスの偽物の空は今日も青く、一応授業の時間ではあるので、そこには人もおらず静かに過ごせる……はずだった。屋上にある梯子を登らなければ行けないような更に高い場所に、その人影がなければ。

「奏っ、お前、そんな所で何やってんだ!」

 高い場所の縁にぼんやりと、落ちるかも知れないという危機感を微塵も感じていないかのように立っていたのは先程笙悟の考え事の対象だった奏だ。彼はふわりとその黒髪や制服を揺らして通り過ぎていく風も気にした様子はなく、一人でただ静かに空を見上げていた。
 思わず上げた笙悟の声に気付いたのか、奏はふと空を見上げていた顔をこちらへと向ける。その表情はどこか虚ろで、遠目で見てもいつもなら強い光を宿す銀灰色の瞳が曇っているような気がした。それを見て、何故か彼がそこから落ちていく姿を幻視してしまい、笙悟は無意識に震えそうになる。

「何って、何となく空を見たくなって
「いいから、まずはそこから降りてこい、いいな」

 その幻を心の中で必死に振り払いながら何とかそう言うと、奏は不思議そうな表情をしながらも素直に頷いてすぐに梯子を降りてきた。そうして近くに来てきょとんとした顔で、しかも大丈夫かなどと言ってくるのでとりあえず強めにデコピンをしておく。
 痛かったのか抗議するように見つめてくる銀灰色からは、先程のような虚ろな色は消えていた。それに少し安堵するのと同時に、耐えきれず身体が震えて崩れ落ちそうになって、笙悟は抱き締めるように目の前の温かな存在に縋り付いてしまう。

……笙悟?」

 戸惑いながら笙悟の名を呼んだものの彼はそれ以上は何も言わず、どうしたのかと問う事もしなかった。背中にそっと手を回し抱き締め返すようにしながら支え、微塵も嫌がりもせずただ優しく背中を撫でてくれる。笙悟よりも少し背が低い彼に体重が殆どかかっているような体勢で、きっと奏は重くて辛いだろうと思うのに。少し重みに耐える苦しそうな表情をしつつもしっかりと支えて、大丈夫だと安心させるように背中をさする。
 その温かさと優しさがどうしてか心地よくて、彼の静かで穏やかな雰囲気に少しずつ心が落ち着いていった。しばらくして自分でも何とか立てる状態に落ち着き、離れがたいような気持ちを抑えて、笙悟はそっと奏を離す。

……もう大丈夫だ。重かったろ、すまん」
「謝んなくていいよ、ちょっとびっくりしたけど多分俺のせいだろうし。俺の方こそ悪かった。そのもうあんな所へ登ったりしないようにする」
「そうしてくれ、心臓に悪い」
「誰もいなかったし、別に気にする人とかいないと思って……ところで、笙悟もサボり?」
「ああ、まさか珍しい先客が、危なっかしい謎の行動してるとは思わなかったが」
「ただ空を見てただけなんだけどなぁ……じゃあ、危なっかしい事はしないし、邪魔はしないから一緒にいてもいい?」
「別にいいが、許可とる事でもないだろ」
「何となく。笙悟は一人でいたいから、部室じゃなくここに来たのかなと思ったから」

 言いながら奏は、もう危ない事はしませんと意思表示するように壁に寄りかかって座る。相変わらず察しがいいけれど、そんな風に言うって事は部長の方こそ一人になりたかったんじゃないのか。そう思ったものの、どこか心配そうな……不安そうな表情をしているのを見て、笙悟は彼の隣に腰を下ろす。
 確かに何となく一人で静かに過ごしたいと思って屋上に来た。しかし奏は基本的には大人しく物静かで、たまに冗談を言ったり素でボケる事はあっても、騒がしくする訳でもないから問題ない。傍にいると何となく安心するし居心地がいい、そんな相手だ。いつの間にかスッと懐に入り込んでる、と鍵介が言っていたが確かにその通りだった。
 最近加わった者たち以外の帰宅部のメンバーとの方が関わっている年数は多いはずだが、部長として積極的に奏が関わってくるようになったせいだろうか。いつの間にか、どんどん彼に気を許していた。だからこそ、さっき見たありもしないはずの幻覚が恐ろしくなる。

