母が亡くなってから人が変わったように酒浸りになりめっきり鬼殺への闘志を失ってしまった父の跡を継ぎ、今では杏寿郎が誇り高き炎柱として一族の責務を担っていた。
下級の隊士でさえひっきりなしに駆り出される任務に休息もそこそこで奔走するのだから、守備管轄もべらぼうに広く、隊の中核を担う柱の激務は想像を絶する。神出鬼没でいつだって人の血肉に飢えている鬼共は、休む暇をそう易々とは与えてくれない。近頃は任務の合間に一時的に寝に寄るだけの簡易な屋敷を借りており、父と弟が暮らす煉獄の生家の方にはもう数カ月単位で杏寿郎は帰れていなかった。
現在、弟の千寿朗は母が亡くなった当時の自分の年齢になっている。こまごまとした気遣いができるしっかり者なので、兄の不在中、家と父のことを任せることに不安はない。けれど、寂しく窮屈な思いをさせているとは思う。煉獄家に生まれた次男として弟もまた、鬼殺の道を志し幼き頃から鍛錬してきたものの、幼少の頃からめきめきと頭角を現した兄とは違い、思ったようには剣技の才能が開花しなかった。勿論、そんじょそこらの悪人から身を守る程度の強さは十分にある。しかし、その程度では鬼殺隊で幾多もの死線を潜り抜けることは極めて難しいだろうことを杏寿郎は知っていた。
人知を超えた力を有する人喰い鬼と互角に張り合い、奴らの頸を刎ね、生き残るということ。
それはこちらもまた、人並外れた屈強さを身につけなければならないということである。
それを可能にするのが呼吸の技なのだが、千寿朗はその習得が伸び悩んでいた。生来より控えめでどちらかというと優しく内向的な性格の彼はそのことを大層気に病み、父や兄、更にはご先祖相手にまで申し訳なく思っているようだ。無論、弟が己を卑下する様を見たいわけではないが、杏寿郎としては彼に何としてでも鬼狩りの道に進んでほしいとは望んでいなかった。
勿論杏寿郎自身は、永遠にも続くと思われるこの修羅の道を進むことに対して心を燃やすことこそすれ、戸惑いや恐れを感じたことはない。弱き人を助けることは強く生まれた者の責務である、という母から賜った言葉を胸に、己の責務を全うすることに尽力するのみである。しかし、父から直伝の炎の呼吸の稽古が望めなくなった後も、己の努力一つで最終選別を突破し順調に鬼をほふり続け、遂には炎柱まで伸し上がったその過程で、年齢階級に関わらず多くの隊士たちが鬼の圧倒的な力の前で命を儚く散らせて逝く様を、彼は数えきれない程見てきた。煉獄家の一員として、そして後進を育てなくてはならない立場の柱として相応しくないと知りつつも、できることなら千寿郎には鬼殺とは縁のない清らかで安寧な未来に生きて欲しいと願ってしまう。弟には、一族の呪縛にとらわれることなく、自分の心のまま正しいと思う道を歩んでほしい。以前どこかで聞きかじった北方の民の諺にあるように、天から役目なしに降ろされたものはひとつもないのだから、剣士にならずとも千寿郎には千寿郎にしか成しえない責務を見つけられるであろうと信じている。
と、そのような高尚な言い分を並べ立てたとて、杏寿郎は自分の心の奥底に眠った本心に薄々気が付いていた。
結局のところ、母を病で失してから心が折れ徐々に破綻していった父のように、己の命にも代えられぬほど大切な弟を失った世界で果たして自分は生きていけるのだろうかという問いから目を反らし、たった一人の愛しい弟が命の危険に常に晒される耐え難い恐怖を遠ざけようとしているだけなのだ。これでは母上に顔向けができぬ、と自分の浅ましい思考を杏寿郎は自嘲する。
