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到着が遅れる旨を連絡し終えたファイノンとフードコートで合流し、少し遅い昼食を済ませると、渋滞でなければ一時間程でつく道のりを三時間かけて進む。
運転を交代するか? と二度目の休憩でファイノンに声をかけたが、「帰りはお願いしようかな」と笑顔で流されてしまった。俺は普段殆ど運転をしないので、仕事前に事故に遭いたくないと言うことかもしれない。
すっかり陽も落ちた頃、海に囲まれ、殆ど島のようになっているスティコシアへ到着する。葡萄酒の生産地としても知られるこの地は、潮の香りの中に芳しい果実のにおいが混ざっている。
本来であれば昼過ぎに到着し、滞在先へ挨拶を終えたのち観光をする予定だったが、それは中止だ。
ファイノンは観光名所に目を止めることなく街の外れまで車を走らせ、ようやくオルクス氏の本邸に到着する。
随分と自然豊かな場所で、鬱蒼とした木々が茂っており、屋敷の姿を確認することができない。
「山火事が起きたら大変そうだ」
「流石にそれは考えすぎだろう、これだけ潮が近ければ乾燥もしまい」
「それもそうか」
くだらないことを言いながら、監視カメラ付きの正門のそばのインターフォンを押そうとファイノンが窓から手を伸ばす。すると、近くにあった小屋から警備員と思しき男が出て来た。
ファイノンが名と滞在の目的を説明すると、警備員は「旦那様から車と荷物を運んで置くよう仰せつかっております」と口にした。
「門から遠くないといいが」
警備員に駐車場の場所を尋ねているファイノンを横目に車を降りてボソリと口にすると、会話を終え、仕事道具を詰めた鞄を後部座席から下ろしたファイノンが「昔の家ほどじゃないと思うよ」と苦笑する。
葬式後に売り払ってしまった生家は正門から玄関まで徒歩三十分ほどかかっていたため、客人は基本的に家の前まで車で来てもらっていたからだ。
「まっすぐお進みください」
いわれた通り開けられた正門を抜け、森の中を歩んでいると、五分ほどで急に視界が開け、良く手入れされた庭が現れる。煉瓦で舗装された道せ目を向けると、前方から男が
――恐らくオルクス氏だろう
——俺たちの方へやって来るのが見えた。
「ファイノン君! 随分と時間がかかって心配していたが、無事に到着して何よりだ。渋滞に嵌るなんて運がないな、普段は誰も来ないような田舎だというのに」
深い臙脂色のスーツに身を包んだ男はファイノンに握手を求めた後、俺に視線を向けて顔を輝かせる。正面から顔を見ても記憶の蓋は開かず、温和そうな笑顔にも覚えはない。
「先生のご子息のメデイモスです。確か会うのは十五年ぶりくらいだったかと」
ファイノンがぎこちない丁寧語を使うのに笑いそうになるのを、左手をそっと握りしめて耐える。五歳の頃なら覚えているはずもないな、と思いながら手を差し出し、「お久しぶりです、と言っても殆ど覚えていないのですが」と素直に口にしておく。
「メデイモス君、久しぶりだな。大きくなった、というよりオーリパンに顔がよく似てきたな!」
「
……そうですか?」
母上に顔が似ているとは良く言われていたが、父上に似ているとはあまり言われたことがない。反応に困りつつも笑っておくと、ファイノンが眉を下げて苦笑しているのが目に入った。
似てないだろ、と顔に書いてあるのがわかり、視線をそっと向けておく。どうせ俺にしか真意はわからないのだろうが、少なくとも客の前でする顔ではないだろう。
「葬儀に行けなくてすまないね、当時は公演が続いていてどうやってもキャンセルできないスケジュールだったんだ」
「どうか気になさらず。ですが、そのうち墓参りにいらしてください。父も喜ぶかと」
「そうさせてもらうよ。
……それにしても、君を見てると若い頃のあいつを思い出すよ」
ファイノンが微妙に表情を変化させたことに全く気づいていないオルクスは俺をまじまじと見、昔を懐かしむような目をしてそう言った。
果たしてそれは本当に現実の思い出だろうか、と疑問ではあったが、野暮なことは口にしない。
「君はピアノはやっていないんだったか」
「弾けはしますが、演奏家になる程の才能はなく」
「そうかそうか、まぁ、やりたいこととできることは違うからな!」
俺の言葉を冗談かあるいは謙遜と受け取ったのか、オルクスは豪快に笑いながら俺の肩を軽く叩く。
残念ながら本当のことで、俺には父上のようなピアノの才も調律師への興味もなく、音楽歴史学者だった母上からの知的好奇心を受け継いだようだった。ファイノンがまた唇を不自然に吊り上げて笑っているのが目に入り、顔に出しすぎだ、と心の中で叱っておく。
父は学生時代はコンクールで何度も優勝するほどのピアニストだったようだが、大学時代に調律師への興味に目覚め、演奏科から調律科へと転科したらしい。そこで特別講義に参加していた母上と出会い、交際がはじまったのだと昔、母上が聞かせてくれた。
「メデイモスはゴルゴーさんと同じく音楽学を専攻していて、最近はピアノを弾くより本を読んでいる時間の方が長いかな」
「なるほど、そう言うことか。彼女がいかに素晴らしい女性かと言う話は学生時代に酔ったあいつから散々聞かされたものだ」
肩をすくめて苦笑するオルクスに、はは、と俺も苦笑してしまう。両親の恋人時代の思い出話は、俺にはむず痒い。
「おっと、疲れているだろにこんなところで立ち話をさせてしまってすまないね。部屋を用意してあるから今夜はゆっくり休んでくれ。夕食も部屋に運ばせよう」
「感謝します」
オルクスに連れられ、ファイノンが彼と両親の思い出話に花を咲かせているのをぼんやり聞きながら十分ほど歩くと、珍しい形の邸が見えてきた。
