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6.
「
……何故触る」
顎に触れる手になんとなく不快感を覚え、ファイノンの手を掴んで剥がすように落とした。そうしても、ファイノンの表情は不快に傾かなかったが、皮肉そうに片方の口角が持ち上げられ、俺の子どもっぽい抵抗をあざ笑うように小さく喉の奥で笑った。馬鹿にされたように感じたが、文句を口にしようとした瞬間、腰を抱えていた腕にさらに力が込められるのがわかり、言葉を飲み込んでしまう。逃げ出すつもりはなかったが、もしかするとファイノンはそう誤解したのかもしれない。
「僕が怖い?」
「は? なにを
――っ、」
腰に触れていた手がそっと動き、俺の腹をさするように動いた。幼い俺を寝かしつけてきた時のような、子どもをあやすような手つきではなく、明確に違う意思を感じる触れ方に、思考と言葉が硬直した。緊張と羞恥がない交ぜになり、心臓は全力疾走を終えた後のように激しく脈打っている。目頭が熱くなり、慎重に呼吸を繰り返していると、ファイノンは俺を両手で抱きしめ、ゆっくりと
――あるいは緊張から、俺だけがそう認識している
――肩口に顎を乗せてきた。
ファイノンの頬と首筋の体温が触れ合った肌から直接伝わり、抱きしめ返してもいいのか、あるいは、そうしないほうが正しいのか? と悩む。挨拶や親愛のハグでないことは空気からさすがにわかっていたが、何故俺の告白を拒絶した筈のファイノンが、こんな真似をするのかがわからなかった。
「怖い?」
ファイノンは静かな声で、もう一度俺に同じ問いかけをした。吐息が微かに首筋に触れ、くすぐったさに体が震え、小さく声が漏れた。怖くはない。怖くはなかったが、どう反応するのが正しいのかわからない。俺には誰かと付き合って、こんな風に触れ合った経験がない。こんな風に、体の奥底で擽っている熱が段々と指先まで燃え広がって行くような、痛みとむず痒さ、羞恥と幸福が混ざり、触れ合った肌の熱さに感じる心地よさ、そわそわと落ち着かず、浮足立ち、相手の感情や真意を探るような感覚になったことがない。
「メデイモス、教えてくれ」
ファイノンの背にそっと手を伸ばそうとしたが、それを許さないとでも言うように、両腕ごとファイノンが俺を抱えなおし、輪郭と首筋の境目のあたりに唇をぎりぎり触れさせない距離で、低く、まるでねだるように口にする。ファイノンが疲れていて、あまり会話が成立しない時と似たような声色だった。
「お前を怖いと感じたことはない」
目の縁が熱を持ち、瞬きをするたびに熱さを感じる。意外にも厚い胸板とがっしりとした腕に抱きしめられたまま、なんとかそう口にすると、そっとファイノンが腕の力を抜く。
肩に手を置いた男に顔は俺の顔を覗き込むように微かに首を傾げ、「もう一度教えてくれ」といいながら、俺の顎下に指を添え、親指の腹でゆっくりと唇の表面を撫でた。すぅ、と瞳を細めたファイノンに見下ろされるような体勢が落ち着かない。
そんな風に触れてくるのなら、いっそキスをして欲しい。
口にするのは憚られる願いで思考が埋め尽くされ、視線をファインの瞳から、俺の唇を撫でているファイノンの手に移す。少しだけ乾燥した、爪がやや深爪気味に整えた大きな手だった。ピアノを弾く人間は深爪気味になることが多いが、仕事で修理し、調律したピアノを試し弾きする機会の多いファイノンもそのタイプだった。家の中には爪切りややすりがいくつもあって、ファイノンが思い出したように爪を整えている姿を日常的に見ている。
「今、何を考えてるんだ?」
「
……………………」
