紫輝
2025-10-11 10:25:35
17782文字
Public リオヌヴィ
 

My dear little little Dragon.

いつものやつで記憶と身体年齢を吹っ飛ばしたヌ様に甘え倒されたりそんなヌ様を甘やかし倒したりするリ殿の話です。概ねお膝の上にいる。こんなんなんぼあってもいいですからね!注意書きにお目通しの上お口に合いそうな方は先へどうぞ。



 執務机の上に子どもが乗っている。年の頃は三歳いや、二歳くらいだろうか。ぺたりと座り込んだ姿勢から両手をついて身を乗り出し(書類の悲鳴が聞こえた)、大きな瞳をキラキラと輝かせながらリオセスリを見つめた子どもは、それはもう愛らしく笑った。
「きでんが、わたちのちゅがいどのだな!」
 絡まって転んでしまいやしないか失礼ながら心配になってしまうほど、体躯からしてみれば長い銀髪。合間から覗く蒼色の二筋は、淡い光を帯びてふよふよと揺れている。この年にして恐ろしいほど整った顔立ちを飾る大きな瞳は夜明けの色だ。珊瑚の色をした唇から、鈴を振るような声がころころ、転がり落ちる。
「きでんをみて、ちゅぐにしょうとわかった。わたちはヌヴィレット、ゆえあっていまはしょれいがいにわたちのみぶんをちめちぇるものはもちあわしぇていないのだが、おうじちゅのうみより、しょんろうにいわれてここにやってきたちだいだ」
 似てるなぁ、と思いはしたがどうやら御本人だったらしい子どもは、蒼の二筋を機嫌良さげに揺らしながら続けて鈴のを響かせる。
「ちゃびびとどのにはなちはきいたが、ちゅがいどのがこりぇほどまでにおおちくたくまちいひととはちらなかった。わたちはとてもめぐまれちぇいるな。うれちいかぎりだ」
 しろい頬にレインボーローズの色を刷き、くふくふと笑う子どもはそれはもう大変素晴らしく凄まじく愛らしいのだが、リオセスリの脳内の冷静な部分は雰囲気に流されることを良しとしなかった。具体的には流される前に最低限の情報が欲しい。その上で木の葉もびっくりの、立派な流されっぷりをお目にかけたいところだ。
「わたちは、」
「ヌヴィレットさん、一旦ストップ」
 尚も言葉を紡ごうとする珊瑚の唇にそっと人差し指を押し当てると、んむ、と鈴が鳴り止み、夜明けの瞳がぱちくりと瞬く。こてりと首を傾げられるのに「悪い、続けて」などと言いかけた言葉を飲み込み、先から呆気に取られているしかなかった間抜けな表情に笑顔を乗せた。
「遠い往日の海から、ようこそメロピデ要塞へ。話したいことが沢山あるんだが、まずはそこから降りようか。一応この『机』ってものは、人が座るための家具じゃないからな。ちゃんと腰を落ち着けて、ゆっくり話したいな」
! しょうか。しょれはもうちわけない」
 はっと目を見開き、ひとのよにはくわちくなく、と慌てたように口にした小さなヌヴィレットが身じろぐと同時にバランスを崩す。響く乾いた音はヌヴィレットの手の下敷きになっていた書類の滑るそれだろう。とっさに伸ばした腕の中に傾いた上半身が落ちてくるのに己の反射神経に拍手喝采しつつ、片腕に容易く収まってしまう幼い体躯のサイズ感に湧き上がるどころか噴き上がる庇護欲。スキュラ殿ありがとう――ここを提案してくれた『尊老』の棲む往日の海へ心からの感謝を送りながら、固まっているヌヴィレットの様子を窺う。
「危なかったな。大丈夫かい? どこか痛めたりしてないか?」
「うむしゅまない。かんしゃしゅる、ちゅがいどの」
 ぱちぱちと夜明けの瞳を瞬いたヌヴィレットは、身に回るリオセスリの腕に手を添え、そろりと力を込めてくる。
「ちゅくえとは、きけんなものなのだな
 だから乗るものではないのか、と、しみじみと呟くのに堪えきれず肩を揺らしてしまいつつ、不快や忌避を見せたらすぐに手を引けるようゆっくりと慎重に、何より丁重に、小さな身体を抱き上げる。これは知っていると言わんばかり、ぴとりと身を寄せられて上げかけた呻きは気合いで飲み下して、小さなヌヴィレットをソファまでエスコートし、無事にその身をそれに落ち着けることに成功した。
「よし。それじゃ事情を聞こうか、『旅人殿』?」
 座り慣れないのだろうソファの上でもぞもぞと動いている何かそういう置物のようなヌヴィレットをいつまでも眺めていたい気持ちはあったが、前述の通りリオセスリの脳内はそれを許さない。ヌヴィレットと視線を合わせるべくソファの前に膝をついたまま螺旋階段へ視線を向けると、「あっちょっと待って!」という焦った声を皮切りにひたすらあわあわと趨勢を見守っていた金色の少年は毎度毎度ごめん、とその肩を落とした。


 ――時は少し遡り、『往日の海』。
「へ、陛下なんとまあ、愛らしくおなりに……
 老ヴィシャップが、金管楽器の如き声を響かせる。それにはたっぷりと驚愕が乗っていた。陛下と呼ばれた少年、いや、これはどう見積もっても幼児だろう。幼児が、ぱちりと胎海の瞳を瞬く。
「ふむよわいをかちゃねたびしゃっぷとおみうけしゅる。このうみはきでんのなわばりだろうか?」
 挨拶もなく入って申し訳ない、を足らない舌でもって大真面目に紡ぐ幼児に、ごぼ、と大きな泡が立ち、海面へ向かってゆらゆらと昇っていった。
