ねぶくろ
2025-11-23 12:18:58
5668文字
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一口大のバウムクーヘンエンド 本文サンプル

「結ばれないふたり」限定短編集
『一口大のバウムクーヘンエンド』の本文サンプルです
1ページ目「一口大のバウムクーヘンエンド」
2ページ目「幻想の君へ」

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幻想の君へ


萌黄もえぎさんは絶対に可愛い」
 視線をスマートフォンへ固定したまま、あつしが言う。
 その言葉に目を細め、美佳みかはドリンクバーで汲んできた、薄い烏龍茶の入ったコップを手に取った。丁寧な所作でコップの縁に唇をつけると、じれったいほどの速度でそれを傾ける。ゆっくりとした動作を続けている間、篤の視線が美佳に向くことはない。
 その事実に内心で舌打ちして、中身の減ったコップをテーブルに置く。店内を均等に照らしているライトの光が、氷の浮かんだガラスを透かした。屈折した影が天板に落ちている。
 夕暮れ時のファミリーレストランは、制服姿の客が多かった。さざめくような笑い声が響くのは、窓際のテーブル席を陣取っている女子高校生たちだろう。一つのスマートフォンを覗き込み、ヤバイ、と何かを盛んに笑っている。
 賑やかな彼女たちの声をBGMに、美佳は頬杖をついて、「そんなのわかるの?」と問いかけた。
 昼と夜との境で、万物の輪郭が曖昧になった時刻に特有の、まったりと停滞した空気。店内を覆う気怠さに、しな垂れかかるようにして体をかしげる。美佳の様子にも構わず、篤はスマートフォンをいじり続けていた。声音に乗せた微かな嫉妬は届かなかったらしい。
 「ねぇ」と返答を催促すれば、ようやく彼が口を開いた。「わかるよ」とどこか誇らしく断言する声。自信に満ちた声音に、ますます眉間の皺が深くなる。美佳の視線にも気づかないまま、篤は顔に軽い笑みを浮かべた。その目はこちらを向かず、液晶画面に釘付けになっている。
「どうして?」
 身を乗り出し、ぐっと顔を近づけても、篤は顔を上げなかった。相変わらず、視線は手元に注がれている。美佳のことなど眼中にない。──その事実に、頬が炙られるような屈辱に見舞われる。
 それでもめげずに、美佳は彼を見つめ続けた。
 険と、思慕と、憎悪と、執念と、様々な感情を載せた眼差しに、ただならぬ気配を感じてか、その目がようやくこちらを捉える。顔を上げた篤は、遠くを眺めるような透明な瞳で美佳を見た。
 ここではないどこかに思いを馳せる目。美佳が一目惚れした、深淵を見つめる双眸。
 視線が交わる一瞬を逃さぬようにと言葉を捩じ込む。
「萌黄さんってネットの人でしょ? 実はおばさんかもしれないよ?」
 意地悪く捻じ曲がった声で、邪推する。それでも、透明な眼差しに色が付くことはなかった。ただ、単純に美佳を映すだけの瞳を見返す。凪いだ表情にさざ波一つ立てないまま、篤が、「おばさんじゃない」と断じた。平板な声がいつもより低いことに気付いて、美佳は唇を引き結んだ。憐憫か侮蔑か、あるいはその両方か、──形容しがたい優しさを孕んだ声が耳朶を打つ。
「萌黄さん、時々自分の写真をあげるから。おばさんじゃない」
……、顔知ってるってこと?」
 薄く張った氷を踏むように、慎重に言葉を選んで問いかける。彼は相変わらず凪いだ表情のまま、少しだけ首をかしげた。
 水っぽい眼差しが美佳を離れて、虚空を見上げた。ビー玉のように澄んだその視線の先を追いかけて、虚空を睨む。篤は何かを思案するような間をおいてから、「見せた方が早いか」と口元で独り言を呟いた。そのまま、放浪を続ける双眸が端末へと落ちて、すいすいと慣れた様子で画面をスクロールする。ほどなくして、篤が差し出してきた画面には、白魚のような手が映し出されていた。
