クギ
2025-11-23 00:24:48
10290文字
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スターマン

部屋を与えられ、城砦の生活に馴染んでいく洛軍の話。

外から来た男と共に、既刊『外宇宙からの来訪者』掲載された中編です。
その節は本を手に取ってくださった皆様、ありがとうございました。

 ※カップリング設定はありません。
 ※映画設定準拠、原作未読。
 (肩書き等設定のみ、一部原作より流用しています)
 ※時代背景、城砦の見取りなどはウェブで調べた
  付け焼き刃の知識ですので、粗があります。



 家賃はいらないと、突然与えられた新たな住み処。
 空っぽだった腕に、手渡された服。
 階下へと戻る信一を見送ったあとも、しばらく洛軍はその場で立ちつくしていた。
 まだ営業中の七記冰室からは、雑多な気配がしている。
 見たところ、物置だったらしいここに、明かりはない。冰室から漏れ出る光で、辛うじて手元が分かる程度だ。
 それでも、今までの寝床のことを思えば、あまりにも上等で、自分には不相応な場所に洛軍には感じられた。

 ──本当に、良いのだろうか、ここにいて。

 不思議な気分だった。長らく、満足に食べていなかった腹は満たされ、手足はなんだか暖かい。
 叉焼飯、美味かったな。城砦の名物だと龍捲風は言っていたが、なるほど、名物になるのもうなずける。あれは良いものだ。
 ついさっき口にした味へ、洛軍は思いを馳せた。
 それから、と。
 洛軍は、自身の手元を見下ろした。
 きちんと畳まれ、重ねられた清潔な衣類が、彼の腕の中に収まっている。いきなり差し出され、受け取ってしまったのだが、良かったのだろうか。また、洛軍は自問した。
 振り返れば、城砦にやって来てから、洛軍は自身の身なりに気を回している余裕などなかった。
 わずかばかり持っていたなけなしの替えの服は、油麻地から逃れてくる時に、持ってはこれなかった。
 当たり前だ。身分証が出来たと呼ばれたあの日、洛軍は、まさか自分がそのまま逃げることになろうとは、夢にも思っていなかったのだから。彼は文字どおり、着の身着のままで、城砦にたどり着いた。
 きっともう、あの服たちを取りに戻ることはないだろう。
 惜しくはなかったし、感傷もない。失くすばかりの人生だったから、それにはもう、彼は慣れていた。
 洛軍は、幼い頃には母を失くし、何度も居場所を失くしてきた。
 そのうちに、故郷の戦争は酷くなり、大人になる前に、洛軍は戦場に出なければならなくなった。あった筈の子供時代を失くし、従軍すれば、戦友を失くす日々を送った。
 やっと戦争が終わったかと思えば、今度はまた別の戦争が始まった。ベトナム華僑と、それに類する人々は迫害にさらされた。もちろん、洛軍も。彼にはもう、海を渡ることしか、道が残されていなかった。そしてついに、洛軍は帰る国まで失くしてしまった。
 失くすことに慣れるのも、当然の人生だろう。
 そんな洛軍は、むしろ、もらうことに慣れていなかった。
 だから今のように、突然人からの善意を向けられると、彼は戸惑いを覚える。ありがたいとは思うのだが、それを本当に受け取って良いものなのか、不安になる。ここ──九龍城砦に来てからの洛軍には、そんな場面がいくつもあった。

  *****

 洛軍が城砦へと逃げ込んだのは、まったくの偶然だった。
 彼がもといた油麻地の果欄から城砦までは、それなりに距離がある。油麻地のヤクザに騙された意趣返しと、盗んだクスリを持って追われるうち、乗り込んだバス。それが、洛軍を城砦近くへと運んだのだ。
 あの時、逃げる洛軍の目に飛び込んできた、城砦の姿。
 夜の闇に浮かんだ、得体の知れない巨大なたたずまいを、彼は一生涯、忘れることはないだろう。
 中に入って、遅ればせながら洛軍は、ここが噂に名高い九龍城砦であることに気付いた。不管地だの、暗黒のスラム街だの、入れば二度と出られぬ迷宮だの、さまざまな話を聞いてはいたが、ここがそうなのか、と。香港に流れてきてすぐ、果欄で人足の職を得ていた洛軍は、身分証がないせいもあり、油麻地から出たことがなかったのだ。
 城砦の中を、当てどなく彷徨っていた洛軍は、やがて騒動を巻き起こし、最後には派手にぶちのめされることになる。だが、それは話の本筋ではないので、ここでは詳しくを語らない。
 この騒動の時、洛軍が面識を持ったのが、龍捲風と信一だった。
 単なる黒社会とは一線を画す、只者ではない──特に龍捲風が──彼らが、城砦を仕切る幇の、龍頭と頭馬であることを洛軍が知ったのは、当然ながら、あとからのことだ。


