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2025-11-30 01:00:14
12564文字
Public こいぬ
 

こいぬばる 第一話

こいぬユニバース、ハンニバルと大ピオ編。
出会い編だけで妙に長くなり切ったほうがいい気がしたので第一話。何話まであるのかは分かりません。


 鮮やかな色を纏った小鳥が、羽を休めようとその部屋の窓辺に降り立った。
 開け放っていた窓の桟から、そばへ差し出された手へと移り、手の主を見上げる。指に小鳥を乗せた子供はもう片方の手を小鳥に伸ばした。
 その手が羽根を毟り取り骨を折るのを想像したが──それは飛び散る血飛沫を思い出したと言ってもよかった──実際には指の腹で優しく羽根の流れをなぞっただけだった。人の手から逃げ出してきたものか、小鳥は小首を傾げてどこかで聞いたことのある旋律を歌い始める。
 子供はその嘴に鼻先を寄せた。すんと小鳥の匂いを確かめ、小さな黒い瞳を覗き込む。繰り返される歌を心地よく思っているのが小さく動く耳で分かった。
 子供の頭には髪と同じ色の、けれど髪とは違う毛並みの獣の耳が立っている。それと同じ毛並みをした尾が緩やかに揺れていた。
「迷子みたいだね」
 声をかけると振り返らないまま頷く。
「飼いたい?」
「いらない。このまま逃がすと捕まるのか」
「捕まりはしないけど、警察に届けるのがいいと思うよ」
「おれのときと同じか」
 それはその通りで、突然子供は小鳥を乗せた手を窓の外に出した。小鳥は不思議そうに左右に首を傾けるだけで羽ばたこうとはしない。
「懐かれちゃったかな」
 音を立てずに近づき、窓を閉めて子供の手から小鳥を受け取る。鳥籠などあるはずもないから、箱に入れて警察署に届けるのがいいだろう。もし、飼い主が現れずに定められた期間が過ぎたら、そう想像していると、早々に出かける準備を済ませた子供が帽子を被って戻ってくる。
「こいつが選ぶんだろう」
 そしたら飼ってやってもいい、そんな言い方をして小鳥の頭を指先でくすぐる。
「ハンニバル、君の時みたいに?」
「そうだ」
 なんでもないことみたいに軽く頷き、早く支度をしろと急かした。鳥を入れておく箱がいるのだと言えば、どこに何が置いてあるのか全て覚えている子供はちょうどよい小箱を見繕ってくる。飼いたいかともう一度尋ねると、いらないとまた答えた。



 その日は前日から降り続く雨がその勢いを弱めず、日が沈む前からあたりは陰鬱な薄暗さに覆われていた。
 毎日通る道でさえその顔を変えたように、土砂降りの雨が幕となって景色が遠く感じられた。それが初冬の空気をいっそう冷え込ませている。傘は大きめのものにしなさい、濡れて体を冷やせばすぐに風邪を引くんだからと言った母の正しさを感じつつも、雨は既にスニーカーの中まで浸水してきている。
 荷物が濡れないように体の前に抱え、アパートまでの道のりを早足に進んだ。講義のあと構内の図書館でのアルバイトを終えた帰り道、買い物は諦めようと思った。冷蔵庫の中は心許ない状態だったが、スーパーには少し足を伸ばさなくてはならない。
 いつもは儚げなまでに穏やかなせせらぎを聴かせてくれる川も、この日ばかりは濁流となっている。この橋を渡ればアパートはすぐ、自然と急かした足は、けれど橋の半ばで止まった。
 川はその水位を増し、流れは早い。常ならば整備された堤防の下に見える河川敷も水に沈んでいる。しかし立つことは辛うじてできる水の高さらしい、そう分かったのは、小さな人影が見えたからだった。
 子供だ。堤防から河川敷へ下りる階段のそばに立って、きょろきょろと足元を見回している。声をかけようとして、聞こえないだろうと思い直した。こういう時に躊躇できない性分のままに、子供のいる方の岸へと橋を渡った。
