前回→
https://privatter.me/page/68e7cfaca347f
「寝坊した!?」
アラーム音が鳴る前に隣のファイノンが飛び起きる気配がし、何事かと目が覚める。けたたましいアラーム音が鳴り始め、隣のベッドに向かって「六時だ」とあくび混じりに答え、上半身起こす。
「なんだよかった
……あと一時間寝られる
……すぅ
……」
「おい待て、目覚ましをセットしていな
――寝たか」
素早く二度寝をしてしまったファイノンに呆れつつも、昨晩飲みすぎたせいだろうか、と寝起きの脳にぼんやりとした思考が上る。この男が二日酔いになった姿を見たことはないが。
アラームを七時に変更し、あくびをしながらベッドから足を下ろす。朝食の時間までに起きていればいいはずだが、ファイノンの代わりに起床しておくことにする。
端末をファイノンの頭のそばに置き、眠っている男を見下ろす。顔色は悪くない。
平和そうな間抜け面を浮かべる男の髪に触れそうになり、慌てて手を引く。
部屋に備え付けの電気ポットに水を入れて湯を沸かし、鞄から読みかけの本を取り出す。時計に目をやり、寝息を立てているベッドの上のファイノンに視線を向ける。
朝食は八時と聞いているので、一時間後に目を覚ませば問題ないだろう。
「寝坊した!?」
「七時だ」
一時間前と全く同じセリフでがばっとベッドから起き上がったファイノンは、けたたましく鳴り響く俺のスマートフォンを恨めしそうに睨みつけ、画面を弄って目覚ましを止めている。
その苛立った表情の珍しさに新鮮さを覚えながら端末を受け取りに行くと、眉間に寄っていた皺は俺を見上げた瞬間にふっと緩む。眉を下げた柔らかい笑みに、心の隙間を鷲掴みされたような気分になった。心配していた酒臭さも残らず、ファイノンの様子は普段と変わらない。
昨晩は予想通り、いつもよりやや寝つきが悪かった。それは隣に眠るファイノンの寝息を妙に意識してしまったからでもあるし、なかなかの酒臭さに叩き起こして水を飲ませた方がいいのかと葛藤したせいでもある。
結局俺はよく眠っている男を起こすことはできず、頭から布団を被ると、ファイノンに背を向けて眠ることにした。
「おはよう。心臓止まるかと思ったけどありがとう。というか君、今朝は随分早起きしたんだな。もう少しのんびりしていて良かったのに」
「
……たまたま目が覚めただけだ」
ファイノンが俺の嘘に気づくか少しひやりとしたが、特に引っ掛かったら様子もなく、寝癖のついたぼさぼさ頭のままベッドから下りる。少しはだけた胸許から覗く筋肉に無意識に視線が取られ、気付かれる前に逸らす。
「二日酔いは大丈夫か」
「ん? 全く。ふぁぁ
……朝食前にシャワーを浴びてくるけど、君も使うかい」
「俺はいい。
……待て、着替えを持っていけ」
あくびをしながらシャワールームに消えていこうとするファイノンの背中に声をかけると、そうだった、とへらへらした笑みを浮かべながらファイノンが振り返る。普段、家では脱衣所の棚に俺が服をしまっているから忘れていたのかもしれない。
こいつのことだから、「服を用意するのを忘れてた」と濡れた体にバスローブを羽織った姿で出てきてもおかしくないので声をかけて正解だった。
シャワーを浴びている間にもう少し読み進めておくか、とアラーム音と共に停止していた読書を再開する。
「昨日もしかして僕の服畳んでくれた?」
ゴソゴソと鞄を開けて服を取り出しながら、ファイノンが俺を振り返る。
「昨晩は服を脱ぎ散らかしてベッドに入ったからな」
「うわ、それはなんというか、すまない
……」
「大したことじゃない」
昨晩の醜態にようやく思考が及んだのか、ファイノンの耳が微かに赤くなる。寝癖が盛大に跳ねている髪を梳かしてやりたい衝動を抑えつけ、「さっさと風呂に入れ」と向けていた視線を本に無理やり戻す。
俺は俺で昨晩、俺を抱きしめてきたファイノンの体温の熱さを再び思い出し、落ち着かない気分になる。首筋や頬に触れたファイノンの毛先のくすぐったさに体温が上がる感覚がし、それを誤魔化すために息を吐く。
「そういえば露天風呂って行った?」
「昨日行った。
……いいから先にシャワー浴びて来い」
寝ぼけて頭が回っていないのか、何故か無駄話をだらだらと投げかけてくるファイノンに時計を指差してやる。このままでは朝食の時間になってしまいそうだった。
*
朝食を部屋で済ませると、調律具一式を持ったファイノンと一緒にホールへ向かった。仕事をするすがたを見ていてもいいか、と聞けば、「別に構わないけど」とファイノンが言ったからだ。
朝食の間にファイノンから聞いた今日のスケジュールは、九時半から調律(修理を含む)を開始し、昼休憩ののち、十三時から十七時頃まで再び調律と確認。もし仕事に問題がなければ早めに仕事を切り上げ、十八時頃に屋敷を出て、十九時から一日早い俺の誕生日ディナーとのことだった。
楽しみにしていていいよ、とディナーに触れて笑顔を見せるファイノンに、「楽しみにしている」と答えつつも、内心緊張していた。
「君もとうとう大人の仲間入りか。今夜は僕は運転するし、君も厳密には一日前だから酒は抜きだけど、お祝いの一杯くらいは帰ったらどうかな」
「一杯くらいならな」
なんとなく酒は好きではない気がしていたが、酔ったファイノンが普段より数倍何も考えていないような間抜け面でへらへら笑っている姿を思い返すと、今夜に関しては酒が入っている方が実はいいのではないか、と雑念が走っている。
二十歳になったら
——成人したら、ファイノンに告白をしようと決めたのは去年のことだった。この選択が正しいのかどうか今もやや迷っている。
この男のことが好きだと自覚したのは、大学一年の冬、同じ科の同級生に告白をされた瞬間だった。もしかすると両親が亡くなる以前からそのような感情があったのかもしれなかったが、その瞬間まではそもそも恋に関して思考を巡らせる瞬間もなかった。高校時代、両親を亡くした俺に周囲は腫れ物を触るような扱いで、友人はいても、恋とは無縁だった。俺も憧れは特になく、友人に恋人ができて祝福をしても、自分自身とは無縁なものだろうとでも思っていたのか、興味は湧かなかった。
それなのに、告白をされたからと言って急に自覚するものだろうか、とも思う。
憧れや親愛を誤認している可能性も当然考えたが、それだけであればきっと触れたいという衝動は沸かないだろうし、俺はファイノンの仕事に対する尊敬の念はあっても、別段調律師に対して憧れはない。
両親が亡くなった前後でずっと俺のそばにいてくれたのがファイノンだったからと言って、それからずっと精神的に依存しているとも思えなかった。勿論その瞬間がなかったとは言わない。病院で呆然とする俺の隣に立っていたのは
——親族以外で同席を許されたのはファイノンだけだった。それはファイノンが父上の弟子だったからか、事実上俺の第二の保護者だったからと言うだけの話かもしれない。
あの夜、肩を抱いてきた男の手は微かに震えていた。
それでも、「大丈夫、大丈夫だから」と俺を安心させるように囁いてきた人間はファイノンしかいなかった。それを幸福な事だと思っている。
お前がそう言うのならきっとそうなのだろう。素直に、その言葉が胸に沁みた。