緊張した空気に飲まれまいと思っていたせいか、目の前のシチュエーションから思考が乖離し始めていることに、その言葉で気が付く。キスをして欲しいと思っていた。そう素直に言うのは難しく、押し黙ってしまう。それなりに長い付き合いを続けてきた筈のファイノンの、無表情に近い顔からは真意が読み取れない。俺に何かを期待しているようにも、失望しているようにも見えず、また迷いが生じた。
ファイノンは俺に「もう一度僕に好きだって言ってくれないか? 僕は僕の常識を作り変える必要がある」と口にした。もう一度告白をするのは構わなかったが、それでなにが変わるのかはわからなかった。俺をそんな風に見たことはない、と言ったのはファイノンで、その認識をたったの数日で変えてくれるだろうとは思わなかったからだ。この男は変に繊細なところがあるくせに妙に頑固な一面があり、自分でこうと決めてしまったことはなかなか変えられない男だった。たとえばどこにでも「おまもりセット」を必ず持ち込むように。
ファイノンは辛抱強く、俺の言葉を待っているようだった。
「お前が好きだ。
……レストランでお前に言ったように、今年の誕生日にはお前の恋人の席が欲しかった」
「それは、ただ単に僕が一番君の身近な年上だからじゃないのか?」
「そうではない。
……そうではないが、」
どこで好きになったのかと言葉で表せば、一番傍で俺を見てくれていたからだ、と言う答えになってしまいそうだった。ファイノンは確かに俺を自分の子どもや弟のように慈しんでくれてはいたが、それでも、俺を「師匠の息子」と言う、どうしたって家族ではないと一線を引き、赤の他人として意思を尊重して接してくれていたように感じている。進路に迷った際も、「先生やゴルゴーさんのことは気にしなくていい。きっと二人もそう思っていたよ」とやりたいことを突き詰めて考えることを俺に勧めた。
俺の一番傍にいてくれたのはいつだって他人のお前だった。それを得難い幸福だと感じている。
「俺はお前を本心から家族だと思ったことはない、と言えば傷つけてしまうかもしれないが」
眉を寄せ、微かに傷ついたような顔をする男に、聞け、と顔を近づける。目と鼻の先にファイノンの顔があり、これ程今まで近づいたことはないな、と自覚すると照れが生じたが、腰が引きそうになるのをなんとか耐える。
「だからこそお前を好きになった。お前はお人好しで、少し情けないところもあるが、芯の強い優しい男だと思っている。確かに大学にはお前といるよりも気を使わないとでも言えばいいのか、気安い間柄の友人はいるが、それでも、お前といる方が俺には自然だと感じている。
……大学卒業か就職を機に、お前がこの家を出て行くところを想像するのは俺にとって苦痛だった」
どうすれば俺の感情が正しくファイノンに伝わるのか、わからなかった。言葉を慎重に探しながらファイノンの左胸に指先をそっと当て、大きく息を吸う。
「俺の傍からいなくなるな。どうしてもお前が俺を、その
――恋愛対象として見られないのだとしても、それならば、せめて今の関係のままこの家にいて欲しい」
「そうなると君は、一生報われないことになる。それでもいいのか?」
ファイノンは胸に指をついていた俺の手首を握り、ぐっと引き寄せる。ぐっと握ってしまった手はファイノンの胸にあてられていたが、服越しに熱を感じることはできても、鼓動はわからない。
「五年後はまだそう思えたとしても、十年、二十年と経って、僕がもっと歳を取ったら、馬鹿な選択をしたと考えるかもしれない。若い時間を僕なんかのために無駄にしたって後悔するんじゃないか?」
「後悔はしない。
……そう思いたいが、それは俺にもわからぬ。だがたとえ後悔したとしても、それは自業自得であって、お前に責任はない。だから、」