「──きみ、そこで何してるんだ、危ないよ!」
 堤防から声を張り上げたが子供はこちらを向かない。ずぶ濡れになっているのは明らかで、足元に手を突っ込んではまた視線を彷徨わせるのは、何かを探しているようだった。足を滑らせればどうすることもできずに流れていくだろう体の大きさで、そのうえ薄着なのだ。
 階段を下りながらもう一度声をかけてもやはり顔を上げもしない。
 日が沈みつつあった。堤防に並ぶ街灯がちかちかと瞬き、あたりを照らす。階段から少し離れた土手で何かがきらりと光った。そんな場合ではないのにそれに手を伸ばしたのは、後から思い返すに本当に正しい行動だった。
「ペンダント……?」
 シルバーの細いチェーンが、同じ素材だろう小さなメダルのペンダントトップに通されていた。三角形の上に円形を乗せ、その間に一本線を渡した、手を広げる人物のように見えるデザインが彫り込まれてる。
 子供がばっとこちらを振り向く。
「もしかしてこれを、」
「──返せ!」
 探しているのかと尋ねようとしたのが先か、傘が土手を転がっていったのが先だったか。
 掴み掛かって来たのは小さな体だったのに、足場のせいで呆気なく背中から倒れる。打ちつけたのが土手だったお陰で痛みはなかったが、全身があっという間に雨に濡れた。
 倒れた体に馬乗りになった子供が伸ばしてくる手に、ペンダントを差し出した。
「ほら、盗ってない。……きみ……
 ペンダントをひったくった子供の手は、雨に打たれて冷たかった。しかしその体はひどく熱を持っている。そういう熱さをよくよく知っていたから確かめようと伸ばした手は、思い切り叩き落とされた。
 年頃ははっきりしなかったが、小学生になっているかいないか、濡れた前髪が顔を半分隠していた。肩で忙しなく息をしている。
「きみ、大丈夫?」
 もう一度伸ばした手が叩かれなかったのは、明らかにその力が尽きてしまったからだった。それでも手を避けてそのまま横向きに倒れ込んだ体を、引きずるように立て直そうとする、その腕を掴む。
「怖がらないで、どうしてひとりで……
 遠くで雷が鳴っていた。髪の間から片目がこちらを睨む。雨音の間に低く響いたのは、唸り声だった。思わずあたりを見回して探したのは犬だったが、流石にこの天候で犬の散歩に出る者はいない。
 子供が唸っている、そう気がついた途端に、目がそれまで見ようとしていなかったものを見た。ぺったりと濡れて伏せられているが、頭の上に、人間にはないはずの耳がついているのを。
 犬の耳のように見える。
 腕を手から引き抜こうとする力が、不意に失せる。くたりとまた倒れた体を受け止めると、大きな尾があるのが見えたけれどもそれより、やはり尋常でなく熱が高い。
 雷鳴がもう唸れない子供の代わりにおどろおどろしく空から降った。とうとう睨むこともできなくなったのに前後して体が重たくなる。その大きさから想像されるよりもずっと苦労して、子供を抱いて立ち上がった。勢いをつけて階段を登り切り、傘を拾うのも忘れて、先ほど渡った橋を戻る。行き先がひとつしか思い浮かばなかったので迷いはなかった。
 目的の建物が見えたとき。進学先を間違えなくてよかった、と思考が飛躍した。通う大学のそば、つまりは下宿のそばに旧知の相手が医院を構えたことに、これまで何度も感謝してきたけれど。
 診察終了の札がかかった正面口を通り過ぎ、奥の住居部分の玄関の扉を叩いた。それから呼び鈴の存在を思い出し強く押し込む。すぐに玄関の明かりがつき、解錠する音が二度響いた。
「スキピオ?」
 幼い頃から世話になっている医師が、目の前に立つ相手の有り様に目を瞠る。しかしすぐに、抱えられた子供の方が急を要すると見て取った。
「ファビウス先生、この子……
