あがさ
2025-10-04 21:45:51
3611文字
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それはいつかの夜




 微睡から意識が浮上するのを、ぼんやりと感じる。
 水中で漂っているかのように全ての感覚が曖昧で、暫くの間その何とも言えない心地よさに身をゆだねていた。微かな寝息を耳元で感じ、緩慢に薄ら目で見やると、暗闇でもなお淡く光って見える柔らかな黄金色が視界に入ってくる。父から稽古をつけてもらうようになったとはいえ弟はまだ幼く、不安げな表情で枕を抱えて兄の部屋にやってきては添い寝を強請る夜はそう少なくない。家族仲は良好で、毎日それなりに穏やかで幸せな日々を送っているという自覚はある。けれど、忙しく何かと家を空けがちな父や、弟、千寿郎が生まれてから徐々に体調を崩し今では幼子一人おぶることさえ難しい母のこともあり、この時期に必要な親からの愛情をこの子が今一つ満足に得れていないのではと思う時がある。それを抜きにしても、自分は歳の離れた弟のことを大層可愛がっていると自他ともに認めている。寝入りばなに襖の向こうから「あにうえ」と遠慮がちな声が聞こえれば、こちらから勢いよく襖を開け、今夜は何の冒険譚を聞きながら寝たいか尋ねながら自室に招き入れる以外の選択肢は己の中で用意されていない。
 腕の中の幼子特有のじんわりとぬくい体温を感じながら、つらつらとそのようなことを考えていると、遠くの方で微かな物音が聞こえた。己の覚醒も、どうやらこれが原因のようだ。弟を起こさないように気を付けながら、そっと半身を起こし部屋の外の様子をうかがう。意識を集中してみれば、物音は玄関方面から聞こえ、母と父のくぐもった話し声も聞こえた。

 父の仕事は少し、いやかなり特殊で、主に日暮れから夜間に出かけていくことが多い。しかし、ここ暫く長期で家を空けていた父が、ようやくまとまった休みが取れそうだと若干の疲労をにじませながら笑顔で帰宅したのは、一昨日のことだった。そのおかげで、お疲れなのですからもう少しゆっくり休まれたら良いでしょうに、という母の苦笑混じりの小言も聞かず、この二日間、父は熱心に自分と弟に剣の稽古をつけてくれた。自主的に毎日欠かさず鍛錬はしているものの、やはり父から直々の指導となれば厳しさは増し、夕方にはもう一歩も動けないと地面に大の字で倒れこんでしまうほどだ。それでも、自身の疲れは微塵も感じさせず、子どもたちに情熱をもって熱心に稽古をつけてくれる父は自分にとって憧れの存在であり、早く父のように強くなりたいと願ってやまない。そんなことだったので、もう暫くの間は父も仕事に駆り出されることなく家族四人で時間を過ごせると思っていたのだが。少し残念な気持ちが胸に押し寄せる。せめて出かける前に父と言葉を交わしたいと思い、杏寿郎は弟の頭を抱えるように敷いていた片腕をそろりと外し布団から抜け出すと玄関へと向かった。

 板張りの廊下に足をつけると、布団の中で温まった体温との差でひんやりと冷たく感じる。日頃なら、そんなに騒がしく歩くなと父に呆れられたり、煉獄さんとこの坊ちゃんは元気があっていいねぇとご近所さんに微笑ましく見られたりする足音は鳴りを潜め、静かにゆっくりと廊下を進む。玄関に近づくにつれ、両親の会話の内容も認識できるようになると、やはり予想に違わず、父はこれから仕事に出かけるらしい。

「情報によると下弦が二体と雑魚がそこそこ夜が深まるにつれ数が増え、居合わせた隊士のみでの対応が難しくなったための、応援要請だ。柱が出向いた方が一気に片をつけられるが、他の連中は皆、運悪く別の任務についているか、遠方で駆けつけるのが間に合いそうにないらしい。よって一番近くて暇をしていると分かっている俺に声がかかっただけだ……………だから、瑠火、そんな顔をしてくれるな」

