蕪木雷蔵は目を覚ました。喉の渇きを覚えて。
夜明け前、まだ暗い空と前日まで降り続いた雨でぬかるんだ地面の間、そこに建つ屋敷や家屋。その中のひとつで。
こう述べると、人間が生活可能な範囲は自然に対してまだまだ狭く限られているように感じる。
ただ雷蔵はこんなことを考えてはいない。ぼんやり体を起こして、何刻か前に良に髪紐を解かれたせいで乱れた硬い髪の毛を軽く手櫛で後ろへ流し、面倒そうに布団から出る。
「
…………」
自身が全裸であることを恥じる理由も必要もない空間で、ただなんとなく爪先に触れた襦袢を拾い上げて肩に羽織った。
暗い室内でも迷いなく目的の場所へ辿り着き、横着して飲み水を蓄えた水瓶から柄杓で直接水を飲む。
そして欠伸。
頬の傷が疼いた気がして、指先で控えめに掻く。
他に疼きそうな古傷が身体中にいくらでもあるにも関わらず、今回は頬のそれであった。
頬と額の傷は大層面白くない理由でわざとつけられた代物であるが故に、普段は大して気にならないが、不意に疼くとどうにも腹が立つ。
布団へ戻る途中で肩に掛けていた襦袢を放り、元の姿で潜り込む。すぐに横にはならず、上半身を起こしたまま
……視線を斜め下へ動かせば、隣でこの長屋の家主が寝ていた。最愛の、とでも言うのか──しかし、雷蔵はそんなことを決して口にしない──天河良である。
雷蔵が暗闇の中でも迷うことなく活動できる程に通い馴染んだ長屋の家主。特定の女を作らず取っ替え引っ替え、なんなら昼と夜で別の女と寝る節操なしの寂しがり屋の家主。北町の死神様と恐れられ、事実その名に恥じない腕っ節と度胸を備えた家主。
今は無防備に瞳を閉じ、頑なに人前で露出したがらない顔の右半分も外気に触れている。
暗闇に慣れてきた目で控えめに覗き込む。
綺麗な顔だと、雷蔵は思った。
雷蔵の脳内で再生されるこの言葉たちを常日頃から良に直接告げているのならば、このふたりの関係は実に円満かつ円滑に運ぶことであろう。しかしそうではないのだ。聞けない男と語らない男が、互いに確信に近いものを抱きつつも決定的な確信が持てず、適当な言葉と肌を合わせてなんとか隣に立っている。互いを縛って掴んでおきたいくせに、ぎりぎり手前で何故か踏み止まり合っている。
大切なものを壊したくないと恐れ踏み込んだ話が出来ない男と、思いを口にすれば解決すると知りながらそれを口にする資格が無いと思い込む男である。
もう既に、互いがいなければ生きてはいけない程度には精神的に依存している
……のに。
「
…………」
ふと、この顔を見ながら煙草を燻らすのも悪くはないと脳の裏側あたりから実に突拍子もない指令を受けた雷蔵は、また体を少し布団から出して煙草盆を引き寄せた。
幾分か眠りを挟んだが、まだ全身に余韻が残っているのかもしれない。甘い余韻は判断力を蝕んで、万事を艶っぽく浮かれた方向へと指し示す。香りで起こしてしまうかもしれないと思いながら、その手はもう止められない。
「
…………」
煙を吹き出すというよりは、口を開けて煙を逃がしているかのような味わい方をする。
横目で眺める端正な顔立ち。それを引っ掻き回す為に入れられた彫り物。
しばし、魅入る。
優越感も多少混じっている。良が頑なに人に見せたがらない部分を、自分は見て触れて、なんなら唇だって落とせる。
「
…………」
またひと吸い。ここに酒があってもいいかもしれないとよぎる程度には、雷蔵は余韻に蝕まれていた。甘い、甘い、無自覚と自覚を共に貫いた矛盾の先にある、愛と呼ぶべき余韻。
そして、はたと気付く。
──静か過ぎる。
そう静か過ぎるのだ、眠っている良が。仰向けのまま身じろぎ一つせず、少しも乱れない規則正しい呼吸
……も、今は聞こえないような気がする。
雷蔵は誰にも見られていないにも関わらず、冷静さを装ってゆったりと煙草の火種を落として消した。一見渋みのある大人の余裕を醸しているが、とにかく内心焦っている。
今回こそやってしまったかもしれない、と。
