三角リョヲヘイ
2025-12-02 12:33:41
22524文字
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月に鎮め/本編小説、第十四話

決断の話

この機を逃せば次は無い。
つまりそれは今である必要がある。

第十四話
決断の話



羅乃目らのめ……紅族。第十九代統領
黒骸くろむくろ……紅族。羅乃目の許婚
羅神らじん……羅乃目に憑いている黒い狼の憑守つきかみ
雨庸うよう……黒骸に憑いている白い大蛇の憑守
鎌苅トキ時かまかりときじ……憑守が見える、食事処伊呂波しょくじどころいろは二代目店主
天河良あまかわりょう……通称「死神」。伊呂波のケツ持ちをしている彫り師
朔介さくすけ……按摩師の老人
朔太郎さくたろう……朔介の相棒を務める犬



 ここで言葉を並べるのはあまりにも野暮である。
 つまり。
 男には決めねばならない時がある。
 そしてそれが今だということだ。


     ◇


「手を汚すのは俺だがね、それを決めるのは俺じゃない。早く聞かせてくんな、旦那」

──『血殺仕置人 上』より、一部抜粋


     ◇


 その日の太都は、早すぎる暑さを纏った季節外れの陽気であった。まだ湿気こそないものの、肌を突き刺す日差しは梅雨さえも遠い木々の青葉や人肌にはいささか刺激の強いものとなって降り注いでいる。昨日までとは様子の違う日差しに目が慣れず、なにもかもがほんのり白飛びする世界。
 人間たちは「暑いね」「洗濯物がよく乾くよ」「野菜も天日干しにしようかしら」「日向ぼっこには暑いか……」などと陽気の恩恵を口々に交わしながら、繰り返されてきた営みにもたらされた少しの変化に感謝していた。
 そんな人間たちを横目に、羅乃目は西町通りへ来ている。トキ時とソレとコレが、つまり人間と動物が仲良くなるにはどうすればいいのかを先人へ聞く為に。
 西町通りは火事の湿った面影を残すことなく、健全に着実に立て直しが進んでいた。乾いた地面には、燃えていった建物のチリや灰も混ざって踏み固められているだろうか。少なくとも見えない、目には。
「燃えてしまったこの辺りはね、どうやらまとめてお金持ちが土地を買い上げたらしいんですよ。火事っていうものは本当に厄介ですからね、思い出も財産も文字通り焼いてしまうから、じゃあもう一度ここに旅籠を建てましょうっていうのは、土地があるからとは言っても、どうにもなかなか難しいんですよ」
 羅乃目は本題に入る前に朔介、朔太郎とぼんやり西町を流している。
 西町は火事の前と変わらず、人が多く、他所者に優しい。
「なんでもまとめた土地で大きな大きな旅籠を建てるって噂でね。希望すれば火事の前にここで働いていた人もそのまま雇い入れてくれるって言うんだから、ありがたい話ではあるんだけれども」
「ワンッ」
 朔太郎は少し見ない間にもあっという間に成長していた。一回り体が大きくなり気持ち顔付きも精悍になっている。男子三日会わざれば刮目して見よ。とは言えまだギリギリ子どもの範疇だ。千切れんばかりに尻尾を振って朔介の真横をぴたりと歩きながら時折羅乃目を見上げて満足そうにはふはふしている。少々興奮気味、ということだ。
「少し寂しいですね、変わってしまうのは。あたしは見えないからといって風景の変化を無視しているわけではないんです。そこで生活していた人たちの呼吸はきちんと心に残りますからね」
 朔介の角のない柔らかな言葉を耳に入れながら羅乃目は榛のことを薄らと思い出していた。あの口ぶり、なんらかの目的を持って意図的に火事を起こしていたのだとすれば、『土地をまとめて買い上げて、大きな大きな旅籠を建てる』為だったのだろうか。この土地は誰がまとめて買ったのだろうか。榛はこの結果が欲しかったのだろうか。それとも全て全く全然関係ないのだろうか。
……
 規模感が大き過ぎて、羅乃目には考えても無駄な話題ではあった。おそらく、榛はそういった規格の外にいる生き物なのだと位置付けた、一旦。これは一種の防衛反応にも近いかもしれない。脳が拒否している。
 そしていくつかの考え事を脳内で一列に並べて、今必要ではないものをそっと列から外す。深呼吸の一歩手前の深い呼吸をして、そうでない考え事を一緒に吐き出した。
「さて、お嬢さんは何を話したくてあたしに会いにきてくれたのかをそろそろ聞きましょうか」
 朔介は羅乃目の心の準備を待っていたらしい。
「いつものお散歩とは様子が違うことくらい、わかりますよ」
 この老人は、本当に目が見えないだけなのだと思い知らされる。表情が伺えないことが相手の小さな感情の揺らぎを汲み取れない理由にはならない。
「んと」
 羅乃目は用意してある言葉を引っ張り出して、隣を歩く小柄な老人に投げる。
「おじさんと朔太郎は、どうやって仲良くなったでやんすか? なんというか、人間と動物が仲良くなるって、どうしたらいいでやんすか」
「ほほう、あたしたちの仲良しの秘密についてですか。いいでしょういいでしょう。お嬢さんにお教えしましょうね」朔介は膝辺りにある朔太郎の頭を寸分違わずに捉えて片手で撫で回した。「でもお嬢さんは動物と仲良くなるのがお上手なのではないですか? 朔太郎だってねえ基本的に優しい子ですけれど、初対面で誰にでもいい顔をする子じゃあないんですよ」
 それは自分が紅族だからだ、とは到底言えない羅乃目はそれでも慣れた様子でさらりと受け流していく。
「動物と仲良くなりたいのは友だちでやんす、わっちじゃなくて。わっちはなんとなく出来ちゃうから説明ができなくて。どうしたらいいのかなって、他に聞ける人がいなかったから」
「ふうむ、そうですか。では立ち話もなんなので、お茶でも飲みながらお話しましょうかね」
 友の為にわざわざ会いにきてくれた少女に微笑み返して、朔介は手近な茶屋へ向かおうと踵を返した。「さあ朔太郎行きますよ。お嬢さんを笑顔にして差し上げないとね」


