ugmm_
2025-10-26 16:26:00
20843文字
Public こいぬ
 

明日の向こうから

リクエストをいただいて書く、その2。
本当に「犬耳が生えた小ピオをメテルスが保護する」というリクエストです。嘘ではありません。仔犬とは書いていませんでしたが仔犬で書くと後から成長させることも可能なので、仔犬です。


 マンションを出た時には霧雨が降っていた。細かな雫は春に入ってなお冷たい空気をいっそうよそよそしくして、朝の空は白んでいる。土曜の早い時間帯、駅へと伸びる道では車通りも行き交う人もまばらだった。
 上着のポケットで震え始めたスマートフォンを見ると、おおよその到着の時間だけを伝えたはずの父からの着信だった。拒否を押し、伝えた通りに着くとだけメールを返す。
 両親に顔を見せろとせっつかれ続けようやく帰省の予定を立て、昼前に到着するつもりだった。大学の合格通知を受け取って浮かれている弟は父と一緒に駅まで迎えに行くなどと言っており、祝いとして何か買わせるつもりなのは明らかだった。
 先を急ぐほどではないが、その予定を変えるつもりはなかったのだ。多少のことならば後回しにし、それなりに長い行程をどうやり過ごすかを考えていた。
 植物園などを併設する公園は通り抜けると駅までの近道になっており、また散歩を楽しむ人々や子供連れでこの朝早くから人の気配が感じられた。種々の花樹や整備された花壇のそばを飼い犬を連れて何人かがゆっくりと進む。広い公園中に響き渡るほど激しく吠え始めたのはそのうちの一匹だった。
 公園を東西に分ける道沿いの植木に向けて吠え立てるのを、飼い主がリードを強く引いて引き摺っていく。メテルスは、常ならば横目にして通り過ぎるだろうその光景に、この日とて気を惹かれた訳ではなかった。
 遠ざかる犬の唸り声を背後に聞き、また別の声が聞こえた。それが植木の、細かな葉をつけて垂れ下がる何本もの枝の向こうからだと思った。おそらく動物がいるものと予想していたが、後から思い返すと曖昧である。ともかく、その枝をかき分けて奥を覗き込んだのだ。
 そして、目が合った。
 子供が膝を抱えるようにして身を小さくしていた。かろうじて小学生か、あるいはそれよりも幼い子供と見えた。
 見るからに体の大きさにあっていないパーカーのフードを目深に被り、七分ほどのズボンの裾から出る足は靴下だけで、靴を履いていない。そのフードの陰から、青い眼がこちらを見ていた。
 子供は犬の去っていった方向を見遣り、面食らっている相手をもう一度見る。上目にこちらを睨んで鼻筋に皺を寄せ、唸った。先ほど聞こえたのはこの声だったが、細い唸り声は、先ほどの大型犬の脅しかける勢いを思えばまったくその役目を果たしていなかった。しかしそれは喉の奥から響く音で、人間がふつう出す声とは明らかに性質が違った。
……迷子か?」
 まず思いついたのは親の存在だったが、周囲にいるのは自分の犬や子供を連れているか明らかにひとりきりの人間だけで、それらしい人物は見えなかった。
 警戒を露わに身を竦めていた子供が、そっと左右を確認する。その小さな体で植木の中を逃げようとしているものと察して待てと声をかけるとぎくりとして動きを止めた。思わずそうしてしまったという仕草だった。
「待ちなさい、何もしない。……怪我をしているんじゃないのか」
 右膝の下に擦り傷が見えた。少し屈んでいた姿勢から膝をついて、自分が子供に好かれる方ではないのを自覚しているので、メテルスはただゆっくりと言葉を選んだ。
「こちらにおいで」
 じっとこちらを見ていた子供は、何を思ったものか。数分かけて何かが子供に決意をさせ、地面に手をついてそろそろと枝の奥から顔を出した。そこでまた躊躇するのに頷き、無理強いと思われない程度の力で手を引く。
 道へ出てくる拍子に枝に引っ掛かったフードが脱げ、明るい色の髪が陽に晒された。その髪も顔も、何日も野外にいたかのように砂っぽく煤けている。目の前に立った子供があちこちにつけた葉や土を払ってやる途中で、違和感に視線を上げた。
 薄い色味だが金髪と呼ぶほどではないだろう髪、それよりもいくらか濃い色合いをした耳が頭にくっついている。
 犬の耳が。
 カチューシャか何かで付けているのかと思った矢先、それがひとりでに動いた。何かを聞きつけて、半ばで折れた耳が片方立ち上がり、また畳まれる。
 実家に犬が三頭も飼われていれば、それが血の通った本物の耳であることは分かってしまった。分かったからこそ疑問が頭を満たすので余計な知識だったが。
 そしてよく見てみると、腰よりも下まで裾の伸びるパーカーの背側が不自然な形で持ち上がっていた。捲り上げるのは驚かせるだろうと思い止まったものの、予想されるのはひとつだけだ。尾もついている。
……誰かと一緒か?」
 子供は何も言わなかったが、首を横に振った。
「ひとりでここに?」
 頷く。
 膝の擦り傷は血が固まり始めていたが、まだ新しいもののようだった。痛むかと尋ねると首を傾げている。土が付いたままになっている傷をまずは洗い流そうと、水道のある場所を記憶から探り当てる。
「膝を洗った方がいい、向こうに水道が……
 言葉の意図が分かるのか分からないのか、不思議そうに見上げるだけの子供に、両手を差し伸べる。警戒を見せない。その手を脇に差し入れて抱き上げた体は背丈からの想定よりずっと軽いうえに、この年頃ならそうであって当然の柔らかな体つきでもなかった。
 触れることでこちらが汚れることとか、こうしている間に座席を予約してあった列車の時刻が過ぎるだろうこととか、常よりも重い荷物のことであるとか、頭に浮かびはするのだが、その時には優先順位が完全に入れ替わっていた。
 水飲み場を兼ねた手洗い場で膝を洗い流させている間、子供の頭を見下ろした。耳は、やはり付いているのではなく生えている。洗い終えたのをハンカチで拭った脚はこの年頃にしても細く、健やかとは言い難かった。
 病院に連れて行ってそこから警察に連絡するのがいいかと、スマートフォンで周囲の施設情報にざっと目を通すが、この早い時間に診察を行なっている病院はない。どうすべきかと思案するメテルスの隣で、裸足の子供がくしゅんとくしゃみをした。雨は止んでいたが、吹く風は未だ冷たい。