「これは、その、詮索とかではないし部長が言いたくなければ言わなくていいんだが」
「前に言ったように、俺には守るべき所なんてないから、笙悟が何か気になる事があるなら聞かれれば答えるよ」

 先程のは幻覚だったけれど。メビウスに来る前に死のうと思った事があるという奏が……もしかしたらいつか、あの時と同じように。

「どうして、死にたいと思った……今もまだ、そう思ってるのか?」

 気付けばそう問いかけていた。聞かれたら答える、と奏が言ってくれた事を理由に、どう考えても彼の心の傷でしかない部分を無遠慮に踏み荒らす。問われた事に奏は一瞬目を瞠り、少しの間悩み、それから何度か深呼吸してから答えた。

「俺がそう思ってしまった理由はまぁ、色々あるよ。現実では小学生の時に災害で家が潰れて両親を亡くしたし、自分も命は助かったものの後遺症はあるし。全身あちこちにその時の傷痕が残っているから気味悪がられるし、周りの誰にも好かれも愛されもしなかった。両親に守られ、遺された命を大切に、そう言われてきたけど……多分、俺はもう、生きる事に疲れてしまったんだと思う」

 震えそうになる声を無理矢理落ち着かせたような淡々とした声で。痛みを堪えるような表情で、彼は自分の胸を片手で押さえながら言う。

「疲れて、終わらせたかったんだろうね……自分の全部を。両親の所に逝きたくて、もう、そこにいたくなくて。だからきっと死にたいと思ったんだ。結局、そうする前にメビウスへ呼ばれちゃったんだけどね」
……そうか」
「今は、正直わからない。終わりたい気持ちは捨てきれてはいないと思うけど、自分でも今はどうしたいのか、よくわからないんだ。わからないから探して、とりあえず帰宅部のみんなを知って、帰したいからここにいる。……笙悟の聞きたかった事かどうかはわからないし、俺のこんな話なんてあまり聞きたくなかっただろ、ごめん」

 そう言って何とか微笑んでみせる彼の顔に浮かぶのは、諦めだった。それを見て、奏の心を踏み荒らしてしまった事を悔やむ気持ちは確かにあった。けれど同時に、皆を見守り導き部長として頑張っているような彼にも深い心の傷があった事にどこかで安心した気持ちと、彼の事を少し知る事が出来てその内面を踏みにじってしまったような背徳感に何故かぞくりとして。……そんな自分に嫌気がさした。

「不用意に聞いたのは俺の方だろ、何でお前はそんな風にどうしてお前の方が謝るんだ」
「いつもそうだったから。周りの人から両親の事とか傷の事とか色々聞かれて……答えないでいるとしつこく何度も聞かれるし、話せって言われる。でも、ちゃんと答えると今度はドン引きされたり、そういう話聞きたくなかったって。きっとみんな、そういうものなんだろうから。こんな話、きっと笙悟も聞きたくないだろうなって思って」
……だから、お前は、聞かれたら答えるし守るようなものもないって言ってたのか。心を踏み荒らされてもいいのかよ」
「別にいいんだ、慣れてるし。ただ、ちょっと……何故かいつも、体調が悪くなるんだ。不思議だよね、ただ話しただけなのに」
「それは、不思議でもねぇだろ、傷を自分で抉ってるようなもんだろうし」
「そういうもの……?よく、わからなくて」

 現実では災害で親を喪って、自分も怪我をして傷痕も後遺症もあると言っていた。恐らくそれを今まで何度も色んな人から好奇心で問われてきて、そうして彼は自分の心を隠す事も守る事も無駄だと諦めてしまったんだろう。傷付かない訳でもなく、苦しくない訳でもないとしても。それでも問われた事を答えてしまう方がマシだったのか。もし答えた事で相手が離れていっても、それ以上聞かれる事はないから。
 他人に無遠慮に心を踏みにじられ、自分を守る事を諦め自分でも傷を抉り続けている。そうしなければならないと思っているように。