 成り行きの末に、洛軍は城砦で職を得ることになった。
 その世話をしたのが、彼と殺し合いまで繰り広げた信一だったのだから、人生は何がどう転ぶか分からない。
 洛軍に紹介されたのは、つみれ屋と叉焼屋の仕事だった。信一の立場が立場である。妙な仕事を回されやしないかと、身構えていた洛軍だった──悪どい商売だったら、その場で腕力にモノをいわせていただろう──ので、これには内心彼も胸を撫で下ろした。

 それからの洛軍は、とにかくがむしゃらに働いた。

 紹介された仕事だけでは、申し訳ないが、得られる日銭は知れていた。だからと洛軍は、働きだして早々に、店主たちへ相談を持ちかけた。他の仕事を口利きしてほしい。絶対に、ここの仕事を疎かにはしないから。そう、自ら約束までして。
 店主たちは洛軍へ、快く新しい働き口を紹介してくれた。
 彼が増やしたのは、果欄にいた頃と同じく、人足の仕事だった。
 その構造と成り立ちの性質上、城砦はインフラの整備が圧倒的に足りていない。そんな環境にあって、店や工場を営もうとするならば、大量に使用する水やガスは、必要な分だけ、手元に運んでこなければならなかった。また、城砦内は経済活動が活発であり、水やガス以外にも、運搬を必要とする仕事はごまんとある。
 一方で、複雑を極めた城砦内部の造りは、細い通路や上下移動が多く、自転車や手押し車を使える場所は限られている。大量の物品や、重量物を運ぶには、どうしても人の手が必要になった。
 そんな城砦の物流事情において、荷運びを担う人足たちは、欠かせない存在だったのだ。
 洛軍ほど、人足に向いた人間もいないだろう。力は強く、身体は頑丈で体力もあり、おまけに怪我の治りも早い──とは、洛軍の怪我を見てくれた、医者の言葉だったが。
 人の倍以上、荷物を運ぶことのできた洛軍は、やがて、ほうぼうの店から重宝されるようになる。しかし、彼が順調に仕事を増やしていった理由は、なにも、単に腕力が強いだけが理由ではない。
 最初こそ、城砦の店主たちは洛軍に対し、懐疑的な目を向けていた。それもそうだろう。どこの馬の骨とも知れぬ男が、簡単に信用されるような、城砦はそんな生やさしい場所ではなかった。
 そんな店主たちが、洛軍へ多くの荷を任せるようになったのは、ただただ、彼が真摯に、与えられた仕事をこなしていったからだ。
 洛軍は、実直な男だった。
 真面目で、どんな仕事であっても、手を抜くことをしない。分からないことがあれば、素直に尋ね、よく人の言葉を聞く。しかも彼は、助言を求める相手の年齢に、隔てを持たなかった。必要とあらば、幼い子供からの助言ですら、彼は真剣に耳を傾けた。
 年の頃に似合わぬ謙虚さこそ、その誠実な仕事ぶりと相まって、洛軍が店主たちに信用される、大きな要因となったのだ。
 こうして彼は徐々に、店主たちのみならず、城砦の住民たちからも信頼されるようになっていった。

 すると、どうしたことだろう。
 洛軍の生活に、ある変化が現れる。

 彼はしばしば、住民たちから厚意を向けられるようになった。
 それは例えば、世間話だったり、こちらを見る笑顔だったり、用もないのに、手を振り呼び止められることだったり。食べ物を、分けてもらったこともある。
 普通の人間ならば、いちいち気にも留めないような、ありふれて些細な日常の交流。それら端々に、洛軍は、住民たちからの気遣いを感じていた。

 ──こんな根無し草に、なんで。

 洛軍は母の死後、特定のコミュニティに身を置いたことがない。
 いつも、どこにいても、余所者としか扱われなかったし、彼はそれが当たり前だと思っていた。民兵時代は所属先こそあったが、あれは到底、コミュニティなどと呼べる代物ではなかった。
 だから洛軍は、不思議だったし、戸惑いもした。住民たちから向けられる厚意や、善意に対して。彼は、もらってばかりだと。
 その最たるものこそ、洛軍が与えられた物置の居場所であり、手渡された衣服たちだった。