正門はスティコシア様式だったのだが、屋敷はどうやら江戸様式らしい。最近建てられたものなのか、随分と外壁や屋根が真新しく、鬱蒼とした木々が間引きされていなかったのは屋敷を隠すためだったのかもしれない、となんとなく感じた。
「私の嫁は江戸の出身でね。帰国するなら家は実家に似せて欲しいと頼まれて建て替えたんだ。少し見慣れないかもしれないが、居心地は悪くない」
屋敷を見上げていた俺たちの脇を通り抜け、オルクスがそう設定をする。妻子がいると言う話はファイノンから聞いており名も覚えているが、名前からはその出身地はあまりピンと来なかった。
オルクスが作りの良い黒い木造の引き戸を開けると、屋敷の管理人(オルクスのマネージャーも兼任しているらしく、かつてのファイノンのような付き人だと思えば良いようだった)のアルセンとハウスキーパーのラティーナを紹介される。滞在中は何かあれば二人に声をかけるよう紹介された後、応接室へと案内された。見慣れない様式の甲冑の置物や掛け軸のかかっている部屋で、草の香りが強い。
アルセンが俺たちの前に江戸茶を出しながら、「お砂糖はお使いになりますか?」とファイノンに尋ねる。
「僕はどっちでもいいけど、彼は甘党だからシュガーポットごと置いていってくれるかい」
苦い茶は苦手だ、と考えていたのを読んだように、ファイノンがアルセンから砂糖を受け取り、俺の方へ寄せた。オルクスが意外そうな顔をしつつも、「夕食のデザートを楽しみにしておいてくれ」と笑う。経験上、音楽家は美食家が多い。その言葉に嘘はないだろう。
「楽しみにしています」
シュガーポットから砂糖を四杯入れ、ファイノンのなんとも言えない視線を無視して口をつける。
「さて、滞在中は是非ゆっくりしていってくれ。なにか不自由があれば彼らに言いつけて構わんよ。あいつの愛弟子と息子に不自由させたとバレたら、向こうであいつはもとよりゴルゴーさんにどんな嫌味をいわれるかわからないからな」
母上は物事をはっきりと口にする女性で、父と喧嘩をしても一度も負けたことがないと言うのは聞いていたが、どうやらそれは父の友人であっても変わらないらしい。何か覚えがあるのか、ファイノンも隣で苦笑している。
ファイノンが母上に叱られている姿は見たことがないが、もしかすると俺のいないところではそう言うことがあったのかもしれない。
「本当は妻も紹介したいのだが、生憎と三日前から臥せっていてね、無作法で申し訳ないが
……」
「そういえば、奥さんの療養も兼ねてご実家の方に戻ってきたと言ってましたね。どうか僕たちのことは気にしないでください」
「ここは妻の父と母の持ち物だから、彼らは朝食の席でだも紹介しよう。なに、温厚な方々だから、特に身構えることもないよ。そういえばアルセン、セレネはどうした?」
「それが先程から皆に探させているのですが、まだ見つからず
……」
会話に混ざらず控えていたアルセンが眉を下げ、困ったように口にした。俺の記憶に間違いがなければ、セレネはオルクスの一人娘の名だ。
もう一度お嬢様のお部屋を見て参ります、とラティーナが俺たちに頭を下げて部屋を辞するのに、オルクスがため息を吐く。
屋敷の中で迷子になっていると言うわけでもあるまいし、幼い頃の俺のようにかくれんぼが得意な子どもなのかもしれない。ファイノン以外にはなかなか居場所がバレたことがなかったな、と妙に懐かしい気分になった(もっとも、我が家の使用人たちが例外なく俺を見つけるのが下手なだけだったと言う可能性もあるのだが)。
「やれやれ困ったな。お客様に挨拶をするようにとあれほどいったのだが
……。仕方がない、見つけ次第私の部屋まで連れてきておくれ。挨拶をしてもらおうと思ったが、遅くなってしまいそうだから、明日は必ず朝食の席に顔を出すよう叱らなければな」
「僕たちのことはどうか気にせず、お嬢さんを叱らないであげてください。招待されているとは言っても、僕は仕事で来ているわけですから」
叱る、と言う言葉に反応したファイノンがオルクスに慌ててそう口にすると、オルクスは再びため息をつき、疲れたように肩を落とした。
「寡黙さは妻に似たのだが、どうにも行動がお転婆でね。
六歳にして私のいうことをちっとも聞かずに振り回されているよ。おっと、そろそろ夕食にしようか。それとも、ホールを見るだけで見ておくかね?」
「可能なら見ておきたいですね」
「では明日本格的に見るとして、概要くらいは説明しよう。アルセン、彼らをホールに案内する前に、屋敷と部屋の説明をしておいてくれ。君たちの荷物はもう部屋に運んであるか
——」
俺たちがそれぞれに椅子から腰を上げた瞬間、「どう言うことだ!?」と声を張り上げる男の声が微かに聞こえきた。
思わず、ファイノンと無言で顔を見合わる。
『通せないとはどういうことだ!? 俺はちゃんと彼女に約束をしてきたんだぞ!?』
穏やかでない言葉が今度こそはっきりと聞こえ、ファイノンが眉を寄せる。悲しそうな顔に見えなくもないが、面倒に巻き込まれたくないな、と考えているのが俺には分かった。
何度目かオルクスが深くため息をつき、俺たちに「すまないが」と首を振る。
「懲りない男だな
……。アルセン、奴を追い出しておくから、先ほど言ったように案内しておいてくれ」
「承知しました。騒々しくて申し訳ありません、こちらへどうぞ」
「ああ、はい」
「
…………………」
パッと表情をへらへらした笑顔に変えたファイノンが俺の肩に手を置き、行こうか、とまるでなにも聞こえなかったかのような、顔で口にする。何が起こっているのか若干気にはなったが、他人の俺がトラブルに首を突っ込むべきでも、好奇心を優先すべきでもない。何もなかったふりをするべきだろう。
