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「あら、こんにちは。珍しいわね、あなたがあたしを尋ねてくるなんて」
「忙しいようであれば日を改めるが」
「これが忙しそうに見える?」
「ある意味ではそうだな」
生命の庭でキメラにクッキーを食べさせているキュレネを見下ろし、モーディスは腕を組んだ。彼女は最後のひとかけらを灰色のキメラに渡すと、ハンカチで手を拭いて青々とした芝から立ち上がる。
「それで、あたしになんの用かしら」
モーディスに向き直ったキュレネはにこりと笑みを浮かべ、小首を傾げる。彼女の足下にいた灰色のキメラはクッキーが貰えないとわかると、今度はモーディスの足に擦り寄り、あう〜と小さく吠える。モーディスは一瞬だけそのキメラに視線を向けたが、すぐにキュレネへと戻し、「お前に聞きたいことがある」と口にした。
「お前は異邦から来た救世主とこの星の未来について『決まっていることもある』と言ったな」
「あら?」
すりすりと執拗に足に擦り付いて鳴いているキメラの前にしゃがみ込み、「クッキーはない、諦めろ」とモーディスは頭から背にかけて優しく撫でてやる。あう〜と気持ちが良さそうに鳴き声をあげたキメラだったが、クッキーが貰えないとなると興味を無くしたのか、水の上の蓮で眠っているキメラのそばに走って行ってしまった。
モーディスは立ち上がらずにキュレネへ視線を向けた。
「お前だけが知っていることがまだあるように感じる。何か、この世界に足らぬものがないか?」
キュレネはにっこりとした笑みを浮かべたまま、モーディスの言葉を受け止めている。穏やかな風が生命の庭の草花を揺らし、人々とキメラたちの小さな話し声は平穏そのもののように響いていた。
「どうしてそんなことが気になったの?」
風にあおられた横髪を耳にかけ、キュレネはあくまで穏やかに首を傾げた。彼女の美しいピンク色の髪と紫の服がミハニの陽で鮮やかに照らされ、一瞬、ノイズが走るように彼女の姿が朧に写った
——ようにモーディスは感じたが、錯覚だろう。瞬きのうちに彼女は両手を後ろで組み、楽しそうに鼻歌を歌っている。
「そうね、当ててみましょうか。例えば
……、あなたは
誰かが
——あたしたちが待つ『救世主』ではないもうひとりが、世界にいないように感じている、とか?」
モーディスは足を崩し、胡座をかくと、右手で頬杖をついた。キュレネを見上げながら金色の瞳を細め、「そうだ」と頷く。
オクヘイマへ拠点を移してから、ずっと誰かを探している。それを彼女は知っている筈だったが、なぜか今は誤魔化されている。それが何よりも怪しい。
「お前はこの違和感の正体を、本当は知っているのではないか?」
「うーん、どうかしら」
キュレネは歌うようにくるりと服の裾を翻すと、モーディスに背を向け、崖の方へとゆっくり歩いていく。芝から立ち上がり、モーディスもその背を追う。
トリスビアスがキメラたちに餌を与えているテーブルまでやってくると、テーブルの上で眠っている水灰色のキメラを優しく抱き上げ、滑らかな背から尻尾をゆっくりと撫でた。青い瞳の真ん中に太陽のような黄色い輝きのあるキメラで、モーディスは何かを知っているような気がしたが、この感覚がなんなのかはわからなかった。
さて、とキュレネがキメラを抱えたまま、モーディスを見上げる。
クレムノス王朝、女傑のゴルゴー妃と勇猛果敢なオーリパン王の間に生まれた輝かしい一人息子。文武両道、穏やかで思慮深く、慈悲深く、部下と共に数多の死線を潜り、生きて死に、血潮から黄泉還帰る、タナトスに嫌われし子。不死のメデイモス。敵対者には苛烈で容赦のない豪傑。全てが彼の呼び名だった。いつなんどきも我が身を顧みず、傷つくことを厭わない。戦いは負けなければ終わりではない。そう宣言するかのように、たった一人なろうと、黄金の血で大地を染めようとも、戦場に立ち続ける孤高の王子。
彼の隣に並ぶものはなく、彼は常に頂点に構えていた。護るべきものばかりの人生だったが、それに不満も疑問も覚えたことはない。王子としてこの世に生まれ、臣下や民に囲まれて生きてきた。望まれてきたことは、やれることであればなんでもやって来ただろう。そこに疑問はないはずだった。
——オクヘイマに来るまでは。
キュレネは緊張した顔をするモーディスににこ、っとわらいかけ、腕の中でばたばたと暴れ始めたキメラをそっとテーブルの上に下ろした。くああ、とあくびをあげたキメラは素早い動きでモーディスに近づくと、肩の上に乗って尻尾を首に巻きつけさせると、器用に瞼を閉じて寝息を立てる。
