久しぶりの非番。いつもよりゆっくりと家事を終えて一息つく。自由な日など、いつぶりだろう。
さて、途中になっているゲームの続きをしようか。ああでも、読みかけの本も気になるところで止まっている。ううん、どちらからにしよう。
「なあ、ドラ公」
とりあえず目についたものからとテーブルに放り投げていた文庫を拾い、しおりを挟んだページを開いた途端、背後から声が飛び込んできた。
精悍な男の声。だがどこか間延びしたそれは、声色には不釣り合いな幼さを感じさせる。文字にするなら「なーどらこー」といったところだろうか。おおよそ人を呼んでいるようには思えないが、それは確かに私に向けられていることは、自分自身が一番よくわかっていた。
心の中でため息を吐き、開いたばかりの本をパタンと閉じる。たった一行しか読まれなかった可哀想な私の本。次に役目を果たすのは一体いつになることか。
「帰ってきたらまずは『ただいま』だと教えたはずだが? ロナルド君」
振り向きながらそう咎めると、彼はその真っ赤な瞳をまん丸にしてから、「ただいま!」と楽しそうに笑った。
*
新横浜に突然多数の吸血鬼が現れてから、そして、その内の一人をなんとか捕らえてから数か月。にんにくも銀も、太陽の光ですら弱点になり得ない不死身の男を手中に収めた功労者だろう私に与えられたのは、褒賞でもなんでもない、その吸血鬼と一緒に暮らす権利だった。全くもって嬉しくない。
そんなもんいるか、と一蹴してしまえられればよかったのだが、悲しいかな、隊長と言えど一介の公務員。上からの命令には従うほかなく。
また、吸血鬼対策課の備品として登録されたとは言え生きている彼を課内に放っておく訳にもいかず。
しまいにはロナルド君本人が「いや俺、棺桶が置ければどこでもいいけど。使ってない倉庫とか」なんてのたまうものだから、ええいつべこべ言わず来いと半分キレながら我が家へ招き入れることとなったのだった。
「おかえり。散歩は楽しかった?」
「おう!」
なっメビヤツ! と彼の手が使い魔のつるりとした頭を撫でるのを眺める。撫でられた本人も、主人にかまってもらえたからか嬉しそうだ。人、と言っていいのかはわからないが。
不本意ながら始まった吸血鬼との同居は、なかなかどうして、悪くはないものだった。
棺桶と目からビームを出す使い魔を両腕に抱えてきたときはどうしてくれようかと頭を抱えたが、基本的には大人しくしているし、使い魔も主人を見習ってか部屋では静かにしている。不満そうに睨みつけてはくるが。
吸対のメンバーとも仲良くやっているし、退治人ギルドの面々や果ては街の人たちとも、いつの間にか笑顔で挨拶するような仲になっていた。馴染みすぎだろ。これで畏怖られたいなんて言っているのだから、全くどうしようもない。
そんな私も、手作りしたご飯を毎日おいしいおいしいと食べる姿に絆されかけているのだから、本当に、どうしようもない。
「あれ、どうしたのそれ」
未だにメビヤツを撫で続けている方とは反対の手に、重たそうなビニール袋が下げられていることに気づいた。何か貰いでもしたのだろうか。
この男はなぜか、周りから何やかんやともらって帰ってくるのだ。団子とかみかんとか、なんというか、お供え物のようなラインナップのものを。
本人は「俺、畏怖られてる!?」と喜んでいたが、どちらかと言うとお地蔵さまというか、可愛がられている孫というか。そんなポジションにいる気がする。
そもそも本当に畏怖されていたら、そんなおばあちゃん家にあるようなラインナップのものを渡してくる訳がないだろうに。
「あ、これはえっと
……」
そんなことがこの数か月で何度も起こっているものだから、今回もそれかと思いながら尋ねたのだが、何やら様子がおかしい。
いつもなら「ドラ公見てこれ貰った!」とこちらから尋ねるまでもなく見せびらかしてくるというのに、そういえば今日は、それもなかった。