だがしかし、良の寝姿がやけに静かで死んでいるのではないかと疑いたくなったことは今回が初めてではない、この十二年の間に幾度となくその疑いとは額を合わせてきた、儀三郎と安斎もまだ幼さの残る良の寝姿に焦って生存確認をしたことがあると何度も話題に上がるくらいにとにかく良は静かに眠る、実際生存確認をした回数も両手足の指で足りないくらいだ、今回だってこのままさらりと確認すればいい、どうせ生きている、だが、だがだがだが、普段ならばいつものことだとやり過ごせるこの静かさもある条件を満たしている場合に限って雷蔵の心臓を掻き乱すのだ。
何って、それは『盛り上がり過ぎて抱き潰してしまった日』である。
今日こそ良を抱き殺してしまったかもしれない。
余韻の吹っ飛んだ雷蔵の脳内は、その文言が全面に貼り出されている。
焦っている。
この男どうしようもなく焦っている。
現実逃避で一度瞳を閉じた。
しかしこのまま疑惑を抱えて眠れるわけもなく、今回だってどうにかこうにか生存確認をするしかないのである。
あくまでもゆったりと、余裕があると言わんばかりにたっぷりと時間を使って、手のひらを良の鼻先にかざした。
──スー
「!」
手のひらを通して確かに感じる呼吸の流れ。生きている。そうだ生きている。当たり前だ死んでいるわけがない。抱き殺すだなんて、そんな。まさか。馬鹿げている。あり得ない。
「
…………」
油断は禁物だと少し離した手をまた近付ける。二度目でようやく確信に変わり、胸を撫で下ろした。
ひた、とそのままの流れで良の右頬へ触れる、傷だらけの手で。瞼をなぞる、無骨な太い親指で。
「
……なに?」流石に目を覚ました良は、寝起きの掠れた声で囁く。「もっかいする?」
寝ぼけているのかわざとなのか、添えられた雷蔵の手を自身の手で上から包んで頬擦りしている。
「
……しねえ。いいから寝ろ」
「ん」
良のどうにも扇情的な姿は雷蔵の雄部分を刺激して余りあったが、同日に二度も冷や汗をかきたくない理性が衝動に待ったをかけたことで、この場をやり過ごすことに成功した。
当の良は元から微睡の中での会話だったらしく、雷蔵の返答とほぼ同時にあっという間に眠りに入る。人の気も知らずに、また死んでいるかのように静かに。
「はー
……くそ」
大人になっても、何一つままならない。
「お前もっとこう、声というか息というか、主張してこい」
自然と目が覚めた頃、長屋ではこんな会話が交わされていた。
「なに突然。もっと喘げってこと?」
雷蔵からの突然の指摘に良は首を傾げる。
「違え、聞きたくなったら勝手にその唇こじ開けてる。我慢したいならしてろ」
「
……途中で舌入れてくんのってそういう理由だったの?」
「だったらどうした」
「えー、へへ。えー?」
六尺以上もある身長と、それを飾りつける筋肉と華やかな彫り物をわざとらしくくねらせて、良は喜んでいる。
「今それはどうでもいい、今はその話じゃねえ」
「ひど。俺にはどうでもよくないんだけど、浸らせてよ。あーんもう次から意識しちゃうかも」
「すんなどうせ最中は訳わかってねえだろ無駄だ」
「えーでもちゃんと雷蔵が何処をどんな風に触ってくれてるかとか、何処を狙ってくれてるのかとか、それこそ舌入れてくれてることとか全部ちゃーんとわかってるよ」
本来ならばこういった台詞を吐くには上目遣いが相場であろうが、良は雷蔵を見下ろして満面の笑みである。
「俺は雷蔵にしてもらってること、何一つ取り零さないよ、全部。してもらったことは全部俺のものだから」
これには北町の閻魔様もとい雷蔵の理性もぎりぎりである。そこはなんとか踏ん張って話を元に戻す。
「
……ああくそ、だから違え、もっと生きてるって主張してこいって話をしてんだこっちは」
「えー? 本当になんなのもう、すげえ生きてるんだけど俺。ちょっと意味わかんないんですけどー」
自分の寝姿など、自分ではどう足掻いてもわからないものなのだ。
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