「そんな顔色になってるのに、わからないのか?」
「顔色は元からそんなによくはないし
「言っとくが、明らかにさっきまでより蒼白だからな。体調も悪くなってるんじゃないのか」
……えーと、頭と、あと何か胸のこの辺が、ちょっと痛い。もしかして、カタルシスエフェクトじゃなく、本当にここ突き破って花と黒い杭が生える前兆?」
「その状態で素でボケてるのか、物理的に生えそうなレベルで痛いのかどっちなんだよ」

 嫌な事を思い出してしまったのか、どうやら奏はもう取り繕う気力もないのか、胸を押さえ力なく壁に身を預けて深呼吸を繰り返す。その顔色は蒼白になっているのに、誰も頼れないと思っているかのように。……いや、きっと本当に現実では誰も頼る事が出来なかったんだろう。無遠慮に問いかけて奏をそんな状態にしたのは自分だというのに、それを見て笙悟はつい手を伸ばす。

……笙悟?」
「あー、何だ、その……男に寄りかかるとか嫌かも知れんが、壁よりはマシだろう」

 壁に寄りかかっていた奏の体を引き寄せ、そのまま自分に寄りかからせて身を預けるような状態にさせる。親切心じゃない。自分で奏の心を踏み荒らしておいて、そんな事を言った自分が彼に嫌われていないと、触れて安心したかっただけだ。普段はこちらが頼ってばかりだから、弱っている所につけこむようにして、自分を頼ってもらいたいだけだ。笙悟はそう心の中で自嘲しながらも、くたりと力なく素直に身を預ける奏の顔をすぐ傍で見つめる。
 普段は穏やかに微笑んでいる表情が今はただ辛そうなものになり、銀灰の瞳に浮かぶ光も弱々しく曇り、薄く開き苦しげに呼吸する唇はどこか艶かしい。これまでも維弦とは別系統で綺麗な顔をしているとは思っていたものの、何故かその時は不思議と色気まで感じてしまって笙悟は思わず動揺する。こんな状態だというのに……いや、むしろ彼が弱っているから、余計にそう思うのだろうか。

「嫌じゃない……むしろ、何か心地いいよ。笙悟の方こそ重いだろうし、俺とこんな風に寄り添ってるような状態で、嫌じゃないか?」
「お前なら別にいい。それより、どうせサボってるんだし無理せず少し寝とけ」

 動揺に気付かれないようそう言って、そっと奏の頭を撫でてみる。それを嫌がる様子もなくむしろ気持ちよさそうに淡い笑みを浮かべ、奏は笙悟の言葉に小さく頷いて、素直に目を閉じた。

「笙悟の声って気持ちいいな

 そんな事を呟いて、笙悟を更に動揺させながら奏はすとんと眠りに落ちていく。傷付けたはずの笙悟に身を預けて安心したような表情で寝息をたてるその姿に、嬉しいようなむず痒いような辛いような、何とも言えない感覚になって、熱くなった顔を片手で押さえる。これは信頼だろうか、親愛だろうか、それとも。
 考えかけて、笙悟は自分が誰かの傍にある資格なんてないと否定する。本当は穢れたこの手を誰かに伸ばして触れて、支えようとするなんて許される事ではないのに。いくら部長として皆を支えようと頑張っている奏でも、笙悟の真実を知ったら流石に手を離すだろうと、そう思うのに。

 深い溜息をついて、ただぼんやりと寝顔を見つめ、何か暇を潰そうとスマホを取り出した所で、いつの間にかWIREの通知が来ている事に気付いた。アリアが部長を探しているようで、グループのWIREで呼びかけている。それを見て何の気なしに、部長なら今俺の隣で寝てると送ったら、寝ている部長を除いた帰宅部メンバー全員から反応があった。部長がこんな時間に寝ているらしいという事に反応した鼓太郎や維弦はともかく、他からの反応は……

「しまった……もう少し言葉を考えた方がよかったか」

 確かに、よくネットなどで見かける言葉に偶然なってしまっていたが。特に何かを勘違いしたのか、それともあえてネタとして飛び付いてきたのか、鍵介と鳴子の反応を見ながら、笙悟は軽く頭を抱えるハメになってしまった。