もしや何かやましいことを。いや、この精神年齢五歳児に限ってそんなこと。いやでもしかし
……。
もし誰かに謝罪が必要なら菓子折りを
……とまで考えたところで、ロナルド君がポツリと呟いた。
「か、買った」
「
……は?」
ガサ、とビニール袋が揺れる。
買った。そうか、買ったのか。当たり前の選択肢すぎて、すっかり頭から抜け落ちていた。いやだって、あまりにも彼がバツの悪そうな顔をするものだから、何かいけないことをしたんじゃないかって。
買っただけならもっと普通の顔しなよ、と内心で思いながら、そっかと言葉を返す。だがロナルド君は、まだもじもじとしたままで。どうやらまた、先があるらしい。
「あの、それでさ」
「うん」
また口を噤む。恥ずかしげに瞳を逸らしたその表情はどこかあどけなく、危うげなアンバランスさを感じさせた。
撫でる手が止まったからか、メビヤツが気遣わしげに見上げているが、その視線にも気づいていないようだ。しばらく何かに葛藤するような、悩んでいるような素振りをみせる。もう何でもいいから早くしてくれないかな、なんて思い始めたところで、意を決したようにロナルド君の眉が吊り上がった。
おっ、とうとうか。なんて考えた瞬間、目の前にビニール袋が突き出された。思わず後ろへと軽く仰け反る。もう少しで鼻にぶつかるところだったぞ、危ないな。
「け、ケーキ作って、くれ!」
「
……は?」
口から飛び出そうになった文句は言葉にはならず、代わりに間抜けな声が吐き出される。なに、ケーキ?
だがロナルド君はそれを不満から生まれた声だと判断したようで。しおしおと俯きながら「作ってください
……」と小さく言い直した。メビヤツがこちらを睨んでくる。やめてくれ、そういう意味で言ったんじゃないんだよ。
突き出されたままのビニール袋を受け取る。ロナルド君が顔を上げた気配がしたが、そのまま袋の中を覗いた。すると、そこには。
「バナナ
……?」
目に入ったのは一面の黄色。それ以外のものは、何も見えない。
「初めて会ったときに食べたバナナケーキがおいしくて
……。あれ、ドラ公が作ったって聞いたから」
「な、なるほど
……?」
おそらく吸対の誰かに聞いたのだろうが、まあそれはどうでもいい。
バナナケーキ。確かに作ったし食べさせた。何時間も戦って、ようやく光明が見え出したとき、麻酔で朦朧としていた目の前の彼に。
正直、何してるんだろう私はと自分でも思っていたし、部下にもあとから何で食べさせたんですかと聞かれた。知らないよそんなの、疲れてたんだよ私は。
しかし、そんなときに食べたそれを、未だに覚えていたとは。
「いいよ」
「
……え、いいのか!?」
端的な是の言葉に、ロナルド君の表情がパッと華やぐ。あまりにもわかりやすく喜色を浮かべるものだから、つられてこちらの顔も緩んでしまった。
「いいよ、それぐらい。むしろ、こんなことでそんなモジモジしてたの?」
「モジモ
……ッ、いや、だってよ。こんなこと言うの、全然畏怖くないと思って
……」
予想もしていなかった言葉に、思わずふは、と笑みが溢れた。まだ私に対して、そんなことを考えていたなんて。
ロナルド君。君が畏怖かったことなんて、それこそ初めて会ったときぐらいだよ。
*
バターに砂糖、次は卵。手際よく材料を入れては、泡立て器でぐるぐるとかき混ぜる。
目の前には赤い目がふたつ。キラキラと輝かせながら、ボウルを覗き込んでいる。気が散って敵わない。
ジョンの様子を見ながら料理が出来ると選んだアイランドキッチンだが、こんな弊害が起こるとは。思う訳ないだろそんなもん。
別に怖いとかそういうことじゃない。ただただ、ジッと見られながら作業をすることに緊張を覚えるだけだ。というか、普通こんなに一挙手一投足を見つめられたら誰だって嫌になる。
だからといって、それを咎める気にはならなかった。言ったらきっと、彼はごめんと謝りながら落ち込んでしまうだろうから。
先のこともそうだが、ロナルド君はどこか他と一線を引こうとしているフシがある。