そうなのだ。母が存命だった頃から8歳も年の離れた千寿郎のことを目に入れても痛くないほど可愛がっていた杏寿郎だったが、母が逝き、父が塞ぎ込むようになってから、彼の愛情は些か重すぎるほどに千寿郎に向くようになっていた。初めは確かに、この子のたった一人の兄として、両親の分まで愛情を注ごうという健気な思いからだった。しかしその内、あにうえ、あにうえと鈴の鳴るような声でこちらを呼び求め、兄は世界で一番信頼できる相手だと無防備に心を預け、掛け値なしに兄を愛し信じてくれる弟はいつしか、杏寿郎にとっても最大の心の拠り所となっていった。育った環境が意図せずそうさせたのだとは彼自身分かっている。だが弟の世界全てを自分が独占しているような仄暗い背徳感と、この子が自分にとっての救いなのだという信仰心にも似た高揚感を、威勢がよく豪胆で明朗快活な兄の仮面の下に隠している。これが果たして正常な兄弟愛の範疇なのか、それとも狂気の沙汰の域なのか──杏寿郎は判断しかねる。
それでも一つだけ杏寿郎が迷わず言えることは、千寿郎が待っていると分かっているから、自分はできる限り生き残り家路につこうと思えるのだ、ということだった。
♦♦♦
「戻ったぞ!!!」
「お勤めご苦労様でした。ご無事のお帰り、何よりです」
杏寿郎が勢いよく玄関の戸を引き帰宅の旨を告げると、一足早く鎹烏から知らせを受け取っていた千寿郎が、正坐のまま両の手を床につき恭しく首を垂れていた。かつて父を出迎えていた母の姿を覚えているわけでもないだろうに、いつからか弟も、兄が鬼殺から帰宅するときはこのように畏まった態度をとるようになった。
しかし、顔を上げた千寿郎の頬は久しぶりの兄の帰宅の喜びで林檎色に染まっており、真っすぐなきらきらとした瞳でこちら見つめている。玄関先で仁王立ちの兄が空を切りながら両腕を横に開くと、弟はすぐさま立ち上がり跳びかからん勢いでその逞しい胸に飛び込んだ。それをよろめくことなく抱きとめた杏寿郎はそのまま千寿郎を持ち上げぐるぐると大きく身体を回し、互いに弾けるように笑い合う。ひとしきり再会の喜びを分かち合ったのち、回転の勢いは徐々に緩められ、陶器を扱うような力加減で千寿郎はそっと地面に降ろされた。杏寿郎はそのまま自分も膝をつき弟をめいいっぱい抱きしめる。まだくすくすと笑いの余韻を残していた弟も、やがて落ち着き、広い兄の背中に腕を回しぎゅっと抱擁を返す。そしてしばしの間、衣の下からじんわりとと伝わってくる体温を感じながら互いの鼓動に耳を澄ませるのだった。
この厳かなやり取りは、最も大切な愛しい弟の生を確認し、そして自分は正にこの子の為に生きているのだと実感する、杏寿郎にとって半ば儀式のような時間だった。わた糸のように柔らかで暖かな日の香りのする弟の髪に顔を半分うずめながら微かに嘆息した兄に、千寿郎はくすぐったかったのか少し身じろぎする。そこでようやく杏寿郎は身を離し、弟に向かってにっこりと笑みを向けた。それを見た千寿郎もまた、つられて破顔する。父と同じような吊り眉の自分とは違う下がり眉の弟の笑顔からは、彼の優しく穏やかな気質がにじみ出ているようで杏寿郎は一等好きだった。
「元気そうで何よりだ。俺の不在中、何も変わったことはなかったか」
「はい。幸い、兄上にご心配とご迷惑をおかけするようなことは何もありませんでした」
「そうか。いつも千寿郎に家のことを任せっきりですまない。感謝している」
「いえ、兄上が鬼殺隊で頑張ってくださっている中、僕はこれくらいしかできることがないので
…」
「
…千寿郎。お前が家を守ってくれていると分かっているから、俺は安心して任務に集中できるんだ。それにお前からの便りがいつも俺の心を励ましてくれている」
だからそんなに自分を卑下すんじゃない
そう伝えると弟は困ったように弱弱しい笑みを浮かべた。何かと自分のことを責めがちな弟とは同じようなやり取りを何度もしているが、あまり効果はなく、うーむどうしたものかと兄は思案する。謙虚なところが弟の美徳でもあるのだが。
「そういえば、暫く見ない間にずいぶんと背が伸びたな?」
兄は別の話題を弟に振る。
「はい!今年の正月からだと二寸半ほど伸びたと思います」
「む!!そんなにか!このままいくと千寿郎に超されてしまうかもしれないな!」
わっはっはと屈託なく笑ったのに対して、それは流石にないと思いますよ、と六尺近い背丈の兄を見上げてふふっと千寿郎は微笑んだ。
よし、弟に笑顔が戻ったぞ!
