ながひさありか
2025-09-24 02:09:01
13033文字
Public STR-Phaidei
 

間違い探し

記憶がない×記憶がある4
アナ先生の恋愛相談室(過去) / 優しい反応に戸惑うモーディス / デートからの帰還

前回→https://privatter.me/page/68c9829b03256

「アナイクス先生は前世の記憶があるのを公言してたと思うんだけど」
 アナクサゴラスです、といつものように訂正が入るのを聞き流し、ファイノンはアナクサゴラスの研究室に置かれている学生用の椅子に腰を下ろした。教授は右目でじろりとファイノンを睨んだが、ため息をつきながらも、妙に刺激臭のするお茶を淹れてくれる。臭いも味もファイノンにはイマイチだったが、出されたものは残さない主義だったし、健康被害は今のところ出ていないので一応、お礼を言って口をつける。
「そうですが、それがどうかしましたか」
 渋い顔でお茶を啜るファイノンと違い、教授は涼しい顔で、飲み慣れたワサビ味の茶に口をつける。いつもと変わらない味に満足し、ひと息つくと、眼前に座る妙に落ち着かない様子の学生を片目を細めながら見つめた。
 現在のオンパロスでは相手に前世の記憶があるかどうか尋ねるのはマナー違反とされているが、記憶保持者がどう振舞うかは個々人に委ねられており、オンパロス新生初期の混乱を終えた今は限られた相手にだけ開示する者もいれば、一切開示しない者もおり、意外にも少ないが、アナクサゴラスのように公言している者もいる。
 前述の通り、アナクサゴラスは前世の記憶を有しており、それを公言して憚らない。勿論、記憶があるからと言って無闇矢鱈、一方的にかつての話をしたりはしないが、モーディスのように当人から話を振られれば、話をしてやることもある。それ故、彼は学生として現れたファイノンがかつてこのオンパロスで「救世主」と呼ばれていた男と同一人物だと知っている。ファイノンが樹庭の入試を受けた際にたまたま試験監督を務めていたので、彼が樹庭に入学する前から存在も知っていた。
 アナクサゴラスは眼前のファイノンと前世の「ファイノン」やその周囲の人々について、今まで一度も話をしたことはない。彼に記憶がないのは明らかだったし、ファイノンに限らず、「ない」情報を与えて他人を混乱させる気は毛頭ないからだ。
「実は僕のことを知ってたりしないか?」
……あなたは私に恋愛相談がしたかったのでは?」
 眼前に座る彼は、三コマ目の講義終わりに全ての学生が講義室を出て行ってから、そわそわと「先生は恋愛相談を受けつけてるって聞いたんたんだけど」とアナクサゴラスに話しかけてきた。
 正直に言えば面食らったが、なんとか真顔を保ち、そう言えば彼がモーディスと何度か深い仲であったことをかつての記憶から思い出した。生涯の途中で記憶を思い出す者もいたな、と考えたが、「ファイノン」がもしかつてを思い出しているのであれば、きっと彼はマナー違反だと知りつつもモーディス本人に尋ねるだろう(勿論、今のファイノンの想い人がモーディスであると言うのはアナクサゴラスの勝手な思い込みではあるのだが)。
 そう感じたからこそ「五コマ目は講義がありませんので、そこでよければどうぞ」、とこうして研究室への来訪を許した。
 彼が恋愛相談を受け付けているのは、恋愛で悩む時間は勉強が本分の学生において最もくだらない時間の浪費だとアナクサゴラスは考えているからだった。恋愛は脳内ホルモンが引き起こす熱病のようなもので、一時の強烈な病で人生が左右されてしまうようなことはあってはならない。ただ、未熟な学生がそう言った病にかかりやすいと言うのも、ある程度は仕方のないことだとも感じている。
 とは言え、恋愛や愛そのものを否定してもいない。恋人であれ友人であれ家族であれ、たとえ思い出の中にしか今はいないとしても、かつて姉のために左眼を失ったように、愛する人がいるからこそ人生を歩んでいけるのだとも思っている。
