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5.
ファイノンが風呂を出るまで広縁で本を読み、眠った気配がしてから、風呂に入り、目覚ましを七時にセットして就寝した。
……筈だったが、アラームが鳴ったのは九時だった上に、枕元に置いていたはずのスマートフォンはテーブルの上に置かれていた。
「地味な嫌がらせを
……」
普段であれば七時過ぎに自然と目が覚めるが、精神的に疲れていたのか、ファイノンが部屋を出て行く物音にも気が付かなかった。ファイノンはきっともう、ホールに向かっているのだろう。
親友から「誕生日おめでとう、旅行はどう? 明後日帰るんだよね」と連絡が入っていることに今更気が付き、謝罪がてら「観光しているわけではないから、特に面白いものはない」と返信しておく。振られた、と言ってしまうか悩んだが、好きな相手の話を親友にしたことはあっても、具体的な素性やいつ告白するのかと言った相談は今までに一度もしていない。誰に話しても「年上すぎる」と反対されるような気がしたからだ。
昨晩のファイノンとの会話を思い出し、嫌われただろうか、と考えるとやや胸が痛んだ。いっそ部屋を変えてくれ、と昨日の昼の時点で言い出しておくべきだったかもしれないと思ったが、ファイノンの態度は曖昧で、許されているのかもしれない、と感じていた。だからその提案はしなかったが、昨晩のファイノンはうんざりしたような声で俺を拒絶し、今は向き合う気がないとはっきり示していた。自宅に帰った後のことを考えるといささか憂鬱だったが、自分の蒔いた種で、どうなろうと覚悟を決めるしかないだろう。
もし本気でファイノンに嫌われたのだとすれば、俺への態度はスコートと同じようなものになるのかもしれない。嫌な想像をしてしまったのは、恐らく空腹のせいだろう。
朝食を運んで貰う手間をかけさせるのは気が引け、アルセンへと電話をかける。朝食を終えていないものがいれば、俺が食堂へ赴いたほうが手間が少ない筈だ。
アルセンに朝食の件を切り出すと、ちょうど食堂で準備をしているので、応接間で待っていて欲しいと回答があり、初日に訪れたきりの応接間へ向かう。
室内には既に先客がおり、一人は不機嫌そうなスコートで、もう一人は見知らぬ線の細い女性だった。なんとなくセレネに顔が似ているような、と考えていると、視線がこちらを向き、「あら」と声が上がる。
「おはようございます。確か貴方は
……メデイモス、よね。挨拶が遅くなってごめんなさい。私はオルクスの妻のマリエよ。お父様の
――オーリパン先生の葬儀には行けなかったから、今日が初対面、よね?」
「こちらこそ挨拶が遅くなったが、世話になっている」
見た目通り、か細い声をしたマリエは俺をじっと見つめると、なにか合点がいったように頷き、ふふ、と小さく笑う。
「オルクスに聞いてたけど、お父様によく似てるのね」
「
……あまり言われたことはない」
どちらかと言えば母親似だと言われることのほうが多いが、と考えていると「あら、そうなの?」とマリエは不思議そうな顔をする。オルクスにもそう言われた記憶があったが、もしや、父上の若い頃に似てきているのか?
両親の若い頃の写真は恐らく自宅にあるだろうが、思い出そうとしてもあまりピンとは来ない。この場にファイノンがいれば、恐らく「先生と似てる所なんて背丈くらいじゃないか?」と言っただろう。
「ええ、そっくりだと思うわ。私もそんなにお会いしたわけではないけど」
「
……おいマリエ、話は終わりだ。とにかく開演まで屋敷にいるからな」
マリエが楽しそうな笑い声を上げるのを遮るように、スコートが物音を立てて椅子から立ち上がる。
ファイノンはには関わるなと言われていたが、やはり昨日のことが気になり、おい、と男の背に声をかける。
「なんだ」
「昨日、何故ホールに来た?」
足を止めて舌打ちを返し、高圧的な態度を取る男の表情をよく観察しようとしたが、知人とも言えぬほどの浅い間柄で、何を考えているのか読み取るのは困難だった。
「オルクスにはいつでも覗いていいって言うわれてたんだ。だから覗きにいった。文句があるか?」
しかし、返答は己のしでかしかことを隠しているような声音ではなかった。
「昨日、あの後ホールでなにがあったか知っているか」
「はぁ? 昨日はあの後、打ち合わせで出かけてたんだ。ピアノがダメにでもなったのなら喜ばしいが」
「
…………………」
ファイノンの言う通り、どうやら本当にこの男には関係がないらしい。そうなると、今考えられる候補は一人だけだった。
「それとも指に怪我でもしてか? まさか、今日の演奏が上手くいかなかった時の保険でもかけてるんじゃないだろうな」
「スコートくん、そんな言い方
……」
マリエが悲しそうに眉を下げたのを見、スコートがぐっと言葉を詰まらせる。どうやらかつての恋人と言うのは本当の話で、未練があるらしいというのも本当の話のようだ。
「いや、知らぬのならいい。引き留めて悪かったな」
「チッ
……、生意気なガキだ」
スコートが肩をいからせて出て行って数秒後、アルセンが食堂へ俺とマリエを呼びにやって来る。なんとなく気まずい空気が流れているような気がしたが、マリエとあの男についてさすがになにか余計な口出しをする気にはならなかった。
席へ着くと、ワゴンに朝食を乗せたアルセンが入室し、カリカリのベーコンにスクランブルエッグ、サラダ、コンソメスープとヨーグルト、それから焼きたてのバゲットを食卓へ並べた。昨日までの朝食は味噌スープやおにぎりといった江戸の食事が多かったが、運びやすさを考えての品だったのかもしれない。焼き立てのバゲットの香ばしい匂いに、思わず腹が鳴る。