 場所は変わり、こちらは食事処伊呂波。
 天気の恩恵を余すことなく受けたトキ時は朝から洗濯をこれでもかと片付け、最後に布団も干して完璧である。
 勿論黒骸も手伝った。母屋と中庭の掘立て小屋の間には、今や洗濯物の壁で埋め尽くされている。迷路のように左右に振られるか屈んで下を通る他にない。パリッと晴れている空を切り取る、まだ湿り気を帯びたあわい道筋。
「これならすぐに乾きそうですね」
「いやーまだ本格的に暑くなってほしくないんだけどな。こういう日は活用していかないとな!」
 襷掛けがよく似合うトキ時は今日は『しゃつ』を着ておらず、黒骸と同じような白い襦袢を身につけていた。そうだ、暑い時は着ないと言っていた、儀三郎の前で。首元や手首が襦袢よりも詰まっているから暑いのだろう。そんな彼にはまだ痛々しい傷が目立つ。
「黒にいいこと教えてやろう。ぬか床は気温が上がってくると一日に二三回は混ぜてやる必要がある。寒い時期よりも回数が増えるんだ。つまり俺はより一層ぬか漬け中心の生活に入る」
「おお……
 いいこと、という題で提示された話題はトキ時素人には読み解けない文であった。しかし黒骸には伝わっている。端的に言えば可愛いぬか漬けにたくさん構えて嬉しい季節がやってくる、ということだ。しかも今年は漬物樽がふたつに増えているので労力は単純に倍になる。それが堪らないという笑顔だ。
 ぬか床を混ぜたくて早く帰宅したいが為に若干表情が険しくなっているトキ時はまだ解禁されていない。ご期待あれ。
「カア」「カァ」
 ソレとコレが、物干し竿に洗濯物の掛かっていない僅かな隙間を縫って止まっている。今後の詳細が決まっていないからといっても「はいさようなら」で帰ってもらうわけにもいかない。常に伊呂波の敷地内に居るわけではないが、近くには待機してくれているらしい。人間の洗濯物の完了と共に丁度よさそうな足場ができたので顔を出したのだ。「今日はどうする?」とでも言いたげに。
 羅乃目(そして羅神)が動物に与える影響は絶大なものであるが、なにも黒骸や雨庸の力が弱いわけではない。黒骸が優しい視線を投げかけ雨庸が簡潔に要件を伝えれば、二羽は短く返事をしてまた飛び去って行く。
「羅乃目が帰ってきたらまた来てもらいましょう。近くには居てくれるみたいなので」
……俺にあの二羽ふたりをどうこうできると思うかあ?」
「試してみなければわかりませんよ。少なくともこれが現状の打開策として取れる行動なんですから。良さんの為にも、もっと前向きにいかないと」
 トキ時を覗き込むように微笑む黒骸は、ふわり軽やかで優しいように見えてどこか有無を言わせない雰囲気があった。恐らく、『羅乃目が発案した案件を遂行したい』とでもいうような感情が働いているのだろう。羅乃目は動物だけではなく、黒骸にも絶大な影響力を持ってしまっている。
……
 トキ時はまた鬼退治の御伽話を頭に浮かべて眉間に柔らかく皺を寄せ、それでも最大限あの烏たちと仲良くなった未来をなんとか想像しようと模索していた。
 何もかもが未知。成功する保証が一切ない。
 気が付けば、トキ時の周りはどうにも賑やかだ。
 トラ、狼、蛇、ここにきて烏と烏。羅乃目と黒骸は……羅乃目と黒骸だろう。鬼退治くらいならわけなくこなせそうな面子が揃っている、なんだか急に心強く思えてきた。
「猫に手、引っ掻かれてるんだけどな……
「はい?」
「ああいや……
 漏れ出ていた思考を吸い込み直してわざとらしく空を見上げれば、そこは突き抜ける快晴。
 トキ時は、「心強いなと思っただけだよ」と眩しさに目を細め、耐えられなくなって手の平で影を作る。
 トラだけでも十分心強かった、今だって足りなくなったわけではない。自分が脳天気過ぎたのだろうか、あんな目に遭ったのに。怖かった、死の恐怖を感じるほどに。本当はもっと、本当はもっと警戒して神経をすり減らすべきなのだろうか。
 でもそうか、トラはネコ科か。
 するりと気まぐれに通り過ぎていく、あの猫の仲間。僅かな隙間を、するり。どうして捕まえておけないのだろうか。どうしてそんなに気まぐれなのだろうか。あの時の猫はどこへ行ったのだろう。では、いつか、トラも?
 何故かトキ時は亡き両親を思った。例え南町に住んでいたって、いつ命を落とすかわからないのは全人類共通であると嫌でも思い知らされるあの時のことを。突然引き剥がされる温もりを。
 先代が亡くなった時もそうだ。いつも突然だ。何故人は死ぬのだろうか。死は恐怖だ、未知だから。しかしそれでもそこに囚われていると、きっと家の中で何もしない方がいいだなんて答えが弾き出されてしまう。
 ではやはり、より心強くなっていくことはこの上なくありがたいことなのではないだろうか。自分を想ってくれる他者の存在は想像よりも遥かにあたたかい。だがその分、突然引き剥がされる恐怖も増える。なるべく側にいたい。いつだってそうだ、どれだけ見上げていても雲が居なくなってしまった人たちの姿に変わったりなどしない。ああ、なんの話をしていただろうか。
…………
 ぼんやり空を見上げたままのトキ時から出た文脈の読み取れない回答は、そのわかりやすい文字列とは裏腹に酷く抽象的に黒骸へと渡る。
 黒骸は正しい相槌が見つからず、曖昧な微笑みを返して、瞬き。
「ああごめん、なんの話してたんだっけか」
 ふと我に返り、間を持て余しているであろう黒骸へと微笑み返す。
「いえ……天気がいいと気持ちがいいですね」
 話題を変えるべく、全く関係のない言葉を並べて襷掛けをほどいていく。解いた襷をまた小さく畳んでいき、手の平に収まる大きさにするまでゆったりと時間をとった。
……トキ時さんなら大丈夫だと思います。そんなに心配そうな顔をしないでください」黒骸は畳んだ筈の襷を、また両端を持ってぱたぱたと開いた。「あなたは真っ直ぐで強い」
 自ら変えた話題をギュンと戻して「そうでしょう?」とでも言いたげに、襷の端をそれぞれ左右の手に持ってピンと張った。今一番身近で目視できる『真っ直ぐ』だ。
 この瞬間だけを切り取ったならば噛み合っていない的外れなやり取りは、昨日のそれの続きである。
 不器用であたたかい。諸々が洗練されていくのはもっと大人になってからでいい。上手くできないかもしれないけれど目の前のあなたを思う。ただ、思う。
 お互い探り合うように笑い合えば、視線が絡む頃にはもう一段階深い笑みに変わった。
「大丈夫ですよ。頑固さ、出していきましょう。きっと烏にも有効です」
「ははは、なんだそれ」
「トキ時さんの長所ですね」
「短所を長所に言い換えるときって、なんか単語ごといい感じのものに変えないか?」
「短所ではないからそのままでいいんですよ」
 真っ直ぐ伸ばした襷をトキ時の眼前に持ってくる。
「ほら洗濯物は終わりましたよ、ぬか床かき混ぜてください。俺はこの後イゴさんの所に行きますからね。今のうちですよ」
「お? おおー?」
 トキ時は頭に疑問符を浮かべながらも笑って土間へと引っ込んで行った。最後に腕を振り上げてやる気を表現している。
 ぬか漬け、美味しくなあれ。