ファイノンの言葉は俺を諭そうとしているようでもあり、のらりくらりと逃げているようでもあった。俺の言葉を疑ってはいない、とあの日ファイノンは俺に言った。ファイノンは真摯に俺に向き合ってくれているとも感じている。好意を向けられたからといってすぐに了承できる関係じゃない、とまともなことを言って来るところも好きだった。好きだ。お前が俺の告白を忘れたふりをして、わざと傷つけようと風呂へ誘ってから「告白されたのを忘れてた」と言う顔をしたとしても、それは俺にデリカシーのなさすぎる男だとして、幻滅させようとしたのだろうと思っている。俺を振ったその直後に、ベッドで眠った方がいいと心配してきたり、眠っていた俺の髪をそっと撫でてきたり、昨日のように、部屋まで運んでくれたり、お前の言動はずっとめちゃくちゃだった。俺に嫌われたいのか、それとも今以上に好かれたいのか、俺にはわからない。
「俺はお前が好きだ。お前がどんな人間なのか、ある程度はわかっているつもりでいる。勿論子どもだった俺に見せないようにしていた面だってあるだろう。であれば、それを今後、俺に見せようとも動じない。そういう男なのだと受け入れる覚悟がある。
……お前が好きだ。愛している。お前の心の柔らかいところに収まることがたとえ俺にはできないとしても、お前にとって俺はまだ頼りになる存在ではなかったとしても、いつかはそうなりたいと考えている。だからお前の傍にいたいし、恋人になりたい」
じっと俺を見つめながら、ファイノンは黙って俺の言葉を聞いていた。常識を変える必要がある、と言っていたのは恐らく本当で、ファイノンはなにか考え込んでいるようだった。俺は息を吸い、さらになにか言葉を口にするふりをして、片手を握られたまま、意を決して顔を近づけた。
「
――……っ、」
触れたのはほんの一瞬で、感触はほとんどわからなかった。
それでも、心臓はどっどっどっ、と音を立てて跳ね、かーっ、と一気に顔に熱が上る。
キスをした。してやった。ファイノンに、好きな男に。
本当になんとも思っていない相手からキスをされるのは恐ろしく不快だ、何故そんな愚かな真似をしたのだ、と冷静な自分が脳裏で激怒していたが、ファイノンは俺開いてであれば、きっと、怒らずに苦笑して許してくれるだろうと感じていた。
緊張と気まずさで俯き、ファイノンの顔を見ることができない。
もしファイノンが今後も一生、俺への態度を変えなかったとすれば、今夜のことを永遠に覚えているだろう、と思った。お前が好きだ。俺にはお前しかいないと何故か強く感じている。それが子どもの思い込みだと言われても、今はそれでいいと思っていた。俺の生涯にそういった恋が生まれたことを俺はきっと喜ばしく感じるだろう。例え叶わなかったとして、誰かを強く愛した記憶が、感情が、俺には必要だと思ったからだ。
室内には痛いほどの沈黙が満ちている。どうすればいいのかわからず、ファイノンが先日のように、無理やりにでも空気を変えて、俺を振ってしまうのを待っていた。「常識を変える必要がある」と言う言い方をしたと言うことは、先日から何故か考えがかわり、俺をそういう目線でみる「かもしれない」とファイノンはここ数日で感じたということだろう。その変わり身を不誠実で一貫性がないと詰ることは勿論できたが、そうなってくれた方が俺には都合がよかった。
お前の常識を壊してでも、俺はお前に好かれたい。俺の傍に、今までと同じようにいて欲しい。そう感じていたからだ。
「
………………、」
ファイノンが疲れたように長く息を吐き、握りしめたままだった俺の手をそっと放した。
俺の体はそうされてもまだ緊張したまま熱く、微かに震えている。それで、この後は?
