小話倉庫(深上)
2025-12-18 00:32:05
9681文字
Public 悠アキ/haruwise
 

unreal conditionals(悠アキ/haruwise)

もしもこの未来がなかったら、なんて考えたくもないけれど。
12/21 2頁目にその後のモブ視点追加。

 H.A.N.D.本部、光の差さない低階層の窓際の休憩スペース。人気のないその場所を好んで、悠真は暇を見つけてはそこでサボっていた。
 最低限の仕事はこなしているが、こちらの態度をよく思わない同僚や上司には遠巻きにされる日々。それは悠真が若くしてH.A.N.D.に入り、出世街道を順調に進んでいるように見えるからだろう。業務態度に注意をしたらまったく反省をしていない軽い返事が返ってきて、外勤の仕事が入ると気付いた時には忽然と姿を消している。そんな悠真に本音でぶつかるような相手も、まっとうに注意をしてくれる上司も次第に減り、ただ安穏とした日々を過ごしていた。
 今日もそうしてのんびりと、定時までの空き時間の暇つぶしをしていた悠真だったが、そこにあまり名前も覚えていない同僚の男が現れた。すぐ傍の自動販売機でコーヒーを買うと、頬杖をついてあらぬ方向を見ている悠真の前にわざわざ腰掛け、じっとこちらを見据えてきた。
……何か用? そんな熱心な眼差しを向けられるようなへまはした覚え、ないけど」
 名前は覚えていないが、同期だということは分かる。歓迎会やら交流会やらにまだ呼ばれていた頃、彼の姿も何度か見ていた。悠真の問いかけに相手は少し不機嫌そうに、というか気まずそうに目を逸らした。
「別に。俺は休憩に来ただけだから」
「あっそ」
 興味を失って視線を横に流すと、溜め息を吐かれた。
「お前、部署でなんて言われてるか知ってるか?」
「さぁ……どうせ、臆病者とか、怠け者とか、見せかけだけとか、そのあたりじゃない?」
「自覚はあるんだな。だったらもう少し、その態度を改めたらどうだ」
 ああ、とようやく理解する。この男はただ、悠真のことを心配して口出しに来ただけだ。お人よしだなぁと嘲笑いながら、悠真は少しだけ口角を上げる。
「改めたところで、何がどうなるわけでもないしねぇ」
「出世がチャラになってもか?」
「要らないよ。別に……何がどうなっても」
 他の人よりずば抜けたところで疎まれるだけだし、注目されるだけだ。息苦しい毎日が待っていると分かっていてその険しい道に飛び込むほど、悠真は人間ができていない。そんな悠真に対し、相手はめげずに話しかけてくる。
「近々、新しい課が立ち上がるらしいぞ」
「へぇ……今よりも楽になるなら、ぜひとも立候補したいかな」
「新設の課が今より楽なわけないだろうが」
「だよねぇ。じゃあ僕は現状維持。なべてこの世は事もなし、ってね」
 この雑談ですら、悠真にとっては些細なことだ。全体の流れを遮らない、木の葉程度のことですらない。
「じゃあお前、彼女とか作らないのか?」
 唐突な話題転換に目を瞬かせてから、なるほどね、とすぐに細める。
「あれ、合コンのお誘いだった?」
「そんなんじゃねえって」
「ははーん。あれでしょ、一課の受付の大人しい子。狙うなって釘刺しに来たとか?」
「なっ、ばっ……なんでそこまで的確に突いて来るんだよ!?」