 聞こえてきた父の言葉の最後にはっとして、廊下から玄関を覗くと、父は既に草履を履いており、上り框の縁に立ってこちらに背を向けている母の表情は窺えない。

「俺の実力はお前が一番よく心得ているだろう」
………
「早朝には戻ってくる。必ず」
……ご武運を」

 父が仕事に出る際決まって母が言う言葉を聞いた後、力強く頷き、家を頼むと一言の残すと引き戸を開け、父は夜の闇に颯爽と溶けていった。既に姿は見えないだろうに暫くそのまま闇を見つめていた母は、ようやく戸を閉めると俯き加減でこちらに歩いてくる。
 もう幼子という年齢ではなくなったとはいえ、まだまだ子どもである自分の寝床は早く、朝起きると父は既にいないことが多い。それでも昼間や黄昏時など早めの時間帯に父が出かける際には家族そろって見送ることもあり、仕事に出かける父とそれを見送る母のやり取り自体は、杏寿郎は何度も目にしたことがある。しかしいつもは切り火をしたのち、些か形式ばった見送りの口上をかしこまって唱え、父もそれに大抵いつも決まった台詞で返してくる。そして自分がいる時には必ず「杏寿郎、父が帰るまで母と千寿郎のことを頼んだぞ。煉獄家長男としての責務を全うしろ」と声をかけてくるので、その熱い言葉を胸に刻むのに一生懸命で、その際の母の表情や声色は気にしたことがなかった。
 先程父を見送った際の母の声は少し硬いようで、杏寿郎は最初、母は怒っているのだろうかと思った。確かに、久しく家を空けてようやく長期休暇が取れると戻ってきておきながらそのたった二日後にまた仕事に行く父は、少々家族を顧みていないと捉えることもできるだろう。しかし、父の仕事の過酷さや責任の重さを一番承知しているのは、煉獄家に嫁いできた母自身だろう。聞きなれない母の声色の意味を考えあぐねていると、母の足音がすぐ近くまで迫ってきていることに気が付いた。母上、と声をかけようと廊下の影から身を出し母の顔を見上げる。

 その際、息子の存在に一瞬気づくのが遅れた母の表情を見てしまった。

 常日頃からあまり大きく感情を動かすことがなく静かで落ち着いている彼女の顔は、ともすれば無表情にも見える。けれど、そんな母を見慣れている杏寿郎だからこそ、今の母が酷く辛そうで、しかしそれを表に出すまいと必死に耐えていることが分かった。そこにあったのは、怒りではなく、悲痛なほどの恐れと哀しみだった。

 闇夜に蠢く人喰い鬼を狩る鬼殺隊の中で、最も位の高い九名の柱。その内の炎柱は、古くから鬼狩りを生業とする煉獄家から先祖代々輩出されている。父、煉獄槇寿郎も例に違わず現在の炎柱であり、常に前線で命を削って戦っている。そのような父のことも、人に仇名す鬼共から人々を守る己の一族の生業も、杏寿郎は誇らしく思っていた。そしていつか自分もご先祖や父と同じように鬼殺隊に入り、鬼によって奪われる命を一人でも多く救いたいと考えてきた。そのため父が鬼殺に赴く際、眩い憧れに胸を高鳴らせこそすれ、父がもしかしたら死んでしまうかもしれないという恐れは持ったことがなかった。それは偏に、多少の怪我を負うことはありながらも、父が必ず母や自分たち兄弟の元へ帰ってきてくれていたからだ。それが、強い父は鬼めなどに負けることはないという自信を杏寿郎に植え付けていた。
 しかし、母は違う。
 母自身は鬼と戦ったことがないにしても、煉獄家に嫁いだ女として、炎柱である父の妻として、子どもである自分たちよりもずっと近くで鬼殺隊のことを見ているだろう。その危険性を重々承知しているからこそ、最愛の夫が帰らぬ人となるかもしれない覚悟、鎹烏が便りをもって飛んでくる度にそれが彼の訃報かもしれないという恐怖、それでも信じて待つのが己の責務と耐え忍ぶ哀しみを、母は常に心に秘めているのだと分かってしまった。そして、普段は気丈に振舞っていても、ふいにその気持ちがどうしても溢れてしまう時があるのだということも。

 既に夢の中にいると思っていた息子が目の前で気づかわし気にこちらを見つめていることに気が付いた母は、一瞬目を見張ったのち薄っすらと微笑んで、千が起きて兄がいないと気づくと大変なのでは、と悪戯っぽく問いかけてきた。千は今頃夢の中で鬼退治に忙しいので大丈夫です、と一度寝入ったら家が火事になっても起きないだろう弟のことを思いつつ、それでも声は控えめにして答える。

「今夜は桃太郎ですかいつも千寿郎の世話をありがとう。杏寿郎は立派な兄ですね」

 そう言って優しく頭を撫でてくれた母は既にいつも通りの静かな表情で、先程の悲し気な翳りは巧妙に仕舞われ隠されていた。



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