  *****

 きちんとした寝床──簡易なビーチベッドでさえ、洛軍には上等なものだった──で、手足を伸ばして眠るのは、一体いつぶりだろう。おまけに、毛布まであるではないか。
 まだ、どこか信じられない気持ちのままで、洛軍はベッドに腰かけ、寝支度をしていた。
 とはいっても、寝巻きなどという贅沢なものを、彼が持ちあわせている筈もなかった。寝支度など一瞬で済んでしまう。靴を脱ぎ、靴下を脱いで、それで終わり。
 思えば、靴下を脱ぐのも、洛軍には久しぶりのことだった。
 洛軍はその稼ぎを、常時、靴下の中に隠し持っていた。
 それなりの額がまとまれば、また別へ移してはいたが、基本彼は稼いだ金を、肌身離さず過ごしていたのだ。それはたとえ、眠る時であろうとも。いつ誰に、金が奪われるとも分からない。洛軍は、そう考えていたからだ。
 でも、と。
 ようやく、洛軍はもう良いのではないかと、思いはじめていた。
 城砦の住民たちは、みんな優しく、自分へ良くしてくれる。
 ここには、自分から何か奪おうとする人間は、きっといない。幇の龍頭である龍捲風ですら、借金があるとはいえ、それ以上を洛軍に求めることはしなかった──それどころか、彼に住み処の世話までしてきたのだから。
 そりゃあ洛軍にだって、いけ好かないやつの一人や二人、いはする。だが、そんな彼らからですら、悪意を向けられることは滅多にない。だから洛軍は日頃、いちいち警戒する必要がなかった。そんなこと、彼の今までの人生からすれば、あり得ないことだった。ここは、なんて安全な場所なのだろう。
 だからもう、城砦の人たちを、信じても良いのではないか。
 靴下を脱いで眠っても、良いのではないか。
 そんなことを思いながら、洛軍は新たな寝床へと、その身を横たえ、毛布を被った。いつしか冰室は営業を終え、階下に人の気配はない。
 暗く、静かだった。
 昨日まで寝起きをしていたひさしの上とは、まるで違う。あそこは、常にどこかから、人の気配がしていた。窓から聞こえる生活の音、家族の会話。夜になると灯る明かり。時折、耳を打つ音楽。
 あの光景を眺めることが、洛軍は嫌いではなかった。
 それはまるで、星々のきらめきのようだったから。決して手が届かないからこそ、憧れ、美しく見えるものがあることを、彼は知っていた。
 けれど、ここも悪くはない。
 暗闇と静寂もまた、洛軍は嫌いではなかった。そこに身をひたしていれば、穏やかな心でいられるからだ。
 洛軍は、そっと、その目を閉じた。
 全身が、夜に溶け出していくような心地。眠気が訪れ、自分の身体の輪郭が曖昧になっていく。
 眠りへと落ちる刹那、洛軍は不意に、誰かの言葉を思い出した──城砦は、みんなで助け合っていく場所だ、と。あれは、誰が言った言葉だったか……

 ──そう、助けられた。

 ここにきて、色んな人に。
 ああ、それに、一番最初の……そうだ、礼を、言わなければ……──思考が、端からぼやけていく。
 そのまま、洛軍の意識は、静かに、闇の底へと落ちていった。

  *****

 「おい、洛軍。もう少し付き合えよ」
 夜、いつものように四人で集まり、麻雀を何局か過ごしたあとのことだった。
 十二が廟街へと帰り、四仔も自室へと引き上げ、では、そろそろ自分もと立ち上がった洛軍へ、信一が声を掛けた。
 彼の手には、余っていたビール瓶が、二本握られている。
 信一はそれを、洛軍へと掲げて見せていた。