いいえ、陛下。全ての海は龍王たる貴方様の領地。儂はその一角に棲まわせて頂いているに過ぎませぬ。申し遅れましたな。我が名はスキュラ、先代様が身罷られたのち、プリンケプスとして御一族をひと時の間見守らせて頂いていた老骨にございます」
「しょうか。わりぇらりゅうのいちじょくのしょんろうでいらちたか。わたちはわたちは?」
 流石の年の功というべきか、動揺を大きな泡一つで逃した老ヴィシャップ――スキュラは、輝かせた顔を困惑に顰めた幼児を見てふぅむと呟く。
「記憶は概ね吹き飛んでいるな」
「うん。でも龍としてのなんだろう、知識とか本能みたいなものと、性格はそのままみたい」
 水を向けられて、空はうなずいた。銀髪を揺らめかせながらうんうんと唸っている幼児は、空の友人であり老ヴィシャップの王である、水元素の龍王ヌヴィレットであった。スキュラより往日の海に突如見知らぬ秘境が現れた旨の報告を受け、調査のため件の秘境に潜った結果は“恐らくレムリア以前の、古代の祭祀場の名残”。内部の魔物は念の為討伐し、それなりの戦利品も得て、最後の最後に――地脈異常の影響いつものやつを貰って戻ってきたのである。
 現在のヌヴィレットは娯楽小説風に言うなら“身体は幼児、頭脳と礼節は(やや身体に引っ張られているが)大人”だ。見た目にそぐわぬ聡明さと礼儀正しさでもってその口から紡がれる言葉たちは常のヌヴィレットのような少し堅苦しいそれなのに、未発達な舌のせいで概ね愛らしい響きになってしまっているのが失礼ながらめちゃくちゃ可愛い。衆目に晒したら攫われかねない。これは兄の勘だ。
「地脈の乱れが陛下をこのようにしておるのなら、じき元の陛下に戻られよう。元来『龍』はそういった、自然の力に対して均衡を取ることに優れる生き物。王たる陛下であれば、数日もあれば充分と儂は見るな」
「そっか。スキュラが言うなら少し安心かな」
「しょんろうどの」
 心配なら医療に優れる眷属とやらに診せるのも良いだろう、と現状と対策を締めたスキュラにありがとうとうなずいたところで、唸り声が呼び声に変わる。
「はい、陛下」
「もうちわけないが、わたちにもじょうほう、きょうゆうを、おねがいちてもよいだろうか」
 言いにくそうなそれに低いさざめきを漏らして(きっと笑ったのだろう)、老ヴィシャップはその声を響かせた。
「勿論です。まず、貴方様は現在“ヌヴィレット”と名乗り、人の世で、人に混じって生活しておいでです。今は一時的に小さくおなりですが、本来は人間の『成人』と同じ姿形をお持ちです」
「うむ」
「貴方様がそのようなお姿になったのは、この海に出現した秘境を調査してくださった際、乱れた地脈に触れられたからです。それが貴方様に何らかの影響を及ぼし、結果お姿は小さく、記憶の一部が失われるに至りましたが、秘境はすでに封印されております。数日のうちには元の貴方様に戻られるかと」
「ふむ。よくわかった。かんしゃしゅる、しょんろうどの」
 にこ、と、幼ヌヴィレットが微笑む。思わず「スズランが満開に」なんて思ってしまったが、スズランにとってはこの歳のヌヴィレットは対象外かもしれない。むしろ違う方が咲き、いや湧きそう、なんてよぎった不穏な想像は、氷の軌跡と突き刺さるような冷気を纏ったストレートパンチ的な何かで粉砕しておくことにして。
 意識を戻したヌヴィレットは、再び思案げにうむむと唸っていた。
「しょんろうどの、わたちはどうしゅるべきだろうか?」
 『人の世』に戻った方がいいのか、力を取り戻すまでどこかに身を潜めていた方がいいのか。後者であるならば一時この海で過ごす許しを得たい。
 悩む幼き王に対する老ヴィシャップの返答は明瞭だった。
「貴方様には人の世に、たいへん睦まじい人族のつがいがいらっしゃいます。その方を頼られるとよろしい。貴方様の置かれた状況を知れば、それは心配なさるでしょう。つがい様を安心させるためにも、人の世に戻られるべきと存じます」
わたちには、ちゅがいどのがいるのか!」
 ヌヴィレットの目が輝いた。胸に手を当て、くふくふと笑う。
「うむ。しょんろうにいわれてきじゅいたが、たちかにわたちにはとわをやくちたちゅがいどのがいるとかんじる。ちかち、ちゅがいどのがやくちたのは『しぇいじん』のわたちだ。いまのわたちを、ちゅがいどのはうけいれちぇくれるだろうか
「そこは絶対大丈夫、安心して。むしろスキュラが言ったみたいに、黙ってた方が心配するよ」
 しょも、と落ちる肩に、思わず食い気味に口を出してしまった。『つがい殿』であれば、間違いなくヌヴィレットがこの状態でも手厚くもてなすだろう。どころか、見るからに非力なこの姿を見て日頃の過保護に拍車がかかるまである。あくまで紳士的に、もてなし、護り、甘やかすのだろう。簡単に想像がつく。力説する空に、ヌヴィレットはぱちりと胎海の瞳を瞬いて首を傾げた。
「きでんはわたちのちゅがいどのをちっているのか?」
「うん。君と、君の『つがい殿』は、俺の友達なんだ」
「しょうか! では、えと、ちゃびびとどの。わたちのちゅがいどのは、どんなひとだろうか?」
 うわあヌヴィレットとは思えない表現出てきた。(現在までの)経験上最高クラスの破壊力を持つ「えっと」に兄心を大いにくすぐられつつ、空は唸る。
「うーんと背が高くて、すごく強い人だよ。海底にあるメロピデ要塞っていう場所に住んでいて、紅茶っていう飲み物が好きみたい。あと、君のことをすっごく大事にしてる」
