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ながひさありか
2025-10-07 22:49:19
11497文字
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STR-Phaidei
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クロージョライ1
・調律師(36)×音大生(20)/現パロ/でも地名はオンパロス
・カスライナ(ファイノン)って概念上超超超歳上攻めなのでは……という思い込みから精製されています。なのでファイノンはややカスライナ寄り。モーディスは歳上のお兄さんに片想いしてるみたいな感じです(最終的にくっつきます)。
-----読まなくてもいい-----
・ファイノンの調律師の師匠がオーリパン、ゴルゴーは音楽歴史学者、息子のモーディスはピアノは弾けるけどピアニストも調律師も目指していないという誰得設定です。
・専門用語は本筋でないのであえてかなりふわっとしたものに言い換えしたりしてますが、わかりづらすぎるor致命的な誤りがあったらこっそり教えてください。
・作中のNPCやネームドが出て来たり、名前のあるモブが出て来たりしてかなり自由。
1
新学期まであと半月ほどとなった八月十四日、昼間の高速道路はファイノンの予想に反してそこそこ渋滞していた。エアコンを効かせた車内は涼しく快適だったが、それに反して空気は少し重苦しい。ラジオから流れる渋滞情報を聞きながらため息をつくファイノンに、「休憩するか?」と声をかける。
サングラスに遮られ、瞳が見えなくとも、ややうんざり顔をしているのがわかるほど眉を寄せていたファイノンは「うーん」と溢し、ハンドルを握ったままカーナビに視線を向け、「そうだね、そうしよう」と口にする。
「先方に電話もしないといけないし、次の
SA
サービスエリア
で一旦休憩にしよう」
「俺がかけるか。子どもの頃だったからな、あまりはっきりと覚えてはいないが、父上に紹介されて会ったことはある。向こうも俺には強く出られんだろう」
スマートフォンを取り出して電話帳を検索していると、ファイノンが「こらこら」と笑いつつも、咎めるような表情を俺に向ける。渋滞にはまっていなければ「前を見ろ」と声を上げた所だが、俺の視線は形の良い笑みを浮かべる唇と、夏の陽射しに透けて耀く銀髪に視線を取られていた。
「仕事の話だから僕からするよ。ただのパーティとかなら頼んだけどね」
「
……
そうか」
ファイノンの言葉に大人しく電話帳を閉じ、S・Aまで三十分ほどかかる旨が書かれている電光掲示板に視線を向ける。俺たちが今向かっている場所
——
スティコシアは、五年前に死んだ父上の友人の住む都市で、俺もファイノン行ったことはあるが、別段行き慣れた場所というわけではない。
地名の書かれた標識を見ながら、出発前からわかっていたことではあるが、やはりあまり覚えはないな、と改めて感じた。
「それにしても、こういう依頼が途切れないな」
「そうなんだよなぁ
……
。今回も『普段は調律を請け負っていないから』と断ったんだけど、『彼のお弟子さんなら間違いないだろう』、で押し切られてしまって
……
。いやまぁそこで押される僕が悪いんだろうけど」
盛大なため息をつきながらそんなことを言うファイノンに、フン、と思わず鼻を鳴らす。
「いつものように父上は口実で、ただ単にお前の調律の評判がいいのだろう。いくら弟子とは言え、コンサート・チューナーは長年の知り合いを頼む」
「ありがたいことなんだけど、本当に嬉しくないんだよなあ
……
」
うめき声を上げながらハンドルに額を乗せたファイノンに、「前を見ろ」と慌てて忠告する。
渋滞にはまっているとは言え流石に危険すぎる行動だった。
五年前、旅行中の両親が事故で死んだ。父上は生前名のある調律師で、ファイノンは父上の最後の弟子だった。