 故に、想い人が余程の悪逆でもなければ、背中を押すようなことしか言及しないと決めている。失恋したと泣いてやってくる学生も当然いるが、今は勉学に励む時期なのでしょう、とかなんとか言いくるめて立ち直らせている。
「恋愛相談がしたいって言うのも間違ってはいないよ。ただ、先生はかつての僕を知ってたりしないのかなとも思ったんだ」
 ファイノンは渋い顔のまま口をつけていたカップを下ろし、アナクサゴラスの顔を上目遣いに――と感じるような表情で――見つめた。彼はかつても体格の割に幼さを残した顔立ちをしていたが、記憶がないせいか、あるいは世追いの使命を背負っていないからか、余計に年齢よりも幾ばくか幼く見える。アナクサゴラスはその姿にやや違和感を覚えるのと同時に、すこしだけ安堵もした。ファイノンはかつても今も優秀な教え子の一人ではあるが、かつての彼には全てにおいて余裕のない学生だった。そんな彼に大事な誰かができるのはいいことだと感じていた。かつても今も。
「もし私を口説いているつもりなら、」
「それは誤解だ! 全然先生にはそんな気持ちは一ミリもない!」
 本題になかなか入ろうとしないファイノンの回りくどさが面倒になり、適当なことを口にしたアナクサゴラスに、ファイノンは慌てて椅子から立ち上がってまで否定する。
「あなたの想い人には前世の記憶でもあるんですか」
………………わからないけど、多分……いや全然気がないだけかもしれないけど」
 座りなさい、とため息をついたアナクサゴラスに促され、ファイノンは再び椅子に腰を下ろす。好みではないお茶に再び口をつける。
「先生って結婚したことか恋人がいたことって、」
 と、口にする途中で、恐ろしく冷たい視線が顔面に突き刺さり、ファイノンは慌てて口を噤んだ。
「ええと……
「ファイノン、あなたは私のプライベートを詮索するめに、私の貴重な時間を奪っているのですか?」
「すみません、そういう訳じゃないんだけど……。つまりその、僕が言いたかったのは、前世で先生にもしそういう人がいたとして、記憶があったらもう一度一緒にいたいと思うものなんじゃないのか? と、思って……
「それは人によるでしょう。一緒にいても傷つけあうだけの関係になってしまう場合もあります。――それで、あなたがそう言った妄想に囚われるようになってしまった根拠でもあるのですか」
 ファイノンはアナクサゴラスの言葉に躊躇するような顔をした。ちらちらと瞳を向けては視線を伏せ、思案するように眉を寄せると、拳を膝の上で握る。
「隠して話すのが難しいからこの場限りで忘れて欲しいんだけど、その、僕はモーディスって寮で同室のやつが好きで……
「知っています。彼は優秀で目立ちますから」
 アナクサゴラスが気のないフリをしてさらりと答えると、顔を赤くしながらしどろもどろにぼそぼそと話していたファイノンの顔がサッと青くなる。やっぱり知ってるよな……、と何故かショックを受けたように呟くファイノンに、教授は無言で空になったカップにお茶を注ぎ、続きを促すように視線を向ける。いつだったかもこんな風に恋愛相談を受けたような、と記憶を掘り起こそうとしたが、あったような、以上のことは思い出せなかった。きっと、当時の自分は「告白すれば上手く行くのが分かりきっている」とでも思っていて、あまりのくだらなさにすぐに忘れてしまったのだろう。
 長い沈黙の末、ファイノンが気まずそうに口を開く。
「先生って、その、ないと思って聞くから気を悪くしないで欲しいんだけど……モーディスとはなんにもないよな?」
「私のゼミから追放されたいのでなければ、二度とそんな愚かな問いかけはしないでください。学生に感情を抱くような者は教鞭をとる資格はありません」
 くだらない、と吐き捨てるように呟いたアナクサゴラスにファイノンはすみません、ともう一度呟きながら、ほっ、と安堵の息を吐いた。しかしながら眼前の教授に浮かんだ嫌悪の表情に、慌てて緩みかけた頬を引き締める。