「まずは入りなさい」
 二の腕を掴まれ玄関の中に引っ張り込まれる。扉が閉まると、やっと雨音が遠ざかった。
 完全に意識を失っている子供の体をスキピオから受け取ったファビウスが、一瞬動きを止める。耳のせいだと思ったが、彼はそこに拘泥せずにまだ息の整わないスキピオを振り返った。
「この子は預かる。今日は泊まっていけ、その顔色では夜中には熱が上がるだろう」
「いえ、タオルだけ……
「主治医の言うことは聞くものだぞ」
 風邪はもう避けられないだろうと思っていたので、それ以上は抵抗しなかった。住居と繋がっている医院の方へと子供が運ばれていくのを見送ったスキピオは、やはりその夜のうちに熱を出した。


 スキピオは生来体が弱く、幼い頃には入院が必要となることもあった。その当時に診てくれていたのがファビウスであり、スキピオ以上に病弱な弟ともども、いまに至るまで彼を主治医としていた。
 総合病院で経験を積んだ息子が地域医療を志したとき、ファビウスは長く勤めていた大学病院をあっさり辞めた。開業された医院はあっという間に地域になくてはならない存在となり、患者たちは父親の方を大先生、息子の方を若先生と呼んで、院長の肩書を押し付け合う親子喧嘩を仲裁したのだった。
 偶然にもその医院に程近い大学に進学したスキピオは、体の不調から予防接種まで全てここに頼っている。なので今回もこんなふうに頼ってしまった。
 それが思ったよりも大変なことだったと理解したのは、翌朝になってのことである。朝の空は昨夜までの雨が嘘のようによく晴れていた。
「若先生……猫か何かに襲われましたか?」
 診察開始前の朝早く、借りたパジャマにガウンを羽織って熱で重い体を引きずり客間を出たスキピオは、医院に入ったところで、いつもぴしりと身なりを整えているはずの若先生が草臥れてあちこちに引っ掻き傷を作っているのに出会した。
 ここは動物病院ではないはずだが──そう思ってから、自分がここに持ち込んだ存在を思い出した。頭が鈍っている。
「あの子、暴れたんですか」
「いや、私が驚かせたせいだよ」
「それにしたって……
 どんな驚き方をしたら、白衣の襟が破れるのだろう。
 スキピオは何はともあれと診察室の椅子に座らされ若先生によりひと通りの診察を受けて、まあ暖かくして休むしかないねとのお言葉を頂戴した。あとで処方箋を出してくれるという。
「それで……
 あの子は?
 若先生は、少し苦い顔をした。そういえば警察への連絡とか身元の確認とか、全てを放り出してしまったとスキピオは気が付いたが、問題はそこではないらしかった。どこにいるのかと診察室を出ようとするスキピオに、若先生は少し待てと言う。
「あの子は、拾ったのかい」
「え? いえ、河川敷にいたから声をかけたらあの様子だったので」
「ひとりでいたんだね」
「はい。迷子という感じでもありませんでしたが」
「スキピオ、あの子が何なのか知ってるかい」
 何なのか。
……子供ですよね?」
 若先生はとうとう、ため息を漏らした。問いの答えを貰えないまま、診察室から連れ出される。
 あの子供は処置室のベッドに寝かされていた。点滴台がまず目に入り、そばに座っていたファビウスに手招かれて覗き込むと、子供の顔半分が包帯に覆われている。
 高熱に魘されている様子ではなかったが、顔色は悪かった。ひどく痛々しく、点滴のつながる腕が細いことが目についた。こんこんと眠って、指先一つ、睫毛さえ動く様子がない。そしてやはりその頭には犬の耳があった。
「右目は見えなくなるだろうが、他は大事ない」
 スキピオはファビウスを見返した。思いもしないことだった。しかし、そう、こちらを睨んでいたのは左目だけだったのではなかったか。