「そろそろ父上のところへも挨拶に伺うとしよう。父上は自室におられるか?」
「はい、先刻昼餉の準備ができましたとお呼びに行ったのですが、いらないと突っぱねられまして
…最近お酒の量が増えるのに比例して以前より食事をとられる頻度が下がっているような気がします」
もう、しょうがないお方です!と少し口をとがらせて言う様は、父に対して不満は感じながらも疎ましくは思っていない模様で、このような寛容さも千寿郎に備わったまたとない長所だと兄は感慨深く思う。それは平生から杏寿郎が弟に、父の喪失の痛みを理解できるようまだ優しかった頃の父や、仲睦まじかった両親の話をたくさん聞かせ、決して父を恨むようなことがないように配慮しているのも要因ではある。杏寿郎自身も、世界の全てから目を反らすように塞ぎ込み、己の一族の生き方を荒々しく否定するようになった父のことを哀しく思いこそすれ、疎んじてはいなかった。人の心とは、ともすればその肉体よりも脆いときがある。剣士として相当の実力を誇り炎柱として精力的に働いていた父でさえ、母が亡くなったことで心が折れてしまった。しかし、裏を返せばそれだけ母のことを愛し、その存在が大きな心の支えになっていたということだ。確かに人の心は脆い。しかし、己にとって大切なもの、愛おしいものを守りたいと本気で願う時、その想いは甚大な心の原動力となる。その炎が絶えることなければ、人はどんなことにだって立ち向かっていけると杏寿郎は信じていた。どんなに時間がかかろうとも、父にもまたその灯が戻ってくる時が来るだろう。その日までつかず離れずの距離からそっと信じて見守ることが、今の我々兄弟にできる最善の道なのかもしれない───しかし、母を亡くした父がかような様子なら、弟を万が一失った時自分はどうなるのだろうか。
心の隅に押しやっていた影がまた頭でちらつこうとした時、「兄上?」という声で杏寿郎はハッと我に返った。
「大丈夫ですか?少し心ここにあらずなご様子ですが
…やはり長期の任務上がりでかなりお疲れですよね。布団を用意しますので、横になってお休みになりますか?」
「
…ぁあ、いや、大丈夫だ。気を遣わせてしまって済まない」
父上のところへ行ってくるから少し待っていなさい、と千寿郎の頭に優しく掌を乗せると、杏寿郎はそのまま廊下を歩いて父の部屋へと向かった。
帰省の旨を息子から告げられた父は、良くも悪くも相変わらずだった。
鬼殺を続ける意味などこれっぽっちもない、隊士をやめないなら今度から家の敷居を跨ぐことは許さんと酒焼けした声で怒鳴ってくる。だが杏寿郎はいつものことなのでもう慣れてしまっており、早々に退室し千寿郎の元へと向かう。先ほど思考の波に呑まれた所為で弟への対応が疎かになり心配させてしまったので、兄はこの通り元気なのだとどうにか安心させてやりたかった。そうでなければ、「今日は早く湯船で体を温めて寝てください!」と布団に押し込められてしまうかもしれない。せっかく確保した久しぶりの兄弟水入らずの時間なのだから、なるべく多くの時間を千寿郎と共に楽しく過ごしたいと彼は思った。
居間の方へ戻ると、千寿郎が何やら植物を花瓶に生けている最中だった。杏寿郎はあまり草花に詳しいわけではないが、その形と色には見覚えがある気がした。
「む?鬼灯か?」
「ふふ、確かに言われてみれば似ていますね」
でも残念ながら違います!