しばらくはファイノンが不在の間、自宅で妙な不安を覚えることもあったが、半年も経過すれば傷はある程度癒えていた。元々両親が自宅にあまりいない生活を送っていて、ファイノンが泊まりに来るような生活を続けていたから、その日常が崩れたわけではなかったからかもしれない。
あれから五年も経過し、今では両親の死を受け入れている。それはファイノンが俺のそばにいたからだろうと感じている。
今はもう、ファイノンがいなくと俺は日常を送っていけるだろう。それでもファイノンにいて欲しいと感じてしまうのは、あいつに特別な感情があるからだろうと感じていた。
二十歳で告白をしよう、と言うよりは、すべきだ、と思っていた。今日までしなかったのは俺があいつにとっては取るに足らない子どもだと思われている気がしたからだ。
成人したと言っても俺はまだ学生の身分で、ファイノンにとっては子どものようなものかもしれない。だが、「君が大人になるなんて」と揶揄い混じりにファイノンが何度か言っていることから考えても、ファイノンの意識も何か変わるはずだと信じている。
「ん
……?」
「どうした」
ホールに向かう途中で、ファイノンが突然立ち止まる。
「いや、なんでもないよ。オルクスさんをホールで待たせてるだろうから急がないと」
「
………………? あいつは
……」
ファイノンが視線を向けていた方を見れば、池の前でイライラしたように煙草を吸っている男がいた。年は三十代前半といったところか。痩せ型で神経質そうな顔をしている。日差しが強いにしても顔に不釣り合いなサイズのサングラスをしており、表情はよく見えない。
「メデイモス、行くよ」
「あ、ああ」
強い口調で呼ばれ、先を歩いていたファイノンを慌てて追う。
追いついた俺を、やや咎めるような表情でファイノンが見た。珍しい態度に、どうかしたのか、と首を傾げる。
「彼のことが気になっているのかい」
「? それほどではないが、お前の顔見知りか?」
「いや全然。ちなみに彼がスコートさんだよ」
ファイノンが俺の背後に顔を向け、すぐに俺へと戻す。スコートとやらを見たのかもしれない。確かめるために振り返りそうになったが、ファイノンがさらに不機嫌になりそうな予感がし、やめておく。
「招待するオルクスさんもオルクスさんだけど、招待されて本当に来ちゃう彼もどうかと思うよね」
「
……………………まあ、それはそうだな」
妙に棘のある言い方に、腕を組みながら頷く。この男にしては珍しい反応だった。
ファイノンは人好きをする顔立ちをしているし、基本的には孤独を好まない男だ。先日のように時折自室から出てこなくてなることはあっても、俺の入室を拒むことはない。話しかければ疲れた顔に笑みを浮かべ、「どうかしたかい?」と自分の様子を棚に上げて尋ねてくることもある。
人当たりが良く、頼まれごとにも弱い男だから、今回のように断りきれずに仕事を受けてしまう事も度々発生している。ファイノンは基本的に性善説の男だろうと感じているし、それはこの男の美徳だとも思っていた。故に、このように明確に敵対心を露わにするのは珍しい。
「顔見知りではないと言っていたが、それは本当の話か?」
「えっ、本当だけど、どうして?」
「お人好しで面倒事に巻き込まれやすいお前にしては、珍しい反応だと感じただけだ」
ファイノンは俺の言葉に「そんな風に思ってたのかい?」と眉を下げ、情けない顔をする。
お前がお人好しでなければ、なんだと言うのだ。師事した男の息子と暮らそうだなんて、これ程面倒な事を引き受ける男が現実にそういると俺には思えない。
そう考えて、あまり見ないようにしている現実に目が向いてしまう。ファイノンの日頃の俺への態度や優しさは、俺への純粋な好意や愛情だけではなく、父上の
——師の忘れ形見だからと言うのも大きいだろう。
だからこそ「一旦卒業するまでね」と同居の際に口にしたのだと思っている。その後、ファイノンがどうするのかまだ話し合ってはいない。何度かしようとしたが、話題を避けられていることだけは感じていた。
卒業まであと数年あるが、その間に決着をつけるべきだろう。
*
ホールではファイノンが言った通り、すでにオルクスが待っていた。昨日見たホール上のグランドピアノは、本番と同じ位置にあると説明されていたが、特に場所の移動はないらしい。
「やぁおはよう。昨日は飲ませすぎたかと心配していが、平気だったみたいだな!」
悪びれもせず溌剌と言う男に、ファイノンが苦笑する。仕事に響いたらどうするつもりだったのかと理解に苦しむが、結果的に問題がないので俺が余計な事を考えるべきではないかもしれない。
「おや、メデイモスくんも見学かね。専攻は音楽学と言っていたが、実は転科の予定でも?」
「今のところ転科の予定はないが、秋に特別講義を受ける予定だ。予習のつもりで見学させてもらう」
「オーリパンの後を継ぐのかと思ったがそうではないのか。まあ君はまだ若いし、将来のことはまた考えてみてくれ」
やや残念そうに口にするオルクスに頷き、ホールの一番前の席に座らせてもらうことにする。見学するとこの男には言ったが、ファイノンには「飽きると思うし部屋に戻ってもいいからね」と言われていた。途中で本を読みたくなるか、飽きればそうするつもりだった。
「昨日伺った内容に変更がなければ、早速ピアノをチェックさせてもらいます」
「うん、ひとまず昨日のままで頼もう。終わった後に弾いてみて微調整させてもらうだろうが」
「わかりました。じゃあ、完了次第連絡します」
「よろしくたのむぞ! 言い忘れていた」
室内の空調操作について説明した後、ホールを出て行こうとしていたオルクスが足を止め、一番右はじの席に置かれているクーラーボックスを指差した。
「あそこに置いてあるクーラーボックスと水筒には飲み物がはいっているから、二人で好きに飲んでもらって構わないよ。それからメデイモスくん、もし庭が見たければ好きに見てもらって構わないし、アルセンに聞いているかもしれないが、図書室も自由に出入りしてもらって構わない。では、私は屋敷で練習しているから、なにかあればアルセンに連絡をしてくれ。番号は聞いているかね?」
ファイノンがいえ、と首を振ると、オルクスがスマートフォンを取り出し、ファイノンにメールを送る。男のメッセージがそのまま俺に転送されて来たと言うことは、俺も登録をしておけと言うことだろう。
オルクスがホールを出て行き、重いドアが閉じられる。ホール内には俺たちだけが残され、さて、とファイノンが仕事道具の詰まった鞄を椅子の上で開いた。
「それじゃぁ僕は仕事をするけど、君は本当に好きにしてくれていいからね。ピアノのそばに立たなければ好きなとこにいてくれていい、ってまぁ、こんなの今更君に言わなくても大丈夫だろうけど」
「ああ、心配するな」
万が一弦が切れて変な方向に飛んだら怪我をしてしまうから、調律を見る際はあまりピアノのそばには寄らない。父上きもファイノンにも散々言われていたことだった。
「飽きたら部屋に戻ってのんびり本でも読んでてくれ。もし早めに終わったら君にも連絡するから、通知は見ておいてくれよ」
「わかった。そういえば、昼はどうするんだ」
「
……………………そういえばどうするんだろうね?」
屋敷に戻るのかも、と曖昧な事を言ってファイノンが笑う。
「普段の調律仕事は夜が多かったか」