 ファビウスは碌に眠っていないのだろう。息子のように草臥れても傷を作ってもいなかったが、指で眉間を強く指で押さえる。
「スキピオ、もうこの子のことは気にするな」
「家族に連絡がついたんですか?」
「いいや。だがもう、ここに連れて来たので十分だ。あとは私たちに任せなさい」
 優しい声だったが、大人が子供に言い聞かせて突き放すような気配がある。十九歳になったスキピオもファビウスからすれば二歳の頃と変わらず、いつもならば心地よく受け入れる優しさだった。それが今は、何か、よくないものに思えた。
「若先生は、この子は何かを知っているかと」
「知らないだろう」
「知りません。この耳……これが本物なら、人間だと言い切っていいのかさえ分かりません。教えてください」
「だめだ。とにかく、警察への届出も私がしておく。もうおまえのすべきことはない。朝食を摂ったらもう一度眠って、熱が下がったら帰りなさい」
「警察はこの子をどうするんですか」
「どうもしない。探している人間がいれば返す、それまではここで預かる」
 信頼する人たちの言葉の端々に、うっすらと、この子供を尊重し切らない気配が滲んでいる。
「探している人間というのは、家族のことじゃ──」
 言葉を途切らせてスキピオが視線を落とした先で、子供の片目が開いていた。けれど朦朧としていてか、子供はぼんやりと視線を彷徨わせる。それが自分を見たとき、スキピオは考えるより先に点滴の針の刺さっていない方の手を握った。
 微笑んで、手を柔らかく包むと、二度三度と瞬きをした目が、ゆっくり閉じる。その瞳は薄紫の美しい色をしていたが、ひとつきりになる。そう思うとひどく切なかった。
……誰も探していなかったら?」
 いつまでもここに、なんてことはありそうになかった。
「この子を迷子として扱っているのか迷い犬として扱っているのかだけ教えてください」
「迷い犬だ」
「なら僕が連れて帰ります」
「何?」
「申し訳ないですが、いまだけは先生のことを信じられません。僕がここに連れてきた子を、信じきれない相手に託せない。帰るところがなければ僕が引き取ります」
 世話になってきた相手に、ましてや今この時まさに世話になっている相手に対して許される物言いではない。ファビウスは強情さに面食らっていたが、ふと、考慮すべき点があると思い直した。
「スキピオの熱は何度だった」
 スキピオより先に、ずっと傍観に徹していた若先生が答える。
「三十八度七分です」
「高いな。平熱に戻るまではこの話は保留だ」
「でも」
「保留だ、と言った。朝の準備がある、家の方に戻りなさい」
 こうなっては話し合うことはできないだろう。言われた通りに部屋を出かけて、スキピオは大切なことを思い出した。
「ペンダント……その子、ペンダントを持っていませんでしたか?」
 ファビウスは奥の棚の方へ行き、あのペンダントをスキピオに手渡す。見れば留め具が壊れてしまっていて、そのせいで落としたようだった。
「お守りだろう」
 それが、この子にとってはそうなのだろうという意味なのか、彼がこのデザインを知っているという意味なのか、尋ねる前にスキピオは部屋を追い出された。


 その日のうちには子供は目を覚まさなかったが、スキピオの熱はおおよそ下がった。一旦は引き下がり自分の下宿に戻り、子供が気がつけば連絡するというファビウスの言葉を信じて待つこと二日、電話はちょうど金曜日に五時限目の講義を受け終えた時にかかってきた。
「どこか寄るのか?」
 すぐに向かうと返事をしたスキピオに、隣で講義を受けていたラエリウスが首を傾げる。講義室からはどっと学生が出て行き、彼も荷物を持ち上げたところだった。
 いつもならば一緒に帰るなりどこかに夕食を食べに行くなりする。スキピオはこのうえなく信頼できる幼馴染の顔を見返し、しかしいまではないなと思った。
