ugmm_
2025-11-09 19:41:01
8866文字
Public こいぬ
 

こいぬ短編①

こいぬの小ピオとメテルス。

・お留守番(お客さま編)
・お留守番(二泊三日編)


お留守番(お客さま編)

 スキピオの一日は長い。
 玄関の扉が閉まり、足音が廊下を遠ざかっていくのを聞き届けてからは、時間はゆっくりとしか流れなかった。
 足音が聞こえなくなってもしばらく玄関に立っていたが、やがて諦めて部屋に戻った。先月だったか、一度出て行ったメテルスが戻ってきてまたすぐ出て行ったことがあり、以来いつもそれを期待している。忘れ物などそうあることではないと分かってはいるのだけれど。
 「しごと」のある日には六時に起き、七時半にはこうしてひとりになる。ソファに上がってテレビをつけると、「しごと」のある日に必ずやっている番組がちょうど始まるところだった。
 様々なものを模したぬいぐるみが寸劇を繰り広げるその番組は、スキピオからしても簡単すぎるところはあるのだけれど、それでいて大切なことを知る手掛かりになる。「しごと」など放り出して家にいればいいのにと思うのは間違い、とか。
 ソファの端からぬいぐるみを引き寄せて腕に抱くと、その柔らかい感触でいくらか気分が上向いた。夏の頃にメテルスの「おかあさん」から貰ったものだ。電車を乗り継いでその家に行った思い出を、スキピオはしばしば良いものとして頭に浮かべた。三匹の犬たちはたくさんのとっておきを教えてくれたから、次行くことがあったらもっと楽しく過ごせるはずだ。
 くまのぬいぐるみはふわふわとした毛並みのあちこちが薄くなって、中に詰められた綿も偏ってしまっていたけれど、首に巻いたリボンだけは真新しかった。メテルスが子供の頃──混乱させられる概念でありスキピオはあまり深く考えないことにしている──愛着を持っていたというぬいぐるみだ。けれどもうずっと遊ばれていなくて、新しいお友達をほしがっているから、連れて帰ってあげて、そう「おかあさん」は言っていた。
 そのくまとともに観ていた番組は三十分ほどで終わってしまい、テレビを消した。リビングの隅に据え置かれた棚から取り出したノートをテーブルに広げる。作文の宿題は最近のスキピオの楽しみのひとつだった。本屋で買ってもらった計算ドリルも毎日進めていたが、メテルスが毎日何問かずつ用意するお題に沿って文章を考える方が好きだった。
 そうして午前を過ごし、ひとりで昼食を済ませ、寝室で少し昼寝をする。目を覚まして数時間すると廊下を足音が近づいてきて、鍵を回す音がするのだ。
 昼過ぎに小さな体には広すぎるベッドで丸くなっているとき、夜ほどには深く眠らなかった。浅く眠りを漂う意識の中で外の音を聞き、おかしな気配がすると耳を立て、起き上がっては、何事もないと納得してまた布団に潜り込む。
 インターホンの音は、起き上がるまでもないものとして慣れ切っていた。メテルスに無視するように言われていたし、あまり大きな音が出ないようにされていて、耳を立てることもない。
 その音が何度か繰り返されることも、よくある。はじめのうちはそれに驚きもしたが、スキピオは三度繰り返されて止んだのを確かめて息を吐いた。
 しばらくして、エレベーターが七階に到着した音が聞こえた。スキピオが推測する限り、同じ階には五つの部屋があるが、住人はみなメテルスと同じように昼間いなくなっている。誰かが廊下を行き交うことは少なかった。
 その足音は軽く、分かりきっていたけれど期待するものではなかった。コツコツとそれが近づいてくるのに耳をそばだてていたスキピオは、はたと目を開いた。
 この部屋の前で止まった。
 先ほどとは違う音が部屋に響く。
 インターホンは二種類あって、エントランスから呼び出すものと玄関から呼び出すもの、どちらも無視しておくこと、メテルスはそう言ったけれども、玄関から押されるのをひとりで聞いたのは初めてだった。
 そろそろと起き上がり、くまを連れて寝室から顔を出す。覗いた玄関の扉の向こうから、誰かがもう一度インターホンを鳴らした。
 知らぬ間に尻尾は下がっていた。扉をじっと睨んでいると、外から誰にどう頼まれても触れてはいけないと言いつけられている鍵が、ガチャンと音を立てて回った。
 寝室に引っ込んで音を立てずに戸を閉める。もうひとつの鍵も開くのが聞こえ、迷っている暇はなかった。
「スキピオくん?」
 呼ばれてぎょっと身を小さくする。その声にスキピオは覚えがあるような気がしたが、返事はせずに息を潜めた。
 先ほどと同じ調子の足音がリビングや洗面所を回り、寝室の前に近づく。客用のスリッパを履いた足だけが見えた。それが寝室の中を動き回り、クローゼットを開き、出て行きかけて思いついたように立ち止まった。
 もうずっと早鐘を打ち続けている心臓が止まってしまうかと思ったが──目が合った。
「あら……びっくりさせちゃったのね?」
 ベッドの下を覗き込んできた人物のことは、スキピオよりも一緒に隠れていたくまの方がよく知っている。
「メテルスのおかあさん」
 ほとんど止めていた息を吐くとともに言うと、「おかあさん」は困ったように笑った。手を伸ばしかけてやめ、壁際に蹲るスキピオを手招く。
「久しぶりね。出てこない? おやつを買ってきてるの」
……メテルスは?」
「今日は急いで帰ってくると思うわ」
 色々な疑問が浮かんで、スキピオはベッドの下から動かなかった。メテルスは誰かが来るとは言わなかったのだ。この部屋に入ったことがあるのは、ルキウスとパナイティオス、ラエリウスだけで、必ずその場にメテルスがいた。
 無言のまましばし見つめ合い、「おかあさん」はスキピオの抱えているものに目をとめた。
「そのくまさん、仲良くできてるの?」
……はい」
「腕が取れたってクィントゥスが言ってたけどもう大丈夫?」
 見てあげようか。そう言われて、スキピオは慎重にベッドの下から這い出した。
「こんなところに入ったら埃が……ついてないのね。ちゃんと掃除してあるのねぇ……
 スキピオの服を払いかけてどうしてだか可笑しそうに笑う「おかあさん」に、ぬいぐるみを差し出す。
 連れて帰ってきて一週間も経たないうちに、右腕が取れてしまったのだ。今は抱きかかえているけれど最初は腕を掴んで持ち歩いていたし、振り回しもした。メテルスがどうにか縫い付けてくれたところを覗き込んで、「おかあさん」はまた笑みをこぼした。
「ちゃんとくっついてるわ。内緒だけど、前にも取れたことがあるの、クィントゥスがくまさんのお友達だった頃にね。私が直したから簡単に取れちゃったのよね」
「またとれちゃう?」
「引っ張らなきゃ大丈夫よ」
 返されたぬいぐるみをしっかりと抱いて、もちろんもう引っ張ったりはしないとくまの腕を撫でた。
 ちらと覗った「おかあさん」が、「おやつ食べる?」と尋ねるのに、スキピオは首を横に振った。