ファイノンはきっともうしばらくののち、寝なさい、とまるで父親のように口にするだろう。そうすることが正しいと信じているような気がしたからだ。
「君に好きだと言われてから、仕事をしている間以外は、ずっと君のことを考えていた」
しかし俺の予想は外れ、ファイノンは俺の頬にそっと片手を添え、優しく、親指の腹で頬骨を撫でながら口にした。ファイノンの瞳に熱は見えなかったが、それは何も感じていないと言うよりも、感じてはいけないと考えているかのようだった。
「最初は混乱したし、君の好意は受け取るべきじゃないと考えていた。だって僕たちはあまりに歳が離れすぎているし、僕は君のことを子どもの頃から知っている。常識的に考えれば僕は君を拒絶すべきだ。君の保護者に相応しい大人として、先生とゴルゴ
―さんたちに君を任されただけで、まさか君の恋人に相応しい大人として選ばれたわけじゃない」
「俺はもう子どもではない」
「年齢はね。だけどそういう話じゃないことは、君だって本当はわかってるんだろう?」
俺の頬が熱すぎるのか、触れているファイノンの手を冷たく感じ、その温度差が心地よかった。
ファイノンは俺の頬からゆっくりと手を滑らせ、首筋へと触れる。少しだけぬるくなった手が喉へ触れる感触に、ぴくっ、と体が揺れる。
「わからない。歳の差についても、お前は関係がないと言っていた」
「他人についてはそうだよ。だけど当事者となれば感覚は変わる。今は僕のことが世界で一番好きかもしれないけれど、それがこの先も続くとは思えない。君はこれからだって、たくさん素敵な人と出会うに決まっている。僕なんか霞むようなね」
そうなって欲しい、と希われているような気がし、顔が歪むのが自分でもわかった。お前を好きだと言っているのを受け入れられないのはいい。だが、想いを疑われ、いつか他人に向くだろうと言われるのは苦しかった。
「お前は俺を侮辱しているのか?」
吐き捨てるように口にし、首筋に触れていたファイノンの手をはたき落とす。シャツの胸許を思いっきり掴んで睨みつける俺を、ファイノンはどこか悲しくも見えるような無表情さで見つめ返していた。
ファインの瞳に映る俺の表情には焦燥が浮かんでいて、その情けない態度が急に恥ずかしくなった。突き放すようにシャツから手を離し、もういい、と急いでソファを立ち上がり、部屋に引きこもろうとしたが、最初に腰を抱き寄せられた時と同じように、有無を言わさぬ速度と力強さで、ファイノンは後ろから俺の両腰に腕を回して、背中を胸につけさせるように勢いよく俺を抱きしめた。
バランスを崩して上手く座れず、ファイノンにぶつかるように体がソファへ再び落ちる。
「僕はいつだって君に悲しい思いや辛い思いもしてほしくないし、後悔もして欲しくないといつも思ってる。
……だけど、君ぐらいの年で、恋にそれほど夢中になるな、なんて言われても受け入れ難いってこともよくわかる」
過去の経験を伺わせるような言葉に居心地の悪さを覚え、今度こそファイノンの腕から逃げ出そうとした。しかし、ファイノンは後ろから俺の顎を掴み、無理やり顔をファイノンのほうへ向けさせる。
「っ、」
腹をぐっと抱えられたまま、ファイノンは俺の顔を覗き込み、至近距離で見つめあっていた。視線を先に反らした方が負けだ、と数秒は睨みつけるように対峙していたが、ファイノンのいささかぎらついた瞳にびくりと体がはねて、緊張と恥ずかしさから視線を反らしてしまった。到底子どもを見るような目ではなかった。例えそれが俺に諦めさせるためのさらなる脅しだったとしても、体の奥がじくりと熱くなる感覚がし、この場から逃げ出したい気分だった。