「違うならいいんだ。あーその、根拠、根拠なんだけど、去年の秋ごろかな、先生とモーディスが親しそうに会話をしているのを見てしまったから、もしかするとあいつも記憶があるんじゃないかと思って……で、それってもしかして先生とモーディスが昔そうだったとか、じゃないかと……
 アナクサゴラスは不愉快なファイノンの妄想に、怒りの表情を向けたままお茶を飲むふりをし、舌打ちを誤魔化した。あまりにも馬鹿馬鹿しい、けれども、恋に恋する若人らしい妄想だった。
「たとえ明日世界が終わるとしてもあり得ません」
 モーディスとアナクサゴラスが再会したのは彼がクレムノスの初等学校に通っている頃で、その頃のアナクサゴラスは師と共にオンパロス各地でフィールドワークや特別講義をしていた。記憶についての講義の後、教室を後にしたアナクサゴラスを追いかけて来た幼いモーディスは「お前もかつての記憶があるのか?」とアナクサゴラスの裾を引いた。それ以来、時折彼と連絡を取っていて、樹庭に進学すると言う話も聞いていた。彼の専攻とアナクサゴラスの専攻は合致していないため、ゼミ生ではないのだが、恋愛相談ついでに人生相談をしたい、とわざわざアナクサゴラスに声をかけてくるゼミ外の学生はモーディス以外にもいた。
 アナクサゴラスと違い、モーディスは記憶があることを樹庭で再会したサフェル以外には口にしていない。そのせいか、時々彼はこの研究室に相談に来ることがあった。前述の通り、アナクサゴラスの研究室にはゼミ生以外の学生も来訪する。それなのに、「なるべく人目につかないようにする」、とモーディスは言っていて、その理由をアナクサゴラスはあまり深く考察してこなかったが、もしかするとファイノンに知られたくなかったのかもしれない。
(と言っても、モーディスがファイノンのことで悩んでいるようには見えませんでしたが……
 モーディスは記憶保持者に時折ある、記憶の混濁に年に数度悩まされているようだった。アナクサゴラスには特にない症状だったが、そう言った症状を訴える人々は確かにいて、人によって症状もまちまちだ。頭痛や眩暈、直近記憶の一部喪失等等、酷い場合は今と過去の記憶が混ざりきって、妄想や幻覚に囚われたように現実が認識できなくなる者もいると聞いていた。それは大量の記憶を保持しているが故に脳に負担がかかっているからだろう、と考えられていたが、完全な究明はされていない。
「うーん……でも、あいつは先生のゼミ生じゃないし、偏見かもしれないけど、恋愛相談を他人にするような奴だとも思えない。だから、ここに来るのは変だろ? それで、もしかしたら前世の記憶があるか、もしくはそういう仲、」
「彼は私が若い頃、クレムノスで教鞭を取っていた際の生徒です」
 ファイノンが言い終わる前に話を遮り、じろりと不安そうな顔を睨みつける。
「ですから、他の教師よりも話しかけやすいのでしょう。あなたや他の学生のように、人生相談をしに訪れるだけですよ」
 嘘ではない、と自分自身に言い訳をしながら平然と答えるアナクサゴラスの顔を、ファイノンは疑わしそうに見つめた。
「どのような相談かは答えられません。あなたとモーディスは赤の他人で、家族でも親戚でもありませんから」
 こんな言い方をすればファイノンはきっと落ち込むだろうと分かっていたが、事実は事実であったし、他人の繊細な事情を簡単に他者に開示することは当然できない。ましてや今のファイノンとモーディスは恋人同士でも家族でもないのだから。
 モーディスはがアナクサゴラスに恋愛相談をしたことはない。それはそうだろう、前世も今も、彼は出会った時には達観しており、一度もアナクサゴラスの教え子になったことなかったからだ。