「食べ盛りの男の子って、これで足りるのかしら
……?」
マリエがアルセンへ不安そうに視線を送り、アルセンは俺ににっこりと柔和そうな笑みを向ける。
俺の前に用意された食事と彼女の前に用意された食事の量は四倍は差があるように見え、食の細さが伺えた。
「もちろんおかわりもございますので、どうぞ遠慮なく」
昨日までの朝食とそれほど量は変わらないような気がしたが、わかった、と頷いておく。自宅では殆ど俺が調理をしているからか、足りるかどうかを考えたことはなかった。ファイノンが量に文句を言ってきたことはないので、少なくはないのだろう。正確には「小腹が空いたから」と夜中に唐突にラーメンを作り始めたり、ホットケーキミックスでおやつとつまみの間のようなものを作り始めることはあったが、そういうものだろうと思っていた。
「それはそうと、さっきは、ごめんなさいね。スコートくん、気が立ってるみたいで
……」
「別段気にしてはいない」
気が立っている、で済ませていいのかどうかは甚だ疑問だったが、当事者がそう感じているのならいいのだろう。
「
……ケホ
……、っ、
……」
「大丈夫か?」
短い咳を連続で繰り返したマリエは、目の前のカップを慌てて手に取り、中身を飲み干す。
「
……ふーっ。ごめんなさいね、昨日よりずっと良くなったんだけど、また休ませてもらうわ。ゆっくりしていって。なにか不便があればアルセンに言ってもらえればいいから」
「ああ。俺が言うことではないが、療養に努めてくれ」
「ありがとう、ゴルゴーさんと同じで優しいのね」
アルセンに椅子を引かれ、ゆっくりと立ち上がったマリエは碌に食事もとらずにふらふらとした足取りで退室する。無理をせず寝ていたほうがよかったのではないか、と思ったが、もしかするとわざわざ俺に会いに挨拶をしに来たのかもしれない。マリエと母上はあまり歳も近くなかったが、先程の俺への態度から考えると、母上になにか恩があったのだろう。
誰もいなくなり、気楽になった食堂で黙々と朝食を平らげていると、途中で使用人らしきものたちが数度顔を出し、おかわりはどうかと声をかけてくれる。ここで遠慮しても意味がないか、とバゲットを二本とスクランブルエッグ、スープを追加で運んで貰う。
「アルセンは今日は忙しいのか?」
ようやく満足した、と一息ついたところで、食後のフルーツジュースをアルセンがタイミング良く注いでくれる。てっきりコーヒーか紅茶を選ばされるかと思ったが、俺は苦みが苦手だという話を事前にファイノンから聞いているからか、尋ねられもしなかった。
「本日はお昼頃からゲストの方が見えますので、そちらの準備で少し屋敷内も騒がしくなるかもしれません。お部屋からわたくしどもを呼びつけていただければ、ご対応いたします」
「わかった。
……そういえば、セレネの怪我は大事に至らなかったか?」
「ご心配をおかけして申し訳ありません。手当が早かったそうで、跡は残らないようです」
マリエと一緒に顔を見せなかったのは重症だったからだろうか、と思ったが、それは考えすぎだったようだ。
「それはよかった。今日もピアノのレッスンをしているのか?」
「いえ、本日は旦那様の公演がありますので、それまではお二階で奥様とお過ごしになる筈ですよ」
セレネと本番前に少し話をしたかったが、どうやらそれは難しいようだ。
であれば、開演よりやや前にホールに行き、ファイノンに話をつけておいたほうがいいだろう。
「それから、公演後のことで頼みがある」
「頼みですか? なんでしょう」
「正確にはお前ではなくオルクスと奥方、それからセレネに用があるのだが
――」
*
十一時を迎えようとしていた頃、徐々に招待客が顔を見せ始め、正門前はここ数日と打って変わった様子で、やや騒がしくなっていた。アルセンを筆頭に、使用人たちが慌ただしく応対している。主人のオルクスはファイノンとホールでリハーサルをしているからか、屋敷ではまだ顔を見ていない。
応接間には昼食代わりの軽食やドリンクが並び、荷物を置いた客人たちが休憩をしたり、談笑したりしている。オルクスのかわりにマリエが顔を出し、招待客らと談笑している。やや青白い顔立ちをしているが、客人たちは然程気にする様子がない。彼女の様子をよく知る親しいものたちなのだろう。その傍にセレネもいたが、挨拶をしているただ中に口を挟む気にはならなかった。挨拶をする客人たちに混ざり、何食わぬ顔で昼食を済ませると、ホールへと向かうことにする。
屋敷を出ようとしていると、ファイノンとオルクス用の昼食が入ったカゴを持った使用人のラティーナと会った。彼女がホールまで届ける予定だったらしいが、屋敷の手が回らず誰か行ける者がいないかと会話をしているのが聞こえたため、ゲストにそんなことをさせるわけには、と渋る彼女から、無理をいって預からせてもらう。これで堂々とファイノンに話かける理由ができた。
*
ホール付近にはまだゲストの姿はなかったが、微かにピアノの音が聞こえている。人がいるのであれば鍵はかかっていないだろう、と扉に手をかけ、そっと開ける。
予想した通り、中ではファイノンとオルクスがピアノの傍で、調律についてか、最終調整をしているようだった。オルクスの顔色は昨日より暗いような気がしたが、緊張と昨日の事件のせいかもしれない。
「君の腕は信頼に値するものだし、大丈夫だといっているだろう。本当に君は心配性だな。ここまできたらもうなるようにしかならないだろう?」
「それはまぁ確かに
……」
会話が途切れた頃にでも話しかけるか、と思いながら近づくと、顔色が暗いと思っていたオルクスよりもファイノンのほうが更に不安そうな顔をしていることに気が付いた。
「弦が切れることより怖いことが本番中にあるかね」
「ないです」
「そうだろう!