『ちょ、どういう事ですかそれ!?』
『え、それって、部長と笙悟先輩、もしかしてもしかするの?』
『確かに笙悟先輩に心から感謝してるとか言ってたし、まさか、懐いてるとかじゃなく、そういう事なんですか!?』
『ハッ、これはもしやスクープかも!?』

 どうしてそうなった、と思わず頭を抱えつつも、このままでは特に鍵介と鳴子の言動が更に暴走していきそうだったし色んな意味で部長にも悪い。仕方なく、今屋上に二人でいて一緒にサボっているうちに部長が寝ただけだと訂正しておく。いや、先程の言葉でも全く何も間違ってはいないはずだが。勘違いなのか悪ノリなのか、妙な方向に持っていかれそうになっただけで。

「あ、本当によく寝てますね確かに笙悟先輩の隣で、寄りかかって。というか、相変わらず無防備すぎでしょこの人」
『あー、教室にいないから、部長ってば一体どこに行ったのかと思ったら。こりゃ完全に爆睡してますなぁ、こうなるとなかなか起きないんだよねぇ』
「何だ本当に寝てるだけかー。でもこれはこれで撮って載せたらすごい拡散されそうかも。綺麗系イケメンの無防備で可愛い寝顔とか、絶対需要あるよね」
「流石に部長が気の毒だし、やめてやれ」
「はーい。でも寝顔撮るのはいい?」
「いや、よくねえだろカメコはマジでカメコだな」
「だってこの寝顔だし、つい撮りたくなるよ」
「後で本人に言っとけよな。どうせそんな程度じゃ怒らないだろうけどさ」
「まぁ部長なら後で言えば、苦笑しつつ許してくれそうだもんね。後で許可もらうとして、とりあえず撮らせてもらお」

 サボってるのは笙悟も同じなので全く何も言えないが。一応今はまだ授業中だというのに、まさか維弦以外の帰宅部メンバーが全員来るとは思わなかった。しかも奏がその状況でも全く起きないとは、教えてしまって何だか申し訳ない気持ちにはなった。鍵介が軽く頬をつついてみても、鳴子が寝顔をパシャパシャと何枚か撮っていても、アリアが肩に乗っておーいと耳元で呼びかけても起きる気配が全くない。完全に爆睡している。むしろ実は気絶してるんじゃないかというくらいの状態だった。

「普通こんな所でここまで爆睡します?もしかして気絶してるとか」
「あ、あの、すごく眠いんじゃないでしょうか寝かせてあげた方が
「すっごくよく寝てますもんねやっぱり部長やってるのって大変なのかなぁ」

 そんな事を言いつつ、後輩組は眠っている奏の顔を心配そうに覗き込んでいる。仕方ないとはいえ、彼が寄りかかっている笙悟まで皆に囲まれる形になっているので正直かなり落ち着かない。

「部長は皆の事をよく気にかけてくれてるし、いつも先に立ってメンバーを引っ張ってくれてるし。戦ってる時も常に戦闘メンバーだし、何かとフォローしてるし、何も言わないけど大変なのかも。笙悟の時と違って、頑張りすぎてかなり無理してそうなくらいに頑張ってくれてるから」
「大変なら俺がいつでも部長代わってやるってのに」
『肝チビッチョには無理でしょ』
「無理じゃねえし!」
「ああもう、部長を寝かせてやる気があるなら周りで騒がず少しは静かにしろっ!」

 思わず大きめの声でそう言ってしまってから笙悟はハッとして隣を見るが、多少うるさそうに眉をひそめて身じろぎした程度でやはり奏は起きない。問題なのは、無意識に温もりを求めているのかまたは枕代わりなのか、先程までと違って彼がしっかりと笙悟に抱きついて来た事だが。
 それを見て、メンバー皆してどこか気の毒そうな顔か羨ましそうな顔でこっちを見てくるのもやめてほしい、と笙悟は心の中で思う。