「む、しょうか。ちゅがいどのはわたちをだいじにちてくりぇているのか」
 嬉しいと、噛み締めるようにヌヴィレットは呟いた。ほわりと染まった頬が可愛らしくて、空は心の中で公爵ごめんと謝罪を送る。『つがい殿』にクリティカルヒット間違いなしの表情を先に見てしまった。
「きでんはちゅがいどののすのばちょもちっているようだ。もうちわけないが、あんないをたのめるだろうか?」
「勿論。君が小さくなった理由も説明しなきゃだし、一人で行って万が一があったら大変だからね」
 そっと問われて、笑顔で応じる。友達として当然だよと胸を叩けば、ヌヴィレットは何度目かの感謝の言葉をくれてほっとしたように笑った。

 そんなやり取りを経てスキュラに別れを告げ、ワープポイントをフル活用してメロピデ要塞を訪問し、顔パスなのをいいことに公爵執務室の扉を潜ったところで。
 何かを探すかに空気の匂いを嗅いでいたヌヴィレットが螺旋階段を駆け上り、彼の身長ほどもある執務机に身軽に飛び乗り口を開いて、今に至る。
「なるほどなぁ……
 いつものやつかぁ、と、少年の語るかくかくしかじかを聞き終えて、リオセスリは竦めた肩を震わせる。相変わらず世界は謎とトンチキな秘境だらけだ。
「『もし王配殿下が往日の海こちらの方が安全だと判じたならば、全霊を持って陛下の護衛を務めましょう。お声がけくだされ』って、スキュラから伝言預かってる」
「そうかい。幸いここ最近は平和なもんだ。スキュラ殿の信頼に応えてみせるさ」
 このひとのことは任せてくれ。
 少年へ笑みを向ければ、彼はよろしくと、困ったことがあったらいつでも呼んでと言い残し(しばらくはフォンテーヌにいてくれるつもりらしい。頼もしい限りだ)、往日の海へとんぼ返りしていった。
「それじゃあ、改めてよろしく、ヌヴィレットさん。正直あんたにとってあまり快適な環境とは言えないだろうが、出来る限り気持ちよく過ごせるように努めるよ」
「うむよろちくたのむ、ちゅがいどの。しゃっしょくだが、しょの、」
 少年を見送り、やっとソファの弾力と折り合いをつけたらしいヌヴィレットを見上げて微笑む。こくりとうなずいた小さな龍がもにょりと噛んだ言葉の先をなんだいと促せば、彼は眉を下げ、やや俯いて、そっとこちらを伺ってきた。絶対に狙っていない上目遣いが狙い澄ましたかのように刺さる。
「どうかこちをあげてほちい。ちゅがいであるきでんにひじゃをちゅかせるのはいやだ」
 落ち着けと念じながら待っていたところに寂しげに差し出された『お願い』は、無事にとんでもない音を立てていた心臓にとどめを刺した。



「りお、しぇちゅり、どの」
 膝の上のヌヴィレットが、己の名を辿々しく呼ぶ。そういえばと改めて名乗り聞いての通りだから呼びやすいように呼んでくれとも言い添えたが、ヌヴィレットは「つがい殿の名前をきちんと呼びたい」と首を振った。健気だ。あまりにも可愛い。ちなみに彼が膝の上にいるのはリオセスリに膝をつかせたくないヌヴィレットと、ヌヴィレットと極力目線を合わせたいリオセスリの希望を擦り合わせた結果だ。結果的に双方幸せなので最高の着地点を見出せたと言っていいだろう。仕事中、なんて野暮極まりない単語は思考の外に追い出し済みだ。
「ん、なんだい?」
「ちゅくえからかみがなくなったが、よいのか?」
 こてりと首を傾げられるのに思わず吹き出してしまった。机の上から紙がなくなったのは本日の業務が無事に終了したからなのだが、人の世について知る前のヌヴィレットにとって初めて目にした机が紙を乗せていたからだろう、新しいものは、とその視線を左右に振るのに、勘弁してくれと笑みを重ねる。
「机の上の紙は無くなっていいもの、というか、無くなってくれないと困るんだ。ここに紙がある間は、俺は寝床に戻れないからな」
「ふむちゅくえのうえのかみはきけんで、きでんをこうしょく拘束するわるいものなのだな」
 無くなったから今日の仕事は終わりだ、寝床のある部屋に戻るよと筆記用具たちを片付けつつ答えたのに返ってきた言葉はあまりにも大真面目に尖っていて可愛くて、中々笑いが収まらない。この騒動が落ち着いた辺りで表情筋が筋肉痛にでもなるかもしれないななんて馬鹿なことを考えつつ、だから早めに倒したいんだ、と言い添えれば、なるほど、と神妙にうなずくのがまた可愛らしかった。
「わたちにもちからになれることがあればよいのだが
 それからううんと唸るヌヴィレットの小さな頭をそっと撫でて笑う。
「ヌヴィレットさんが近くで見ててくれるだけで充分力になってるよ。おかげで今日はいつもより早く仕事が終わ机の上が綺麗になった。ありがとな」
 素直な気持ちを言葉にしてしまえばただでさえ可愛いひとがこんなに可愛くなって膝の上に乗っかってるのに仕事なんぞしてられるか早く自室に戻って存分に構い倒したい、が原動力なのだが、概ね嘘は言っていないので許されたいところだ。言っていないことがあるだけで。
「しょうか! いまのひりきなわたちでも、りおしぇちゅりどののちからになれたか。うむ。よかった」
 つがいの力になれるのは嬉しいと花を飛ばすかに喜ぶ幼い龍があまりにも愛おしくて、そろそろ表情を取り繕うのも厳しくなってきたのを感じる。あまり締まりのない顔は見せたくないのだけれども。