初めて出会ったときはもっと元気というか、はしゃいでいるような、それでいてどこか超然とした雰囲気を纏わせていた。だが、今はどうだ。
畏怖られたいと言いながら、寝床は倉庫でいいなどと宣い、誰ともニコニコしながら接している。言っていることとやっていることが合致していないのだ。
まるで、誰かに嫌われることを恐れているかのように。
「ドラ公?」
「ッ、」
「どうした? 体調悪い
……?」
考え事をしていたせいで、手が止まっていたらしい。ロナルド君の不安そうな声が耳に届く。咄嗟に「なんでもないよ」と呟き作業を再開させるが、彼の表情は浮かないままだ。
メビヤツの「ビ
……」という不安そうな声が聞こえる。ここからは見えないが、あの忠実な使い魔は今も彼の隣にいるのだろう。
ああ、早く機嫌が良くなってくれないだろうか。ロナルド君、君が落ち込むと、決まってメビヤツは私を睨みつけてくるんだよ。
ロナルド君から家の中でのビームの使用は禁止だと言ってもらってはいるが、こっちはいつ使われるか戦々恐々としているんだから。
それに、君がそんな顔をしていると、私だって
――。
「ヌヌンヌー」
パタンと扉が開いた音で、思考が霧散する。あれ、今、一体何を考えようとしていた?
「ジョン! おかえり!」
「ビー」
外出していたジョンが帰宅したようだ。今日は確かフットサル大会に行くと言っていたが、ご機嫌な様子を見ると無事勝利を収めたらしい。
ロナルド君とメビヤツがジョンを出迎える。ジョンが帰ってきて嬉しいのか、その顔は笑みに彩られていた。
ああ、よかった。ロナルド君が笑顔だ。これで、メビヤツも大人しくしてくれるだろう。
なのに、何故だろう。どこか釈然としない思いを抱いているのは。
「ヌー?」
いつの間にか、ジョンがキッチンに登ってきていた。つぶらな瞳は心配が滲んでいる。ああ、また手が止まっていた。
「おかえり、ジョン。手を洗っておいで。これからバナナケーキを焼くからね」
優しく告げると、ジョンは「ヌー!」と元気よく返事をして洗面所へと転がっていった。ロナルド君がその姿を熱心に追う。その顔はずっと緩みっぱなしで。
あんなに真剣にこちらを見つめていた瞳は、いとも簡単に離れてしまった。まるで、はじめからなかったかのように。
先ほどから、自分でもよくわからない、名前のつけられない感情がぐるぐると頭の中を駆け巡っている。胸の奥がざわつくような、指先がピリピリと痺れるような、そんな感覚。
一体なんなんだと苛ついてみても、決して消えてはくれなくて。
ああもうと叫びたい衝動と、目の前の彼を驚かせたくない気持ちがせめぎ合う。そんなことをすれば、彼はまた困ったような顔を浮かべてしまうから。
「楽しみだな、メビヤツ」という弾んだ声を聞きながら、オーブンの扉を閉める。バタン、という音が、どこかいつもより大きく響いた気がした。
*
「
…………」
腕を組み、目の前のオーブンを睨みつける。
バナナケーキの出来は上々、ふんわり膨らんだ生地は、美味しそうに色づいてきている。しばらく前から部屋中に漂う甘い匂いに、ロナルド君はずっとそわそわしていて。というかずっとキッチンをウロウロするものだから待っていろとリビングへ追いやった。
そう、出来は上々、なのだ。あと数分もすれば、タイマーが完成の知らせをファンファーレの如く鳴らすだろう。
正直なところ、初めて彼に献上したものよりも美味しくできている自信がある。なんかやたらいいバナナ買ってきていたし、彼。
だが、なんというか、作っているときの私の状態が良くなかった。イライラしたり、モヤモヤしたり、おおよそお菓子を作るときに抱くものではない感情を滲ませていた。
それがなんだか、ぐるぐると混ざっていく生地に一緒に練り込まれているような気がして。一度そう考えてしまうと、もうそうとしか思えなくなってしまったのだ。バナナとイライラとモヤモヤのケーキ。人に食べさせていいものではない。