 活躍の噂話をファイノンや人々から聞いただけの前世もあれば、不死性について直接話を聞いた前世もあり、肩を並べて聖都防衛をする羽目になった前世もある。それでも、彼は一度も教え子にはならなかった。魂を分割する儀式について講義をしたことはあるが、あれは同胞への講義であって、教え子の範疇には入らないだろう。
 そんな彼が、「妙な症状に悩まされている」と研究室を訪れた時には、少なからず驚いた。アナクサゴラスはモーディスが誰かに「弱み」を見せる姿を知らない。前世ではファイノンがきっとその役割をしているのだろう、とヒアンシーやトリスビアスが時折二人の青年の奇行に文句を口にするたび感じていた。だからこそ、アナクサゴラスはモーディスの相談に真摯に応え、彼の症状に対し、信頼のおける医者を紹介した。かつては自身の助手を務めていたヒアンシーだ。彼女は現在、オクヘイマで病院を開いており、彼女には前世の記憶が僅かばかりあるようだったが、アナクサゴラスやモーディスのことは覚えていないようだった。
 モーディスは時折頭痛と眩暈に悩まされている様子だったが、せん妄状態に陥ることはなく、暫く休んでいれば治まるとアナクサゴラスは聞いている。「あまりストレスを溜めない生活をすることが一番らしい」、と困った顔で呟いたモーディスに、「そうですか」としか、教授の頭脳をもってしても答えられなかった。ストレスの種は目下ファイノンのことでしょう、と考えていたからだ。
 彼とファイノンがかつては恋人同士であったり、婚姻関係にあったり、ただの戦友であったことをアナクサゴラスは知っている。オクヘイマでの披露宴にアグライアから招待されて研究が忙しいと断ったこともあれば、徹夜明けにヒアンシーに引きずられて出席させられたこともある。別に、喜ばしい場に行くのが面倒だとか、かつての教え子と亡国の王子の婚姻を祝福したくないだとか、自分が祝いの席に相応しくないだとか、そんなことを思っていたわけではなかった。いい意味で、喜ばしいが、どうでもいいと思っていた。そもそも、教え子と言うのは間接的に我が子のような存在にあたり、そんな我が子の「大恋愛」を知りたがる親がいるわけもない。
 大恋愛、と言い切ってしまうのは、彼らが結局最後にはいつでも離別の運命を辿ったことを知っていて、それでも、どの輪廻でも邂逅し、期間の長さはさておき、人生を交わらせた瞬間があることを知っているからだ。
(運命だなんて馬鹿馬鹿しい。ただ単に気の合う相手だと言うだけでしょう)
 けれどもそれが、どれほど稀有な出会いなのかは、よくわかっているつもりだった。
 同世代で、同性で、同じ戦士の二人だった。同性であっても教師で学者のアナクサゴラスでは、戦士の彼らと本当の意味で魂が共鳴することはなかったが、二人はそうではなかったのだろう。
 アナクサゴラスは新生したオンパロスですでに一度死んでおり、直前の生涯でファイノンには出会っていたが、彼は記憶を保持していなかった。もしかすると、「救世主」として歩み続けた彼の人生はあまりにもデータが膨大すぎて、二度と他の人生を覚えておく容量がないのかもしれない。
 何もかも覚えていることがいいとは限らない。再会した当初のモーディスに口にした通り、その考えは今も変わらない。
……あなたはモーディスに思慕を抱いていると言う割には、妙な工作をしているようですが」
「え」
 ぎくり、とファイノンの肩が跳ねる。教授は冷ややかな目で教え子を見つめ、淡々と続けた。
「もしあなたが本当に彼に想いを伝えたいのであれば、そう言った駆け引きは今すぐにやめなさい。彼は真面目で堅物で頑固な性格ですから――私よりもよほど、あなたのほうが知っていると思いますが――、感情を煽るような真似をするよりも、素直に伝える方が響くと思います」
 ファイノンが素直に告白をして、二人が恋人同士にならなかった輪廻をアナクサゴラスは知らない。どれほど喧嘩をした話を聞いても、翌日にはけろっとした顔で一緒にいる姿を見た回数は両手両足では足りない。