――ん? やぁメデイモス君、どうかしたかい?」
俺の姿に気づいたオルクスが、鍵盤から手を上げ、顔をこちらへ向けてくる。ファイノンも振り返り、あれ、と意外そうな顔をした。顔を出さないとでも思ったか? と睨み付けてやりたくなったが、オルクスがいる手前、我慢しておく。
「邪魔してすまない。ラティーナから二人分の昼食を預かったのと」
視線をファイノンへ向け、何もなかったふりをして軽薄そうな笑みを浮かべている顔を見つめる。
「ファイノンと少し話がしたい。勿論、時間があればで構わん」
「そういえばもうこんな時間か」
オルクスは舞台袖に置かれている時計を目にし、道理で腹が減った気がしたはずだ、と腹をさする。
「よし、休憩だ休憩。昼食は楽屋で取ることにしよう、ファイノン君もそれで構わないね?」
「あ、僕は本番前は食べないので、飲み物だけあとでもらいます」
「まさかそれもゲン担ぎか?」
「と言うより、胃になにか入っていると吐きそうで不安で」
そうだったのか? と尋ねそうになり、慌てて言葉を飲み込む。時折、妙に繊細なところがあるとは思っていたが、まさか本番前は食事を抜いているとは思ってもみなかった。
一緒に暮らし始めた年数は少なくとも、ファイノンについて知らないことなどもう何もないと傲慢にも感じることがあったが、どうやらそうではなかったらしい。しかし、その事実を何故か幸福に感じていた。知らないことがあろうと、嫌悪や焦りは浮かばない。そうだったのか、と思っただけで、この男のそう言った一面を穏やかに受け止めることができている。
「それなら仕方がない。ジンクスは意外と大事だ、私が本番当日は右足から必ず踏み出すように。
……それで、メデイモス君はもう昼はとってしまったかな? いや、君くらいの歳なら入るだろう。ファイノン君の分は君に任せよう」
「無理する必要はないけど、遠慮しなくていいからね」
いや、と断ろうとしたが、ファイノンに押し切られてしまった。
「今更だが、昼食を運ばせてしまって悪かったね。私も柄になく緊張しているのか、今日はどうも人の手配が悪い」
「いや、俺が持って行くと押し通しただけだ」
ファイノンと俺は舞台袖から楽屋に案内され、昼休憩を取ることになった。楽屋に入る前、オルクスは昨日のことがあってから考えを改めたのか、内側からホール扉を施錠したため、今は誰もホール内部には入って来られない。しかしファイノンはそれでも安心できない様子で、工具鞄を楽屋まで運んでいる。
「しかし君は申し訳ないことになってしまった。せっかく完璧に仕上げてもらったのに、直前まで負担をかけてしまうね」
「仕事にトラブルは付き物ですよ」
唐突なオルクスの謝罪に、ファイノンは涼しい顔で首を振る。昨晩、部屋で見せたような重苦しい顔は一切見せず、本当に大したことではないと思っているかのようだった。勿論、そんな筈はなく、これは芝居だと俺にはわかっていた。
オルクスも以前から付き合いがあるのであれば、ファイノンのこう言った性格を見抜いているような気がしてならない。「謝罪したのだから許せ」と示されたようなに感じたが、これは俺が冷静ではない証拠だろう。やや気分が悪くなったが、ファイノンが怒っていないのに俺が怒るわけにもいかず、ファイノンの分のサンドイッチを食べて黙っておく。
オルクスは父上の友人ではあるが、それ以上に今はファイノンのクライアントだった。ファイノンはこの仕事を嫌だといいながら、きっちりこなす男で、それは人間関係も含めて「きっちり」という意味だ。
だからこそファイノンが嫌がるのとは裏腹に、こうして仕事が不定期で入ってくるのだろう。それなのに、俺がファイノンの仕事をぶち壊すわけにはいかない。
「さて」
微妙な空気になってしまったのを断ち切るように、オルクスが膝を叩く。
「十二時半に開場して、十三時から本番だ。ゲストはかっちりした服装が多いかもしれないが、
ドレスコードは指定していないから、気軽に聞きに来てくれて構わないよ」
Tシャツはさすがにやめておくか、と考えていた俺の思考を読んだように、オルクスが笑う。
「いや、さすがにもう少しまともな服に着替えておく」
父上の息子だと公演後にオルクスやファイノンが紹介する可能性を考え、年の為、スーツを持って来ていた。この暑さの中スーツで移動することを考えてうんざりしていたが、ジャケットは部屋に置いてくることにしよう。
「さて私はもう少し練習をしておくかな。ファイノン君と話があるのだろう? 出ておこう。ああ、昼食の残りはそのままここに置いていってくれ。後でアルセンか誰かが片付けにくるはずだ」
オルクスが楽屋を出て行き、ファイノンと俺の二人きりになる。
「ファ
――」
「オルクスさんの手前、さっきは口を挟まなかったけど、ごめん、話なら後にしてくれ。昨日も言った通り、」
ファイノンはへらりとした表情を崩し、俺の言葉を遮ると、不安そうに楽屋の隅におかれたモニター脇の小さな「祭壇」を見ながらため息をついた。舞台袖だけで満足できなかったのか? と少し呆れの感情が沸いたが、あれを作ることで安心できるのであればまぁいいだろう、と今は疑問を忘れることにする。
「すぐに終わる。今はあの話を蒸し返すつもりはない。
……俺はただ、お前はきちんと俺の保護者で、頼りにならないと思ったことはないと伝えたかった」
俺の言葉に、え、とファイノンが顔を上げ、怪訝そうに、と言うより、言葉の真意を探るよう、視線を向けてくる。普段より幾分暗い青の瞳は夏の空と言うにはやや濁っているように見えたが、それでも綺麗な色をしていた。
「お前の仕事ぶりも尊敬しているし、いくら師匠の息子とは言え、赤の他人の俺と同居し、面倒を見ることを約束してくれたことをありがたく思っている。少なくとも、」モニターにはピアノを弾いているオルクスの姿が映っていた。であれば、聞かれる心配はないだろう。「
……オルクスとお前のどちらが父親が似合うかと言えば、お前だろう」