 玄関を開くなりひしとしがみついてきた子供と、それを見て困った顔をしている母とに、メテルスは深いため息をついた。
「来るなら連絡してください」
「したじゃない」
「唐突に最寄駅に着いたと言うのが事前の連絡?」
「だって今朝思いついたんだもの。それにルキウスが今日は駄目って言うから」
 まったく悪びれない母は、ほら急いで帰ってきたでしょうなどと言ってスキピオに知らん顔をされていた。実家ではそれなりに懐いたように見えたが、母の弁ではおやつを勧めても手土産の玩具を見せても首を横に振るばかりで、一挙手一投足をずっと見つめられていたと。
 手を洗うのにも着替えるのにもへばりついてきたスキピオを抱き上げると、やっと緊張が解けたという力の抜き方をした。
「いつまでいらっしゃるつもりで?」
「どうしようかな。お父さんも来たがってるのよ、週末までいていい?」
 まだ水曜日だが。早々にソファで寛いでいる母に何をどう言っても仕方がないことは経験が物語っている。あっ、といま思いついたように声を上げて、母がスキピオを振り返った。
「スキピオくん、明日は一緒にお出かけする? 冬物が足りないでしょ」
「足りています」
「そう思ってても本格的に寒くなるとあれこれ足りないのよ。お買い物しましょう、ルキウスの時間が合うならあの子も呼んで」
……メテルスは? おしごと?」
 母でなくメテルスに尋ねたスキピオにそうだと答えると、耳がへなへなと力を失ってしまった。
 それでもメテルスが改めて説明してやるとようやく母の存在を受け入れたらしく、夕食の後には与えられた玩具で遊んでいた。木製のパズルはこのところ学習意欲を燃やすスキピオの好みだったらしい。ルールブックをどうにか読んで問題に挑む子供に、隣でそれを眺める母を警戒する様子はなかった。
 ソファからそれを見守っていると、またもいいことを思いついたという顔で母がスキピオの髪に触れる。
「新しい帽子も買おうか、毛糸の帽子も可愛いんじゃない?」
「けいと、あります」
「そうなの? どんな帽子?」
 すくっと立ち上がったスキピオが母の手を引いて寝室に入っていく。
 元は物の少なかった部屋だが、スキピオの持ち物が増えるに従って家具も増えていた。寝室の隅に立てられたラックは、主として帽子を掛けておくのに使われている。季節の移り変わりとともに帽子も数が増えていた。
「あらぁ……まあ……よく見てなかったけど、そお……
 その声から母がにやにやと笑っているのが見なくとも分かった。寝室から顔を出したスキピオの頭には、白い飾り玉の着いた毛糸の帽子が乗っている。髪と瞳の色に、深い紅色がよく映えていた。
「これクィントゥスが選んだでしょ」
「そうですが」
「似合ってるものね。可愛いわねえ。ワッペンつけてあげようか?」
「やめてください」
 母に頭の上の飾り玉をふわふわと触られながら、スキピオがこちらを見た。
「にあう?」
……ああ」
「かわいい?」
 やりとりを見守る目線があまりにも喧しい。手招けばスキピオはソファに上がってメテルスの膝に落ち着いた。帽子を被り直してこちらを見上げる。
「かわいい……?」
 近頃はラエリウスがそのように可愛がるせいか、言葉をねだることが多くなっていた。メテルスの目を覗き込む青い目は期待に満ちている。
 帽子を取り、柔らかな毛並みの耳を手で覆って顔を寄せる。小さな音もよく拾う耳は潜められた声も聞き取って、そのままどこかに吹っ飛んでいきそうな勢いで尾が左右に揺れ始めた。膝を下りて帽子を戻しに寝室に駆け込んだ子供を見やり、母が目を細める。
「可愛いわよねえ」
 返事がないのを分かっている呟きをやはり無視した息子と鼻歌でも歌い始めそうな母親とを、スキピオがきょとんとして見比べていた。