 だからこんな相談の時間も、ファイノンの妙な駆け引きも、ファイノンの記憶がないことを理由に友人以上に親しくならないように自制しているらしいモーディスも、すべてが馬鹿馬鹿しく、くだらないと思っていた。
『あなたは何故かファイノンと距離を置こうとしているようですが、さっさと告白してはどうですか』
 こんな風にお節介をしてやることもできたが、そんなことはしてやらなかった。今のファイノンが、モーディスをどう思っているのかはよくわからなかったからだ。前世ではパートナーであったとしても、片方に記憶がなければ上手く行かないと言うのはよくある話だった。かつての姿を相手に押し付けてしまうこともあれば、自分のことを分かりすぎている相手を奇妙に感じ、離縁してしまうことも少なくはない。
 性格的にあり得ない気もしたが、もしかするとモーディスはそんなくだらないことに怯えているのかもしれない、とアナクサゴラスは頭の片隅で考えていた。彼は今では大勢の民を率いる王族でもなければ、不死でもなく、ただの商家の一人息子だった。張り詰めた人生を送る必要がなくなったのであれば、未熟な学生のように、くだらないことに悩むことももしかしたらあるのかもしれない。そんな風に。
 それに、ファイノンがモーディスではない学生と付き合い始めた話も耳に入っていた。何故そんな話が耳に入ったのかと言えば、「告白する前に失恋しました」と研究室に号泣しながら訪れた学生が何人かいたからだった。
 学生を慰める度に、記憶がなければ確かにモーディスと深い仲にならないこともあるかもしれない、と考えて、妙な気分になっていた。どうやらそれはこの愚かな若者の愚かな駆け引きだったらしい、と先ほど気づいたのだが。
「いやでも、あいつは全然僕のことが好きそうじゃないと言うか……、気楽なルームメイトとしか思ってないような気がして……
「あなたが彼にどのようなアプローチをしていたのかは知りませんし知りたくもありませんが、少なくとも人のものに手を出すような性格ではないでしょう。恋人ができたフリをしたのは逆効果では?」
……………………確かに」
「さっさと告白でもなんでもして、今までのは振り向いて欲しかったからとかなんとか、謝罪をしてはどうですか」
「なんだか急に適当だなあ」
「迷っていたところで答えは出ません。万が一にも失恋した場合は慰めの言葉くらいは送ります。
 最初の問いかけに戻りますが、モーディスに前世の記憶があろうとなかろうと、本人の口から言及したのでなければ、私からなにか言えることはありません」
 教授は大げさにため息をつくと、時計を見やる。
「もう十分ですね。そろそろ仕事に戻らせて下さい」
「二回講義をリスケした先生に仕事の話を言われるのはちょっと気になるけど、アドバイスは真摯に受け止めるよ」
 憎まれ口を叩いて研究室を出て行くファイノンの姿が完全に見えなくなってから、馬鹿馬鹿しい、ともう一度、アナクサゴラスは声を漏らした。
 間接的に痴話喧嘩に巻き込まれた気分だった。

   *

「本当にもう大丈夫なのかい?」
……ああ。たまにこうなるが、医者にも大人しくしているしかないと言われている」
 三十分もしないうちに、頭痛と眩暈は治まっていた。ヒアンシーに言われた通り、過去と今の認識が混濁していないか簡易に頭の中で考え、現実を明確に認識すると、ファイノンの膝から頭を上げる。
 そんな俺の顔を覗き込むファイノンの心配する表情が目に入り、よりにもよって何故今日こんな風になってしまったのだろう、と感じた。もしかするとファイノンと一緒にいるからこその混乱かもしれなかったが、そうだと認めたくはないと言うのが本音だった。
「もしかして、時々君が起きてこなかったのは今日みたいに具合が悪かったのか?」
……そんなことがあったか?」
 頬を撫でて来るファイノンの手には既に体温が戻っていて、その暖かさが心地良い。懐かしい温度だったが、実際は今世でファイノンにこんな風に触れられたのは今日がはじめてだった。