感情を抑制したつもりだったが、父親、のあたりで少しだけ語気が乱れてしまった。本音を言えばこんなことを言いたいわけではないと考えていたからかもしれない。ファイノンは俺の父親ではなく、どちらかと言えば歳の離れた兄のような存在で、正しく保護者だとは感じていたが、それでも、家族ではないはずだ、と思っていた。いや、そうであって欲しいと願っているというのが正しい。
「
……どうしてそんなことを今言おうと思ったのか、聞いてもいいかい?」
俺の言葉が相当意外だったのか、ファイノンは一瞬面食らった後、なんだか嫌そうに眉を寄せた。怒らせたわけではないだようだったが、どこかの単語にひっかかりを覚えたような顔だった。
「仕事前に余計なことを聞かせるなと言われたのはわかっている。だが、怒りがやや収まらない」
「それは君の顔を見ればわかるよ。珍しく怒ってる時間が長いみたいだけど、関わるなって言った筈だけどな」
ファイノンの回りくどい言葉に気づかなかった振りをし、話を続ける。
「本番後に、少し時間が欲しい。オルクスには公演後、楽屋に関係者を集めて欲しいとアルセン経由で頼んでいる。公園直後のオルクスの楽屋なら、人払いもできるだろう」
「待った。そんなこと聞いてないし、僕に相談なしに勝手に決めるなよ」
「相談すればお前は何もするなと言うだろう。だが、このままでは今回の『事件』はなかったこととして流されそうな気がした。俺にはそれを許しがたい」
朝食の席でアルセン経由でオルクスに連絡を取ってもらい、公演後、三十分程度であれば、食事会の準備や移動で、自分たちが抜けていても恐らく大丈夫だろうと了承を得ていた。少し話がある、と具体的なことは言わなかった。俺がただの学生であればこんな話は通らなかっただろうが、亡くなった友人の息子、と言う立場を利用するチャンスはここにしかない。
「はぁ
……、困ったな。他人の家庭に踏み込むなんて行儀が悪いし、べつに僕が怪我したわけでもないのに、どうしてそんなに気にしてるんだい? それに、こういった言い方は冷たいかもしれないけど、もう報いは受けてると思うよ」
「わかっている。別に糾弾するつもりはない。ただ、話がしたいと思っただけだ。二度としない」
恐らく、と口の中でつぶやき、モニターからファイノンの顔へ視線を移動する。
「変な不安が増えた」
「すまない。
……それはそれとして、お前は何故、スコートが本当に関係がないと分かった? 今朝方、あの男にそれとなく訪ねてみたが、確かに何も知らないようだった」
「ストップ。自分でいうのもどうかと思うけど、本番前の僕は余裕がないんだ。別に僕が演奏するわけじゃないけどね。だからこの話は一旦ここで終わり。君は屋敷に戻って着替えておいで。
……いいね?」
「
……わかった」
有無を言わせぬ真顔で念押しされ、昨晩、低く硬い声で名を呼ばれたことを思い出してしまう。普段は対して圧のない男だと言うのに、時折、ぞわりと鳥肌が立ちそうなほど妙な冷たさを感じることがあった。
*
ファイノンに楽屋を追い出された後、オルクスに挨拶はせずに屋敷へ戻って服を着替える。招待客がぞろぞろと玄関先に集まり、アルセンや使用人たちの誘導でホールへ向かうのに便乗し、再びホールへと戻った。夏の庭は気温が暑すぎることを除けば美しく手入れをされた樹木や草、花々で彩られており、客人を招くのに申し分のない景色だった。セレネよりやや年上の子どものきょうだいが、招待客であろう、若い母親にブランコを揺られている姿を目にし、やはり、子どもを一人で遊ばせていたこの家の者たちへの違和感
――嫌悪感と言い換えてもいいかもしれない
――を再び強く抱いた。
涼しいホール内に足を踏み入れ、ほっと息を吐く。流れてくる汗をハンカチで拭いつつ、ホール内を見回し、招待客の顔を確認した。
件のスコートが最前列で不機嫌丸出しに座っているのが見え、こき下ろすための記事を書きにいるだるに、そのあまりの熱心さに反対に感心してしまった。
目当ての人物がいないか探すが、まだ見えない。仕方がなく、扉から入って来るものがすぐにわかるよう、後方の席に座っていると、本番十分前に、アルセンとマリエと一緒に、セレネが入ってきた。
昨日、結局顔を見れなかった少女の頬には馬鹿でかいガーゼが痛々しく貼られており、今日はお気に入りのぬいぐるみもその腕の中にない。
「
……!」
セレネは俺の顔を見ると、嬉しそうに顔を輝かせ、軽く手を振ってくる。それに一応手を上げ返したが、席を立って話しかけにはいかなかった。
今声をかけると、少し冷たく当たってしまいそうだったからだ。焦らなくとも公演後に時間をもらっているのだから、内々ですませたほうが誰のためにもいいだろう。
『本日は
――』
スピーカーからスマートフォン、またはそれに類する電子機器の電源を切るように、とどこの会場でもお決まりの口上が聞こえ始める。念のためスマートフォンの電源を切っていることを確認し、軽く目を閉じる。
――今日はよく寝たから、恐らく、睡魔には襲われないはずだ。
客電がゆっくりと落ちて行く。
舞台袖から拍手の音が聴こえ、聴衆もそれに合わせて手を打ち鳴らす。
タキシード姿に髪をしっかりセットしたオルクスがステージに出、ゲネと同じように真ん中でお辞儀をする。顔を上げたオルクスの表情は、ゲネで見たものよりも、晴れやかで眩しい、自信に満ちたものだった。
椅子に腰を下ろし、鍵盤に手が置かれる。
数秒、暝目するように動きが止まる。
微かに、オルクスの上半身が揺れた。
オルクスがそうしたように、俺もスッと短く息を吸う。
――一曲目。「古典的なメヌエット」。
*
激しい連打音がクライマックスに向かって、少しずつ音が小さくなって行く。
妖精スカルボが部屋から消え去るように、 だんだんと音は小さく、弱々しくなって、そしてついに、ふっ、と音が止んだ。
静寂。
「
………………、」
詰めていた息をこっそり吐き、ずるりと背を椅子へ沈めた。直後、割れんばかりの拍手がその場に満ち、今度こそ長く息を吐く。俺の耳では音のズレはわからなかったし、本番中に張りなおした他の弦が切れてしまうアクシデントも起きなかった。普段はそんなことを意識して演奏を聴くことはなかったが、