 
 七記冰室上の中二階へ、洛軍が居を移してからしばらくしてのこと。彼は城砦にやって来て、初めて、友人と呼べる存在ができていた。
 半分は城砦の住人であり、廟街を仕切る架勢堂の頭馬、十二。
 城砦で診療所を営んでいる、腕の良い中西医師、四仔。
 そして、九龍城砦を仕切る龍城幇、その頭馬である、信一。
 年頃も近く、お互いを同格であると認めあっているらしい──カタギの四仔が聞いたら、死ぬほど嫌な顔をするだろうが──彼ら三人は、元からなにかと、つるむことが多かったという。
 そこへ、ある出来事がきっかけとなり、洛軍が彼らに合流する形になったのだ。
 城砦に来てからというもの、娯楽のごの字もなかった洛軍の余暇に、三人はさまざまな遊びを持ち込んだ。
 なんとなく集まって、他愛ない話をずっとしたり、一緒に食事をしたり、酒を酌み交わしたり。他にも、他にも。中には、賭け麻雀などという、あまり褒められたものでない遊びも、洛軍は覚えてしまったが、三人からもたらされる遊び、そのどれもが、洛軍には新鮮なこととして目に映った。
 誰かと過ごす時間が、こんなにも楽しく感じられたのは、いつぶりだろう。彼らと過ごす中で、洛軍はふと、そんなことを考えていた。


 洛軍は信一の誘いに応じると、余った酒やつまみを持って、ひと足先に信一の自室へと移動していた。部屋の主といえば、なにやら取ってくるものがあるとかで、冰室へと向かい今はいない。

