カラン、とグラスの中の氷が音を立てた。馴染みのカフェでアイスカフェラテを頼み、少しだけ中身の減ったグラスの中の氷が奏でた音だった。
外は5月の昼下がり。天晴れなほどの快晴で、店内は冷房が効いているが窓際の席だと少し暑さを感じる。
モアナはその席で、配膳された昼食のロコモコプレートに手もつけず、目の前に座っている大男の挙動に注目していた。
そこにいるだけで他者を圧倒してしまう恵まれた体格、前髪もまとめて後ろでひとつに結われた長めの髪、そして衣服を纏っていない肌から覗くびっしりと彫られたタトゥー。
少し年季の入ったレトロな雰囲気のあるカフェに、妙に馴染む大男の名はマウイ。
モアナの父、トゥイの経営者仲間であり、モアナにとっては兄のような存在である。
今はその彼が神妙な表情で腕を組み、モアナを見つめていた。
「…やっぱり、だめ?」
なかなか表情が読めず、沈黙に耐えられなくなったモアナが先に口を開いた。
そこで初めて、目の前のマウイの表情に変化が現れた。少し戸惑うような色を滲ませると、いつもの彼らしくない歯切れの悪い言葉が紡がれる。
「…駄目とは思ってないが…それ、オレに頼むほどのことか?」
「…マウイにしか頼めないの…!」
まさか返事を渋られるとは思わず、モアナはつい大きな声でマウイに言った。彼しか頼れる異性がいないから頼っているのだ。
ーーモアナの頼み事は、端的に言えば男子とのデートでのファッションコーディネートをして欲しいというものだ。
ことの発端は、高校の卒業を控えているモアナととある友人とのやりとりだ。
高校を卒業すれば殆どの友人たちと別れ、各々の進学先へと進む。そこに別れの時が迫っているこの時期に、深く親交もない男子生徒からデートのお誘いを受けたのだ。
あまりにも自然に遊びの提案を持ちかけられ、当のモアナは深く考えることもなくその提案を快諾していた。しかしその会話を横で聞いていたロトとモニによって、それがデートのお誘いであったと知ったのだ。
男の子と2人だけで出かける経験など皆無なモアナは途方に暮れた。デートだと認識してしまった以上、いつもの普段着で出かけられる訳もない。
「だって男の子とデ……出かけるんだよ?こんな恰好じゃダメでしょう?」
なぜかマウイの前で『デート』という言葉を出すのが気恥ずかしくて、つい濁してしまう。
それを悟られないように、モアナは大袈裟に自分を見てくれというジェスチャーをした。
白い無地のタンクトップ1枚と、青空のような色をしたデニムのハーフパンツに、某世界的スポーツメーカーの黒サンダルというスタイルのモアナを、マウイは腕を組み直してジッと見つめた。
自分で促したものの、こうも審査しているかのように見つめられるのも何だか恥ずかしい。
広げた腕を元の場所へ戻すタイミングを見失い、途方に暮れそうになっていたモアナにマウイが言った。
「似合ってるんだからいいだろう、それでも」
「ちが…っ!もう!そうじゃないの!」
なんでこうも気持ちが伝わらないのか!と、ヤキモキしたモアナは捲し立てるように言葉を続ける。
「私だって普段のこの恰好は気に入ってるの!でも男の子と2人で出かけるんだから、その時くらいはもっと女の子らしいファッションがしたいのよ!そういうのもマナーのひとつでしょう!?」
自分で言っておいて『マナーとは?』と思ったが、深く考えるのはやめた。予想外に目の前のマウイの表情が変わったからである。一理あると言わんばかりに、口元に右手を添えて眉根を寄せた顔を少し伏せてしまった。
「…確かに、大学生になる年頃の娘が色気付くのも無理はない、か」
「別にそういうつもりじゃ…」
「そういうことだろう。男の期待に応えようとする、巻き毛ちゃんのその考えは間違ってないさ」
モアナにそんなつもりは無かったのだが、なぜか納得しているマウイを見たらそれ以上は何も言えなかった。これで自身の目的が果たせるなら問題ないのだ。
ーー僅かに感じる、心の奥底に沈んでいくモヤモヤは見ないことにした。
「ーーよし、仕方ないから付き合ってやるさ。で、そいつと出かけるのはいつだ?」
急にマウイの了承の声が聞こえて慌てる。
モアナは咄嗟に彼の声に神経を向けて、しなくてはならない受け答えを頭の中で組み立てた。