「ファビウス先生のところに行くんだ、こないだ熱を出したから、一応」
「ああ、あのおっかない先生」
 ラエリウスもスキピオの勧めるままにあの病院をかかりつけにしているからそんなことを言う。彼と別れて大学を出る足取りは自然と速くなった。
 最終の受付時間は過ぎていたが医院にはまだ患者が残っている様子で、また裏に回る。インターホンを鳴らせばファビウスの奥方が玄関を開き、事情は分かっているからと、医院ではなく二階にスキピオを案内した。足を止めたのはスキピオ自身が泊めてもらったあの部屋の前だ。
「まずは足元に気をつけて。それと大きな声は駄目ですからね」
……? はい」
「これを渡しておきます」
 そう言って渡されたのは中身が半分ほどのキャラメルの箱だった。つまりどういうこと? そんな顔をしているスキピオを自分の後ろに立たせて、ドアを三度ノックする。返事はないが、何か物音がした。
「ドアを開けますよ」
 そう声をかけ開いたドアの向こうは暗い。カーテンも閉め切られ廊下の明かりだけが頼りで、間取りは分かっているからベッドの方に目を凝らしてもそこに誰かが寝ている様子はなかった。
 振り返ったスキピオに、おそらく入れという意味で奥方は頷く。そうっと足を踏み入れ、部屋をぐるっと見回しても子供の姿は見当たらない。足元にと言われたから摺り足でゆっくり部屋の真ん中まで進んだところで、スキピオは転んだ。
 何かに足を引っ掛けた、いや、何かに足を掴まれ後ろへ引っ張られて、顔からベッドに倒れ込む。うっと呻き声を上げたところに何かが背中の上に座った。
……結構元気そうだね……
 もっとぐったりして起き上がれないのを想像していた。
 当然と言うべきか返事はない。背に乗っかった子供は首の後ろあたりを嗅いで、訝しげな目でスキピオを見下ろしていた。包帯はそのままだしまだ熱があるようだったが、ぎょっとするような熱さではない。
 警戒に満ちた片目に誰だお前はと問われている気がして、覚えていなくとも無理はないとシーツを何度か叩いた。降参の意味はどうにか通じて、子供が床に下り、さっとカーテンの暗がりに身を潜める。ドアの外から見守っていた奥方を見ると親指を立てて去っていった。上出来らしい。彼女がその息子のように引っ掻き傷を作っていないのに心底安心した。
「キャラメル好き?」
 ベッドに座り問いかけると、子供の目線はスキピオの持つ箱に向かった。中に何が入っているか分かっているらしい。銀紙に包まれたキャラメルをひとつ出して差し出せば手の届くぎりぎりまで近づいて、ひったくってまた戻っていった。
 別に甘いもので顔を綻ばせるでもなく、スキピオを睨んだままだ。肩を過ぎる長さの髪を後ろで括って、真新しく見えるパジャマを着せられているが、丈が合っているのに体が泳いでいるように見える。
 とりあえず逃げ出さず唸りもしないのでよしとして、転ばされた拍子に床に放り出されていた鞄を引き寄せた。
「あのペンダントはいま持ってる?」
 中を探って取り出したチェーンを掲げてみせると、子供はそうっと立ち上がった。スキピオの腕の届かない距離で部屋の中を大きく迂回し、枕を掴み取る。何かと思えばそのカバーの中にペンダントを隠していた。
 少しの間逡巡していたものの、シーツの上にペンダントを置く。こちらの意図を何も言わないのに察しているようで、スキピオがチェーンを取り替えるのをじっと見つめていた。
「おいで、つけてあげる」
 これにはもっと長く迷っていた。しかし睨まれても幼い子供の大きな目で、枕をぎゅっと抱いているのでは少しも怖くない。迷いを示すように立った耳が小さく動いていた。ふさふさとした尻尾は萎れたように垂れたまま、それが体の不調によるのか心境の現れなのか、スキピオはとにかく何も気にしていませんという顔のまま待ち続けた。
