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ながひさありか
2025-10-31 03:16:47
18064文字
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STR-Phaidei
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クロージョライ4
・調律師×音大生
・仕事/事件/失言
4.
翌朝、手探りで目覚ましを止めた俺がベッドから起き上がるのと、ファイノンが奥のシャワー室から出てくるのは同時だった。
「おはよう。もう少し眠っていてもいいのに、君は早起きだ」
「
……
おはよう」
顔を見た瞬間少し身構えてしまったが、ファイノンの態度はいつもと変わらない。
昨晩、ファイノンにはっきりと拒絶されたと思っていたが、実際はなかったことにされたのだろうか。気まずいよりはいい筈だというのに、何故かそうされるよりも傷ついた気がし、その感傷にそっと首を傾げる。
朝食は手短にすませたいから、と部屋へ用意してもらうよう頼んだとファイノンが言うので、運ばれてくるまでの間、着替えて庭を散歩することにした。
ファイノンは部屋で調律工具の確認をしていたが、散歩に出てくると告げた際、背中に視線を感じたので、何かあれば携帯に連絡が来るだろう。
「
……
やはりせめて最終日にすべきだったか」
ここに来るまでに何度も考えて実行した告白だったが、やはり後悔していた。ファイノンが断るわけがないだろうと何故か信じていたせいもあるだろうが、昨日のやりとりを思い返して珍しく落ち込んでいる。同居までしているのに? と親友に呆れられそうだったが、これでも何年も、言わずに我慢していた。
なんとなく、自宅でもなく、旅先で、二十歳を迎えようとしているこの時であれば、大人として対等に見てもらえるような気がし、このタイミングなら言えると感じていた。
ファイノンが好きだと気づいたのは十七の時だった。隣のクラスの同級生に告白をされ、真剣に考えた末に断った。理由はファイノンに抱くような、「なんでもしてやりたい」という衝動が何一つとして湧かなかったからだ。
ファイノンは仕事が出来、家事も悪くはないが、両親が死に、同居を始めてから、時折すべてを放り出して部屋から出てこなくなるような男だということを知った。幼いころはそのような片鱗はなかったが、四六時中同居していたわけではないのでわからなかったのだろう。
好きになった「きっかけ」の候補はいくつもあり、逆にこれだという決定打が見つからない。気づけば好きだと「わかって」いて、同居をはじめてから料理をはじめとした家事を覚えたのはファイノンに必要だと
――
広義の意味で、好きだと思われたかったからだろう。
十七で「なんでもしてやりたい」と思うようになってから、二十歳になったら告白しようとずっと考えていた。十六年上のファイノンから見れば十代の俺は子どもかもしれなかったが、成人すれば関係がなくなるだろうと思ったからだ。
「あれで驚いているだけ
……
、と言うことは、ないか
……
?」
とはいえ、一度の告白で諦めるつもりは毛頭ない。「時には欲しいもののために粘ることも大事ですよ」、と生前母上が言っていた。諦めなければいつか活路が開ける、と言うのが家訓だった。
「
……
ん?」
気持ちを切り替えて部屋へ戻ろうとすると、スコートが昨日と同じく苦々しい表情をしながら、きょろきょろ辺りを伺っているのが見えた。声をかけようかと迷っているうちに、奴がどこかへ走って行く方が早い。
「なにもないといいが」
昨日、あの男の口にしたことが少しだけ気になっていた。
「ファイノンには報告しておくか」
まだファイノンと会話をするのは気まずかったが、やはり妙な予感がする。コンサートをぶち壊しにする度胸があるとは思えないが、追い詰められた人間がなにをするのかはわからない。
*
「どこまで行ってたんだ!? スマフォに連絡したのに出ないから
……
」
「? 言った通り、庭で散歩をしてきただけだが」
部屋へ戻ると、俺の気まずさなど知らないかのように、ファイノンが起こっているのか、あるいは慌てていたのか、語気を強めて俺に詰め寄ってくる。端末の電源はいれていたはずだが、と上着やボトムのポケットを探り、持って出なかったことに気づく。
「どうやら置いて出てしまったらしい。何かあったか?」
俺の疑問に、ファイノンはややばつが悪そうな顔をし、いや、と首を振る。
「予定を伝え忘れたなと思ってただけだよ。今日は午前にゲネをして、午後はオルクスさんがホールで練習を続けるそうだから、僕は一日ホールにいる予定だけど、君はどうする? 練習中に気づいたことを調律に反映して欲しいみたいでね」
「そうだな、」
ゲネは見るつもりだったが、ピアニストの練習に付き合うほど、オルクスにもピアノにも興味はなく、その上ファインを黙って見ていることを想像すると、嫌ではないが複雑な気分だった。ファイノンは恐らく、俺を傷つけないために態度を変えないようにしているのだろう。もしかすると「大人」はそう言うものなのかもしれなかったが、恋愛の経験値がない俺にはその態度を優しさだと受け取るのはまだ難しい。
「車を借りてもいいか? 海を見てくる」
スティコシアのビーチはデートスポットとしても有名だったので頭に入れてはいたが、ファイノンの自由時間を考えても二人で行くのは難しいだろうと考えていた。泳ぐつもりもなく、そもそも水着は持ってきていなかったが、せっかく海が近いのだから、一人でスイーツの有名店巡りぐらいはしてもいいだろう。
「
……………………
」
「お前が使う予定があったか? それならばバスかタクシーを検討するが」
何故かサッと顔色を青褪めさせ、ファイノンが奇妙に押し黙る。道中も車の運転をさせたがらなかったな、と考えていると、「うーん、そういうわけじゃないんだけど」と難しそうに眉を寄せる。
ファイノンは海に嫌な思い出でもあっただろうか、と腕を組み、過去を振り返ってみるが、そのような話を聞いた覚えはない。
「車を使う予定は今日はないんだけど、」
どう伝えるべきか、と悩むファイノンの表情の意味を上手く読み取れず、困惑する。屋敷の外に行くなということであればはっきりとそう言われるような気がしたが、そういうわけではなさそうにも思えた。
「どうかしたのか?」
「海に行きたいなら、明後日帰りがけに連れて行ってあげるからさ、今日のところはちょっと我慢してほしい」
「もしやお前も近頃バズっているパフェに興味があるのか?」
そう言えば、この男もそれなりに甘党だった。なにしろ休日のたびに「君が好きそうなケーキが売ってた」と買ってきたり、夜中に唐突に俺に「蜂蜜クレープが食べたいんだけど材料なかったっけ? と暗に作れと要求してきたこともあるのを思い出す。
「バズ
……
っ」
「何が言いたい?」
「いや別になんでも。君でもそんな若者みたいな言葉を使うのかと思って」
「
…………………………
」
俺を若者だと思っていないのであれば、昨晩の断り文句はなんだ?