「微笑ましいと思えばいいのか、生暖かく見守るべきなのか正直迷う所ね……部長の寝顔は可愛いんだけど」
「先輩は本当に、笙悟先輩になついてるんですね。ちょっと羨ましい気もします。僕も三年生の時だったらもう少し頼ってもらえたかなぁ」
「せっかくだし抱き枕状態も撮っとこー」
『やっぱりしばらく起きそうにないねー。笙悟にはその間、抱き枕頑張ってもらっちゃう?』
「まぁ、体調悪そうだったし、寝とけって言ったの俺だしな」
「校内よりは屋上のがまだ安全そうだけど、一応アリアは二人についててあげて、もし何かあったら知らせて?」

 好き勝手に騒いだ挙げ句、部長を寝かせてあげようとぞろぞろ部室へと退散していく帰宅部メンバーを呆れつつ見送ってから、抱きついたまま眠っている奏を抱えるようにして完全に寄りかからせる。もはや言い訳すら出来ない程に密着しているけれど、メンバーに見られた事でこうなればもう部長が起きるまで開き直る事にした。

『朝は体調大丈夫そうだったんだけど、何かあった?』
「まぁ、何と言うか、俺が無遠慮に嫌な事を聞いちまったから、だろうな」
『部長は自分からは言わないけど、聞かれたら答える、ってタイプだし。それが傷に触れちゃう時もあるんだろうねでも、その割に笙悟にくっついて安心して寝てるみたい』

 それはきっと、奏が優しくて。そして自分の全てを諦めていて、弱っている所でこうして笙悟が寄りかからせたからだろう。彼の話す事……特に現実の話からは少し聞いただけでも傷と孤独が伝わってくる。μはともかく、あの時彼を助けたというただそれだけで、心の底から笙悟に感謝をするくらいだ。現実だけでなくメビウスの中でさえも彼を助ける者はあまり多くはなかったか、またはいなかったのかも知れない。
 本当は、安心してもらえるような奴じゃないんだと言いたくなるのを抑え、笙悟はすやすやと眠る奏を見て苦笑する。

「本当に、こんな所でよく寝られるもんだ。俺は筋肉痛になりそうだってのに」
『あー……実は部長、疲れてると床とかでパタリと寝てたりする時があるからかも。何かこう、どこでも寝れるっていうか?』
「それは……大丈夫なのか?」
『アリアごめん、眠い、ちょっと寝る。とか言ってクッション抱えて床で丸くなって寝て、気絶でもするように爆睡して一時間くらいするとスッと起きるんだけど。最初はアタシもびっくりしたよ、突然電池切れしたみたいになるし』
「床で丸くなって寝るとか猫か。しかし、確かに今のこの爆睡状態に似てるな」
『まぁ、今はクッションじゃなく、残念ながら抱えてんの笙悟なんだけどね』
「残念ですまんな。寝ぼけて温もりを求めてくっついて来た自分を恨めよ部長」

 そんな事を言っているうちに、奏の意識が浮上してきたらしいのをアリアが察知し、彼の耳元で騒いで起こす。スマホのアラームより起こすという意味では優秀かも知れないが、朝や寝起きからあのテンションで耳元で叫ばれても全く怒らないのは流石部長というか何と言うか。

……っ、ご、ごめん、俺どれくらい寝てた?」
「一時間半くらいか。昼だしそろそろ起こそうと思ったんだが、大丈夫か?」
「うん、大丈夫というか、いつの間にか何故かアリアがここにいる?」

 爆睡していたせいだろうか。奏はまだあまり頭が働いていない表情で身を起こして笙悟を見て、それから目の前に浮かんだアリアを見て、ぼんやりしつつ首を傾げる。そんな彼にアリアがいる経緯を説明すると、スマホを取り出して内容を確認するようにWIREを開く。

……何も間違ってはいないんだけど、部長なら今俺の隣で寝てる、ってグループのWIREで伝えるのはどうなの」

 苦笑しながらもログを確認して、面白そうに言ってこちらを見てくる奏に、笙悟も苦笑するしかない。全員に寝顔を見られ、一部にそれを撮られたりした事をアリアに伝えられても、WIREを確認した時点で何となく予想はしていたのだろう。その時点で起こしてほしかったな、と呟きつつも特に動揺はなく、ただ困ったように笑うだけだった。