ファイノンが小さな声で、「僕が怖い?」と三度、同じ問いかけをする。その問いかけに腹が立ち、「しつこいぞ」と反らしていた視線を戻す。こうしてこれでプレッシャーをかければ、まるで俺が諦めると信じているかのように感じて腹が立っていた。
ファイノンは瞳を眇めながら、俺を見つめている。青い瞳に陽炎のような揺らめきが起こっていた。その炎の正体がなんなのかが知りたい。
「メデイモス、君はあんな子どもだましのキスで満足したのか?」
したことがなくて悪かったな、と言おうとした俺の顔をぐいっと掴み、ファイノンが唇を重ねてくる。先刻は記憶できなかった少し冷たい唇の感触に、全身にびりっ、と痺れが走る。及び腰に身じろいだ俺の体をファイノンががっしりと片腕で強く抱き寄せ、もう一度、キスを重ねる。ちゅっ、と音を立てて離れていく音がやけに大きく聞こえ、今度こそ体が硬直した。
抵抗できなくなった俺に気づいていないのか、あるいはわかっていてあえてそうしているのか、ファイノンが何度も唇を重ねては離し、表面に軽く吸い付いたり、しながら、腰から太ももをゆっくりと撫でる。
「っ、ふ、」
唇を重ねられる時間が段々と長くなり、息を吸うタイミングが掴めない。上げさせられた顎と首が痛い、息が苦しい。だけどそれ以上、こうして唇と体を触れ合わせているだけでどうしようもなく気持ちがよかった。
ちゅ、ちゅ、と濡れた音が何度も響き、キスの合間に必死に呼吸を繰り返す。太腿を擦られるたびにびくびくと体が跳ね、腰がずぐん、と重くなっていた。ファイノン、と静止を願おうとすればその言葉ごと飲み込むように唇がふさがれ、視界がちかちかと明滅する感覚がし、頭がぐらりと揺れる。痛いほど心臓が跳ねていて苦しい。
「っぁ
……!」
胸を掌でさすられて、びくんっと体が跳ねる。自分の声の浅ましさに驚いて口を押えようとしたが、ファイノンに服の上から指先で胸をとんとん、とつつかれ、また体が跳ねる。すりすり、と何度も何度も胸の先端を刺激するように撫でられ、むず痒い感触に腰が左右に揺れる。
何が起きている?
完全に混乱していた俺は、いつの間にかファイノンによって、背をソファにつけられていたことに気が付かなかった。フレームに手を置いたファイノンが、俺を押し倒すように見下ろしている。年の割には幼い、と時々感じていた男が俺を追い詰めるように見下ろす姿に、恥ずかしながら興奮していた。
足を開いて座ってしまっていた俺の足の間に、ファイノンが片膝をついている。ぐっと顔を近づけられ、これ以上逃げ場などないのに、それでも頭を引こうとしてしまう。
怖いわけではない。恥ずかしい。その上唐突だった。
……いや、「大人」と言うものはそういうものなのかもしれない。だが、俺はまだ慣れていない。だから、混乱している。
「口開けて、」
言われるまま、そっと、唇を開く。キスか、と感じた次の瞬間には、熱くぬるついた下が口腔内に入り込み、びくっ、と体が跳ねていた。驚いてファイノンの顔を掌で押してしまい、しまった、と手を引く、引こうとした。ファイノンは俺の片手をがっと掴むと、むしろ掌を自分の方へ引き寄せて、指と指の隙間にぬるりと下を這わせる。
「っは、あ、
……んっ、ファイノン
……!」
舌の感触にぞくぞくとした痺れが駆け抜け、息が上がる。濡れた肌が少しひやりとするのも刺激になって、混乱している間に、またファイノンに唇を重ねられる。これがお前の言う、常識を変えた後なのか?