「半年に一、二回くらいだけどね。風邪じゃなさそうだし、話しかけられたくなさそうだったから今までは聞かなかったけど」
 もう大丈夫だ、とファイノンの手のひらから頬を離し、ベンチから立ち上がる。時計を確認し、次のイルカショーまでの待ち時間を考えていると、「もしかしてショーを見に行こうとしてるんじゃないだろうな」とファイノンが少し不機嫌そうな声を上げた。
「実は然程興味がなかったか?」
「そうじゃないよ。また君の具合が悪くならないか心配だから、もし僕に気を遣ってるならそんなことは考えなくていいし、今日は無理せず帰ろう。だ、だってその……デートはまたしたら、いいんだし……
 ――そこで恥ずかしがらなければ完璧だったのだが。
 顔を赤くして視線を彷徨わせるファイノンに思わず笑ってしまい、「心配してるのになんだよ!」と奴が声を上げる。いや、と意味のない言葉を口にして首を振り、ファイノンの手を握る。
 この男のこういったまともな感性や優しさに、確かに過去、何度も救われて来たことを思い出していた。オンパロスが新生するまで、俺はいつでも不死の呪いにかかっていた。それは死とは無縁で、例え病に罹り苦しんだとしても、俺を心配する者はいなかった。と言うより、無意味な心配をするなと言っていた。一度死に戻れば簡単な病は完治していたし、毒を飲んでも数度死に戻れば元に戻っていた。
 俺が死んでも、それは大した出来事ではない。それが俺の周りにいた人間の常識だった。誰にも俺の死で無意味に悲しませるつもりはなかった。
 今の俺は不死ではなく、怪我をすれば治るのもそれなりに遅く、病にも罹患する。両親は怪我や風邪を引いた俺を心配し、病院にも連れて行き、看病もしてくれた。それにまだ、違和感を覚えている。頭の中ではそんなことをする必要はないと感じていても、体は自由にならない。知らない感覚だったが、今はそれが普通の反応だ、ということは分かっている。
 かつて俺が不死であった頃、そんな反応をする者はこの男だけだった。
……あまり死にすぎるなって言っただろ』
 目を覚ました俺の頬を指でなぞり、今にも泣きそうな情けない顔でファイノンが呟くのを、一体何度聞いただろう。それでも、ファイノンの瞳が決壊することはなかった。
『君は気にするなっていつも言うけど、気にするに決まってる。大事な人が目の前で死ぬ姿を見るのは辛い』
 震え声に不安と怒りを滲ませたこの男の言葉を、いつも奇妙に感じていた。いや、むず痒かったのだろう。
『君がそんな風になんでもない顔をしているのも辛いんだ。誰も君の犠牲を気にしない、冷たい人たちしか傍にいないのか?』
『何を言っている? 犠牲はない。俺はこうして死なず、何も失われてはいない。気にする必要も意味もない』
 反論する俺に、ファイノンは怒りと失望の混ざった表情をした。怒鳴りたいのを耐えるように唇を引き結び、眉を逆立てた男は拳を握りしめ、しばらく怒りに体を震わせてから、ふーっと、息を吐く。
……君やクレムノスの人々にとってそれが普通だってことは理解したい、とは思うよ。だけど僕は嫌なんだ。君がそうやって傷つくのをよしとしていることを簡単には受け入れられない。もっと自分を大事にして欲しいんだ』
 現実で手を握っているファイノンに視線を戻し、「そうだな、お前には申し訳ないが、帰るか」と口にした。
 露骨にほっとした顔をするファイノンに、申し訳なさと同時に、愛おしさが込み上げる。
 そうだったな、お前は昔から、俺のことをやたらと心配する男だった。そんな男は本当に、お前しかいなかった。
「乗車時間も長いし、すぐに帰ろう。もし途中で無理になったらすぐに教えてくれ」
「ああ」
 まだ日が傾いてもいない時間だったが、今すぐ帰宅して、部屋でこの男と静かに過ごしたい気分だった。
「肩を貸せ」