少し得意げに弟は言うと、その全貌を兄に見せた。枝は細長く伸びた釣り竿のように緩やかな曲線を描いており、所々ぶら下がっている先のとがった小さな提灯のような形は鬼灯のそれとよく似ている。しかし、鬼灯が温かみのある橙色をしているのに比べ、こちらは目の冴える様な力強い猩猩緋色をしていた。しかも、その下部分から控えめに黄檗色の花弁が可愛らしく覗いている。そこから更に下に、萼と同じ色をした蕊が伸びているものもあった。
「浮釣木という花です。この蕊が覗いている状態をもって、完全に咲いていることになっているそうですよ」
「そうなのか?まだまだこれから咲き誇りそうに見えるのにな」
それにしても色合いがまるで我ら煉獄一族の髪や瞳のようで、なんだか親近感が持てる!そう兄が伝えると、ぱっとこちらを向いた弟が目を輝かせて、
「そうなんです!特にこの猩猩緋色は、凛々しい兄上そのものを表しているようだと思います!!」
と力説した。
その様子があまりにも可愛らしく思わず笑ってしまうと、興奮してしまった自分をはしたなく思ったのか、千寿郎は頬を染めて下を向く。杏寿郎としては、控えめに花弁を覗かせている愛い見た目は、むしろ千寿郎そっくりだと思えた。また、そのように兄のことを考えて花を愛でる弟のことがどうしようもないほど愛おしく感じ、彼は目を細めて千寿郎のことを見つめる。この子は一体どこまで兄を喜ばすつもりなのだろうか。
近頃このような弟の些細な言動できつく胸が締め付けられ、言語化できない激しい衝動に突き動かされそうになる時が杏寿郎にはあった。その現象は千寿郎のことを一等愛おしく想う時にいつも決まってやってくるので、彼は戸惑う。弟を可愛く愛おしいと思うのは昔からで、母が亡くなってからは特に弟の存在を心の拠り所にしている自分を自覚はしているが、それは千寿郎を慈しみ、彼を傷つける全てのものから守りたいという想いにさせることだった。しかし、杏寿郎を時折襲うこの衝動の感じはそのような美しい気持ちではなく、どちらかというと飢餓感に近い。酷く腹が減っているところに旨そうな食事を差し出され、どうしてもそれを喰いたくて理性が働かない──まるでそのような気持ちにさせられるのだ。これでは鬼と同じではないか。以前から己が弟へ抱く気持ちの加減が些かおかしいのではと思ってはいたが、ひたすら人喰い鬼を殺し続けてた所為で遂に自分は正気ではなくなったのか。杏寿郎は自身のことが恐ろしくなると同時に、このような兄をもってしまった千寿郎のことを哀れに想った。いずれこの衝動を制御しそこね弟のことを傷つけてしまうくらいなら、いっそ彼と距離を取るべきかもしれない。唯でさえ任務に忙殺され共に過ごせる時間が減っているのだから、このまま少しずつ弟の人生から身を引くのはさほど難しくはないだろう。
だが千寿郎が側にいない人生など、果たして己は耐えられるのか──。
相反する気持ちは杏寿郎の心を苛み、堂々巡りの葛藤に苦悩する彼は瞼をきつく閉じた。
♦♦♦
ふぅ。花の色合いについて兄上も自分と同じように捉えてくださったことが嬉しくて、つい興奮してしまった。これでは兄上に子どもじみていると思われても仕方がない。いや、実際兄上からすると僕なんてまだまだ子どもか
…。
千寿郎は少し火照った頬に掌を置き、心の中でため息を吐く。
彼にとって歳の離れた兄は憧れの存在であり、早く兄のような立派な人物になりたいと願っている。そんな彼にはなるべく子どもじみたところは見せたくない。しかし、大好きな兄を目の前にすると感情が溢れてしまうことが多々あり、なかなか上手くいかないのが現状だった。
千寿郎にとって、兄は世界の全てと言っても過言ではない。