舌先にまでのぼりかけた文句をなんとか堪え、ふん、と鼻を鳴らして呆れたふりをする。ファイノンも一拍遅れて失言だったと気づいたのか、気まずそうに視線を彷徨わせている。
……
馬鹿が。
「あーっと、そう、そうそう! 僕も海でそのパフェ? を食べたいから、どうせなら一緒に行こう」
「構わんが
……
」
下手糞な誤魔化し方だったが、わざわざ指摘して傷つきに行く必要もないだろう。
ファイノンの思惑はよくわからなかったが、暇を持て余しての突発的な考えだったので、今日絶対に行きたいと言うわけではない。
屋敷の図書室で本でも読み漁るか、と考え、「ゲネの後は屋敷で本を読んでいる」と答えると、
「それならいいけど、もし、屋敷の外に行くつもりなら絶対に嘘偽りなく行き先を教えてくれ」
と、妙に真剣な表情でファイノンが言う。果たして俺が今までお前に嘘をついてまで一人でどこかへ行ったことがあったか? と尋ねたくなったが、聞けば不愉快な答えが返ってくるような予感がし、首肯するに留めておく。
*
昨日と同じ時間に用意された朝食を終えると、ファイノンと二人でホールへ向かう。
フ ァイノンは調律工具鞄とは別に、例のお守りセットを持っている。本番当日に運ぶよりは前日のほうが人目につかなくてましだという自覚があるのかもしれない。
帽子を持ってくればよかった、とサングラスをかけなおすファイノンの横顔を眺めながら、額から流れてくる汗を拭う。昨日よりも日差しが強く、通気性のいいシャツを着ていて暑いい。
隣のファイノンは重い工具鞄を持ち、ジャケットは羽織っていないにしても長袖のシャツにベストをつけたスーツ姿で涼しい顔をしている。
「ずっと思っていたが、お前は暑くないのか?」
体温調整能力が高すぎるのか、我慢が顔に出ないのかどちらだ、と暑苦しい姿に、思わず疑問が口をついて出る。
「え? 暑いよ」
ネクタイはさすがに無理だね、と笑うファイノンは袖のボタンをきっちりしめたままで、あはは、と笑う。
「オルクスは知り合いだろう? もう少しカジュアルな服装でも無礼だとは言わないように思うが」
「そうかもしれない。だけど、調律仕事はスーツでやるって習慣付いているというか、一種の験担ぎだから、着ないと落ち着かないんだ。それにほら、ホール内の空調はどうせ寒いくらいに調整するだろ? 手が冷えすぎなくて丁度いい」
「そう言うものか。
……
そういえば、昨日庭でスコートに会ったが」
今朝も見かけた話をし忘れていたが、そういえばそもそも昨日会話をした事を今さら思い出す。
「なにか言われたかい?」
「明日の公演は無事に終わらないでも思っている様子だった。音楽雑誌の記者で、取材で来ているとも言っていたが、なにかしてくると思うか?」
「うーん
……
。なにかしてくる根性も度胸もなさそうだけどな。彼はどっちかというか、雑誌に悪口書くのが関の山だと思う。オルクスさんには伝えておくけどね」
ファイノンはスコートを嫌っているのか、妙に評価が辛辣だった。もしかすると俺には言っていないだけで、過去になにかトラブルでもあったのかもしれない。
*
あまり弾まない会話をファイノンとしつつ、昨日も訪れたホールに着くと、なにやら談笑しているオルクスとアルセンの姿があった。セレネもいるかもしれないと思ったが、彼女の姿はない。
オルクスは仕立ての良いスーツ姿で俺をファインを出迎え、今朝も調子がよさそうに挨拶をする。ゲネだからか、本番さながらの衣装で演奏するのだろう。
「おはようございます。ピアノに気になるところがなければ、いつでもはじめてもらって大丈夫です」
「ピアノには特に問題ないんだが、椅子の座り心地が気になってしまってね」
言葉の通り、オルクスは椅子に座ってはサイドのつまみを回して調整し、再び腰をかけ、なんだかしっくりこない、と言った顔をしている。
「昨日となにか違っていますか?」
眉を寄せたファイノンの口調は、なにか椅子に細工でもされたか、とでも聞きたそうな色声をしていた。もしかすると、「そんな根性も度胸もない」と言っていた割には、スコートのことが気になっているのかもしれない。
「いや昨日は試し弾きしかしていないだろう? きちんと座ってみたら少し高かったのさ」
「そういえば
……
」
「もう少し
……
、よし、こんなものだろう。大丈夫そうだ」
オルクスが椅子を調整し終わると、そのまま軽く打ち合わせをし、そのまま頭からゲネプロを実施するする流れになった。
本番は休憩あり、二幕構成で約二時間だ。ゲネプロは本番同様に通しで演奏し、休憩もし、調律の必要があれば調律を行う。問題なければ昼休憩にして、午後は夜まで練習を繰り返すとのことだった。
「じゃあ本番同様、僕は舞台袖で見てます。それからアルセンくんにちょっと話が
――
」
工具鞄一番目の席の床に置いたファイノンは、「おまじないセット」を抱えて、空調や照明をいじっているのだろう、先に舞台袖に引っ込んでいたアルセンに声をかけながら姿を消す。