「ちょっと起こしてはみたんだが爆睡してたんで、もう少し寝かせといてやろうってなったんだよ」
「申し訳ないような、いっそ爆睡してて何も気付かなくてよかったような。まぁいいか、見られて困るようなものでもないし。それより笙悟お腹減ってない?」
「減ってるがどうした?」
「寄りかかって寝てたお詫びとかあと色々と、まぁお詫びとお礼も兼ねてご飯でも奢ろうかなって思って」
「そりゃありがたいけどいいのか?」

 もちろんと頷いて、アリアにも寝てた事を謝ってから、立ち上がって伸びとあくびをする奏はのんびり寝ていた猫が起きた時のようで何だか微笑ましい。笙悟も立ち上がり、ほぼ同じ姿勢でいたせいで少々疲労した腕などを動かしていると、申し訳なさそうに礼を言われヒーリングしようかなどと言われた。

「笙悟、どう?」
……治ったような治らんような。多少楽になった気もするが」
「気休め程度には効くって事かな。使わないよりはマシって感じ?」
「そんな所だな」

 結局、一応ヒーリングをしてもらったものの、効果はあるのかないのか、という感じだった。メビウスの中でも、どうやらそう都合よくはならないようだ。ここでは一番力があるだろうμですら、ホコロビを隠す事も出来ず帰宅部のメンバーすら強制的に何とかする事も出来ず、万能の神にはなれない事を考えると、まぁそんなものだろう。

『結局効いたかわかんなかったけど、じゃあそろそろご飯食べに行っちゃって、OK?』
「食べに行く所は決めてたのか?」
「特には決めてなかったし、お礼とお詫びも兼ねてるから、笙悟とアリアに食べたいものは任せるよ。何食べたい?」
『どうせなら高いもの食べちゃう?』
「それは流石に、俺の財布の中身と相談しなきゃ難しいけども」
「いや、そこまではな」

 というか、そもそも奏があんな風に体調を崩して寝ていたのはこちらにも原因がある。それで高いものとか奢られたら、流石に申し訳ないだろう。

「えーと、確か笙悟は貝とか好きなんだっけ。和食の店とか、あとは多分、洋食でもカキフライとかならあるかな?」
「お前、他人の好きな物とか、そういうのよく覚えてられるな」
「こういう時に、好きな物わかってるといいかなと思って。笙悟、和食と洋食どっちがいい?」
「あー、そうだな、洋食かな。というか部長がさっき言ってんの聞いてたら、何かカキフライ食いたくなったわ」
「わかった。アリアもそれでいい?」
『OK、そう言われるとアタシもカキフライ食べたくなるし』
「何で二人してそんな事に?」
「いや、お前が言ったからだろ」
「俺、カキフライとか言ったっけ」
『無意識かーい!』

 きょとんとして不思議そうに首を傾げる奏に、アリアの鋭いツッコミが入る。しかし言った本人は微笑んで、美味しい店を検索していたりする。

「アリア、こことかどう?」
『あ、確か美笛も鳴子もここ美味しいとか言ってたよ。しかも結構穴場とか?』
「ならよさそうかな、それじゃあ行ってみようか」
「お前らいつもそんなノリなのか」
「えっ、うん、大体こんな感じかな」
『こんな感じだねー』

 顔を見合わせてそう言い、ほんわかと笑い合う奏とアリアは、不思議と兄妹のようでもある。別に顔が似てるとかそういうのではないが、雰囲気だろうか。そういえばμも天然でふんわりした雰囲気の優しいタイプだったし、そんなμと友達でしっかりしていてツッコミ気質なアリアと、どこか天然な所のある奏は何となく波長が合うのかも知れない。
 検索したその店は駅前の方にあるらしいので、とりあえず学校を出て二人でそちらの方へと歩き出す。店の場所は、定位置である奏の胸ポケットにいるアリアがナビしてくれるようだった。