ファイノンは今も父と同じ同じ楽器メーカーに勤めているが、調律師は実際にはメインの仕事ではなく、普段はピアノを修理したり作ったりしている。本人曰く「そっちの方が好きだから」とのことだが、こうやって時々、父の知人・友人経由でコンサート・チューナーの仕事が舞い込んでいた。
今回の依頼者は父の古い友人で、俺も子供の頃に何度か顔を合わせている。ファイノンが俺の後見人であることは両親の友人・知人の殆どが知っているため、ファイノンを呼びつけるのであれば当然俺にも「顔を見せに来ないかと」と声がかかることが多い。
今の俺はまだ何者でもないが、父の跡を継いで調律師になるのであれば縁を繋いでおくに越したことはない、とでも思われているのだろう。残念ながら俺にその気はなく、ファイノンが調律を断ればそう言った意味での縁は切れてしまうのだが。
コンサート・チューナーは文字通りコンサート専門の調律師を指し、自宅や学校等据え置きのピアノの調律ではなく、コンサートのために持ち込まれたピアノや、会場のピアノの調律を演奏家の好みに仕上げるのが仕事だ。
一般的な調律はピアノの状態を細かく確認し、修理が必要であればし、ピアノの置かれている室内の乾湿度、気候に合わせて音を整えるが、コンサート・チューナーはそれらに加えて打鍵感
——
鍵盤のタッチを重くしたいのか軽くしたいのか、ペダルの踏み込みの深さをどうしたいのか、等、演奏家に細かいヒアリングをして調整も行う。鍵盤は軽ければ良いと言うわけではなく、重い方が弾きやすいと感じる者もいる。リハーサル中は会場中を歩きまわって響きや正しくない音が残っていないか確認し、本番前の限られた時間で再び調整する
——
と言うのが主な仕事だ。
俺は父とは違い調律師の道は目指さず、ピアノの腕もそれほど大したことはないが、母上と同じく音楽学を専攻し、将来は音楽史を研究するのが夢だ。
ファイノンは俺が幼い頃から自宅に良く出入りしており、コンサート・チューナーとして著名人のピアノを調律して飛び回っていた父上のマネージャー兼付き人のような仕事もしていたが、俺が中学に上がる頃には既に調律師ではなく修理を主に担当していて、家を空けることの多い両親に変わって同居し、両親が不在の間の俺の保護者を勤めていた。と言っても、親子というより歳の離れた兄弟のような感覚だった。昔は。
両親は生前、もし自分たちに何かあれば息子の俺を頼むとファイノンに伝えており、遺言にも奴が後見人として記載されていた。その約束を律儀に守っているファイノンは三十をとうに過ぎても俺と同居し、「親」として振る舞ってくれている。本来であれば「保護者」にはそれなりの態度を取るべきだろうが、幼い頃からファイノンにこんな態度を取っていたのを咎められなかったから、今更改めるのも難しい。
「そういえば、引っ越し前のお墓の掃除まかせちゃってごめんね」
「そもそも墓の管理は俺の仕事だ。遺産暮らしでバイトもしていない暇な大学生だからな。それにお前はこの出張の直前まで修理の仕事が入っていただろう?」
資産家の祖父の遺産を継いでいた父の遺産をそのまま相続したおかげで生活に苦労はしていなかったが、両親が亡くなってしばらくの後、大学進学を機に使用人たちに十分な退職金を渡して暇を出し、広すぎる自宅を手放すことにした。
今はファイノンと二人で住むのにちょうど良いマンションへと引っ越して、生活費の管理の一切をファイノンに任せている(僕が悪い大人だったらどうするんだ? とファイノンは当初渋っていたが、そんなことをする男ではないとわかっている)。
俺が今の大学、あるいは大学院を卒業するまでは、今の生活を続けると言う話になっていた。
「確かに仕事は忙しかったけど、『息子を頼むと言ったのに、お前は息子を掃除夫扱いか』って枕元に立たれそうな気がしてね」
「枕元に立たれたら言え。お前と違って碌に家にもいなかった男が何を言うと説教し返してやる」
「君は本当に言いそうだなあ」
あはは、と笑いつつも、サングラスの隙間から見えたファイノンの瞳は複雑そうに揺れていた。その瞳に、冗談とは言え少し余計なことを言い過ぎたか、と後悔した。