 肌から光が溢れるように清潔でつややかな、ハリのある皮膚。爪の先まで磨きこまれ、控えめで繊細なネイルアートの施された五本の指。水仕事も、肌荒れも、世俗のあらゆる苦悩を知らない生娘のような清らかなそれを見せながら、篤が「萌黄さん」と言葉を添えた。
「おばさんの手じゃないだろ?」
 念を押すような問いかけに、答えられずに押し黙る。美佳が逃げ場を求めて机上に視線を落とせば、咄嗟にコップへと伸びた自分の手が目に入った。
 少し黄色味を帯びた肌の色。乾燥していて硬そうな皮膚。ささくれだち、可愛げのない指先。一人暮らしの家事やアルバイトの中で細かな怪我を重ね、水に荒れた女の手。愛すべき点の見つからないそれを見下ろして、軽くこぶしを握り込む。
 俯いたまま、美佳は、「おばさんじゃないのはわかるけど」と現実に抗するような心地で口を開いた。何かないか、と縋るような気持ちで顔を上げ、写真を見る。完璧なまでに整った手。眩しいほどに色白な肌を前に、羨ましさと悔しさで唇を噛む。
 一体どれだけの時間とお金と手間をかけているのだろう。
 ネイルアートの相場など調べたこともないが、サロンに行くのならば数千円は必要だ。ネイルは外すのにもサロンに行く必要があると聞くし、つけっぱなしでは爪も傷む。手入れの頻度を考えれば、月に数万円かかっていても不思議ではない。しかも、それが毎月かかるとなると途方もない出費だ。
 その他にも、肌の状態を保つためにスキンケアをしたり、脱毛をしたりしているはずだ。それらすべてをプロに頼んでいるのだろうか、と考えるだけで気が遠くなる。ひと月のアルバイト代では到底足りない。実家がよほど太いのか、何かのコネがあるのか。
 そこまで考えて、「でもさ、」と接ぎ穂を重ねる。わずかに跳ねた声音に気付いてか、篤がちらりとこちらを見遣った。何か言いたげな両の瞳をしっかりと見返して、自分でも意地の悪い表情をしているのだろうと思いながら言葉を吐き出す。
「ネイルにかけるお金があるってことは、学生でもないよね。確実に年上じゃん」
 勝ち誇ったような言葉に、拍子抜けするほどあっさりと彼が頷く。
「まぁ、そうだろうね」
 篤はちょっと笑って、愛おしむように画面に目を戻した。決してこちらを見ようとしない、愛着の籠もった眼差しが、液晶へと、──その先の、顔すら知らない萌黄さんへと注がれる。
「社会に出て、バリバリ働いて、自分の好きなことにお金も時間も使ってて、すごいよな。爪だけでこれだけ綺麗ってことは、すごくオシャレな人だと思う。長く伸ばした髪を巻いたり、可愛いスカート履いたり、……きっと、すごく可愛い」
 その言葉に、下唇を噛む。血の味が滲むのにも構わず、美佳はテーブルに頬杖をついて、そっぽを向いた。視線を逃した窓ガラスの先には、夕暮れの茜色と、仕事帰りと思しき女性の姿が見えていた。
 ひらひらと風に舞う、レースのスカート。踵の高いオシャレなパンプス。ゆるく巻いた茶色い髪の毛と、一日の疲れを感じさせないほど優雅な唇の艶。目元をラメで彩って、肩に下げたバッグは学生には手の届かないブランドものだ。
 カッコよくて、可愛くて、羨ましくて、恨めしい。自分は決して、ああはなれない。自覚があるからこそ、その姿はより眩しいものとして網膜に焼き付いた。長く伸ばした髪を揺らし、堂々たる佇まいで歩いていく横顔が目に眩しい。ほっそりとした顔の輪郭が、夕暮れの薄闇に浮かんで見える。
 私もああだったらよかった、と叶わぬことへの僻みが美佳の表情を強張らせていく。その変化に気付いているのかいないのか、篤の視線が美佳の視線を追いかけた。
 体をねじって背後を振り向き、無理な姿勢で窓の外へと視線を放る。どこに焦点が定まっているのかわからないような透明な眼差しにが色づいて、篤が目を瞬いた。凛と背筋を伸ばして歩いていく女性の横顔を追いかけて、彼が目元をやわらげる。
 篤はこちらを振り向くと、「いいよな、ああいうの」と同意を求めてこちらを振り向いた。視線が交わる寸前に目を伏せて、コップを手に取る。美佳は揺れる水面を見つめながら、「バイト行かなきゃ」と残った烏龍茶を飲み干した。