チラ、とリビングに視線を送る。二人がけのソファに座る彼が、膝に乗せたジョンと側に佇むメビヤツに向けて「いい匂いだな」なんて声を弾ませている。隣に空けられた人ひとり分の場所は、私が座るためのものだろうか。
ダメだダメだ。言えるわけがない。このケーキは食べられませんなんて。
ロナルド君のしょんぼりとした顔が脳裏によぎる。そっか、と眉をへにゃりと曲げながら、トボトボと遠ざかる背中を想像して、そこで耐えられなくなった。
どうしてこう、私は彼を落ち込ませることが上手いんだ。
そんなことを考えているうちに、オーブンがケーキの完成を知らせてきた。ロナルド君にとってのファンファーレが高らかに鳴り響く。
「はあ
……」
彼に聞こえない程度に、小さくため息を吐く。そして、仕方ないと諦めた。
製菓は化学だ。きっちりと量った材料を正しく順番に混ぜて、適正な温度と時間で焼けば、誰がどんな気持ちで作っていても同じ味になる。ならばもう、このまま出してしまうほかないじゃないか。
半ばヤケになりながらオーブンを開けると、ふわ、と甘い香りが広がった。うん、匂いも見た目も素晴らしい。
「ドラ公、ドラ公」
「ん、なに?」
ソファから声が聞こえる。見ると、ロナルド君が頭だけこちらを向けていた。煌めく赤と、視線が交差する。
「そっち、行ってもいいか?」
続けて聞こえてきたのは、そんな可愛らしいお願い。聞かなくても来たらいいのに、なんて思って、そしてああそうかと気づく。
リビングで待っていろという私の言葉を、彼はまだ守っているのだ。出来上がったケーキの香りにも釣られず、まるで忠犬のように、よしと言われるのをじっと待っている。
「ふっ
……」
「え、な、何で笑うんだよ
……」
「なんでも。おいで、ロナルド君」
思わず漏れた笑みに不満そうに口を尖らせるが、続けた言葉が届いた途端、ピンと背筋が伸びる。ないはずの獣耳がぴこぴこと揺れたように見えて、口端がゆるりと綻んだ。
眠ってしまったのだろうか、膝に乗せていたジョンをゆっくりとソファに降ろすと、軽い足取りでこちらへと近づいてきた。
オーブンから取り出し、型から外したそれをケーキクーラーに置く。その一連の流れをジッと見守っていたロナルド君が、ほうと息を吐いた。
「うまそうだな」
「当然でしょ」
真ん中からふっくらとついた割れ目が美しい。どこからどう見ても、完璧なパウンドケーキだ。先ほどまでのうじうじとした気持ちはどこへやら、キラキラとした瞳を向けてくるロナルド君に、私は誇らしげに胸を逸らした。
「なあ、早く食おうぜ」
「ああ待って、これは冷ましてから食べるんだ」
「えっ
……」
今にも食らいつきそうな彼にそう伝えると、明らかにショックを受けた顔をして黙り込んでしまった。先ほどまでの笑顔から急転直下、待てをくらった犬のようにじいとケーキを見つめている。
「
……まあ、今食べてだめなものじゃないし。食べちゃおうか」
「いいのか!」
もう耐えきれなかった。こんな彼を前にして、冷めるまで待ってねなんて言えるはずがなかった。
一転して、その表情が華やぐ。もしわかってやっているのだったら、もう負けだ。完全敗北だ。結局どちらにしても負けていただろうなんて、思ってはいけない。
ああもう、イライラとかモヤモヤとかどっちでもいいや。そんなもの全部、この笑顔の前にどこかへ吹っ飛んでしまった。
型紙を外し、まだ湯気のたつケーキにゆっくりと包丁を入れる。少し分厚めに切り分けたそれを皿へ乗せロナルド君に渡すと、まるでうやうやしいものを授かるかのように両手で受け取った。
次はジョンの分、と思ったところで、こちらに来る前の彼の行動を思い出す。ソファに横たわる小さな体は、まだ動く気配はない。
「そういえば、ジョンは寝ちゃった?」
聞くと、ロナルド君は口をまん丸に開けて「あっ」と小さく零す。待ち望んだものを前にして、すっかり忘れてしまっていたらしい。また、その眉をへにゃりと下げた。