 十分ほど経って子供が近づいてくるのにも大袈裟に反応せずに、暗い部屋でやや苦労しつつ細い首にペンダントをつける。長さを調整してできたと声をかければ、その存在を確かめるようにメダルを手の中に握り込んだ。
 すぐに距離を取らずにそばに立っている子供の顔を覗く。
「君の名前はなんていうの? 僕はスキピオって、うっ」
 振り被った枕で殴られた。精一杯の力で。
 枕を放り投げて部屋の隅に逃げられると、もう完全に日が沈んだ部屋では廊下からの光が闇を深くしてその姿がよく見えない。しつこくするまいと構いたい気持ちを引っ込めて部屋を出ると、一階のダイニングにはファビウスが戻っていた。細君の作った夕食を食卓に並べていたところを振り返って、スキピオの姿を上から下まで見て眉を上げる。
「なんだ、生傷だらけで下りてくると思っていたんだが」
 そんなことを言われてスキピオはふんと笑って見せた。強がりである。
 自分の分まで用意されているらしい夕食に申し訳ない気持ちになりつつ、小さな鍋に粥が用意されているのも見えた。あの子の分だ。
……あの子の目は、治療にどのくらいかかりますか」
「二週間ほどだろう」
「二週間。分かりました」
「何を分かった」
「二週間で全員納得させますから」
「勝手に話を進めるな」
「そうしたら治療費もお支払いしますから」
「子供の小遣いなんぞいらん。スキピオ、いいからもう任せておけ」
 保険の効かない治療費ってどれくらいになるんだろう、入院ともなれば馬鹿にならないはずだ、後で調べよう。図書館以外のアルバイトを探すべきかもしれない。
 相手の耳に自分の言うことが入っていないと察したファビウスの重いため息にスキピオは顔を上げた。
「まあ、あの子が自分の家を教えてくれるのがいちばんですよね」
 あんなふうに痩せて、傷を負って行き倒れたにしても、元いた場所があるならそこに帰してやるのがいい。それは疑いなかった。ファビウスだって、それはそうだと、その望みは薄いと思いながらも頷いていた。
 しかし、事はそう簡単には進まなかった。
 まず子供は何も話そうと、正確に言えば声を出そうとすらしなかったのだ。スキピオは確かにあの子の声を聞いたが、いまは唸るか吠えるかで、頷くか首を振るといった意思表示もほとんどなかった。あげると言われたものを無視するかひったくるか、これは好きかとキャラメルを見せても睨むだけだ。ペンダント以外に持ち物もなく、身元を示す手がかりがない。警察への届出も済ませたが何の知らせもなかった。
 それでも、治療の際には暴れて押さえつけられていたのが少しずつ状況を理解し大人しくするようになった。日頃の世話をしてくれ、食事を与えてくれる存在として若干の許容を受けているファビウスの奥方は、あの子を拾ってから二度目の週末にスキピオに言った。
「何も覚えていないのだと思うの」
 渡されたトレーには子供の昼食が並べられている。
「色々尋ね続けられて、答えたくなくて黙っているというより、答えようがなくて困っているような……
「それは、僕も少しそんな気がしています」
 訪ねるたびに色々と訊き方を変えては嫌そうな顔をされる。それが困った顔なのかもと思うようになった。もう部屋に入っても足を引っ掛けられないし、枕で殴られることはたまにあるが、ほとんど毎日顔を見せるスキピオの存在そのものには慣れてくれたとも。
 ノックは三回、声をかけて少し待ってからドアを開ける。それを破らずにいるおかげか、子供は誰かが部屋に入るたびに身を潜めることもやめた。
 ベッドに横になっていた子供が起き上がらず寝返りを打って、テーブルに置かれたトレーをちらと見る。小さな丸テーブルは物置から引っ張り出されてきた年代物で、あちこちに剥がせなくなったシールが張り付いていた。