怒鳴り声の方にオルクスが向かうのを見送り、俺とファイノンが玄関の横を通り抜けるが、そこに彼らの姿はなかった。怒鳴り声の主はもしかすると玄関ではなく勝手口の方から上がろうとでもしていたのかもしれない。
屋敷は二階建てになっており、二階はオルクス家の空間で、オルクスと奥方、奥方の御両親、娘の部屋があるようだった。二階にも客間はあるとのことだったが、今この屋敷に泊まるのは俺とファイノン、それから先ほどの怒鳴り声の男
――スコートというらしい
――三人だけのため、一階しか開放していないらしい。
公演日にゲストが多数宿泊する関係上、二階はその準備中なのだという。
「一階のお部屋は旦那様の書斎と防音室以外はご自由にお使いください。それから図書室が別途ありまして、ご希望であれば是非読書でもと旦那様から聞いております」
「ほう」
「へえ。僕が仕事している間、暇にならなそうでよかったじゃないか」
いくつか本は持ってきていたが、図書室と言う響き惹かれない筈がない。ファイノンの言う通り退屈する暇はなさそうだった。
屋敷の奥には重いドアで仕切られた防音室があり、そこにはグランドピアノが二台設置されていて、オルクスと娘の練習部屋らしい。
「練習用のピアノは調律しなくていいのかな」
ファイノンは小さな声で呟き、防音室をしばらく見つめていたが、頼まれていないのだからいいか、と思ったのか、「どうかされましたか?」と首を傾げたアルセンに「いや問題ないよ」と首をふる。
「こちらがお部屋になります」
俺たちが通されたのは二間続きの広い部屋で、縁側、と呼ばれる場所が随分と広い。襖で区切られた広い縁側には椅子が二つとガラスのテーブルが置かれている。
窓から見える庭はよく手入れされていて、竹の筒に水が落ちては時々軽やかな音を立てていた。
「江戸式なら布団かと思ってたけど、ベッドなんだ」
「旦那様も私もそうですが、やはりベッドの方が慣れていますので。お掃除が楽というのが一番の理由です」
ニコニコと笑いながら答えるアルセンに、確かに清掃はその方が楽そうだな、と感じた。
寝室として与えられているらしい隣の一間の隅に、俺とファイノンの荷物がきちんと置かれており、ファイノンは手に持っていた鞄をようやくそこへ下ろす。高級そうな寝具の広いベッドがただ二つ並んだだけの部屋からも、微かに草のいいかおりがしている。
「随分と広い部屋だ」
寝室から振り返り、やや困ったようにアルセンに口にするファイノンに頷きつつ、俺は寝室を見て少し困惑していた。何故なら、普段はそれぞれの部屋で眠っていて、こんな風に隣り合ったベッドで眠ったことはなかったからだ。今まで、ファイノンと二人でどこかに出かけに行くことはあっても、泊まりがけの旅行をしたことはない。そのことに今更気がつき、勝手に気まずく感じてしまっていた。
寝顔程度は今の家でも昔の家でも見ているし見られている。幼い頃、帰宅の遅くなる両親を起きて待っているとぐずった俺を寝かしつけようとしたファイノンが、俺をあやしながらそのまま寝落ちしてベッドに突っ伏していたこともあったし、公演後の打ち上げパーティーで飲みすぎたファイノンがソファや床に落ちている姿を朝に発見することもあるが
……。
何故かここに来るまでファイノンとは別部屋だと思い込んでいたが、別部屋の方がいいかい? と聞かれてもいなかった。確かに、俺とファイノンが同居していることは別に隠してもいないし、「後見人」であれば同室でも問題ないと思われるに決まっていた。普通は問題がないだろう。
「旦那様が工具の整備などで不便があってはいけないと仰っておりましたので、大きな部屋をご用意させていただきました。それにしてもファイノン様は様々な器具をお使いになられるんですね。調律師の方には何度もお会いしていますが」
「あはは、心配性なので、色々持ってきたら大きくなってしまいました」
悶々としている俺を他所に、ファイノンの「お祈りセット」を感心したように見つめるアルセンに、「あれが調律道具ならな」と心の中で呟く。
「そういえば今更ですが、お部屋は一緒のほうがご都合がよろしいかと思いましたが、隣の部屋も空いておりますので、そちらに移ることも可能ですよ」
「あ、
――」
ファイノンと会話をしている間中寝室を見つめてしまっていたからか、何か気まずさがあると感じたらしいアルセンが申し訳なさそうに提案をしてくれる。
そうしてくれ、と口を開こうとしたところで、
「いやいやそんな今からなんて準備が大変だろうし、仲良しだから同室で問題ないよ。だろ、メデイモス?」
俺の思惑はきらきらとしたファイノンの笑顔に阻まれた。
青い瞳が真っ直ぐに俺を見つめ、どうかしたかい? と穏やかに首を傾げられる。
「
——ああ」
思わず反射で答えたが、すぐに後悔した。もし俺が「部屋を分けてくれ」、と言えばファイノンは間違いなく傷ついた顔をしただろうが、旅行中、と言うより就寝時にこの居心地の悪さに耐えられるかは疑問だった。
「お部屋の奥にシャワールームがありますが、その奥に露天風呂もございますので、湯船に浸かりたい場合はそちらをご利用ください。寝巻きやタオルはこちらの棚の中にございます」
「露天風呂付きか。いいね、僕も彼も風呂は大好きだよ」
ファイノンがうんうんと相槌を打つのを見ながら、ため息をつきたくなるのを堪える。風呂上がりのファイノンを見るのは今だってそうだろう、場所がいつもと違うだけで。変に意識しないよう、何度も自分に言い聞かせる。
「冷たいお飲み物は冷蔵庫にはいっていますので、ご自由にどうぞ。もし無くなってしまった場合は私やラティーナ、あるいはそちらの内線からお電話ください」