「たしかに、いつもこれを予想しているのは疲れるか
……」
ファイノンの安堵と疲弊の混ざった顔を思い浮かべ、ふ、と口角が吊り上がる。ようやく、ファイノンの仕事の重大さについて、真に理解できたような気がしたからだ。
*
アンコールを終え、拍手がいまだ鳴り響く会場内を後に、ホール外の楽屋入り口から再び屋内に戻り、オルクスの楽屋に行く前に、ファイノンの楽屋へ寄る。扉をノックすると、どうぞ、と繕った、明るいファイノンの声が聞こえた。
「入るぞ」
「ああ君か。どうだった?」
「いい演奏だったが、それ以上に弦が切れなくてよかったと感じた。今までそんな視点で聞いたことはなかったが」
素直な感想を呟くと、いや本当に、とファイノンが大げさにため息を吐く。
「昨日より音が凄すぎて、何度か切れるところを想像しちゃったよ
……」
「少しだけ、お前が『本当はやりたくない』と言っていた気持ちが分かった」
「だろ? 先生はこういう緊張感が好きだって言ってたけど、僕は本当に全然好きじゃないんだ。もうこれっきりだといいんだけどね」
それは恐らく無理だろう、と拍手を思い出しながら、考えてしまう。
「あ、無理だなと思っただろ? これは本当にフリとかじゃなくて本音さ。本当に毎回心も体も擦り切れそうだ」
「
……だが、俺はお前がコンサート・チューナーとして活躍する姿が誇らしいと今回のことでますます感じた。父上の弟子だのなんだのは関係なくな」
重苦しく大げさにため息を吐いたファイノンに正直な気持ちを伝えると、ファイノンは瞳をまたたき、居心地が悪そうに俺から視線を反らして、「うーん、そういわれるのは嬉しいけど」と複雑そうに眉を下げた。 照れている時のファイノンの表情は年上ながら妙に幼く感じ、思わず、頭を撫でてやりたい衝動に駆られる。
持ち上げかけた手を慌てておろすと、どうかしたかい? とファイノンが首を傾げる。それに「いや」と首を振った。
「さて、オルクスの楽屋へ行くか」
気乗りしないな、とファイノンが俺を咎めるように低い声で口にしたが、聞こえなかった振りをした。
*
公演後、客人たちを招いた晩餐会をする手はずになっていたため、オルクスの楽屋には慌ただしく五人の人間が集まる。俺とファイノン、オルクス、アルセン、それからセレネだ。マリエは体力を考えて帰ってもらい、スコートはそもそも「部外者」なのでなにも知らせていない。奴はファイノンが最初に「そんな度胸もないんじゃないかなと」と言った通り、公演をぶち壊すような真似はしなかった。本当に記事を書くためだけに来たらしい。
「メデイモス」
「
……なんだ?」
関係者を前に、口を開こうとすると、ファイノンが俺を手招きする。時間がないが、とは思ったが、大人しく傍へ行く。セレネは父親の楽屋に招かれたことをどうやら喜んでいるようで、一瞬だけ決意が揺らぎそうになった。
「念のため言っておくけど、言葉遣いには気をつけて。あと、オルクスさんには本番直度に僕から簡単に説明しておいたから、君が言う必要もないかもしれない」
ファイノンは俺に損な役割をさせたくないとでも言いたいのか、歯切れの悪いことを口にした。
「
……少し言い聞かせるだけだ」
俺の言葉にため息をついたファイノンは、「僕は別にいいんだけどな」、と俺を咎めるように続ける。
深呼吸をし、父親の傍でそわそわと会話をしているセレネの傍に向かう。
「セレネ」
セレネの前にしゃがみ込み、彼女の頬に貼られたガーゼを見つめる。オルクスにそっと視線を向けるトン、わかっている、とでも言うように目を瞑り、セレネの小さな肩に両手を置く。
「ピアノの弦を切ったのはお前だな」
全員が口を噤む中で、それでも口を開く。
「その怪我はピアノの弦を切った際に、ワイヤーが跳ねて怪我しのだろう。お前は俺にピアノは嫌いだ、コンサートが中止になればいいと言っていたからな」
セレネはぎゅっとワンピースの裾を握りしめて、唇を噛んでいる。
「
……………………」
「違うか?」
無言のまま俯くその姿は、殆ど答えを口にしたようなものだった。傍らで佇むアルセンの表情にも驚いた色はなく、申し訳なさそうに眉を寄せている。
「事件」の犯人がスコートでないのであれば、セレネが弦を切ったのでだろう、と俺が考えたのはセレネの頬の怪我のこともあったが、ピアノの蓋が閉まっていたことも大きい。大人であれば立ったまま弦に手が届いただろうが、セレネにはそれが出来なかった。椅子から蓋を閉めたピアノの鍵盤の上に登り、そうして弦を切ったのだろう。ファイノンが蓋を拭いていたような気がしたが、きっと靴底の跡か何かが残っていたのかもしれない。
「俺がお前にワイヤーカッター(鋏)の話をしなければ、このような事は思いつかなかった。違うか?」
幼い彼女にそんな悪知恵が働いてしまったのは、俺が不用意にワイヤーカッターの話をしたからに違いない。であれば、この事件の原因は俺が作ったようなものだ。俺は俺で、オルクスとファイノンに謝罪をする必要があるが、一旦はセレネの過ちを正しておくべきだった。
「
……っ、ごめん、なさい
……」
「お前が何故こんなことをしたのか、きちんと父親に伝えるべきだ。今回は無事に公演が済んだが、いくらお前が気に入らなくとも、想いを伝える手段として、仕事の妨害を試みてはいけない。仕事はお前の父だけでなく、アルセンや屋敷の使用人たち、それから調律師として呼ばれたファイノン、多数の人間が関わっている。それはわかるな?」
「メデイモス君」
オルクスの声に口を閉じ、「父親」を見上げた。弱った顔をしているところを見るに、オルクスもセレネが何故こんな事件を起こしたのか自覚はあるのだろう。
セレネはワンピースの裾をぎゅっと握りしめたまま、こくこく、と鼻を啜りながら頷いている。
「君に言わせてしまってすまない。本来なら私が叱るべきだった」
「いや、俺こそ差し出がましいことを言っているのはわかっている。とはいえ、家族以外にも迷惑がかかったと言うことはわかってほしかった。