「あたしたちの仲良しの秘密だなんて大それた言い方をしましたけれどね、本当はなんでもないんですよ。なんたってあたしは朔太郎が生まれた瞬間から一緒に居ますし、そこから毎日隣にいて、一緒に食事をとっていますからね。それは仲良しにもなるってものですよ」
 西町通りの適当な茶屋に入った一行は、団子が来るまでの僅かな時間であっという間に結論に辿り着いてしまっていた。結論というよりは朔介の持論であるが。
「じゃあ秘密も何もないでやんすか?」
「何もないと言うのは少々早計ですね。毎日一緒にいるだけでも仲良くなれるこということですよ。変に気構えたりしなくてもいいということです。でもね、ただ一緒なだけでは駄目なんです。相手を思うこと。これが一番大切です」
 羅乃目は閉じられていて決して合うことのない朔介の瞳を瞼の上からじっと見ていた。
「仮に相手が動物だからってね、人間同士となんにも変わらないんです。あたしとお嬢さんだって性別も年齢も何もかもが違うじゃありませんか、でもこうして一緒にお茶をする間柄になれるんですよ。不思議でしょう?」
 ここで運ばれてくる団子とお茶。朔介の足元で行儀よく丸くなっていた朔太郎は、おこぼれに預かれないかとピンと耳を立て尻尾を振り期待を滲ませた。
「いい意味でね、お嬢さんはあたしの目が見えないことを大して気にしたり気遣ったりしないでしょう? あたしにはそれが居心地がいいんですよ」朔介は懐から出した干し芋を小さく千切って朔太郎の鼻先に置く。「勿論見えないのだからと気を遣ったり優しくしてもらえたら嬉しいですよ。でもね、哀れみだとかの感情が強い人も多いんです。可哀想だから優しくしてあげよう、というやつですね」
 お茶にも団子にも手をつけない羅乃目に、「食べましょう」と言って手の平で促す。
「後者も間違いなく優しさです、相手を思っていることを違いはありません。でもあたしに一番しっくりくる思われ方ではないんです。我が儘な老人でしょう?」
 いたずらっぽく笑う穏やかな老人は団子をひとつ頬張ると、朔太郎の背中を撫でた。
 羅乃目も朔介を倣って団子をひとつ頬張った。焼きたての甘辛い醤油を薄く塗った団子は、もちもちの食感とほんのり広がる甘さと焼き目の香ばしさが鼻を抜ける。この辺りの茶屋は観光地価格だが、一応は値段に見合った味を提供できているらしい。
 美味しさに心が少し解けた羅乃目は「ほ」の口になった後に茶を啜った。
「こうやってね、お互いに一番しっくりくる思われ方を探すといいんです。人間同士でも全く同じなんて誰ひとり居ないじゃあないですか、相手と自分が違うことを理解したうえで積み重ねていくんです。積み重ねるには時間が必要ですから、それはなるべく一緒にいた方がいい。そして上手くいかなかった時は少し間を置いたりすることも大切です。そこにも時間が必要ですね、だから……
「なるべく一緒にいた方がいい、でやんすね」
「ええ、そうですとも」
 羅乃目はもうひとつ団子を頬張った。
「でも人間と動物って、言葉わからないでやんしょ? 厳密な意思疎通って難しいことじゃないんでやんすか?」
「言葉が通じないのは些細なことですよ。同じ人間でも地方に行けば方言が強かったり、それこそ異国の方たちなんて何を言っているかさっぱりでしょう? ほら、なんだか言葉がわからないくらいなんてことなく思えてきませんか? だから動物も変わらないんです。なるべく一緒にいて、相手が一番しっくりくる思い方を探してあげる。それに厳密な意思疎通なんてものはね、例え同じ言葉を使っていても本当は無理なんですよ。全部伝えても伝わらないなんてザラです、そこは気負い過ぎないことですね。まあ全部あたしの持論ですからね、お嬢さんの考え方と違うところも当然あるでしょうけれど……
 通りに面した茶屋の席は、往来の人々をぼんやり眺めるのにうってつけであった。しかしその逆も然りなのだ。動物好きなのか朔太郎を見て微笑む人、羅乃目を見る人、朔介を見る人。
 他人だから、見ることができる。
「少し逸れますが、自分と違う意見を聞くのも大切ですよ。自分と同じ意見が出ればとても嬉しいですが、違うということは己の視野を広げてくれるものです、そこを歩み寄る行程も仲良しになれる方法のひとつでしょうね。だからね、お嬢さんがあたしに話を聞きにきてくれて嬉しいんです。いいなと思えたところだけ持って帰ってくださいね」
 羅乃目は真っ直ぐに朔介を見て少し頬が赤く染まっている。どうやら頭部に熱が集中してきているらしい。
 脳みそが熱くなってきている羅乃目の気配を察知してなのか、朔介は羅乃目に茶を勧めると話のまとめに入った。
「人間同士も人間と動物も同じです。相手は自分と違うのは当たり前なんです、でもそれがなんだっていうんですか。そんなことはなんの問題にもなり得ません。たくさん一緒にいて、たくさん思いましょう……なんて、なんだか偉そうなことをたくさん言ってしまいましたね。少しでもお役に立てたならいいんですけれど」
 そして最後に自身も茶を啜り、「久々にたくさん話しましたねえ。いやはや、どうでしょう。老人の長話を聞かせてしまってすみません」と申し訳なさそうに付け足した。
「そんなことない! すんごくためになったでやんす! わっちが知らない意見だった。視野、びゅーんて広くなったでやんすよ」羅乃目は湯呑みを両手で包んで、その波打つ表面を親指でなぞった「ね、そんなにむつかしく考えなくてもいいんでやんすね」
 まるで自分に言い聞かせるかのように。
……大抵の物事は、実はとても単純な構造であることが多いんですよ。一度引いて観察するのもいいでしょう」
「わっちが知らないこと、まだまだたくさんあるでやんす」
 茶屋を後にする際、羅乃目はお気に入りの白い箱迫からふたり分の代金を取り出し、「お礼! お礼でやんす!」と渋る朔介に笑顔で押し付けた。
 押し付けられた朔介も羅乃目が普段通りの笑顔と元気さを取り戻していることが嬉しいのか、「じゃあこの次はあたしが」と言って最終的に微笑みながらきちんと懐に仕舞い込む。
「さて、西町通りの端まで送りましょう。朔太郎もまだお嬢さんと歩きたいみたいですからね」
 西町の端まで歩く途中、羅乃目は何度も何度も頭の中で朔介に聞いた言葉を繰り返す。
 それは種族としての血を重んじていた紅族にはない考え方であった。
 同じ紅族、同じ血、同じ仲間、同じ、同じ、同じ。
 人間と比べて遥かに数の少なかった紅族は、みなが大きな一個体であるかの如く強く結束し身を寄せ合っていた。自然と意見は統一され、同じものを目指し、他と自の境目はよくも悪くも曖昧な薄い壁であった。それはそれで正しかったし美しかったし、間違いなく幸せであった。間違いなく幸せだったのだ。『同じであること』はごく自然であった。『違うこと』を前提とした歩み寄り方は、今日の空の色よりも眩しく新鮮であった。
「朔太郎は幸せでやんすね、おじさんがこんなに思ってくれてるんだから」
「ワフッ」
 朔太郎は羅乃目にいいところでも見せようとしているのか、茶屋に入る前よりも力強く、そして凛々しく歩を進めていく。男子三日会わざればなどと悠長なことをいっていられない、全ては刻一刻と成長し、変化していく。そう、変化していく。
 ふいに朔太郎が立ち止まって二回吠えた。
 羅乃目にはそれが「とまって」と言っていることがわかるが、素知らぬ顔で朔介を覗き込んで様子を伺う。
「おや、このままだと道に何か落ちているみたいですね」
 朔太郎は立ち止まった朔介の右脛辺りに体を擦り付けて左側へ逸れるように誘導する。
「はいはいこっちですね。大丈夫ですよ」
 立ち位置を少し左にずらした後、朔太郎は満足そうに一度吠え、再び朔介は歩き出す。
 なんて鮮やかな連携だろうか! 言葉が通じないことの、なんという些細さ!
「すごい……
 羅乃目は思ったことをそのまま口にした。これが先程知ったばかりの意見の先にある、最終到達地点ということだ。