まるでホテルに宿泊しているかのような対応に感心した。先ほどオルクスから聞いた印象ではオルクスの実家よりも奥方の実家の方が随分と資産家のようだが、我が家も祖父が存命であれば、葬儀後もあの屋敷を手放さなかったかもしれない。手入れや諸々を考えてのことで後悔はないが、少しだけそんな可能性を考えてしまった。
「それでは、三十分後にお呼びしますので、ゆっくりお待ちください」
ファイノンと談笑していたアルセンはグラスに冷えたお茶を注ぐとそう言って部屋を去っていった。
——今のうちに、気になっていたことを聞いておこう。
「ファイノン、さっきの声の主を知っているか?」
「さっきの声?」
荷解きをしていたファイノンが振り返り、「左側のベッドを使ってもいいかい?」と言うので頷く。
「あー、彼女に会わせろ〜みたいなこといってた人か」
「ああ。スコート
……だとか言う名の客人だと聞いたが」
「そんな名前だったっけ。うーん、オルクスさんが結婚する前に先生からちょっと聞いたことある
…けど、確か奥さんの元恋人らしいよ。だから関わりたくないし、君も何も知らない気にしないフリをした方がいい」
「元恋人を招待したのか?」
案外衝撃的な関係だったことに驚いたが、それよりファイノンが知っていることにも驚いた。
「オルクスさんと奥さん、十四歳差だからね」
「
……それは、今の話に何の関係がある」
「ん? いや僕はそう言うの全然気にしないけど、世の中には気にする人もいるだろ。パートナーと年齢差が結構ある音楽家の知り合いなんていくらでも知ってるし、四十二と二十八の結婚だって聞いてるから、いい大人同士なんだから、僕は好きにすればいいと思う。ただ、スコートさんは留学先で出会ったオルクスさんが恋人を盗ったと思ってるらしくてね。オルクスさんの言葉が正しいなら、実際、奥さんとスコートさんは留学前に別れてるそうだから、逆恨みというか、やっかみというか
……。なんだろう、まあ恋愛って難しいなと思うよ」
俺とファイノンのことを間接的に言われたような気がし、瞬間的に胸がヒヤリとしたが、「別に歳の差は気にしない」の言葉に勝手に安堵して心臓が跳ねる。十四を「気にしない」のであれば、俺と十六離れていてもファイノンの中では問題はない、はずだ。恐らく。
「
……やはり話の流れがいまいちわからん」
声が震えないよう気をつけながら、話を妙な方向に進めないよう深呼吸をする。
元恋人を招待するのは、よほど円満に別れたか、現状が円満でなければできないことだと思うのだが、あの怒鳴り声から考えると、どうにもそういった想像はしづらい。
「彼女は私の妻であって、もうお前の元恋人ではないって対外的に示したいんじゃないかな。結婚して八年? くらい経つみたいなのに、それでも粘着しているスコートさんもどうかとは思うけどさ。僕個人としてはそう言うのってものすごく趣味が悪いなと思うし関わりたくないし君にも気にして欲しくないけど、でもオルクスさんのピアノの才能は本物だから」
「
……………………」
時々、ファイノンは妙な言葉の使い方をする。今のは「才能は本物だから、人格に問題があっても関係ないしどうでもいい」と言う意味だ。
ファイノンは関わりたくない、といった通り、それ以上は何も言うつもりがないらしく、また黙々と荷ほどきに戻ってしまった。
ほどくほどの荷物もなかった俺は、夕食が運ばれてくるまでの間、ぼんやりと茶を飲んで時間を潰そうと思ったが、残念ながらガムシロップが部屋に置かれていない。
三分の一ほど飲んでから水で薄めていると、「後でシロップもらってあげるよ」と荷解きをしていたはずのファイノンが苦笑しながら声をかけてくる。こんなところばかり目敏い。
スマートフォンをようやく確認すると、友人たちから「スティコシアの田舎ってどんな感じ?」と連絡が来ていた。きっと想像していたのとは違う景色だろう、と室内と庭の写真を撮って送っておく。
『スティコシアって海沿いの街じゃなかったっけ?』と予想通りの反応が返って来たのに満足し、「俺もそう思っていたがそうではないのが好みの家主らしい」と返信しておく。
*
宣言通り、三十分後に部屋まで迎えに来たアルセンに連れられホールへと向かう。オルクスはホールに忘れ物をしたことを思い出しただとかで、先に屋敷を出たようだった。
アルセンとファイノンが談笑しながら歩く三歩ほど後を追いながら、陽のずいぶんと傾いた庭を観察する。庭師もいるのか、良く手入れされていて、夏らしく鮮やかな花々が夕闇の潮風に揺れている。
「
……………、」
道すがら、庭の奥の方に、屋根のついた木製の二人乗りブランコがあるのが見えた。そこに、テディベアを抱えた少女が座っている。
「あれは
……」
「メデイモス様、どうかされましたか?」
「いや、あそこに子どもが
——」
足を止めた俺をファイノンとアルセンが振り返る。
もしかすると、彼女が行方を探されているセレネかもしれない。
「子ども? 誰もいないみたいだけど
……」
一瞬二人の方に顔を向けすぐにブランコに戻したが、そこにはもう少女の姿はない。
「テディベアを抱えていたが、セレネではないか?」
「え! 確かにお嬢様はいつもテディベアを
……ブランコのところにいらっしゃったんですね?」
「ああ、目があってしまったかこちらに気付いたのか逃げてしまったようだが
……」
「す、すみませんちょっと電話をかけても」
「構わん」
探させているスタッフに共有するのか、慌ててどこかへ電話をかけ始めたアルセンに頷く。
「そう言えば、君も昔はよくかくれんぼをしてたな。大抵、ピアノの練習より本が読みたかっただけみたいだけどねえ」