 また子供を抱き上げ、こうなれば警察が先かと、その時には思っていた。公園を出ていくらか歩いたところで、まあ、と大きく響いた声に足を止めた時点では。
 軒先のプランターを持ち上げようとした姿勢で老女が固まっていた。
 その目はメテルスではなく、抱かれている子供を見ていた。これは自分が不審者と見做されているのではないかと気付いたが、それにしてはただひたすら子供だけを見ている。というよりはその頭の、耳を。
 プランターを置き近付いてきた人間に覗き込まれても、子供は今度は唸らなかった。
「弱っているわ、そのままじゃいけません」
 そう言われてやっと、建物の掲げる看板が視界に入った。動物病院。その文字と相手を見比べたメテルスに、お入りくださいと老女は言った。
 院内は無人で、診察が始まるまでにはやはり一時間以上ある。導かれるまま進んだ先の診察室に入るなり、子供が身を竦ませてメテルスの肩に登ろうとした。何かと思えば、さらに奥の空間から犬の吠える声が聞こえるのだ。普段着の上に白衣を羽織ってそこから戻ってきた、ここの院長だという老女はその様子に気の毒そうに眉を下げた。
「大丈夫よ、ケージに入っているから。ここに下ろせますか」
「聞こえただろう、怖がるな」
 しばらくしがみついていたが、子供は諦めたように診察台に下りた。
 それから獣医のしたことは、人間を診る医者が人間の子供にすることと変わりないように見えた。擦り傷のほかに外傷のないことを確かめ体温を測り、喉などの様子を見て、栄養失調気味だと一目見た時には分かっていただろうことを言った。
 点滴の針を見て子供はまた逃げようとしたが、やはり短い抵抗ののち諦めて細い腕を差し出した。
 処置の間に経緯を説明すると、珍しいこともあるものだと言いながら、獣医は驚きを浮かべて子供を見つめている。
「どういう……生き物か、ご存知のようですが」
「ええ、まあ、うんと昔には診ていました。何十年も前のことです」
「獣医が診るのが正しい?」
「専門の医者は、いないと思います。私も経験則でどうにか……公園にいたというのを疑うわけではないのですが、だとしたら逃げてきたのかしら。いくら減っても、飼う人は今もいるだろうから」
 飼う、という言葉にメテルスが示した不快に彼女は指先で口を押さえた。
「見ての通りの様子だったので病院か警察に連れて行くつもりだったが、この後どうすべきかご存知ですか」
「警察に届け出て、該当の遺失届がないかを調べるくらいでしょうか。SNSなどで呼びかけるのはやめた方がいいですね、騒ぎになるでしょうから」
……遺失届?」
「扱いは通常の犬や猫と同じです。多分警察署でこの子を世話することはできませんが……
 どう見ても九割方は人間である存在を前にして、その言葉尻は頼りなく萎んだ。それこそ犬や猫ならば、保健所の他にも保護施設やボランティアなどの一時保護に適した預け先がある。人間であればそれよりもずっと尊重されて厚く保護されるだろう。
 人間としては扱われませんと獣医は言った。呼称が何であれ、人間と同等の権利を持つとも見做されない。そもそもこの存在に対応する制度や法は、少なくともこの国にもこの自治体にもない。この獣医がそれを知っていること自体が稀なのであり、メテルスはこういう存在があるということさえ知らなかった。
「ひとまず今日はお預かりして様子を見ることはできますが……どうされますか?」
 頭上で交わされる会話を理解したのかどうか、子供はメテルスに凭れかかったままいつの間にか寝息を立てていた。この獣医ならばなにかしら方策を立てられるのかもしれない。だが結局なにであるにしろ、メテルスには変わった子供にしか見えない存在がたどり着く行き場というのは、望ましいものと思えなかった。
 くすんでぱさついた髪に触れる。どこもかしこも薄汚れて、本来の色を見せているのは瞳だけだった。その瞳もいまは瞼の下にある。
 時間にすれば数十秒だけの思考を片付けて、メテルスは答えた。
……では明日、迎えに来ます」


 翌日、休診の看板が下がる動物病院を訪れると、ガラス戸の向こう、待合のソファに子供が座っているのが見えた。
 子供は小綺麗になっていた。洗われた上に着替えを与えられたらしく、靴だけはなかったがどうにか行き倒れの風体から抜け出している。俯いて床につかない足を揺らしていたが、メテルスが扉を押し開くと耳を立て次いで顔を上げて、目を丸くした。
 昨日ここを出た時にも眠っていたから、置いて行かれたものと思ったのかもしれない。診察室の方から少しお待ちくださいと声がし、何やら慌ただしく動き回る足音が聞こえる。
 そばに立ったメテルスを子供はまじまじと見つめていた。その手にはよく見かけるメーカーのパックジュースが握られている。
 ぱたぱたと何か軽い音がする。待合にそのような音を立てそうなものはなく、出所を探してふと、揺れる尾が目に入った。やはり備わっていたらしい耳と同じ毛並みのそれが、座面を規則的に叩いている。
 思い出されたのは、今頃帰省を取りやめた息子の代わりに両親に構われているだろう実家の犬たちだった。伸ばした手を避けなかった子供の頭を撫でた。
「すみません、お待たせして」
 獣医が腕に荷物を抱えて待合に出てくる。着ていた服は汚れていたので処分したが、これだけは愛着がありそうだったので持ち帰ってほしいとまず広げたのは子供のパーカーだった。
「洗濯したのですけど、ここに何か書いてあるんです」
 そう言って差し出され、見れば確かに袖口の裏に何か書き付けられている。掠れ薄れてほとんど読み取れなかったが、ひとつだけかろうじて文字の揃っている箇所があった。
……スキピオ?」
 子供が目を瞬いて、メテルスを見る。個人名の響きではないが、その顔は知っている言葉を聞いたという驚きを浮かべているように見えた。
「スキピオ、そう呼ぶが構わないか」
 しばらくこちらを見つめ、ゆっくりと尾を振っていたが、頷いた。
「私はメテルスという。気が向いたらそう呼ぶといい。……私の家に行くのと、ここに残るのはどちらがいい?」
 それを確かめる気になったのは、自分を見つめる双眸に知性を見てとったからだった。ただの犬にも好き嫌いがあり、人間を選ぶ。スキピオはおそらく言葉の意味をよくよく考え、獣医とメテルスとを見比べて、メテルスの手を握った。