「助かったよ。毎日ここにいて欲しいくらいだ」
 滑った口から出た言葉に、髪を梳く指を心地よさげに受け入れてくれていたヌヴィレットがぱちりとその瞳を瞬いた。
「ちゅがいはちょもにしゅごすものでは?」
 心底不思議そうに首を傾げられて、ああそうか、と口中で呟く。このひとは『成人』の自分が龍としてイレギュラーな生活を送っていることをまだ知らない――覚えていないが正しかろうか――のだなと気づいたからだった。
「うーん、結論から言うと、俺たちはつがいだが、一緒には住んでないんだ」
…………なじぇ?」
 ああ、頼むからそんな悲しげを通り越して絶望したみたいな顔をしないで欲しい。うっかり心臓が潰れそうだ。
 何か貴殿の気に障るようなことを私はしてしまったのだろうかと萎れるヌヴィレットに否定を返す。力強く。心を込めて。
 それから今現在二人が身を置くフォンテーヌという国についてとこの国におけるそれぞれの立場について語り聞かせる。リオセスリの話に真剣に耳を傾けていたヌヴィレットは、理解した、とひとつうなずいて。
「しぇいじんのわたちはしゅごいな」
 ぽつりと呟いた。
「ちゅがいとはなれてくらしゅなど、わたちにはかんがえられない。しゃびちくなってちまう」
 きゅ、と眉を寄せた顔を胸に埋められて、心臓がとんでもない音を立てたのがわかった。星謹製のいきもの、めちゃくちゃ可愛い。この可愛さで国が建つぞ――自分でも訳のわからないことを頭の片隅で転がしながら、“寂しくなって”しまったらしい背中をそっと撫でる。
「俺もどうにかできないかなって考えてるんだ。これはもしもの話なんだが、俺が「水の上」に新しい巣を用意して一緒に住んで欲しいって頼んだら、成人のヌヴィレットさんはうんって言ってくれると思うかい?」
 ふとした時に浮かび上がる『もしも』の情景。淡い夢の泡をそっと彼の前に差し出すと、ぱっと顔を上げたヌヴィレットは一も二もなくうなずいた。
「うむ。しょれはねがっちぇもないもうちでだ。わたちはよろこんでうなじゅくとも」
 常よりも素直な触角が、期待と高揚を映してかふわふわと揺れている。元に戻った暁にはすぐにでも伝えて欲しい、待っている、と珊瑚の色に染まった頬でもって笑顔を向けられて、心臓が本日何度目かの異音を奏でた。そろそろ親愛なる看護師長に「一旦落ち着きなさいな」なんて言われ――いや、彼女のことであるから、「本当に危険になったらきちんと止めるから、小さなヌヴィレットさんに存分に振り回されてくれていいのよ!」くらい言いそうだ。キラめく笑顔でもって。
「貴重な意見をありがとう。ヌヴィレットさんを迎えられるだけの準備ができたら改めて声をかけるよ」
 私室の机の上に重なっている物件情報達を思う。全て整えてから申し出るつもりだったが、家具から一緒に選んでもいいかもしれない。楽しそうだ――情景を脳裏に描きつつ頬に滑らせた指にすりと懐いて、ヌヴィレットは「たのちみだ」とくふりと笑った。



「りおしぇちゅりどの、もうはいりぇる」
 メロピデ要塞では一定枚数の特別許可券で使用権を得る特別浴室と責任者私室ここにしかないバスタブで水と戯れていた小さなヌヴィレットが何故入ってこないのかと首を傾げる。二人仲良く入浴を済ませ、ここからが本番とばかり、喚び出した水をバスタブに満たし飛び込んで心地よさげにしているヌヴィレットを見守堪能する態勢を整えたところだった。
 準備はできている、とでも言うように小さな両手に右手を引かれるのに、自由な左手で頬を掻く。
「素敵なお誘いをありがとう。実は、あんたの好きな温度は俺が浸かるには少し冷たいんだ。楽しそうなあんたをここから見守らせてくれ」
 水遊び程度なら問題ないが、風呂上がり(正確には風呂終わりだが。浴室から出ていないので)に肩まで浸かるのはちょっとばかり厳しい。ヌヴィレットが喜んでくれるなら強行してもいいが、それで風邪でも引こうものなら誰よりもヌヴィレットが責任を感じてしまうだろうという確信もある。回避できるリスクは回避しておきたい。
 また次の機会に、と首を振ると、ヌヴィレットはそうか、と呟いて水中に消える。深い呼吸にして三度ほどの間を置いて、こぽぽ、と昇ってきた小さな泡を先触れに再度顔を覗かせたヌヴィレットは、難しい顔をしてリオセスリへ両手を伸ばしてきた。
「だちてほちい」
「もういいのかい? やっぱり狭かったかな」
 水を操ればバスタブから出るなど容易いのだろうヌヴィレットにわかりやすく甘えられているのが嬉しいのが半分、自由に泳がせてやれないのが申し訳ない思いが半分。微妙な笑顔になっているのを自覚しながら迎えに行った腕に擦り寄ったヌヴィレットが、ぽつり呟く。
「ひとりでは、あまりたのちくなかった」
 膝の上の方がいい、とむっすり追撃されて、バスタブのへりに額をぶつける事になった。例えばヌヴィレットへの愛おしさを湛えるための器があったとする。執務室で逢ってからというもの継ぎ足されることしかしていないその器に時折今のように固形の愛おしさが投げ込まれるものだから、もう周辺も巻き込んで大変な事になっている。普段は顔を合わせるたびに、共に過ごすたびにポタポタと雨粒が落ちるように溜まる器であるから尚更だ。勢いについていけず感情が大渋滞を起こしているのがわかる。可愛いと愛しいと大事にしたいと護りたいとその他もろもろがなんというかこう、それぞれ大きくなったり小さくなったりしながら、感情という名の管をみっしりと埋めている感じだ。外に出す感情を間違わないか怖い。