「
……余計なことを思い出すな」
まさか俺自身も数刻前に同じことを考えていたとは言えず、舌打ちが溢れる。
「別にいいじゃないか。先生もゴルゴーさんも、そんなに本が好きならピアニストにならなくてもいいって早々に諦めて好きにさせてくれたんだから。まあ、片手練習をしてる振りして左手で読書してるのを見た時は驚いたけど」
「忘れろ!」
「あはは、あの時僕にバレた時も今と同じように慌ててたな」
「ぐ
……、そう言えば、あの頃のお前は何故俺の居場所がわかったのだ?」
「ん? いやわかってたわけじゃないよ。なんとなくこの辺にいるかな〜ってところを探したら、たまたまいつも君がいただけさ。だからこそ先生もゴルゴーさんも僕に君を任せたんだろうけど、僕にとってはいつだって君の隠れる場所はわかりやすかった。それだけ」
ファイノンが昔を懐かしむように優しい瞳で俺を見つめるのがわかり、落ち着かない気分になった。きゅう、と心臓が鷲掴みにされたように痛み、そうか、と答えようとしたしたが、口の中が渇いてうまく言葉として出てこない。
「すみませんお待たせいたしました」
気恥ずかしさで黙った俺に、何も言わずに笑っているファイノンを段々と殴り倒したくなっていた。その衝動に耐えていると、通話を終えたアルセンが俺たちを見て気まずそうな顔をする。慌てて表情を取り繕い「ホールは向こうか?」と前方を指差しながら歩を進める。
「可愛い思い出なのに、そんなに恥ずかしがらなくても」
ぼそ、と小さくファイノンが呟くのが聞こえたが、当然聞こえないふりをした。
お前に言われるのが一番耐え難いに決まってるだろうが、この馬鹿。
*
ファイノンと口をきかずにようやくホールに到着すると、オルクスが待っていた。アルセンは主人に耳打ちすると、セレネ探しに加わるのか、そそくさと足早にホールから去っていった。
「ご足労いただいて悪いな! それから、先程は聞き苦しいこともあってすまなかったね。来たいというから了承したのだが、あの男には困ったものだ
……」
「まあまあ、その話は気にせず。僕たちも気にしませんから」
ファイノンの言葉は本心だろう。俺もよくわからないトラブルには関心がないので、無言で頷いておく。
「ホールの空調は本番ものこの程度ですか?」
陽の落ちた時間にしてはさほど涼しくないな、と考えていると、ファイノンがステージを見つめながら尋ねる。
「いや、もう少し下げるつもりだ。三十人近く入るから、今のままでは暑いだろう」
ファイノンの疑問を皮切りに、オルクスがホールの説明をする。
ホールは江戸風ではなくスティコシアによく見られる儀式用建築を模した構造となっていて、最大収容人数は六十人らしい。
ステージは地上より一段分上に作られていて、床に傾斜はなく、壁はでこぼことした反響板が目立つが、椅子も床も全て白い材質、あるいは白で塗られているせいか、外から見たよりも広い空間に思えた。
「残響はそこそこいいだろ?」
そう言い、オルクスがホールの真ん中で手を叩く。一人にしては随分と大きな音だった。
「意外と残響時間が長めですね」
ファイノンはいつの間にか手帳を開いてメモを取り、細かく「仕事」の確認をしている。
仕事をしているファイノンの真剣な横顔をじっと見つめていることに数秒経って気がついたが、ファイノンは俺を見ない。その姿に、好きだ、と思わず心の中で呟いてしまう。
仕事を邪魔しないよう、オルクスに断って椅子に座らせてもらうことにする。
黙ってホール内を移動する二人を眺めていると、ファイノンがピアノのメーカーを確認し、ホッとしたように眉を和らげたのがわかる。座る場所を移動し、俺もメーカーを確認することにした。成る程。
てっきり、高音が煌びやかな海外のメーカーのものかと思ったが、国内大手のコンサートタイプらしい。「凱旋公演」をするタイプが国内メーカーなのは少し意外だったが、「結構調律に細かいタイプ」だとファイノンが言っていたので、恐らく彼は国内と海外とで使うピアノを変えるタイプなのだろう。
海外メーカーのピアノは国内産のピアノと材質が違うため、湿度や気温で音が随分と変わってしまう。
それがわかっていて弾き慣れたピアノを持ち込む者もいれば、気候に適したピアノを使う者もいる。演者のプレイスタイルや音の好みの問題でどちらが良い悪いではないのだが、俺個人の意見では、国内産のピアノのほうが当然気候に合わせて製作されている関係上、海外製よりも良い音が出ると言う考えだった。
「明日はホールの空調も本番と同様に調整しよう」
「調律自体は最近されましたか?」
「ホール自体は建て直しをしていないから帰国してすぐ
――三ヶ月ほど前だ。向こうから持ってきたわけではないが、数年放置していたからな。劣化していた部分は交換済みで、大幅な修繕は不要な筈だ。詳しいところはまた明日確認して欲しい」
「わかりました」
ファイノンはそれから三十分ほど調律についての要望を触りだけ確認し、これ以上は夕食が遅くなりすぎるから、と本邸に戻ることになった。
「ここは常に開けっ放しなんですか?」
入り口の大扉を閉めた後、ホールに鍵をかけず屋敷に向かって歩き始めたオルクスの背にファイノンが慌てて声をかける。
「ああ、正門か裏口以外で敷地内には入って来られないし、例え誰かがここに入ってもご覧の通りピアノしかないからね。盗むものもなにもないよ。客人も今のところは君たちとスコート君だけだし、三人とも何かをするとも思えないから問題ないだろう」
恋敵に関しては果たして、と疑問に感じたが、そこを気にしないのは大物なのだろうか。
そう考える俺の隣で、「そうですか
……」とファイノンが少しだけ眉を下げ、情けない顔をする。