「好きな物とか、部長は帰宅部のメンバー全員分覚えてんのか、もしかして」
「まぁ、流石に好きな物くらいだけど、一応はね。聞いたら覚えておくようにしてるよ」
「そういう所、本当スゲェな……俺には真似出来ねぇし、真似する気も起きん」
「別にいいんじゃないかな。俺はただ、自分が食べたい物ってあんまり思い浮かばないから。どうせなら仲間の好きな物でも覚えといて食べようかなってだけだし」
『確かに、部長ってば食べたいもの聞いても悩んじゃうし、結局アタシや仲間の行きたい所ってなるし、ついでにすっごく食が細いんだよねぇ。アタシが言うまで雀の涙程度しか食べないから驚いたよ』
「さ、最近は、ちゃんと食べてますし。アリアがいるから食べない訳にもいかないから……それに雀の涙は流石に言いすぎじゃないかな」
『現実でも育ち盛りなはずの高校生男子なのに、面倒だから今日はスープだけでいいやとか、朝ご飯とはいえフルーツだけとか、多分あんまりないからね!』
「そりゃまたお前、何と言うか

 それは雀の涙程度と言われても仕方ないかも知れない、と笙悟は心の中で思ってしまう。食生活の乱れなんかは笙悟自身もあまり言えた事ではないが、奏のそれはカップ麺とかコンビニ弁当ばかりとかの食生活の乱れではなく別の方向ではあるけれど

『笙悟も何か言ってやって!』
「ダイエット中の女子みたいな食生活だな」
「う……メビウス来るまで、あんまり食べ物美味しく感じなかったから、自然にそうなってたんだよ。仕方ないだろ」
「今はどうなんだ?」
「うーん、今はちゃんと美味しく感じるし、アリアや帰宅部のみんなと一緒に何か食べたりするのは美味しいよ」
『アタシがしばらく一緒にいて感じた事ズバリと言っちゃうと、YOUは一人で大丈夫ですって風に見せてるだけで、実は結構寂しがりっぽいし。一人だとご飯とか色々適当でいいかなー、食べなくていいかーってなっちゃうタイプとみた』
「そそんなことはないですよ?」
「動揺出てんぞ」
『あ、ズバリと当たっちゃった?よしよし、寂しいならアタシが一緒にいてやんよ』

 アリアにそう言われ頭を撫でられながら、うぐぐと言葉に詰まり真っ赤になって恥ずかしそうにしている部長。というかなりレアなものに遭遇して、笙悟はつい笑いながらそれを眺めてとりあえず記憶に刻んでおく。鳴子辺りだったら激写していたに違いない。

「笙悟、ニヤニヤ笑うなよ」
「いや無理だろ。お前顔真っ赤だし、撮ってやろうかと思うくらいかなりレアな顔してんぞ」
「それは勘弁してください、笙悟先輩
『意外と可愛いねぇ部長ってば』
「確かにな、可愛い可愛い」
「絶対それ褒めてないし、二人してからかってるでしょ。何かニヤニヤしてるし」

 普段は微笑んでるか大人びた表情ばかりの奏が、拗ねたような表情でぷいっとそっぽ向くのが年相応か少し幼く見えた。そんな表情を見て、ついアリアと共に笙悟も奏の頭を撫でる。普段の微笑みや大人びた彼の表情は、皆を支えられるようにそう見せているだけなのかも知れない。
 もしかしたら両親を喪った事で周りを頼れず、孤独の中でやがてそんな表情しか出来なくなったんじゃないか、笙悟はふとそう思い至った。

「俺が部長だった時ほどじゃなくても、もう少しお前も気を抜いたっていいと思うんだがなぁ。頑張りすぎてないか?」
「笙悟が部長だった時を、俺は殆ど知らないけど、ちゃんとまとまってたし、『卒業』した人を見つけて勧誘して集めているなんてすごいと思ったんだ。俺には自分がそう出来てるかわからないし、相変わらず笙悟や琴乃さんにフォローしてもらってるから」
……俺はそんなすごいもんじゃねぇよ。だから、お前も頑張りすぎなくてもいいんだ。無理すんなよ」

 銀灰色の瞳に真っ直ぐ見つめられるのが辛くて、そっと目をそらす。どうやら奏は本気でそう言っているようだけれど、ただこのメビウスという箱庭から逃げようとして必死になっていただけだ、すごくも何ともないと、笙悟は心の中で呟く。奏は少しの間見つめていたけれど、ふと遠くを見るようにしながら困ったように微笑んだ。