「割とね。うーん、場所にもよるけど、お弁当があることが多かったから、そういえば確認してなかったな」
「
……あとでアルセンに確認しておく」
よろしく、と言いながらファイノンがピアノの
前屋根と大屋根を開け、鍵盤の前に立つ。
電話で昼食を確認するのは後にしておくことにし、椅子に腰を落とす。
ファイノンが鍵盤の前に立ち、基準の
Aを鳴らす。
ピアノの調律はまず基準の音を整え、その音を基準に他の音を合わせて行く。ただし、一音につき弦が二本ないし三本あるため、まず弦と弦の間にフェルトウェッジという工具を挟んで一本の音を整えてから、他の二本(一本)の弦を合わせる
……というのを、八十八音分繰り返す。
昨晩、オルクスが数ヶ月前に一度調律していると言っいたからそこまで大幅に狂ってはいないだろうが、それでも単純に数が多い。
早々に基準音を整えたファイノンは基準のAの倍音
——一オクターブ上下のAの音を整えはじめる。同じ音を何度か弾き、弾いては整え、と単調な作業が続く。そうして次々と鍵盤を叩きながら、弦が巻かれたチューニングピンにチューニングハンマーを差し込み、微妙な力加減で緩めたり締めたりするのを黙って見ていた。
中学に上がる前、自宅で父上から調律を少しだけ教わったが、チューニングハンマーは意外と硬く、回すだけでも大変な上に、回しすぎても音は簡単にズレてしまう。一つの弦を整え終えても、もう二本、三本も全く同じ音
——周波数にしなければならない。二本ないし三本の弦の周波数がズレていると言うことは、一つの鍵盤を叩いた際に音の波が重ならず、波長がぶつかり、微妙な
うなりが生じ、不快な音となる。
……とは言え、多少のズレさえも聞き取る耳があるかどうかは訓練と才能に寄る。当時の俺は、音の微妙な違いを聞き分けることができなかった。
経験しているうちにわかると父上は笑っていたが、大人になった今も、俺は調律師になれるほどの耳には育たなかった。
ファイノンの真剣な横顔を見つめながら、恐ろしい速さで調弦して行く仕事ぶりに感心していた。
父上やファイノンから昔聞いた限りでは、コンサートチューナーがこんな風に、演奏者もスタッフもいない状態でチューニングできることはそう多くはないらしい。
舞台設営をしながら調律をするのはザラで、ある程度騒がしい中でも正しい音、演奏者の望む音を時間内で作るのが仕事だといっていた。ファイノンもきっと、そう教わってきただろう。
ホール内に俺以外の他の誰がいても仕事ぶりは変わらないのだろうが、真剣な表情で仕事をしているファイノンの姿をこうしてじっくり見るのはなかなかないことだった。
集中力を切らさないファイノンは、雑念混じりの俺の視線を気にしない。声をかける気にはもちろんならなかったが、普段、気の抜けた優しい顔ばかり見せている男の真剣な表情に、正直な事を言えば興奮していた。
ファイノンは普段は壊れたピアノを修理したり、新しくピアノを作ったりするのが主な仕事でで、調律師の仕事はどちらかといえば好きではないと散々俺にも口にしていたが、俺からはそうは見えなかった。
八十八音の調律が済むと、次はピアノの「整調」と「整音」が待っている。
ピアノは鍵盤と連動したハンマーが弦を叩いて音を出す楽器だ。そのハンマーの動きやネジの高さなどを調整するのが「整調」、「整音」は主にハンマーを調整する作業で、ハンマーヘッドと呼ばれるフェルトで巻かれた部分を整えたり、「弦を叩いて離れる」動作を揃えることで、全体の音質を調整することを言う。
鍵盤の「弾き心地」や音質は、演奏者によって要望が異なるため、後で微調整が発生するポイント、らしい。
クライアントとのそう言ったやりとりが面倒なのかと聞けば、「いやそこはどちらかと言えば楽しい部分だよ」と言うのだから、本当に起こるかどうか分からない、弦が切れるかどうかのハラハラを味わいたくないだけらしい。
父かファイノンが担当した演奏会で弦が切れたと言う話は数度しか聞いたことがなく、一度聞くことは心配をしすぎても仕方のないものを無駄に心配しすぎているだけのような気がするが、性格の問題なのかは俺にはわからない。
「
……ん?」
ファイノンの調律を黙って見つめていると、何やら窓の外から視線を感じた。
「あれは
……」
俺と視線が合うと、ぱっと逃げ出して行ったのは昨晩も捜索されていたセレナだった。何故かセレネを放っておいてはいけない気がし、ファイノンに声をかけずにホールを出る。
*
庭を歩き回り、セレネがいそうな場所を探す。と言っても広すぎる庭はまだ散策していなかったため、舗装された道の上をなんとなく歩いてみているだけなのだが。
先ほど窓からホールを覗いていたセレネは、ファイノンを睨みつけていたように見えたが、もしかするとファイノンではなく、ピアノを睨みつけていたのかもしない。
「無駄に広いな
……」
十五分ほど歩き回り、今朝方スコートを見かけた池に落ちてやいないかと念のため覗いてみたが、スコートの姿もセレネの姿もない。
「アルセンに聞いてみるか」
忘れていたが、昼食の確認がてら連絡をしてみるべきだろう。もし屋敷に帰っているのであればこれ以上心配をする必要もない。
コール音が四度程鳴り、アルセンが電話口に出る。恐らく業務用端末なのだろう、俺が名乗る前も訝しむような声音ではなく、まるでホテルのフロントのような応対だった。
「お前に二点尋ねたいことがある。先程ホールのそばでセレネを見かけたが、今は屋敷にいるか?」
『お嬢様ですか? いえ、こちらにはいらっしゃいませんが
……。なにかありましたでしょうか?』
「いや、探しているのでなければいい。しかし、先ほどホールを覗いていたので、俺かファイノンに用があったのか、あるいは父親を探しているのかと思った。オルクスであれば屋敷で練習をすると帰って行ったので、もしセレネに会えば伝えておいてくれ」
『
………………、」
俺の言葉に何か感じることがあったのが、アルセンが何か言い淀むような、やや妙な間が流れる。
『そう、ですね。恐らく旦那様に用があるのではないかと思います。お見かけしましたらお伝えします』
「そうしてくれ。それからもう一点、昼食の件を聞くのを忘れていたのだが、なにかオルクスから話を聞いていないか?」
『ご昼食ですか? それでしたら、旦那様から十一時五十分までにホールにお運びするように聞いておりますが、何か御予定は変わりましたでしょうか」
恐る恐る確認するような声に、もしかするとアルセンは昨日ファイノンに伝えたのではないか、と感じた。酒を飲んでいる際に聞いてすっかり忘れてしまったのかもしれない。
「いや、それならいい。予定の変更はないが、返事がなくとも椅子の上にでも置いておいてくれ。時間がくればお前が持って来るとファイノンに伝えておく」
『それでは後ほどお持ちいたします。メデイモス様の分もご一緒でよろしかったでしょうか。勿論お部屋でのご用意もできますが』
「俺もホールにいる予定だ。一緒で構わない」
要件を伝えて通話を切り、ファイノンへ先ほどの昼食の件を連絡しておく。昨日お前に伝えた様子だったぞ、と添えるか一瞬だけ悩み、結局やめておく。問題は解決したのだから気にすることではないだろう。
「
……もう少し探してみるか」