記憶に殆ど残らない程幼い頃に母を病で亡くしてから、彼の家族は父と八つ年上の兄だけである。しかし、優しかった父は母を亡くしてから自分の殻に閉じ籠るようになり、息子たちに構うことが少なくなっていった。そのせいか、母を亡くした際、今の千寿郎と同じ年頃だった兄は文句ひとつ言わず幼い弟の面倒を見て、両親の分までめいいっぱい愛してくれた。彼だって母を亡くし、父が変わってしまった哀しみを酷く抱えていただろうに、千寿郎には努めて明るい面だけを見せ続けてくれた。そして、稽古をつけてくれなくなり剣士の道を否定するようになった父の反対を押し切り、自力で鬼殺隊に入り更には柱になって人々のことを助ける兄のことを千寿郎は尊敬してやまない。この人に不可能という文字はないのではないかと思ってしまうほど頼もしく、全ての人に安心と希望をもたらす温かい太陽のような存在だと思っていた。
一方、そんな兄を見ていると千寿郎は少し不安にもなる。
運動をしすぎた後体力を回復するために身体を休ませる必要があるように、心にも休息は絶対的に必要である。永遠に走り続けることはできず、何処かで必ず休憩しなければ壊れてしまう。身体も心も。鬼による被害報告はひっきりなしにやってくるので鬼殺隊士たちは常に臨戦態勢でいなくてはならず、例え身体の休息をとっていても心が休まる暇はあまりないだろう。柱となれば、尚更。千寿郎は実のところ、元炎柱であった父はそれもあって心が折れてしまったのではないかとも思っていた。
母を失くしてからの兄は、いくら努力しても息子のことを否定する父との関係、幼い弟の世話、自力での炎の呼吸の取得、柱としての激務など、ここまで一度も心の休息をとることなどできないまま走り続けてきた。にもかかわらず、兄が弱音を吐くところを千寿郎は一度も見たことはなかった。
せめてもう少し兄との歳の差が狭ければ、背中を預け合う対等な兄弟として有れただろうか。
庇護対象として兄の帰りを待つことしかできない非力な自分は、兄の支えになどなることは決してできないのだと自分のことが心底嫌になる。むしろ、自分という存在がいなければ兄の負担はもっと軽かっただろう。心優しい兄はそんなこと露程にも思っておらず、弟のことを本心から想ってくれていると分かるからこそ、千寿郎は心苦しく、一刻でも早く大人になりたかった。兄との歳の差が埋まることは決してないけれど、成長し大人になれば兄の手を煩わせることも少なくなるだろうし、兄も自分を頼ってくれるようになるかもしれない。
しかし、現状はどうだ。毎日鍛錬を重ねても剣技の腕は一向に鬼殺ができるまでには上達せず、不甲斐ない姿を晒しているだけ。己のことが情けなくなり、千寿郎は今度こそため息を吐いた。
鶴頸の焼き物に生けた浮釣木をぼんやりと眺める。
これは兄が帰宅する少し前に、千寿郎が庭からとってきていたものだった。彼がこの花の存在を知ったのはごく最近で、偶々通りかかった花屋の軒先に咲いていたのを発見したのがきっかけだった。売り物ではなかったが、兄を彷彿とさせる──自分や父も同じ色味だというのはこの時千寿郎の頭には登ってこなかった──その凛とした色合いと、心温まるような優しく可愛らしい佇まいに惚れ惚れとし、少し分けてもらえないかどうか店主に思わず訊ねてしまった。すると、店主は快く承諾してくれ、浮釣木という花だと教えてくれた。他にも猩猩花、火口殻という別名もあるらしい。
そういえば、と先ほど兄がいつになく心ここにあらずな様子だったことを千寿郎は思い出した。ここ暫く帰省する暇もない程忙しくしていたようなので、随分と疲れているのだろう。
今日のところは、早めに横になっていただいた方がいいかもしれない──そう思い、千寿郎は兄に声をかけた。
「兄上、任務明けでお疲れですよね。今日はもうお休みになられますか?」
「いや!午前中に少し仮眠をとってきたから、その必要は全くない。それよりも、腹が減ったな!」
兄は何故か少し焦った様子で答えた。無理をしていないか少し心配になったが、「久しぶりにお前の作った飯が食べたい!」と爽やかな笑顔で言われると、結局むずむずとした嬉しさが勝って、千寿郎は絆されてしまうのだった。
♦♦♦
「旨い!旨い!!」