あれを持っていったということは、きっと舞台袖のどこかに「祭壇を作らせてほしい」とでも頼むのだろう。
オルクスはファイノンのあの謎の習性を知っているのだろうか? と疑問が上ったが、俺が知っているくらいなのだから、依頼者には伝わっているのかもしれない。
「俺も舞台袖にいたほうがいいか?」
舞台袖に移動しようとしているオルクスの背に声をかけると、「いやいや」と笑って首を横に振られる。
「一人くらい観客がいたほうが緊張感があるから、君はそこにいてくれ。もちろん気持ちよくなったり飽きたら寝ても構わないよ」
「はは
……
」
俺にウィンクをしながら袖に去っていく男に、どう答えるべきか迷って笑って誤魔化すことにした。ファイノンが時折そうしているので、その受け売りだ。
しかしオルクスの言った通り、飽きるか、演奏が上手すぎれば睡魔との戦いにはなるだろうと感じていた。俺がピアニストを目指さないことを両親が許容していたのは、恐らく、コンサートでかなりの確率で眠ってしまっていたからだろう。
オルクスが舞台袖に引っ込むのと同時に、客席の照明が落ちる。当日もアルセンが司会をするのか、「演奏に先駆けまして
……
」と影ナレが聞こえてきた。
慌てて三列目あたりに座り、行儀がわるいが、と思いつつ、端末を取り出し、液晶の明かりを一番暗くくする。撮影しておいたプログラムを写真フォルダから探し、曲順を確認する。
一曲目は「古風なメヌエット」だ。
舞台袖から小さく拍手が聞こえ、端末を隣の席に置いて俺も拍手をする。
袖からオルクスが出てくるのに合わせて、舞台上が明るくなり、オルクスがステージの前方で一礼する。表情はいつもとあまり変わらず、ずいぶんとリラックスしており、晴れやかな笑みを浮かべていた。これがオルクスのいつもの雰囲気なのか、やはり本番ではないからなのかは俺にはわからない。
オルクスが椅子へ移動し、拍手をやめる。
無音。緊張感が肌を刺すように感じるのは、室温がずいぶんと引くいからだろうか。
椅子に座ったオルクスは、一呼吸ついてから鍵盤に指を置く。二秒ほど瞑目し、すっと小さく息を吸うのが見えた。
最初の高い和音が鳴らされ、指が軽快に踊りだす。
古風なメヌエットはタイトル通り、作曲された時代から考えれば、かなり古い伝統的な形式のメヌエットだ。ただし音の響きは古典的ではなく華やかで、最初は短調からはじまり、第二部で長調に転調し、また短調へ戻る。第二部は最初と違い、やや音の動きが単調になる。そしてまた主題へと戻ってくる
――
という構造だ。
楽譜で見た時よりもずっと弾きづらい曲だと聞いた記憶があるが、当然のように、素人耳で聞く限りは特に危ないところは見つからない。
オルクスの演奏は危なげなく進んででいた。
高音の華やかさ、繊細さ。低声部のどっしりとした重み。強弱のメリハリ、メカニカルなパートの正確な指さばきと感傷的な旋律の表現、ラヴェル特有の美しい和音の響きが巧みな演奏だった。
…………
眠気を飛ばそうと、覚えている限りの知識を思い出していたが、休憩前の最後の曲に差し掛かった瞬間、ガクッと首が落ちる。
――
上手すぎて眠い。
オルクスは寝てもいいと言っていたが、かといって本当に寝られるのはさぞかし気分が悪いだろう。なんとか瞼を持ち上げようと奮闘するが、寝るな、と言い聞かせれば言い聞かせるほど催眠術のように、音の本流が眠気を誘ってくる。
こうなると音がうるさいだの激しいだのは一切関係がなく、とにかく眠い。
クラシックはつまらないから眠くなるのだと宣う輩もいるが、俺から言わせれば音の気持ち良さに負けているだけだと思っている。とどのつまり、オルクスの演奏は耳に心地よく、恐ろしい睡魔との闘いだった。
二の腕に爪を立て、なんとか眠気を振り切るために、プログラムを思い出すことにする。
休憩前の最後の曲は組曲「鏡」の一曲、「道化師の朝の歌」だ。全五曲からなる組曲「鏡」の中でもとりわけ有名な四曲目で、今回オルクスが選んだように、単独で演奏されることも多い。
作曲者の祖国の伝統的なリズムが特徴的に用いられているが、音の色彩はモダンな展開をしており、そのギャップがしゃれている。
いつか読んだ楽曲解説の記憶を辿り、なんとか意識を保つ。しかし教会の構造を模したホールの反響音が耳に心地よく、だんだんと自分の体が解けて、音に合わせて好き勝手に再構築されていくような感覚があった。柔らかな和音の反響音、緊張感を伴う不協和音と低音、粒のそろった高音のトリル、後半の一音ずつ聞き取れそうなほど美しいグリッサンド、淀みない主題の繰り返し
……
。
無音。
はっとして、慌てて拍手をする。
最後の最後で意識が落ちていたらしい。眼前のオルクスが笑いながらお辞儀をし、袖に引っ込んだのが見えた。
……
寝ていたとバレたか?