お留守番(二泊三日編)

 メテルスは部屋にカレンダーを置いてこなかったが、スキピオ専用の棚をリビングに置いた頃にそこに卓上カレンダーをひとつ用意した。過ぎる日々を数えるばかりで暦の概念のなかったスキピオには必要と思われたからである。
 スキピオは彼なりのルールを設けてカレンダーにシールを貼り付けている。パナイティオスの猫と遊ぶ日には猫のシールを貼り、どこかに出かけると約束した日にはそれに対応したシールを貼った。
「しゅっちょう……?」
 そのカレンダーをテーブルに置いて、子供は初めて聞く言葉に首を傾げていた。
 出張は、単に偶然が重なってこれまでなかっただけで、スキピオがやってくる以前には何度もあった。長期にならないだけいいとしたものの、カレンダーで翌週の水曜から金曜を指差してみると長く感じられる。
「この日の朝から、この日の夜まで、三日間留守にする」
「おしごと?」
「そうだ。パナイティオスに頼んであるから、その間は……スキピオ?」
 シールを手に固まっているスキピオは、困惑しているように見えた。
「おしごとなのに、帰ってこないの?」
……遠くに行くんだ。ここに帰ってきてまたそこに行くには遠いから、仕事をする場所に泊まる」
「ぼくは行っちゃだめ?」
「駄目だ。パナイティオスの家に泊まったことはあるだろう?」
 こういうこともあるだろうからと、慣らしておくことを提案したのはパナイティオスの方だった。その時はスキピオはあまりにはしゃいで寝付かなかったらしく、迎えに行ったメテルスと帰る途中で眠ってしまった。この様子ならば問題あるまいと、世話を見切れそうにないルキウスや遠い実家でなくパナイティオスに預けることにした。
 スキピオは何枚かの台紙から、鞄のシールを選んでメテルスに示された三日間に貼り付けた。ついでに猫のシールもそのそばに貼る。少なくとも理解はした、そう思われた。
 翌週の火曜、晩のうちに荷造りをさせている間も、スキピオがあまりに多くの絵本を詰めようとするのを止めなくてはならなかったほどで、ラエリウスと長い時間を過ごせることを楽しみにしているように見えた。着替えや諸々の日用品、毎日こつこつと進めている計算ドリルや作文ノートの他に、おそらく必要だろうと草臥れたぬいぐるみを鞄に入れると、子供は不思議そうにした。
「くまさん、おするばんできない?」
「三日は長いだろうな」
「ながい……
 改めて指折り数えたスキピオは、首を傾げる。そう、たった三日のことである。しかし思い返せば、スキピオがパナイティオスの家に泊まった丸一日以上に長く、メテルスがこの子供と離れたことはなかった。
 翌日、いつもより早い時間に起こされてぼんやりしているスキピオを連れて向かったパナイティオスの住まいは、徒歩で辿り着ける距離にあった。玄関を開いた友人の後ろで、賢い猫が歓迎の気配を強烈に放っている。
 スキピオの荷物を受け取り、子供が常と様子の変わらないことを確認して、パナイティオスはそれではと頷いた。
「何かあれば遠慮なく連絡します」
「ああ、頼む」
「スキピオ、お見送りしようか」
 パナイティオスに促されてスキピオは大人たちを見上げた。眠気を帯び、状況を分かっているのか不安を抱かせる眼差しだったが、いつもそうであるように不承不承にメテルスに手を振った。
「いってらっしゃい」
 駅に着いた頃に、パナイティオスから写真が送られてきた。ラグの上に絵本を広げてラエリウスに説明しているらしい姿、特にコメントは添えられず、その後も写真だけが続け様に送られる。この形式でことあるごとに報告を寄越すつもりらしかった。