食事をするとき旨い旨いと連呼する兄の姿は見慣れたものだ。千寿郎の手料理を食べる時はいつも言っている気がする。余りにも毎回のことなので、不味い場合でも同じように言ってるのではないかと心配になり、「兄上は旨い旨いと言ってくださりますがお口に合わない時はちゃんと言ってくださいね」と伝えたことがあった。すると兄は、本当に旨いと思っている時にしか言ってないぞと首をかしげた。でもいつも言ってますよと言い募るも、「千寿郎の作った飯が旨くなかったことはないからな!お前は料理の天才だ!」と、にっかりと笑って答えられたのでもうお手上げだった。
父にも料理のことで文句を言われたことはないので、まずくはないのだろう。しかしこれでは例え改善点があったとしても直しようがない、と千寿郎は頭を抱えた。料理の腕を上げ、より美味しい食事を兄に提供できるようにする為にもやはり向上心は必要だろう。
今度、お暇があれば一緒に料理の特訓をしましょうと炭治郎さんを誘ってみるのもいいかもしれないな──と千寿郎は思案する。
「千寿郎の飯はいつも旨いが、今日は特に旨い気がする」
兄が手を止め、茶碗の中の白米をしげしげと眺めた。
「あ!分かりますか?今日のご飯は新米なのです!懇意にしている米農家さんから先日新米を頂いたので、まだ古いお米も残っていますが、兄上が滞在する間の分だけ少量踏んでおきました」
お米は徐々に味が落ちていくので、少しずつ慣らされた舌にとって旧米がまずく感じられるわけではない。しかし、新米の美味しさには格別なものがある。炊き立ての新米はつやつやと光り輝いており色も透き通るように真っ白。茶碗によそわれた一粒一粒が際立って見える。湯気とともに立ちのぼるまろやかな匂いに空腹感が刺激され口に含むと、温かさと共に優しい甘みがじんわりと口の中に広がり、思わず目を閉じてうっとりしてしまう程。慌ただしい毎日を過ごしている兄は、普段腰を落ち着かせてゆっくり食事を味わう機会が少ないだろう。せめて家に帰って来る時ぐらいは、特別に美味しいものを兄に食べてもらいたい。そう願っているので、兄がいる時はいつも以上に腕によりをかけて千寿郎は食事を用意するのだ。
「もうそんな時期か。最近朝方が特に冷え込むと思ってはいたが」
「新米、本当は多く見積もって三俵ほどのつもりだったのですが、今年は豊作だったやらいつも世話になっているやらでおまけと言われて、五俵も頂いてしまったんです。」
千寿郎が片手を頬に当て困り顔で言う。
「何がいけないんだ?それくらいすぐになくなるだろう」
怪訝に思った杏寿郎は訊ねる。米の消費量を気にしたことは余りなかったが、昔、まだ家から任務に赴いていた時分にはそれくらい食べていたように記憶していたのだ。すると、「兄上ほど沢山食べられる人は稀ですよ」と弟は苦笑する。
「最近兄上はなかなか帰ってこられないし、父上も以前ほどお食べにならなくなりました。もちろん僕はお二人ほど大食いではないですし
…ご近所さんにお裾分けするにしても絶対余ってしまいます
…」
もっと頻繁に帰って来きてほしいという弟の言外の想いが滲んでいるようで、兄は申し訳なく思った。
「
…今度、柱の皆を食事に呼ぶのもいいかもしれないな。食べるのを手伝ってもらおう」
里帰りの頻度を増やすのはなかなか難しいが、せめてもの償いにそう提案した。以前自分の下で修業をしていた甘露寺を始め、伊黒や宇随などこれまでも何人かは家に呼んだことがあるので弟も顔を合わせたことがある。また、会話や手紙の中で他の柱のことが話題に上がることもあるので、彼にとって全く知らない存在ではない。偶には賑やかなのも千寿郎の気分転換に良いかもしれない、と杏寿郎は思った。
「本当ですか!それはとても楽しみですね」
嬉しそうに破顔する弟の顔を見つめ、杏寿郎も目を細めて笑みを浮かべた。
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