客電が点き、アルセンが袖から顔を出す。
「本番同様、ここから十五分休憩いたします」
その声を合図に、椅子から立ちあがって思いっきり伸びをする。眠気を振り解くために軽く腕を回して腰を捻っていると、袖からぼそぼそとファイノンが話している声が聞こえた。
そういえば、「祭壇」は作ったのか?
どうでもいい疑問が浮かんだが、オルクスの反応がないことを考えると、まだバレていないか、
作っていないかのどちらかだろう。
「
……
眠い」
ホールを出て、少し歩いてみたほうがいいかもしれない。
扉に手をかけ、勢いよく引く。誰かが慌てたように、息を飲む音が聞こえた。
「っ!」
「すまな
……
スコート?」
「ちっ
……
」
「なんだ
……
?」
驚かせてしまったことを詫びようとしたが、扉を開けた先にいたスコートは舌打ちをして走って消えてしまった。
ゲネから聞いていたが、オルクスの演奏は大したことがなかった、とでも書くつもりだろうか。それなら堂々と聞きにくればいいものを、オルクスも「是非聞いてくれ」と言いそうだが、と考えつつ庭に出、奴の姿をなんとなく探してみたが、スコートが帰ってくる様子はない。
たったの五分程度だったが、あまりの暑さに早々に汗が吹き出していた。大人しくホールに戻り、涼むことにする。
ホールに戻ると、先程までついていた客電は既に消えていた。
休憩時間を過ぎていただろうか、と思いつつ同じ席へ戻ると、二列前、最前列のセンターにアルセンが座っている。
「おや、後半もお聞きになりますか」
「ああ。お前も後半は観客役か?」
「はい、旦那様に観客役は多い方がいいといわれまして。ですので、照明は消して来ました。ただ私は昼食の準備がありますので、三十分ほどで屋敷へ戻らせていただきますが」
そうか、と答えた俺の耳に、舞台袖から拍手が響いてくる。ファイノンが袖でオルクスを送り出したのだろう、と思いながら、俺も拍手をする。
前半と同じく、オルクスは袖からステージの前へ出、一礼する。
椅子へ座り、鍵盤に手を置く。
小さく息を吸うところまで、全て同じだった。
*
演奏は後半も滞りなく進む。
アルセンは宣言通り途中でそろりとホールを抜け出したが、オルクスがドアの開く音に反応する様子はなかった。
俺はと言うと、三曲目で再び眠気に襲われていたが、四曲目、三曲続きの「夜のガスパール」の二曲目、「絞首台」の演奏がはじまって、唐突に目が覚めた。
ファイノンが「落ち込んだ際に聞く曲リスト」のうちの一曲だったからだ。
奴はマタイ受難曲を延々とリピートしていることが多いが、時折別の曲を聞くこともあった。なにかの基準でリストを作っているらしく、マタイ受難曲のように全曲を通しで聞かないものは、わざわざ編集してストックしているようだった。
俺がこれを聞いた時のラベルはたしか「②」とだけ走り書きされていて、収録曲は半分も分からなかったが、突然のなんの曲だったのかわかってすっきりした反面、タイトルに複雑な気分になってしまった。
俺は医者でも心理学者でもなく、そのどちらを目指しているわけでもない。故に、ファイノンが落ち込んだ際に暗い曲を聞くのが実際問題、精神衛生にいい影響があるのか、悪い影響があるのかはわからない。「落ち込んだ時は僕はホラー映画を見るよ」、と言う奇特な友人を知っているが、果たしてファイノンのあれもそう言うものなのだろうか。なにで恢復するかは人それぞれだろうとあまり深く追求してはこなかったが、改めて考えると、やや不安になるような気はした。
気が向けば音楽療法士の勉強をしてもいいのかもしれん。
……
そんなことを考えいると、低く忍び寄るような低音と、なにかが早足で近づいてくるような連打音が始まる。
「夜のガスパール」第三曲「スカルボ」。
寝室に忍び込んできた妖精スカルボが暴れる激しい連打音と、部屋を飛び跳ねる様子を表すかのような高音が続く。鍵盤の上を縦横無尽に指が跳ねて、どんどん音が激しさを増して行く。
――
のを見ながら、なるほど、と行きがけの車中でファイノンが嘆いていた顔を思い浮かべた。確かにこれだけ激しい連打が続くと、弦が切れてもおかしくない、のかもしれない。舞台袖で今頃ひどい顔で「お祈り」をしているのであろうファイノンの顔を想像し、仕事の時くらいは祈ってやるべきか、と俺も膝の上で手を握りしめる。
果たしてファイノン(と俺の)祈りが通じたのか、「スカルボ」の最後の一音が弾き終わってオルクスが席を立つまで、ピアノは弦が切れることはなかった。
緊張で詰めていた息を吐き、オルクスが袖に消えるまで拍手を続けた。
屋敷に戻って昼食にするとファイノンに伝えて帰るか、と考ていると
――
。
「ぶわははははは!」
オルクスの大爆笑が、ホールにこだまする。
「
……
普通はそうだろうな」
要因にすぐ思い至り、腕を組んでため息をつく。「祭壇」か顔色の悪さか、あるいはその両方がバレたのろう。
「ファイノン君、もしかして君は毎回そんな風に祈ってるのか! そりゃあ、オーリパンも『心配性で心配だ』というしかないな」
「
……
弦が切れなくて安心しました。それで、ピアノになにか不満点は?」
腹を抱えて笑いながらステージに戻ってきたオルクスに続き、不満そうな、微かに恥じの感情を混ぜた顔をした表情のファイノンが出てくる。
