人の記憶は声から忘れていく、そんな話を聞いたのはいつだったろうか。
「兄上、母上はどのようなお声でしたか?」
俺は声どころかお姿や香りなど、一切覚えていません───そう項垂れる僕の頭を兄は優しく撫でてくれた。物心つくかつかないかの時期に亡くなった母の記憶は自分にはなく、白黒の写真で生前の母を見ても、「これは僕の母上」という事実を脳内で反芻するのみで、懐かしく蘇る思い出など何一つない。父や兄は母の事をしっかり覚えているのに。家族でありながら自分だけ明確に分けられた線の外側の存在のようで、時折酷く寂しい気持ちが湧き上がってくる。そんな時、僕は必ず兄に母のことを話してくれと強請る。兄の口から語られる生前の母の様子を聞くと、自分の中の朧げで曖昧な母が、その瞬間は生き生きと存在感を増し、僕に微笑みかけてくれているように感じるから。
「そうだなぁ
…実のところ俺も母上の声はもう覚えていないんだ。」
兄は静かにそう言った。
「人の記憶は声から忘れていくと聞いたことがある。声は忘れてしまったが、俺の中にはまだまだ沢山の母上との思い出が残っている。だから寂しくはないぞ!」
お前にこうやって母上の事を話すことで、今でも母上がすぐ近くにいるように感じることもできるしな!
兄はそう言って朗らかに笑った。
♦♦♦
兄が亡くなってから、僕は彼の夢を時々見るようになった。
それは何でもない日常を兄と過ごす、そういう夢だ。夢の中の兄は声、姿、匂い、触れる手の大きさまで鮮明だった。夢か本物か区別がつかない程で、目が覚めるたびに残酷な現実を突きつけられ泣いていた。しかしそのうち、少しずつ夢の中の兄の輪郭はぼやけていき、夢を見ながらも、これは夢だなぁと客観的に考える自分も存在するようになった。
今日見た夢は、兄と僕が家の縁側に並んで座り会話をしているだけの、いつぞやにあった記憶を反芻しているような内容だった。しかし実のところ、僕は兄とのそういう何気ない語らいの時間が一等好きだったので、この夢を見る頻度はかなり高い。兄自身は別に面白おかしく語っている訳ではないのだが、兄と仕事仲間とのやり取りの話は何故か非常に面白く、その話を聞くのは僕の楽しみの一つでもあった。
夢の中で僕が話しかけている人物は、兄だと僕は認識している。けれど、夢の中の兄の人物描写は年々不鮮明になっていく。夢の中で兄の口から発せられる声が、果たして本当に兄の音なのか、もう分からない。
初出:2021/1/6
TOPへ戻る
作品一覧に戻る
ホームに戻る
If you make a mistake, you can cancel it by pressing the reaction.