「そうだ、ジョン寝ちまったんだった。先に食べちゃ、悪いよな
……」
受け取った皿を置こうとする彼の手をそっと制する。突然の接触に驚いたのか、彼の手がピクリと跳ねた。
「いいよ、先に食べちゃおう」
「え、でも」
「ジョンが起きたらまたみんなで食べればいいさ」
そう言いながら、さくさくとふた切れ追加で切っていく。私と、メビヤツの分だ。ロナルド君はきっと、私も食べないと気にしてしまうだろうから。メビヤツはロナルド君と同じくらいに、私のものは少し薄くして。
「ロナルド君、フォーク取って」
「わ、わかった」
その様子をおたおたしながらも止めずに見つめていた彼にお願いをすると、素直にカトラリーの入った引き出しを開けた。やはり誘惑には抗えないらしい。さすが、私の手作りケーキ。
上がる口角をそのままに、ダイニングテーブルに皿を置く。正面に座るロナルド君の瞳は一層キラキラと輝いて見えた。鮮やかな赤も相まって、まるで宝石のようだ。ルビーとか、そういう。
「いただきます!」
元気に手を合わせたと思うと、半分くらいに切ったケーキを一気に頬張った。口がでかい。
「んん、うまい!」
「ゆっくり食べな」
まるで親子のような言葉を交わしながら、ゆったりとした時間を過ごす。
こんな休日も悪くないなんて、そんなことを考えていて。だからこそ、ロナルド君の口から飛び出した言葉に、私は呆気に取られるとこになった。
「ありがとな、ドラ公。ダメ元で言ってみてよかった」
「別にこれくらい、なんてことないよ」
「俺のこと嫌いだろうに」
「
……は、」
思わずケーキをつついていたフォークを取り落とす。彼は今、何を言った?
すっかり完食をして綺麗になった皿を名残惜しげに見つめる彼の表情は、凪いだように穏やかで、まるで一枚の宗教画のように美しい。
先ほどの発言は私の聞き間違いだったのかと思うくらいに綺麗に口角を上げた彼が、ゆっくりとこちらに視線を向ける。
ゾッとした。満足そうに笑う彼の瞳に、あまりにも温度を感じられなかったから。
「なんで、そんなこと」
「え、違うのか? だって迷惑そうだったろ、俺がここに住むの」
キョトンとした顔でそうのたまう彼に、からかいの色は感じられない。むしろ、そうであればよかったのに。笑って「なんてな! 驚いたか、ドラ公?」などとでも言ってくれれば、怒って流して、またいつもの日常に戻れるのに。
いや、日常などではなかった。少なくとも、ロナルド君にとっては。
やっと合点がいった。捕まる前はあんなに奔放に振る舞っていた彼が、どうしてここに来てからは大人しくなったのか。
当たり前だ。急に知らない奴の家に連れて行かれて、今日からここに住むようになんて言われて、気が休まる人などいないだろう。厳密には彼は人間ではないけれども、それは置いておく。
しかもロナルド君は、私が彼を嫌っていると思っている。大人しくなるのも当たり前だ。彼は無害な存在になろうとしていたのだ。私がこれ以上、彼を疎まないように。
「
…………」
私が無言を貫いているからか、ロナルド君が視線を下げる。機嫌を損ねたと思っているのだろう。嫌われるようなことをしたと。
……なんか、腹が立ってきたな。
同居も悪くないと思っていたのは私だけで、ロナルド君からしたらここはさぞ居心地の悪いものだったのだろう。ただのダンピールに遠慮して、萎縮して。まるで、ただの子どものようじゃないか。なにが無敵の吸血鬼だ。
「
……ロナルド君」
「
……はい」
努めて落ち着いた声で話しかけると、今まで聞いたことのないような小さな声が返ってきた。一体彼の脳内では、どのような想像が膨らんでいるのだろう。
「まず言っておくと、私は君を嫌ってはいない」
「
……遠慮とか、しなくていいぜ。仕方ねえよ、仕事だもんな」
この言葉で、頭の中の何かの糸がプツンと切れた。
誰でも理解できるように言っているのに、何をほざいてるんだこの男は!