ファイノンの手にはロザリオと数珠と木彫りの人形というめちゃくちゃな組み合わせがあり、オルクスは意外と笑い上戸なのか、ピアノの椅子に手をつき、体を震わせて笑っている。
正気か? 宗派もなにもかもめちゃくちゃだろう、と俺も何度かファイノンに尋ねたことがあったので、特にファイノンのフォローはしない。
「くく
……
っ、聞いていたよりずっと面白い、しばらく夢に見て笑ってしまいそうだ」
笑いの収まらないオルクスの姿に呆れるよりも、ファイノンが恥ずかしそうな顔をしているほうが気になってしまう。さすがになにか口をはさむべきか、と考えていると、「いやいや、すまない、君が真剣に向き合っていることはわかったよ」と口許をひくつかせながらオルクスがファイノンに向き直る。
「少し調整してもらいたいこともあるが、昼食の後にしよう。笑って集中が途切れてしまった」
「それは悪いことを
……
」
「ふっ、く、くく
……
ふ、ファイノン君、と、とりあえず両手のそれをしまって来なさい。このままだと笑い死にしてしまいそう、ふ
……
っ、くく」
「そこまで面白くないですよ」
だよな? と唐突にファイノンが俺に顔を向けたが、思わず視線を反らして聞こえなかった振りをしてしまう。「面白い」と言うよりは「珍妙」だろうと俺は考えているが、どうやら世間一般的な反応ではないのかもしれない。
目尻の涙を拭っているオルクスに、ファイノンが努力して愛想笑いを浮かべている。
お前のその妙な心配性はがもう少し落ち着けばいいのだが、と心の中で祈りつつ、ようやく椅子から立ち上がり、凝り固まった体をほぐす。
「アルセンが屋敷で昼食を準備しているはずだから
――
ファイノン君、工具はそのまま置いたままでいいぞ。確かとんでもなく重いんだろう」
調律用の工具鞄を持って屋敷に戻ろうとしたファイノンを、オルクスが制した。調律師の工具鞄は確か十キロ近くあると昔父上から聞き、俺が持つのは禁じられていたので、オルクスの言葉も当然だろう。
「でもまあ、商売道具なので」
「何時間も置くわけじゃないし、誰も触らないだろう。ここ数日君たち以外に誰が来たというんだ」
「それはそうかもしれませんが
……
」
「
……………………
」
セレネやスコートはホールの入り口まで来ていたが、と二人の名が浮かんだが、敢えて口をはさむようなことではないのかもしれない。オルクスは来訪を知らないのか、それとも知っているが俺たちに言及するほどのことではないと考えているのかもしれない。
ホールの鍵はあるにはあるらしく、アルセンが持っているようなので、どのみち今は屋敷にある筈だった。
ファイノンは暫く鞄を置いていくのを渋っていたが、結局オルクスに押し切られ、鞄を置いて一緒に屋敷へ向かう。
*
「たしかこの中に
……
」
人気が去ったのを確認し、記憶の中にぼんやりとあったものを探す。
物音が随分と大きく聞こえ、今にも誰かが戻ってくるのではないかと心臓が大きく音を立てている。息が切れて苦しい。それでも、やめるわけにはいかない。どうしたってこれは必要なことだった。
空調が聞いているはずなのに、緊張からか汗が額から頬を伝い、指先が震えている。
あった。多分これだ。
ようやく目についたそれを手にし、扉を振り返る。足音はしないし、扉が開く気配ももない。室内は空調と照明のジーッという音だけで、それ以外は自分の荒い呼吸だけが聞こえている。
恐る恐る椅子から乗り上げ、そっと、細そうに見えるそれに手を伸ばす。どの程度力を込めればいいのかはわからなかった。だから、ふーっと息を吐き、ぐっ、と渾身の力を込めた。
「
――
……
、っ、
…………
、っ
――――
!」
ぶちん、と金属音が何度か響き、成功した、と考えたその瞬間、耳のすぐそばでヒュッと風を切るような音がした。
*
昼食を終え、本でも読もうかと思っていたが、食休みの散歩がてらオルクスとファイノンについてホールに戻ってきていた。
妙な胸騒ぎがする、と感じ、それが当たらなければ良いが、と考えていたが、おや、とオルクスが訝しむように首を傾げる。
出ていく際にきっちり閉めたはずの扉が少し開いている。何故だろう、と思えば、小石が挟まっているようだった、
「出てくる時に締め忘れたか、自然に開いてしまったかな」
首を傾げるオルクスに、ファイノンが何かを考えこむような顔をした。ホール内は扉がきっちりと締まりきっていなかったせいなのか、室温が生ぬるくなっていた。肌にまとわりつく熱の不快感が、嫌な予感を加速させる。
「な
……
っ」
ファイノンと共にホール内を確認していると、ファイノンがピアノの前で声を上げていた。どうした、と慌ててステージまで近づけば、最前列の通路床に置かれていた工具鞄が開いている。確かに、出てくる前はきちんと閉じられていたのを俺もオルクスも確認している。
「
……
切られているな」
オルクスがピアノを見つめて、呆然と呟いた。
「道具は僕の物みたいだ」
ファイノンもピアノを睨みつけたまま、静かな声で口する。
切られている? 不吉な言葉に恐る恐るピアノへ視線を向けた。
「これは
……
血か
……
?」
ステージに上がり、ファイノンやオルクスとピアノを観察する。そうでなければよいが、と飛び出していた細長いそれの正体を認識しないようにしていたが、残念ながら予測は外れない。