……自分の事って、わかんないものだよね。俺も、笙悟も、みんなも。わかっているつもりでわからないのが、自分というものなのかも知れない。悪い部分だけではなく、いい部分もあるはずなのに、それが自分からは見えなくなってしまったりもするから。人って難しいね」

 そう呟いた後、切り替えるように彼はアリアに向けて問いかけながら、少し離れた場所にある店を示す。

「アリア、探してるお店ってあれかな?」
『あ、本当だ。よく見えたね』
「ここでは視力も結構いいみたいなんだよね、だから割と遠くてもちゃんと見える。じゃあ行こっか、アリアも笙悟もお腹減ってるんだろ」
『YOUは減ってないの?』
「多分、減ってはいるけどまだ耐えられる、くらいの感じかな、これは」
『耐えなくていいんだよ!何で耐えようとすんの、食べよ食べよ!』

 曖昧な上に耐えられるなんて言い方に、笙悟はつい苦笑してしまう。アリアの言葉に同感だ、どうしてメビウスに来てまでわざわざ耐えようとするのか。たとえ帰宅部をやっていても、少なくとも衣食住に困る事はないだろうに。

「もしかして、空腹感がよくわからんのか部長は」
『そうみたいなんよー。しかも何故か耐える癖がついてるみたいで、食べても雀の涙程度だったし。アタシが何度も言ってやっと普通より少食くらいにはなったけどね』
「雀の涙から離れようよ
『そんだけ少なかったって自覚しろー!』
「はーい、自覚してます。だから一緒にご飯食べてください」
『もちろん!こんな感じだし、笙悟も時々でいいから一緒に食べてあげて?』
「まぁ、そりゃ構わんが、俺でいいのか?」
『あまり気にしないとは言っても、男子メンバーのが気持ちが何となく楽みたいだし。それに笙悟には特に懐いてるみたいな感じするから』
「アリア……そんな事まで伝えられると、あまり気にしない俺でも流石に照れくさいからね」

 軽く頭を抱えて、照れたような困ったような顔をする奏がまた珍しい。弱っていたせいなのか、今日は何故か色んな表情を見る。もしかしたらこれが素の彼に近いのだろうか。そうだとするなら、やはり普段はかなり無理をしているんじゃないか、そう思うものの笙悟は聞けずにいた。

「ほら、それじゃあ行こう、アリア、笙悟」

 笑ってそう言う奏の表情は、普段よりも明るく楽しそうで、つい笙悟もつられて微笑み頷いた。穏やかに微笑んでいる普段の奏も悪くはないが、もっと彼のそういう部分が見たい。頑張って『部長』として振る舞う姿ではなく、素の部分が見たい。そんな事を思ってしまう。
 いつもなら他人の事情などには極力関わらず、踏み込まないようにしているというのに。これでは現実で奏の心を踏み荒らした、その周囲の者と同じじゃないのか。いや違う、ただあんな弱々しい姿を見たから、何か手を貸せたらいいと思っただけだ……そいつらとは違うと思いたかった。結局は同じようなものではないのかと思いながらも。

「ん、どうかした?」
「いや、何でもない」

 彼の事を知りたいなど、自分が思ってはいけないだろう。それでも、どうにもそんな気持ちを止める事が出来ない。彼にも弱さがある事を知ってしまったから。空を見上げていた虚ろな瞳を、心の傷に少し触れてしまった時の弱々しいあの姿を忘れられない。放っておけないのか、それともただの好奇心なのかわからないけれど。
 そうしてはいけないと思いながら、もっと知りたいと。普段は見せない彼の表情が見たいと、笙悟は思ってしまった。部長という重荷を任せてしまったから、力になりたいから、死のうと思わせたくはないから。理由を付けるなら色々あったが、きっとただ、気付いてしまったからだ。奏がいつも、微笑みで自分の心を隠すようにしながら他者と接し、自分の色んな事を諦めてしまっている事に。
 いつも穏やかに微笑む少年の心に確かに存在する、傷と闇の一端に触れてしまったから。綺麗にしか見えない奏もまた、メビウスに堕ちた人間の一人であって、澱みや歪みを心に抱えた弱い人間なのだと。もしかしたら、そう安心したかったのもあるかも知れない。