 それではと獣医が取り出したのはふた揃いほどの着替えだった。子供が昔着ていたお古だがサイズは合っているからと、口を挟む間もなく紙袋に入れて渡される。ここで可能な限りの検査の結果、しばらくの静養は必要だが大きな異常はなかったと滑らかに説明が続いた。
 基本的には人間の子供と同じ生活ができるが、習性があるので気をつけるべきと言うので実家の犬の話をすると安堵したようだった。
「声も、喋る気分じゃないだけのようですね」
「構造としては話せるということですか」
「話せますよ。吠えることもありますが、多分無駄吠えはしませんね。昨夜も静かでしたから。チップも入っていなかったですが……警察には?」
「届けるだけは届けました」
 窓口で怪訝そうな顔をされたが、獣医の勧め通りこの動物病院の連絡先を伝えた。
 諸々の会計はそれなりの額となったものの、獣医の厚意通りに支払いをせずに済ませるのと比べれば軽い負担だった。昨日と同じように成り行きを見守っていた子供は、パーカーを着せられて何かを察したようだった。フードを被せて抱き上げる。そうしてされるがまま身を任せて、スキピオはメテルスの上着の襟をぎゅっと掴んだ。外まで見送りに出た獣医に小さく手を振る。
 耳と尾は隠すように、と最後に獣医は念を押した。


 帰省を取りやめると連絡を入れたとき母はひどく落胆していたが、結果としてそのために休暇を取っていたことが功を奏した。とりあえず連れて帰ると決めたはいいが、事はそれで済む話ではない。
 動物病院を出たあと、駅前の商業施設でまずは靴を買った。サイズを合わせるにしてもマジックテープを留めるにしてもスキピオはきょとんとするばかりで、子供靴が並ぶ棚を口を開けて眺めていた。このくらいの子はすぐにサイズアウトするという店員の言葉に、果たしてどこまで成長するのか、獣医に確かめなかったことを思い出した。
「何か気になるか?」
 買ったばかりの靴を履いた足を頻りに見下ろしていたが、スキピオは首を振った。靴を履かずにいたのか、こうして出掛けることに慣れないのか、止まりがちだった足取りは次第に落ち着いた。
 フードを被ったままというのも不自然で、子供服も揃える衣料店に入る。またも店内をきょろきょろと忙しなく見回すスキピオの手を引き、小さな帽子が並ぶ棚を見つけた。
「私のそばを離れないように」
 手を離すときそう言いつければしっかりと頷きが返ってくる。
 耳を隠すのが第一とは言え押さえつけてはならないし、それを重視して風に飛ばされるのも望ましくない。いっそ紐でもつけて結んでおくのがいいかと思いながら、当座のものとしてニット帽を手に取った。
「色はどれが……
 視線を下ろすと、そこにいるべきものがいなかった。周囲を見る。店内をざっと見て周り、結論は早々に出た。離れるなと言った場所から一歩も動いていなかったにも関わらず、一瞬のうちにはぐれた。
 あの年頃だった弟が同じことをして騒ぎを起こした、懐かしい記憶が脳裏を流れていく。店員に確認を取るが見かけていないと言われ、逃げたかという考えが浮かんだ。スキピオはメテルスや獣医の質問にはほとんど答えなかったが、どこか目指す場所でもあるのかと。
 しかしほとんど探すまでもなく、衣料店からさほど離れていない場所にその姿は見つかった。駐車場に通じる出入り口のそばで、小さな子供がふたり座り込んでいる。
 壁際に小さくなったスキピオの隣に、やや年長の少年がいた。何か捲し立てている。
「お母さんと来たの? お父さん? おばあちゃん? おじいちゃん?」
 質問にひたすら首を横に振っていたスキピオが、こちらを見る前に何か聞いて立ち上がった。きょろきょろと周囲を見回し、メテルスの姿を見つけると立ち上がって、けれどそこから動かなかった。
「あれ誰? お兄ちゃん?」
……スキピオ、離れるなと言っただろう」
 そう言われて頼りなげに揺れる目で、メテルスと隣の少年とを見る。そうっとメテルスの方に近付いた子供が少年を嫌がっている、その直感に腕を伸ばしかけたとき、少年が突然スキピオのフードを下ろした。
「ねえこの子の耳なに? つけてあるの?」
「つけていない」
 すぐにフードを被せる。固まっているスキピオを結局また抱き上げることになって、メテルスは少年を見下ろした。
「どうして一緒にいた?」
「あそこで話しかけようとしたら逃げたからついてきたの」
…………
 メテルスは、子供全般は好きでも嫌いでもない。だが聞き分けのない人間は世代に関わらず嫌いだった。あそこと言って指差したのがまさしくメテルスらのいた衣料店であれば、どうにかしろと言われ続けている目つきに配慮する気にもならなかった。
 自分は自分で家族とはぐれていた子供をインフォメーションセンターに届け、改めて別の店で帽子を選んだ。どれがいいと問われてスキピオが指さしたのは紺無地のキャスケットで、被せてみるとよく似合っていた。用途を理解しているのかもしれない。
 必要と思われるものを買い揃えて外に出たところで、スキピオは自分から腕を下りた。先ほどの少年やその類を警戒し、ひとりで逃げるよりそばにいる方がいいと学んだらしい。手を繋ぐよう促せばおとなしく従う。
 まだ昼前だったが、あちこち連れ回すよりも家に慣れさせることが優先される。帰るかと声をかけると、スキピオは初めて聞く言葉だという顔をしていた。


 メテルスの暮らす部屋は十階建てマンションの七階、隣室はひとつが空いたままでもうひとつは過重労働に追われ家にいる時間の少ない住人が住んでいる。特に関心を持たなかった事実もいまとなっては好都合だった。ペット不可の賃貸だが犬とは言い切れず、間柄が不明瞭なうえ入居人数が増えるとも言い切れない。
 玄関に立ち止まったスキピオの足から靴を脱がせて、入るよう促すと、すんすんと鼻を鳴らしていた。聴覚は見た目通りとして鼻もきくのだろうか。
 リビングでテーブルに荷物を置いたメテルスについてきて、視線は巡らせるが見て回ろうとする様子はない。
「ここで暮らすことになる。気に入ったか?」
 問われてもただ首を傾げた。そばを動こうとしないので、寝室のドアの前に立つ。