「えっと、来週の土曜日」
「思ったより余裕ねぇな…明日の午後でもいいか?俺もそこしか時間が取れそうにないんだ」
「い、いいよ。大丈夫。授業が終わってからになるけど…」
「了解。15時には終わるよな?学校まで迎えに行くからそのつもりでな」
そう言ったマウイは、自身が注文した特大のハンバーガーにやっと手を伸ばしてそれにかぶり付いた。
「ほらモアナ、お前もさっさと食っちまいな。午後も授業があるだろ?」
「そ、そうね」
そうだった、これからまた学校へ戻るのだった。
そう思い直してモアナも手付かずだったロコモコを食すため、ナイフとフォークを手に取った。少し冷めてしまったが、これ以上冷める前に食べてしまわなければ。
食べ慣れたハンバーグは相変わらず美味で、モアナは数分前に感じたモヤモヤのことをすっかり忘れ去ってしまった。
*****
「ーーで、そいつと何処へ出かけるんだ?」
翌日、大型ショッピングモールのエントランスを進みながら、隣に立つマウイがそう問いかけてきた。
なぜそんな質問をされたのか分からず、「へ?」と間の抜けた声を出したモアナに対して、彼が呆れたように続けた。
「あのなぁ、出かける場所や目的によって服装を変えるもんだろ?TPOってやつだ。アクティビティを楽しみに行くのにスカートなんか穿いていかないだろ?」
「あ、なるほどね…えっと、ランチをしてからロック様の映画を観に行くのは決まってるよ。その後は近くのカフェに行くんじゃないかな?」
「あぁ〜あの新作か。若い男女で観に行くようなもんじゃないと思うがな…まぁそこは気にしない方向で行くか。要は王道のデートコースな訳だな」
マウイの言葉を聞いて『これって王道のデートコースなんだ』とモアナは呑気に思った。いかんせん経験がないため何も分からないモアナは、マウイのその言動を心強く思って安心した。
(やっぱり、マウイに頼んでよかった)
モアナにとっての彼は父の経営者仲間というよりも、あらゆることの経験が豊富故に、頼れる兄としての一面のほうが強い。今回もそれを色濃く感じた瞬間だった。
マウイの先導で向かったのはモアナでも知っている有名なブランドのブティック店。全世界に店舗があるくらい有名なブランドであるが、価格は比較的リーズナブルで幅広い年齢層に愛されている。
今までモアナには縁がなかったブランドだが、真っ先にここへ来るということは、王道デートに最適なファッションが叶うということだろうか、と密かに考えているとーー
結果、モアナは圧倒された。
マウイは店舗全体を軽くみて回ると、早急にいくつか頃合いの服を見繕って、いつの間にかその大きな両手に複数のハンガーを持っていた。
マウイはそれを店員さながらの手つきで、壁に設置されたハンガー掛けに吊るしていく。
デニム生地のチューブトップワンピース。白いリネン生地のベストとフレアスカートのセットアップ。赤いチューブトップと白のスキニーパンツ…数々のコーディネートが目の前で広げられた。しっかり小物まで考えているようで、バッグやミュールまでも持ち出されてモアナは目を疑った。
目の前に広がるお洒落なコーディネートに圧倒されながらも、特にモアナの目を奪ったのは夕焼けのようなオレンジ色のワンピースだった。ノースリーブで膝下まで丈がある少しタイトなワンピースだが、左サイドに膝上までのスリットが入っているエレガントなデザインである。Vネックの胸元で、そこから大ぶりの金色の飾りボタンが着けられており、ワンピースと同じ生地の金のバックルのベルトが付属されていた。
「このワンピース、素敵…」
自然とモアナの口から言葉が漏れていた。
少し大人っぽくて今まで着たこともない系統のワンピースなのに、自然とこのワンピースを着ている自分の姿を思い描けるほど、モアナは目の前のワンピースに心を奪われていた。
「…それが気に入ったのか?」
「うん。私、これを着てみたい。試着してもいい?」
「ーーもちろん。着たいものを着ればいい」
そう言うとマウイはそそくさとそのワンピースを手に、モアナを試着室までエスコートした。ワンピースを彼女に手渡しながら「着たら一旦出てこいよ」と一言残して、彼はサッとカーテンを閉めてしまった。
(なんだが、ちょっと様子がおかしくなかった…?)