俺にとって父は「良い父親」ではなかったが、「尊敬すべき偉大な父」ではあった。恨んでも憎んでもいないが、両親よりもファイノンと居た時間の方が今となっては長い。
旅行(ファイノンにとっては「出張」だ)の前日、両親の墓参りに二人で行った。ファイノンは長い間なにか考えているようだったが、もしかすると墓掃除に行けなかったことを謝罪していたのかもしれない。
「お前は十分良くやってくれている。赤の他人の子どもの後見人なぞ、そう勤められるものではない。父上が例え今更お前を咎めようと、母上は俺と同意見のはずだ」
遅々として進まない前方を見つめたまま口にすると、ファイノンの視線が横顔に突き刺さるような感覚がした。自分の言葉を否定する気はないが、やや羞恥が走り、ファイノンの顔を見ることができない。
「君にそういうことをいわれるのはなんだか変な気分だな。別に生意気だとか嫌だって意味じゃないよ。僕の方がずっと大人なのに、昔から時々、君の方が僕より大人っぽく思える瞬間があると言うか」
「
……
そうか?」
「そうそう。
——
ま、いずれにせよ『赤の他人』だなんて淋しいことは言わないでくれ。僕たちは長い間家族同然で過ごして来ただろう? 君の成長は身近で見てきたんだし、見知らぬ他人と君を同列には語れないよ」
優しい、けれども締まりのない笑顔を浮かべている気がし、明るい声に吸い寄せられるように、ファイノンへ顔を向けてしまう。
サングラスをしていてもわかやすくヘラヘラしているファイノンに気恥ずかしさと同時に微かな痛みを覚え、家族か、と思わずこぼしそうになった。
子ども扱いをするように髪を撫でてくるファイノンに慌てて言葉を飲み込むと、俺が黙っているのを良いことに髪をぐしゃぐしゃにする男の手を掴んでハンドルに戻す。
緩やかに車が進み始め、ファイノンが前を向く。それに安堵した。
「そういえば、旅行の体で連れてきてるけど、埋め合わせは別でするからそこは安心してくれ」
「
……
先方が俺にも逢いたいと言っていたのは事実だから、お前は仕事とは言え旅行のようなものだろう」
「そういわれると甘えたくなっちゃうけど
……
だめだめ。今年は君と旅行に行くって約束したんだから、後で考えなおそう」
夏休みに合わせてどこか旅行にでも行こっか、とファイノンにいわれたのは春先のことだった。しかし仕事が詰まっていて予定が立てられず、今回の出張を旅行代わりにしても良いのではないか、と提案した。今回の「旅行」はファイノンにとっては仕事だから「あとで埋め合わせをするから」と言うのだろうが、俺にとっては夏季休暇中の旅行も同然だった。
「あ、でもよく考えたら僕と行くより友達とかと行ったほうがいいか」
「
…………
」
ファイノンの言葉に眉が寄る。この男は近頃こんな言い回しをよくするが、その言葉に何も裏がないのか、そうではないのかが俺にはわからない。
大学に友人は勿論いるが、彼らとお前を天秤にかければ俺はお前を選ぶ。過去にも何度かそう口にしたが、「嬉しいこと言うなあ」といつも、へらへら笑って流されている。
こんな歳にもなって「家族」を友人より優先すると本当に思うのか? よっぽどそう言えばいいのかもしれないが、まだその時期ではない気がしていた。
「存外この旅を楽しみにしているから本当に気にするな。スティコシアは幼い頃に訪れている筈だが、今では本で読んだ知識の方が多く空気も思い出せん。まあ、お前は
……
随分と憂鬱そうだが」
ハンドルを握るファイノンの表情は今朝と言わず昨晩からずっとどこか影があり、ため息も止まらない。調律仕事はいつでも(家では)嫌そうにしているのだが、今回はいつもに増して嫌そうだった。
「君は今回のプログラム見たんだっけ? 見てなかったら後ろの楽譜に挟んであるから見て欲しいんだけど
……
」
「ふむ
……
、これか」
停止している間に後部座席から数冊の楽譜を取り、ひとまず一番上の楽譜を開く。すると、A4紙片1枚に印刷されたプログラムが挟まれていた。プログラムの一番上に、演奏家の名が記されている。
オルクス。
彼は父の古い友人で、長い間海外を中心に活動していたが、どうやら最近オンパロスに帰ってきたようだった。