鍵盤の蓋をオルクスが閉めた記憶はなかったが、鍵盤の蓋が何故か閉まっており、いくつかの弦が数本切られていた。金属盤には微かに血の痕が残っており、無事な弦の上には、「犯人」が驚いて投げ出したのか、ワイヤーカッターが転がっている。
確かに、これはファイノンのものだ。
「ひとまず他に損傷個所がないかを確認します」
「まさか
……
、本当に『彼』がやったのか?」
「
………………
」
呆然とオルクスがこぼした言葉を、ファイノンは拾わなかった。スコートを嫌っている様子だったのに同調しなかったのは、『そんな度胸ないんじゃないかな』と評価していたからだろうか。
「ピアノの蓋は、オルクスさんが締めましたか?」
いや、と首をふったオルクスの目の前で、ファイノンが汚れが気になったのか、あるいは傷でも見つけたのか、そっと鍵盤の蓋を撫でる。
動揺していたのか、何もできることのない俺は呆然とピアノを見つめたまま硬直していた。
ピアノの内側を真剣に覗いていたファイノンが顔を上げ、俺にピアノから離れるよう目で示す。普段の人好きのするお人好しで押しの弱そうな男の真剣な表情に、場違いだと分かっていながら、どくん、と心臓が跳ねてしまう。
ファイノンはそんな俺の胸中には全く気付かず、すぐにオルクスへと視線を向ける。
「ざっと見た限りでは弦が数本切られた以外に損傷はない
……
、と思います。念のため全てチェックしますが」
「切れているだけなら張り直しでどうにかなるか?」
不安そうなオルクスに、一応は、とファイノンが言葉を濁さずに言う。
「釈迦に説法でしょうが、張り直したばかりの弦は伸びやすくどんどん音が狂うので、そこが不安点かなと。明日もギリギリまで調律したほうがいいかもしれない」
「それは仕方ない、と言うかわかってさえいれば弾き方を変えよう。一部の打鍵を調整してもらいたかったが、弦を張り直すついでに直してもらえるだろうか」
「それは問題ありません。ひとまずチェックして弦を張り直しますので、一時間ほど時間をください」
動揺したままのオルクスに、ファイノンは表面上、淡々と言葉を続ける。トラブルが起きるのが嫌なんだ、と調律仕事を引き受けるのを嫌がっていた割には切り替えが早く、その姿を妙に誇らしく感じていた。
父上は有名な調律師で、そんな父に師事されたいと申し出た者も多かったそうだが、結局、弟子はファイノンしか残らなかったようだ。弟子はファイノンしかとらなかった、と生前父上は俺に言っていたが、真実はそうではない。母上は「オーリパンは厳しい人だから、ファイノン以外逃げ出してしまったのです」と笑いごとではないだろうに笑っていた。
俺は父上の跡を継ぐ気はなく、調律師の仕事にも然程関心が持てなかった。誰に何を言われようとも、ファイノンが父上の弟子であればいいのだとずっと考えている。だが、興味や関心はなくとも、真摯に仕事に向き合うファイノンの姿を幼い頃から傍で見ていた。その姿勢を尊敬している。やりたくはないと言いながらも、最後までやりきる責任感のある男だと思っていた。だからこそ、俺はファイノンを好きになったのだろう。
「君の忠告通り鍵を取りに行けばよかったな
……
」
肩を落とすオルクスに、ファイノンはまぁまぁ、と慰めているつもりなのか、場違いに感じるほど明るい声を出す。
「起きてしまったことは仕方ないですよ。ただ、今夜からはホールに施錠をお願いします」
「ああもちろんだ。アルセンに鍵を持って来させよう」
電話をしてくる、とオルクスがホールを去り、扉を閉める。
「
……………………
さて、メデイモス」
呆然と立ち尽くしていた俺に、ファイノンが困ったように眉を下げて笑っている。
先刻までの張り詰めていた空気は既になく、いつもの、なんとなく情けない顔が似合う、穏やかな男の表情だった。
「見ての通り弦を張って調律しなおすから、君は屋敷に戻っていてくれ。夕食までには多分戻るよ。今日できることは限られてるしね」
「わかった。
……
ひとつ聞いてもいいか」
「うん?」
「夏場は、弦は伸びやすいのか?」
場違いな質問だ、と思ったが、疑問が口を突いて出ていた。
「そうそう。寒ければ縮むし、暑いと伸びやすい。空調効かしてるから多少はましだけどね。
……
――
さて、気を取り直して仕事にとりかかるよ」
「ああ。俺は屋敷に戻っている」
なにか気の利いた言葉をかけてやりたかったが、そんなものは思いつかなかった。
演奏で弦が切れてもファイノンが張り直すことに変わりはなかったが、本番を明日に控えての人為的なアクシデントでの調律し直しと、クライアントのピアノを傷つけたのが自分の工具だというのは恐らく相当ショックな出来事だろう。
クライアントは鞄を置いていけと言い、それを承諾したのはのはほかならぬファイノンだった。オルクスはファイノンを責められはしないし、かといってファイノンも立場上オルクスを責められはしない。ファイノンの性格上、「僕が承諾したのが悪いよ」と自責しているのは明白だった。
ホールの外は相変わらずの灼熱だった。
屋敷へ戻る途中、鍵を持ったオルクスとすれ違い、「嫌な気分にさせてしまってすまない。コンサートは成功させるし、ファイノン君の腕を疑ってはいないから、安心してゆっくりしててくれ」と肩を叩かれる。曖昧に返事をし、のろのろと庭を歩きながら屋敷への道を進む。