何がと問われると説明し難いのだが、心なしかマウイが不機嫌だったように感じたのだ。
しかし確信も持てない以上、とりあえず今は試着をするしかない。
モアナは私服を脱いで、ハンガーにかかった素敵なワンピースに手を伸ばした。
*****
鏡の前にいる自分が信じられなくて、モアナは目を疑った。
自分で言うのも何だが、ものすごく似合っていると断言できる。
カジュアルスタイルが定着していた自分が、まさかここまで女性らしいファッションをする日が来ようとは思ってもみなかった。
鮮やかなオレンジ色が褐色の肌によく映えて、顔色が明るく見えるところも良かった。カールの癖が強い黒髪にもこのオレンジはピッタリで、心なしか髪の艶が際立つように思えた。更に胸元の飾りボタンとベルトのバックルのゴールドが、より華やかな印象を与えてくれる。
湧き上がる興奮が抑えきれず、モアナは自然と笑顔を浮かべたまま試着室のカーテンを開けていた。
「ねぇマウイ、これすごく良くない!?」
試着室の目の前の椅子に座って待っていた彼がこちらを見ると、そのつぶらな目が限界まで見開かれる。
目は口ほどに物を言う、とはよく言ったもので、それだけで彼の気持ちが分かってモアナは安堵した。
(良かった、怒ってるわけじゃなさそう)
むしろその逆であることは想像に難くない。
モアナと同じ気持ちであることは容易に想像できた。
「…そうだな。似合うだろうとは思ってたが、想像以上だ。それを着ていればどんなデートが来ても問題ないな」
マウイからもお墨付きをもらえて嬉しい。嬉しいはずなのに、彼の口から出た『デート』という単語に、なぜか心が澱む。
ここに来た本来の目的はそのためなのに、なぜ今更こんなことで胸が重くなるのかーー
今分かることは、クラスメイトの彼にこの姿を見せることに抵抗がある、ということだけだ。
「そうだよね…でも、やっぱ今回は他のものにしようかな」
「なんでだよ?すげぇ似合ってるのに」
「…その、この姿を見せるのに抵抗があるの。この素敵なワンピースは、もっと特別な時に取っておきたいというか…」
ーーと、ふいに彼の反応が気になって、モアナは伏せていた目を持ち上げた。
視界に飛び込んできたのは、どこか嬉しそうな表情のマウイ。優しい瞳で、こちらを見つめる彼に視線を絡め取られたかのように、モアナは目を逸らせなかった。
ドクン、と確かに胸が高鳴った。
今まで感じたことのないような、胸が締め付けられるような感覚に支配される。
しかし、今のモアナには、その胸の切なさの所以を紐解くことが出来なかった。
「ーーそうか。なら、他のやつにするか」
マウイが言葉を発してくれたおかげで、ようやくモアナは瞳と体を動かすことができた。いつの間にか体まで硬直していたようだ。
「う、うん、そうしようかな。他のも試着していい?」
瞬きも呼吸も忘れていたような心地だったので、自然と言葉を紡げることに妙に安堵しながら、モアナは他のコーディネートを試すべくその場から離れた。
己の心が掻き乱されていることは嫌でも分かった。
なのにその理由が分からず、モアナはひとり悶々と考えながらカジュアルスタイルなコーディネートに手を伸ばしていた。
*****
結局、購入したのは赤のチューブトップと白のスキニーパンツ。それに合わせてカゴバッグ、パールがあしらわれたミュールも合わせて購入した。こちらの方が今のモアナ自身のイメージに近くて、クラスメイトに会うのに抵抗を感じなかったためだ。
が、マウイの厚意で先のワンピースも合わせて全て彼が購入してくれた。
モアナは断ったのだが、マウイは折れることなくそそくさと会計を済ませてしまったので、素直に感謝を述べてありがたく厚意を受けることにした。
その代わりにコーヒーだけでも奢らせてほしいとモアナが懇願して、場所を移して今はモール内のカフェで一服している最中である。
涼しい店内で向かい合って座るふたりの間には、フルーツと生クリームがトッピングされたふわふわのパンケーキとアイスカフェラテ、お店こだわりの本日のブレンドコーヒーがある。
想像以上のパンケーキが出てきて嬉しそうに写真を撮るモアナを、テーブルに肘を預けて頬杖をつくマウイが揶揄うように言う。
「見た目は変わっても、中身はまだまだお子様だな」
「だって美味しそうなんだもの。いいでしょ、これくらい」
マウイが揶揄った理由のひとつは、モアナの装いが変わったからだろうか。
モアナは、先のお店で購入したオレンジ色のワンピースを着用していた。
試着した時の感動が忘れられず、購入してそのまま着用したいと希望したのだ。
このワンピースを着ていると、自然と背筋が伸びるような心地になる。素敵な装いをすればそれに見合った振る舞いを意識するようになるのだと、モアナは初めて知った。
そして、素敵な装いでする食事も普段より一段と素敵に思えるようだ。
普段から一緒に食事をする機会が多いマウイと、普段からよく注文するデザートとドリンクという組み合わせでも、いつもと何か違うような気がして人知れずワクワクしている。
「ほら、さっさと食べねえとそのデッカい苺、もらっちまうぞ」
「えっ、待って!ダメだからね!?」