 信一の部屋は、洛軍の住む物置の隣にあった。

 吹き抜けを挟んでいるため、隣とするにはやや距離があったが、それでも信一が、七記冰室上に住まいを構える者として、洛軍の隣人であることに変わりはない。
 そんな隣人の存在を洛軍が知ったのは、彼がここへ引っ越してきた、次の日の晩のことだ。一日の仕事を終え、さてもう寝る時間と寝台で横になっていた洛軍の足元を、信一が通り過ぎたのである。
 物置のすぐ下には、いつも信一が作業をしている帳場がある。洛軍が帰ってきた時も、信一はそこで帳簿を付けていたのだが、何かあったのだろうか。
 思わぬ人の気配に身を起こした洛軍へ、信一は少しばつが悪い顔をしてみせた。彼は、吹き抜けの向こう、やや上の方を指差して、あっち、俺の部屋、とだけ洛軍に言い残すと、そのまま脇の階段を使って、足早に去っていった。
 移ってきた最初の日に、どうして洛軍がそれに気付かなかったのかと聞かれれば、理由は単純だった。あの夜、信一は夜警に出ていて、自室へ戻らなかったのだ。
 洛軍は信一と、隣人として、付かず離れずの距離を保っていた──二人が、友人関係となるまでは。今や彼らの距離は縮まり、こうして、お互いの部屋を行き来するまでになっている。
 すっかりなじんだパイプ椅子に腰掛け、洛軍は部屋の主の帰りを待っていた。
 信一の部屋の壁には、至るところにポスターが貼られている。
 洛軍はそれが何かを知らなかったのだが、聞けば、信一が好きなミュージシャンのポスターなのだと言う。
 部屋の主を待ちながら、洛軍はそれら色とりどりのポスターを、ぼんやりと眺めていた。
 部屋にポスターを貼る意味が、最初、洛軍には分からず、随分と不思議に思ったものだ。わざわざ自室を飾り付ける──ポスターに限らず──という発想を、洛軍は持ち合わせていなかったし、正直なところ、今も彼はその感覚を、いまいち理解しきれていない。
 ただ、その心が、好きな物に囲まれて過ごしたいという気持ちから来ることだけは、洛軍も分かっていた。それを彼が知れたのは、ポスターのことを語る信一の姿が、とても楽しそうだったからだ。
 それにしても、なかなか信一が帰ってこない。
 大丈夫なのだろうか。彼は、そんなに酔っていなかった筈だが。
 待たされていた洛軍が、いよいよ心配になってきた頃合いになって、ようやく、階下から近付いてくる気配があった。
「待たせたな」
 これあっためてて、と言いながら、戻ってきた信一が手にしていたのは、一枚の皿だった。洛軍も見覚えのあるそれは、冰室の営業で使われているものだ。
 皿の上には、二つの大ぶりな包子が乗っており、きめ細やかな白い生地からは、湯気が立ち昇っていた。
「それは?」
「叉焼包。今日の巡回の時に、老人街のばあさんにもらったんだ」
 洛軍の問いに答えながら、信一が皿をテーブルの上へと置く。
 包子改め、叉焼包から漂うふかしたての香りが、洛軍の鼻をくすぐった。
「梁ばあさんが作る叉焼包、美味いんだよ」
 そう言って、信一は洛軍へ目配せする。
「どうして」
「ん? ああ、数が足りなかったんだ。一つは大佬に渡して、残りは二つ。だから、あいつらが帰るの待ってた。内緒な?」
 言葉少なな洛軍の疑問をきちんと汲み、それに答えながら、信一はカセットテープが並んだ棚の前に立った。
 彼は、一瞬迷う素振りをしてから、一つのカセットケースを取りあげた。その中身を手早く抜き出し、ラジカセの中へ差し入れ、再生ボタンを押す。
 流れだした音楽に満足げな顔をして、信一はそのまま、洛軍の向かいの席へと腰を下ろした。
「さ、食おうぜ」
 信一に促され、目の前の皿へと、洛軍は手を伸ばす。
 持ち上げた叉焼包は、しっとりとして、ほどよい暖かさになっていた。その身は重く、中身が詰まっていることをうかがわせる。
 そして、特筆すべきは、叉焼包の大きさだろう。つかんだ洛軍の掌が、いっぱいになるほどに大きい。成人男性の手でそれだ。実に加減のない大きさだ。
 確かめるように、その匂いを少し嗅いでから、洛軍は一息に、手にした叉焼包へとかぶり付いた。
 途端、口に広がった叉焼の味。
 とろりとしたタレの甘さに、豚の脂が混ざりあい、これでもかという旨みが、口の中いっぱいにじゅわりとあふれ出した。
……!」
 洛軍の目が、にわかに輝きを増す。
 あまりにも見事な顔色の変わりように、それを正面で見ていた信一は、ぐッと吹き出すのをこらえ、肩を振るわせた。
「美味いだろ」
「美味い」
 尋ねられた洛軍は、頬張った一口目を飲み込み、即答する。
 ほんのり甘く、もっちりと分厚い皮に包まれた叉焼は、七記冰室の叉焼飯に乗っているとそれとは、まったく趣が異なった。
 あちらの叉焼は、しっかりと噛みごたえがある。味がしっかりついている分、タレは控えめだ。対するこちらの叉焼は、ほろほろとやわらかかった。噛めば難なく崩れ、たっぷり詰まった汁気と渾然一体となる。甘みは、こちらの方が強い。
 自身も包子にかぶり付きながら、信一が洛軍に尋ねた。
「七記冰室の叉焼と、どっちが美味い?」
 信一は少々、意地の悪い笑顔を浮かべていた。そこからは、洛軍をちょっと困らせてやろうという意図が、透けて見える。
 そんな信一のいたずら心に、洛軍は気付けなかった。彼は、人の機微を察するのに慣れていない。対人関係の経験値が、乏しいからだった。
 洛軍の眉が、少し下がる。
「難しい質問だな……
 信一の狙いどおり、困った顔をしながら、洛軍は叉焼包をまた一口頬張った。ああ、やっぱり美味い。
 七記冰室の叉焼も、この叉焼も、とても美味いのだ。
 甲乙付け難い。全然違って、どちらも良い。比べるられるものではないじゃないか。うん、そうだ。比べられない。それが良い。
「どっちも美味い。どっちも好きだ」
 直前までの表情が、嘘のようなさっぱりとした顔で、洛軍はそう言い切った。
 彼の出した結論に、信一は面食らったようだった。
……なるほど、そういうのもあるのか」
 ぽつりと、独り言のように、彼はこぼす。
「何のことだ?」
 目の前の信一の様子に、洛軍は首を傾げた。真剣に考えた末の結論なのだが、ダメだったのだろうか。どうも、信一の期待した返事ができなかったらしいことを、洛軍は理解した。
 刺さる洛軍からの視線に、堪りかねたようだった。信一はそれから隠れるように、自身の顔の前で、大仰に手を振ってみせた。
「いや、いや、俺の読みが甘かっただけだ。悪かった、忘れてくれ」
「?」
 いまいち、信一の言わんとすることが分からない。
 未だ困惑する洛軍へ、信一は苦笑いしながら、手の中にある叉焼包を示した。
「ほら、冷めるぞ」
「!」
 促された洛軍は、慌てて手元に向き直った。
 温かいものは、温かいうちに。せっかく信一が、温めて出してくれたのだから。そう、わざわざ、信一が、手ずから──叉焼包を食べ進める合間に、何気ない気持ちで、洛軍はつぶやいていた。
「信一は優しいな」
 その心にてらいはなく、相手に伝えるというより、単なる感想をこぼした程度の意味合いしか、洛軍にはなかった。
 けれど、言われた当の信一は、そうは取らなかったらしい。
 彼は不意打ちのような洛軍の言葉を聞くや、盛大にむせ始めた。
「!? どうした、大丈夫か」
「どうしたも、こうしたも、あるか……
 ひとしきり咳き込んだあと、いきなり何なんだと、ごにょごにょ口籠る信一の耳は、少し赤い。そんな彼の姿に、ああ、なるほどと洛軍は得心がいった。これくらい分かりやすいと、彼にだって察することはできる。
 そういうつもりで言ったのではなかったが、そう思われたのならば、それでも良い。
「なんだ、褒められて照れてるのか」
「うるせぇなバカ、さっさと食え、冷めないうちに食え、俺がわざわざ、手間掛けてあっためてやったんだから、美味いうちに食え」
 洛軍を罵る信一の姿は、照れ隠ししているようにしか見えない。
 図星かと、笑いながら叉焼包をかじる洛軍へ、その顔やめろと信一が悪態をつく。
「くっそ、お前覚えてろよ……
 渋面のまま、傍らにあったビールあおる信一の表情は、しかし、そこでふと和らいだ。
 会話の途切れた部屋に、音楽が流れている。
 彼ら二人が話している間にも、ずっと動き続けていたラジカセからは、ちょうど次の曲が流れ始めていた。
 シンプルな、ギターだけの音がしばらく続くイントロ。印象的な出だしのその曲に、信一が耳を澄ましている。遅ればせながらそれに気付いて、洛軍もまた、流れてくる曲へと耳を傾けた。
 信一と友人となって、彼から洛軍へ持ち込まれた娯楽の一つに、音楽があった。信一のコレクションを、折に触れて耳にしていた洛軍だったが、今流れている曲を聴くのは初めてだった。
 前奏の終わり、曲はドラムのフィルインをきっかけに、音数を増し、ボーカルが歌いだした。その声は男にしてはやや高く、時折弾むように、独特の節回しを刻んだ。
 耳慣れないリズムの歌詞だったが、それでも、信一がこの曲を好きなのだということだけは、洛軍にもよく分かった。向かい合う信一の表情が、それを物語っていたからだ。
 やがて曲は進み、わずかな静けさを待ったあとのこと。
 広がった歌声に、洛軍は目を見張った。