……だが、こんなことになったのは先程セレネに言った通り、俺がよかれと思ってセレネに話をしてしまったこともあるだろう。責任の取り方として正しいかはわからないが、治療費は俺が
――」
「君が責任を感じることはない。私が悪いのだと分かっているよ」
オルクスの言葉に大人しく頷き、ワンピースの裾を掴んでいるセレネへ視線を戻す。俺にしては長い間くすぶっていた怒りは、既に落ち着いていた。
本来であればファイノンが正式にオルクスにクレームを入れるべきだとわかっているし、こんな風に、俺の立場を利用して年上の大人を責めるような真似をすべきではないとも感じていた。ファイノンにとって将来的に不利益になってしまったかもしれない、と今では分かっている。人間関係を重視して、なるべく事を荒立てないほうが大人としては賢いのだろう。しかし、ファイノンの成したものが台無しにされかけたのがどうにも耐えがたいと感じてしまっていた。
「俺は両親にもファイノンにも誕生日を忘れられたことがない。まずはそれを忘れぬことだ」
セレネの手にそっと触れてから立ち上がり、オルクスに視線を向ける。
息を飲んだ男は壁にかかっていたカレンダーを見つめ、ああ、と力なくため息を吐いた。
「メデイモス」
ファイノンが静かな声で俺を呼ぶ。言いすぎだ、と言外に叱られた気がしたが、振り返ることはしなかった。
「
……セレネ、悪かった。お父さんが悪かったんだ。あとでちゃんと話そう」
「ごめん、なさい
……」
「いや、謝るのはお父さんのほうだ。しかし、ファイノン君には謝らないといけないよ」
「あ、いや僕は
――」
突然矛先を向けられたファイノンは困ったように眉を寄せ、慌てて謝罪をやめさせようとしたが、オルクスはセレネの背中に手を当てて、ファイノンの前まで娘を連れてくると、巻き込んで申し訳なかった、と謝罪する。
セレネは父親のその姿にショックを受けたような顔をしていたが、それで寄り自分のしでかしたことを自覚したのか、じわりと表情を歪めながらも、ファイノンへ頭を下げる。
「あの、かってにかばんをあけて、ピアノを、こわしてごめんなさい」
「ちょっと、あの、二人ともそんな
……公演は無事に終わったんだし、大丈夫ですよ。弦が切れることは実際あるし、僕が先生の付き人として海外を回っていた時はもっとひどりトラブルに遭ったこともありますから
……」
少し離れて傍観していたファイノンはやめてください、とオルクスに近づいて顔を上げさせると、だけどね、とセレネの前にしゃがみ込む。
「僕の後輩で、調律時に弦が切れて失明した子を知ってるから、目を怪我しなくてよかった。僕たちも作業をするときは眼鏡をしたりすることもあるからね。
……というわけで、僕は別に怒ってないし、これで終わりにしてもらえませんか? 本番は無事に終わって、公演は成功した。それなら、なにもなかったことにしたほうがいい」
ファイノンのお人好しすぎる結論にいささか不満が残ったが、そもそも直接影響のない俺が余計な口出しをして拗れさせたというのが現実でもあり、これで手打ちとするべきだろう。
終わらせたがっているファインの思いを尊重すべきだった。
*
なんとも言えない空気を断ち切ったのは、アルセンの「旦那様!」と言うやや慌てた声だった。なんだ、と全員がアルセンを見つめれば「そろそろお時間が
……」と時計の文字盤をオルクスに見せる。
三十分と決めていたが、ぎりぎり時間が過ぎており、晩餐会が迫っていた。主人がいつまで経っても姿を見せないとなれば、招待客を不安にさせてしまうだろう。オルクスはセレネを抱え、舞台とオルクスの楽屋の片づけをアルセンや使用人たちに任せると、先に屋敷へ戻ってもらうことにする。ファイノンと俺は楽屋と舞台袖の「祭壇」を恐ろしい速さで回収し、俺が「おまじないセット」を持ち、ファイノンは工具鞄を持って屋敷へ戻る。
慌てて帰還し、部屋へ荷物を置くと、ファイノンと二人で食堂へ顔を出す。晩餐会は立食形式で、オルクスはセレネを抱えたまま招待客に次々挨拶をしているようだった。途中でファイノンが呼ばれ、オルクスが今回の調律師だ、と紹介しているのを横目に窓辺でぼんやりしていると、「あなたがオーリパン先生のお弟子さん? 機会があれば私のピアノも調律して欲しいわ」等と、次々声をかけられているのが聞こえた。数か月後にはまた、ファイノンはどこかのコンサートで調律をしているのだろう、と勝手な想像をしておく。
父上の話をしているのであれば俺もいたほうがいいのだろうが、と思いつつ、話題を振られないよう離れていたが、オルクスが「メデイモス君」と俺を呼びつけたため、諦めて会話に混ざることにする。弟子のファイノンより息子の俺に一瞬話題が移ったが、調律師は目指していないといつもの回答を口にし、ファイノンが「ゴルゴ
―さんと同じ道を目指しているみたいで」と後押しをしたことで、招待者の興味は早々に移っていった。今日の招待者の興味はピアニストか、あるいは調律師だけだったのだろう。
ファイノンとオルクスの視線がおれから外れた瞬間、そっと会話の輪から離れ、窓側にいくつか置かれていた座りの良い椅子に腰を下ろす。
そうしてどれくらいが経ったのだろう。だんだんと会話が聞こえなくなってきているのは、招待客が酔って部屋に戻りはじめているのかもしれない。ぼんやりと窓の外を眺めていると「あ、いたいた」とファイノンの声が聞こえた。音のほうに顔を向けると、疲弊した様子でのファイノンが近づいてきていた。片手にシャンパングラスを持っているのを見るに、今夜は飲んでいるらしい。
オルクスはいまだに晩餐会の中心で、なにやら会話に花を咲かせているようだった。快活で力強い笑い声には、さっき楽屋で見た弱々しい父親の姿はない。眠たそうな顔をしているセレネをマリエが迎えにくるのが見え、視線をファイノンへ戻す。
「酷いな、一人で逃げるなんて」
「逃げてはいない。学生の俺には誰も興味はないだろう」
「まあそう言うことにしておいてあげるよ。君は別に僕や先生みたいにこっちの世界で食べて行こうとしているわけじゃないしね、今のところ」