「あんたが時々彼女に熱視線を向けてるのは知ってるよ。ちなみにあの子は、紅茶よりコーヒー派。でも甘いものは好きだと思うから、さり気なく差し入れでもしてみたら? あまり直接的だと性格的に怖気づいちゃうかも」
……なんでそんな詳しいんだ? いっそこえぇわ」
「人間観察が趣味なんだよね~」
 人に興味があるからではなく、ただ危険を回避するための情報集めに過ぎないが。
 人というのは厄介だ、感情に振り回されて正常な判断ができなくなる時があるのだから。追い詰められてナイフを振りかざしてくる子供、感情が抑えられなくてホロウの中に子供を探しに飛び込もうとする親、金儲けという幻想に踊らされてホロウに入った挙句泣いて助けを乞うてきたホロウレイダー。
 そんな人間を散々見てきたからこその諦念を抱いてしまえば、トラブルに巻き込まれないために先んじて情報を得ておくことが生き抜くための手段になるというもの。
 ただでさえ時間がない自分には、一秒のタイムロスも惜しいとすら思うのだ。彼とこうして話している間もそんなことが脳裏によぎっている。
 H.A.N.D.に入ったからには、最低限の業務である対ホロウ事務と、救命活動には全力を注ぐ。けれどそれ以外の些事にはよほどの興味がなければ首を突っ込みたいとは思わない。
 平穏無事に生をまっとうする――それが悠真の最大の望みなのだから。
 同期の男はその後も自分の話を垂れ流していたが、悠真の適当な相槌に勝手に満足して数分後に去って行った。
 彼と入れ替わりに休憩スペースに入ってきた影があった。桃色の長い髪をなびかせ、いかにも知的な印象が強くなる眼鏡をかけた女性だ。先ほどの男よりもその女性の方が悠真の記憶に鮮明だった。静かな身なりからは想像もできないが、軍上がりで幾多の戦場を潜り抜けてきたという噂を聞いたことがある。そんな彼女が同期だったおかげで、悠真への注目度はかなり下がっていた。ありがたいことに。
 情報収集、戦闘行動、後方支援、と何をさせても優秀なのに、角が立たないというのも才能だと思う。そんな彼女をつい目で追ってしまう悠真に相手も気付き、目が合った。ぺこり、と頭を下げられたので、悠真もつられるように軽くお辞儀をする。言葉は交わさず、相手は飲み物を二本買うとすぐに立ち去った。
 再び静かになった休憩スペースから窓の外を眺める。ここは光も差さないが、窓から見える空は燃えるような朱色だ。
 次第に夜になりゆく空をじっと見つめながら、男が垂れ流していた言葉をいくつか拾い上げて、頭の中に展開する。
 確か……出世、未来、恋人、それから夢——
(要らないな)
 輝きに満ちたそれらを瞬時に切り捨てると、悠真は立ち上がった。時計はもう、定時の五時ぴったりになろうとしている。
 帰っても何があるわけでもない。ただ食事を摂取して、薬を飲んで、寝るだけだ。明日も明後日も変わらない日々が続くだけ。それを哀れにも無念にも思わない。きっと自分はこれまでもこの先も、誰かを好きになることもなければ、人生が変わるような出来事も起きない。
 一つだけ人生の転機があったとすれば、それは記憶の中に居る師匠との出会いと、別れだったのだろう。それでいい。それだけで。
……たとえその先の人生が、寂しい灰色でも)
 きっと自分はその選択を後悔しないし、誰を恨むこともないのだろう――