「あれ?」
 感動を抱えたままの羅乃目であったが、朔太郎が朔介を道の左に避けさせた原因が目に入ると、これまた思ったことをそのまま疑問符に乗せた。
「おや、何がありました?」
「石でやんす。つるつるの、いい感じの石」
 そこには何処ぞの神社仏閣の玉砂利にでも使われていそうな、ころりとした石が落ちている。しかもふたつも。
 羅乃目は少しだけ歩幅を開いて先に石まで到達すると、ひょいと拾い上げて三歩遅れてくる朔介に手渡した。
「玉砂利みたいでやんす」
「おや、本当ですね。こんな場所で珍しい……何処かから子どもが持ってきてしまったのかもしれませんね。そしてここで親に気付かれて手放すように言われたのかな」
 朔介は手のひらの上でつるつるの石を撫でる。その指先は、朔太郎を撫でる時のものと変わらない優しさを纏っていた。
「それわっちが貰ってもいいでやんすか?」
「おや、石なんてどうするんです?」
「わっち、黒い碁石の代わりになりそうな石があったら集めてるんでやんす。いつもなら玉砂利を拾ってくるなんてことはしないけど。どうかな、だめでやんすかね」
 朔介は羅乃目の手を取って、その柔らかい手のひらに玉砂利を置いて優しく握らせた。
「もうどこの玉砂利どこの子なのかてんでわかりませんからね。新しい居場所で大切にしてあげてください」
「ん!」
 今日の羅乃目は大収穫だ。でも彼女には少し気がかりなことがある。
「わっちと一緒の間って、お仕事邪魔しちゃってるでやんすよね。ごめんなさい」
「大丈夫ですよ、実はこの辺りだとあたしが稼ぎ頭なんです。少しくらい休んでもなんの問題もありませんよ。それにあたしはお嬢さんよりもうんと長く生きていますからね、知っていることも多い筈です。またお役に立てそうな時はいつでも声を掛けてください」
 玉砂利を白い箱迫に仕舞って、朔介に教えてもらった言葉を胸に仕舞って、東町を後にした。
 朔介は手を振って見送ってくれたし、朔太郎は千切れそうになるまで尻尾を振ってくれた。おれもおみおくりできる!
 羅乃目はなんだか胸が高鳴った。山まで走りたい気持ちをぐっと堪えて伊呂波へと走る。
 走りながら通り過ぎて行くあの人間も違う、あの人間も違う、自分と違う。当たり前だ。そんな当たり前を言葉で再認識する鮮やかさ。羅乃目は人間ではない、羅乃目は紅族である、だから人間とは違う。当たり前だ。羅乃目は羅乃目以外ではない、だから羅乃目以外とは違うのだ。違っていいのだ。
 それがなんだっていうんだ!
 違うからこそ相手を思って仲良くなれるのだ!
 大切トキ時は他の人間とは違う。死神も他の人間とは違う。
 そこで分けていい。違うのだから。
 羅乃目と黒骸は違う、違っていいのだ、違うことがなんだっていうんだ!
 まだ整理しきれずにぐるぐる回る。
 ぐるぐる回って、とにかく大変愉快な気分だった。
 動物だとか人間だとか、もしかしたらそんなに気にしなくてもいいのかもしれない。まだわからない。初めてで新しい、この感覚。
「トキさん!」
「お、帰ってきたな」
「すげー元気ちゃんじゃん」
 勢いよく伊呂波へと帰ってくると先客が来ていた、良だ。彼は対面式調理場に向かい合う席に腰掛けて、隠しきれない色気を胸元から腰元から指先から視線の先から、とにかく振りまいている。
「おひいおかえり」
 少し気怠げな流し目で口角を上げるその姿は、まさしく「もうどうにでもして!」と言いたくなる色男だ。
「死神いる! トキさんあのね!」
 良への挨拶もそれなりに、(良がどれ程いい男かを羅乃目が理解していたとしても、それは黒骸を超えることがない。よってこの姿を見ても胸は踊らず頬も染まらない。羅乃目にとって死神は死神なのである。)羅乃目は今し方聞いていてきた言葉をトキ時へ話し始めた。
「んと、相手が一番しっくりくる思い方をして、たくさん一緒にいるといいでやんす。あと、違うのは当たり前だからそれがなんだっていうんだってなって、動物も人間も変わらないでやんすよ。言葉がわからないなんて全然問題なくて、あとあと、えっと」
「それは俺がソレとコレと仲良くなる為の話だな? 待て待てひとつずつ順番に話してくれよ。大丈夫だ、ちゃんと聞くから」
「おひい俺の隣に座りな、俺にも聞かせて」
 明らかに興奮気味な羅乃目を落ち着かせ、大人はたちはひとつずつ話を聞き出していく。途中で羅神の助太刀が入ったのは言うまでもない。
 ひとつずつ仕舞ったものを取り出していく。さっきは一度に全部取り出そうとしてひっかかって失敗してしまっただけだ。丁寧に手触りを確かめながらひとつずつ出していけば問題ない、次こそはきちんと伝えられる言葉となって胸から出てきた。
 語る羅乃目と覗き込むように頬杖をつきながら右隣で聞いている良、それから調理場越しに向かいに立っているトキ時。黒骸はイゴさんのところへ外出中だ、そろそろ帰ってくるだろうか。
 トキ時は仕込みの手を止めて羅乃目の言葉に集中し、そのせいで皮を剥かれようと身構えていた蕪が待ちぼうけを食らっている。発案者が羅乃目だから責任を持ってという言い方もできるが、自分の為にあれこれ考えて行動してくれていることが単純に嬉しいのだ。しっかり聞いておかなければなるまい。
「だからね、ソレとコレのことだけじゃなくて、トキさんと死神もたくさん一緒にいたらいいでやんすよ。誰も同じじゃないからふたりの意見が違くてもよくて、それを踏まえてどうするのかも仲良しになれる方法だって。だから、ね。大丈夫でやんすよ」
 羅乃目はこのような文で話を締め括った。もっとトキ時と良の距離が物理的に近かったならば、お互いの手を取って羅乃目が握らせ合っていただろうと想像できる熱量だ。別にもう喧嘩などしているわけではないのに、昨日謝ったり謝られたりしてすっかり終わった筈なのに。
 羅乃目は羅乃目なりに重く受け止めていた、昨日のこと。そして良が一度実行しようとした決断を。そうならない方が絶対にいいだろうと感じていた。
「一緒はね、わっち、とてもいいことだと思う」羅乃目は視線を卓に落とした。「ひとりじゃないのは、とてもいいことだと思う」
 大人ふたりだってわかっている。思える誰かがいるのはいいことなのだ。
 失った時の悲しみを、先回りして想像しなければ。
 既に知ってしまっている痛みと喪失を想像しなけれな。
「わかった、ありがとうな。ひとまずはソレとコレとなるべく一緒にいるところから始めるといい……んだよな? それから良ともたくさん一緒にいるし、羅乃目や黒もそうだ。少しずつでもいい、一番しっくりくる思い方と思われ方を探していこう」
「うん」
 トキ時からの言葉に、羅乃目は犬歯を見せて笑った。その姿を見た良は何故か意識的に色気を吐息に混ぜて会話に入ってくる。「俺も混ぜてよね」
 まるで大人の夜遊びの約束だ。
「当たり前だろ? 逆に今更『一抜けた』なんて言わせないからな。ていうかお前が店にもっと来ればいいんだよ、俺はずっとここに居るんだから」
「ひえ〜今でも結構な頻度で来てんのに」
 良はひと呼吸前とは別人のようにおどけて、けらけら笑いながら上体を少し後ろへ逸らす。
「ふに」
「? なんだ今の」
 良が体勢を大きく変えた際、なにやら彼の腹の辺りから鳴き声がした。「ふに」だとか。
「ああ、今ので起きたのか」良は再び体勢をやや前のめりにして懐に手を入れた。「子猫、北町にいたんだけどなんでか俺について来ちゃって。近くに親っぽいのもいなかったし、ロクでもないめに遭うか冗談抜きで食われるかだろうから連れて来た」
 そこには良の片手に収まる程度の大きさしかない子猫が丸まっている。生まれたてほやほやからは脱しているが、毛並みもやわやわで耳も四肢もちいちゃい。毛色は白っぽい中に茶が見えるが、まだ何柄とも捉えられない毛玉のほわほわだ。ほわほわなのに液体のようにふにゃふにゃだ。
「羅乃目や黒なら何言ってるかわかるかもって思ったんだけどどう? 親がいるなら返してあげないとさ」