「ラヴェルだけのプログラムか。曲もやや珍しいように感じるが」
曲目リストに目を通しながら呟くと、そうなんだよ、と隣から沈んだ声が落ちる。
「ただでさえラヴェルなのに駄目押しの『夜のガスパール』
……
。それともリストがなくてよかったと思うべきか、いっそリストをいれるべきだと怒るべきか複雑だ」
曲による調律の難しさは俺にはわからないことも多く、ふむ、と生返事をしている俺の隣で、ファイノンは何やらぶつぶつと愚痴を呟いている。仕事のことにはあまり口出しすべきではない、と言うのが母の教えで、時たま漏らされるファイノンの愚痴はいつでも聞き役に徹する事にしているが、やはりこのプログラムの何が問題なのか俺にはいまいち理解ができなかった。
生返事をしながら、後部座席をもう一度振り返る。
「それで、例のお祈りセットか」
後部座席には俺とファイノンの三泊分の着替えの入った鞄と、仕事に使う工具の入った大きな鞄、それから、大きな青い風呂敷に包まれた木箱が置いてあった。
箱の中にはロザリオに数珠、絵皿、ポケット版の聖書(大量の付箋付き)、どこだかの民族の音楽の神だとかいう木彫りの像、刺繍の入った布等等、兎にも角にも様々な国の多種多様な音楽の神に関するモノや、祈りの品が入っている。
これはファイノンの信仰心がめちゃくちゃだと言うわけではなく、「藁にもすがる」と言う状態らしい。
誰でも良いから助けろ、助けないのであれば神でもなんでもない。
そう言った不届き者の荷物だが、大きな仕事の際には必ず持ち運んでいるので、ファイノンにとっては意味のある「お守り」ではあるのだろう。
「メールでプログラムが送られてきた瞬間卒倒するかと思ったよ。僕調べ三大弦が切れる曲堂々一位『スカルボ』
……
」
ファイノンは俺が全ての曲を知っている前提で話を進めていたが、果たしてどのような曲だったのかは思い出せなかった。弦が「切れる」と言うことは激しい曲なのかもしれない。
後で曲を聞いておくか、とひとまずスマートフォンにメモをし、「実際のところ倒れていたぞ」と先日、自宅のリビングで倒れていた姿を思い出しながら口にする。
「いや倒れてないって。まあそれはさておき、過去の公演録画や音源をいくつかもらったんだけどさ、なんとなく演奏中に切れそうな気がしてならないんだ」
ファイノンが「僕は調律師に向いていない」と評する理由が「これ」だった。
簡単にいえば心配性で、演奏中にピアノの弦が切れないかどうか不安で死にそうになる、らしい。
ピアノの弦は(自然には)そう簡単に切れるものではないが、「まさかこのタイミングで切れるとは」というアクシデント自体はいつでも起こりうる可能性が常にある。
その瞬間の絶望を味わいたくないんだ、と父が死んで数ヶ月後、父の代役として受けたコンサートチューナーの仕事を終えた後、ファイノンははじめて俺に打ち明けた。ファイノンの仕事姿は何度か見たことがあったが、調律する様子は自宅でしか見たことがなく、自宅ではそんな素振りは当然ながらなかったので知らない姿だった。
「コンサート・チューナーは普通の調律師より時間制限も多く過酷な仕事だ」、と、父が生前酒で酔うたびに繰り返していたため、てっきり時間や責任のプレッシャーが耐え難いと思っていたのだが、ファイノンの不安はそうではなかったらしい。
ファイノンは父の最後の弟子でもあるが、一番腕が良く仕事の早い弟子だとも聞いていた。であれば、どんな状況でも仕事をきっちりこなす男だろうし、だからこそリピーターもいるのだろうと感じていた。故に、これほど嫌がる姿を知り驚いたと言うのが正直な感想だった。
父の代打として受けたコンサート・チューナーとしての仕事をファイノンは「最初で最後の一回」と思っていたようだが、そのコンサートは父の追悼公演だった。演奏会後は「仕事のできるお弟子さん」の評価に尾びれがつきにつき、今日までの仕事に繋がっている。前述のようにファイノンには望ましくない状況だが。
そう言うわけで、定期的に家の床やソファや自室で呆然と倒れたり虚空を見つめているファイノンを年に数回目撃している。現実逃避はするようだが、結局断り切れたことはない。往生際の悪い男だ。