初めての感触に混乱し、ひっしに奥へと引いていた舌を、ファイノンの舌先が探り当てる。濡れた舌が触れ合った瞬間、あまりの気持ちよさに、おずおずと舌を差し出してしまう。いい子だね、と言うようにファイノンが喉の奥で微かに笑い、俺の長い横髪を耳にかける。指が耳に触れる感触にも驚いて体が跳ね、ぢゅう、と音を立てて舌を吸われたことに驚くよりも、それを上回る気持ちよさに頭がぼーっとした。
「っん、
………ん、」
何度も角度を変えてキスをしてくるファイノンについていくのが必死だった、いや、ついていけてはいなかっただろう。俺はもうファイノンにされるがままで、もっと気持ち良くして欲しくてしかたがなかった。ファイノンの首に両腕を回し、抱きついて、夢中でキスをねだっていた。ファイノンが唇の端から零れた唾液を舐め、下唇を甘噛みしてくる。体の奥から熱が上って来る感覚に、頭の中がどんどん真っ白になっていくような気がした。酸欠のせいか思考は繋がらず、すぐに途切れて、ファイノンが両手で俺の顔を固定して口を開かせ、唾液を飲ませようとしている浅ましい顔をぼんやりと見上げていた。こく、と喉が動いた瞬間、また唇をふさがれ、結局、飲み下しきれなかったそれが唇の端から顎を伝って落ちていく。
ぐちゅぐちゅと音を立てながら舌が絡み合い、と言うより絡まされて、耳と舌からの情報量の多さに頭がショートしている。キスのあまりの気持ち良さに、もっと
――なにかを
――して欲しくて、両膝をそっとこすり合せていることに気が付いた。下着の中でいつ暴発してもおかしくないそれが、痛いほど布地を押し上げている。キスをしながら、自分で触れてしまおうと、ゆっくり手を下ろす。ファイノンにばれたくない。
「こら、」
「っん、っ
……!」
パジャマの裾から指を滑り込ませようとしていたところでバレて、ファイノンに手を握られる。目の縁が熱くなり、瞬きをするたびに、あまりの熱さに涙が出てきそうだった。首の付け根が発火したように熱く、もぞもぞと腰が揺れる。ファイノンの手は俺を宥めるように何度も優しく指を絡ませて握ってきていたが、そんな所より、もっと直接触れてもらえるのなら、触れてほしかった。
「ファイノン、」
瞬きをするたびに、視界が潤み、世界の輪郭が歪んで行く。
お前ともっとキスがしたい。それ以外のことも。もう子どもではないのだから、愛し合った他人同士が何をするのか、その答えのいくつかを知っている。
お前にもっと触れて欲しくて仕方がなかった。キスにもセックスにも興味があった。できれば、そのどれもお前としてみたかった。
頭の中でお前に組み敷かれる妄想をしたこともあったし、お前の寝顔を見た際や、お前が自室で死んだように一晩中音楽を傍に置いている際に、その代わりに俺を使わないかと聞いてみたい衝動にかられたこともあった。俺では音楽の代わりになれないのか? 俺は今は大した実績もないただの大学生で、ずっとお前に護られていただけだった。お前から見れば頼り甲斐がないことなんて本当はわかっている。
それでも、お前がぼんやりと一人の時間に沈んでいるその時に、お前の傍にいて、お前を温かく抱きしめ、お前を癒す音の波のように寄り添いたいと考えていた。
瞼を下ろしてキスをしていると、聴覚と触覚と嗅覚、それから舌が、普段より随分と鋭敏になっているのがわかる。俺と同じシャンプーとボディソープの匂い、それからファイノンの汗と、微かな香水の匂いが鼻から肺腑の奥まで染み込む感覚がする。頭の中は糸が複雑に絡み合うように思考も理性も感情も全てがぐちゃぐちゃと絡まって、重く絡みつき、キスの気持ち良さと、ファイノンが好きだという強烈な想いだけが表層にあるだけだった。
舌先にそっとファイノンの前歯が当たり、びりりっ、と全身に電気が流されたように体が跳ねる。制御できなくなった体が暴れて震え、ファイノンが「怖くないよ」と小さく、濡れた声を俺の耳に吹き込んでいる。怖くない? お前を怖いと思ったことはない。それを証明するために、ファイノンの胸倉を掴んでぐっと引き寄せる。