 良は子猫を羅乃目に手渡す。羅乃目の片手には収まらないので脇の下辺りに手を入れて目線の高さを自身と合わせた。
「んと、こんにちは」
 子猫でも羅乃目が紅族だとわかるのだろうか、短くて千切れてしまいそうな細い尻尾を左右に振ってふなふなとご機嫌だ。
「ふむふむ」
「わかりそ?」
 羅乃目は真剣な眼差しで子猫と見つめ合っている。時折り相槌を挟む姿は実に聡明だ。
「赤ちゃんだから何言ってるか全然わかんないでやんす」
 かと思えばパッと顔を上げてこれである。
「人間の赤ちゃんが話せないのとおんなじでやんすよ。うなうなばぶーあぱぱ、ぶーでやんす。とりあえずご機嫌でやんすね」
「うちに赤ちゃんなんていたかな」
「あ! 黒だ!」
 子猫が伊呂波中の視線をかっ攫っているなか、するりと背後から黒骸が帰ってきた。
 その綻んだ表情を見る限り、今日も囲碁が楽しかったと見受けられる。
「おかえり。今日はどうだったんだ?」
「どうやら手加減の塩梅を少し引き上げられているみたいでして、またてんで駄目になってしまいました」
 駄目になったという割に、彼は本当に嬉しそうな表情を見せている。
「また俺と打と。俺の腕だと器用に手加減を調整できないから、前と手ごたえ変わってくるかも」
「はい、是非」黒骸はトキ時と良へ向けた顔を最後に羅乃目へ向けた。「それで、この赤ちゃんはどうしたの?」
 羅乃目の腕の中のほわほわな液体は、頬を黒骸の指先に撫でられてご機嫌を上方修正した。
「北町にいたから俺が連れて来たんだ、なんか俺について来ちゃってさ、親っぽいのも見当たらなくて。そのままだといじめられるか食われるか……だからな」
「なるほど。救われたね、君は」
 指先に絡みつくほわほわの顎下を撫でながら目を細める。
「言葉がわかれば何か聞き出せるかと思ったんだけど、赤ん坊は喃語しか話せないから結局収穫なし」良は肩をすくめてこう続けた。「トキちゃん、猫をお迎えする気ない?」
「え、うちか?」
 自分に振られると思っていなかったトキ時は、良からの言葉を口の中で鸚鵡返ししながらひと呼吸置いた。
「俺の長屋に置いとけば一応は安全だと思うけど、ちょっと自信ないんだよな。仕事中に構われに来ちゃうと困るし」
「うちにはもう狼と蛇がいるからなあ」
「あら意外、今更猫が増えても変わらなくない?」
 快く受け入れなかったとしても、次の家が見つかるまでは預かるといった内容の言葉が返ってくることを想像していた良は、切れ長の瞳を少し縦に大きくした。
「まあ変わらないけどな。まあーでも俺は猫に手を引っ掻かれているからなあ」
 トキ時はいつものように眉毛を末広がりしにて罰が悪そうに笑った。狼と蛇も、良と同じ側の意見を持っていたらしい。意外そうにしている。
……トキ時から聞く動物失敗話っていつもそれひとつだけなんだけど、もしかして猫苦手だったりする?」
「え? あー、いや。好きだよ。俺は猫好きなんだけど、猫は俺のこと好きじゃないんだろうなというか……うーん」
 良から核心でも突かれたのか歯切れの悪い言葉を並べてひとりで「あー」などと唸っている。しかしひと通り唸り終えると「まあ、そうだな」と脳内だけで何かが整ったのか三人に視線を戻した。
「いや、俺さ、親父とお袋がまだ生きてる頃、大きな屋敷に住んでたんだ」
 これからトキ時と猫の物語が開演するのは誰の目にも(耳にも)明らかである。三人は言葉を探して選んで少しずつ話すトキ時に集中した。何か話したくないことならば無理に聞くつもりはない、続きを促すかどうか、そこの見極めも兼ねて集中している。
「本当に立派な屋敷でさ、広くて。そんで、猫が居たんだ、黒いやつ」
 今のところ思い出しながら話しているといった様子だ。三人は言葉で相槌を打たずに軽く頷くことでしっかり聞いていることを主張する。
「猫はいつも俺のことを遠巻きに見てるんだ、特にひとりでいる時。気が付いたら少し遠くからじっと俺を見てる、例え屋敷の何処にいてもだ。それでもさ、触ろうとか思ってこっちから近付こうとしても絶対に無理なんだよ。すっと何処かに走って行ってあっという間に見失っちまうんだ。絶対に近付けない」
 子どもの頃に、猫に弄ばれていた?
「んでまあ、俺もガキだったから、『猫ってこういうものなんだな』って漠然と思っててさ。それが変だとか不思議だとかは少しも思わなくて……ああそれで、ちょっと、本当にあの時は俺も鼻垂れのガキだったから、いや今は絶対そんなことしないんだけど、ちょっと、怒らないで聞いてほしくて」
 話を区切ったかと思うと、明確にトキ時は羅乃目と黒骸、そして羅神と雨庸へ向かって断りを入れてきた。「ほんと、その、本当にごめんって思ってるから!」そう付け足して鼻から強く息を吸うと、続きを始めた。
「あの日は親父とふたりで町を歩いてたんだ、確か、多分そうだったと思う。それでさ、猫が道の隅で昼寝してたんだよ、いい陽気でな、今日みたいに」トキ時は先程のふたりと二匹に今一度視線を投げた。瞳でごめんと訴えながら。「ガキの俺は『どうせ猫は近付けないし触れない、そういう生き物』って思ってたんだ、目の前で昼寝してる猫を見ながら。それと同時に『なんだかこいつなら触れる気がする』って思ったんだよ、出来心というか、好奇心? 気の迷い? とか、魔が差したというか」
 もうトキ時はずっと「ごめん」の目をしながら話している。なんとなく続きが予想できる気もするが、ここは本人の口からお願いしよう。
「思いっきり鷲掴みにしたんだ、昼寝してる猫の尻尾を。そしたら驚いた猫が俺の手を思いっきり引っ掻いてあっという間に走り去って……俺は猫って触れるんだっていう発見と痛みと驚きとでなんかもう瞬間的にぐちゃぐちゃになっちまって、結構血とか出てさ、大泣きしたよ、道の真ん中で。まだ四つくらいだったかなあ」
 過去を懐かしむ表情に懺悔の感情が滲んでいる。なるほどこれは紅族と憑守に怒られそうな内容だ。
「へえ、トキちゃんもそういうことする男の子だったんだ」
 良が茶化してくる。
「安心しろ、私は幼い羅乃目にしゃぶられ噛まれ引っ張られ踏みつけられても子どものやることだからと大目に見て育てたからな。涙も鼻水もよだれも全てこの毛皮で受け止めてきた。その程度なら猫も許すだろう、驚いただけだ」
「ち! ちっちゃいの時の話でやんす! んも、言わない!」
 羅神は羅乃目の過去を暴露し、羅乃目は慌てて羅神の口を塞ぎに行く。
「オレ様も黒には随分苦労したぜ? こいつアホみてえに腕白だったからなァ。鷲掴み程度ならまあ一回は許してやるよ。寛大なオレ様だったらな」
……やめて」
 雨庸も黒骸の過去を場に提供して大口開けて笑い、黒骸は綺麗な手でその顔を隠した。
 どうやら話を続けても大丈夫そうである。
「あはは、それからが大変で。親父が真っ青になって医者に見せてくれて、その辺はあんまり覚えてないんだけどな。やっと屋敷に帰ってお袋に泣きついたらさ、見たことないくらいに怒るんだよ。あんなに怒られたのは後にも先にもあの時だけだったなあ。それも黒猫に見られてたな、遠巻きに……
 トキ時の表情には、過去を懐かしむ色だけが残った。
…………それで親父とお袋が死んだ時さ、とにかく悲しくて寂しくて、訳がわからないくらい全部真っ暗だったんだ。でも黒猫はいつも通り俺のこと見に来てくれるだろうから、今日こそは撫でさせてもらえるかもしれないって思った。縋るみたいな気持ちで。何かひとつ欲しかったんだ、なんか、ひとつ、さ、寄り添えるものが」
 トキ時は当時怪我をしたのであろう右手の甲を眺めた。そこにはもう傷なんてひとつもない。いや、昨日負った真新しい小さなものは少しだけ。
……来てくれなかったんだ、黒猫は。俺はあの時に本当の孤独みたいなものを知った、後から思えば、だけどな。ほら、猫って気まぐれだろ? だから、なんか、こっちの気持ちを全部委ねたら駄目なんだよな、気まぐれだから。あの日から黒猫は二度と来なかった」