マウイの言葉に焦ったモアナは、そそくさとスマートフォンを仕舞って素早くフォークを握った。狙われた苺を死守すべく、早急にフォークで苺を捉えるとそのまま口に運ぶ。
生クリームがたっぷりついた苺は、それはそれは美味だった。甘いのにあっさりしている生クリームと苺の甘酸っぱさは相性抜群で、口の中に多幸感が広がっていくのをモアナは感じた。
「う〜〜ん!すっごく美味しい…!」
モグモグと咀嚼するたびに感じる幸せにうっとりしていると、目の前のマウイが意地が悪いニヤニヤとした表情で言う。
「そりゃ良かったな。ほら、口の端にクリームがついてるぞ」
「えっ、ほんとに?」
慌てて頬張った時についたようだ。どこだろうと指で擦ろうとしたら、目の前に紙ナプキンが迫っていた。
「じっとしてな」
マウイが手にしたナプキンでクリームを拭いてくれるようで、モアナはそのまま大人しく待つことにした。
モアナの顔よりも遥かに大きい手が器用にクリームを拭っていく。彼女の肌を力任せに擦ったりすることなく、優しい力加減と最小限の接触でクリームを拭き取った。
そして、おもむろにマウイが言った。
「お前って、本当に可愛いな」
ーーそれはそれは、心の底から込み上げるものがあると言わんばかりの優しい表情で。
突然の言葉にモアナは完全に固まってしまった。思考も停止した。頭の中にマウイの『可愛い』という声がこだましているのだけは分かった。
こんな優しい表情のマウイに『可愛い』などと言われたことなど、今まで一度もない。揶揄われて言われたことは何度もあるが、揶揄われている風でもないこの『可愛い』は、一体どういう意味なのか。
心臓が早鐘を打つ。顔に熱が溜まっていくのが分かった。
なぜ、彼に対して自分はこんな反応をしているのだ。
自分自身のことなのに、モアナには何ひとつ理解が出来ない。それが何とも歯痒かった。
モアナのそんな反応を見て、やっとマウイも己の言葉の重大さに気付いたようで、慌てて弁明の言葉を紡ぎ始めた。
「いや、違うぞ?!年頃の娘になってきた割には、まだまだ子供らしいところがあることに対して出た言葉だからな!?変な誤解はよしてくれよ」
「だ…だよね!!もーー本当にビックリしちゃった!」
ーーモアナ自身の言葉に嘘偽りはない。
確かにほっとしている自分がいる。
だから笑顔で応えられる。
しかし、身振り手振りを交えて弁明をするマウイをどこか冷めた気持ちで見ている己がいることに、モアナは内心で動揺していた。彼の必死な説明を聞き、胸が塞がっていくような重たさを感じたのだ。
なぜこんな気持ちが湧いてくるのか、その理由も原因も分からない。それが余計にモアナの胸を切なくさせた。
しかしそれを悟らせないように、モアナは努めて笑顔で目の前のパンケーキにナイフを入刀した。
美味しいはずのパンケーキが、なかなか飲み込めなかった。
*****
その後はマウイの買い物に少し付き合ってからショッピングモールを後にした。
夕飯も食べていくかと彼に聞かれたが、モアナはどうもそんな気になれず帰路につくことを選び、今はマウイの車の助手席で外を景色を見ていた。
(なんだか疲れちゃった…)
いつもと違うことをするとこうも疲れるのだろうかと考えながら、流れていく窓からの景色を眺める。ショッピングモールを出た時はまだ夕暮れであったが、すでに辺りは夜の帳が下りていた。もう少しで満月でなるであろう月が、東の海から昇って海面に反射する様はとても美しい。
そこから目を離して明かりが灯った建物をウトウトしながら眺めていたが、途中で限界がきてモアナは瞼を閉じた。
しかし完全には寝付けず、車の揺れを感じたりマウイの鼻歌を聞きながら微睡んだ。
心地よい微睡みのなか、モアナがぼんやりと考えたのは隣のマウイのことについて。
先のカフェでのこと、試着室でのことーーどうも今までのふたりの関係性では説明がつかない感情に支配されている。
なぜ、クラスメイトの前でこのワンピースを着たくないのだろう。マウイの前で着ることには抵抗がないのに。
なぜ、マウイに『可愛い』と言われてあんなに動揺してしまったのだろう。初めて会った時から幾度となく言われたことがある言葉だというのに。
ーーなぜ、今更、マウイに対してここまで心が動かされるのだろうか。
その答えが出る前に、車が緩やかに停車した。
「…巻き毛ちゃん、着いたぞ」
どうやらモアナの自宅に到着したらしい。
正確には、自宅から少し離れたビーチの前、だが。
家の前の道がそこまで広くなく、マウイの車で自宅前まで行くと他の車の通行を妨げてしまうため、少し離れた場所に駐車するようにしているのだ。
いつもなら眠っているモアナを起こすために、マウイが肩を揺らして起こしてくれる。
モアナはすでに覚醒しているのだが、ただ、何となく、そのまま眠ったふりをした。してしまった。自分の考えが分からないから、今も意味不明なことをしてしまうのだろうか。
これでは、何かを試しているかのようではないか。なのに何を試そうとしているのかモアナ自身も定かじゃなく、余計に混乱した。
とにかく、彼が自分の肩に触れるのを待った。
が、一向に触れる気配がない。
(え、なんで…?)