今日のところは行方を探されていないようだったが、何故かセレネが気になっていた。幼い子どもが一人でこれほど広い庭で遊ふのは危険だと感じているからかもしれなかったし、幼いころの俺と重なっているのかもしれない。
広い庭をもう十五分ほど散策し、昨日見た屋根付きブランコの一角に来ると、今日もセレネがゆらゆらとブランコを揺らしながら座っているのが見えた。逃げられないよう、ゆっくりと近づいてみる。
「おい」
「わぁあ!」
飛び上がってブランコから降りたセレネが、俺を振り返りながら小さく叫び声を上げる。声の掛け方を誤ったか、と思いながらゆっくりと近づいてしゃがむ。
……さてどんな会話をすべきか。
「そのテディベアの色違いを持っている。少し見せてもらえないか」
共通の話題がそれしか思い浮かばず、胸の前で大事そうにテディベアを抱えているセレネにそう言えば、ぱちりと大きな瞳が不思議そうに何度か瞬く。
「
……おにいちゃん、この子のことしってるの」
「俺もいくつか持っているが、それも買うか悩んだ一つだ」
スマートフォンを取り出して、部屋に飾っているいくつかのぬいぐるみの写真を見せる。
「おにいちゃんのもおとうさんが買ってくれたの?」
「いや、母上が買ってくれた。俺が買ったものも多いが」
興味津々に写真を眺めているセレネと会話が成立したと言うことは、先程ホールを睨んでいた理由は俺が気にくわないわけではないらしい。となるとファイノンか、あるいはピアノそのものだろうか。
「おにいちゃんのおとうさんは買ってくれないの?」
「父上はそう言ったものはあまりな。仕事場を見せることは多かったが」
そう口にした俺に、ちょっとだけいっしょ! とセレネが頬を膨らませる。
「おとうさんはお仕事ばっかりで、おうちにいてもずっとピアノの前にいて遊んでくれない。引っ越したら時間ができるからわたしの好きなところにつれてってくれるっていったのにずっとピアノ弾いてばっかり」
セレネがぽつぽつと語る不満は、俺にも少しだけ身に覚えがあった。父上は死んだ後も、ファイノンに仕事を持ってくるほど有名なコンサートチューナーだったが、俺が幼い頃は母上と俺を残し、ファイノンを連れて、一年の半分ほどは地方や海外におり、小学校に上がってからは母上を連れファイノンを家に寄越すような親だった。それに少しだけさみしさを感じたこともあったような気がするが、ファイノンが居たからなのか、あるいは母上が父の仕事を常に讃えていたからなのか、あまり記憶がない。友人達に父上も含め両親の行動に疑問を呈されることがあったが、俺は父上の仕事のことも、父上のことも、結局嫌いにはなってはいない。
「これもらった時にね、次はゆうえんちでおたんじょうびをおいわいしてあげるよっていわれたてたの。おとうさんはわすれちゃったみたいだけど
……」
「ふむ、いつが誕生日だ?」
「あさって」
「
………成る程」
どうやらコンサート当日と誕生日が重なっているらしい。それは仕方のないことだったのかもしれぬが、褒められたことではないだろう。
凱旋公演はセレネの誕生日を祝して、という可能性も考えられるが、そうであれば、あの男はそれを喧伝しそうな気がした。そもそも、それほど良い父親であれば、セレネはこんなことを見ず知らずの俺に言わないだろう。
「ピアノなんてこの世からなくなっちゃえばいいのに」
「
………………、」
憎しみのこもった幼い声に、どう言葉をかけてやるべきか咄嗟には出てこなかった。そんなこと言うものではない、と口にするのは簡単だったが、慰めにはならないだろう。
「俺も明日が誕生日だ、お前と近い」
迷った末、違う話題に切り替えた、つもりだった。
「おにいちゃんもお仕事におたんじょうび消されちゃうの?」
悲しそうに歪んだ表情に、いや、と言葉が口をついて出る。俺は今夜ファイノンから祝われる予定だったが、それを口にするのは些か憚られた。
「いや?」
「そうだな、今夜
……一日早めに祝ってもらう予定がある」
「そうなの? いいなぁ
……あのチョーリツシの人がおにいちゃんのおとうさんなの?」
「
…………いやあいつは
………………まあ、ある意味父親のようなものだ」
ファイノンは俺にとっての父ではないが、かと言って子どもに説明をするのはやや難しい関係性だった。もし恋人であれば説明が楽だっただろうと考えてしまい、先走った思考に羞恥を覚える。
まだそうではない。いずれのうちに、そうなるはずだと思ってはいるのだが。
「お前の父もきっと、コンサートが終われば埋め合わせをするだろう。仕事が詰まっていると遅れることもある」
と言うのは俺の経験の話だったが、ここまでの話を聞く限り果たしてオルクスがそのような父親かどうかは正直に言って疑わしい、と感じていた。
「ぜったい考えてない! だって去年だって三日おくれたもん」
「
………………」
慰めの言葉を重ねようかと思ったが、その言葉はきっとセレネには無意味だろう。信頼は一日二日では積み上がらず、日々の行いが物を言う。
セレネには、俺にとってのファイノンのような存在はいないのかもしれない。
「なくなったらコンサートをしなくてもすむと思う?」
「ピアノがか」
「うん」
「
………………」
答えに窮したのは、俺の言葉で何かセレネが間違いはしないかと考えたためだ。こんな幼い子どもが何か悪さをピアノにするとは思えない、と言うより考えたくはないが、その保証はない。
屋敷の練習室にあるものを運べるだろうし。
「ピアノって糸が切れたら音がでなくなるんだよね?」
不吉な物言いだった。簡単に切ることができるとでも思っているような気がし、それはそうだが、と口を開く。
「糸ではなく弦だが、切るには専用の鋏のような物がいる」
「ふぅん」
セレネは俺の言葉が気に入らなかったのか、拗ねたような顔で頬を膨らませ、片足で地面をぐりぐりといじる。
屋敷に戻ったほうがいい、と声をかけようとしていると、お嬢様、とアルセンの声が遠くから聞こえる。
「メデイモス様、もしやお嬢様を探して下さいましたか?」
「いや、庭を散策していたところだ。しかしこの庭には池もあるだろう、あまり子ども一人で遊ばせない方がいいのではないか」
俺の言葉に、アルセンが「お嬢様にもそう伝えてはいるのですが」と苦笑する。
「池には近づかないっておかあさんとやくそくしてる!」
「そうですよね、お嬢様はわかってらっしゃると信じてます。さあさあ、そろそろ戻ってお昼とピアノのお稽古の時間ですよ。メデイモス様、申し訳ありませんがこちらで失礼いたします。
——ああそれから、ご昼食は先ほどホールにお持ちしました。食器の類は置いたままで大丈夫ですのでお気になさらず」
「
……おにいちゃん、またね」
「またな」
セレネがテディベアの腕を持って俺に振る。俺も手を振り返し、二人が屋敷に戻っていくのを見送る。
二人の背中が見えなくなってから、ため息が溢れた。他者の家庭に口を出すべきではないが、子どもが不満を抱えていると言うのはあまり好ましい状況ではなく、俺の中のオルクスの株が下がる。
「ご機嫌取りか?」
唐突に、吐き捨てるように攻撃的な声が投げられ振り返る。
「スコートとやらか。顔を見るのははじめてだな」
無視してホールに戻ろうかとも思ったが、口くらいは聞いておくべきだろう。ファイノンには関わるなといわれていたが、向こうから声をかけて来たのだから仕方がない。