「こちらが寝るための部屋だ、そちらは普段過ごす場所」
 ついてきたスキピオがドアの奥を覗いて、また鼻を鳴らした。順番に部屋を説明するのをおとなしく聞いたあと、何か腑に落ちたらしい。帽子を外してメテルスに差し出した。
 こうした持ち物の置き場も作らなければならないが、いまのところはいいだろうとコートスタンドに引っ掛ける。スキピオは自分の帽子と、そこに掛かっているメテルスの上着を見比べ、着込んでいるパーカーを脱いだ。これもここか、と問うようにメテルスを見上げる。どう見ても手が届かないので掛けてやるとどことなく満足げにしていた。
 食事をさせれば、見た目相応の食べ方をする。手で掴むでも音を立てるでもなく、ただ子供らしく拙い。トイレの使い方も分かっていて、冷蔵庫のことは知らなかった。洗面所には戸惑う様子がないのに浴室でバスタブを不気味がっていた。
 触れてはいけない物、開けてはいけない場所を教え、玄関扉と窓は絶対に開くなと指差して言うと真面目な顔をして頷いた。どこを開いてはいけないか問うと正しい場所を指差し、その直後に床に落として割ったグラスを手で鷲掴みにしようとした。
 バランスが悪い。
 不要紙にガラス片を包み掃除機を掛ける間、言われた通りにソファの上からそれを見守るスキピオは、なんとも気不味そうな顔をしている。叱りつけたわけではなく大声も出さなかったが、何か失敗をした気配に勘付いているらしい。
「もう下りてもいい」
 掃除機を戻して言うと下りろと言われたようにすぐ駆け寄ってきた。これもバランスの悪さの一端かもしれなかった。犬ならば正しいが、メテルスは犬を飼うつもりでスキピオを連れ帰ったのではない。
 ではどういうつもりかと言えば、結論は出ていないのだが。
「割れたガラスに不用意に触れれば手を切る。その膝よりずっと痛い思いをすることになる。分かるか?」
 こちらを見ながらの浅い頷きは頼りなかったが、今はそれでよいものとした。少なくとも鷲掴みにすることはもうあるまい。
 疲れたと言いたげに肩を落としたスキピオをまたソファに座らせる。隣に腰掛けて、テレビをつけた。これには驚く様子はない。ちょうど子供に害のなさそうなアニメ映画が流れていたのでチャンネルを変えずにいると、画面から目を離さなくなった。そしてしばらくして重たげに頭を揺らし始め、かくんと首を傾けて寝始めた。
 それをクッションを枕に横たわらせ寝室から持ち出した布団を掛ける。チャンネルを変えて音量を下げたところで、テーブルに放り出されていたスマートフォンが振動した。弟からの着信だった。
 声を出した途端にスキピオが起きそうなのでまた拒否のボタンを押すと、すかさず抗議のメッセージが入る。思えば合格祝いの当てがひとつ外れたのであり、小遣い頼りの弟を哀れと言えなくもなかった。いくらか送金すると、また早々に、今度はビジネスメールじみた文面が届いた。
 帰省のために確保したあと三日の休みでどう落ち着くものか、何にしろやってみるほかなかった。


 目覚めると同時に、足元にぬくもりを感じた。ここはどこだと寝起きの頭が混乱を来したのはそれが実家でのよくある目覚めであったからで、起き上がって見れば、小さな子供が布団に潜り込んでマットレスの隅に丸まっている。
 当初、メテルスはスキピオに客用のマットレスで寝るように言った。リビングに寝床を作り寝室のドアを開けたままにしたが、夜中にベッドのそばの床に寝ているのに気付き、マットレスを寝室に移した。一応はそこで落ち着いた筈だが、留守番をさせるようになってからはこうだ。
 日中メテルスが仕事のためにいなくなるということを、スキピオは一応彼なりの理屈で理解しているらしい。基本的に五日間いなくなり二日間はいるの繰り返し、というリズムを三週目には掴んで、金曜は機嫌が良かった。
 寝支度をと言えば自分の寝床に向かうのだからどうすべきか決めかねる。起こさないようベッドを出てしばらくすると、キッチンの物音を聞きつけてかすぐに起き出してきた。これも毎日のことになっている。
 ひとりで食事をするのが嫌いらしく、寝惚け眼でパンを食む子供にこれを言うのは些か気の毒だった。
「今日は少し遅くなる」
……
「夕飯は冷蔵庫の下の段。温めて先に……
 言葉が途切れたのは、スキピオが何か言おうとしているように見えたせいだった。未だに言葉を発さないが、時折、話そうか話すまいか迷っている気配を発するようになった。
 結局、今朝も何も言わなかったが、玄関まで見送りに出た顔は恨みがましかった。
 少し遅くというのは、嘘になった。会議は予定より大幅に長丁場となり、緊急の対応が必要な案件が持ち上がり、極め付けに地下鉄は遅延していた。問題なく定時に退社した日よりも三時間近く遅く、玄関の鍵を回した。
 部屋が暗いことにメテルスは眉を寄せる。大抵は廊下の足音を聞きつけて玄関で待っている姿もない。寝ているのかと思ったが、ソファにもベッドにもおらず、あちこち扉を開いたあとふと、寝室のウォークインクローゼットの戸が中途半端に開いているのが目についた。
「スキピオ?」
 開いて呼びかけても返事はなかったが、コート類をかき分けて覗き込むと、クローゼットの一番奥に小さくなっているスキピオがいた。両手で耳を押さえて、こちらを見上げた目は怯えている。
 ドン、と遠くに反響する音を、その時になってやっとはっきり認識した。花火が上がる、それが今日だったとは把握していなかったし、この音を花火かと思って意識から追い出した記憶さえない。隣市の球場で花火が上がることがあり、その日なのだろう。
 このままにしてやるか外に出して説明してやるか、あまり悩まなかった。クローゼット内の照明をつけ、後ろ手に戸を閉める。スキピオの前に座ってみると、脚の収まりがつかない程度に狭い。
 手招けば耳を押さえたまま膝立ちに近づいてきて、腕の中に丸くなった。いつもより体温の高い体がぐっと押し付けられる。
「メテルス」
 聞き間違いかと思ったが、スキピオはその青い眼でこちらを見上げていた。気が向く瞬間が来たようだった。
……かみなり?」
「いや、花火だよ。だからあと十分もすれば終わりだ」
 スマートフォンで運営元を調べたので確かだった。最近時計の読み方を覚えたスキピオはそれでわずかに安堵したようだった。三十分前から断続的に打ち上げられていたようだから、ずっと竦み上がっていたのだろう。