「遠慮じゃない!」
「っ、」
突然激昂しだした私に、ロナルド君が肩を竦める。落ち着いて話さなければ、と思っていたのに。だがもう止まれそうにもない。
「そりゃあ、最初は嫌だったさ! だが当たり前だろう! 君だって、ある日突然知らない人間を家に置けなんて言われたら何言ってんだコイツとか思うはずだ!」
「た、たしかに」
指を指しながら怒鳴る私に気圧されたのか、ロナルド君がコクコクと頷く。
「それに君は吸血鬼だ。しかも、かなり強い。監視任務と言われて、気が立っていたのも事実だ」
「
……うん」
「だが、何でも協力的な君を嫌ってはいなかったし、それに最近はこんな暮らしも悪くないと思っていた!
……まあ、私だけだったようだが」
「え、え?」
思っていたことと違うことを言われたのだろう、こちらを見るロナルド君の表情は困惑に彩られている。
ここまで言ってわからなければもはやお手上げだったが、どうやら私の言葉は彼にきちんと届いたようだ。その事実に、かつてない程の安堵が押し寄せてきた。
「ドラ公、俺のこと、嫌いじゃないのか?」
「さっきからそう言ってるでしょ」
「
……俺さ、ここにいていいの?」
「追い出すつもりなんて、最初からないさ」
そっか、と呟く彼の声は小さく、だがどこか弾んでいるように思えて。なんともたまらないような、高揚とした気持ちが押し寄せてくる。感情のままに彼の頭に手を伸ばし、わしゃわしゃと撫でつけてやった。ふわふわとした銀糸が心地よい。
「わ、ちょ、何すんだよ」
「
……もっとさ、ワガママとか言っていいよ、君は」
諭すように言うと、途端にロナルド君が動きを止める。俯いた彼のまつ毛がパチリと上下した。
「言いたいこととか、やりたいこととかさ。これからも、一緒に暮らすんだから」
「
……!」
急に頭を上げたロナルド君に、思わず撫でていた手を引っ込める。まん丸に見開かれた瞳に、不安が頭をもたげた。あれっ、もしかして、まだ理解できてない?
「えっ、まだ追い出されるかもとか思ってる
……?」
「違っ、思ってない! 思ってないんだけど
……」
両手を振りながら否定する彼に、思わず安堵の息を吐いた。よかった、また一から説明することになるのかと思った。
「ただ、そうやって改めて言われると、嬉しくて」
「
……!」
へへ、とはにかむロナルドくんの顔は少し赤くて、本当に嬉しそうで。私自身の望んだところのはずなのに、何故かその姿にぎゅうと心臓が引き絞られたような気持ちになって首を傾げる。
「どうしたんだ、ドラ公?」
「
……? いや、なんでも。改めてこれからもよろしくね、ロナルド君」
「っ、ああ!」
握手を求めて右手を出すと、私の意図をきちんと理解した彼がそれに応じてくれて。
そして、握った手を潰さんとする握力に私はキレた。
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