 ふいとまた寝返りを打ち背を向けてしまう。グラタンスープと可愛らしくうさぎの形に切られた林檎は、それほど子供の興味を惹けなかったようだった。
 冷めるとチーズが固まって美味しさが損なわれる、そう教えてやっても反応はない。もしかしてと思いスキピオはベッドに近づき、一応声をかけてから子供の額に触れた。熱がある。一週間ほど発熱が続いたのち一度は平熱に戻りゆっくりと体に栄養を行き渡らせているところだったが、ぶり返したのかもしれない。
 蹴飛ばされベッドから落ち掛けていた毛布を子供の体に掛けた。それを嫌がらない子供の、柔らかな感触の耳を避けて髪を撫でる。
 ファビウスはカーテンを閉めたままにするよう言い、雨戸のある窓はそれも閉め切っていた。スキピオは犬の特徴を持つ子供を見たことがなく、多くの人がそうだろう。だから人目に触れれば騒ぎになりかねないと言われれば仕方がないが、毎日眠る以外にすることのない日々はどれほど退屈で苦しいだろうと思う。
 顔の半分を覆っていた包帯は眼帯に変わっていた。体の弱っていたところに悪い条件が重なったが眼球を喪失することはなかった、その説明をファビウスは子供にもしたのだろうか。
「帽子を被れば外に行けると思うんだよね」
 ベッドのそばに座り込んで、独り言のつもりでスキピオは呟いた。
「その尻尾も上着で隠せるし、そうしたら普通に公園とか……?」
 言ってみて、なんだか犬のイメージに引っ張られている気がした。この子はいままでどこにいて、どんなふうに過ごしてきたか知らないくせに、公園に連れて行けば喜ぶような気がしてしまう。
……どこでも、君の行きたいところに行けると思うよ。熱が下がったらファビウス先生にお願いしてみようか。行きたいところ、ある?」
 子供が身動ぎ、スキピオを見上げた。もう警戒と不審で満ちてはいない、しかし信頼も好意もない、野生の生き物のような眼差しだったが、熱のせいだろう、いまばかりは頼りなげに見えた。
 すぐに視線を外し眉を寄せるのが答えの見つからない居心地の悪さだとすれば、行きたい場所がないのだ。あるいはどこも、行く場所を知らない。
「君は……
 不意に、君と呼び続けるのになんだか疲れてしまった。
「君のことなんて呼ぶのがいいかな。名前が分からないなりにさ、あだ名くらいはある方が……
「ハンニバル」
「うん?」
 聞き返してからスキピオは目を瞠った。少し掠れたその声は、確かに子供が発した。
 自分でも驚いているという幼い顔に、スキピオは微笑みを返した。
「ハンニバル。それが君の名前なんだね」
…………
「僕が名前を呼んでも構わない?」
……名前……
 子供の、ハンニバルの手が首元のペンダントを探った。その菫色の眼に光が差し込んだように見えた。自分と世界を隔てていた膜が突然消え失せて世界がはっきり見えるようになった、そんなふうに。
 やはり教えなかったのではなく教えられなかったのだろう。たった今まで、自分の名前も、どうしてここにいるのかも、どうしてこんなふうに調子が悪いのかも分からなかったのだとしたら、枕で殴られるくらいどうってことはないと思えた。
 しばらく遠くへ投げられていた視線がスキピオの方へ戻ってくる。
「ハンニバル。ご飯を食べよう」
 冷めてしまっただろうけれど、それでも美味しいのがこの家で出される食事だ。ハンニバルは起き上がってもう一度テーブルの上の食事を見つめ、頷いた。けれどどうにも怠そうな様子にスキピオは器を手に取って、まずはスープだけを掬ったスプーンを差し出す。
 何度かスプーンとスキピオを見比べたハンニバルが口を開いたので、少しずつ食事を進めさせた。