これは自分が調律した後、誰かにピアノを触られないか心配している顔だ。恐らくファイノンもスコートとやらがピアノに悪さをしないか気になっているのだろう。
嫌な考えだが、奴が元恋人とオルクスの結婚に今も納得がいっていないのであれば、華々しい凱旋公演で恥をかかせるために、なにかしてもおかしくないような気もする。
とは言えこれは俺の勝手な想像であるし、ファイノンが黙っているのに余計なことを言うわけにもいかない。
「君は相変わらず心配性だな。オーリパンも時折君の心配性が心配だといっていたよ」
「えっ? まあそりゃ、僕は先生に比べたら心配性だとは思いますが
……」
「心配性の弟子が心配で連れ回していた、なんて話を昔はよく聞いたぞ? いつからかは、息子を任せて置いてきたなんて笑っていたがな」
「うーん、心配だから連れ出してた、は方便な気がするけど
……そう言うことにしておきます」
*
「夕食は部屋に用意させようと思ったが、義父母が君たちに挨拶をしたいらしい。申し訳ないが、食堂のセッティングができたら呼びに行くから、それまで部屋で休んでいてくれ」
てっきり今夜は気楽な夕食になるかと思っていたが、あてが外れてしまった。わかりました、と答えて部屋へ戻るファイノンと共に部屋へ戻ると、出がけにテーブルの上に置きっぱなしになっていた飲みかけのお茶が下げられていて、綺麗なグラスが並んでいる。
そう言えばシロップをくれと言い忘れたな、と思いながら冷蔵庫を開けると、冷えた緑茶のボトルが数本と、ミネラルウォーター、炭酸水の瓶、それからザクロジュースが数本並んでいた。
「ファイノン、俺の好みを伝えたか?」
「うん? 好みって?
……ああ本当に用意してくれてのか。滞在中の食事についてアレルギーがないかとか苦手な食材のヒアリングがあったから、そう言ったものはないよと答えるついでに好みを聞かれたから伝えておいたんだけど、準備がいい」
「ジュースの好みまで言う必要はないだろう」
満足そうに笑って離れていくファイノンの気遣いにむず痒さを覚えて呟くと、ファイノンが背後で鼻歌を歌いながら鞄を開ける音がした。
「そうかい? でも君、朝も寝る前もザクロジュースを飲むだろ。てっきり持ってくるのかと思ったのになかったから、用意してもらえてよかったじゃないか」
「
……まあ、そうだな」
確かに、自宅の冷蔵庫にザクロジュースを切らしたこともない。それはわかっているのに、ファイノンが俺の好きな物を把握しているのが妙に嬉しかった。俺もお前の食の好みは良く知っていると言いたかったが、話の流れとしては不自然だ。
黙って冷蔵庫を閉め、今夜も寝る前にザクロジュースを飲むことを決める。
*
江戸式ということは食事は座敷だうろか、と作法の記憶があまりなく若干憂鬱だったが、幸いなことに夕食の場はオクヘイマとあまり変わりがなく、椅子とテーブルが用意されていた。なんでも義父母は膝が悪く、座敷での食事は困難だからと言うのが理由らしい。
食卓はオルクスと彼の義父母、ファイノンと俺の五人だけだった。奥方はやはり臥せっているようだったが、娘の姿がないのは気になった。果たして彼女はまだ見つかっていないのだろうか、と壁時計が夜の八時を指しているのを心配になる。
スコートとやらの見知らぬ男の姿がないのも気になったが、誰も口にしないので、流石に食卓に顔を出さない程度の常識はあるらしい。
「セレネはどうした?」
「もうそろそろいらっしゃるかと」
オルクスに尋ねられたアルセンが答えるのが聞こえ、ほっとする。あの後探す人数を増やしたのか、流石に見つかったらしい。
「これ以上客人を待たせては申し訳ない。夕食にしよう」
表面上は和やかに始まった食事だった。スティコシアの名産である海鮮やフルーツをふんだんに使用した料理の味は申し分なかったが、空気が妙に重く落ち着かない。
この空気の重さは果たして娘がいないからなのか、あるいは奥方が臥せっているからなのか、はたまたそれ以外が理由なのかは俺にはわからない。
さっさと食べて部屋に戻りたい、と思いながら隣でオルクスと昔話に花を咲かせているファイノンを盗み見る。
「そういえばカルスコではそんなこともありましたね。あの時は確か、二時間くらい待ちぼうけを食らったような
……」
「そんなには待たせていないだろう? せいぜい三十分かそこらの筈だ」
「いやいや、あそこは怠惰の街ですから、先生も含めてみんな時間感覚がふわふわになってたと思いますよ」
ファイノンはいつも以上ににこにこと愛想のいい笑みを浮かべ、父の思い出話をしている。オルクスは時折俺にも話を振ってくるが、記憶が殆どない幼い頃か、あるいは生まれる前のエピソードばかりで、上手く二人の話に入ることができない。
歳が離れているのだから、俺の知らない父やファイノンとの思い出をオルクスが共有しているのは当たり前だと言うのに、その事実が気に入らず、黙々と作業のように食事を片付けることに没頭していた。
「
……おそくなってごめんなさい」
食事の殆ど終わりがけに、アルセンが一人の少女を連れて食卓へと現れた。大事そうにテディベアを抱えているその姿は庭のブランコに腰掛けていた彼女によく似ている。
「全くどこに行っていたんだ? 客人が来るから屋敷内にいるようにいっていただろう」
「
……はじめまして、セレネです」
父親の小言は無視し、少女が俺とファイノンに向かってお辞儀をする。難しい年頃なのかもしれない。
「はじめましてこんばんは。僕はファイノンといって、今度の公演でピアノの調律を担当させてもらうんだ。こっちは僕の
……えーと、師匠の息子のメデイモス。彼のお父さんは君のお父さんの友達だったんだ」