なんなら、マウイが身じろぎひとつしていないように思う。微動だにせず、ただこちらを見つめているような気配を感じて、モアナの体に緊張が走った。怪しまれないように、自然体で寝ているフリを続けなければならないのも余計に緊張に拍車をかける。
そんな時、やっとマウイの動く気配を感じた。
(えっ…!?)
やっと空気が動いた、と感じた矢先に触れられたのはモアナの左手。マウイの大きな手が、モアナの左手を優しく包み込んでいた。
(なんでそうなるの!?)
動揺が隠せない。果たして自分は眠ったフリを今も出来ているのか、今はそんな自信もない。それくらいモアナの心を揺れ動かす行動だった。
だというのに、マウイの手の温かさ、真綿で包むかのような優しい力加減をつぶさに感じ取ってしまう自分がいる。その事実に心臓が早鐘を打つ。
そこへ、更に追い討ちをかけるようにマウイが動いた。
彼の手が、モアナの髪に触れた。
(なっ…なんで!?)
なぜ、彼が自分の髪を撫でているのか。
表面を優しく、頭の輪郭をなぞるようにして何度も撫でられた。
直接肌に触れている訳ではないのにどこか擽ったくて肩が震えてしまう。
ーーなのに、不思議と嫌だと思わない。そんな自分がいることに殊更驚いた。
「んん…っ」
擽ったさを堪えられず、モアナの唇から声が漏れてしまった。
その声に驚いたのであろう、パッとマウイの両手が離れた。
温もりが離れて安堵すると同時に、どこか物寂しさを感じながら瞼をゆっくりと開いた。咄嗟に、今起きましたと言わんばかりに何度も瞬きするのも忘れない。
そして、ゆっくりマウイの方へ首を動かして、ようやっと彼の顔を見た。
驚くくらい、彼の顔が近くにあった。
真剣なような、寂しさを滲ませたような、こちらに縋り付こうとしているような、なんとも説明が難しい表情をしていた。
その侘しい色を滲ませた瞳と目が合った時、心臓を鷲掴みされたかのような心地を覚えた。ずっと早鐘を打っていた心臓が痛んだ。
ここにきて、漸く自分の気持ちが見えた。
(わたし…マウイのことが好きなのね)
兄としてじゃなく、ひとりの男性として惹かれているのだとやっと悟った。
だから、こちらを欲しがっているかのようなマウイのその表情に、胸が高鳴ってしまうのだろう。
しかし、すぐにその気持ちを言葉にできるほど、モアナは強くはなかった。
「…もう着いたのね?」
マウイから視線を外して、車の外を景色を見るように首を左右に動かした。
あくまで今までのように振る舞うことを選んだ。突然自覚したこの感情を、そのまま伝えられる強さがモアナには無い。
そもそも、自分の手を握って髪を撫でたからといって、それがマウイがモアナのことを好いている証拠とは限らないのだ。
そう自分に言い聞かせて、冷静でいることに努めた。
「ああ、なかなかの眠り姫だったからな、どうやって起こそうかと考えてたんだ。目覚めてくれて何よりだ」
(良かった、いつものマウイだ)
そのことに心の底から安堵した。
ーー今のこの関係でいい。
これは紛れもなく本心である。
しかし、いつかは崩れてしまうのだろう。
どちらに転ぶかは、まだ誰にも分からない。
If you make a mistake, you can cancel it by pressing the reaction.