食休みを終えた後は、図書室でだらだらするつもりだったが、そんな気分にはなれそうにもなかった。ふつふとと湧き上がる怒りを抱えたまま、庭を散策する。
ピアノを意図的に「壊した」人間への怒りも湧いていたが、それよりもファイノンのメンタルに負担をかけた人間への怒りの方が強い。
怒りに任せて庭を歩き回っていたが、暑さで汗が吹き出し、途中で目が覚めた。せめてホールを覗いていたスコートに問い質すべきか、と奴の姿を探しに、屋敷へと戻る。
*
屋敷に戻ると、部屋で汗を流してからアルセンを探す。一階の立ち入ってもいいといわれている場所を一通り探したが見つからず、諦めて電話をかけた。
「アルセンか。お前に聞きたいことが
――
どうかしたか?」
電話口に出たアルセンのやや焦ったような声の後ろで、少女の
――
セレネの叫び声が聞こえたような気がした。
『お嬢様、おとなしく座っていてください。消毒をきちんとしませんと
……
――
。お待たせしてすみません、メデイモス様、如何なさいましたか?』
やはりセレネがいるらしい。幼い子どもを一人で遊ばせるのは危険だろう、見張っていなくていいのか、と考えていたが、どうやら庭で怪我でもしたのかもしれない。
「スコートを探している。どこかで見かけなかったか?」
『スコート様なら先ほどお出かけになりまして、今夜は遅くなると伺いましたが。言伝があれば承ります』
まさか逃げたか? と一瞬考えたが、それでは自白しているようなものだった。あまりにもわかりやすすぎる気がし、どうにも違和感が拭えない。
「言伝と言うほどのものではない。しかし
……
」
昨日、庭でスコートが口にしていたことが引っかかっていた。聞いてどうする、とは思いつつも、あの男を招待したこの屋敷の人間たちの心情はやはり気になっていた。
「昨日、スコートに妙なことを言われたが、そもそもお前はあの男のことをどう思っている」
奇妙な沈黙が落ち、アルセンが言葉を慎重に選んでいるような空気が伝わってくる。
『
…………
御客人に関して、私の口から余計なことは申せません』
緊張した物言いだったが、アルセンの言葉は正しかった。ファイノンが尋ねれば違った回答があったかもしれないが、たかが学生の俺が聞いてもまともには取り合ってもらえないだろう。
たかが学生、か。昨日のファイノンの困惑する顔が脳裏に浮かび、己の言葉が胸に突き刺さる。
二十歳を過ぎれば大人だとずっと思っていたが、どうやらそれは甘かったらしい。その事実が苦しい。
「それはそうだな、俺が無遠慮だった。
……
それはそれとして、セレネは怪我でもしたのか?」
『え?』
「先程泣いているような声が聞こえたが」
『あ、ああ、そうでしたか。ご心配おかけして申し訳ありません。どうも庭で遊んでいて転んだらしく
……
』
「オルクスは知っているのか?」
『旦那様には鍵をとりに戻ってこられた際にお伝えしております』
「どんな怪我をした? 重傷でないならいいが」
電話口のアルセンの声が硬いままななのは、セレネが怪我をしているからだろうか。もしかすると客人に心配されるのを恥だと感じているのかもしれなかったが、もし時間があれば見舞いにでもいってやるべきかと考えていただけだった。どうせオルクスはコンサートが終わるまでは、碌に時間を割かないだろうと感じていたからだ。
『その、木登り中に木の枝で顔を切ってしまったようで
……
。血も止まっていますし、傷が残らなければいいのですが』
あの庭に少女が登れそうな木はあっただろうか。庭を隅々まで歩いたわけではないから知らないだけかもしれなかったが、そんな疑問よりも、顔を怪我したのであれば、確かにアルセンが動揺するのも無理はないだろう。声が硬いままなのも理解ができる。
いずれにせよ、これ以上は踏み込みすぎだ。セレネも顔を怪我したのであれば、当面、家族以外には会いたくないだろう。
スコートがいないのであれば、俺があれこれ歩き回るのは結果的にファイノンに迷惑をかけそうだと感じ、通話を切る。
図書室にでも行くか、と考えていたが、ため息をつくとどっと疲労を感じた。
たまには惰眠を貪っても構わないだろう、と部屋の温度をやや下げ、ベッドに横になる。
*
「イモス
……
、メデイモス。
……
起きないな。まさか具合でも悪い
……
」
「ん
……
、ファイノ
……
?」
「あ、起きた起きた。よかった、なかなか起きないから熱中症かと思ってちょっと焦ったよ。夕食は食堂でって誘われたけど、部屋に運んでもらおうか?」
「そんな時間か
……
」
と瞼を開けたところで、俺のベッドに腰かけているファイノンに、髪を優しく撫でられていることに気づく。どういうつもりだ? と怒鳴るべきか数秒悩んでいるうちに、ファイノンの手は何事もなかったかのように離れてしまう。熱を名残惜しく感じつつも、混乱する。
昨日の拒絶はどういうことだ? と問い詰めたかったが、今すべきではない、だろう。恐らく。
気づかなかったふりをし、時計を見ると、十九時にを回っていた。
「具合が悪いわけではない。食堂へ行く」
「そう? ならいいけど、慣れない土地だし、君は我慢強すぎるから、無理はしないように。だめそうだったらすぐ僕に言ってくれ。さて、とりあえず夕食にしようか。今日はなんだろうね」
疲れた疲れた、と軽薄な口調で笑みを崩さないファイノンの態度に逆に不気味さを感じ、思わず、部屋を出ていこうとする背に声をかけていた。