「私のこと知っているのかね?」
「もう一人滞在者がいると聞いていた。それだけだ」
それ以外のことも聞いてはいたが、わざわざ面倒に首を突っ込むこともないだろう。結婚した元恋人の田舎で面倒を起こす男がまともなわけがない。
「ふん
……。で、お前はあの男のなんだ? まさか信者か?」
「信者? オルクスのことを言っているのであれば、父が友人で、その縁で招待されたと言うだけだ」
「ああ、そういや調律師として弟子だかなんだかを呼んだと言っていたな。ハ、凱旋公演をしても落ち目なのは明白なくせして、恥もせずよくもやるものだ」
俺にオルクスの悪口を吹き込みたいのかはたまた他の理由があるのかはわからないが、意地の悪い表情で聞いてもいないことをよくもそうぺらぺらと囀る男だ。せめて俺もお前が知人であるならばまだしも、と腕を組み、鼻を鳴らす。
「お前も明後日のコンサートは聞きに行くのか」
「当然だろう? 大した実力もないくせに、コネと金だけで好き勝手生きてる野郎を嘲笑いに来たのだ」
スコートは苦々しげに呟いたかと思えば、懐から名刺を取り出し、俺に差し出す。
「音楽雑誌ライター? ではお前は取材でここまで来たのか」
一体どんな理由があればかつての恋敵のコンサートに来るのかと思ったが、まさか、まともな理由だとは考えもしなかった。
「ネレイアとは知り合いだからな、アポ取って取材して来いと上司に命令されたんだ。私も昔はピアニストだったから耳には自信がある。こき下ろすにはいい機会だろう」
「
…………」
此奴は先刻から俺がなにもかも知っている前提、と言うより、自身と同じ感情を持っていると思ったまま話しているようだったが、何故初対面の人間にそのような会話をするのか理解に苦しんでいた。
ネレイアと言うのはオルクスの妻で、セレネの母の名だ。俺がオルクスの招待客だと知っているのであれば、普通に考えればオルクスを卑下する様なことは今は言わぬが得策だと思うのだが。
感じが悪いと言うよりも、頭の悪い男なのだろう。ファイノンは知り合いではないと言っていたが、音楽雑誌記者なのであれば、仕事で実際は関わりがあったか、話を聞いたことがあるのだろう。
確かに、関わらない欲しいと言われた理由がわかってしまった。
「奴は不誠実で非道な男だ。ネレイアの体が弱いのを知っていて散々海外を連れ回していた!」
「
………………」
だからこそ帰国したのではないのか?
――と思ったが、口にするのはやめておく。この男とは会話をするべきではない。
「フン、明後日無事に公演が終わるといいが」
再び吐き捨てるように口にし、スコートは煙草を取り出す。庭で吸うつもりか、と無言で視線を向けていると、何か文句があるのか? と言いつつ、大人しく煙草をしまう。
これ以上話を聞いているとくだらんことを言ってしまいそうな予感がし、挨拶もなしにホールに戻ることにする。
もし俺がこの男と言い争いになれば、ファイノンへ飛び火をするかもしれない。俺のせいで妙な記事を書かれてもたまらない。
「おい! もう一度言っておく! あの男は大したピアニストではない!」
勝手に喚いているスコートに取り合わず、今度こそホールへと戻ることにする。
気分が悪い、と胃のあたりがもたれる感覚に眉を寄せると、端末が震える。俺に連絡をしてくるのはファイノンくらいだろう、と画面を確認する。
やはりファイノンからの電話だった。
『もしもし? 君、もしかして部屋で休んでいるのかい? 今からお昼休憩にしようと思ったんだけど、昼食が二人分用意されているんだ。君の分はこっちにあるのかもしれない』
「今戻る。先に食べていてくれ」
そう言わなければ、きっとファイノンは俺が戻るのを待ってしまうだろう。
*
ホールへ戻ると、客席でファイノンが昼食をとりながらオルクスと談笑していた。終わったら連絡をすると言っていたが、気になって進捗を確認しに来たのかもしれない。
二人に混ざって、と言うより雑談と仕事の話が混ざった会話を聞きながら、用意されていたサンドイッチに手をつける。合間合間で二人に話を振られ、頷いたり回答したりしながら、俺はオルクスにセレネのことをいうべきか少し悩んだが、やはり、他人の家庭に首を突っ込みすぎるのは品がない行為だろう。それに、ファイノンに今後この男から仕事が来ないとも限らない。
ファイノンの腕前には文句のつけようがなくとも、俺が余計な口出しをしたせいで妙な関係になっても困る。
「早く君の調律したピアノを弾きたいね。あと二時間程度か?」
「ハンマーのあたりをもう少し調整するので、そのくらいかなと」
「よし。では順調そうだから、また二時間後に来るよ」
食休みを終えると、オルクスは昼食の入っていた籠を回収して屋敷へ戻って行った。
オルクスがいなくなると、ファイノンは俺に「何かあった?」と目敏く尋ねて来た。妙な顔をしていただろうか、と思いつつ、スコートに出会ったことは隠し、セレネと少し庭で話したのだとだけ口にした。スコートのことを思い出すのは、消化に悪い気がしたからだ。
ファイノンは少し納得の行っていないような顔をしつつも、遊んであげたんだね、と最終的には笑顔を見せ、再び無言でピアノの調律へと戻る。
ハンマーのフェルト一つ一つの硬さや動きを確認しているように見えたが、恐らく楽譜の頻出音や聞きどころになる音域を重点的に調整しているのだろう。
俺の調律知識は当然、ファイノンの知識や経験には及ばない。一度はファイノンの弟子となり調律師を目指すべきだろうかと考えたこともあったが、ファイノンは「僕にそんな実力はないよ」と弟子を取らないと決めてしまっているようだった。
「
………………」
普段はへらへらと締まりのない笑顔を浮かべていることの多いファイノンだが、仕事中は一見冷たくも見えるほど真剣な表情をしていることが多い。
いつもの軽薄そうなファイノンの表情ももちろん好ましかったが、仕事中のファイノンの冷たい横顔も好きだった。
「うん
……、一旦終わり」
宣言通り二時間近くが経った後、ファイノンが手を止める。首が凝ったのか、首と肩を少し回し、ファイノンがステージ袖の飲み物を取りに行く。
「オルクスを呼ぶか?」
「ん? 完了連絡はしておくから、そのうち来ると思うよ。はぁ、よかった。今夜は時間通り行けそうだ。よかったよかった」
楽しみにしてていいよ、とファイノンがにこにこといかにも無害そうな笑みを浮かべ、俺は向き直る。
俺も今夜のディナーを楽しみにしている、と言おうとして、首肯に留めた。
この「旅行」が決まってから、絶対に誕生日を祝われたその席で告白をしようと考えていたが、ファイノンの仕事が終わるまで
――本番が終わるまでだ
――待った方がいいのではないか、と思いはじめたからだ
ファイノンを好きだと思っていることはあまり隠していないつもりだ。この男は俺に関しては妙に目敏い瞬間があるから、なんとなく知られているような気はしているのだが、俺の好意はあまり本気で捉えてもらえていないような気がしていた。
好きだといって拒絶されるとはどうしても思わなかったが、受け入れてはもらえないかもしれない。何故だか、今までその可能性を考えたことはなかったが。
「ファイノン
……、」
「ん?」