「りおしぇちゅりどの、えと、だいじないだろうか?」
 心配そうな声に呼ばれて顔を上げれば、小さな手がぴとりと額に触れる。赤くなっている、と、世界で一番幸せで間の抜けた原因でできた打撲未満を慮ってくれるヌヴィレットに危うく二打目を額に見舞いかけるのを気合いで制して笑った。
「ありがとう、大丈夫さ。もしヌヴィレットさんが良ければ、この水を少し温めさせてもらってもいいかい? そうすれば俺も一緒に水に入れる」
 ぱちん、と夜明けの瞳が瞬いたかと思うと、愛らしさ全振りの美貌がぱあと輝く。主の感情を映したのか、バスタブを満たす水がぱしゃんと波打った。
「しょんなことができるのか! うむ、うむ、もちろん、かまわない! わたちにできることはあるだろうか?」
 わくわく、そわそわ、きらきら。バスタブの中で花を飛ばす小さなヌヴィレットにヴィシャップのような尾があったなら、きっとそれは思いきりはしゃいで水を打っていただろう。
 最近ここへ降りてくるようになったヌヴィレットのために早々にバスルームの機構へと手を入れていた過去の自分のおかげで温度調節はスイッチ一つだ。申し出に感謝だけ述べさせてもらってスイッチを入れ、五秒ごとにまだかと聞いてくるヌヴィレットにどうしようもなく微笑ましい気持ちになりながら適温を待つ。ヌヴィレットにはヒトの適温は少々熱すぎると知っている。今は半分以上縮んでいるから、ぬるま湯の手前くらいで止めておいた方がいいだろう――そんな予想と自分が風邪をひかない程度の温度を無事に実現して呟いた「こんなもんかな」に、ばしゃんと湯が跳ねる。ついに言葉が置き去りになったらしい。「早く」を訴えてくる輝く瞳に応えるべく「失礼するよ」と一声かけて。
 リオセスリがバスタブに身を沈めたことでざばりと溢れる湯とそれに伴って立った波に攫われかけたヌヴィレットを慌てて捕まえる。ぱちぱちと瞬いていたヌヴィレットは、それは楽しげに声を立てて笑った。
「んふふ、あふれちぇしまった」
「縁ギリギリまで水があったからな。俺が入った分でかさはとんとんだろうから許してくれ」
「りおしぇちゅりどのがいるので、みじゅははんぶんでもまんじょくだ」
 やはり一緒がいいと、ぺたり張り付いた胸元でくふくふと満悦の笑みに身体を震わせるヌヴィレットに心臓が鷲掴まれる。星謹製の生き物、こんなに可愛くていいんだろうか。


 このくらいの水温で、陽の光がよく射すとこんな植物がよく育ちこういう魚の元気がいい、なんて、水龍様の地上大湖いきもの豆知識を拝聴しながら『晴れた日のサラシア海原海面近く度』の水に浸かることしばし。
「しぇいじんのわたちは、きでんとこうちてゆにちゅかるしゅばらちしゃをちらないだろうか」
 小さなヌヴィレットは、はっとしたかと思えば大真面目に、だとしたら勿体無い、どうにかして伝えなければと言い出した。
「成人のヌヴィレットさんともこうして湯に浸かってるよ。狭っ苦しくてちょっと申し訳ないんだけどな」
 狭い額に張り付いた前髪や大はしゃぎの後ろ髪を手櫛で整えながら肩を竦めると、小さな頭が勢いよく横に振られる。
「せまいということはくっちゅいていられるということだ。わたちはとてもうれちいので、しぇいじんのわたちもうれちいにちがいない」
 曰く、「龍はつがいと触れあっていたい生き物なので」。言葉を証明するように鎖骨の辺りに懐かれて天を仰ぐ。呻き声はしっかり飲み下したので褒められたい。やたらとひっついてくるのを可愛いなぁと甘やかしていたがそんな理由があったとは知らなかった。愛するひとに遠回しに「自分といるときは自然体です」と告げられて舞い上がらない男がいるだろうか。理性と節制を体現したようなひとだから上がり幅もひとしおだ。
「そうだ、せっかくだから聞いておきたいんだが」
「む?」
「この間知り合いから泡の立つ入浴剤ってのを貰ってね。ヌヴィレットさんとしては、そういうのはどうなのかなって思ってさ」
 水を司り好むひとの前で水面を泡だらけにすることにはなんとなく躊躇いがある。今のヌヴィレットは感情が大変わかりやすく表に出るので――常のヌヴィレットは自らの快不快よりリオセスリの好みや希望、興味関心に重きを置くきらいがある。つがいを優先するのは龍種の性質で、それが己の満足にも繋がるのだと言われてしまえばもっと自分の好みでとはちょっと言いづらい――例えば「本当は嫌だけど我慢する」が出てきた場合に次の対応も取りやすかろうと考え首を傾げると、夜明けの瞳が輝いた。
「しょんなものがあるのか! ちゃいへんきょうみぶかい。じぇひちゃいけんしてみちゃい」
 泡が立つ水など初めてだ、と笑う小さな水龍が実物はどこかねと言わんばかりにきょろきょろと頭を動かすのに肩を揺らす。
「じゃあ、次の機会に。すまないが俺はそろそろ出ないと、夕食の時間に間に合わない。風呂で部下を迎えるわけにはいかないからな。ヌヴィレットさんはもう少しここにいるかい?」