「はじめまして」
ではないが、と思いつつ、セレネに視線を向ける。
「
…………………………」
セレネは俺とファイノンの顔をキョロキョロと恥ずかしそうに見回したかと思うと、再び頭を下げ、父親の隣の椅子に座る。
「アストゥロはこちらでお預かりします」
セレネの抱えていたテディベアを受け取ったアルセンは、彼女の席の後ろに置かれた棚の上の小さなカゴにアストゥロを座らせる。何故だかそのテディベアに見覚えがあるような気がし、じっと目を凝らした。
もしかすると、あれはニケ社のテディベアじゃないだろうか。
「昔同じやつ持ってなかった? リボンの色とかは違うみたいだけど」
俺の視線の先に気づいたファイノンが、耳許に囁やいてくる。
「恐らくな。地域限定の物だろう」
デザートをつつきながら答えると、やっぱり、とファイノンが何がまた余計なことを思い出しているのか、昔を懐かしむように微笑んでいる。
その横顔にまた視線が吸い寄せられかけながら、皿に目を戻した。
母上は男勝りなはっきりとした性格をしていたが、反面、可愛いものも好きな人だった。俺は小さい頃から半ば母の趣味のぬいぐるみに囲まれて育ち、今でも可愛いものがそれなりに好きだという自覚があるが、甘党と同じくらいと「顔に似合わない」といわれることが多い。ファイノン以外には。
俺自身は別に変わった趣味だとも思っていないし、自室の棚にはかつて誕生日のたびに母から贈られたテディベアやオルゴールが並んでいる。ファイノンも誕生日には犬のぬいぐるみやキーホルダーを俺に贈ることがあるが、母の買い物に付き合わされていたのも知っているので、きっとファイノンにとっても違和感はないのだろう。
彼女が持っていたのは、テディベア好きなら必ず一体は持っていると言われるニケ社の物に違いない。顔つきが特徴的だ、とファイノンにいつだったか熱弁したこともあり、間違いないだろう(当時のファイノンは「僕には全然見分けがつかないな
……」と情けないことを言っていたが、見分けがつくようになったらしい)。
ニケ社のテディベアは季節や国ごとに限定モデルを出すことが多く、彼女が持っていたものは、二年前にオークションで買うか真剣に悩んだエイジリアの限定モデルのものだった。
「
……そんなに気になるなら後でも写真撮らせてもらったら?」
「いやそこまでではない」
「と言いながら熱心に見てるように見えるけどなあ」
しつこい。
「俺のような男が話しかければ怖がられるだろう」
「えっ別に彼女、君のこと怖がってなかったと思うし、君が子どもに嫌われるところも見たことないから大丈夫だと思うけど。それに君もあのくらいの歳の頃は僕に一生懸命色々教えてくれたから、聞かれたら嬉しいんじゃないかなあ」
「
…………………」
何故こいつは今日に限って、こんなに余計なことを思い出すのだ?
かーっと頬に熱が上り、忘れろ、と小さく呟く。確かに幼い頃は家に殆どいない両親の代わりに、先ほどのぬいぐるみのように、ファイノンになんでもかんでも話してしまっていた。
夕食の席には、最後までスコートが顔を見せることはなかった。
誰の口からも名前が出なかったが、いまだに姿を見ていない男が本当にこの屋敷に宿泊しているのかも疑わしい。
果たして、自分の妻の元恋人を凱旋公演に招待するのも俺からしてみればありえないと感じてしまうが、それに加えてゲストとして宿泊を許可する事などありえるのだろうか。
ファイノンのがいった通り、本当にオルクスの趣味が悪いのであればなくはないだろうが、俺自身はそこまで彼に悪い印象は持っていない。
そこまで考えてから、関わりたくないから忘れろ、とファイノンに言われたことを思い出す。他人の事情に俺が思考を巡らせるべきではない。
*
食事を終え、部屋へ戻ろうとする俺とファイノンをオルクスが呼び止めふ。
「ファイノンくん、悪いが明日の件でちょっと相談に乗って欲しいことがあるんだ。私の書斎で少し打ち合わせできるかね」
「それは大丈夫ですが、手帳を部屋に置いてきてしまったので、何かメモを貸してもらえますか? それかスマートフォンにメモさせてください」
「勿論構わない」
「それならこのまま行きます。メデイモス、君は先に戻ってのんびりしててくれ。疲れてたら寝てても構わないし、なんなら先にお風呂でも堪能しておいで」
「ああ」
ファイノンたちと別れ、一人で部屋に戻る。
本でも読むかと思ったがなんとなく気分にならず、せっかくなので露天風呂に行ってみることにする。
スマートフォンを確認すると、いい旅館に泊まっていると勘違いした友人たちから妬みの(冗談だ)メッセージが届いていた。
「露天風呂行ってくる、と」
食事の写真も撮っておけばよかったか、と思いながら、特に誤解を解かないメッセージを返信して携帯をしまう。
棚から寝巻きやタオルの一式を持つと、シャワールームの奥にある露天風呂へと続く扉を開ける。
思っていたよりも小さめだったが、夏の夜空に耀く星の絶景が視界一杯に広がっている。海風のせいか、あるいは森もそばにあるからなのか、昼に比べて夜はぐっと気温が下がり、露天風呂はもしかすると暑いかもしれないと、と思ったが、意外とちょうど良い。
「どうせならファイノンと一緒に入り
…………」
願望が声に出ていたことに気づき、誰もいないと言うのに慌てて黙る。
「そういえば、幼い頃プールに行った記憶はあるが近頃はないし、温泉に一緒に行ったことはなかったな
……」
旅行の行き先を選べと言っていたから、もしかするとその二つのどちらかは通るかもしれない。
いや、寝室が同じくらいで困っている現状から考えれると、もしかしなくとも刺激がつよすぎるのではないか?