「お! 宣言通り終わってるじゃないか流石流石。早速試し弾きをしても構わんね?」
思わず名を呼んでしまったタイミングで、ホールのドアが開かれ、上機嫌なオルクスがステップを踏むような身軽さで歩いてくる。
「あ、どうぞどうぞ。修正点あればなんなりと」
「
………………」
タイミングが良すぎる。
そう思ったが、俺は黙ってステージに上がるオルクスの背を見つめる。
ファイノンは反対にステージを降り、ホールのちょうど中央あたりの椅子に座る。
オルクスは鍵盤に手を置き、スッと微かに息を吸って、複雑で細かいアルペジオを弾き始める。
モーリス・ラヴェル、「夜のガスパール」、第一曲「オンディーヌ」。詩人ベルトランの同名詩集をモチーフに作曲された作品だ。
水の精オンディーヌは人間の男に恋をし、彼に「湖の王になってくれ」と愛の告白をするも、男にその告白を断られてしまう。オンディーヌは悔しがってしばらく泣くが、突如甲高い声を上げて雨となって消える
――。
昨晩調べた解説を思い出しながら聞いていると、唐突に音が途切れる。
「後で少し調律してもらいたいところがあるんだが、いいかな。他の曲も確認してみてから」
「はい、大丈夫です」
オルクスはファイノンの言葉に頷き、今度は「夜のガスパール」、第三曲「スカルボ」を弾き始める。
ファイノンが客席から立ち上がり、ステージに一番近い椅子へ移動していた。表情が少しだけ憂鬱そうに
――多分俺にしかわからない程度の変化だ
――曇っている。昨日、車の中で聞いた通り、弦が切れないかどうか心配なのだろう。練習中に切れたほうが本番中に切れるよりマシな気はするが。
「スカルボ」はラヴェルが「夜のガスパールは超絶的名人芸が要求される三編の詩である」と明言した中でも、極め付けにメカニカルで難易度が高い曲だとされている。
妖精スカルボが眠りにつこうとした男の部屋に表れ、ベッドの陰で笑い声をあげたり、カーテンに爪を軋ませたり部屋の中で転げて暴れ回ったかと思えば、最後にはロウソクの火のように青白くなってふっと消えてしまう。
激しい低音と高音の旋律、高速・複雑な和音の連なり。妖精スカルボが暴れ回る様が音として見えるような、激しい演奏だった。スコートの「大した腕がない」と言ったような感想はやはり負け犬の遠吠えだ、とはっきりとした確信が持てる。少なくともオルクスの演奏は、俺の耳には大したものとして聞こえている。
オンディーヌと違い、スカルボを一通り弾き終わったオルクスは手を鍵盤から浮かせて、やや満足そうに笑った。
「殆ど理想に近いが、もう少し低音の鍵盤は重いほうが好みだ」
オルクスはそう口にし、ファイノンにいくつか修正を要求した。ファイノンが手帳にメモを取っているのを横目に、俺はスマートフォンを取り出すと、「部屋に戻っている」とメッセージをいれ、屋敷に戻ることにした。
スカラボの曲調に精神が当てられたのか、急に告白のことが頭の中を巡り、緊張して落ち着かなくなってしまったからだ。
*
部屋に戻って来ると、テレビをつけて適当な番組を流しておくことにした。なんとなく日常を感じることで精神が落ち着くような気がし、適当に友人たちのSNSを眺めたり、返信をしたりに時間を費やすことにする。
《今夜、一日早い誕生日をファイノンさんに祝ってもらうって言ってたっけ。僕からも先に言っておくよ、おめでとう。今度飲みに行こうってプトレマイオスたちがうるさいから、君が帰って来たら予定を詰めよう》
ヘファイスティオンからのメッセージに了承の旨を返信し、端末を放り出してベッドに横になる。
柄にもなく緊張している。だが、その緊張をあまり不快だとは思っていない。
恋をしている。その事実を、幸福だと感じていた。
*
そろそろ出発しなければ間に合わないのではないか、とややハラハラしながら待ち、ファイノンに連絡を入れるか悩んでいるうちに、どたどたと慌ただしく戻ってくる足音がした。
「間に、あっ、た!」
息を切らしつつも丁寧に仕事道具の入った鞄を部屋の隅に置いたファイノンは「もう行ける?」と慌てた様子で俺に尋ねた。
頷くと、よし! とファイノンは上機嫌に俺の背に手を当て、じゃあ行こうか、と軽く押して来る。
「何をそんなにはしゃいでいる?」
「え? そうかな。いやでも昔一度行ったことのある店なんだけど、すごく美味しかったし久々だし
……うーん、あとはなんだろうな、君の誕生日を祝えるのはいつだって嬉しいよ。本当の誕生日は明日だけどね」
「
…………そうか」
ファイノンの幸福そうな笑顔に、俺も釣られて笑ってしまう。やや
面映さも感じたが、親しい相手に誕生日を祝われるのはありがたいし幸福なことだ。それは素直に受け取っておくべきだろう。
車に乗り込んでもファイノンはずっと上機嫌で、仕事の疲れも殆どないようだった。そんなはずはないのだろうが。
「帰りは俺が運転してもいいが」
「いやいや、誕生日の君に運転はさせられないよ」
「
……誕生日だから運転したいと言うのは?」
「理屈としては通っている気がするけど、やっぱりなし。君は安心して座っていればいいさ」
「だが、食事の途中で酒が飲みたくなるかもしれぬだろう」
「昨日しこたま飲まされたからいらないよ」
運転くらいは気を遣ってやりたかったが、悉くファイノンに断られてしまった。妙なところで頑固な男だから、今夜のところは運転は諦めた方がいいだろう
*
誕生日ディナーでファイノンに連れてこられた店は、スティコシアらしく海が良く見える場所にあった。晴れた夏の空には星がきらきらと輝いていて、いかにもなデートスポットの様相をしている。
通された個室の窓の外にも宝石を散りばめたような星空と海が見えており、大事な者、例えば恋人を連れて行く店ではないのか? と感じた。
屋敷を出る前から緊張していたが、テーブルの上で揺れるキャンドルの炎が落とす影を見て、そのムードの良さに余計に緊張が増す。どくどくと心臓が音を立てているのが耳の中で聞こえ、人前でレポートだのグループワークだのを発表をする際にも緊張したことがないと言うのに、柄にもなく緊張している。
あまり感情が顔に出ないタイプだと言う自認はあるが、果たして本当に平静を装えているのかは怪しい。
「じゃ、一日早いけど二十歳の誕生日おめでとう」
「ああ。ありがとう」
乾杯、とファイノンがワインの代わりとして注文した葡萄ジュースのグラスを持ち上げる。濃い紫ではなく淡いピンク色の炭酸ジュースで、それほど甘味も濃くはない。
美食家の多い音楽家と仕事をしているから音楽家は皆美食家に育つと母上が昔笑っていたが、ファイノンの自炊の腕はさておき(家では殆ど俺が料理を担当している事もあり、ファイノンの自炊の腕は衰える一方だ)、選ぶ店が外れたことはない。五種の前菜、海老やたっぷりの貝類をトマトとニンニクで良く煮込んだスープ、フェタチーズとフルーツと新鮮な野菜のサラダ、焼きたてのピタやパンをヨーグルトソースやサルサソースに似た酸味のあるソースにディップし、ナイフをいれれば柔らかく切れ、口の中でほろほろに溶ける塊肉を乗せる。メインはそれで終わりかと思えば、その後にたっぷりの魚のスープに浸して炊かれた米の上に、大きな白身魚を丸ごと一匹揚げたものが乗った大皿が提供された。やや塩気の強い料理がスティコシアの特徴だったが、昼間もやや暑かったから、今の俺にはちょうど良く感じた。