 諸々の事情を鑑み、本日の夕食は部屋に直接運ばせる手配をしている。割となんでもありなメロピデ要塞ではあるが、上裸で部下の応対をすることは避けたい。やむを得ない場合ならともかく。
 テーブルを整えたら声をかけにくるよと申し出ると、ヌヴィレットはむうと膨れ。
ひとりではたのちくないといった」
 小さな身体がぎゅうと抱きついてきて、意地悪しないでくれと首筋で声がくぐもる。のに。
水より優先順位高いのだいぶ嬉しいな……?」
 力加減にだけは気を配った上でしっかりと抱擁を返しつつ盛大に口を滑らせた。一応弁解しておくと普段からそもそも勝とうとは思っていない。種目から違うのはわかっている。しかしながら「勝った」なんて思ってしまったのも事実で、それが無性に恥ずかしい。あまりにもヌヴィレットが好きすぎないだろうか。いや魂込めて愛しているけれども。
 腹を意識して深呼吸。置いては行かせないという執念すら感じる――正直優越感がすごい――強張った背をぽんぽんと撫でて。
「意地悪したつもりはなかったんだ。ごめんな。じゃあ一緒に上がろう。ヌヴィレットさんさえ良ければ髪の手入れをさせてくれ」
……うむ」
 誠心誠意謝罪すれば、『髪の手入れ』というワードに曲がったご機嫌を少しばかり真っ直ぐにしてくれたらしい小さな水龍はこくりとうなずいてくれた。
 本格的に風呂から出るにあたって、熱いシャワーを浴びようとしたリオセスリと出来立てほやほやの『前科』のせいで離れるのを嫌がったヌヴィレットの間で一悶着あったのだがそれは割愛する。



 水から浮かび上がるように覚醒した。サーチライトの光が窓の外をうっすらと照らし、この時分は控えめな機械の駆動音が鼓膜を揺らす。
 いつも通りの朝だ。時計を見やって瞳を細め、いつも通りに身体を伸ばした――
……んぅ」
 ところで、いつも通りでない事象に遭遇する。
 それは胸の上にあった。重みは中型犬くらい、温もりはそれより控えめ。絞られたランプの光を銀色の髪がやわらかに反射し、合間に走る蒼い二筋はどういう原理かそれそのものが淡い光を放っている。小さな呻き声と共にぐりぐりと胸に顔を擦り付けられる感覚がこそばゆくてそっと声を立てて笑えば、“いつも通りでない事象”はもぞりと頭を擡げた。うろうろ、彷徨っていた夜明けの瞳がリオセスリのそれと合って。
りおしぇちゅりどの」
 愛らしい声が名を呼ばう。
「おはよう、ヌヴィレットさん」
「うむおはよう」
 伸ばした手で小さな頭を撫で微笑むと、美しい瞳を猫のように細めたヌヴィレットはふわりと笑顔を咲かせた。
……むぅ」
 それからリオセスリの胸の上の自らの両手を見つめたヌヴィレットの肩がしょんと落ちる。
「まだちいしゃいな」
「そうみたいだなぁ」
 戻れなかった。至極残念そうに呟かれるのに、慌てなくてもと白い頬を撫でた指が手ごと捕まる。
「はやく『しぇいじん』のわたちにもどらなければ、きでんをとられてちまう」
 貴殿は優秀な雄であるから。
 つがいたる私も相応しくあらねばならないし相応しくありたい。
 私がこの様では機に乗じようとする輩が現れないとも限らない、早く大きくなりたい。
 それにすりと懐きながら眉を寄せて唸る小さな水龍の仕草と台詞、それを紡ぐ辿々しい言葉たちに、危うく起床早々永眠しかけた。
「心配しなくても、俺は今までもこれからもヌヴィレットさん一筋だよ。あんたみたいに可愛くて綺麗な、最高のつがいがいるんだ。他に靡くなんてあり得ないな。そんな暇があったらあんたを見てるさ」
 ただでさえ、なのに、ちょっと縮んだだけで愛らしさとそこからの破壊力にとんでもない倍率を掛けてくる、こんなに魅力的なひとが言葉や行動全部で大好きを伝えてくれているというのにどこの何に目移りする暇があるだろう?
 よいせと身を起こし、小さな身体を抱きしめて、頬にキスをひとつ。笑顔で言い切れば、白いかんばせが珊瑚の色に染まる。
「むうむしょうか。であれば、うれちい」
 照れ照れと笑うヌヴィレットが最高に可愛い。素晴らしいいきものを育んでくれてありがとうテイワット。要塞の地下深く揺蕩う原始胎海に何度目かの感謝を送っていたリオセスリは、だから小さな水龍の「しょうだ」を聞き逃した。
 唇に、ふに、と何かが触れる。よく知る体温と感触、至近で首を傾げる花のかんばせ。それの正体を即座に悟って目を見開いているうちに、「ふむ」なんて呟いたヌヴィレットの愛らしい顔が再び近づいてきて。
待った、ヌヴィレットさん」
 二度目のキスを唇の前にかざした手の甲で受け止めると、ヌヴィレットは不満そうに唇を尖らせる。
「りおしぇちゅりどの、てをどけてほちい」
「今は勘弁してくれ。俺もあんたにキスはしたいが、今はダメだ。というかどうしたんだい、急に」
 小児性愛はリオセスリにとって唾棄すべき犯罪だ。例え相手が姿を変えた愛するつがいで、合意があり、相手から仕掛けられていようとも、こちらにその意図がなくとも、小児や幼児にそういう方法で愛情を示すのは間違っているとリオセスリは考えている。自身の信条と目の前のひとから与えられた公爵位にかけて、絶対に、ここだけは譲れないのだ。
 ぺちぺちと甲を叩いてくるヌヴィレットに首を傾げる。そもそもどう考えてもそんな流れではなかったのにどうして彼はこんな暴挙(現状から判断した。常の彼が相手であればもちろん大歓迎である)に出たのだろう。