前歯がガチン! と当たって、いたっ! とファイノンが声を上げる。
その瞬間、パチン、と泡が弾けた様に厚く靄がかかっていた思考がクリアになり、視界の揺れと歪みが正常になった。あたた、と口を押えているファイノンを見ながら、は、と息を吐くと、体から力が抜け、ソファへ重く沈む。
「
……ごめん、やりすぎた」
ファイノンの纏う空気はすでにいつものへらりとした、軽薄そうなそれに戻っている。恥ずかしそうに目許を染めた顔が歳に似合わず幼く見え、胸がきゅう、と痛んだ。息が詰まる感覚が不快で、胸許を掴み、深呼吸を何度か繰り返した。熱すぎて水が落ちれば蒸発しそうになっていた頬の熱が段々と下がって来るのを感じながら、ファイノンの愛らしい顔立ちに改めて見惚れていると、ぼんやりしている俺の濡れた口許を、ファイノンがティッシュで拭ってくれている。
「その、言いづらいけど、とりあえず着替えておいで」
どういう意味だ? と思いつつ自分でぐいっ、と唇を手の甲で拭い、首筋から胸許が冷たく濡れていることに気が付いた。何故だ? と考えた瞬間、先程のキスを思い出して、思わず、反射的にファイノンの足を蹴飛ばす。
「痛っ! なにす、いや、僕が悪いのはわかってるけど、蹴らなくても、」
「黙れ!」
ソファから慌てて跳ね起き、バスルームへと走る。今夜何度も俺を制したファイノンの手は今度こそ伸ばされず、俺が通り過ぎるのを見逃される。
パジャマのシャツを変えようとして一息ついたところで、下着の濡れた感触の気持ち悪さにもようやく気が付き、自己嫌悪で小さく唸り声が出た。触れなかったし触れられなかったというのに、そんなことは関係がなくなるほど興奮していたことに気づいて、すべてを脱ぎ捨てて新しい下着と寝間着に着替えた。
不機嫌を装ってリビングへ戻ると、ソファに腰を下ろしていたファイノンが気まずそうに俺に視線を向ける。
「
……お前は着替えなくていいのか」
「え? あ、あー
……僕は大丈夫」
「
……………………」
「
…………………………」
「
………………………………」
「
……………………………………」
「
……それで、さっきのことで僕が嫌いになったか?」
沈黙を破ったファイノンの言葉の意味を理解するのに、数秒を要した。
「もし俺を揶揄うつもりだったのであれば、二度とするな。期待する」
ファイノンの傍に寄る気にはならず、腕を組むと、ばつが悪そうな顔をしている男を睨みつけた。
「揶揄ったつもりはないけど、ただ、嫌だったり気持ち悪かったりしたなら、多分僕たちの相性はよくないだろうね。
……いや、君がもしそう感じなかったとしても、僕のしたことはよくなかった。もっと時間をかけるべきだったなと今は反省してるよ」
「何を反省することがある?」
それは、と口を開いたファイノンは言葉を悩むように眉を寄せ、うーん、と狼狽したように膝に肘をついて、手の上に自身の顎を乗せる。なんとなく、「君にはまだ早かったかも」とでも言いたがっている気がし、むっ、と俺の眉が寄る。経験不足を子どもだからと言い換えるのはやめろ、と言いたくなったが、それを素直に認めるのは癪だった。
「さっきのようなことは、その
……」
俺の言葉に、ファイノンがぎくりと肩を震わせ、少し顔色を悪くするのがわかった。反省しているというよりは自己嫌悪に陥っているらしいファイノンに近づいてやり、隣に腰を下ろす。居心地が悪そうな顔をするファイノンの体にそっとよりかかると、「っ、君さ、」とファイノンが慌てた声を上げた。
ようやくそれで溜飲が下がり、ふん、と鼻を鳴らして、さらにファイノンに寄りかかる。
「できれば、次回は予告しろ」
「
……キスがしたいって?」
「
…………………………」
「自分で言っておいて照れるなよ。可愛いな」
頭を撫でようとしてくるファイノンの手をはたき落とし、「それで」と不機嫌なふりをしたまま、ファイノンの顔を見上げる。
「俺をお前の恋人にしてくれるのか?」
「