 また花火の音がすると、うう、とスキピオは小さく唸った。人に対して唸らないよう教えていたが、これは構わないだろうと、小さな手の代わりに耳を塞ぐ。脚の間に尾を挟んで震えていた体は、ようやく強張りを解いた。眠ってしまえればよかったのだろうが、耳がいいのも考えものだ。
 きっかり十分後、ふたりでクローゼットを出た。
「暑いな」
 もう初夏だ。暑がりの子供はすでに半袖で、クローゼットはジャケットを着たまま籠る場所ではない。
 スキピオはベランダの方に駆け寄った。メテルスは後ろから掃き出し窓の鍵を開け、窓を開いた。ベランダに顔を出し静かになったのを確かめ、メテルスを振り返って、スキピオは気が抜けたように笑った。遅くなってすまなかったと言うとその顔のままメテルスの手を握った。表情が和むくらいのことはあったが、笑うのを見たのは初めてだった。


 弟がメテルスの元を訪れたのは、帰省の約束を反故にしてふた月ほど経った頃だった。部屋探しをするのでそのあいだ泊めてやれという父の連絡があり、その父の背後で犬が吠えていたせいでそれを聞きつけたスキピオが挙動不審になった。
 金曜の夕方、仕事帰りのメテルスが降りた数本後の電車に乗って、改札を通って現れた弟、ルキウスは、疲れ果てた顔をしていた。地方で電車を使うこと自体少なく牧歌的に暮らしてきたせいで都市部の地下鉄に苦しめられたらしい。
 大きなボストンバッグを取り上げて歩き始めたメテルスを早足に追いかけてくる。通う予定の大学はふたつ隣の市にあり、一人暮らしをする予定だという。
「寮に入るんじゃなかったのか」
「抽選で外れたんだよ。基本的に外れないって聞いてたのに」
「外れるから抽選なんだろう」
「そうだけど外れないって聞いてたの!」
 何度も言わせるなと憤然としたルキウスは、明日明後日の部屋探しにはついて来てくれるのかと一転して不安げになった。父の頼みはそこを含んでいたので頷く。
「ひとつ言っておく」
「何? こわい」
「部屋に入っても大声を出すな」
 ルキウスは不審そうな目つきをして、そうすると父や兄によく似ていると言われるのだが、女かと呟いた。ボストンバッグで背中を殴ると小さく呻いてよろめいていた。
 前の部屋は来たことがあるがここは初めてだとエレベーターまでは呑気に言っていたルキウスは、玄関扉を潜ったところで両手で口を押さえた。
「おかえりなさい」
 スキピオはまずメテルスにそう言い、その後ろのルキウスを見て尾を下げた。メテルスの脚にしがみつくようにして隠れた子供に教えただろうと言っても、実のところ理解が浅かったらしい。
 突っ立っている弟を中に入れ、玄関を閉めて、メテルスは何も言わずこちらを見上げる目を見返した。騒ぐな。その意図はメテルスのやりように慣れている弟にはまっすぐ伝わった。そっと両手を下ろしてもルキウスは声を上げなかった。
「弟のルキウスだ。自己紹介は?」
「えと……ぼく、スキピオ……
「あ、うん、えっと……お邪魔します、スキピオくん……
 ぎこちなく見つめ合うふたりを置いて、部屋に入る。ソファにルキウスの荷物を下ろして寝室で着替え始めたところにルキウスが追いかけてきた。
「兄さん? いや待ってほんとに……あの、子? なに? なんで犬の耳と尻尾ついてる?」
「何故かは知らん、拾った」
「拾ったって……犬なの?」
「似たような生き物を見たことはないか」
「ないけど」
 やはりそうかとひとり納得する兄に、ルキウスは頬を引き攣らせ、しかしそれ以上言わなかった。
 リビングではスキピオがボストンバッグを遠巻きに見守っていた。そもそも小さな子供の相手をした経験の乏しいルキウスはそれをどうすべきか分からずに、兄を振り返る。
「喉乾いた、冷蔵庫開けていい?」
「好きにしろ」
 開けるなり「うわっ、子持ちの冷蔵庫になってる」などと言っているルキウスと、メテルスを交互に見て、スキピオがメテルスの手を引く。
「れいぞうこ、開けてもいい?」
「もう開いてるが……
 毎日勝手に開けているはずだが。良い、と頷くと、ルキウスの隣に立って冷蔵庫を覗き込む。
「これおいしいんだよ」
「飲んでいいの? きみのじゃない?」
「うん、あげる」
 一日に一本の約束となっているパックジュースを与えられたルキウスがダイニングテーブルにつくと、スキピオは椅子がひとつ足りないと気がついて、寝室からデスクチェアを引っ張ってきた。
 三人揃って座ったことに満足した子供をルキウスはジュースを飲みながら見守っていたが、飲み終えると同時にまっすぐ右手を挙げる。
「はい」
「言え」
「父さんたちにも伝えた方がいいと思います」
 予想された発言にメテルスはため息をついた。
「伝えれば見に来るだろう」
「そりゃそうだよ。でも気配で何かいるなって感じても来ると思うよ、合鍵渡したでしょ?」
 何かあった時のためにと言われ渡した。留守中に上がり込まれたことはないが、やりかねないのは事実だ。しかし現状、気配も何もあったものではない筈だった。
「古いタイプの人間だって思われたくなくて黙ってるだけで付き合ってる人いないのかとか結婚はとか気にしまくってるし……
「知ったことか」
「それが、そういうのが、助長してると思うんだよな……
「じょちょう?」
 話の輪に加わっているつもりのスキピオの頭を撫でる。ルキウスはその光景から見るべきでないものを見たという顔で目を逸らし、ストローを齧った。この弟から気配が漏れたならば諦めるかとメテルスは思い、夕食の前に風呂を済ませるよう弟に言った。
 すごすごと着替えを抱えて浴室に向かったルキウスはすぐに戻ってきた。手にゴム製のアヒルを握って。
「ねえ風呂にアヒルさんが!」
「隊長だ」
「はあ?」
「おふろの隊長なの」
「あっ、うん、隊長かあ」
 説明してやらねばなるまいと思ったらしいスキピオが付き添ったおかげか、ルキウスはもう何を見つけても騒がなかった。アヒルは水を嫌がるスキピオを宥め賺してひとりで風呂に入れるようにする過程で大いに貢献したため隊長と呼ばれていた。
 週末を費やしての部屋探しには、スキピオも付いてきた。休日だというのに部屋で留守番をさせると拗ねるのが分かりきっていたからだ。