「しぐいんが、のりょいのたぐいはおおくのばあいくちじゅけでとけるものだと」
「呪いじゃなくて地脈異常なんだよなぁ
「はやくもどりちゃいのだ」
「焦るなって。小さくても大きくても、ヌヴィレットさんは俺の大事なつがいだよ。余所見なんて絶対にしない」
 脳裏で手を振る頼れる看護師長へ勘弁してくれと呻いて、傾いた頭をそっと撫でる。「うむ」と「ふむ」の間、納得のような不満のような声を飲み込んで顔を上げたヌヴィレットは、再度その手でぺちぺちとリオセスリの手の甲を鳴らし。
「りおしぇちゅりどの、やはりこれをどけてほちい」
 人にとって口付けは想いを伝え合う行為でもあると聞いた。解呪ではなく私の想いを伝えるために口付けをしたい。真剣にそう主張されて腹の底からため息をつく。つがいが可愛い。こんなに可愛いつがいにこんなに想われている。もしかして昨日から全部夢なんだろうか。であれば残念な気持ちと、サクッと目を覚まして現実のつがいと触れ合いたい気持ちが半々になるけれども――ヌヴィレットの愛らしさと彼への愛おしさで一瞬海へと旅立ちそうになった(天へ旅立とうとすると愛しの君が腹を立てるのだ)精神を引き戻す。逃避している場合ではないので。
「ありがとう、ヌヴィレットさん。すごく嬉しいよ。けど、今のあんたと唇を合わせるのは俺にとってはとんでもない禁忌なんだ。そうだなつがいがいる龍にちょっかいを出すのと同じくらいだ」
「しょ…………しょんなにか」
 頬を包み、心からの感謝と喜びを伝え、『今は』駄目なのだと告げると、ヌヴィレットは呆然、という言葉がぴったりの表情で固まり黒雲を背負ってしまった。
「であるならばうん、ひかえることとしよう。しょれほどのきんきを、りおしぇちゅりどのにおかしゃせるわけにはいかぬゆえ」
 とても残念だが致し方ない。
 それから真面目な顔でうんうんとうなずき引き下がってくれた聞き分けの良いつがいの額に唇を寄せた。
「わかってくれて良かったよ。元に戻ったら改めてな」
「むくちでなければよいのか?」
「ああ」
 頬を包むリオセスリの手をきゅうと握ってキスを受け止め瞬くヌヴィレットにうなずいてやると、花のかんばせが輝く。
「わたちも、」
 それからもぞりと身じろぐヌヴィレットに、どうぞと心持ち上半身を傾ける。口を覆うような無粋はしない。つがいの高潔さは自分が一番知っているので。
 ちう、と音が立ったのは頬。ぐいと伸び上がって目の下の傷。それから鼻の頭。至近の美貌が満足げに笑ったのに、しろい額に己のそれを重ねる。
「ありがとう。ヌヴィレットさんの想い、沢山伝わったよ」
「しょうか。しょれはよかった」
 くすくすと跳ねる声に本日が最高のスタートを切ったのを噛み締めたところで、アラームが鼓膜を叩く。びく、と肩を跳ね上げたヌヴィレットがキョロキョロと周囲に目をやるのにその背を撫でてやりながら、真面目に職務に邁進しているそれを停止して。
「残念だがベッドから出る時間だ。今回も髪の手入れは任せてもらっても?」
「うむ。よろちくおねがいしゅる。きのうの『みちゅあみ』なるものはとてもかいちぇきであった」
「光栄の至りだ。着替えが済んだら朝食にしよう。急だったんで材料の調達が間に合わなくてな。大したものは出せないが」
 ヌヴィレットが空と共に飛び込んできたのは午後。残念ながら日用品の手配の締め及び配送は終わってしまっており、今リオセスリのキッチンにあるのは新鮮さだけは担保された最低限の食材だけだ。スキュラとシグウィンが共に「元に戻るまでは長くて数日」と見立てていたので、その場で二日分の食材は用立ての段取りをつけてある。
「りおしぇちゅりどのがちゅくってくれるものならば、むいたバブルオレンジでもうれちい」
「謙虚だなぁ」
 調理のなんたるかとそれをリオセスリが行うことがあると昨夜話したのをしっかり覚えていたらしいヌヴィレットが、楽しみだと、ほわりと笑うのに、リオセスリは思わず苦笑してしまったのだった。



 『その時』は唐突に、本当に、唐突に訪れた。
 時刻は夕暮れ時。一時間ほど早く業務を切り上げ、早々に自室へ引っ込み、膝の上の小さな水龍が一生懸命語ってくれる海の話に耳を傾けていた時だった。
「ちょのおりにかいしょう海藻のちゅきまからみあげたちゅきのひかりがとてもうちゅくちく――
 陽の差し込む海のように煌めく瞳で言葉を紡いでいたヌヴィレットの姿がゆらりと揺らめく。言葉が途切れて、膝にかかる重みが増して。
「君に……見せたいと、思った」
 揺らめく影に焦点を合わせようと閉じた視界を開く前に、聞き慣れたテノールが耳をくすぐる。それはもごもごとくぐもって、首筋はこそばゆい。何が起きているのか予想がついて、リオセスリは傍らのブランケットを引き寄せつつ恐らく彼のひとの後頭部があるいつもの位置に手を伸ばす。
おかえり、ヌヴィレットさん」
「うむ迷惑をかけたようだ。すまない」
 ただいま。
 果たしてそこにあった、元に戻っても小ぶりな後頭部をよしよしと撫でてかけた声に四文字を返してくれながら上がった顔と特徴的な耳の先は淡く染まっていた。
 引き寄せたブランケットを広げ、その腰回りを覆う。貸与していた己のシャツから伸びる白い御御足は目の猛毒なので。ついでに言えば体勢も少しばかりよろしくないので。ここまで紳士で通したのだ。最後まで格好つけさせてほしい。