 最後まで触れることが出来なかった猫。触れもしないのに、指の間をすり抜けて消えて行く猫。
「俺もその後あっという間に養子に出されたし、猫を探して屋敷中を歩き回るなんてしてる暇なかったな……だからだろうな、猫は好きだけど。猫っていうだけで引っ張られて思い出すことが、俺は少し多いんだ」
 これにてトキ時と猫の物語は閉演。どなた様もお忘れ物をなさいませんように。
「引っ掻かれたのは自分のせいだってちゃんとわかってるよ、俺が勝手に期待して勝手に裏切られたみたいな被害者面してるもの。でも、猫も俺のこと好きだったらよかったのにな」
 よかったのにな、に込められたありとあらゆる感情が隠しきれずに湯気のようにほわりと纏わりついている。トキ時は羅乃目の膝の上でてろてろになっているほわほわを眺めた。子猫の仕事はたくさん眠ることだ。
「この子の親はわっちが探すし、もし見つからなくても面倒見てくれそうなあてがあるでやんすよ。大丈夫」
「ありがとうな羅乃目。見つかるまでは勿論うちにいていいからな」
 羅乃目の言うあてとはブンのことである。持つべきものは頼れる友だ。
 そのやり取りを見ている良が、ふと真面目な顔で瞬きを増やす。眉を顰めて少し思案顔……
「なあ」
 先に自身に注目を集めると、右手の親指で唇に触れて少しだけ言葉を整理し直した。彼が普段はしない仕草だ。
……俺は憑守が見えないから、正直なところどの程度まで動物と同じ見た目なのかわからないんだけど……」ここで良は言い淀む。
 淀みを捉えきれていないトキ時は、なんてことなさそうに「雨庸はかなり大きいから実際にいるかって聞かれると確かに違うかもな。でも羅神は普通にいそうじゃないか? 黒い狼だもんな、見た目」などと答えている。
「トキ時の屋敷に居た黒猫が憑守だった可能性ってある?」
 良はひと呼吸で言い切った、やや早口に。
 トキ時の屋敷にいた黒猫が憑守だった可能性ってある……? 
 三人と二匹の頭で反芻される言葉。みな理解が追いつく前の段階で、言葉は音として体中を一周する。
 伊呂波の天井付近の空気が、ざらりと波打った。
……いえ、憑守は俺たちに憑かないと現世に存在できません。そんなことは」
「俺、トキ時は紅族なんじゃないかって思ってるんだけど違う? 少なくとも血を引いてる可能性が高いと睨んでるんだけど。両親どちらかか先祖の誰かが紅族だった可能性は? 憑守が見えて聞こえるって、そういうことなんじゃないの?」
「え……?」
 トキ時自身が考えたこともなかった可能性を良は提示してきた。
「今の話を聞くとそうなんじゃないかって思わずには」
 いられない、と続く言葉を唇の内側に残して良はトキ時を見つめる。トキ時はしきりに瞬きをして動きがぎこちなくなり、まな板の上でそのままになっていた蕪の葉を手の端に引っ掛けて落としてしまう。
「たしかに、つじつま、あう……かもしれないな」
 トキ時の中で物心ついた頃から今日こんにちに至るまでの記憶の断片が溢れ出した。まるで死の直前を思わせるが、実際は頭の中で鐘が鳴り響いている感覚に近い。全てがばちりとはまった感覚。一本の道が目の前に現れる感覚。道の先にいるのは──
「だとしたら、おふくろ、が……そうだったかもしれない、くれないだった、かも……
 溢れ出す。寄木細工のようにぴたりとはまった今までの全て。
「憑守は憑いている紅族が亡くなれば文字通り現世から消える。その黒猫が憑守だったのならば二度とお前の前に姿を表さなかったのは致し方ないもの、と言えるだろうな。近付けなかったのは触れられないことを悟られない為。すぐ撒かれていたのは壁をすり抜ける為……これが慰めになるのか私にはわからないが」
…………
「俺たちがガキの頃に刷り込まれてきた姿の見えない紅族忌避じゃない。お前は羅乃目と黒骸の仲間かもしれないんじゃないかって、俺は言いたい」
「オイオイオイオイ、人間にオメエ紅族かもよなんて言うのありか?! 人間はオレたちのこと殲滅するくらいに嫌いなんだろ?」
 黙っているトキ時に次々と投げかけられる言葉たち。
 羅乃目は何も言わずに見ていた。場を静観している、紅族統領としての言葉が必要になるのか否か。
「俺……が? まだ、ごめん、全然わからねえけど。確かにもしそう、なら、合点がいくというか、思い当たる節があるような、無いような……?」
 当然の如く困惑を頬に写したトキ時であるが、妙に晴れやかな表情をしている。そこには木陰から眩しい日向を眺めながら、気まぐれに吹く風に髪を撫でられているかのような爽やかさと穏やかさがある。
「トキさんは、わっちらと同じかもしれないの嫌じゃないの」
「俺……ごめん、とにかく、その」トキ時は言葉を詰まらせた。「正直全然わからない、でも。あの黒猫が、俺のことを見捨てたからあの日急にいなくなったんじゃない、のかもと思うと……今はただ、ただそれだけが、妙に安心する」
 ふわりふわりとした覚束ない足取りで、無意識のうちに後ろへ下がる。一歩二歩。
 良が素早く立ち上がって客席と対面式調理場を仕切る短い暖簾をくぐると、トキ時の肩を掴んで向きを変え正面から向かい合った。トキ時は泣きも笑いもしていないが、身体中から『何か』が全部ひっくり返るような感覚で視界がチカチカと眩しい。見つめ返す瞳がうまく定まらない。
 視線をトキ時に定めたまま、良はその場の全員に向かって話し始めた。
「俺はトキ時に最初『トラ』って呼ばれてた、出会った頃に名乗っていなかったから。俺がなんか猫っぽくて、でもタマって雰囲気でもないし、背中に虎いるし、だからトラかなって理由で……虎ってネコ科だよな。トキ時が猫に対してどういう印象を抱いているのか今日初めてわかった」
 そこで言葉を切ると、良はトキ時の右手を取って自身の左頬へと誘導した。
「俺はトキ時の期待を裏切らない、急にいなくなったりしない。変な意味じゃなく、トキ時が俺に触れたいと思ったならいくらでも触れていい。俺はお前の後ろで、いつだってどっしり構えてる。少し振り返るだけでいい、俺はそこにいる。いくらでも俺に期待しろ、応えるから。俺はお前が好きだ。俺はこの店のケツ持ち。トラで死神で、天河良」
……おう。お前に惚れる人の気持ちが今はよくわかる」
……じゃあ一発やっとく?」
「それは、やらねえな」
「いつだって待ってる、大歓迎」
「ありがとうな」
 普段の茶番と全く異なるしっとりと落ち着いた声色で演じられたそれは、ふたりが出会った頃に含まれていた意味を少しずつ失い形骸化されつつも、今日まで互いの友情を確かめ合う役割を担っていた。今、まさに。
「おい羅乃目と黒が見てるぞ、そろそろ手離して離れろよな」
「やだ、いけず。見せつけた方が証人になってくれるっしょ」
「わっちらちゃんと見てたでやんす〜」
「ええ、それに一文字も漏らさずに聞いていましたよ」
 観客は拍手喝采、舞台へ花を投げ入れる勢い、というのは誇張表現か。だが顔を綻ばせて見守っている。
「ええい、やめろやめろ!」
 言葉とは裏腹に、トキ時は楽しそうに笑って良の手を振り解いた勢いのまま客席側へ出てきた。無造作に積まれている予備の椅子をひとつ引き摺り出すと、そこへ腰掛けて深呼吸。
 伊呂波に緩やかな沈黙が訪れた。
 晴れた空、初めてで新しい感覚、妙に安心した心、再確認された友情。
……えっとー、俺がこの空気にした張本人なんだけど。実は今日みんなに話したいことがあって来たんだ。いい?」
 良も客席側へと暖簾をくぐり直す。ちらりと全体を伺うと、そのまま全員を通り過ぎて出入り口の前で立ち止まり振り返る。片方の足に体重を乗せ腰から隠しきれない色気を漂わせながら切長の三白眼で順番に三人を見渡した。ひとり見つめては瞬きを挟み、確実にそれぞれを捉えていく。
「どこから話そうかな」
 いつもの良の立ち方だ。力強いのかしどけないのか、相反しながらも両立しているそれ。