「昔、先生とスティコシアで仕事をした時に連れてきてもらった店なんだ。正確にはコンサートの打ち上げに僕も参加させて貰ったって言う方が正しいんだけど」
魚を切り分けるのに苦労しているファイノンからナイフとフォークを受け取り、米の上に乗っている魚を解体し、皿に少し取り分ける。柔らかく厚みのある身と魚介類のエキスで茶色く炊かれた米の塩気が美味い。
「母も父もこう言う店を良く知っていたな」
「先生もゴルゴーさんもザ・美食家って感じだったからなぁ。そう言えば、先生もゴルゴーさんも特に自炊は得意じゃなかったけど、君は料理の才能があったみたいだね。自宅で作れそうなメニューがあったらいいんだけど」
何かを期待するようなファイノンの表情に、「料理人は目指していない」と答えつつ、そうだな、と思案する。
両親が事故に会うまでは基本的に家政婦が食事を用意していたが、ファイノンと暮らし始めてからはファイノンに習いつつ、見様見真似で料理をするようになった。初めはさほど興味がなかったが、意外と面白く感じ、今ではレシピを無意識に収集するまでになっている。食材の買い出しにはファイノンの許可がいる関係で(金の管理をして貰っているからだ)、一週間に一度、買い物リスト兼献立を提出している。
「
……まあ、サラダは簡単だな。だがサラダはお前でも作れるだろう」
「ドレッシングなしでいいなら」
「却下だ。ドレッシングくらいなら作ってやってもいい」
サラダにかかっていたドレッシングの味を思い出しながら材料を推測すると、「僕にはオリーブオイルと塩とビネガーしかわからないな」と笑う。
「食べただけで成分がわかるのはやっぱり才能だよ。大学を卒業したら調理師学校に入り直してもいいんじゃないか?」
「
……考えたことはなかったが、お前が許すのなら考えてもいいかもしれん」
「え、どうして僕の許しが必要なんだい? 確かに僕は君の資産を管理させて貰ってるけど、あれは君の財産であって僕のものじゃない。だから、大学院に行きたいなら言ったらいいし、他の道に進みたいならそれも勿論応援するよ」
「
………………」
卒業までは一緒に住もう、と言っていたファイノンの言葉が蘇り、何故そんなことを言ってくれるのか、と何度も考えた疑問が頭をよぎる。都合よく物事を解釈しようとしていることには気づいていたが、自惚れているのか、どうにも軌道修正が難しい。
「もしかして君にしては妙なことを考えてないか? 早く社会人になって僕を解放してくれなんて、一度も思ったことはないよ。僕は早く大人になる必要なんてないし、脛をかじれるうちはかじっていいじゃないか、と思ってるタイプだ。まあ、僕の脛は大したことないけど、先生たちは君にしっかり色々残してくれたんだから、今は好きなことをやったらいいさ。僕は大人として、君が路頭に迷わないように導くつもりもあるし」
アルコールを入れているわけでもないと言うのに、ファイノンの言葉は妙に情熱的で力強かった。青く大きな瞳が俺を優しく見つめ、眉が柔らかくアーチを描いている。
形の良い唇が幸福そうに引き上げられ、「まあ、若いうちはたくさん悩むことがあるだろうけどね」と童顔のくせして、顔に似合わぬ、まるで老成した男のようなことを言う。
「君は昔からそうだったけど、顔立ちが本当にゴルゴーさんに似てきたな」
「
……褒め言葉として受け取っておく」
「勿論褒めてるさ。意思が強そうな顔をしてるって言われたりしないかい?」
「頑固だとは良く言われる」
魚を口に運びながら、ファイノンが「それは一理ある」と笑う。その表情を観察しながら、今までにも何度か感じた違和感をやはり覚えた。昔はファイノンが母上の容姿を引き合いに出すたびに、もしかすると母が好きだったのかあるいは憧れていたのだろうかと考えていたが、どうにもそう言うわけではないように感じていた。
特に、近頃のファイノンの慈しむような視線は俺を通り過ぎて過去を見ることはなく、いつでも俺に注がれている気がしてならない。そう思いたいだけかもしれないが。
空になったボトルの代わりにファイノンが新しい炭酸水を頼み、デザートプレートが運ばれてくる。誕生日を店で祝うサービスを選ぶのは勘弁してくれ、とそれだけは注文していたためだろう、店内の照明が暗くなって曲が流れたり、皿にチョコレートでHappy Birthdayと書かれることもなく、普通のデザートで安心した。そもそも雰囲気がありすぎるので、そんなものがなくとも勝手に落ち着かない気分にはなっているのだが。
「そうだ、中々誕生日に欲しいものを言ってくれなかったからとりあえず食事にしたけど、今年中に決めておいてくれよ。君はあまりわがままを言わないから、時々少しだけ淋しくなる」
眉を下げたファイノンは行儀悪くテーブルに頬杖を付き、本当に淋しそうな表情で俺を見ていた。捨てられた犬のような、と年上の男に言うのは中々失礼な表現だろうが、そうとしか言い表しようがない。
「
……わがままを言うような歳ではないが、今夜くらいは言ってもいいのであれば、望みはある」
「え? この間まで『特に思いつかない』とか『いつものように食事でいい』って言ってたじゃないか。早く言ってくれよ」
驚きつつもどこか安心したような表情をするファイノンがこう切り出すのを、今夜はずっと伺っていた。
ふと、キャンドルの炎が大きく揺れ、テーブルやファイノンの顔にゆらりと影が落ちる。
頬杖をついたままのファイノンがそれで? と首を傾け、テーブルの上に手持ち無沙汰に腕を置く。手を伸ばすには少し遠いか、と思いつつも、深呼吸を一つし、テーブルの上に置かれていたファイノンの腕を、そっと掴んだ。
「お前だ」
優しい表情で俺を見ていたファイノンがぱち、と瞬きをし、夢から覚めたような表情をした。
「えっ
……と?」
「お前が好きだ。だから、誕生日にはお前の恋人の席が欲しい」
「ハ
…………………………、」
触れていたファイノンの腕がびくりと強張り、視線が一度下ろされる。反射的に手を引きそうになったが、なんとか耐える。
「
……………………………………」
「
……………………………………」
気まずい沈黙だったが、ファイノンから視線を逸らすことはできなかった。
即答を期待してはいなかったが、「冗談?」ぐらいは返してくるものかと思っていた。
「ええと
……」
「すぐに答えをくれなくていい」
ファイノンが動揺したように瞳を揺らして口を開き、何か
間接的な言葉が出てくる前に、慌てて口を挟む。
今の今まで断られる想定はしていなかったが、どうやらそうではないらしいと肌で感じ、急に答えを聞きたくなくなっていた。
「
……その、君のことは、先生の大事な息子で、僕にとっても歳の離れた弟みたいなものだから大事に思っているよ。だけどそれは
……、ええと、気持ちは嬉しいけど、
…………そういう風には見たことがなかったし、今後も見れない、と思う」
「
――そんなことはわからないだろう。俺はお前が好きだ。子どもの頃からの勘違いではない。お前が俺と暮らすようになってからの、ここ数年の話だ」
無慈悲にも出された結論に、俺は無様に食い下がる。ファイノンは押しに弱い筈だった。俺の望みと違う言葉を言うくらいなら、今夜中に答えを出して欲しくはないとおもっていた。