「スキピオ、今日はどんな絵本を持ってきたの?」
 メテルスを見送ってしばらく、促されて玄関には入ったものの靴を脱がずに立ち尽くしていたスキピオは、ラエリウスを見上げてうんと小さく応えた。
 けれど動こうとはしない。自分で靴を脱げるのは分かっていたので、ラエリウスは見せてほしいとせがんでスキピオの手を引いた。いくらか躊躇していたものの、見てほしい気持ちもあるのだろう、スキピオは靴を脱いでラエリウスの後に続いた。
 上着と帽子を脱がせて、リビングのラグの上に置かれた鞄の前に座る。底の方に詰められていた絵本を引っ張り出す拍子に他の荷物が溢れたが、とりあえずそのままにした。
 厳選したのであろう四冊の絵本を並べて、小さな手でひとつずつ指差し説明してくれる。
「あのね、これとこれはメテルスのおかあさんが買ってくれたの」
「お母さま? 選んでいただいたの?」
「ううん。ぼくが好きなのでいいって」
 どちらも絵が飛び出すようになっている仕掛け絵本だった。そうは言いつつも誘導があったなとラエリウスは察したけれど、気に入っているようだったのでよかったねとスキピオに笑いかけた。
 はにかんだスキピオが、あとの二冊は気に入っているからまた持って来たのだと説明を続けて、俯く。
 パナイティオスが後ろから写真を撮ったのは、スキピオがそうして口を噤むより前だった。その顔を覗き込むと、温かな両手がラエリウスの手を握った。
「ながい?」
「うん?」
「みっかはながい?」
……ううん、すぐだよ。二回寝るだけでいいんだもの」
「でも……ほんとに?」
 それが何に対しての疑いなのか、ラエリウスがはっきりと本当だと答えてもスキピオの顔色は晴れなかった。
 どう尋ねるのがいいか考えていると、パナイティオスがマグカップをふたつテーブルに置いた。ぬるめに温められたホットミルクを勧めればカップを両手で持って飲み始める。
 ラエリウスにとっては、こうして見ているだけで心が穏やかになる不思議な存在だった。懐いてくれるから可愛いとか、いとけないのが可愛いとか、そういうことではなく。無心にホットミルクを飲んでいるだけでこの世の何よりも可愛い。
 じっと見つめているとそれに気がついたスキピオがこちらを見返した。
「あとで、メテルスさんに電話してみようか?」
 先にメールで伝えておけば難しくないだろう。スキピオは少し迷ったようだったが、しないと首を振った。意外なほど強い意志が籠っていた。
 これは思っていたよりも大変ではないだろうか。そんな気持ちでパナイティオスを見上げると、覚悟はしていたというような頷きが返ってきた。