ファイノンは俺にグラスを持たせると、椅子を持って来て、傍へ座る。瞬間的に緊張した。どういうつもりだ? と思わずファイノンに視線を送るが、ん? と首を傾げられるだけで、俺の気まずさにはやはり気付かない。
「さて、今からちょっと君を叱らないといけない」
「
…………わかっている」
俺の気まずさは、ファイノンからこう言われるだろう、と予測していたわけではなく、全く別の気まずさだった。傍に寄られると、告白を拒絶されたその続きがはじまるような気がしていたが、ある意味では浮ついている俺とは違い、ファイノンは大人として俺の行き過ぎた正義感、あるいは幼い嫉妬心を正そうとしている。
「メデイモス、今回はオルクスさんがああいう性格だからどうにかなったけど、もうこう言うことは本当にやめてくれ。僕が納得してるんだから、君にも我慢してもらわないと」
悪い噂がつけばこのような仕事は減るだろう、とふざけたことを口にする準備もしていたが、やはりそのようなことは言えなかった。順当に仕事がなくなるのであればまだしも、悪い噂で仕事が減るのはファイノンの望むことではないに決まっている。父上の弟子としての縁で依頼が来ているのであれば、仕事の失敗は父上の名に傷が付くと感じてる男だろうと感じていた。
「わかっている。もう二度と余計な真似はしない、と言うより、お前の仕事についてくるような真似は控える」
「いやそれはまあ、場所とかタイミングとか、内容によって話し合っていこう。ま、君が僕のことを保護者としてかなり評価してくれてるってことがわかったのはよかったけどね。誕生日祝い、そろそろされたくないかなと思ってたけど、本当に嬉しがってたんだ」
「
……誕生日を忘れないのは大事だ。特に、俺のように両親が自宅にあまりいなかった子どもにとってはな」
最も俺にはお前がいたが、とは、口にせずともファイノンはわかってくれるだろう。
今回、セレネがあのような真似をしたのは、俺にとってのファイノンのような存在が彼女にはいなかったからだと感じていた。
「僕はずっと、うまく君の保護者をやれていないような気がしてたんだ」
「そんな風に思っていたのなら、お前との同居を了承していない」
鼓動が耳の中でうるさく響き始め、膝の上で拳を握る。何故こんな話題をここでする気になったのかがわからない。ここでは今まで通りでいよう、と言ったのはお前のほうだろう。
視線をファイノンへ向けられず、顔を窓の外へ向ける。ファイノンは俺の態度に気づいているのかいないのか、独り言のように言葉を続ける。
「僕のことが好きだなんて、全然気づかなかった」
そういうこともあるのか、と感想なのか、そうではないのかわからない言葉に、無視をするべきか、それとも言葉を連ねるべきか悩む。酒を飲んではいたが、酔っているようには見えない。
「
…………それは遠回しに俺をもう一度振ってるのか?」
「保護者としてはね」
囁くような声に、ぞわり、と肌をやすりで撫でられたような奇妙な感覚がする。ファイノンの低い声に鼓動が跳ね、息苦しさを覚えていた。突き刺さるような視線が頬に注がれていることに気づき、ごく、と唾を飲み込んだ。
「それはどうい、」
「あ!」
ファイノンの重苦しい雰囲気に恐る恐る真意を尋ねようとした瞬間、ファイノンが声を上げた。
「な、なんだ急に」
「お酒飲んでる?」
「は? ああいや、まだ飲んでいない」
「ようやく二十歳になったんだから、せっかくだしオルクスさんの秘蔵のお酒を飲んでおこう。もらって来てあげるよ」
*
「先生は結構お酒強かったんだけど、メデイモスは違うのか
……」
たかがシャンパンとワインの一杯ずつでこんな風になるとは思わなかったな、とファイノンは肩を担ぎ、ようやく部屋へ引きずってきたメデイモスをどうにかベッドへ下ろした。
汗をかいているだろうからシャツだけでも脱がせてあげたほうがいいだろうか、と赤い顔で眠っているメデイモスのボタンに手を伸ばし、そこでようやく躊躇した。今までは年の離れた弟か、あるいはほとんど自分の子どものような気持ちで接していたはずだった。その認識が壊されたのは数日前のことで、変に意識してしまっているな、と反省もしている。保護者のままでいてやりたいと、大人として拒絶するべきだと理性や倫理観が強く訴えかけてきているのも事実だったが、それと同時に、もう子どもではないのだし、血のつながりもない赤の他人なのだから、一人の人間として真剣に向き合ってやるべきだ、とも感じていた。その二つの感覚が、今はまだ混ざっている。
「んん
……、ファイの
……ン
……」
「うんうん寝ていいからね。明日はゆっくりだし、はいおやすみ」
意識してしまうと困るな、とファイノンは一度自分の頬を叩き、ふーっと息を吐く。
下心なんてない、と言い聞かせ、風邪を引いた子どもの服をきがえさせるような気持ちで、シャツとスラックスを脱がせ、初日にメデイモスがそうしてくれていたように、バスローブをなんとか羽織らせると、ベッドにきちんと横たわらせる。
ベッドに腰を下ろしたファイノンはすうすう、と赤い顔で胸を上下させるメデイモスの顔をしばらく見降ろし、「いつの間にか君ってこんなに大きくなってたのか」、と今更気が付いたように息を吐き、目と何度か擦る。子どもだとずっと感じていたはずの彼はいつの間にか自分と背丈も殆ど変わらなくなっていて、大きく丸かった瞳は成長するにつれて切れ長に吊り上がり、母親譲りの美貌へと変わっている。その事実をようやく真正面から受け止め、メデイモスの腹にそっと手を置く。
「
……困ったな」
*
スティコシアの海辺を観光するという話をしていた、俺がようやく動けるようになったのは昼頃のことだった。酒を飲んでも記憶は飛ばないタイプのようだったが、シャワーを浴びてもかすかな怠さが残っていた。それも水分を余計に取るうちに消えていったが、あまり酒を飲まないほうがいいらしい、と自覚する。
海を見るだけ見に行くかい? と言われたが、まだ夏季休暇期間中の俺と違い、ファイノンは明日は会社へ出勤し、その翌日から三日間休みだと聞いていた。今日は長居をせずに、早めに帰るべきだろうと感じた。