「困ったな
……」
ファイノンはやんわりと、俺に手を戻すよう視線で示した。滅多に見せない本当に困った顔で狼狽えているファイノンの姿に心臓が縮こまるような、握りつぶされるような居心地の悪さと苦しさを覚え、体が震えそうになっていることに気付く。大人しく手を引き、口許を手のひらで隠して俯くファイノンを見つめる。
すぐに受け入れてもらえるとは何度考えても思わなかったが、かと言って、即答されるとも思ってはいなかった。卒業まで結論を先延ばしにし、それまではのらりくらりとかわされると思い込んでいたのかもしれない。甘い考えだった。
「
……もしかして、僕ってあんまりちゃんとした大人には見えなかったかな」
「
――は?」
「君のそれが勘違い、とは言いたくないから本心で答えるけど、僕からの答えはかわらない、と思う。
……今まで君をそういう対象として見たことはないんだ。対象として見るのは難しい」
「だれか好きな相手でもいるのか?」
そうだ、と言われれば傷つくだろうと口に出してから感じたが、どうせいつかは聞いてしまっただろう。
「いや、いないよ。今はいない。だけどそう言う問題じゃない」
ファイノンは俺の顔をじっと見つめながら、静かに、諭すような声で言う。俺を傷つけぬよう気遣いたいと言う感情と、それとこれとは話が別だ、とでも言うような、ある種の冷たさを孕んだファイノンの表情に、舌がもたれるように重く感じた。
「いないのなら、」
「メデイモス、」
「
………………………………」
咎めるように名を呼ばれ、今度こそ口を閉ざした。
ファイノンはふと俺から視線を逸らし、窓の外を見る。その姿に釣られて、俺も窓の方へ視線を向けた。
この場の空気とは裏腹に、星の耀く夜空は変わらず綺麗だ。耳には店内の静かな美しいクラシックと共に、波の音が微かに聞こえている。
「
………………嘘でも誰かいるっていえばよかったな」
ぽつりと呟かれた言葉に、思わず立ち上がりそうになる。不誠実だ、とファイノンを睨みつけた俺に、ちらりと視線だけを向けて、ファイノンがため息をつく。
「もう今更そんな嘘をつく意味はないからいわないよ。
……あまり繰り返して傷つけるのは本意じゃないけど、でも、僕にとって君をそう言う風に見るのは難しい。けど、言われた言葉の意味がわからないフリをして笑って流せるほどどうでもよくもない
……困ったな」
「
……何に困っている」
はぁ、と大きくため息をついたファイノンは疲れたように瞳を細め、気まずそうに顔を歪める。
「僕のことで君にそういうを顔させたくはなかった。かといって嘘でも『じゃぁ付き合おっか』とはやっぱり言えない」
「気の迷いだとでも思っているのか?」
「思ってない。思ってないよ、全然。君の言葉はいつだって本気だ。それは僕にはよくわかる。でも、大人として僕は君のその望みには応えられない。だからその
……すまない、ごめん。君のことは本当に大事に思ってるよ。だけど、それでも関係を変えて欲しいなんて望みには応えられない。無理だ」
「
……………………そうか」
会話を打ち切りたそうにしているファイノンに、これ以上なんと言葉をかければ引き止められるのかがわからなかった。俺大人しく引き下がり、わかった、と頷く。
今聞いたことは忘れるから、となかったことにされなかった現実を、きっとありがたく思うべきなのだろう。誠実に対応してもらったのだとわかっている。ファイノンが俺を受け入れないとは想定しておらず、自分の感情が今はよくわからなかった。
推しに弱いはずの男が曖昧に濁しもせず、誠実に言葉を選ぶ姿は、惚れた欲目なのかもしれなかったが、やはり好ましく感じていた。
ファイノンは俺の気持ちを若気の至りだとは断じなかった。子どもの気の迷いだと笑われれば傷つき、恋は冷めてしまったかもしれない。
しかし、子どもだからと雑に扱われなかったせいで、余計にこの男のこう言ったところが好きだと感じてしまったいた。
「
……そろそろ出ようか。ごめん、明日も仕事だから」
「わかっている」
ファイノンが運転に備えて酒を飲まなかったのは確かに正解だろう。
例え俺が運転をしていてもガードレールや崖に突っ込むような真似はしないが、朝まで車を走らせるような真似はしてしまったかもしれない。
帰り道は当然のように、互いに無言だった。
ファイノンは俺を変に避けるような素振りは見せなかったが、車中では一度も視線が合わなかった。
やはり部屋を分けてもらうべきだった、と屋敷に帰還し、並んだベッドを眺めてため息をつきかける。
「部屋を分けてもらうよう頼むか」
なるべく淡々とした口調になるよう努めて溢すと、「頼むにしても明日にしよう。今夜はもう遅いから」と常識的な言葉が帰ってくる。当然だった。
もう寝るから、先に風呂に入るね、と会話を拒絶するようにシャワールームは向かうファイノンに「ああ」と言うのが精一杯で、なるべく水音も何もかも気にしないよう、寝室の襖を閉じてテレビをつける。番組を見るわけでもなく、ぼんやりと畳の上で寝転んでいると、じわじわと虚脱感に襲われるのがわかった。
『君をそう言う風に見ることはない』
——本当にそうなのか? お前は自身にそう言い聞かせているだけではないのか。
都合よくファイノンの感情を解釈しようと躍起になっていると、シャワールームからファイノンが出てくる音がする。眠ってから風呂に行くか、と考えていると、「メデイモス」と襖の向こうから声がかけられる。
「そこで眠ると体を痛めるよ」
「
……ここでは寝ない」
結局お前は俺に冷徹になりきれないのか。
呆れと感謝がないまぜになった感情が湧き上がり、胸が苦しくなる。胸に手を当て、深呼吸をしてから起き上がる。ファイノンがそこに立っている気配がないことを確認して襖を開けると、ファイノンは宣言通りベッドに潜り込んで眠っているようだった。
繊細なところのある男のくせして、俺の告白を断るのはそれほど堪えなかったのか、と瞬間的に怒りが込み上げたが、よくよく見ると、ベッドサイドに置かれたスマートフォンに刺さった有線イヤフォンのコードが布団の中に向かって伸びている。
眠りながらイヤフォンをするのは耳に悪いから、と爆音でマタイ受難曲を一晩中聞いているような男が到底言うべきではない言葉を時折ファイノンが言っていたことを思い出し、そうか、とため息が溢れそうになった。
イヤフォンから音が微かに漏れている。シャカシャカした耳障りな音からははっきりと確信は持てなかったが、きっとマタイ受難曲でも聞いているのだろう。
ファイノンの「瞑想」を中断させないよう、黙って、静かに風呂へ向かう。
温泉は浸かる気にはなれず、手早く汗を流し、髪をいつもより念入りに乾かす。その間にファイノンが眠っていればいいと考えていた。
寝室に戻った頃には、俺の願った通り、ファイノンは眠りについていた。寝返りを打ったのか、耳からイヤフォンが外れている。首にコードが絡まりかけていることに気がつき、起こさないよう慎重にコードを回収し、再生されていた曲を止める。
そう言えば明日の起床時刻をきかなかった。朝食の時間は変わらないだろうと踏み、今朝と同様、六時に目覚ましをセットし、目を閉じる。
眠れぬかもしれない、とその瞬間は考えていたが、不安をよそに、ほんの数秒で眠りに落ちて行く。