ファイノンが倒れていないと主張するあの日、リビングでは爆音で「マタイ受難曲」がかかっていた。
*
「ファイノン、珍しく先に帰っていたのか? 流石にボリュームをもう少し下げ
——
どうした?」
大学で七コマ目の講義を受けた後、そのままスーパーへ行き、食材の買い出しから帰ってきた俺は、リビングの扉を閉じてもなお「漏れる」と言うには生やさしい「マタイ受難曲」に顔を顰め、ファイノンを叱りつけようとした。まだそれほど遅い時間ではなく、角部屋で、今までに隣室の音を聞いたこともないが、常識の範囲をやや越えていた。
「もうだめだ
……
」
ソファの上でもなく冷たいフローリングの床に倒れていたファイノンの妙た様子に慌てて駆け寄ると、ファイノンは虚ろな瞳でなにかぶつぶつと呟いている。
「おい、具合でも悪いのか? 救急車
——
いや俺が運転するからそれは良いとして医者に、
……
ん?」
一瞬、体調不良かあるいは空腹すぎて倒れてしまったのかと思ったが、ファイノンが倒れて手を投げ出していた先に、一枚のコピー用紙が落ちているのを発見した。その中身を見る暇は当日なかったのが
「
……
どうした?」
「悪い夢の気がするけど多分現実なんだろうな
……
」
「? 何を言っている?」
ふらふらと立ち上がったファイノンは紙片を紙を拾うと、固定電話の隣に置いてあったファイルにそれを挟み、マタイ受難曲を爆音でかけたままよろよろと自室へ引っ込んでしまった。
「夕飯は食えるのか?」
恐らくもう聞こえていないだろう、と思いながら一応背に声をかけてみたが、予想した通りファイノンは振り返らなかった。
こう言う姿を見るたびに、『大人が「病む」のは恋愛ではなく仕事よ』と母上がかつて言っていたことを思い出していた。
仕事のことに俺は口出しはできないが
……
と思いつつ心配になり、リビングでかかっていたレコードを止めてから十分後、防音室になっているファイノンの部屋の扉をノックし、返事を待たずに開ける。そうしても構わないと言われていたからだ。
再び爆音が耳に飛び込み、一瞬ぎょっとする。
マタイ受難曲。
また、それがかかっていた。
アルト歌手の歌声が室内に響く中、ファイノンは今度は一人がけのソファの上で身を投げ出し、虚ろな目で天井を見上げていた。
「おい、食欲が失せたのなら後でつまめるものでも持って来るか」
「ああ
……
いや
……
」
ファイノンは俺の方を見ずに曖昧な返事をし、手のひらで顔を覆って深いため息をついた。こいつは一度こうなるとしばらくまともに会話が成立しない。
少しだけスピーカーのボリュームを絞って部屋を出ると、夕食へと取り掛かる。手早く一人分の軽食を作ると、部屋に戻り、まるで死体のように動かないファイノンの座るソファの隣に置かれた小さなテーブルに飲み物と軽食を並べておく。
「ここに置いておく。他に必要なものがあれば声をかけろ。
…………………
」
「
…………………………
」
「
……
朝また顔を見にくるからな」
ファイノンはひどいショックを受けると、昔から部屋に篭って延々と暗い音楽を聴き続ける妙な癖があった。せめて明るい気分になれる曲の方がいいのではないか、と考えてしまうが、泣きたい気分の時に泣ける映画を見るようなものかもしれない。
なにがあったのかは心配だったが、部屋を自主的に出てくれるまで、どうせなにを聞いても碌な会話にならない。食事はいつの間にか手をつけているので、心配せずとも朝には皿は空になっているだろう。
翌朝、昨日と同じようにファイノンの部屋を訪ねると、
昨日聞いたものとは違うバージョンの「マタイ受難曲」が小さくかかっていた。部屋の隅のオーディオステレオの前には、ありとあらゆる「マタイ受難曲」のCDが積み重ねられていて、終わるたびにCDを入れ替えていたらしい。
ソファの上で目を閉じているファイノンの疲れた顔を見下ろし、頬をそっと撫でると、ぱち、と瞼を開けた男と目が合う。
「あれ、おはよう?」
「
……
おはよう」
慌てて手を引くが、ファイノンはぼんやりした表情で「まさか死んでるとでも思ったのかい?」と宙に浮いた俺の手を見つめて言う。