 ルキウスは情報サイトでおおよそのあたりをつけて臨んでいたが、両親に相談しながらではなかったのだろう。メテルスに駄目出しを食らい条件の見直しを迫られたり、内見に漕ぎ着けてもスキピオがおかしな臭いがすると言い出し隣室が瑕疵物件であると発覚したりと、土曜はルキウスにとっては散々だった。
「ジュース飲んでもいいよ……
 帰宅後ソファに突っ伏す弟の頭にジュースのパックを乗せ、スキピオはしばらく周りをぐるぐる回っていた。
 昨晩にはリビングにマットレスを敷きルキウスだけそこに寝かせたが、寝支度の気配を察知したスキピオは、何も言わずに寝室にマットレスを引き摺って行った。
 いい加減にこの存在に慣れたルキウスは、しかし、兄のベッドに当たり前の顔で上がるスキピオを見てたじろいでいた。自分がマットレスを使っているのだから仕方がないのだと言い聞かせている様子に、そのマットレスはこのひと月ずっと畳まれていたとは教えなかった。
「明日はいい部屋見つかるかなあ」
 横になってしばらくしてのぼやきに、メテルスではなくスキピオがベッドから顔を出す。
「だいじょうぶだよ」
「ありがとう……
「あした見るところはぼくらの寝るところもあるのかな」
 ルキウスは数秒置いて首を傾げた。
「ぼくらの?」
「スキピオ、探しているのはルキウスの部屋だけだ。私たちはここから出ていかない」
……そうなの?」
 三人で暮らす部屋を探すものと思っていたらしい。説明し直すと明らかに落胆しており、こうも早くルキウスの存在を受け入れていることの方にメテルスは驚かされていた。
「群れかな」
 スキピオが寝入ったあと、この子供に合わせた早い時間では眠気が遠いらしいルキウスが体を起こし寝顔を覗きながら言った。子供の、横向きに丸まって眠る格好は犬に似ていた。犬はそのルーツからして群れを作り生きる。人間と共に暮らせばその人間を自らの群れの一部として考えるのだと言われる。
「弟って聞いて、群れの一員だと思ってくれたとか?」
「弟の概念を理解したかは怪しいが」
「この子、兄弟いないの? ……分かんないか。拾ったんだものね」
 犬ならば普通、何匹かの兄弟を持って生まれる。スキピオからそれらしい言葉を聞いたことはなかった。
「群れ、増やしたら?」
 返事を聞く前にルキウスは横になって、おやすみと小さな声で言った。
 日曜には無事にこれだという部屋を見つけ出し、子供っぽく喜ぶ弟の周りをスキピオは跳ね回っていた。それが、実家の犬たちがはしゃぐ家族に訳もわからず同調して喜ぶのと同じだった。部屋が見つかったので帰ると言われた途端に眉も尾も下げて消沈するのまでもが。
 ルキウスが帰ったあと父から連絡があり礼を言われたが、その部屋はペット不可じゃなかったかと問われ、無視した。


 午前とはいえ眩しく、目を刺すような陽射しの下を子供が駆けていく。
 それはころころと子供らしい足取りなどでなく、体育の訓練を受けたかのような俊敏さで、軽い体が土を蹴る音が聞こえてくるようだった。実際にはひどく静かであり、それもまた動きに無駄がないがためなのだろう。
 追いかけていったのと同じ全速力で広場を駆け戻ってきたスキピオが、手にしたフリスビーを風を切る音のする勢いでメテルスに差し出した。
「もういっかい!」
……これで最後だとさっき言っただろう」
「でももういっかい!」
 息を上げて顔を赤くしながら、スキピオはほんの一瞬止まっているのも惜しいと言いたげに足踏みしていた。一度体を動かし始めるとこうだ。でもとか、だってとか、そういう物言いも多くなるうえ、メテルスの顔色も何も気にならないらしい。
 メテルスはフリスビーを受け取った。周囲を見渡し、問題がないと確認してから、軽く放る。
 公園には広場があり、そこでだけフリスビーやボールで遊ぶことが許可されていた。スキピオを拾ったあの公園である。この広場があり、少ないながら遊具もあるうえ、広い敷地に張り巡らされた遊歩道の脇にはベンチや東屋がいくつも置かれていた。よく世話をされた植物が輝き、小池には蓮の葉が浮かんでいる。植物園は入園料を取らない。ただ通りすぎていた時にはそうと思わなかったが、子供を遊ばせるのにこれほどに都合のよい場もない。
 走り出したスキピオは、軽く投げたとはいえフリスビーを追い抜いたように見えた。見間違いの方がいいかもしれなかった。だがどう見ても回り込んで高く跳び、空中でフリスビーを掴んだ。
 転ぶこともなく危なげなく着地し、その勢いのまま身を翻した。笑顔でこちらに、突進してくる。
 待て、と言うよりも、スキピオが地面を蹴るのが早かった。飛び付いてきた体を受け止めはしたが当然バランスを崩し、スキピオともども芝生に倒れ込む。鮮やかな青空が見えた。
 周囲の家族連れの微笑ましげな視線などは、スキピオにはちっとも邪魔にならないようだった。
「もういっかい投げて!」
 汗をかいて、瞳は爛々と輝いている。伸し掛かる重みはこの公園で最初に持ち上げた時よりもずっとしっかりしていた。
「駄目だ。休憩しなさい」
「でも」
「もう帰るか?」
「やだ!」
 跳ね起きてメテルスに早く起きろと急かすスキピオの帽子を、深く被り直させる。こんな風に遊ぶようになってからピンで髪に留めることを覚えたが、汗をかくとそれも頼りなかった。
 木陰になっているベンチに座らせ水を飲ませている間も、スキピオはフリスビーを手放さなかった。
 どこかでこれで遊んでいる犬を見て、あれこそが自分の求める遊びだと思ったらしい。何かを欲しがることの少ない子供なので買い与えたが、こうなるならもう少し検討するべきだった。
 動きを止めると途端に暑いのだろう、器用に耳の見えない程度に帽子を上下に振って空気を送り込んでいる。彼らの前を犬を連れた夫婦が通った時だけその動きを止めた。
 公園での犬たちはリードに繋がれ、自分には何もできない。それを納得するまでスキピオはこの公園で遊べなかった。吠えられたのを覚えているのか、それ以前のことを含めて問うても答えはない。
 犬が通り過ぎてから、ねえとスキピオがメテルスの腕を揺らす。
「もう遊んでもいい?」
「まだ駄目だ」