「メデイモス、もしもの話をしましょうか。
——あたしたちが帰ってくるのを待つ救世主が、異邦から来た子ではなくて、あなたやあたしと同じように、このオンパロスと言う星で生まれ、暮らしてきた男の子だったとしたら」
キュレネの言葉は、何度も同じ文章を読んできたかのように澱みなく、穏やかで、明るい音をしていた。にこやかな笑みを浮かべている彼女から語られる言葉は、これが本当に仮定の話であるようにも思えたし、真実であるようにも思えた。
モーディスはしばし腕を組んだまま彼女を見つめ、「だったとしたら?」と彼女の「もしも」に付き合うことを決める。
首筋に当たるキメラの尻尾のくすぐったさに思わず表情を崩してしまい、「くすぐったいぞ」と文句を言いながら、小さな体を地面に下ろしてやる。
「あら、だったとしたら、あなたの探している人はその男の子だとは思わない?」
「何故そうなる」
「もしかすると、あなたも含めてみんなが忘れてしまっているだけかもしれないでしょう。歴史に名の残されていない英雄だっているわ。名前は残らなかったけど、彼の残した偉業はあたしたちの今日を紡いでいる」
「
…………」
奇妙な感覚だった。全く論理的ではないし、筋も通っていない。それなのに、なぜかキュレネの語る言葉は真実のような気がしてならなかった。
『この世界は繰り返しているの。あたしと「あの子」は、ようやくこの世界を救うための鍵を手に入れた。天外からやってきた英雄
——救世主のあの子は今は少し旅をしてしまっているけれど、いずれかの果てにあたしたちに必ず辿り着くわ。だからそれまで、あたしはあなたたち黄金裔にできるだけの手助けをする』
キュレネははじめて出会う火追いの黄金裔全員に、同じ話をした。皇帝亡き後、今は深海で眠っている、かつての皇帝の騎士セイレンス、オクヘイマの主人を務める金織のアグライアと、ヤーヌスの巫女の肯定を携えて。
「仮にそんな男の子がいたことにしてみましょう。救世主、ファイノン。お人好しで、強がりで、我慢強くて、泣き虫で、優しい子。きっとあなたとは気が合ったと思うわ、王子様」
来て、とキュレネが生命の庭のエレベーターを降り、雲石広場へと向かう。階段をぐるぐると上って屋根の上を伝うと、ケファレの良く見える一角で「眩しいわ」と額の上に手を掲げて笑った。
モーディスは屋根の上で腕を組むと、ケファレを見つめてから、視線を市場へと落とす。ミハニの陽光が聖都を照らし、エスカトンに怯える人々に仮初の穏やかさを与えている。
「ここで、誰かを待っている気がしていた」
「あら、そうなの? もしかしたらその男の子がここによく来たのかもしれないわね」
「
……そいつは今どこにいる?」
モーディスは目の上に手を掲げたままのキュレネに視線を向ける。キュレネの美しい瞳が輝きながらわずかに細められ、ふ、と小さく呼気が落ちる。
「とても深いところ、あるいは高いところかもしれない。だけど、ずっとそうしてきたように、一人で戦っていると思うわ。オンパロスと未来のために」
キュレネは何もない空間に手を伸ばし、そっと、誰かの背を押すように手のひらをあてる。
「心配しないで。あたしたちは今までに一度も負けなかったんだから。抗い続ければ、いつかは道が繋がるって信じているの。長い長い時間、ずっとね」
モーディスはキュレネが空中に置いた手の位置から手を上げ、おそらくこの辺りが肩だろう、と感じた場所に手を置いた。触れてはいない。そこには何もない。それでも何故か、しっくり来るような気がした。
「ファイノン?」
モーディスは先ほど、キュレネが口にした見知らぬ男の名を繰り返した。
「
………………」
キュレネは微笑むばかりで、モーディスの疑問には答えない。
この女に揶揄われているような気もしたが、ファイノン、と呟いた舌の動きに、何故か懐かしさを覚えてもいた。
忘れている、のだろうか。一人で耐えていると言う男を。
「ファイノン、
——ファイノン。
……来世は会いに来い。どんな姿になったとしても、必ず」
モーディスは手を下ろし、ミハニを背負うケファレを見つめた。
とうの昔に沈黙し、物言わず黎明を背負うケファレとなったタイタン。その代行を何千万回と行ってきた男がいる、らしい。記憶にはないが。
覚えはないが、なぜかそれは、知っているような気がした。
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