 今朝とは違い、車内は閑散としていた。行きと同じように二人掛けの椅子に腰を下ろすと、ファイノンの肩を枕にして目を閉じる。眩暈も頭痛もなかったが、そうしていると普段よりずっと落ち着くような感覚があった。
「寒いならひざ掛けを借りて来ようか」
「いらん。手でも握っていろ」
 席を立とうか迷う素振りをするファイノンの膝を叩き、瞼を開ける。そわそわしながら頬を染めているファイノンの手を握ろうとしたが、何故かその手が逃げて行く。
「できれば君を抱きしめたいんだけど、……いいかな」
「好きにしろ」
 体重を遠慮なくかける俺の背中と椅子の隙間に、ファイノンの腕が入り込んでくる。抱き寄せられるままに更に体重をかけ、再び目を閉じた。
 抱きしめてくる体温の心地よさに眠気を覚えていると、「眠れそうだったら寝てくれ」とファイノンが柔らかい声で言った。口の中に入れた瞬間とけて消える砂糖菓子のような声に、ぞくぞくと熱が肌の上を走って行く。
 腕は以前よりもやや細いな、と思わず、無意識に、俺を抱き寄せるファイノンの腕を撫でていた。
 小さく息を飲む音に瞼を開け、顔を上げる。目と鼻の先にファイノンの慌てたような恥ずかしがるような顔があった。
 瞬きをした瞬間、それが合図だったかのように唇を触れ合わせる。ぎくりと身を強張らせる男の初心な反応に喉の奥で笑うと、触れ合った肌からファイノンがそれを察して、「なんだよ」とキスの合間に文句を口にする。
 言葉が続く前に唇を塞ぎ、ファイノンの太腿から腹に手のひらを這わせ――ようとして、「ちょっと、」とその手をはたかれる。
「あと何時間も乗るって、わかってるよな?」
 苛立ちと羞恥のないまぜになった表情をするファイノンの表情に、確かにそうだ、と我に返る。さすがに人が少ないにしても、ここで盛っていいわけもない。
 俺も大概舞い上がっているようだ、と我が身を振り返り反省する。
「次の駅で降りてホテルでも探すか」
「へ、」
「門限までに戻れば問題ないだろう」
 と言っても、次の駅にそう言った場所がない可能性もあるか、と端末を取り出して検索しようとすると、手を伸ばしてきたファイノンが液晶を手のひらで隠してしまう。なんだ? と顔を向けた俺に、赤い顔をしたファイノンが「き、君って」と口を開く。
「もしかして、かなり本当に、僕としたい……のか?」
「『かなり本当』と言うのがどういう意味かはわからんが、……まさかお前はしたくないのか?」
「そういう訳じゃ全然ないけど、えーと……もしかして、実は慣れてる?」
 不満そうな顔に、何が言いたい? と言い返しそうになったが、この顔はどちらかと言えば不安に感じているのだろう、と考え直した。
…………………………
 よくよく考えてみれば、俺はこいつと何度もセックスをしたことがあることを「知っている」が、それはとっくに記憶の上のもので、現実では一度もしたことがない。今世では。一体何を躊躇しているのだろうと不思議に思っていたが、ファイノンからしてみれば、俺が随分と性急に映っているのかもしれない。
 もしかすると今のお前は然程性欲がないのか? とかつての記憶を辿りながら、一度も思いつかなった可能性について考えていると、答えない俺に不安になったのか、ファイノンが「ごめん、気に障ったなら謝るよ」としおらしい声で言った。
「勝手に慣れてないと思ってたから、その、すまない。いや、そうだよな。君みたいに美人だったら今までに恋人の一人や二人いない方が不自然というか……
 自分で口にして落ち込んだのか、ファイノンの声は尻すぼみに沈んで行く。その言葉に、果たしてなんと返すのが正解なのか俺にはわからなかった。今世で恋人を作ったことはない。かつてはこの男以外にもそういった仲になった者はいたが、オクヘイマに身を寄せてからは、終ぞこの男としか関係を結んでいない。この男以上に心を許した相手がオクヘイマにはいなかったからだ。