 飴を口に放り込む。舐め終わるまで座っていろと言われて噛み砕かない素直さも、もしかすると次第に手のつけられないやんちゃさに負けるのだろうか。
 体力に自信のない方ではないが、一抹の不安がある。そんなことを考えていたところに、声がかかった。
……メテルス?」
 見れば、それなりの大きさの植木鉢を抱えた青年が遊歩道に立っていた。懐かしくも意外な顔だ、あちらも同じ感想を持っているようだった。
「パナイティオス。……いつぶりだ?」
「あなたが卒業なさって以来ですか。お久しぶりです」
 近付いてきたパナイティオスは、スキピオをちらと見たが、不躾にじろじろ眺めはしなかった。スキピオはメテルスににじり寄ってシャツの裾を掴む。
 彼の言う通り、大学を出て以来連絡はともかく会ったことはなかった。常々そうすると言っていた通り大学に残って研究を続けているという話だったが。
「この辺りに住んでいるんだったか?」
「最近越してきました。今日はこの鉢の調子がどうも悪くて、そこの相談所に見てもらいに」
「あったな、そんなものも」
……そちらは?」
 目を向けられたスキピオは、その落ち着いた風情に警戒は見せないがメテルスの背に隠れようと体を捩じ込んでくる。暑苦しい。
「スキピオ、友人のパナイティオスだ。挨拶できるだろう」
……できない……
 できないはずはない。パナイティオスは、ベンチのそばに植木鉢を置いた。しゃがみ込んで子供を見上げる姿勢になる。
「こんにちは。メテルスとは学生の頃からのお友達です」
「おともだち?」
「はい。私の方が年少です」
「なんさい?」
「二十四になります。スキピオくんはいくつですか」
 スキピオは顔を出し、わかんないと答えた。これは真実知らないらしく、パナイティオスはその答えを怪しむでもなくそうですかと頷く。
 何か思うところがあってか、スキピオは彼の前に立った。改めて自己紹介をして、こんにちはと頭を下げた、その拍子に帽子が落ちた。
 パナイティオスの手が地面に落ちる前にそれを受け止める。スキピオはあっと声を上げて両手で耳を隠し、パナイティオスの視線はその子供とメテルスを行き来したが、彼はその帽子を子供の頭に戻した。ついでにずれていたヘアピンを留め直す。
 メテルスは一連の動きをただ見ていた。この男にならば見られたとて困りはしなかったが、直感があった。その直感に違わず、パナイティオスは世間話をするような調子で言う。
「うちには猫がいます」
「猫か」
「はい。この鉢も実のところ猫が世話をしているものです」
 頭に浮かんだのは四つ足の猫が鉢を運ぶ絵ではなかった。
「スキピオくんより少し大きい猫です。お友達になれるかもしれませんね」
「ねこ……ねこ怖い」
「そうですか?」
「触ろうとして威嚇されたのを根に持っているんだ」
 パナイティオスはうちの猫は怒りませんよと、なぜかスキピオを説得し始めた。優しく穏やかな猫で、最近本を読み始めた。字を覚えかけているところのスキピオはその話をどう思ったのか、メテルスの膝によじ登って黙りこくった。
 鉢を持ち上げたパナイティオスは、また連絡しますと言って去っていった。それを見送り、首にしがみついたスキピオの背を軽く叩く。
「友達になれなくていいのか?」
……おともだちって、ねこでもなれる?」
「なれるだろう。ひとりで留守番もしなくて済むかもしれない」
 メテルスが帰るたび大袈裟なほど喜ぶのは、それだけ留守番が寂しいからだろう。スキピオは興味を惹かれたようだったが、会いたいとは言わなかった。危うく引っ掻かれるところだったのをしつこく覚えているらしい。
 また遊ぶかと問うても、帰ると言う。買い物をしてから帰るかと、しがみついたままの子供を抱いて立ち上がる。真昼になり気温が上がる中を遊び続けられたらどうするか案じていたのだ。
 スキピオが隠れていた植木は、春には小さな葉だけをつけていたが、黄色い花を咲かせていた。黄素馨というらしい。そのそばを通るとき、ねこは、とスキピオがつぶやいた。
「ねこは、あったかかったから、まただっこしたかったの」
 それがいつ、どこでの話か、聞き出せないのは分かっていたので、ただそうかと返した。


「これがいい」
 差し出された絵本を受け取ったメテルスに他にはいいのかと問われて、スキピオはそばの棚からすぐにもう一冊を選んだ。時間をかけていたが、どちらにするか迷っていたらしい。
 書店の絵本コーナーには縁がなかったが、近頃はこうして立ち寄ることが増えた。リビングには小さな棚が置かれてスキピオの本などが並べられている。メテルスが自分のものとまとめて会計を行う間、ぱさぱさと布を擦る音がしていた。尾を振るなとは言えないのでいつも丈の長い服を着せて誤魔化している。
 スキピオは、テレビで子供向けの番組を観るうちに基本的な読み方を覚えたようだった。メテルスの手持ちの書籍は到底読み解けるものではなく、背表紙のタイトルに挑んだだけで敗北感を漂わせていたが、絵本は楽しいのだろう。
「何か食べたいものは?」
 ちょうど昼時、駅前の書店を出て尋ねると、スキピオは「ふわふわ」と言った。
「あの、リスが作ってたふわふわ」
……オムライスか?」
「いつものじゃないの、ふわふわのほう」
 何を指しているのかは分かった。薄く卵を巻いたものではなく半熟のものだと言いたいのだろう。その絵本については読み聞かせられるよりも読み聞かせをしたいスキピオに、完全に暗唱できる回数聞かされている。地下街に専門店があった筈だった。
 包装を分けてもらった自分の絵本を大事そうに抱えるスキピオの手を引く。人通りの多い駅前の通りでもスキピオは物怖じしなくなった。最初に買った靴はとうに小さくなり、獣医に譲られた服も合わなくなっていた。それでもメテルスの腰あたりの背丈でしかない。
 記憶の通りの場所にあった店に入り、無事に注文することができたオムライスを前にして、スキピオは何か違うなという顔をした。そういうものだ。味は気に入ったらしい。
「メテルスは? 食べないの?」
「誰かがケーキまで頼んだからな……
 大人の一人前を平らげるほど健啖な子供ではない。スキピオはそれをどう取ったか、カトラリーのケースからスプーンを引っ張り出してこちらに差し出した。
 期待される通り一口食べて、味が濃いと思った。スキピオはメテルスの出す食事に文句をつけないが、薄味だと思っているのかもしれない。