いや、と否定するべきか迷ったが、「そうだ」と口にしてから、ちゃんと食事には手をつけたようで、空になっていた食器とタンブラーを回収する。
「ああ片付けずに寝ちゃったな
……
すまない」
「構わん。仕事で疲れているのだろう。
……
それより、昨日は何かあったのか?」
ソファから立ち上がったファイノンは体を伸ばしてあくびをすると、一晩中かけっぱなしだった曲をようやく止め、「え、なにが?」と俺を振り返りながら首を傾げる。
「
……
いや、なんでもない」
仕事に口出しはしない。そう決めた筈だった。
*
「なにかあったのだろうと思っていたが、プログラムの問題だったか」
プログラムから顔を上げ、前を見ながらぶつくさと文句を言っているファイノンの横顔に視線を向ける。
「もうね、僕は本当にコンサート・チューナーに向いてない自負があるんだよ。毎度毎度舞台袖で心の中では泣き叫びながら表面上平静を装って必死に祈ってるところをクライアントに見てほしいし
——
まぁ見せてるんだけど
——
、なのになんだって『あのオーリパン先生の弟子なら
……
』依頼してくるかな」
「しかし会社から『こっち』の仕事を増やせと言われている、と言っていなかったか?」
「僕はピアノを作ったり直したりするほうが向いてるし好きんだ」
「良く知っている。耳にタコができるほどにな」
こんなこと言ってるが、何度も言ったようにファイノンが腕のいいコンサート・チューナーであるというのは事実で、でなければいくら父の弟子であろうと、それだけで仕事が続くことはない。
ファイノンは本当に望んでいないようだが、ある意味贅沢な悩みのように聞こえてならない。
「それにしても、凱旋公演と銘打った割には随分と会場が田舎だな」
「まあ、凱旋といっても奥さんの実家に帰って来ましたよ〜、って知人友人お世話になった方々に報告するぐらいの意味しかないらしいからね。会場は君も見ただろうけど、あそこって、奥さんのご実家のそばにある小さなホールらしいから」
事前に地図アプリで調べた公演会場は随分と山奥だった。公共交通機関は最寄駅から一日に二本しかないバスを利用するより他なく、公演はバスの到着に合わせて十三時開始、そしてバスの最終が十八時なので、余裕を見て十五時半終了予定となっている。
ただ、実際は公演後に会食があり、招待客の殆どは俺やファイノンと同じく宿泊させてもらうそうなので、公演時間の終わりが早いのは恐らくバスのためではなく、会食で長く飲むための言い訳だろう。
公演は今日から四日後の予定だった。
今日は宿泊させてもらう本館と公演ホールの案内、明日は主催者であるピアニスト
——
招待主のオルクスと打ち合わせをして調律やメンテナンス、時間が余れば軽く練習の立ち会いをし、三日目はゲネプロ、四日目が本番というスケジュールになっている。
「実はむかーし一度だけ先生が彼の調律をするのを見たことがあるんだけど、結構注文が細かかったんだよなあ。まぁ、よくわからないふわっとした要望を理解しろって押し付けてくる人よりましなんだけど」
「
……
そんなクライアントとの仕事の間に、俺に時間を割いてよかったのか?」
三日後に二十歳の誕生を迎える俺のために、ファイノンは明日の夜、ディナーに連れて行くと行っていた。
ゲネが何時までかかるからわからないから一日早いけど、と苦笑するファイノンに「別に帰って来てからでいい」と言ったが、「早いのはいいけど遅れるのはだめだめ」と言って聞かなかった。
「そりゃあ勿論。仕事は大事だけど、昔から君の誕生日はずっと祝ってきただろ?」
SAへとハンドルを切りながら、ファイノンが鼻歌混じりに口にする。楽しそうな口ぶりに簡単に心臓が跳ね、体温が上がるのを感じ、落ち着け、と念じながら窓の外に顔を向ける。
「本当に誕生日に友達と遊びに行かずに仕事について来るのでよかったのかい? そりぁ、先方も先生のご子息の顔が見たいなんて言ってたけど、別に君が僕や先生のために時間を使うことなんてないよ」
「くどい、その話は何度もしたはずだ。へファイスティオン達とは来週出掛けに行くことになっている。