「これまでの記憶の方は?」
……………概ね」
 それからなんとなく予想はつきつつも首を傾げると、沈黙ののち喉奥で羞恥を転がすように唸ったヌヴィレットから予想通りの答えが返る。のに、思わずくつりと笑みが漏れてしまった。
「そうか、概ね残ってるか」
「見苦しい所を見せてしまった」
 肩を揺らすリオセスリに怒るでもなく、恥ずかしそうに瞳を細めて顔を逸らすヌヴィレットには首を横に振って応える。
「いやいや。記憶残ってるなら俺がだいぶ見苦しかったのも覚えてるだろ?」
 ヌヴィレットさんが可愛すぎてかなりグダグダだったからなぁ。
 本当に、割と限界だった。それはもう物凄く、とても、めちゃくちゃ眼福だったし常と方向性の異なる幸せは目一杯噛み締めたけれども、かなりトンチキな行動を取った自覚もある。
そんなことはない。君は退行してしまった私をきちんとつがいとして遇してくれた。我儘を叶え、話し相手になり、庇護してくれた。君への想いが深まりこそすれ、見苦しく思うなどありえない」
 見苦しさならおあいこだろと頬を掻くリオセスリの言葉を、ヌヴィレットは真っ直ぐ、そして真剣に否定する。それから少し前を思い出すようにやわらかく瞳を細められるのにじわりと愛おしさが滲んで、目の前の白い頬をゆるりと撫でた。
「そうかい。それならよかった。俺はあんたがめちゃくちゃ甘えてくれるんで最高に良い気分だったが、どうにかなるかと思ったよ」
 いつボロが出るかヒヤヒヤしてたと苦笑と共に白状するリオセスリの、頬に沿う手のひらがヌヴィレットの両手にそっと捕まる。
君は感情を上手く表に出せる、幼い私の方が好ましいだろうか」
 すりと手のひらに懐かれ眉を下げられるのに首を振った。
「あんただから好ましいんだよ。いつものヌヴィレットさんって基準があるから、そこからちょいと逸れたどんなあんたでも愛おしいのさ」
 気持ちを伝えてくれようと頑張ってくれてるのを知ってる。そこも含めて好きだなと思うよ――夜明けの瞳を見上げて告げれば、触れる頬が少し、温度を上げた気がした。
……今少し、幼いままでも良かったものを」
 ぼそりと、彼にしては珍しく不満げに落ちた呟きに首を傾げる。朝と言っていることが逆だ。
「この時分では、今日が終わるまでの身繕いの時間がありすぎる」
 どれだけ時間をかけても足りてしまう。溜め息と共に紡がれた言葉に不満の理由を察して、頬に添えた手をちょいと動かし細い指を絡めとる。
「ヌヴィレットさんのイメージする俺は、つがいが急にちっちゃくなって面倒だなぁ、でもつがいとして面倒は見ないとなぁ、ああ、元に戻ったよかった、まだ夕方だし夜になる前にさっさと帰ってもらおう、とか思うような男なのかい?」
「いや! 君はそのような男ではない。断じて!」
 指先に唇を寄せてかけた問いに、語気鋭く否を返してくるヌヴィレットの必死さが一周回って面白い。
「よかった。ヌヴィレットさんにそんなふうに思われてたら普段の振る舞いと今後の身の振り方について真剣に考えなきゃならないところだった」
 『勝ち確』の問いかけではあったが、実際にうんと言われたら原始胎海の底まで落ち込む自信がある。人生かけて愛して、幸せにして、大切にしたいと願っているひとなのだ。想いの欠片すら伝わっていなかったら凹むとか落ち込むとか、そんな言葉では足りないくらいショックを受けるだろうなと思う。幸い実現しなかったもしもの想像を溶鉱炉に投げ込みつつ肩を揺らして。
「ヌヴィレットさんがそうしたいと思ってくれるなら、今日の夜中まででも、明日の朝まででも、昼までだっていてくれて構わないよ。権能も戻ったなら、人目につかずになんかパッと戻れたりするんだろ?」
 あんたのしたいように。軽く首を傾げて促せば、絡んだ指に力が籠る。
では、君と泡の立つ入浴剤を使って、君の作った食事を食べて、君の懐で眠って、明日の朝戻ることにする」
「いいな、朝晩のヘアケアとモーニングも提供させてくれ。ただ、入浴剤はあんたのバスルームで使ったほうが楽しめると思うぞ。あっちの方が広いし明るいし」
入浴剤理由がなくても君が共に湯に浸かってくれるならその提案を呑もう」
 それ以上を過ごしては戻りたくなくなってしまうからと言い添えられたヌヴィレットの即席お泊まりプランに新鮮な愛おしさで殴られつつ一つだけプラン変更を提案させてもらうと、難しい顔をしたヌヴィレットはごくごく真剣に条件を提示してきて。
「狭いところで良ければ喜んで」
 一人じゃ楽しくないって言われたしな、と肩を揺らしつつうなずけば、狭い方が君と触れ合えるので都合がいい、と美貌が融ける。これ昨日やったな、とどちらからともなく吹き出したところで、細い指が唇に触れてきた。
「ここへの口付けは解禁だろうか」
「大歓迎さ。俺から行っても?」
「いいや、だめだ。『寸止め』されたのだ。元に戻った暁には絶対に私からと決めていた」
 私の想いを存分に伝えさせて欲しい――立てたお伺いは笑み混じりに一蹴されて、甘やかなテノールが耳を撫でる。白魚の指に優しく頬をくすぐられるのに目を細めた。
「そういうことなら。お返しはさせてくれよ?」
「勿論」
 ふふ、と。
 さざめき合う二つの吐息が、唇の間で混ざって溶けた。