 送られてくる写真には規則性があった。ラエリウスに絵本を読み聞かせている機嫌の良さそうな様子の次には、食事を前に俯いてどこを見ているのだか分からない写真、かと思えば何らかのごっこ遊びをして笑っている。
 ほとんどその繰り返し、要するに情緒不安定で落ち着かないという報告だった。何かあればという言葉通り、延々と写真を送ってくる限りはパナイティオスの基準では何事もないのだろうが。
 スキピオを預けて三日目の夜、最寄駅に着いた頃には二十時を過ぎていた。いっときも口を閉じていない同行者のせいで疲労を感じていたが、ともかく、迎えに行かねばならない。最後に写真が送られてきたのはほんの三十分前、荷物をまとめた鞄を抱えて玄関に座り込んでいる姿だった。
「お疲れですか」
 パナイティオスの声は、労いというよりも確認の意味合いが込められていた。これからもう少し疲れるが頑張りなさいというような。
 招き入れられた玄関に子供の姿はない。
……スキピオは?」
「十分ほど前からあそこです」
 示されたのは部屋の奥、ベランダへの掃き出し窓にかけられたカーテンで、不自然に膨らんでいる。というか下から尾がはみ出していた。そのそばにしゃがみ込んだラエリウスがこちらを見て、膨らみに向かって小さく声をかけた。
「スキピオ、メテルスさんが来られたよ」
 床にぺしゃんこになっている尾は動かず、子供が出て来る気配もない。立ち上がったラエリウスが言うには、いつもメテルスが家に帰るくらいの時間には迎えが来るものと思ったのに、遅いので不安になってしまったと。確かに、確実な時刻が言えなかったので夜としか説明しなかった。
「叱らないでくださいね」
 そう言ったラエリウスまでも長い尾を力なく垂らして、そっと距離を取った。
 カーテンの裏を覗くと、スキピオは膝を抱えていた。拗ねたのかと思ったメテルスを見ないまま、ごく小さな声を出した。
「ながい……
「長い?」
「みっかは、ながい」
「ああ、確かに長かったな」
 本心からの同意だったが、何か気に入らないところがあったらしい。すんと鼻を鳴らす音がして、スキピオはますます体を小さくした。
「帰らないのか?」
 これまで何度も駄々を捏ねたように帰りたくないと拗ねているわけではないことは、流石に分かる。遅くなったことに腹を立てているというなら理解できる。しかしどちらも違うという気がした。
 そばに膝をついて伸ばした手が触れると、尾が小さく揺れた。暖かい部屋で長いことコートを着込んでいるせいか火照ったように感じる頭を何度か撫でているとまた鼻を鳴らす。小さく頭を振る仕草に手を止めかけてやっと気がついた。
「スキピオ、遅くなったが迎えに来ただろう? 家に帰ろう」
 躊躇いがちにこちらを見た瞳が、窓の外からの街灯の光を弾いて光っていた。目のふちからこぼれた雫を袖で拭おうとする手を取って、指先で掬い取る。
 何度かそれを繰り返すうちに、くしゃりと顔を歪めた。腕を伸ばす子供を抱き寄せると肩に強く頭を擦り付けて、しゃくりあげ始めた。スキピオがこんな風に泣くのは初めてだった。
 カーテンの裏からスキピオを連れ出して振り返ってみると、キッチンの方からパナイティオスとラエリウスがこちらを伺っていた。距離を取っていたらしい。
 玄関に置いていた荷物の中から紙袋をひとつ取ってパナイティオスに手渡す。出張先は銘菓の多い地方で、評判のいいらしいものがいくつか入っていた。遠慮なく受け取ったパナイティオスはスキピオをちらと見て、薄く笑みを浮かべた。
「お茶でもと言いたいところですが、もう遅いですしね。また遊びに来てください」
「ああ、礼は改めて……ラエリウス?」
 パナイティオスのそばでなぜか涙を浮かべている少年は、訝しむメテルスに「可愛くて」とだけ言った。仲が良いのはいいがこの思い入れの強さはどこから来るのか、スキピオが伸ばした手を握り返すときにはただ優しく微笑んでいるのもよく分からない。
 マンションを出ると、冷たい風が吹きつけた。明日には雪が降るかもしれないが、体温の高い子供を抱いているとさほど寒さは感じない。
 涙の止まったらしいスキピオが、帰路の半ばほどで顔を上げた。吐く息は白い。
「あした、ちゃんとおやすみ?」
「休みだ。明日は早起きしなくてもいい」
 してくれるなと言いたかったが。スキピオはまたメテルスの肩に頭を預けて、すんと鼻を鳴らした。