 あの頃の俺たちは、案外簡単に体を重ねていた、ように思う。曖昧な友人関係のまま熱を発散したいだけだと言い訳をしたこともあったし、互いに恋人や伴侶だと同意したこともあったが、いずれにせよ、欲に素直でいることに躊躇はしなかった。それは時代のせいもあったのかもしれない。
 翌朝には隣人を喪うこともよくある日々を送っていた。昨晩を杯を酌み交わした男の墓にメーレを零し、残された家族を弔問し、今後の生活をケラウトルスやアグライアと話し合うことは、それほど珍しい光景ではなかった。
 だからきっと、互いに触れ合うことに躊躇はしなかったのだろう。煩雑でままならない現実を忘れるために、一時の熱を求めることに違和感を覚えることはなかった。腕の中にある体温を、俺を抱きしめる体温を感じて微睡んでいる間だけは、何も考えずにいられたのだから。
「慣れているわけではない」
 ファイノンの顔を覗きこみ、安心させるために唇を重ねた、つもりだったが、言葉と行動が矛盾していることもわかっていた。
 今世では誰にも心身を許してはこなかったが、俺はお前をずっと覚えている。だからさっさと触れろと逸っているのだろう。しかし、それをどう伝えればいいのかがわからない。
 数多の前世で俺とお前はずっとそういう関係だったと言えばいいだけの話かもしれなかったが、果たしてそれが狂人の言葉として響かないかと言われれば自信もない。
「お前が目移りする前に、さっさと俺に縛り付けたいのかもしれん」
……体で?」
 明け透けな物言いは気に入らなかったが、かつての奴もこんな口の利き方をすることがあった。まぁいいだろう。
「そうだ」
………………………………………………
 この答えで納得するだろうと考えていたが、俺の予想は外れ、はぁ、とファイノンはため息をつき、うーん、と唸る。
「なんだか心配になってきたな……。もし僕が悪い男だったらどうするんだ?」
「お前が?」
 ハ、と笑った俺に、ファイノンが「笑い事じゃない」と眉と目許を吊り上げた。
「過去に何があったのかは話したくなったら話してくれればいいし、僕からは聞かない。時々気にはなってしまうかもしれないけど、君になにがあっても構わない、と思う。多分。いや大丈夫だと思う……うん、きっと平気さ」
 勝手に言葉を続けるファイノンに何を言っている? と疑問を口にしたが、ファイノンは何故か痛ましそうな表情で俺の両手を握り、「もっと自分の体を大事にしてくれ」と真剣な声で言った。妙な妄想をしているのだろうと言う想像はできたが、何故そんな思考に至るのかがわからない。
……蔑ろにしているように見えるか?」
「うん。自棄になってるんじゃないかなって感じた。言っただろ、デートはこれからも何回だってできるんだし、具合が悪くなったのは仕方のないことで怒ってもいないよ。心配はしてるけどね。だから、僕の機嫌を取ろうとしないでくれ」
「お前の機嫌を取って何になる」
「自覚がないならより悪いよ。君は今日は体調が悪いみたいだし、素直に寮に帰ってゆっくりしよう。夕飯は僕が作るから」
「お前はしたくないのか?」
「その話はまた今度。……そりゃしたいけど、今日じゃないと思う。と言うか、具合の悪い君に無理強いする人でなしにしようとしないでくれ。あんな真似しておいて信頼がないかもしれないけど、君のこことが本当に好きだから、大事にしたいんだよ。だから僕の事が好きなら、僕のためを思って言う事を聞いてくれ」
 ファイノンの真剣な青い瞳を真正面から受け止め、そうか、と口にすることしかできなかった。
 奇妙な、それでいて力強い言葉だった。

 とは言え。
 寮に戻ると、有無を言わせずファイノンをベッドに引きずり込み、湯たんぽの代わりのように高い体温を抱き寄せて目を閉じた。耳許でファイノンが何やらぶつぶつと文句を言っていたのがわかったが、意気地のない男の文句をこれ以上聞いてやるいわれはない。
 




wavebox→ https://wavebox.me/wave/89uagf8c6xx6ggar/