 二週間が過ぎてもファビウスの姿勢は変わらなかった。とにかく、学生の身分で引き取ると主張すること自体が烏滸がましいと言わんばかりであり、一方でハンニバル──名前が分かったと伝えられた時に彼の顔が曇ったのもスキピオは見逃さなかった──が拾得物として扱われその保管期間が過ぎた後どうなるかは明言しない。
 それはつまり、そういうことではないのか。
 ハンニバルの耳も尾も、外科的に取り付けられたのではなく生まれ持ったものらしい。スキピオが知らなかっただけで、こういう特徴を持つ存在は確かにあり、著しく認知度が低い。人間の姿をしていると言って差し支えないだろうに、ファビウスも警察も、人間としては扱わなかった。
 すっかり入り浸りになったファビウス家のダイニングで向かい合っての話し合いは常に平行線を辿った。
「ハンニバルの様子を逐一教えてくれるなら考えます」
……約束できないな」
「じゃあ引き取ります」
「ご両親に何と説明する気だ、仕送りとアルバイトで養えると?」
「どうにかするしかないなら、どうにかなりますよ」
 スキピオは成績上位者として学費を免除されている。成績を落としてその資格を失う予定もない。それでも実家から通おうと思えば通える距離を「通学に時間がかかるとそれだけで倒れそうだから」と下宿をさせてもらっており、生活費を自分で負担してもいなかった。
 ファビウスの言う通り仕送り頼りである。アルバイトだって趣味に使うくらいは自分で稼ごうという甘い考えのもの、しかし、スキピオはまったく申し訳ないと思ったことはない。ありがたいとは思うが。
「ファビウス先生、僕が両親にどれだけ可愛がられているか知ってるのにそんな言い方しても駄目です」
「太々しい……
 親としての様々な思いが込められたぼやきで、どこか同情も籠っている。感染症の流行しやすい冬にこんなことに手を取られてファビウスにも流石に疲れが見え始めていた。だから、彼はぽろりと言ってしまった。
「大体引き取ると言うが当人の了承は取ったのか」
 スキピオはあたかもその発想はたったいま持ったという困り顔を作った。
「まだ先のことまでは話をしていません。そうですね、ハンニバルに嫌がられては話にならない。確かめましょう」
「いや、何も分かっていない相手に」
「当人の意思がいちばん大事ですよね」
 スキピオは立ち上がり階段に足をかけたところで、動きを止めた。
 階段の上にハンニバルが立っていた。ドアに鍵をかけないでいようが開けっぱなしにしようが客間から一歩も外に出ようとしなかったのに。
 無言で手招くと、階段を下りてくる。どこから話を聞いていたのかと尋ねたかったけれどそれより先に確かめたいことがある。
 一向にファビウスには懐かないハンニバルはスキピオのそばに立ち止まった。しゃがみ込み視線を合わせる。
「あのね、僕はここじゃない別の家で暮らしているんだ」
……知ってる」
「うん。それで、ハンニバル、君さえよければ一緒にそこで、僕と暮らさない?」
 ハンニバルは自分の名前のほかは何も思い出さないままだ。どこであれ彼にとっては見知らぬ場所、違和感を拭えずに過ごすことになるかもしれない。選べと言われたって困るだろう──そう思ったスキピオの目を、ひとつきりの瞳が覗き込んだ。
 本当にわずかに柔らかな線を描くようになった頬が子供らしく笑顔の形に持ち上がることはないが、その眼差しは野生動物のような異質さを失っていた。
「行く」
 スキピオはその小さな両手を握った。少し戸惑ったような感触はあるが抜け出していかない手が、ほんの少し指を曲げて握り返した、気がした。
「先生がもう大丈夫って言ってくれたら、一緒に帰ろう」
 そう聞くなりファビウスの方を睨んだハンニバルに、睨まれた方は深々と、長いため息をついた。それが白旗の代わりであることくらいスキピオにはよく分かっていた。本当は諦めてしまいたかったんでしょうとは、流石に言わなかったけれど。