……
俺もたまにはお前とどこかへ行きたいと思っていたところだ。それに、調律している姿も久々に見たかったからな」
自宅のピアノは年に一度、ファイノンが休みの日にメンテナンスをしているが、それは部屋の掃除をするような気軽さとでも言えばいいのか、短時間で終わるものだった。勿論、雑談をしながらできるものではないため黙って行われるものだったが、父の仕事先について行った時のようち、緊張感のある面持ちと視線をファイノンが自宅で出すことはない。
「仕事を見られるのはまあ今更だから別にいいけど、友達より僕といたいだなんて光栄というか変わってるというか、ありがたいけどね」
「そういえば、向こうではお前をどう呼べばいい? 会社では皆慣れてしまったが、『ファイノンさん』?」
「うわ、嫌だな急に
……
。逆に恥ずかしいからいつも通りでいいよ。それに先生の友人だったんだから、僕と君の関係は知ってるだろうしね」
関係、に含まれる言葉を曲解しようと試みたが、当然、その言葉にやましいものは見つからない。当たり前だ。
両親が死んだことを俺に電話で伝えて来たのは隣のファイノンで、葬儀の手配をしたのもこの男で、俺の今後のために弁護士だの税理士だのを呼んだのもファイノンだった。
生前から両親は冗談混じりに何かあれば俺を頼むとファイノンに伝えていたのを俺も知っていたが、こんなに早く、現実にそうなるとは思いもしなかった。
『先生には冗談まじりに前からいわれてたから安心して欲しい。僕は君の不利益になるようなことはしないし、もし任されていなかったとしても君が安心して暮らしていけるよう、お
——
大人として、君を守って支えていくつもりだ。だからこれからは僕と一緒に暮らしていこう。今までも同居してたようなものだけれど、一応確認はしておこうと思ってさ』
『
……
ああ』
葬儀や諸々の手続きを終えた五年前のあの夜、ファイノンにそう尋ねられた俺は、差し出された手を迷わず取って頷いた。
ファイノンが言葉に詰まった理由は分かっている。親代わりとして、と本当は言おうと思ったのだろう。しかし俺の両親の代わりを本当に務まることはできぬと思っているのか、あるいは俺に気をつかってか、その言葉は口にしなかった。
それなのに、近頃のファイノンは俺の親のような物言いをすることがある。あの頃のお前はそうではなかっただろう、と詰ることはできないのだが。
「まあ、誰だって君のことを『僕が面倒を見ている子』じゃなくて『先生の息子』として扱うだろうから、言動は気にしなくていい」
「
……………
」
誇らしそうな声を出すファイノンのことが何故か気に入らない。ファイノンの息子だの、あるいは面倒見ている子どもだと思われずに、そこから切り離して父上の息子だと見られる方が俺にとって「都合がいい」はずなのだが。
「そういえば、ディナーはどういう店を選んだのか聞いていなかったな」
変な気分を断ち切るために、無理やり話題を変える。顔を見れば俺がなに感じているのかバレてしまいそうで、窓の外に視線を向けたまま、それほど気のないふりをした。
「それを聞くなよ。店は当日まで秘密だけど、ちゃんと個室だし、店員が歌ってシャンパン持ってくるとかそういうサービスはなし。と言う明日はまだ未成年だし、僕は運転するからアルコール抜きだけどね」
「ふん、なら酒は別の機会に飲ませてもらう」
酒の勢いで、と言う逃げ道を用意しておきたかったが、残念ながらその手は使えないようだった。
ファイノンの運転で車はようやくSAの駐車場へ移動し、停車する。
ラジオとエンジンが止まり、先に降りたファイノンに倣って車を降りると、「ちょっと電話して来るから、お昼ご飯の店を探しておいてくれ」とスマートフォンを見せながらファイノンが離れて行く。
わかった、と頷き、フードコートやレストランの案内板へ近づき、さて、と足を止め、視線を上げる。
誕生日ディナーの席で、ファイノンに告白をするつもりだった。であれば、個室は都合がいい。
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