 ちまちまと、メテルスの目にはそうとしか表現できない速度で食べ進めるスキピオは、やはり半分ほどで手を止めた。皿をこちらに引き寄せ、ケーキを運ぶように店員に頼む。
「ルキウスに会えたら嬉しいか?」
「嬉しい」
……あとふたり、人間がいて、喧しくても?」
「ふたりってだれ?」
「私の親だ」
 運ばれてきたケーキにフォークを刺したところでスキピオは動きを止めた。
 絵本には、当たり前に親子関係にあるキャラクターが登場する。リスの親子、鯨の親子、あるいは人間の。社会的と言うほどでもない一般常識をスキピオはそこから学んでいた。
「メテルスと、ルキウスの、おとうさんとおかあさん」
「そうだ」
……が、うるさい?」
「うるさい。それに、犬も三匹いる。それに我慢できるならルキウスに会いに行ける」
 本当はもうじき探した部屋に引っ越してくるのだが。生クリームだけを掬って舐めて、スキピオは眉を寄せた。
「いぬがぼくにワンって言ったら、いぬにダメって言う?」
 メテルスが頷いたので、スキピオはそれならばがまんできると言った。


 三匹の犬は、この子供は何か違うなとすぐ勘付いた。
 ボーダーコリーが二匹にグレートピレニーズが一匹、いずれもよく躾けられ、やんちゃ盛りを過ぎた成犬だった。その犬たちに寄ってたかって鼻を寄せられてスキピオはメテルスにしがみついていたが、何がしか矜持のようなものを支えにして逃げなかった。
 一匹がスキピオの鼻先を舐めたのが、どうやら受け入れの合図だった。メテルスはスキピオの手を取って、この中で最も温厚なその一匹の首元を撫でさせる。勢いよく尾を振る三匹の、敵意のない好奇心に満ちた眼差しに、スキピオもやっと緊張を解いた。
 目を離せなくともつきっきりでいる必要はないだろう。広々とした庭で遊び始めた子供と犬たちを、ウッドデッキから父が難しい顔をして眺めていた。
 息子の視線に気がついて、その顔のまま呟く。
……犬を連れて帰ってくるものだと思っていた」
 そんなことは誰も言っていない。連れがいるとは言ったものの、犬とも人間とも言わなかった。ルキウスも具体的には何も言わずにいたらしい。
 じゃれつく間に帽子を咥え去られたスキピオが、手加減をされながら追いかけっこに興じている。郊外の家で隣家と距離があり、塀に囲まれた裏庭なので構わなかったが、メテルスは父を見た。彼は自分が見たものへの驚きと、それよりも不思議そうな色を浮かべていた。
「あの子、スキピオか。元々その名前だったのか?」
「そうですが」
「アエミリウスっぽいんだがな……
 ぽい、とは。訝しむ視線に咳払いをして、わざとらしくしかしと話の向きを変えた。
「預かっているんじゃなく、育てているのか」
「はい」
……ずっとそうするつもりか? ほとんど子供を育てるようなものだ」
「そのつもりです」
 幸い、パナイティオスには伝手があり、メテルスよりも知識もあった。彼の猫は師であるディオゲネスからの依頼で引き取ったらしく、父の様子を加味しても、どうやらこの世代にはあの存在についての知識がある。世代間の知識の断絶と言ったほうがいいのかも知れない。
 あの獣医もいまだにスキピオを気にかけ、協力的だった。先週はワクチン接種のためにスキピオを連れて行き、その日一日中メテルスは裏切り者扱いを受けた。点滴は我慢できて注射は駄目というよりも、それも変化だろう。
「なんというか……
 お前らしくもないと父は言いかけ、やめた。流石に自分の子供がそういう物言いにどんな反応を示すか分かっている。年を取ってから子供を持った父が恐れるのは息子たちに無神経な年寄り扱いされることであり、兄弟からすればその杞憂こそ年寄り臭い。流石にそうは言わないものの。
 スキピオを見るなりこういうことなら早く言えと納屋をひっくり返している母と父とは対照的だった。引っ張り出されるであろう子供服や玩具は有り難く持ち帰るつもりでいる。
 帽子を取り返したスキピオが、息を切らしながらウッドデッキに上がった。犬たちも追いかけてきたが、父が向こうへ行っていろと手を振ると庭へ戻っていった。
 メテルスに向けて両手を伸ばす子供を抱き上げる。
 ウッドデッキからそのまま家に入ると、母が運んできたのだろう、リビングにはコンテナがいくつも積まれていた。それを物色していたルキウスが顔を上げる。
「仲良くなれた?」
「うん」
「よかったね。スキピオ、これどう。電池入れたら光るよ」
 幼い頃にルキウスが振り回していたステッキ型の玩具を、スキピオは気に入ってしまった。記憶が確かなら音も鳴る。そんなものを持ち帰ってほしくはなかったが、この場では見逃した。
 物持ちがいいというよりもこうした物を捨てられない家で、コンテナからは捨てたとばかり思っていた物が出てくる。納屋から戻ってきた母が、毛糸で織られたポンチョをスキピオに着せた。
「似合う。あなたたちこれちっとも着てくれなかったんだから。スキピオくんはどう、嫌いじゃない?」
「はい、あったかいです」
 むしろ暑いだろうにそう返した子供に母は相好を崩して、次々に服をあてがっていく。
 そこから距離を取ったルキウスが兄を見上げた。
「敬語教えたの?」
「猫から覚えた」
「ねこ?」
「哲学書を読む猫だ」
 パナイティオスが師をせっつき共著という形で出した一般向けの教養書が、猫のためとは誰も思うまい。
 意味不明だと言いたげな弟は、ウッドデッキで父に足を拭かれて駆け込んできた犬たちに気を取られた。いつもと少し違う室内に興奮気味の犬の足音が忙しなく響く。
 こんなに出してきてどうやって元に戻すんだと文句を言う父に誰もあなたに頼んでいないと母が言い返し、取るに足らない言い合いを始めた両親からスキピオを回収した。冬物ばかり試されて汗をかいている。
 二階に上がり、高校生の頃まで使っていた部屋に連れていって、今日はここで眠ると教えた。メテルスが家を出ても部屋は他の用途に使われず、空気も入れ換えられていた。
 スキピオはすんと鼻を鳴らし、裏庭の方へ開く窓から外を眺めて、メテルスを振り返った。
「ここもおうち?」
 頷き、頭を撫でると、緩やかに尾を振った。同じ匂いがすると言って、ひとつの憂いもなく笑っていた。