「
……出るか」
悶々と妄想していると良くない方向にのぼせそうになり、ロクに星空も堪能せずに風呂を出る。
物音がしなかったので帰ってきてはいないだろう、と思ったが、やはりファイノンはまど帰って来ていない。髪を乾かし、ベッドに転がって今度こそ読者をしていると、瞬く間に時間が過ぎていた。
まだ帰って来ないのか、と時計を確認すると、夕食から二時間近くが経っていた。随分と話が盛り上がっているのかもしれない。
妙に落ち着かない気分になり、部屋に備え付けのテレビをつけて適当にチャンネルを回す。見たい番組はなかったが、なんとなく無音になるのが嫌でバラエティ番組をつけたまま、畳の上に寝転がった。
腹筋やストレットをしてなんとなく体を解していると、更に一時間程経ってからようやく、ファイノンが部屋へ戻って来た、のだが。
「ただ〜いま」
「おかえ
……、おい、そんなに飲んで明日は大丈夫なのか!?」
「え、ちょっとだよちょっと!」
「呂律も怪しい上に顔も赤い。それのどこが『ちょっと』だ?」
「二日酔いと無縁らかららいじょ〜ぶ!」
真っ赤な顔でふらふらと部屋へ戻って来たファイノンは、どうやら夕食の席では一杯しか口をつけなかった酒を散々オルクスの私室で浴びて来たらしい。
首まで真っ赤にした男は俺に抱きつきながら、まるで幼い子供でもあやすように「よーしよし」と人の気も知らずに俺の背を撫で、熱い体を押し付けている。
「大丈夫なわけがあるか。さっさとシャワー浴びて酔いを冷ましてこい!」
「明日の朝入るよ〜。寝ます!」
「服を着替えろ!」
勢いよく宣言して俺を離したかと思うと、ファイノンは「ああ服ね」と言いながらその場にシャツやスラックスを脱ぎ散らかして行く。
ぼんやりしたまままで棚からバスローブを引っ張り出すと(一緒にタオルやいろんなものが床へ落ちた)、バスローブに腕を引っ掛けただけの姿でベッドに倒れ込む。
「ファイノン、おい、本気で寝るのか? ファイノン!
…………はぁ。おい
……寝る前に明日何時に起きるつもりか言え。目覚ましをセットしていないだろう」
掛け布団の上に倒れているファイノンの体の下からなんとか布団を引っ張り出し、体を転がしてバスローブのボタンを締めてやる。胸許から腹が晒されているのをなるべく薄目で見ないようにし、こちらに背中を向けるように寝かせようとしたが、酔って弛緩した体が重い。
「六
……七
……六時
……ううん
……七
……六時半
……」
横向けにしようと奮闘していると、むにゃむにゃと不鮮明に呟く吐息が耳に触れ、びくっ、と体が跳ねてしまう。
「ファイノン、」
無防備に眠っている男の赤い頬に、気づけば指が触れていた。
美しい銀髪が目許に影を落としている姿に鼓動が跳ね、尋ねるように、ただ確かめるように名前を呼んでいた。
指先で前髪を払う。なだらかな瞼の稜線にそっと指を滑らせ、眼球の形を確かめる、鼻筋へと下ろして行く。
唇に触れようとして、寝息が指先に当たる。
——ハッとして、手を戻した。
今、何をしようとしていた? わからない。
「六時に目覚ましをセットしておく。早すぎると文句を言うなよ」
聞こえていない男に吐き捨てるように呟き、飛び出しそうなほど打っている左胸をグッと押さえた。
「うん
……うんうん
……むにゃ
……」
これも朝になったら覚えていないパターンか?
確かに本人が言う通り、二日酔いの姿を見たことはない。気疲れで普段より逆に酒を飲んでしまったのかもしれない。
音楽家は酒好きが多く、両親も食事の席で信じられない量を飲んでいたことを思い出し、少しだけ胸がつきんと痛んだ。
両親の死はもう乗り越えたはずの痛みだったが、そう言うわけでもないらしい。
眠っているファイノンの姿を見下ろし、深呼吸をしてから、そっと熱い背中に手のひら当てる。体温を感じているうちに、段々と胸の痛みが遠ざかる感覚がした。
「脱ぎ散らかすな
……」
感傷を誤魔化すために大袈裟にため息をつくと、ファイノンが脱ぎ散らかした服を拾って畳んでおく。
ファイノンと二人暮らしを始める前は家のことは基本的に全て家政婦にやってもらっていたが、今はファイノンと家事を分担している。と言っても、アルバイトをしていない暇な大学生の俺の方が比重はでかいが、そこに不満はない。
昔はファイノンの方が家事の全てがうまかったが、今では逆転してしまった。
初めて洗濯機の使い方を教えてもらった日のことを何故か急に思い出し、心が再びざわついた。
服をファイノンの荷物の上に乗せると、ベッドに戻り、眠っている男のやや冷えた触り心地のいい髪に触れ、熱い頬に触れる。
「
……ファイノン」
これから先もお前とずっと一緒にいたいと言えば、お前はいてくれるのだろうか。