……………………意識はした。だけど、まだ覚悟が決まっていない」
「いつ決まる。明日か、明後日か」
「待った待った。若者のスピード感についていけないよ。もう少し時間がかかるかな、多分」
「それほど歳でもないだろう」
「二十歳から見たら僕なんて老人な気がするけどね」
頬杖をつくファイノンの腕を掴んで持ち上げると、その隙間に体を無理やり潜り込ませた。ファイノンは俺の甘えるような行動に戸惑っているようだったが、強い拒絶は感じない。それをいいことに、ファイノンの胸に片耳をつけてよりかかる。
「何をそう悩んでいる? 世間体か」
「
……自覚があるみたいで何よりだけど、それよりも、先生になんて言い訳しようか考えてる。僕は地獄に落ちるだろうけど、よかったら天国で先生とゴルゴーさんには君から言い訳しておいてくれ」
「お前が地獄に落ちるはずもないが、それはそれとして、母上の説得は引き受けてやる。父上は
……、母上が恐らく、どうにかするだろう」
唐突な死後の想定に困惑したが、ファイノンが欲しがっていそうな言葉を口にした。勿論、俺の本心で、嘘や偽りはひとつもない。
しばらく黙ってファイノンに寄りかかっていたが、「そろそろ寝ないとな」と自分に言い聞かせるように、静かにファイノンが口にする。時計を見れば、随分と時間が経っていた。確かに、普段ファイノンが眠りにつく時間よりはだいぶ遅いだろう。
もぞもぞとファイノンから身を離し、寝る、と口にしてそそくさと部屋へ足を向ける。
「メデイモス」
柔らかく俺を呼ぶ声に、緊張感はなしに、振り返った。
「おやすみ。
……若気の至りだとか、気の迷いだと思ったら、すぐに言ってくれ。僕はいい大人だから、別に今更若い子に振られたくらいで引きずったりしないし、君との約束を反故にしたりもしない。そういう遠慮はしなくていい」
優しい声で告げられたその言葉に、呆れるのと同時に、少しだけ、傷ついてしまった。お前のそういうところは気に入らない。そう口にする元気が今はなく、ため息を落とすに留めておく。
「
……そう言えば、何故俺が海に行くのを止めたり、車を使うのを止めようとした?」
ファイノンが俺を不安にさせないために口にした言葉だと分かっていた。それで傷つくのは健全ではないとわかっていたから、俺が一人で消化すればいいだけの話だろう。
そう思い、もうひとつ、気になっていたことを口にする。
ファイノンは気まずそうに視線を反らすと、そっと頬をかいた。
「あー
……それは、まあ
……君がヤケを起こすんじゃないかって心配したんだよ」
「ヤケ?」
「振られたショックで死のうとしたりしないかな、なんて」
「
…………お前のそういうところは気に入らない」
馬鹿が、と吐き捨てるように口にし、今度こそ背を向ける。
ファイノンが慌てて駆け寄ってくるのがわかったが、今度は足を止めない。どうせ追いつかれてしまうのがわかっていたからだ。
「悪かった。本当にごめん、許して欲しいなんて言わないけど、謝罪はするよ。君を傷つけて突き放そうとしたのは事実だ。
……大事な誕生日を台無しにした埋め合わせはするから、次の休みの三日間は君の言うことを聞くよ。
――まぁ、一部を除いてね」
宥めるようにファイノンが俺の髪を撫でて、額に唇を下ろしてくる。
まるで恋人のような態度を取って来るファイノンに少し戸惑ったが、突き放しておいて変わり身の早いやつだな、と詰るのは、やはり今度もやめておく。恐らく、これからもそんなことは口にしないだろう。
「考えておく」
恐る恐るファイノンに手を伸ばすと、遠慮しなくていいのに、と調子に乗った声が聞こえてきたが、返事をせずに無視して、少し体重を預けて目を閉じる。
両親の葬式の夜も、こんな風にお前が抱きしめてくれていたことを唐突に思い出し、もしかすると、好きになったのはもう少し前だったのかもしれない、と感じた。
夜に目を閉じても俺が不安にならないのは、いつもお前が傍にいたからだろう。お前にとっての音楽は、俺にとってはお前だった。