結局は屋敷で昼食をいただき、オルクス邸を後にした。
スコートは結局どうしたのか思えば、記事をまとめに出勤するだとかで、早朝に屋敷を出たらしい。最後までよくわからない男だったが、オルクスとスコート、それからマリエのことは俺は考えるべきではなく、忘れるのが得策なのだろう。
帰りも行きと同じく、ファイノンの運転で来た道を戻る。
帰りは渋滞にはまることもなく、家の近所までスムーズに帰れていた。帰り道の殆どを眠ってしまっていたが、寝るのにも飽き、隣のファイノンを眺めたり、窓の外を眺めたりしていた。
ファイノンと俺の間に流れる空気は、告白をする以前とも、昨日までとも少し違っているような気がした。ファイノンに意識されるようになったと感じていたが、それがいい意味なのか、それとも悪い意味なのかは、今は判別できない。
夕食はテイクアウトしよう、とファイノンが口にし、時折利用する羅浮風料理店の前で車が止まる。辛すぎるものはやめてくれ、と念のため注文つけておくと「そんないじわるとすると思ってるのかい?」とファイノンが笑う。しないとは言い切れないだろうが、と過去に何度か激辛料理を騙されて口にした記憶を思い出しながら答えると、「しないしない」、とファイノンが嘘っぽく笑って店へと言ってしまう。
待つ間、スマートフォンを確認すると、ヘファイスティオンたちからグループメッセージが届いていた。誕生日祝いを行う場所と食事の店の候補がいくつか上がっていたため、「辛くなければお前たちの食べたいものでいい」と返信しておく。祝ってもらうのは来週の予定だったが、事と次第によっては、明後日にでもだれかと話をして気を紛らわせたいと感じているかもしれなかった。例えば、帰宅してファイノンときちんと話しあった結果、本当に無理なのだと俺が悟ってしまった時には。
ファイノンが料理を買って戻ってきたのは十五分程後だった。出来立てのいい匂いのする料理が後部座席に置かれ、車中でファイノンと俺の腹が鳴る。
「メデイモス、洗濯ものとか、明日でいいと思わないか?」
「ちょうどそう考えていたところだ。シャワーは浴びておきたいが」
駐車場で意見が一致し、料理と車中に残しておけない荷物だけを回収して、帰宅する。
「工具の確認はしておきたいから、先にシャワーを浴びておいで。もっとも、僕もすぐに終わらせて汗を流したいから、手短にね」
住み慣れた場所へ戻ったからか、ファイノンの態度は車中ともまた異なり、「いつも通り」に戻っている気がした。それがありがたいような、やはり脈がないのか、と改めてわからされたようで、少しだけ落ち込む。しかし即座に、諦めると決めたわけではない、と思い直した。
とは言え、二度目の告白とは一体、いつであればしてもいいのだろう。今夜もう一度、逃げ場のないこの家で伝えれば、ファイノンは考えを改めてくれるのだろうか。
悶々と考えながらシャワーを浴び、ファイノンと入れ替わる。すれ違い様にファイノンから微かに香水の匂いがした。それは、普段かファイノンが使っているものだったが、何故かこの数日間はそれを意識することがなかった。見知らぬ土地で緊張していたせいかもしれない。
さっぱりした顔でシャワーを浴びてきたファイノンは、髪も碌に乾かさずにタオルを首にかけたまま食卓についてる。それを咎めようとした瞬間、腹が鳴り、「早く食事にしよう」とファイノンが笑った。
食事を終えた後、ファイノンは念入りに工具の掃除や点検をしはじめてしまったため、てっきり話し合いをするのだろうと思っていた出鼻をくじかれたような気分になった。さすがにその気がないにしても、なにもわざわざ疲れている今日、この日に俺を振らなくていいだろう、とファイノンは判断したのかもしれない。本当にまるで、何事もなかったのように一日が終わりそうになっていた。
明日も仕事ならそろそろファイノンも寝る時間か、と時計に目をやり、俺も部屋に戻って寝るか、とソファから立ち上がる。歯を磨いていると、遅れてファイノンがやってきて、同じように歯を磨く。
おやすみ、と声をかけ、それぞれの部屋へわかれようとファイノンに背を向けたその瞬間、
「なあ、」
――と、聞いたことのないトーンで、ファイノンが声をかけてくる。全身が一気に総毛立つ感覚に、喉がわななき、視界が揺れる。じっとりとした、味わったことのない、ねめつける様な視線を感じ、居心地の悪さにひくり、と喉が鳴りかけた。異様な雰囲気に体が硬直するが、空気に飲まれるべきではない、と気合を入れなおし、なんだ、と振り返りる。
「おいで」
何故かファイノンは俺の手を引き、リビングのソファへ連れてくると、座って、と静かな声で口にした。大人しく腰を下ろすと、俺のすぐ隣にファイノンが腰を下ろし、さて、と静かに口を開く。妙に近い座り方にぎょっとし、ゆっくり離れようとすると、ぐっ、と腰を強く抱き寄せらせられ、瞬間的に混乱する。肩や胸、それから抱き寄せられた腰にファイノンの体温を強く感じ、緊張からなのか、あるいはなにか期待からなのか、じわじわと体温が上がる感覚がした。
ファイノンがそんな風に俺に触れてきたことは今までになかった、ような気がした。
この腕はなんだ? 思わず、腰を掴む腕を凝視し、頬や肩に触れるファイノンの体温を意識しないようにした。しかし、そうしようと思えば思うほど意識してしまい、鼓動がどんどん早くなって行く。
「メデイモス」
じっとりとした、囁くような声でファイノンが俺の名前を呼ぶ。じわじわと熱が鼓膜から頭の中心に届き、そこからまた全身へと広がっていく。心臓がうるさく跳ねて、皮膚を破り、いますぐ飛び出してしまいそうな気がした。勿論それは錯覚なのだが。
「もう一度僕に好きだって言ってくれないか? 僕は僕の常識を作り変える必要がある」
その言葉に、顔を上げた。ファイノンは瞳を細め、ぞっとするほど美しい青い瞳で俺を見下ろしている。腰を掴まれたまま、そっと顎を持ち上げられ、唇をゆっくりと親指の腹で撫でられる感触に、びくっ、と体が震えた。