「結論からいくか……俺目当てでトキ時にちょっかい掛けられるのは、きっと俺が甘いからだ。もっと絶対的で圧倒的な『北町の死神様』になれば、その関係者に手を出そうなんて発想にはならない筈。俺は、そこを目指す」
 男の決意と覚悟が垣間見える左の瞳は、長い前髪の隙間から未来を見据えていた。
「自分で言うのもなんだけど、俺は泣く子も黙る北町の死神様。そうあることに誇りを持ってる、胸張ってそう名乗る。今だってその辺の雑魚はこの名前を聞くだけで震えて道をあける、喧嘩ふっかけてきた奴は返り討ち確定、俺を殺せば箔がつく? 残念だけどそれが果たされる日は永遠に来ない。可愛い子の方から声が掛かるし、そこいらの組も俺に一目置いている。でも上には上がいるんだな、これが」良は体重をかけていた足を左右入れ替える。「みんなにはなんのこっちゃだけど、このまま聞いて……北町には昔、絶対的で圧倒的、泣く子が黙った後にあまりの恐怖で再び泣き出す正真正銘この蠱毒の頂点がいた。その男の名は人呼んで『閻魔』。閻魔は歩く北町そのものだった。飲む打つ買うの三拍子なんかじゃ物足りねえ、まあ買わなくても女はいくらでも寄ってきてたけど。閻魔が白と言うなら白、黒と言うなら黒、北町はそうやって回ってた。いわゆる人斬りみたいな闇商売で生計立てて、依頼が無かったとしても、やれ道を塞いだ声が気に食わない何を見ていやがるなんて理由で簡単に人を切り捨てるようなどうしようもない極悪人だった」
「閻魔……聞いたことあるような?」
 トキ時が顎に手を添えて目を閉じた。彼お得意の考える姿勢である。
「客から名前が出たりするんだと思う、今でも影響力が凄まじいから」
「全て過去形ですね。その閻魔はもういないのですか?」
 黒骸からの問いに良は顔を歪めかけたが、なんとか瞬きでやり過ごした。
……閻魔は二年前に忽然と姿を消した。多分もう生きちゃいないだろ。閻魔は死んだ」
 まるで自分に言い聞かせるように?
「それでも尚、閻魔の影響力は強い。北町の奴らは目の前の俺なんかよりももういない男の名前に震え上がる。どうにも気に食わないだろ? だから俺は閻魔を越えることにした。死んだ奴にいつまでもでかい顔されてちゃあたまんないからな、そろそろ退いてもらう」
 羅乃目の膝で眠っていた子猫があくびをして、また寝る体勢にはいる。羅乃目は子猫の眠りを促すようにその背中を優しく撫でた。
「俺は死神様である以前に彫り師だ、彫り師であることにも誇りがある、辞めるつもりは毛頭ない。今まで俺の本業はあくまでも彫り師だったし、心の何処かでそれを言い訳みたいに盾にしていた部分があったのかもしれない。だからどこか脇が甘くて付け入る隙があった、のかも……だから俺はどっちも本業にすることにした、彫り師で死神様。かっこいいだろ? どっちだって一度も手を抜いたことなんてないけど、今日からより一層気合を入れて高みを目指す。俺は閻魔を越えて北町のてっぺんになる。誰も手出し口出しできないような絶対的で圧倒的な蠱毒の頂点になる。これがトキ時を、ひいては羅乃目と黒骸も守る手段になると信じて……!」
 登りかけた山は、谷底に落ちるか登頂する以外にそれを終わらせる方法がないのだ。
「俺はお前に極悪人の人斬りになんてなってほしくない」
「そんな顔しないでよ、そこは大丈夫。俺は俺のやり方でやる」
 トキ時の不安気な表情も当然だろう。つい今し方友情を確かめ合った友が固い決意を表明して、変わろうとしているのだから。
 良も今の自分が他人からそう見えているだろうということに自覚があった。熱く語っているが頭は凪の水面と同じくらい静かで冷静だ。おそらく。
「でも、俺が今までよりも広く問題ごとに首を突っ込むようになったら、それを面白く思わない連中も多い。最初は特にそうかもしれない。上に行く途中は今までよりもトキ時を危険に晒すことになる可能性が、高い」良は腰に手を当ててわざと大きく息を吐いて自分を整えた。「だからてっぺんに行くまでトキ時を一緒に守ってほしい。羅乃目、黒骸。頼む」
 先程から良は黒骸をいつもの『黒』ではなく『黒骸』としっかり名前を呼んでいる。
「うん。わっちはトキさん守るって決めてるでやんす……でも死神はそれでいいの」
 羅乃目は薄々感じ取っている。その二年前に忽然と消えた閻魔が、死神にとってどんな存在だったのかを。羅乃目の勘はよく当たる。
 トキ時も少しだけ、少しだけ脳裏を掠める予感があった。二年前に自暴自棄になって血塗れで雪に埋もれていた良を拾っているから。そしてわざわざ話題に出してくるという点からも、あれとなんらかの繋がりがあったのでは、と。
「おひいは優しいな……でも、そうだな、俺が決めた。過去は過去だ。俺は……今を選ぶ。協力してほしい」
 ふたりはふたりにだけ伝わるような言葉を少し交えて意思を確認し合う。
……ん。わかった。任せて。みんなでトキさん守るでやんすよ」
「ええ。人間に負けるわけにはいきませんからね」
「ありがとう」
 堅牢な土台の上に建った足場から、月に向かって手を伸ばす。
 届くと信じて。
……よーし! みんな信じてるからな! 俺のことはみんなに任せた! 俺ももっと美味い飯作ってソレとコレと仲良くなるぞ! さあさあ今は急いで今日分の仕込みの再開だ! やるぞー」
 勢いよく立ち上がったトキ時は、両手をぱんぱんと叩きながら大きな声で気合いを入れ直し、場をまとめた。
「トキさん、赤ちゃん起きちゃうでやんすよ。しーでやんす」
「っつぁ! ごめん」
「じゃあ俺はこの後女の子と約束あるから、時間あったらまた夜来るけど。じゃあね、俺がいない間はトキ時のこと任せた」
「うん!」
「では俺は一旦洗濯物の様子を見てきますね」
 素っ気ない程あっという間に普段通りに戻った面々は、残っている今日の業を成すべく散っていく。散っていくのに不思議と安心感があった。各々余韻に浸りたい気持ちも若干持っているだろうが一日の時間は有限なのだ、再度確かめ合うのはまた後日でもいいだろう。
 ある者の広がった視野は今までよりも多くのものを包み込めるようになる。そしてある者は長年の胸のつかえが仮初かもしれないが取れた。また別の者は過去を振り解いて今と未来を見る決断をした。では、残りの者は?
 そして刻は進み、みなが寝静まった頃、そして朝日が昇る前。前日の季節外れな陽気の面影も残さずに、しっとりと冷え込む時間帯。
 闇に体を溶け込ませた憑守が二匹、神妙な表情で並んでいる。
「トキ時が紅族との混血であるというのは、あくまでも単なる可能性だ。真相を確かめる術が一切ない。あるとすれば、羅乃目と黒骸を食って狭間の世に帰った時だ」
「でもよォ、やっぱしそう言われると納得しちまうよな、繋がっちまうんだよ諸々が。ただの人間にオレ様たちが見える筈がねえんだから」
 羅神と雨庸は伊呂波の屋根の上で空を眺めている。地面側から灯りがなければ、こんなに空は輝いているのかと眩暈がする夜だった。
「里から抜けた紅族なんてオレァ聞いたことねえけどな」
「トキ時の親世代ならば、ちょうど我々が現世にいない期間の話になるだろう。上層部にだけ話が回っていて、他は口を噤んでいたのかもしれないな。里抜けなどあってはならないことだ」
「そいつに憑いてた憑守も協力したわけだよな、そいつが里を抜けるのを」
……まあ、そうなるな。当人の求める幸せを優先させてやったのだろう」
「あそこを出て敵しかいねえ外界に一体何があるってんだよ。結局オレたちは……いや、なんでもねえや」
「全ては憶測だ、本当に単なる人間である可能性も否定はできない。ただ」
 羅神は視線を空から地へと移した。
「トキ時が混血だと仮定しよう。だがあいつは我々を認識こそできても他は明らかに単なる人間だ。多少獣に好かれやすい傾向はありそうだが……つまり紅族に人間の血が混ざれば紅族としての力は全て失い、憑守われわれにも判別が不可能であるということになる」