「
……
ピアノは大丈夫だったのか?」
「弦が数本切られた以外はね。調律しなおしたけど、明日には音が狂ってるだろうから、明日の午前と本番前に確認するしかない。と言うわけで僕の仕事は今日はここまで、打つ手なし」
肩をすくめて振り返るファイノンの表情をじっと観察してみるが、そこから「犯人」への怒りや憎しみは読み取れなかった。もしかするとうまく隠しているだけかもしれなかったが、今はわからない。
ファイノンに続いて部屋を出、食堂へと向かう。
「そういえばアルセンにスコートのことを聞いてみたが」
「え?」
振り返ったファイノンに顔をぶつけそうになり、慌てて立ち止まる。
「スコートに会いに行ったって?」
「
……
? いや、午後は出かけたと言っていたから、それ以上の接触はしていない」
「なんだ。それならいいんだけど、本当に彼のことは気にしなくていい」
「しかし、」
食い下がろうとする俺に、メデイモス、とファイノンが冷たい声で俺を呼ぶ。背筋にぞわりとした不快な感覚を覚え、ファイノンの瞳に視線を向ける。青い瞳を微かに細めたファイノンは、不愉快そうに、怒りに眉を寄せている。
沈黙したまま数秒見つめていると、ふ、とファイノンが苦笑し、うーん、とこまったように声を上げた。心臓を直接握りこまれたような緊張感から解放され、は、と息を吐く。
「多分彼、関係ないから」
「
――
は?」
「この話はこれで終わり。というわけで、金輪際彼のことは気にしないように。僕たちには殆ど害もないだろうけど、一利もないよ。まぁ、公演が終わったら教えてあげるから、今回のことはこれ以上首を突っ込まないように」
「
………………
」
唇の前で指を立てたファイノンは口調こそ少しふざけたもので、笑ってもいたが、二度と聞かないでくれ、とでも言いたそうな、妙な威圧感を視線から感じた。どうやらファイノンは犯人に心当たりがあるらしい。
大ごとにしたくないということか、と尋ねようとしたが、その問いは言葉にしなかった。
首を突っ込むな、と何度も言われたことを思い出していたからだ。
*
夕食の席にもスコートは相変わらず顔を見せず、顔に怪我をしたと言っていたセレネの姿もそこにはなかった。なんとなく重苦しい空気が食卓に流れているのは、誰かがピアノの弦を切った話に逆に誰も触れていないからだろう。
消化に悪い、と早々に食事を終えて部屋に戻る道すがら、ふいにファイノンが「そうだ」と声を上げる。
「君は露天風呂に入ったんだっけ」
「案外よかった」
「僕も明日はつかろうかな。たまには一緒に入るかい?」
ハ? と反射的に大声が飛び出し、ファイノンがえっ、と肩を跳ねさせる。
「そ、そんな恥ずかしがらなくても
――――
あ」
「
………………………………
」
「
………………………………
」
「
………………………………
」
「ごめん、なしなし、聞かなかったことにしてくれ、今のなし!」
「
………………
喧しい」
こいつは馬鹿なのか? と殴り倒したいのをぐっとこらえ、ファイノンを置いて、走るように部屋へ戻る。
くそ、と舌打ちをし、部屋の鍵をわざとかけてやろうか、しかしそんな幼稚な嫌がらせをするのも、と悩んでいると、「待った待った、本当にごめん」とファイノンが走ってドアを開ける。
「お前が何を考えているのかわからない」
「
……
悪かったよ。ごめん。今まで通りにしたいと思ったんだ、少なくともここにいる間は」
後ろ手に鍵をしめたファイノンから逃げるようにベッドへ向かう。気まずそうに歩いてくるファイノンが「明日のことなんだけど
……
」と空気を誤魔化すように、用件を口にするのが聞こえる。
「明日、君は朝ゆっくりしててくれ。朝食はオルクスさんとピアノの確認がてらホールでとるから、君の分は部屋へ運んでもらうよ。僕は明日は一日バタバタしてるだろうし、君は開演前にホールに来てくれればそれでいい。先に君が風呂に入る? それとも僕が先に使っていいかな」
一気にまくし立てたファイノンは、俺に選ばせるようなことを口にしておきながら、シャワールームへ向かってしまう。
逃げるような態度のファイノンのシャツを掴み、おい、と声を上げた。
声に震えは乗らなかったが、シャツを掴む俺の手は微かに震えていた。
「俺が一度で諦めると思うか?」
「
………………………………
」
ファイノンは振り返らず、小さくため息を零す。どうやら、それを俺への返事の代わりとしたようだった。
答えないファイノンに焦れ、一か八かと抱き着こうとすると、それを察したのか、ファイノンが「メデイモス」と俺に言うことを聞かせたい時のトーンで、低く、半ばうんざりしたような声を上げた。迷惑がられているかもしれない、とは思っていたが、明確に態度に出されるとは思わず、シャツを掴んだまま足が止まる。
ファイノンはそっとシャツを掴む俺の手を解き、「ここでは今まで通りにしよう」と感情の読めない声で口にする。
「逃げるのか?」
「
……
話し合ったほうがいいのはわかってる。けど、明日の仕事のことでいっぱいいっぱいなんだ。わかってほしい」
ファイノンの感情を押し殺すような声に、わかった、と言うより他にはない。これ以上はまるっきり、駄々を捏ねる子どもと変わらない。
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