  *

 瞼に落ちる朝の光に誘われるように、重い意識をこじ開ける。むくりと体を起こして、先ほどまで見ていた夢を脳裏に再生する。
 あれは、自分がH.A.N.D.に入って間もない頃。六課ではない部署に配属となり、適当に日々をやり過ごしていた時のことだ。何も期待せず、いつか来る未来を受け入れて、自分にできることを模索していたあの頃。
(恋人は要らない、ね)
 そう思っていたことも確かだ。けれど今の自分はそれを肯定することができない。
 人生の転機は幼い頃の一度きりかと思っていたのに、なんとその後予想外なことに二度も立ち会ってしまった。
 一度は、対ホロウ六課への転属だ。星見雅の推薦によってあれよあれよという間に辞令が下され、まだ内装も整っていないオフィスに足を踏み入れた。何もなかった部屋が今では、課員の好きなドリンクが常備され、寝心地の良いソファが置かれ、各々の私物も増えて第二の家かと思うくらいには落ち着ける空間になっている。
 雅が自分の何を見て六課に誘ったかは聞いたことがないので分からない。聞けば答えてくれるとは思うが、悠真はあえて聞こうとは思わなかった。
 そして、もう一つの転機は――もちろん、彼と出会ってしまったことだろう。
 手を伸ばして、隣で眠る人物の銀色の髪をそっと掻き上げる。揺れる翡翠の瞳は閉じた瞼の向こう側だ。悠真がこうして触れても起きる気配はなく、すうすうと静かな呼吸が零れている。
 愛しい、と知らず口元に笑みを浮かべてしまう。
 過去の自分が不要だと切り捨てた感情は、今の悠真の心の底にしっかりと根付いてしまっている。誰かを好きになることも、大事に思うことも一生ないと思っていたのに。
 彼との出会いは悠真にとって、些細な日常の一幕に過ぎなかった。
 一目惚れではなかったはずだ。少なくとも、最初の頃はまだ悠真の中に「恋人は要らない」の常識が根付いていたし、覆ることもないと思っていた。過去の経験上、優しくて誰からも頼りにされる彼に警戒心を抱いていたというのが正しい。
 日々を共に過ごすうち、次第に心に熱が灯って、もっと彼と一緒に居たいという欲が湧いて初めて、相手に恋をしているのだと気付いた。その瞬間こそが衝撃だった。今まで信じていた自分の姿は一部でしかなかったのだと思い知らされた。
 そして彼もまた、最初に見せていたのは一部でしかなかったのだと知った。冗談を言うところも、存外抜けているところも、甘えることに慣れていないところも。一つ知るたびに新鮮な心地になると同時に、ますます知りたいという感情が抑え切れなくなった。
 告白は悠真からだったが、ほとんど逆切れのようなありさまだった。分かってくれない、受け入れてくれるわけがないと思い込んでいたからの不格好な告白だったが、相手は笑って「僕もだよ」と返事をくれた。
 それはもう、この世の春とばかりに心が躍る瞬間だった。そして悠真の中にかつてあった常識はその一瞬ですべて崩れてしまった。
 『出世』は六課に入った瞬間に意図せず果たしてしまったが、残された『未来』と『恋人』、それから――『夢』。
 要らないと捨て去ったそれらを必死にかき集めて、自分の感情を受け入れてくれたアキラに飽きもせず注ぎ込む。それは誓いだった。自分の命が尽きるその瞬間まで、彼を愛し続ける――という。
「アキラくん」
 健やかに眠る彼に呼びかけると、んん、とむずがる声が聞こえて、ゆっくりと瞼が開かれる。
……はるまさ」
「おはよう。朝だよ。僕そろそろ準備しなきゃなんだけど」
「もう少し……ほら」
 そう言ってまだ寝ぼけ眼のアキラは、布団を上げて悠真をその温もりの中に誘う。ぐう、と一度抗う振りをして、時計を念のため確認してから悠真はもぞもぞと素直に彼の腕の中に収まる。悠真を抱き締める形で布団が閉じられ、直接彼の温もりを感じた。
「このまま寝坊したら、課長と副課長の雷が落ちるんだけど」
「僕のせいだって言えばいいだろう……
「言ったね? いいんだね?」
「ふふ、いいよ」
 言いながらまた夢の世界に落ちていくアキラの手を掴んで自分の胸の前に持ってくる。互いの鼓動がどくどくと響く。
 手を繋ぐ。すぐに握り返してくれる。
 名前を呼ぶ。振り向いて、笑う。
 彼が自分の名前を呼ぶのが好きだ。自分が彼の名前を呼ぶのが、好きだ。
 響き合って繋ぎ合って、ここに居ることを実感する。
 ——ああ、生きていたいなあ。彼と一緒に、いつまでも。
「悠真」
 名前を呼ばれて、はっとしてつい零れかけた涙を拭った。何、と小さく答えると、もう片方の手で頭を撫でられた。
「だいじょうぶ」
 何の確証もないのに、彼のその言葉一つで安易に安心してしまう。甘いなぁと思う。自分も、彼も。
 灰色ではない世界で、今日もまた、温もりに包まれて生きていく。
 なんという幸福だろう、と悠真は瞼を閉じた。


 結局遅刻した悠真に、しかし課員たちはちっとも容赦がなかった。
「鍛錬が足りないな。私と修行するか?」
「人のせいにするなんて、ハルマサ、サイテー!」
「それが本当だとしても、貴方の遅刻は変わりませんよね? 罰として、ノルマ追加です」
 山のように積まれた書類を爆速で片付けた悠真は、帰路に着いたその足を真っ直ぐ六分街のビデオ屋に向けた。
 アキラの背後にしがみつき、つらつらと恨み言を漏らす悠真を見たリンは「セミみたい」と呆れた声で揶揄したが、アキラは何も反省した様子を見せず、悠真のしたいようにさせていた。
「誰一人としてアキラくんを非難しないんだもん。あんたら、六課に信用されすぎ」
「ふふーん、だって私たち『パエトーン』だもん。当然でしょ!」
……ふふ、そうだね」
 得意げな妹と、満更でもなさそうな兄にますます悠真の頬が膨れる。彼らの笑い声は、夕飯時になってもなお六分街の片隅に響いていた。