「──羅乃目と黒骸の子の代で、紅族は終わりだ」


 羅乃目は結局、子猫をブンに預けることにした。子猫連れで北町を歩き回るのは得策と思えなかったし、猫は猫に任せるのが一番だからだ。それもとびきりに責任感のあるしっかり者に。
 自分でも情報を集めつつ、進展があればまたブンに会いに行けばいい。そう結論付けて羅乃目は軽い足取りで伊呂波へと帰ってきた。
 いつも通りに軽い気持ちで戸を開けて中を覗き込めば、そこには顔面蒼白のトキ時が待っていた。
 トキ時は羅乃目の名前を何度も呼ぶだけで意味のある文を生み出すことはできず、彼女を困惑させるだけに終わる。
「ねえトキさん落ち着いて、どうしたでやんすか」
「か、買い出しからっ、かえっ、きたら……!」
 トキ時の視線を追って辿り着いたは店内の四卓。
 卓の上には黒骸が囲碁で使っていた道具が一式。
 トキ時の手に引っ掛かっている小さなまん丸の根付け。小さな「く」の文字。
 震える手で突き出してきた書き置きには、やや縦長で迷いのない綺麗な字が並んでいた。


 短い間でしたがお世話になりました
 羅乃目のことどうかよろしくお願いします
 ありがとうございました さようなら

 黒骸


     *


 男には決めねばならない時がある。
 そしてそれは今であったということだ。


次話

第十五話、それでも日常は続くの話