 それはどこまでも自由で、羽ばたいていくような歌声だった。

 そして、その声が歌い上げる旋律は、軽やかで開放感に満ちていた。まるで、手を取り、一緒に空へと連れていかれるような、そんな心持ちを覚える。
 何を言っているのかは、まったく分からない。なのに、こんなにも心を掴まれる歌があるなんて。
 自然と、洛軍は感嘆の声を漏らしていた。
……すごい歌だ」
「だろ。このアルバムで、一番好きな曲」
 リズムに合わせ、ゆるく拍子を取っていた信一が、嬉しそうに、無邪気に笑う。さっきまでの苦々しい様子は、微塵もない。
 二人は静かに、音楽へ聴き入っていた。

 ──ああ、良いな。

 曲もだが、今、この場が。
 洛軍の胸の奥が、じわりと暖かくなる。
 誰かと一緒に、美味いものを食べ、他愛ない会話を楽しむ。時には、それで困ったり、言い合いをして。それから、音楽を楽しんだり。少し前までは、考えもしなかった暮らしを、自分は送っていて──そこでふと、彼は、あることに思い至った。
 いつか、ひさしから眺めていた、手の届かぬ星々のきらめき。
 気付けば、自分がその中にいるのだ、と。
 流されるままに、今の生活が当たり前となった。だから持てていなかった実感が、やっとこの時、洛軍の中に落ちてきたのだった。

 ──そうか、そうか。

 彼は、噛み締めていた。自分は、とうにそこにいたのだ。
 届かないからこそだなんて、そんな、とんでもない。きらめきの中は、洛軍が思っていたよりも、もっとずっと優しく、暖かい世界だった。ここに来れて、本当に良かった。
 ラジカセから流れる音楽は、まだ終わらない。
 最後の盛り上がりに差し掛かっていた。高らかに歌い上げられるメロディーに、心が揺れる。少しだけ、洛軍の目はうるんだ。
 この胸いっぱいの気持ちを、誰に、どう伝えればいいのだろう。
 洛軍には、分からなかった。語る言葉を持たなかった。だから、何も言わずに、彼は手の中の叉焼包にかぶり付いた。

 頬張ったそれは、まだ暖かく、気のせいだろうか──さっきよりも、もっと素晴らしい味だと、洛軍にはそう感じられた。

<スターマン/了>